木曜日, 3月 08, 2007

伊豆 天城峠越え

伊豆の国散歩の二日目。天城峠を越え、河津七滝まで歩く。とはいうものの、どこから歩き始めるか、あれこれチェック。結局のところ、旧天城トンネルの2,3キロ程度手前、旧道が国道414号線から分岐する「水生地下」あたりからスタートすることにした。大雑把に10キロ強といったところだろう。予約してある電車・踊り子号の出発時間もさることながら、車の通行量の多い国道を峠に向かって歩くのって、今ひとつ興が乗らない。それが、水生地下からスタートと、決めた最大の理由。(木曜日, 3月 08, 2007のブログを修正)
本日のルート;湯ヶ島温泉>バスで「浄蓮の滝」>浄蓮の滝>バスで水生地下>下田街道>旧天城トンネル>河津七滝(釜滝・エビ滝・蛇滝・初景滝・カニ滝・出会滝・大滝)>大滝温泉>バスで河津駅>河津川沿い・河津桜>姫宮神社>伊豆急行線・河津駅>帰路


天城湯ヶ島

宿で朝食をとり出発。宿をとった天城湯ヶ島って、作家井上靖の育った町。自伝的小説『しろばんば』を読んでみたくなった。とはいうものの、文庫本でも結構のボリュームがあったような記憶が。また、『猟銃』もこの地が舞台、とか。そのほか湯ヶ島、といえば若山牧水の『山桜の歌』が有名。
「三月末より四月初めにかけ天城山の北麓なる湯ヶ島温泉に遊ぶ、附近の溪より山に山櫻甚だ多し、日毎に詠みいでたるを此處にまとめつ」といった詞書ではじまる23首の歌。牧水の代表作でもある。大正11年のこと。23首の歌をメモしておく;

うすべにに葉はいちはやく萠えいでて咲かむとすなり山櫻花
うらうらと照れる光にけぶりあひて咲きしづもれる山ざくら花
花も葉も光りしめらひわれの上に笑みかたむける山ざくら花
かき坐る道ばたの芝は枯れたれや坐りて仰ぐ山ざくら花
おほみ空光りけぶらひ降る雨のかそけき雨ぞ山ざくらの花に
瀬々走るやまめうぐひのうろくづの美しき頃の山ざくら花
山ざくら散りしくところ真白くぞ小石かたまれる岩のくぼみに
つめたきは山ざくらの性(さが)にあるやらむながめつめたき山ざくら花
岩かげに立ちてわが釣る淵のうへに櫻ひまなく散りてをるなり
朝づく日うるほひ照れる木(こ)がくれに水漬(みづ)けるごとき山ざくら花
峰かけてきほひ茂れる杉山のふもとの原の山ざくら花
吊橋のゆるるちさきを渡りつつおぼつかなくも見し山ざくら
椎の木の木(こ)むらに風の吹きこもりひと本咲ける山ざくら花
椎の木のしげみが下のそば道に散りこぼれたる山ざくら花
とほ山の峰越(をごし)の雲のかがやくや峰のこなたの山ざくら花
ひともとや春の日かげをふくみもちて野づらに咲ける山ざくら花
刈りならす枯萱山の山はらに咲きかがよへる山ざくら花
萱山にとびとびに咲ける山ざくら若木にしあれやその葉かがやく
日は雲にかげを浮かせつ山なみの曇れる峰の山ざくら花
つばくらめひるがへりとぶ溪あひの山ざくらの花は褪(あ)せにけるかも
今朝の晴青あらしめきて溪間より吹きあぐる風に櫻散るなり
散りのこる山ざくらの花葉がくれにかそけき雪と見えてさびしき
山ざくら散りのこりゐてうす色にくれなゐふふむ葉のいろぞよき

牧水の紀行文『追憶と眼前の風景』もこのときの作品、とか。『みなかみ紀行(中公文庫)』におさめられている、ようだ。どこかで手にはいるものであれば、詠んでみたい。

浄蓮の滝
バスに乗る。「水生地下」に行く前にちょっと寄り道。天城、といえば、「浄蓮の滝」でしょう、と、言うことである、らしい。同行者の中で、私だけ知らなかったのだが、この滝、石川さゆりの歌う「天城越え」で有名、とか。レコード大賞を受賞した大ヒット曲、と;

