木曜日, 8月 03, 2006

豊島区散歩 そのⅡ;矢戸川・境川・谷田川・藍染川跡を下る

巣鴨の染井霊園から千駄木・谷中をへて台東区・不忍池に

先回歩いた谷端川(千川・小石川)は、文京区に入ると白山台地と小石川台地に間を流れ、白山台地が切れたあたりでは本郷台地と小石川台地の間を流れていた。文京区を流れる川筋としては、そのほかに目白・関口台地と小日向・小石川台地の南を流れる「神田川」、目白・関口台地と小日向・小石川台地の間を流れ、その後小日向・小石川台地の南を下る「弦巻川」「東青柳下水」、白山台地と本郷台地の間を下る「東大下水」、そして本郷台地の東、赤羽から上野に続く崖線台地との間を流れる「藍染川」がある。この藍染川、前々から気になっていた。名前に惹かれるのもさることながら、この流れって往古の石神井川の流路であった、ということである、から。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
現在の石神井川は、王子から東に流れ、隅田に注いでいる。が、昔は王子のあたりから崖線台地と本郷台地に間を南に下り、不忍池に注いでいた、と。流路が変わった理由は定かではない。が、有力な説はいわゆる「有楽町海進期」における「河川争奪」説。今から6000年前、江戸の地は、現在よりも海面が3mほど上昇していた。これを「有楽町海進期」と呼ぶのだか、この時期に海進によって台地の崖ぎわが急速に後退、簡単に言えば「薄く」なった。ために、石神井川が崖端侵食、つまりは「崖が裂け」、それまで南に下っていた石神井川の流れが、崖の割れ目から東に流れることになった。そして、その川筋が南に流れていた水を「横取り」してしまった。それが「河川争奪」。で、横取りされた川筋であるが、石神井川からの流れは途絶えた。が、それにもかかわらす、いくつかの湧水からの水などを集め、往古の石神井川の川筋に沿って流れていた。それが、源流点では谷戸川とか境川、途中で谷田川、そして不忍池に注ぐあたりでは藍染川と呼ばれた川筋ではなかろう、か。自分なりの勝手解釈ではあるが、結構納得。さてさて、藍染川散歩をはじめることにする。


本日のルート;染井霊園>本妙寺>慈眼寺>染井銀座商店街>妙義神社>染井稲荷>勝林寺>谷田川通り>道潅山通り>よみせ通り>夕焼けだんだん>さんさき坂>藍染川>谷中>池之端>不忍池

染井霊園
藍染川の源流点は「染井霊園」と、その北、現在の中央卸売市場豊島市場との間にあった「長池」と言われる。都営三田線・巣鴨駅で下車。北西に走る中山道の東側に出る。西側は巣鴨地蔵通り。とげ抜き地蔵で知られる高岩寺におまいりしたのは15,6年も前。二人目のこどもが生まれるころ。ちょっと寄ってみようか、などとも思いながらも、結局のところ源流点へ、と気持ちが急ぐ。
中山道をそれ霊園に沿って歩く。中央卸売市場豊島市場との間の道に。豊島市場って、もとは文京区の天栄寺ではじまった駒込青果市場。昭和12年にこの地に移る。寛政12年(1798年)設置された巣鴨御薬園跡でもある。渋江長伯が文化14年(1817年)日本ではじめて綿羊を飼育したところでもあり、綿羊屋敷と呼ばれてもいた、とか。

本妙寺
染井霊園に沿って道を進む。昔はこのあたりに池があったのだろう。豊島市場が切れるあたりから道筋は急に狭くなる。人ひとりがすれ違うことができるかどうか、といった細い道。道というか川筋を歩く前に、近くのお寺にちょっと訪れる。染井霊園に隣接し「本妙寺」。
明治44年、本郷より移転。このお寺、あの明暦3年(1657年)の振袖火事の火元。その供養等があった。北辰一刀流の開祖・千葉周作や江戸町奉行・遠山景元のお墓がある。で、この振袖火事、明暦の大火とも呼ばれ、江戸の街の半分以上を焼きつきし、3万人とも10万人以上がなくなった、ともいわれる。途中経過はあえて無視して結果を言えば、寺に供養するために火中に投じた振袖が、おりしもの強風にあおられ、本堂に舞い上がり大火事となった、とか。
この説に異を唱える人もいる。どこで読んだか定かに覚えてはいないのだけれども、火元になった本妙寺が厳罰に処せられることなく、その後も続いた、というのがおかしい。本当は当時の本妙寺の裏手にあった老中・阿部忠秋邸からの失火との説、である。老中の家からの失火では洒落にならない、ということで、お隣の本妙寺に「泣いてもらった」、との説。阿部家から本妙寺に供養代が払われている、それも大正時代・関東大震災の後まで。明暦の大火の犠牲者の供養のために回向院があるにもかかわらず、である。そこまでするのは、大きな「恩義」がなけれならないだろう、という説。真偽の程定かならず。

