また、先回の散歩で河口付近、京浜急行「立会川」駅に出会った。源流点と河口が分かったわけなので、途中の流路は、とチェック。JR大井町駅から東急目黒線・西小山駅あた りまで「立会道路」が続いている。これが、流路であろう、ということで、今回は「立会川」散歩に向かう。ついでのこと、というわけでもないけれど、目黒区散歩のとき、「林試の森」のあたりで出会った「品川用水跡」も辿る。(土曜日, 8月 26, 2006のブログを修正)
本日のルート;
①立会川:京急立会川>天祖諏訪神社>旧東海道>土佐藩抱屋敷跡・浜川砲台跡>立会川>立会道路>島津藩抱屋敷>JR大井町駅>立会道路>「二葉町・大井町」>西大井広場公園>JR横須賀線・西大井駅>「二葉町・西大井町」>第二京浜・国道1号線>中延>東急大井町線・荏原町>「旗の台町」>東急池上線・旗の台付近>中原街道>「旗の台・荏原町」>東急目黒線・西小山駅>目黒区・原町>立会川緑道
②品川用水;補助26号線・小山台2丁目>お猿橋庚申堂>東急目黒線・武蔵小山駅>小山2丁目・朝日地蔵堂>「荏原町」>中原街道・平塚橋交差点>「平塚町」>第二京浜・国道1号線>「戸越町」>戸越公園手前を南>東急大井町線。戸越公園駅>「豊町」>JR横須賀線>「二葉町」>東急大井町線・下神明駅>「しながわ中央公園」>西品川1丁目>JR横須賀線>西品川2丁目・3丁目>百反坂>JR大崎駅
京急・立会川駅
京急・立会川駅で下車。駅前には少々昭和初期の雰囲気をかもし出す商店街。駅前の地図で周辺を確認。立会川は駅のすぐ南を流れる。商店街を少し東に進むと旧東海道。先回歩いたところ。旧東海道にかかる浜川橋に再び向かう。別名「泪橋」からあたりを眺め、商店街に戻り北に進む。ちょうど夏祭り。お神輿が進む。 立会川のすぐ南にある「天祖諏訪神社」の祭礼、とか。
商店街を進む。商店街、というよりも、なんといいましょうか、下町の路地裏、といった雰囲気ではある。いい感じ。で、「坂本龍馬」の幟が商店街にひらめいている。このあたりは、というか、さきほどの旧東海道のあたりなのだが、先回メモしたように昔は土佐高知藩山内家下屋敷・抱屋敷跡。抱屋敷にはペリー来航に臨み、嘉永6年(1853年)砲台がつくられる。浜川砲台がそれ。で、龍馬、嘉永6年のこの頃は江戸で剣の修行中。ペリー来航に対する土佐藩下屋敷警護のために、土佐藩士はこの地に集められる。龍馬もそのひとり。龍馬の志士としての活躍は、この地からはじまった、ということか。
立会川・立会道路
第一京浜(国道15号線)を越え、これもつつましやかな商店街を進む。商店街が切れるあたりで、少し脇に折れ、「立会道路」に。川筋に「立会川導水」の案内。JR東京駅の総武線のあたりの地下水をここまで運び、河川の汚れを防ぐ、と。散歩をしていると、川のところどころでこういった導水計画に出会う。呑川の上大岡あたりには高田馬場近くの落合の下水処理場から「高度処理水」が送られてききていたし、同じく呑川の下流部には馬込あたりの地下鉄工事の際の地下水が送られてきている。川、って、そんなもんだったっけ。
月見橋で暗渠に
河口部から開渠だった立会川は、この導水が流れ出す「月見橋」あたりで暗渠となる。石畳っぽい雰囲気でつくられた散歩道・「立会道路」をJRの線路に沿って進む。
旧薩摩鹿児島藩島津家抱屋敷跡の案内。東大井6丁目から東海道線を越えた大井4丁目をカバーする広大な敷地。安政3年(1856年)、島津斉彬の父である、島津斉興(なりおき)がこの抱屋敷で隠居生活を送っていた、と。
見晴らし通り
