木曜日, 11月 24, 2005
熊野散歩 Ⅱ;那智熊野大社
大門坂の案内板から「蟻と王子」の時空浴にはまり、初回のメモは終わった。2回目は大門坂を登るところからスタートする。(木曜日, 11月 24, 2005のブログを修正)
那智熊野大社
大門坂の途中に多富気王子。中辺路、最後の王子社。ただ、この王子の名は中世の記録にはない、とのこと。江戸時代に登場。「たふけ」は手向けの意味、とか。 苔むした石段を30分弱登る。那智山神社お寺前駐車場・バス停に。階段を上ると那智熊野大社;御祭神は熊野十三神。御主神は熊野夫須美大神。すぐ横に那智山青岸渡寺。本尊は如意輪観世音菩薩。西国三十三観音霊場第. 一番札所。
神と仏が隣り合うこの那智熊野は熊野三山(本宮・新宮・那智)中もっとも神仏習合時代の名残りを残している。現在は神と仏にはっきりわかれてはいる。が、かつての那智は神社と仏寺とに分離できるものではなかった。
那智熊野大社と呼ばれるようになったのは明治になってから。また、青岸渡寺と呼ばれるようになったのも、同じく明治。それまでの那智は、那智山熊野権現とか、那智権現と呼ばれて神と仏は渾然一体のものであり、熊野修験の一大本拠地であった。
神と仏に分かれたのは明治の神仏分離令によって。もともと神も仏も一体であった権現さまに、神か仏かのどちらか一方を選択するようにとの命。本宮も新宮も神を選び仏を捨て、寺院は取り壊された。この那智でも、神を選び、廃仏毀釈を行い、那智権現は明治4年(1871)に「熊野那智神社」と称し、仏教・修験道を排した神社となった。
本堂であった如意輪堂は、西国三十三所霊場の第一番札所でもあり、さすがに取り壊されることはなかった。が、仏像仏具類は補陀洛山寺などに移され空堂に。明治7年(1874)になって、熊野那智神社から独立。「青岸渡寺」と名付け、天台宗の一寺として再興された。
熊野那智神社は熊野三山のひとつである。熊野詣が盛んになる平安時代後期に本宮・新宮・那智が一体化し熊野三山と呼ばれるようになるが、それ以前は本宮・新宮・那智は別々の神であった。平安時代中期の延喜式によれば本宮は熊野坐神社(います)、新宮は熊野早玉神社と呼ばれていた、との記述。しかしながら那智の名前は出てこない。どうも、那智は本宮・新宮とは異なる形で生まれたようだ。
異なる、と言う意味は、もともと修験道の流れをくんでできたもの、ということ。那智神社ではなく、那智権現と呼ばれていた、と言うことからも、そうではないかと思う。
上に、那智大社の御主神は熊野牟須美神とメモした。この神さまも後付けの名前である。熊野牟須美神はそもそも、熊野本宮の神であった。奈良時代、本宮は熊野牟須美神と呼ばれていた、とある。
その本宮の御主神が熊野牟須美神から家津御子神(けつみこ)となり、那智が熊野牟須美神となるに至った理由は;
1.出雲に熊野大神;御主神は櫛御気野命(くしみけぬのみこと)。くし=美妙、みけ=食、ぬ=主;美妙なる食を司る神。家津御子神(けつみこ)はこの櫛御気野命(くしみけぬのみこと)が転化したもの。熊野本宮>熊野牟須美神から家津御子神(けつみこ)にシフト。
2.本宮でもともと使われていた牟須美神は忘れられる。9世紀半ば以降は熊野坐神と呼ばれる。
3.で、つかわれなくなった、牟須美神は平安時代後期になって那智が注目されるようになった頃、ちょうどいい名前がある、ということで、那智で使われるようになった。むすび;産霊の神;豊かな生殖力を象徴。
ちなみに権現さん、って;
「権現(ごんげん)」とは「かりにあらわれる」ことを意味し、仏教の仏さまが日本の神様としてすがたを変えて現れたもの。本地仏の釈迦如来(過去世)、千手観音(現在世)、弥勒菩薩(未来世)が権化されて、過去・現在・未来の三世にわたる衆生の救済を誓願して出現された。この様に仏が神の姿を権りて現れることが本来の意味のよう。奈良時代頃から流行。天台・真言宗のような密教系の宗派から広まり、さらに発展して、修験道ではより明確に本地垂迹の考えがまとめらた。
青岸渡寺
散歩に戻る。青岸渡寺、というか如意輪堂の本堂に。織田信長の軍勢によって焼き討ちされた後、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が弟秀長に再建、と。本堂の右側から那智大滝や三重塔を遠望できる。本堂横を北側に下りると朱塗りの三重塔。三重塔の下の車道を少し歩くと鎌倉式石段。