慈眼寺
本妙寺の隣に慈眼寺。深川にあったのだが、明治になって谷中の妙伝寺と一緒になりこの地に移る。司馬江漢、芥川龍之介、谷崎潤一郎などが眠っている。お寺と染井霊園の間の細道を北に進む。慈眼寺を越え少し進むと道筋は少し広くなる。染井霊園から離れ北に。豊島区と北区の境の道を北東に進む。道はすぐに二股に分かれる。南手の狭い道を道なりに進む。「染井銀座商店街」の入口に。

染井銀座商店街
染井銀座商店街 はうねっている。いかにも川筋跡って雰囲気。染井銀座商店街はそのまま「霜降橋商店街」に続く。本来の川筋は霜降橋商店街の入口あたりから、北にそれすぐ横を走る、ちょっと広めの道路に沿って流れていた、よう。

ともあれ、いかにも下町の、って感じの商店街を進む。本郷通りを横切るところには霜降橋がかかっていた、と。現在は交差点にその名前が残る。

妙義神社

そのまま先にすすむか、引き返し染井霊園を歩くか、しばし迷う。が、霊園に引き返すことに。霜降橋交差点を駒込駅方面に少し下る。女子栄養大学のあたりで本郷通りをはなれ、西に向かう。女子栄養大学を過ぎたあたりを南に進むと妙義神社。文明3年(1471年)、足利成氏との戦いに望んだ太田道潅が戦勝祈願をしたところ、とか。足利成氏のメモ;五代目鎌倉公方。が、管領上杉氏と反目。鎌倉から逃れ古河に本拠を移す。初代古河公方。上杉氏や堀越公方と争う。1482年に和解。その後、上杉氏の内紛に際しては、当初扇谷上杉、後に山内上杉の支援など、複雑な動きを繰り返した人物。

染井稲荷
駒込小学校の南を歩き、西福寺、そして隣に染井稲荷に。西福寺には植木屋伊藤伊兵衛の墓。このあたりは植木で有名であったよう。染井稲荷の別当寺。染井稲荷は少々つつましやかなお宮さん。で、川筋を歩いていたときはあまり感じなかったのだが、このあたりは結構な高台。つまりは染井霊園って台地上にある、ってこと、か。水源の長池は谷からの湧水、であったのかも。実際、染井霊園内の長池跡(矢戸川源流)の案内にもそのように書いてあった。
長池跡のメモ;「長池はかつての谷戸川の水源にて、古地図(安政3年、1856年の駒込村町一円之図)によれば巣鴨の御薬園と藤堂家抱え屋敷にまたがる広大なもので長さは八十八間(約158m)幅は十八間(約32.4m)もあったという。この池は現存していないが、この案内図板下のくぼ地の一帯がその跡地(約半分で残り半分は道路部分)と思われる。かつては清らかな湧水は池を満たし、清流となって染井霊園沿いに流れていた。

池から西ヶ原あたりまで谷戸川(やとがわ)、駒込の境あたりで境川(さかいがわ)、北区に入り田端付近で谷田川(やたがわ)、さらに下流の台東区根津付近からは藍染川(あいぞめがわ)と呼ばれて不忍池に流れ込んでいた。(全長約5.2km)明治末期には周辺の開発等もあり、湧水も減少して池も小さくなり大正に入って埋め立てられた。ここに、在りし日の湧水清らかな「長池」とその清流「谷戸川」をしのび記念の一文を残すものである。平成十四年三月   ソメイヨシノの咲き乱れる佳日に  東京都染井霊園)」と。