一筋東に「見晴らし通り」。名前に惹かれてちょっと寄り道。建物が多く、見晴らすことはできなかった。が、通りの両端には南に「ヘルマン坂」、北に「仙台坂」といった坂の名前が見える。ゆるやかな台地ではあったのであろう。カシミールでチェックすると、台地部分は標高15m程度。台地下とは5mから10m程度の標高差があるよう。
JRとの交差・大井陸橋
Jrとの交差・大井陸橋に。川筋跡は大井駅の南端まで続く。道を進み川筋がJRと交差するところで線路に沿って北に進む。JR大井町駅の通路を越え、駅の西側出る。周りを
河口部から開渠だった立会川は、この導水が流れ出す「月見橋」あたりで暗渠となる。石畳っぽい雰囲気でつくられた散歩道・「立会道路」をJRの線路に沿って進む。
旧薩摩鹿児島藩島津家抱屋敷跡の案内。東大井6丁目から東海道線を越えた大井4丁目をカバーする広大な敷地。安政3年(1856年)、島津斉彬の父である、島津斉興(なりおき)がこの抱屋敷で隠居生活を送っていた、と。
見晴らし通り
一筋東に「見晴らし通り」。名前に惹かれてちょっと寄り道。建物が多く、見晴らすことはできなかった。が、通りの両端には南に「ヘルマン坂」、北に「仙台坂」といった坂の名前が見える。ゆるやかな台地ではあったのであろう。カシミールでチェックすると、台地部分は標高15m程度。台地下とは5mから10m程度の標高差があるよう。
JRとの交差・大井陸橋
Jrとの交差・大井陸橋に。川筋跡は大井駅の南端まで続く。道を進み川筋がJRと交差するところで線路に沿って北に進む。JR大井町駅の通路を越え、駅の西側出る。周りを
見渡すと北西方向に緑が。そのあたりが「立会道路」の続きであろう、とあたりをつけて進む。中央に緑道。左右に車道が通る。看板に「立会道路」と表示。先に進む。
JR横須賀線・西大井駅
大井と二葉地区の境を進む。西大井広場公園を越えるとJR横須賀線・西大井駅。駅を越え、二葉と西大井の境を進む。緑道はなくなり、普通の道路。今年最高の猛暑の中、日蔭が恋しい。
中延
第二京浜・国道1号線を越える。中延に入ると、ふたたび緑道、っぽくなる。近くに「源氏前小学校」とか「源氏前図書館」。このあたりは源氏にゆかりのところ、か?中延の横に「旗の台」もあるし、例によって「源の何某」がこのあたりで戦勝を祈願し、旗を立てた、って故事などあるのだろうな、と想像。
旗岡八幡神社
緑道を進み、東急大井町線・荏原町駅を「くぐり」進む。「旗岡八幡神社」。13
大井と二葉地区の境を進む。西大井広場公園を越えるとJR横須賀線・西大井駅。駅を越え、二葉と西大井の境を進む。緑道はなくなり、普通の道路。今年最高の猛暑の中、日蔭が恋しい。
中延
第二京浜・国道1号線を越える。中延に入ると、ふたたび緑道、っぽくなる。近くに「源氏前小学校」とか「源氏前図書館」。このあたりは源氏にゆかりのところ、か?中延の横に「旗の台」もあるし、例によって「源の何某」がこのあたりで戦勝を祈願し、旗を立てた、って故事などあるのだろうな、と想像。
旗岡八幡神社
緑道を進み、東急大井町線・荏原町駅を「くぐり」進む。「旗岡八幡神社」。13
世紀、この地の領主・荏原左衛門義宗が、曽祖父と言われる源頼信から受け継いだ八幡様をまつったのがはじまり。旗岡とか旗の台の地名も、この源頼信が下総の平忠常の乱を平定に赴く際、このあたりの台地に陣を張り源氏の白旗を立てて戦勝を祈願した、から、と。想像通り。源氏前って名前はこの八幡様の前といったところか。tなみに、中延の由
