月曜日, 11月 28, 2005

熊野散歩 Ⅴ;熊野古道・中辺路を進む(牛馬童子からネズ童子)

本日もコーディネーター女史の采配により、時間の割りに距離を稼ぐ、早い話がレンタカーやバスで標高の高い散歩開始ポイントに進み、ひたすらに下り道を歩く。で最終地点だけ、少々の険路を味わうって段取り。(月曜日, 11月 28, 2005のブログを修正)



3日目土曜;熊野瀬>牛馬童子口バス停>牛馬童子像>近露王子>バス>野中の清水バス停>継桜王子>比曽原王子>近露王子>バス>牛馬童子口バス停>高原熊野神社>車>>滝尻王子>熊野古道館>不寝王子>南部梅記念館>南方熊楠記念館>白浜温泉 銀翠

牛馬童子像
宿のある渡瀬温泉から車で「道の駅・熊野古道なかへち」に。そこに車を止め散歩のスタート。熊野本宮大社に向って歩く。はじまりは結構厳しい上り。森を進む。杉木立の中に古い宝筐印塔(花山院が法華経と法衣を埋納したと)と小さな牛馬に乗った旅装の童子の石像・牛馬童子像。花山法皇の熊野詣の旅姿であるとも言われている。箸折峠に静かに佇む。もっとも、この牛馬童子、「明治のころ俺がつくった」という人も現れたようで、由来の真偽のほど不確。
また、この花山法皇、いろんなところで顔を出す。那智の西国33観音巡礼伝説しかり、先日鎌倉を歩いていたときにも顔を出した。一体どういった法皇なのか一度調べてみたい。

近露の里
箸折峠からの道を結構下り近露の里に。花山法皇の一行、箸のかわりに傍らの、茅(かや)を折る。茎から赤い血のような、露のようなものが滴り落ちる。で、これは血か露か=近露、折って箸=箸折。日置川の流れと大塔山系の峰々を背景にした広々としたのどかな里。熊野山中にしては開けたところで、かなりの田地がひろがる。

近露王子
里の道を歩き日置川にかかる北野橋の隣に近露王子。最も早く現れた王子。鎌倉末期の熊野縁起には准五体王子と して名前がある。参詣者は神社脇の日置川で禊を。天仁二年(1109)、藤原宗忠の『中右記』には、「近津湯の川を渡って祓い、近津湯王子に奉弊す」とある。後鳥羽上皇はここでも和歌の会を。明治末期の神社合祀で廃社となり、近露王子の跡を示す石碑が残されている。
近露王子あたりの標高は290m程度。目的の小広王子の標高は550m程度。上り道は避けたい、ということで、近露からバスで小広王子近くまで進み、そこから近露王子に戻ってくる方針に。おおよそ7キロ、2時間強の歩きとなる。

小広王子

小広峠のバス停でおり、熊野古道の案内をたよりに山に向う。といっても完全舗装。結構上る。車道の小広峠の道端に小広王子。むかしはもっと高いところにあったとか。この王子は中世の記録にはない。道は狭いが以前は国道311号線として田辺から本宮までの唯一の道。

中ノ河王子

小広王子から30分程度で中ノ河王子に。高尾隧道口の少し東、車道からすこし上ったところに中川王子と刻んだ石碑。かっての熊野参詣道の道跡。ここは比較的早くできた王子。この王子から先に道があるような、ないような。案内がなければ道に迷う人が多いのではなかろうか。元に引き返す。

安倍清明の腰掛石

少し歩くと民家が。「安倍清明の腰掛石」が民家の庭先に。恐る恐るではあるが、腰かける。「平安時代の陰陽道(おんみょうどう)の大家安倍晴明が腰を下ろして休んでいるとき、上方の山が急に崩れそうになったが呪術(まじない)で崩壊を防いだと伝えられている。」と案内板に書いてあった。
何故陰陽師が?御幸は陰陽道の占いによって行動の指針を得ていた、ということだった。もっとも、安倍晴明の屋敷が那智にあったとも言うし、そもそも安倍清明と花山院は仲良しであった、とも言うし、安倍清明の伝説があるのはあたりまえか。