勝林寺

台地上の十二地蔵、植木屋伊藤伊兵衛の屋敷跡であった専修院から霊園の東端を下る。先ほど歩いた慈眼寺脇の川筋に戻る。ふたたび染井銀座商店街方面に。途中に勝林寺。もとは神田に。その後本郷。この地に移ったのは昭和15年。老中田沼意次の墓がある。ほんとうに、つつましやかなるお寺さま。ちょっとした民家、と見誤る。道なりに進み本郷通り・霜降橋交差点に戻り再び川筋を辿ることに。

谷田川通り
本郷通りを横切り、豊島区と北区の区境を南東に進む。道路が分岐。川は北側の道筋を流れていたよう。その先で山手線のガードをくぐる。そこには「中里用水架道橋」の表示があった。中里1丁目を越え、田端4丁目、田端3丁目に。先日の散歩で歩いた大龍寺、八幡神社から下る八幡通りと交差する。田端銀座前。このあたりから先の道筋は「谷田川通り」と呼ばれる。途中「谷田川通り」の案内;「矢田川通りは矢田川が暗渠となってできた通り。この川に沿って萩原朔太郎、画家・小杉放庵、歌人・林古渓、美術史家・岡倉天心などが住んでいた。谷田川交差点のところに、谷田橋があり、それは現在田端八幡神社に移されている」と。これって先日の北区・田端地区散歩のとき訪れた八幡さま。谷田川通りの一筋北、赤紙仁王通りに沿ってあった。「赤札仁王」さま、いい表情の仏様でありました、との思いをしばし。

道潅山通り

先に進むと道路脇に水稲荷。川筋があったエビデンスでもあろうか。不忍通りの動坂交差点に下る道筋を越え、田端1丁目を進む。この先で文京区と荒川区の境が弧を描く。荒川区西日暮里4丁目28番の一角あたりだが、例によって川筋が区の境となっていた、のであろう。文京区は千駄木4丁目。
弧を描いた細い道筋も数十メートル程進むと少し広くなる。今度は、文京区と台東区の区境となっている。台東区は谷中、文京区は千駄木。谷田川と道潅山通りが交差するあたりは、荒川区・西日暮里と、文京区・千駄木、そして台東区・谷中と3つの区が川筋を境に隣り合っている。
千駄木の由来は、太田道潅が栴檀(せんだん)の木を植えたところ、と、上野寛永寺に千駄の、というと馬千頭分の護摩の香木を収めていた、ということが相まって名づけられた、とか。ちなみに、「栴檀は双葉よりも芳し(かんばし)」の栴檀はこの木ではなく、白檀のことを指す。白檀は発芽したころから芳しい香を放つ、ということから、出来のいい人物は小さいときから他とは違ったものをもっている、という意味になった、と。谷中は文字通り「谷の中」。根津谷というか藍染川の谷地にあるところ、ってこと。

よみせ通り
道潅山通りを横断。川筋はやや南に向きを変え、ゆるやかに「蛇行」する「よみせ通り」に入る。少し進み道筋が「逆クの字形」に折れるあたりで「谷中銀座」が「よみせ通り」にT字形で交差する。「よみせ通り」の名前の由来は、文字通り、夜店(露天)、から。川筋を暗渠にしたこの通り沿いに、多くの夜店(露天)が並んでいたためである。


夕焼けだんだん
谷中銀座を歩く。ここはいつ来ても、多くの人で賑わている。いつ来ても、とは言っても、今回で2回目。谷中銀座って、散歩のはじめたころ、田端から日暮里までの崖線台地上を歩き、道なりに谷地、つまりは、今回の藍染川の谷に下りてきたとき偶然通ったところ、である。「夕焼けだんだん」って、いかにも郷愁をそそる名前の石段を下り、屋台と見まごう商店街を歩いた記録が少々蘇る。

谷中銀座を突き切ったところに「 夕焼けだんだん」。


40段から50段の石段。ここからの見る夕焼けがいかにも美しい、ということで、作家の森まゆみさんが命名した、とか。森さんは、この地域で生まれ、地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊し、編集人となる。先日森さんの『彰義隊遺聞;新潮文庫』を読み終えたばかり。