来。荏原郷の中心に広がる(延びる)といった意味、かも。中原街道とか池上道が延びているところでもあるし、結構納得。
東急池上線・旗の台駅を越え中原街道と交差
大井町の駅 から弧を描くように西に進んだ「立会道路」は、この荏原町駅を越えたあたりから今度は北西に弧を描くように進む。東急池上線・旗の台駅を越えるとすぐに中原街道と交差。昭和大学病院横の緑道・立会道路を進む。荏原5丁目、小山5丁目を越え、東急目黒線・西小山を過ぎるとそこは目黒区・原町1丁目。立会道路もこのあたりで終了。その先は立会川緑道となる。
ここから少し進むと、碑文谷八幡から続く東に続く目黒区の立会川緑道と交差。これで「襷」がつながった。
立会川の名前だが、戦国時代に上杉と小田原・北条が、この川を挟んで合戦をした、「太刀合った」から、とか、この近辺に野菜の市が立ったから、とかこれも例によっていろいろ。
河口の立会川駅からほぼ6キロ弱といった立会川巡りは終える。2時間程度で歩き終えた。日暮れまでにはまだ十分時間もある。予定通り林試の森近くの品川用水の品川ルートを歩こう、と思う。
より大きな地図で 立会川と品川用水 を表示 (品川用水跡)
品川区・小山台2丁目
碑文谷八幡から東に進む立会川緑道が、南に流れを変えところ、丁度向原小学校のところから、真北に進む。補助26号線と交差。清水池から東に進む道路が補助26号と交差するあたりでもある。このあたりは品川区・小山台2丁目。品川区が目黒区に三角形に刺さっている、感じ。品川用水の品川区での始点でもある。
品川用水のメモ;旱魃に悩まされていた品川領2宿7カ村が、幕府に願い出て寛文9年(1669年)に完成した農業用水路。水源は玉川上水。境村(現在の三鷹市境3丁目)で分水され、三鷹市、世田谷区、目黒区を通り、小山台1丁目で品川区に入る。用水は小山台2丁目(地蔵の辻)で二股に別れ、左手は百反坂方面に下り、桐ヶ谷、居木橋へ。右手は戸越から大井村までの田畑の灌漑に供していた。大正から昭和には急激に都市化が進み、排水路と変わり現在では道路や下水道となっている。
小山台小学校近くにお猿橋庚申堂
品川区と目黒区の境を進む。これって品川用水の水路跡、だろう。品川区小山台小 学校を少し進んだところに「お猿橋庚申堂」。延宝2年(1674年)につくられたもの。案内によれば、品川用水に沿って北上する碑文谷道のほとり、お猿橋付近に立てられていた、とか。元の位置より少し目黒方面に移されている。
朝日地蔵堂
商店街を進み、東急目黒線・武蔵小山駅付近で線路を渡る。少し進むと朝日地蔵堂。スーパーマーケットの脇に、それでもきちんと手入れよく、立っている。江戸時代初期、戸越村の念仏講によって造立。「朝日」の名前の由来は、世田谷区奥沢の九品仏・浄真寺の上人が、修行のため毎日夜明け前に寺を出て、芝の増上寺まで通っていたのだが、このあたりで夜が明け、朝日がのぼったので、と。地蔵の辻とも呼ばれる。
辻の橋で用水は分岐
用水はこの辻の橋でおおきく二つに分かれる。ひとつは、上にメモしたように、ここから東に進み中原街道と交差、百反通りを下り、JRが目黒川と交差するあたり・「寄木橋」方面に進む。もう一方は南に進路を変え、ほぼ一直線に補助26号と中原街道との交差点に向かう。今回は南へのルートを歩く。
戸越屋敷
中原街道へ交差の途中に「旧讃岐丸亀藩・京極家抱屋敷跡。「戸越屋敷」とも呼ばれ、ここから上屋敷に野菜や薪を供給していた、と。ために、地元とのつながりも強く、明治維新後も屋敷内にあった「稲荷神社」は大切にまつられ、現在も「京極稲荷神社」として残っている。