桜継王子
で、中ノ河王子から15分程度で桜継王子。野中地区の氏神でもある王子社。社殿もある。境内の斜面に一方向に枝の伸びた一方杉が。県指定の天然記念物。この王子社の名前の由来ともなった、継桜が社前にあり、それが秀衡桜と呼ばれ、この王子社の東にある。

野中の清水

王子の前の崖を少し下りると日本名水にも選ばれた「野中の清水」がある。傍らに、松尾芭蕉の門人、服部嵐雪(はっとりらんせつ)の句碑;「すみかねて道まで出るか山清水」
また、斎藤茂吉の歌碑も;「いにしえのすめらみかども中辺路を越えたまひたりのこる真清水」
昭和9年(1934)に土屋文明とともに熊野に来て、自動車で白浜に向かう途中に立ち寄って、この短歌を詠んだ、とのこと。

伝馬所跡や一里塚跡

少し歩くと「伝馬所跡」(てんましょあと)や「一里塚跡」の案内板や碑。「伝馬所」とは街道沿いに設けた役所で、公用の文書や荷物を中継するなどの役目をもち、馬や人足が常駐していた、とのこと。近露にも設置。が、この先本宮向きは約16km先の伏拝までない。野中は熊野街道の中でも要所だったわけだ。

比曽原王子
野中の一方杉から15分ほど歩くと、再び少し広い車道・旧国道311号線に合流。継桜から20分程度の行程で比曽原王子に。車道脇の山の斜面に。江戸中期にはすでに社殿はなかったようである。1739年の熊野めぐりにこんな記載が:「道の傍らに蒼石を以って比曽原と彫付けたり。所のものに尋ぬれども其の事実を知らず」、と。この頃にはもう誰も知らなかった、ってこと。

近露王子

比曽原王子から近露王子までほぼ50分。近露に近づくにつれ、少し熊野古道らしい道を緩やかに下っていく。が、またすぐに舗装路に。近露の里になって人家が多くなる。そのまま里道を下り、10分ほどで近露の中心地に。

高原熊野神社
近露王子からバスで道の駅まで戻り、再びくるまで先に進む。次ぎの目的地は高原熊野神社。山の上。幸運にも一発で目的地に着いた。駐車場から「下界」の眺めが美しい。高原熊野神社はこの高原地区の氏神。高原王子と呼ばれることもあった。1403年に若王子を熊野から勧請したと。社殿があり、春日造り。室町時代の様式を今に伝える。熊野街道の中では最も古い神社建造物である。

滝尻王子

高原熊野神社から滝尻王子に向う。中辺路ルートの開始地点。滝尻王子は熊野九十九王子のうち最も重要な王子のひとつ。五体王子であった。石船川が冨田川に合流する地点、滝尻橋のそばに位置する。
滝尻という地名の由来は、川の流れが激しく、石に触れ音高く滝のような様であるため。古道は背後の山・剣ノ山への上りとなる。熊野の聖域への入口。「初めて御山の内に入る」(藤原宗忠)、のコメント。参拝者は川で禊、社前で経供養や里神楽を。後鳥羽院の和歌会も。剣ノ山への上り開始。「滝尻につきたまい。。。、険しき岩場を攀じ登り(源平盛衰記)」、「おのが掌を立てたる如し、まことに身力尽きをはんぬ(中右紀)」などとある。またこの険阻な桟道、藤原定家などのびてしまい、12人の力者法師のかつぐ輿にのったとか。ともあれ結構険しいのぼり。