浄蓮の滝に下りる。高さ25m、幅7m、滝壷の深さ15m。天城山中に源を発する本谷川にかかる滝。狩野川の上流部にあたる。名前の由来は、近くに浄蓮寺があった、から。今は,無い。滝の近辺にはワサビ田が作られている。狩野川、といえば、というくらいワサビが有名。
ワサビ栽培発祥の地は静岡・安倍川沿いの山間の集落・有東木(ウトウギ)、とか。江戸期・慶長年間、有東木源流の山地に自生していたものを持ち帰った有東木の村人が、集落の遊水地で栽培したのがはじまり、と。慶長12年(1607年)駿府城の家康が食し、その味を愛で名が高まる。その故もあって、集落より持 ち出し不可、ということであった。が、この地に椎茸栽培の技術指導に赴いた天城の住人が故郷に持ち帰った、と。椎茸栽培の指導のお礼に、持ち出し不可のワサビの苗を、荷物の中にそっと忍ばせてくれた、ということらしい。

水生地下(すいちょうちした)

滝壷から戻り、バスを待つ。あまりバスの回数もないのでしばらく待つことに。乗ってわかったことなのだが、このあたりのバスは一部区間を除いて乗り降り自由。そんなことがわかっておれば、適当に歩いておけば、とも思ったがあとの祭り。ともあれ、バスに乗り、「水生地下(すいちょうちした)」で下車。「すいせい・ちか」ってなんだろう、と思っていたのだが、「水生地」の下、ってこと、であった。
バスを降り、旧道を旧天城トンネルに向かう。舗装はされていない。が、きれいに整地されている。整地されているのはいいのだが、そのためもあり車も入ってくる。土埃が少々興ざめ。少し歩くと川端康成の文学碑。川端康成のレリーフと直筆の『伊豆の踊子』の書き出しが彫られている;「道はつづら折になって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追ってきた」、と。
10分程度歩くと水生地。地名の由来は、水が生まれる地、ということだろう。この近辺にもワサビ田跡、といったものが残っているし、なにより、この沢、本谷川だろう、と思うのだが、この沢の上流には「水源の森」がある。天城山のほぼ中央、天然のブナ林が残る自然豊か な森がある。北斜面は狩野川源流に、南斜面は河津川の源流となっている。特に良質の水が得られる、ようだ。水生地(水生地)という地名は、豊かな森ではぐくまれた良質の水がこんこんと湧くところ、ということであろう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



松本清張の『天城越え』の舞台・氷室園地
水生地から旧道を少し外れたところに氷室園地。大正から昭和にかけ、厳しい寒さを活用し天然の氷をつくった人工の池とその保存庫。この氷室って、松本清張の『天城越え』の舞台でもある。丁度いい機会でもあるので、読み直した。新潮文庫『黒い画集』に収められた短編。文庫サイズで42ページ程度。犯人である少年が一夜を明かし、それゆえに犯行におよぶことになるのが、ここにある氷室。
あらすじはさて置いて、読後、なんとなく、しっくり、こない。違和感が残る。多分、一人称の視点で、しかも、それが犯人の少年の回想、といったもの、であり、最後になって、というか、途中から想像はできるのだが、結局「僕が犯人でした」、って展開が、なんとなく??、と感じるのだろう。
一人称が探偵であり、犯人探し、であれば違和感はないのだろうが、一人称で語る書き手が犯人であるなら、最初から自分が犯人とわかってるわけで、いかにも事件に無関係といった風情で話が進み、最後に老刑事によって、「あんたが犯人だってことはわかってるよ」と暗示される、ってことが、それってないよな、と感じた次第。小説の作法はよくわからないのだけれども、こういった手法って有り?といったのが読後の正直な感想でありまし、た。