中原街道と交差
中原街道と交差。中原街道は江戸城と中原御殿を結ぶ道。中原御殿は平塚中原(現在の平塚市御殿)に。中原街道の始点は、もとは桜田御門。江戸城の拡張にともなり、虎御門、のちの虎ノ門が始点となる。虎ノ門とか桜田御門って、丸亀藩・京極家の上屋敷のあったあたり。虎ノ門交差点のところにある「金毘羅神宮」は京極家の屋敷神、のはず。丸亀藩・京極家抱屋敷>中原街道>丸亀藩・京極家・上屋敷、と思いがけない「襷」がつながった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
平塚橋
中原街道との交差点は平塚橋と呼ばれる。品川用水と旧中原街道の交差するところにかけられていた橋の名前。平塚の地名は、新羅三郎・源義光の墓と伝えられる「平たい塚」があった、から。平安時代中期、奥州での清原氏の内紛・後三年の役の平定の帰り、新羅三郎・がこの地に野営した、と。平塚橋から南東に下る。戸越地区。戸越の由来は、「江戸を越えてくる」といった説も。
戸越公園
第二京浜を越え、戸越公園につきあたる。戸越公園は旧熊本藩細川家抱屋敷跡。品川用水ももともとはこの抱屋敷の庭園に人工の滝をつくるために、といった説もある。先日あるいた本郷の千川用水も小石川御殿に上水を供給するために掘られたわけだし、あながち間違いでもない、かも。ちょっと公園も歩いてみたいのだが、少々時間もなくなってきた。気力も失せかけてきた。で川筋跡に沿って公園手前を南に下る。
東急大井町線・戸越公園駅
東急大井町線・戸越公園駅近くを越える。川筋は半円を描くようにカーブする。川筋跡はよくわからない。が、豊町3丁目、四間通りを越え南東に下り、豊町4丁目あたりで反転し北東に上り、JR横須賀線と東急大井町線が交差する下神明駅辺りまでのぼっている、よう。
下神明って、結構ありがたい名前。近くに下神明天祖神社。これが名前の由来か、と思った。が現実は少々複雑。もとはこのあたり、上蛇窪(村)、下蛇窪(村)と呼ばれていた。が、新参者が「蛇も窪も暗い、じゃん」といったことで、ちかくにあった上神明天祖神社、下神明天祖神社の名前を取り、上神明町、下神明町に。蛇窪駅も戸越公園駅と。しかし、またまたの町域変更。北を豊町、南を二葉町、と。豊と二葉も、なんとなく「めでたそう」ということでつけられた、歴史もなにも無視した町名。で、下神明駅名が今に残るって按配。
JR東日本東京総合車両センター
川筋はここから「しながわ中央公園」のあたりを越え、西品川1丁目、三ツ通り木、妙光寺あたりまで北東にのぼり、広町2丁目のJR東日本東京総合車両センターの敷地内に進んでいる。その後は広町1丁目にから北に進み、三獄橋あたりで目黒川に合流する。
JR東日本東京総合車両センターの敷地手前で今回の散歩は終了。JR大崎駅に向かう。途中、台地を下る坂道に。百反坂。昔は階段状のなっており、「百段」、後に坂となり「百反」と。この百反坂は地蔵の辻で分岐したもうひとつの流路筋。百反通りから居木橋への流れをイメージしながら、駅に向かい本日の予定終了。
品川の地には東急が入り乱れて走っている
ちょっと気になったことがある。この品川の地には東急が入り乱れて走っている。池上線(五反田_蒲田)、大井町線(大井町_二子玉川)、目蒲線(目黒_蒲田)。 どうしてこの地帯に電車路線が込み合っているのか理由はよくわからない。想像ではあるが、池上本門寺とか御岳神社、目黒不動を結ぶことは当時のドル箱路線であったのだろう、か。それともうひとつの理由は、もともとが、別の会社であり、お客の多い地域を結ぶ競争を繰り返していた電鉄会社が、後にひとつになった、ということ、か。
