木曜日, 8月 24, 2006

品川区散歩そのⅠ:大井から品川宿を歩く

目黒散歩を終え、品川に移る。とはいいながら、品川については、「品川宿」以外、これと言ったランドマークが思い浮かばない。ということで例によって、郷土歴史館に行き、あれこれ資料を求めることからはじめる。(木曜日, 8月 24, 2006のブログを修正)



本日のルート;JR大井町駅>作守稲荷神社>西光寺>光福寺>品川歴史館>来迎院>太井の水神>鹿島神社>大森貝塚碑>JR東海道線>「南大井」>京急>大 経寺>鈴ケ森遺跡>旧東海道>天祖諏訪神社・厳島神社>浜川砲台跡>土佐藩下屋敷跡>鮫洲八幡神社>海あん寺>海雲寺>品川寺>天妙国寺>荏原神社>品川宿本陣跡>京急・北品川駅>品川神社>ゼームス坂>JR大井町駅

JR大井町下車
Jr大井町下車。大井6丁目にある郷土歴史館に。正確には品川区品川歴史館。線路に沿って南に進む。大井西銀座を通り、JR大井陸橋西詰の大井三又交差点に。

作守稲荷


道路脇にある道案内をチェック。歴史館への道筋に作守稲荷、西光寺、光福寺などが。大井4丁目には作守稲荷。もともと薩摩藩抱屋敷内にあった屋敷神。慶応年間(1865-1868年)、この抱屋敷跡を島津家から譲り受けた太井村の平林九兵衛が、稲荷社のあたりを開墾。作物を守る、ってことから「作守」となったのだろう、か。西光寺は鎌倉時代の創建と伝えられる。

光福寺
大井6丁目には光福寺。創建は奈良時代末期。境内の大イチョウが名高い。明治までは江戸湾の漁師の目印にもなっていた、とか。後でわかったのだが、境内に横穴式の井戸。このお寺を開いた上人さまの産湯の井戸、との伝えあり。その井戸の名前が「大井」。地名・大井の由来、とか。
とはいうものの、平安時代後期の12世紀の前半には、大井氏とその一族の品河氏が現在の品川区域を支配し、源平の争乱を経て鎌倉幕府の御家人となった、という記録もあるわけで、「大井」の由来も諸説あり。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

品川歴史館
品川歴史館。『品川歴史館常設展示ガイド』『しながわ史跡めぐり』『品川用水』『品川区史跡めぐりマップ』などの資料を買い求める。資料をもとに本日のルートを検討。目黒散歩で出会った立会川、品川用水跡巡りのルートはほぼ「掴んだ」。あれこれ考えたが、結局は、「品川といえば品川宿でしょう」、ということで、歴史館から品川宿方面への散歩に決定。

来迎院
品川宿って、JR品川駅あたりか、と勝手に思っていたのだが、実際は京浜急行・北品川駅から青物横丁あたり。歴史館を離れ散歩にスタート。
歴史館のすぐ横に台地を下る坂。坂の途中に来迎院(大井6丁目)。平安中期の創建。将軍の御鷹場であった大井・大森での鷹狩の折り、将軍家光がこの寺を休息所とした、と。

大井の水神
坂を下る。JRの線路を越えてすぐのところに「大井の水神」。水が威勢良く「湧き出て」いる。が、現在はポンプでの汲みあげ。江戸時代には、ここに地下水が自然に湧き出ていた。地元の人たちは湧水を「水神」としてまつり、九頭龍権現社として祠をたてる。社の傍に柳があったことから「柳の清水」とも。
品川の地は目黒川、立会川の流域以外は丘陵地。水利に恵まれてはいない。で、この大井の水神のように、台地の切れる崖地から湧き出る湧水を大切に思い、「水神」さまとして祀ったわけだ。ここ以外には西大井3丁目の「大井・原の水神池」などがある。

