水曜日, 11月 23, 2005

熊野散歩 Ⅰ;熊野へ

会社の仲間に言われた。「熊野へ行きませんか」。とりたてて熊野に行きたいわけではないけれど、例によって「ええよ」、と言ってしまった。で秋の連休の中日に1日休暇をとり3泊4日の予定で熊野路に。結論から言えば、散歩はそれほどできなかった。コーディネーター女史が、悪路・険路は見事に避け、時間の割に距離を稼ぐという見事な采配。で、今回は散歩の記録というよりも、いきあたりばったりで出会った事象から好奇心のなすがまま、あれこれ調べ、自我流で強引なる結論づけを行いメモをまとめる、神坂次郎さん流に言うならば、『時空浴』と洒落てみたいと思う。が、相手は何せ世界遺産の熊野さま。どこまで時間・空間を越えた熊野シャワーを浴びることができるだろうか。(水曜日, 11月 23, 2005のブログを修正)

ともあれ、1日目;品川から新幹線、名古屋で紀勢本線・ワイドビュー南紀に乗り換え紀伊勝浦駅下車。結構遠い。朝8時頃東京を出て、午後2時前にやっと着いた。
1日目の予定;大門坂>熊野那智大社>青岸渡寺>那智の滝>紀伊勝浦駅>TAXI>国民年金健康保険センターくまのじ。

大門坂

駅前からバスに乗り、大門坂バス停で下車。熊野古道の案内。数軒の民家。少し進むと「振ヶ瀬橋」。この橋を渡ると大門坂が始まる。道の端に文化庁と那智熊野大社がつくった大門坂の案内。文化庁の案内板;「大門坂=平安時代(907年)宇多上皇の熊野御幸が「蟻の熊野詣」のはじまりであった。熊野御幸とは上皇の熊野詣のことで弘安4年(1281年)の亀山上皇まで374年にわたっておこなわれたという。難渋苦行のすえ、熊野九十九王子の最終地であるこの大門坂で名瀑・那智の滝を眺めて心のやすらぎを覚えた。古人のロマンがしのばれるところである」と。
那智熊野大社の案内板;熊野古道大門坂・那智山旧参堂の杉並木=那智山は都より山川80里・往復1ヶ月の日数をかけ踏み分けた参詣道が「熊野道」である。熊野九十九王子としても知られた往古の歴史を偲ぶ苔むした道でもあり、那智山の麓から熊野那智大社への旧参堂です。この石畳敷の石段は267段・その距離約600m余、両側の杉並木は、132本で他に老樹 が並び、入口の老杉は「夫婦杉」と呼び、幹周り8.5m余、樹高55m、樹齢約800年ほどとされている。途中には熊野九十九王子最終の多富気王子跡がある。この所に大門があったので「大門坂」とも呼ばれます、と。

この案内を読んでふたつチェックしたいことがあった。その一;蟻の熊野詣。そのニ;九十九王子。
その一;蟻の熊野詣
蟻の熊野詣って、文字からすると、蟻のように陸続と続く人の群れって印象だ。が、一体どの程度の人が歩いたのだろう。調べてみた:多くの民衆が熊野詣でに出かけるのは江戸時代中期以降。紀伊田辺の宿帳には6日間で4,776名の宿泊客があったという記録が残っている。この記録から熊野詣の参詣者数を推測し、1日約800名、年間で約24万人とする人もいる。
この数が多いのか少ないのか、よくわからない。幕末のお伊勢さんへのおかげ参りなどその数500万人とも言うし、誰がが、何処かでこう書いている;多くの庶民が熊野参りするのを「蟻の熊野詣」と言っているのではなく、平安から鎌倉時代に上皇達数百人が列を作って熊野詣するさまを「蟻の熊野詣」と表現したように思えてならない、と。私もどちらかといえばこちらに納得感がある。
何故に熊野詣でが盛んになったのか
で、何故に熊野詣でが盛んになったのか、気になった。あれこれ本を読み考えてみた;
1.熊野は奈良時代から山林修行の地として知られる。役の行者(えんのぎょうじゃ)を始まりとする修験者が修行の地としてこの地に入っていた。この傾向は平安時代になっても続く。