さんさき坂
先に進む。「さんさき坂」の道筋と交差。「さんさき」って、「三崎」と書く。このあたりには三崎村という地名もあったらしい。駒込、田端、谷中の高台が藍染川の谷に突き出た姿が、三つの岬のように見えたのだろう、か。「さんさき坂」の道と「不忍通り」との交差点は団子坂交差点となる。ということは、団子坂は不忍通りを隔てて西の本郷台地の坂道、か。団子坂って東から下る坂道、と思い込んでいた。つまりは、「さんさき坂」のことはまったく知らなかった、ということ。ちなみに団子坂の由来は、坂の途中に団子屋があったとか、急な坂ゆえ、団子のことくころころ転げたから、とか、例によって諸説あり。

藍染川
藍染川が「さんさき坂」と交差するあたりに「藍染川と枇杷(びわ)橋(藍染橋)跡」の説明版。メモする;「文京区と台東の区境の道路はうねうねと蛇行している。この道は現在暗渠となっている藍染川の流路である。『新編武蔵風土記』によれば、水源は染井の内長池で、ここから西ヶ原へ、さらに駒込村から根津谷へ入る。川は水はけが悪く、よく氾濫したので大正十年から暗渠工事が始められ、現在流路の多くは台東区との区境となっている」、と。谷戸川、谷田川とよばれていたこの川筋は、このあたりになると、藍染川と呼ばれるようになっている。

谷中
「さんさき坂」を越えた川筋は、小さく蛇行を繰り返しながら南に下る。「さんさき坂」の先から、蛇行しながら南に向かう細い道筋がそれであろう。不忍通りが千駄木2丁目交差点でクの字形に曲がるあたり、一筋東の川筋はこのあたりで少し広くなり、ほぼ直線で南東に下る。道路にそって「藍染」の名前が目立つようになる。藍染保育園、藍染大通り、といった按配。「藍染屋」、つまりは染物屋さんも道筋に見かけた。このあたりの旧町名は「藍染町」。藍染川に由来することは、言うまでもない。
ちなみにこのあたり、台東区は谷中、文京区は根津。根津の地名の由来、もよくわからない。山や岡の付け「根」にある津=湊、という説。川もあるし、もっと昔は海がこのあたりまで入りこんでいただろうから、どこかに津=湊があったのだろう。また、根津神社の天井や絵馬に「ねずみ」が描かれているが、ねずみ、って根津神社にまつられている大国主命の使い、とも言われるし、根津って地名が使われはじめたのも根津神社の門前町ができた頃から、であるとすれば、ねずみ>ネズ、って説もある。よくわからない。

池之端
藍染川は「言問通り」にあたるところで、西に曲がり、「不忍通り」の手前で再び南下。東京弥生会館、上野グリーンクラブの西に沿って進み、「不忍通り」歩道に当たる。このあたりは池之端。文字通り、池の西の端にある、ことに由来する。昔はこのあたり、「上野花園町」と呼ばれた。藍染川の豊かな水を利用して上野寛永寺が花畑をここにつくり、上野御花屋敷と称していた、と。

不忍池
藍染川は「言問通り」に沿って進む。昔の不忍池派現在の池より一回り大きかった、と。藍染川はこの道筋を進み、不忍池に注いでいたのだろう。不忍池が池になったのは室町時代と言われている。太古、上野台地と本郷台地に入り込んでいた入り江の名残が時代とともに土砂が堆積し、潟湖となり、沼地となり、そして池となった、ということだろう。
もちろんのこと、もとは石神井川が注いでいた。そして、王子付近において河川争奪の結果石神井川の瀬替がおこなわれた後は、藍染川がこの不忍池に注いでいた、と。で、どこかでメモしたと思うのだが、上野の台地を「忍ケ丘」、と言う。で、なぜ「不忍池」なのか?いくつかの説がある。

が、最も納得感のあるのは、忍ケ丘から見下ろすと、この池が、くっきり、と、忍ぶことなく、周りと際立って存在していた、という説。『江戸名所記』によれば;「萱、すすきが生い茂り、道のさかいも分けざるに、池ばかりはあらわれみえたれば、忍ぶこともあたわずの意とする」とある。
藍染川は不忍池に注いで終わる。が、この水系はもう少々先に続く。不忍池からは先日散歩した三味線掘に注ぐ「忍川」に。三味線掘からは「鳥越川」となり、隅田川に注ぐ。歩けば歩くほど、「襷」が繋がってくる。

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