鹿島神社

下った坂を再び上る。台地上、というか、先ほど訪れた来迎院の東に鹿島神社。西暦969年、南品川の常行寺の僧が鹿島神宮を勧請したのがはじまり。なぜ品川の地に鹿島か、ということだが、この品川湊って、中世には全日本的規模の海上交通の要衝であったわけで、紀伊半島や東海地方から太平洋を渡ってくる航路と、旧利根川・常陸川水系を通って銚子沖から東北地方に通じる航路を結ぶ重要な湊であった。
鹿島神宮って、茨城県鹿嶋市にある。鹿島神宮の祭祀圏、というか鹿島神宮を崇める人たちが、この品川湊で活発に活動していたのであろう。
境内に品川用水を記念する「恵澤潤洽の碑(けいたくじゅんごう)」。品川用水は、玉川上水からの分水の一つ。正確には玉川上水の分水である仙川用水から分けて作られた。目黒から品川にかけては台地が多く、水田はごく僅かであった。が、この用水によって水田開発が進む。当初82石あまりだったものが開通後121石に増えた、とか。その用水も、明治以降の都市化による水田の廃止にともない役割を終えていった。この碑は品川用水が人々の生活に貢献したことを讃 えるためにつくられた。

大森貝塚碑
鹿島神社を離れ台地上の道を大森方面に進む。大田区との境に「大森遺跡庭園」。入口を進み、JR線路のすぐ脇に「大森貝塚碑」。明治10年、米国人エドワード・モース博士によって発見された貝塚跡。東京大学の教授として、貝類の研究目的で来日し、横浜に上陸。翌々日、東京に向かう汽車の窓から線路脇の切通しに露出する貝殻を見かける。貝塚と見抜き、発掘調査。日本で最初の学術的発掘調査。日本考古学発祥の地でもある。

鈴ケ森刑場跡
公園の北の道を東に進む。JRをくぐり南大井の町を東に一直線に歩く。京浜急行を越えると「鈴ケ森刑場跡」。先日訪れた「小塚原刑場」とならぶ江戸期の処刑場跡。刑場跡のすぐ西を旧東海道が通る。東海道に面したこの刑場は間口80m弱。奥行き17m弱といったところ。予想よりこじんまりしている。
最初に処刑されたのは由井正雪の乱の丸橋忠弥とも言われる。慶安4年(1651年)に開設。明治4年(1871年)に廃止されるまでに、白井権八、天一坊、八百屋お七などがここで露と消えている。
白井権八って、目黒散歩のとき、目黒不動の門前の「比翼塚」で出会った。白井権八は芝居・浄瑠璃での名前。本名は平井権八。鳥取藩士。父の同僚を殺害し江戸に逐電。吉原の遊女・小紫と馴染みになり、金に困って人を殺める。舞台は隅田散歩で歩いた「日本堤」。逃亡、改心、そして自首、そして刑死。吉原を抜け出した小紫は、墓前で後追い心中。ふたりを哀れんで建てられたのが「比翼塚」。天一坊は将軍吉宗公の御落胤をかたる。
八百屋お七。火事で避難したお寺の小姓・吉三郎をみそめたお七は、火事が起これば恋しい吉さんに会える、との思いから放火・刑死。ちなみに、鈴ケ原の名前の由来は、大井村の隣、大田区の不入斗(いりやまず)村にあった鈴森(すすがもり)八幡宮(現在は、盤井神社)から。この神社に鈴石があり、「鈴石のある社の森」ということから。

旧東海道

旧東海道を北に進む。実のところ、旧東海道がここにあるとは思ってもみなかった。品川宿の散歩、と思っていたのだが、奇しくも品川宿と旧東海道を合わせて歩けることとなった。

浜川神社
少し進む。浜川神社。もとは修験者・了善がまつった「疫神大明神」。この了善、天保年間(1830-1844年)、将軍家斉の病気平癒を祈願し,効あり。と いうことで、大奥に信を得た。が、悪名高い、と言われている、南町奉行・鳥居忠耀に嫌われ、将軍呪詛の濡れ衣を着せられ三宅島に遠島処分。忠耀失脚後、許されるも了善は既に無く、その孫が再建。明治になって「浜川神社」となる。