2.しかし、修験者だけの修行の地であれば、それだけのこと。世間に広まるきっかけ、それは法皇というか上皇がこの地に訪れる(=御幸)ようになってから。

3.何故上皇がこの地に御幸するようになったのか。信仰上の理由もあるだろう。が、政治的・経済的理由がなければものごとは動かないし、続くわけがない、と思う。
①信仰上の理由はあまり興味が湧かない。当たり前といえば当たり前だし、それより何より、「狸」、いや「鵺」の上皇がそれほどナイーブとも思えない。
②政治的理由;藤原一門(摂関家)への対抗策だろう。天皇を取り込み、天皇をも陵駕する藤原一門>天皇=伊勢の神・アマテラス>アンチ藤原一門としては熊野の選択が良策か。なにせ、熊野の神さまって、イザナギ・イザナミ、と言う人もいる。これってアマテラスの両親。伊勢の神を親として「包む」立場の熊野の神へのつながり強化。天皇+上皇=大朝廷>熊野へのシフト。このスキームなら藤原一門も文句は言えまい。
③経済的理由;荘園を認めるのは天皇・朝廷=藤原一門の特権。この特権を取り戻す手段としては、「荘園の本所(荘園領主)になる」と上皇(大朝廷)が宣言すること。天皇・藤原氏の名義の荘園を上皇に変更する>熊野の神も上皇の保護のもと荘園所有者となる>熊野は全国に100箇所以上の荘園をもつ>熊野別当・熊野三山検校=上皇の支配下>熊野の荘園が増えることは、結果的・間接的に大朝廷(天皇・上皇)の経済基盤を強化することに。

4.上皇にこの政治的・経済的スキームを提案したのは一体誰だ?;それは天台宗・寺門派の園城寺(三井寺)の僧。奈良時代、特に後期以降に世俗的な寺から離れ、熊野・大峰の山中で修行・修験道に励んでいた園城寺の修験僧が上皇に「熊野参詣」スキームを提案。熊野の神を名目に政治・経済的リターンを取る。上皇はハッピー。園城寺も熊野を統括する三山検校となりこれもハッピー。

5.このスキーム実現の結果、それまで独自に発達していた熊野の修験道が中央の寺社勢力に組み込まれた。当然、熊野信仰に仏教の色彩・影響が色濃くでることになる。神社には教義はないわけだから、熊野が寺社勢力に組み込まれることにより、宗教的「深み」ができる。本地垂迹説=神は仏が仮の姿であらわれたもの>熊野が阿弥陀の浄土に>で、浄土信仰が生まれる。

6.上皇の御幸>浄土信仰>貴族の熊野詣で>鎌倉武士の熊野詣>熊野神社の全国普及>一遍上人の踊り念仏・時宗の隆盛>熊野比丘尼の全国展開>15世紀末に民衆の熊野詣ピーク=蟻の熊野詣、を迎えることになる。院政期から中世には、熊野御師・先達制度の発達、熊野修験・熊野比丘尼などの活動によって、熊野三山信仰が諸国に流布し、幅広い人々の熊野詣が行われるようになった。また、遠隔地の山々や島、村落では、熊野三山を勧請し、そこで熊野信仰が行われることになる。ちなみに、全国に熊野神社は3800ほどあるという。熊野比丘尼とは熊野の神の霊験あらたかなることを宣伝し全国を遊歴する女性宗教家のことである。