那智大滝
石段を下ると飛瀧神社の境内入口。石段は約100m続く。那智大滝。その落差133m。滝口が三筋になっている。これが那智の滝の特徴。滝口の上に注連縄(しめなわ)。この滝は滝壺の近くにある「飛瀧神社」のご神体とされている。熊野は熊野十二所権現とも言われる。三所権現+五所王子+四所明神=熊野十二所権現、ということだが、那智はこの十二所権現に飛滝神社・滝宮の飛滝権現を加え熊野十三所権現とも。
那智権現はこの那智大滝を神とする自然崇拝からおこったと言われる。飛瀧(ひろう)神社には本殿も拝殿もなく、滝を直接拝む形になる。社殿がないことからもはっきりとこの大滝が御神体であることをわかる。かつての熊野の自然崇拝の有り様を今に伝えている。
滝をはなれ一路宿に。長いメモの一日が終了した。
那智の大滝をとりまく、那智熊野の景観について樋口忠彦さんが書いた本、『日本の景観(ちくま学術文庫)』を読んだことがある。那智の風土を景観の観点からまとめた箇所があった。メモを以下まとめておく;
1.那智熊野の景観を隠国型景観と呼ぶ
2.上代の土着計画としては、安住の地を求めて、水の音を慕って、川上へ遡った。上流遡行;精神の高揚感;日本の川は滝のよう>より遡行の感覚が明確になる。 この高揚感は遡った奥に別天地が開けるのでは、という期待感>水分神(みくまりのかみ;水の恵みを配ってくれる神)を中心とした安住の地であるとともに死者の霊が上昇し昇華していく聖なる場所。
3.柳田邦夫;曽ては我々はこの現世の終わりに、小闇く寂かなる谷の奥に送られて、そこであらゆる汚濁と別れ去り、高く昇つて行くものと考へられていたらしいのである。我々の祖霊は既に清まって、青雲たなびく嶺の上に休らひ、遠く国原を眺め見おろして居るよ うに、以前の人たちは想像して居た。それが氏神の祭りに先だって、まづ山宮の行事を営まうとした、最初の趣旨であったように私は思はれるのである。
4.山沿いの集落、そこを流れる川を上流に遡った小闇く寂かなる谷の奥の山宮、自分たちの集落のある国原を眺め見下ろすことのできる秀でた峰の霊山、これがセットになって、この世とあの世の共存する安住・定住の景観が成立。
5.谷はこの世からあの世に至る通路。谷の奥は現世とあの世の境目。こうった谷の奥の景観=隠国の景観;隠国=もとは、両側から山が迫っているこもった所、の意味。
6.那智湾に面する浜の宮から、そこに注ぎ込む那智川の深い谷を上流に約6キロほど遡った谷の尽きる所に那智滝があり、其の近くに青岸渡寺、那智大社がある。滝により、奥まった景観が形成。那智の滝の上流は妙法山。秀麗な山谷・滝・山の1セットで死霊が送られる隠国型の空間。妙法山;死者を送るときに用いられる「しきみ」が積み重なってできた山、とか、日本中の霊が集まってくる山、とも
7.五来重氏;熊野は「死者の国」:死者の霊魂が山ふかくかくれこもれるところはすべて「くまの」とよぶにふさわしい。出雲で神々の死を「八十くまでに隠りましぬ」と表現した「くまで」、「くまど」または「くまじ」は死者の霊魂の隠るところで、冥土の古語である。これは万葉にしばしば死者の隠るところとしてうたわれる「隠国」とおなじで熊野は「隠野」であったろう。
8.海、谷、滝、山のセット;古代日本の他界観。山の奥から天に昇る
①海岸の洞窟などに葬られて、そこから舟に乗って海の向こうの補陀落へ行く
②熊野にはこのふたつが並存
③隠国型景観=谷の景観:宗教的空間の性格が強い。
集落の周辺の奥まったところが死者を葬るところにふさわしい。其の場所の上方に秀麗な山が存在するなら、死者はそこから他界に昇ってゆく。あるいは、そこから祖霊として村人たちを見守るというイメージ。安息に満ちた生と死のイメージの基礎となり日本人の心に安らぎをあたえ続けてきた。
この本を読んだときには、こんなところで・こんなかたちで役に立つとは想像もしなかった。海、谷、滝、山のトータルコーディネーションによる那智=観音浄土のイメージ戦略、大いに納得。
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