立会川と交差
南大井1丁目を進む。立会川と交差。ここが立会川のほぼ河口。源流点からここまでの流路は掴んだ。次の機会にこの川筋を歩く、べし。川の手前に「天祖諏訪神社」。境内には「厳島神社」も。「天 祖」神社はもと、「神明社」。伊勢神宮を勧請。「諏訪」神社は信州諏訪大社を勧請。昔は、立会川を挟んで、あったらしいが、昭和40年、天祖神社のあった現在の地に合祀された。

泪橋
旧東海道に浜川橋がかかる。この橋、別名「泪橋」。ここから少し西にある「鈴ケ森刑場」に送られる家族を、この橋で泪ながらに見送った、というのがその名の由来。

土佐高知藩山内家下屋敷・抱屋敷跡

立会川を越え、東大井2丁目を歩く。このあたりは土佐高知藩山内家下屋敷・抱屋敷跡。抱屋敷って幕府からの拝領地ではなく私有地。この抱屋敷は揚場、って言うから、倉庫といったところか。15代藩主・山内豊信(容堂)候が安政の大獄に連座し隠居・謹慎したのはこの下屋敷。また、抱屋敷にはペリー来航に臨み、 嘉永6年(1853年)砲台がつくられる。浜川砲台がそれ。江戸で剣の修行中の龍馬もペリー来航に対する土佐藩下屋敷警護のため、この地に集められた、とか。

鮫洲八幡神社
東大井1丁目に進む。京急・鮫洲駅近くに「鮫洲八幡神社」。かつての「御林猟師町」の鎮守さま。この「猟師」って表記、昔は「漁師」の意味で使われていた、とは深川あたりの散歩のときにメモした。御林ってことは、幕府のもつ雑木林を切り開いて作られた土地、ということ。隣の品川浦とともに、江戸城に鮮魚を納める「御菜肴(おさいさかな)八ケ浦」として発展した。
鮫洲の「鮫」って、熊野三党、つまりは鈴木・榎本・宇井氏の紋章。「鮫の牙」をデザインしている。品川湊には鈴木道胤や榎本道琳といった熊野出身の有力者・有徳人が活躍している。鮫洲の名前も、熊野とのつながりでできたものだろう、と思う。

海雲寺

南品川3丁目に進む。京急・青物横丁の近くに海雲寺。鎌倉時代中ごろの創建。「品川の荒神様」と呼ばれる。境内の雰囲気は少々寂しい。境内に「平蔵地蔵」。武士の落とした財布を届けた貧しき平蔵。仲間に詰問され、撲殺。それを聞き及んだ、その武士が菩提をとむらうべくつくったお地蔵さん。いまひとつ、言わんとするところがよくわからない。青物横丁とは、江戸時代、この地に青物(野菜・山菜)の市がたった、から。

海晏寺(かいあん)
京浜急行の西、第一京浜・国道15号線の向こうに海晏寺(かいあん)。鎌倉時代の建長3年(1251年)、執権・北条時頼が鎌倉・建長寺の蘭渓道隆を迎え開 山。岩倉具視が眠る。とはいうものの、横断歩道は近くになく、国道を隔てて眺めるのみ。あとでわかったのだが、一般参拝はできなかったよう。

品川寺

品川寺。読みは「ほんせんじ」。平安時代の開創。本尊水月観音像は、この地を訪れた弘法大師が領主・品河氏に与えたもの、とか、太田道潅の持仏であったとか、いろいろ。
境内にちょっと大きなお地蔵様。江戸六地蔵のひとつ。江戸の入口・六箇所につくられたもので、この地のほかには浅草、新宿、巣鴨、深川に2箇所あった、という。
ところで、品河氏って、この地に12世紀に登場した在地領主・大井実直(さねよし)の一族。実直の子実春は大井郷を相続、弟の清実(きよざね)は品川郷を相続し品河氏と名乗る。ともに源氏の御家人として平氏と戦い、その軍功により大井氏は伊勢・薩摩、品河氏は伊勢・近江・和泉・陸奥・紀伊にも所領を得る。大井氏は14世紀には北条氏によりこの地の支配権を失う。また、品河氏も15世紀の初めには鎌倉公方より所領を没収され、両氏の支配は幕を閉じる。