ネズ王子
山道を登りネズ王子まで。急な山道を400mほど登るとネズ(不寝)王子に。秀衡伝説の乳岩・胎内くぐりのちょっと上にある。
秀衡伝説とは;奥州平泉の藤原秀衡は強烈な熊野信者。妻が子宝に恵まれたお礼に妻共々熊野参詣。滝尻で、にわかに産気づき、出産。「道中足手まといになる赤子を岩屋に置き、疾く熊野へ詣でよ」との、熊野権現の夢告、あり。滝尻の裏山にある乳岩という岩屋に赤子を残して旅を続ける。野中まで進む。赤子のことが気になり、秀衡、桜の木の杖を地面に突きさし、「置いて来た赤子が死ぬのならばこの桜も枯れよう。熊野権現の御加護あり、赤子の命あるのならば、桜も枯れることはない」と祈り、参詣の旅を続ける。帰り道、野中まで来ると、桜の杖は見事に根づき、花を咲かせていた。滝尻に向かうと、赤子は乳岩で、岩から滴り落ちる乳を飲み、山の狼に守られて無事に育っていた。熊野権現へのお礼に秀衡は、滝尻の地に七堂伽藍を建立し、諸経や武具を堂中に納めた。黒漆小太刀は滝尻王子の宝として今に至る。また、秀衡が祈願し根づかせた桜は「秀衡桜」と呼ばれる、と。ネズ王子の名前は古い記録にはない。九十九王子に入ることもない。元禄になって「ネジ王子」の記録がある。ネズ王子から再び滝尻に戻り、中辺路散歩をおしまいとする。

先にも挙げた『梁塵秘抄』に、
「熊野へ参らむと思へども
徒歩(かち)より参れば道遠し 
すぐれて山きびし
馬にて参れば苦行ならず
空より参らむ 羽賜(た)べ 若王子」

という今様がある。辺境の山岳地帯にある熊野へ詣でることは都人にとってまさしく苦行の旅であって、苦しみながら詣でるからこそ、熊野の神様の御利益があるのだとされた。そのため、上皇であろうが女院であろうが貴族であろうが、馬や輿は用いず、徒歩で行くことが原則とされた(往路に関しては。復路に関しては馬などを利用することも可で、淀川と熊野川の往復は船を利用するのが一般的でした)、と。
とはいうものの、先ほどの定家のように輿に乗ったという記録もある。熊野の記事はあまりに宗教的意味づけが強すぎるようにも思える。

神坂次郎さんの『熊野まんだら街道』にこんな記事がある;本宮大社の傍らに玉置縫殿の墓。この人物は熊野三山貸付業を一手に引き受けた人物。この三山金貸付業というのは銀行のはしりみたいなもの。将軍吉宗の寄進した三千両、幕府や大名から集めた勧化金、預金、富くじの収益金元本十万両を基金に金貸し業を行い、。。。、莫大な利益がころがりこんだ」、と。

鈴木理生さんの『幻の江戸百年』(筑摩書房)にもこんな記事がある;
「熊野信仰およびその名の下の流通行為は、鎌倉幕府成立と同時に制度的定着をみて盛大になった。やがて、足利尊氏が建武式目を制定した建武三年(1336年)の、室町幕府の発足をひとつの契機として、熊野に代わり伊勢大神宮の御師・先達の伝道行為が主流をなすようになる。
これを単なる「神信心」の流行の変化とみるか、はたまた、"さいはて"を意味する「クマ」の国の湊を中心とした海運事情が、日本三津のひとつの伊勢安濃の津、つまり伊勢湾を中心とした海運網へ再編成されたことの象徴的変化とみるか。。。
いずれにせよ物流・流通を問わず、ここでは人と物と情報の移動は、政治的・軍事的中立性を建前とする寺社の名を借りなければ、一切の"動き"が不可能だった時代の特質があったことを再確認しておきたい」、と。
もっとフラットに、政治的・経済的視点から熊野を扱った記事を探し、さらなる時空浴を楽しみたい。

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