池上線は、もとは池上電気鉄道。昭和9年に、のちに東急となる目黒蒲田電鉄に吸収されたわけだし、これって、当たらずといえ でも遠からず、って印象。池上電気鉄道は当初、大森から池上を経由、御岳山、洗足池、荏原を経て、目黒不動をかすめ省線の目黒駅に至るルートを想定していた。が、資金不足か何なのか、もたもたしているうちに目黒への路線は目黒蒲田電鉄に先を越された。大森への路線も用地買収が思うにまかせず、結局現在の路線となった、とか。
大井町の駅 から弧を描くように西に進んだ「立会道路」は、この荏原町駅を越えたあたりから今度は北西に弧を描くように進む。東急池上線・旗の台駅を越えるとすぐに中原街道と交差。昭和大学病院横の緑道・立会道路を進む。荏原5丁目、小山5丁目を越え、東急目黒線・西小山を過ぎるとそこは目黒区・原町1丁目。立会道路もこのあたりで終了。その先は立会川緑道となる。
ここから少し進むと、碑文谷八幡から続く東に続く目黒区の立会川緑道と交差。これで「襷」がつながった。
立会川の名前だが、戦国時代に上杉と小田原・北条が、この川を挟んで合戦をした、「太刀合った」から、とか、この近辺に野菜の市が立ったから、とかこれも例によっていろいろ。
河口の立会川駅からほぼ6キロ弱といった立会川巡りは終える。2時間程度で歩き終えた。日暮れまでにはまだ十分時間もある。予定通り林試の森近くの品川用水の品川ルートを歩こう、と思う。
より大きな地図で 立会川と品川用水 を表示 (品川用水跡)
品川区・小山台2丁目
碑文谷八幡から東に進む立会川緑道が、南に流れを変えところ、丁度向原小学校のところから、真北に進む。補助26号線と交差。清水池から東に進む道路が補助26号と交差するあたりでもある。このあたりは品川区・小山台2丁目。品川区が目黒区に三角形に刺さっている、感じ。品川用水の品川区での始点でもある。
品川用水のメモ;旱魃に悩まされていた品川領2宿7カ村が、幕府に願い出て寛文9年(1669年)に完成した農業用水路。水源は玉川上水。境村(現在の三鷹市境3丁目)で分水され、三鷹市、世田谷区、目黒区を通り、小山台1丁目で品川区に入る。用水は小山台2丁目(地蔵の辻)で二股に別れ、左手は百反坂方面に下り、桐ヶ谷、居木橋へ。右手は戸越から大井村までの田畑の灌漑に供していた。大正から昭和には急激に都市化が進み、排水路と変わり現在では道路や下水道となっている。
小山台小学校近くにお猿橋庚申堂
品川区と目黒区の境を進む。これって品川用水の水路跡、だろう。品川区小山台小 学校を少し進んだところに「お猿橋庚申堂」。延宝2年(1674年)につくられたもの。案内によれば、品川用水に沿って北上する碑文谷道のほとり、お猿橋付近に立てられていた、とか。元の位置より少し目黒方面に移されている。
朝日地蔵堂
商店街を進み、東急目黒線・武蔵小山駅付近で線路を渡る。少し進むと朝日地蔵堂。スーパーマーケットの脇に、それでもきちんと手入れよく、立っている。江戸時代初期、戸越村の念仏講によって造立。「朝日」の名前の由来は、世田谷区奥沢の九品仏・浄真寺の上人が、修行のため毎日夜明け前に寺を出て、芝の増上寺まで通っていたのだが、このあたりで夜が明け、朝日がのぼったので、と。地蔵の辻とも呼ばれる。
辻の橋で用水は分岐