最後に、「蟻の熊野詣」って表現はいつから使われ始めたのか;
『熊野古道(小野靖憲;岩波新書)』によれば、1439年、「雁の長空を飛ぶ、蟻の熊野詣りの如し」といった表現が。また、1603年イエズス会によって刊行された「日葡辞書(日本語・ポルトガル辞書)」に;Arino cumano mairi food tcuzzuitayo(蟻の熊野参りほと続いたよ)などと。少なくとも15世紀の中ごろまでには、蟻の熊野詣というフレーズが市民権を得ていた、ということ。
「蟻の熊野」はこの程度にして、第二の疑問のメモを。
九十九王子とは;
いろいろ本を読んだが上に挙げた『熊野古道(小野靖憲;岩波新書)』の説明が自分的には納得感高い。まとめると、
1.王子とは休憩するところ、とか熊野三山を遥拝するところ、と言う人もいる。が、そんな事実はない。
2.王子で行われる儀式としては幣を奉ること(奉幣)と般若心経を読む経供養。経供養をしたあとに里神楽、乱舞。和歌の会も王子社に奉納する法楽のひとつ。王子社での儀式は神仏混合の結構にぎやかなもの。
3.五体王子と言う王子がある;五体王子とは若宮・禅師宮・聖宮・児宮・子守宮>熊野の主神の御子神ないしは眷属神として三山に祀られている>ということは、熊野三山から勧請されたもの。
4.王子が熊野権現の分身として霊験あらたかに出現すると認識される=熊野権現の御子神である。
つまりは、王子とは、熊野権現の分身として出現する御子神である。参拝者を保護する熊野権現の御子神である。
5.王子は神仏の宿るところにはどこでも出現した。中世に存在した大峰修験道の100以上の「宿(しゅく)」の存在がその起源というか、出現のヒント:奇岩・奇窟・巨木・山頂・滝などが「宿」となっていた。つまりは、王子の発想は、大峰修験道の「宿」をヒントとし、先達をつとめる園城寺・聖護院系山伏によって参詣道にもちこまれた。
6.紀伊路・中辺路に集中し、しかも大量に王子がつくられた理由もこれにある。伊勢=天皇・藤原一門>伊勢路を避ける>紀伊路にシフト。12世紀の院政時代の最盛期の80にのぼる王子の大半は、上皇・女御の参詣の活発化にともなって園城寺・聖護院系山伏によって組織化。地元も王子設置を歓迎し数が増えたことは言うまでもない。

九十九は実数を表すものではない。多い、ということを示すもの。三十三間堂とか西国三十三箇所とか、観音信仰には「三十三」がありがたい数字のよう。また、「三」もありがたい数字か。熊野三山とか出羽三山とか、そもそも山伏の「山」って「三つ」の縦軸を横軸で結んで「一つ」にするにしている。三身即一、三部一体、三締一念といった意味付けも。ありがたい数字の掛け算、33 X 3=九十九、って結論は強引か?

紀伊路・中辺路とは、についてまとめておく;

「熊野へまいるには 紀路と 伊勢路と どれ近し どれ遠し
広大慈悲の道なれば 紀路も 伊勢路も 遠からず(『梁塵秘抄』)」

熊野詣での道は伊勢路と紀路がある。伊勢路は言わずもがな。紀路は都を立ち、紀州田辺から道を東にとり、山中を熊野本宮にいたる道筋を中辺路。海岸沿いに紀伊半島を廻る道筋を大辺路。小辺路は高野山から熊野本宮を南北に結ぶ道筋。あとひとつ大峯道。吉野から熊野本宮に至る、山越えの険しい峠道。現在も、「大峯奥駈け修行」が行なわれている修験道の道。

いやはや、蟻と王子のメモだけで結構大変なことになった。大門坂散歩のメモは次回にしょう。

参考にした本;『熊野中辺路 古道と王子社(熊野中辺路刊行会;くまの文庫)』、『熊野詣(五来重;講談社学術文庫)』『熊野三山・七つの謎(高野澄:詳祥伝社ノン・ポシェット)』、『時空浴(神坂次郎NHK出版)』、『熊野まんだら街道(神坂次郎;新潮文庫)』、『熊野古道(小野靖憲;岩波新書)』、『日本の景観(樋口忠彦:ちくま学術文庫)』、『幻の江戸百年(鈴木理生;筑摩書房)』

0 件のコメント:

コメントを投稿