天妙国寺
「ジュネーブ平和通」を越える。仙台坂からの通りが第一京浜、京浜急行を越え東に進むこの道筋を過ぎると、旧街道の西に「天妙国寺」。鎌倉時代に日蓮の直弟子・ 天目上人が開山。15世紀の半ばには、品川湊の有徳人・鈴木道胤親子が17年の歳月をかけ七堂伽藍を建設。戦国時代の北条氏の庇護も受ける。合戦に際しても、この寺での「乱暴狼藉を禁ずる」高札を出していたほど。家康も江戸入府の折に、この寺に宿泊。翌年には10石の寺領を受けた。広大な寺域を誇るお寺様、であった。
ジュネーブ平和通、って、ジュネーブ市と姉妹町にでもなっているのだろう。また、仙台坂って、このあたりに仙台藩・伊達家の下屋敷があった、から。

長徳寺

先に進むと長徳寺。室町中期の創建。本堂左に閻魔堂。「南品川のおえんまさま」として信仰を集める。常行寺は平安時代の創建。長保年間(999-1004 年)には武蔵・相模で末寺500を数える大寺、であった、とか。先ほどメモしたように、鹿島神社を勧請したのがこのお寺の上人さまであった、よう。
心海寺、本覚寺海徳寺と道筋に寺院が続く。江戸時代後期には品川宿に25ものお寺があった。そのうち江戸以前からのお寺が23。中世からこのあたりが湊として開けていたことがわかる。
目黒川を渡り荏原神社
目黒川を渡る。荏原神社。南品川宿の鎮守さま。「南の天王様」と呼ばれる。創建は和銅2年というから西暦709年。平安時代・康平5年(1062年)、源頼義、義家親子が奥州安倍氏追討の折、府中の大国魂神社とこの神社に参詣、品川の海で身を清めたとか。大国魂神社で5月のお祭りに品川沖の海上で潮を汲むのは、この故事によるのだろう。住所は北品川だが、これは目黒川の改修工事により、神社の南を流れるようになった、ため。昔は目黒川を境に、北品川・南品川と地名が分けられていた。

品川本陣跡
街道から少し東に入り、山手通りの脇に「品川本陣跡」。北品川宿の本陣。本陣とはもともとは、戦場での司令部といったものだが、参勤交代の制度が整うにつれ、宿場での大名の定宿のことを指すようになる。もとは北と南に本陣があった。が、南品川宿の本陣は早くにすたれ、この北品川宿のみ、となった。明治維新には京都から江戸に向かった明治天皇の宿舎・行在所としても使われた。



寄木神社

山手通りを隔てて南に寄木神社。江戸期には寄木明神社と呼ばれていた。日本武尊(やまとたける)をまつる。海上を上総に渡る日本武尊。海が大荒れ。妃弟橘姫命が海神の怒りを鎮めるべく海に身を投げ、難を逃れる。このときの船の一部、一説には姫の衣類が品川沖に流れ着く。漁師が拾って祀ったのがはじまり、とか。日本武尊、弟橘姫命の話も散歩のときによく現れる。「あずま(吾妻)はや」のあの歌とともに。

一心寺
先に進む。一心寺。安政 2年(1855)、大老・井伊直弼の「品川宿にて鎮護日本・開国条約を願え」との啓示を受け、町民の手によって建立された。法禅寺。南北朝時代、法然上人が奥州にいる弟子に、自ら彫った仏像を陰陽師を使いに奥州に。が、この地でその像が動かなくなる。
で、草庵を建てて安置した、とか。いやはやお寺が多い、こと