用水はこの辻の橋でおおきく二つに分かれる。ひとつは、上にメモしたように、ここから東に進み中原街道と交差、百反通りを下り、JRが目黒川と交差するあたり・「寄木橋」方面に進む。もう一方は南に進路を変え、ほぼ一直線に補助26号と中原街道との交差点に向かう。今回は南へのルートを歩く。
戸越屋敷
中原街道へ交差の途中に「旧讃岐丸亀藩・京極家抱屋敷跡。「戸越屋敷」とも呼ばれ、ここから上屋敷に野菜や薪を供給していた、と。ために、地元とのつながりも強く、明治維新後も屋敷内にあった「稲荷神社」は大切にまつられ、現在も「京極稲荷神社」として残っている。
中原街道と交差
中原街道と交差。中原街道は江戸城と中原御殿を結ぶ道。中原御殿は平塚中原(現在の平塚市御殿)に。中原街道の始点は、もとは桜田御門。江戸城の拡張にともなり、虎御門、のちの虎ノ門が始点となる。虎ノ門とか桜田御門って、丸亀藩・京極家の上屋敷のあったあたり。虎ノ門交差点のところにある「金毘羅神宮」は京極家の屋敷神、のはず。丸亀藩・京極家抱屋敷>中原街道>丸亀藩・京極家・上屋敷、と思いがけない「襷」がつながった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
平塚橋
中原街道との交差点は平塚橋と呼ばれる。品川用水と旧中原街道の交差するところにかけられていた橋の名前。平塚の地名は、新羅三郎・源義光の墓と伝えられる「平たい塚」があった、から。平安時代中期、奥州での清原氏の内紛・後三年の役の平定の帰り、新羅三郎・がこの地に野営した、と。平塚橋から南東に下る。戸越地区。戸越の由来は、「江戸を越えてくる」といった説も。
戸越公園
第二京浜を越え、戸越公園につきあたる。戸越公園は旧熊本藩細川家抱屋敷跡。品川用水ももともとはこの抱屋敷の庭園に人工の滝をつくるために、といった説もある。先日あるいた本郷の千川用水も小石川御殿に上水を供給するために掘られたわけだし、あながち間違いでもない、かも。ちょっと公園も歩いてみたいのだが、少々時間もなくなってきた。気力も失せかけてきた。で川筋跡に沿って公園手前を南に下る。
東急大井町線・戸越公園駅
東急大井町線・戸越公園駅近くを越える。川筋は半円を描くようにカーブする。川筋跡はよくわからない。が、豊町3丁目、四間通りを越え南東に下り、豊町4丁目あたりで反転し北東に上り、JR横須賀線と東急大井町線が交差する下神明駅辺りまでのぼっている、よう。
下神明って、結構ありがたい名前。近くに下神明天祖神社。これが名前の由来か、と思った。が現実は少々複雑。もとはこのあたり、上蛇窪(村)、下蛇窪(村)と呼ばれていた。が、新参者が「蛇も窪も暗い、じゃん」といったことで、ちかくにあった上神明天祖神社、下神明天祖神社の名前を取り、上神明町、下神明町に。蛇窪駅も戸越公園駅と。しかし、またまたの町域変更。北を豊町、南を二葉町、と。豊と二葉も、なんとなく「めでたそう」ということでつけられた、歴史もなにも無視した町名。で、下神明駅名が今に残るって按配。
JR東日本東京総合車両センター
川筋はここから「しながわ中央公園」のあたりを越え、西品川1丁目、三ツ通り木、妙光寺あたりまで北東にのぼり、広町2丁目のJR東日本東京総合車両センターの敷地内に進んでいる。その後は広町1丁目にから北に進み、三獄橋あたりで目黒川に合流する。
JR東日本東京総合車両センターの敷地手前で今回の散歩は終了。JR大崎駅に向かう。途中、台地を下る坂道に。百反坂。昔は階段状のなっており、「百段」、後に坂となり「百反」と。この百反坂は地蔵の辻で分岐したもうひとつの流路筋。百反通りから居木橋への流れをイメージしながら、駅に向かい本日の予定終了。
品川の地には東急が入り乱れて走っている
ちょっと気になったことがある。この品川の地には東急が入り乱れて走っている。池上線(五反田_蒲田)、大井町線(大井町_二子玉川)、目蒲線(目黒_蒲田)。 どうしてこの地帯に電車路線が込み合っているのか理由はよくわからない。想像ではあるが、池上本門寺とか御岳神社、目黒不動を結ぶことは当時のドル箱路線であったのだろう、か。それともうひとつの理由は、もともとが、別の会社であり、お客の多い地域を結ぶ競争を繰り返していた電鉄会社が、後にひとつになった、ということ、か。
池上線は、もとは池上電気鉄道。昭和9年に、のちに東急となる目黒蒲田電鉄に吸収されたわけだし、これって、当たらずといえ でも遠からず、って印象。池上電気鉄道は当初、大森から池上を経由、御岳山、洗足池、荏原を経て、目黒不動をかすめ省線の目黒駅に至るルートを想定していた。が、資金不足か何なのか、もたもたしているうちに目黒への路線は目黒蒲田電鉄に先を越された。大森への路線も用地買収が思うにまかせず、結局現在の路線となった、とか。
当初の計画では大井町線からはじめる計画を、目黒という交通の要衝を押さえるべく、目黒から蒲田への路線を展開した目黒蒲田電鉄って、後の東急。五島慶太の指揮のもと、戦前には京急、京王、小田急も吸収し「大東急」となった。時間ができたら、東急の歴史など調べるのも面白そう。
JR目黒駅って品川区にある
それからちょっと気がついたこと。JR目黒駅って品川区にある。この前の散歩にメモしたが、JR品川駅は港区にある。目黒駅のケースは目黒区の、というより、目黒不動への最寄り駅といった意味。元々は目黒川沿いに建設する予定が変更になった、ため品川区域に。目黒駅あたり、上大崎地区に不自然に延びる品川区域って、どういった事情でできたのが、ちょっと調べてみたい感じ。
JR品川駅が品川区にあるのは、品川宿の人々がSLの煤を嫌がった、ため。小 岩だったか新小岩だったかも、同じような事情で鉄路から離れた。足立区の花畑あたりも列車の騒音を嫌い、路線は竹ノ塚に。とはいうものの、鉄路による繁栄から残されたおかげでで、現在の旧東海道・品川宿があるわけで、足立の花畑地区の自然があるわけで、どちらがよかったかは、その時代によって評価の分かれるところ。衣食足っての現在は、竹ノ塚の喧騒より花畑の静けさは有り難いと思うのは、言うまでも無い。
JR目黒駅って品川区にある
それからちょっと気がついたこと。JR目黒駅って品川区にある。この前の散歩にメモしたが、JR品川駅は港区にある。目黒駅のケースは目黒区の、というより、目黒不動への最寄り駅といった意味。元々は目黒川沿いに建設する予定が変更になった、ため品川区域に。目黒駅あたり、上大崎地区に不自然に延びる品川区域って、どういった事情でできたのが、ちょっと調べてみたい感じ。
JR品川駅が品川区にあるのは、品川宿の人々がSLの煤を嫌がった、ため。小 岩だったか新小岩だったかも、同じような事情で鉄路から離れた。足立区の花畑あたりも列車の騒音を嫌い、路線は竹ノ塚に。とはいうものの、鉄路による繁栄から残されたおかげでで、現在の旧東海道・品川宿があるわけで、足立の花畑地区の自然があるわけで、どちらがよかったかは、その時代によって評価の分かれるところ。衣食足っての現在は、竹ノ塚の喧騒より花畑の静けさは有り難いと思うのは、言うまでも無い。
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