土蔵相模跡

京浜急行・北品川駅近くに土蔵相模跡。歩行新宿(かちしんじゅく)にあった食売旅籠屋(めしうりはたご)。外壁が土蔵のような海鼠(なまこ)壁であったため土蔵相模、と。幕末には品川御殿山のイギリス公使館建設に反対する、攘夷論者の高杉晋作・久坂玄瑞らがこの宿 で密談し、公使館焼き討ちを実行した。1977年取り壊し。歩行新宿って現在の北品川1丁目のあたりを指す。

問答河岸跡
すぐ先に問答河岸跡。北品川にあった荷揚げ場。3代将軍家光が東光寺を訪れたとき、沢庵和尚が出迎え、問答をしたことからこの名が。『徳川実記』;将軍曰く「海近うしても東(遠)海寺とはいかに」。沢庵応えて曰く「なお大君にして将(小)軍と称し奉るがごとし」、と。東海寺は三代将軍家光が沢庵和尚のために建てた寺。創建時は上野寛永寺、芝増上寺に次ぐ名刹であったが、現在
はいくつかの堂宇を残すのみ。山手通りが第一京浜と合流するあたり、目黒川沿いにある。

八ツ山橋
八ツ山橋。八ツ山は、北品川の北端。武蔵野台地の突端。昔はこのあたりには海に突き出た岬が八つあった、から。八ツ山橋はふたつ、ある。北側の橋は京浜急行と旧東海道がとおる八ツ山橋。南側が第一京浜の通る新八ツ山橋。八ツ山橋は日本で最初の鉄道陸橋。もちろん何度か架け替えられている。ここで品川宿が終わる。

品川宿
品川宿のことをまとめておく。品川宿って、宿場の中心は京浜急行・北品川駅から青物横丁駅あたりまで。目黒川を境に北品川宿と南品川宿に別れていた。が、宿場の北に、高輪寄りに無許可の茶屋が軒を連ねるようになったため、この新町をまとめて歩行(かち)新宿とし、本来の北・南品川宿を「本宿」と呼ぶようになった。
町並みは高輪町境から大井村境までほぼ2キロ。天保14年(1843年)にはおよそ7000人が住んでいた。商人では食売旅籠屋がもっとも多く92軒、水茶屋64軒、古着屋・古道具屋がおなじく64軒、荒物屋59軒、煮売屋44軒、質屋40軒、酒屋32軒、。。。と続く。職人は大工が46人、左官14人、髪結い12人、桶屋10人。。。、と。なんとなく往時の風景が目に浮かぶよう。

品川神社
あ とは大井町駅に引き返す。第一京浜を南
に下る。品川神社。北品川宿と歩行新宿の鎮守。鎌倉時代、源頼朝が安房の洲崎大明神を勧請。徳川幕府からの庇護も篤く、南品川・荏原神社(貴布禰神社:きふね)とあわせて5石の朱印を受けている。結構なつくりの神社。小高い台地に立ち品川宿、というか往時の品川湊を見守っていたのであろうか。安房の洲崎神社って千葉県館山にある古社。石橋山の合戦に破れ安房に逃れた頼朝が勝利を祈願し参詣した神社。頼朝の妻政子の安産祈願も。そこからのつながりなの、だろうか。また、太田道潅も、安房の洲崎神社の分霊を勧請し神田明神を建てた、って説もある。真偽の程定かならねども、 由緒ある神社であった、ような。


ゼームス坂
目黒川を渡り第一京浜を西に折れゼームス坂に。坂の名前はJ.M.ゼームス氏に由来。 幕末にジャー
ディン・マディソン商会の社員として来日。明治には海軍省に入り測量調査や航海術の指導をおこなった人物。ジャーディン・マディソン商会って、幕末によく顔を出す。イギリスの専門商社。

高村智恵子記念詩碑
坂の途中に高村智恵子記念詩碑。『智恵子抄』の高村光太郎の妻・
智恵子の入院した病院があった。ゆったりとした坂をのぼり、駅前商店街を歩きJR大井駅に。本日の予定終了。次回は立会川、そして品川用水を巡ろう、と思う。


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