旧天城トンネル
旧道に戻りトンネルに進む。旧天城トンネル。1904年(明治37年)完成、全長450m・幅4.1m・高さ3.15m程度。日本でもっとも長い石造りのトンネル。2001年(平成13)4月20日、国の重要文化財に指定されている。1970年(昭和45年)に国道414号線の新天城トンネルが開通するまでは、天城越えの主要交通路、であった。
この国道414号って昔の下田街道。東海道、三島宿の三島大社を基点に、韮山・大仁・湯ヶ島を経て天城峠に。峠を越えると河津町梨本まで下り、そこから小鍋峠を越えて下田に至る。
天城越えの道はトンネルができるまでは、当然のこと急峻な峠越え。峠道も時代とともに変遷し, 新山峠, 古峠, 中間業, 二本杉峠,天城峠と変わった、よう。 このうち, 二本杉峠は幕末アメリカ領事館の初代総領事ハリスが通商条約締結のため,下田より江戸に上ったときに通った峠である。
ハリス一行の日記には, 「路は狭く,鋭角で馬の蹄を置く場所もなく. ようやく峠を越えて湯ヶ島に着く, 今日の路は道路ではなく通路とも言うべきものだ.」と記されている。結構な難所であった、よう。このトンネルの開通により、陸の孤島・南伊豆と北伊豆が結ばれることになった、とか。
旧天城トンネルを進む。トンネル内部はカンテラっぽい照明だけで、結構暗い。車も対向はできそうもない。旧天城トンネルは、川端康成著『伊豆の踊子』で有名。作品中で雨宿りをした茶屋はこの近くにあった。
「そのうち大粒の雨が私を打ちはじめた。ようやく峠の北口の茶屋にたどり着いてほっとすると同時に、私はその入り口で立ちすくんでしまった。あまりに期待が見事に的中したからである。そこに旅人の一行が休んでいたのだ。・・・私はそれまでにこの踊り子たちを二度見ているのだった。最初は私が湯ヶ島へ来ると途中だった。そのときは若い女が三人だったが、踊り子は太鼓を下げていた。私は振り返り振り返り眺めて、旅情が自分の身に付いたと思った。・・・暗いトンネルに入ると冷たいしずくがぽたぽた落ちていた。南伊豆の出口が前方に小さく明るんでいた。トンネルの出口から白塗りの柵に片側を縫われた峠道がいなずまのように流れていた。この模型のような展望のすそのほうに芸人たちの姿が見えた。六町と行かないうちに私は彼らの一行に追いついた・・・(『伊豆の踊子;川端康成』)」。
この散歩に出る前の日のことである。娘に、「明日、伊豆の天城峠、伊豆の踊子の道を歩く」、と話した。と、丁度、学校の宿題で、川端康成の『伊豆の踊子』のレポートを書く、とか。レポート提出の前日、あれこれ質問がくるであろうからと、丁度いい機会でもあるので、本棚にあった『川端康成―その美と愛と死;長谷川泉』を読み返した。

伊豆の踊り子

抜粋する;『伊豆の踊子』は、川端康成が伊藤初代との恋愛に敗れた傷心のうち、湯ヶ島に滞在して書かれた『湯ヶ島での思いで』がもとになる。この未定稿から『伊豆の踊り子』と『少年』が生まれた。大雑把に言って、『湯ヶ島での思いで』の前半が『伊豆の踊子』、後半が『少年』となる。『伊豆の踊子』は伊藤初代との恋愛に敗れた「傷心」を踊り子・薫によって純一無垢に洗い流し、『少年』はモデル小笠原義人との同姓愛の思い出を、清野少年という存在をとおして康成の心を浄化し純一にする、と。
『伊豆の踊子』の素材は伊豆の旅情のゆきずりの感傷で、ひとときの邂逅である、という。天城峠越えから、湯ケ野温泉をへて下田にいたる一高生の一人旅は、踊り子薫とその兄栄吉、栄吉の妻千代子、千代子のおふく、雇の百合子という旅芸人一行の誘いによって、旅情がなまめき潤うことになる。主人公にとっての救いは、孤児根性のひがみと、かたくなな歪みが、素朴で人間味溢れた一行によって浄化されたことにある。一行の中でも、不思議な色気を持ちながら、まだ十四歳の少女である踊り子の薫の対応が、とくに主人公の心を洗った。踊り子が一高生に言った「いい人」は「明かり」となって高校生を浄化した、とある。
川端康成にとって「いい子」は決め言葉、であった、よう。そのことは、孤児根性、と切っても切れない関係をもっている、とか。孤児根性は、両親をはじめ、肉親の死屍累々の中に投げ出された康成の感慨が根底にある。『伊豆の踊子』の中に;二十歳の私は自分の性質が孤児根性で歪んでいると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂鬱に耐え切れないで伊豆の旅に出てきているのだ」と記されている。踊り子の薫たちは、一高生の川端康成、孤児根性にいじけた康成を「いい人」とすなおに描くことによって、かたくなに歪んだ心を純一無垢に洗い流す、と書かれてあった。(『川端康成―その美と愛と死;長谷川泉』より)
後日談。伊豆の旅から戻り、天城越えの実体験も交えて、娘に、さて、『伊豆の踊子』についてのレポートはどうなっている?などと聞いたところ、「お父さん、レポートは『雪国』だよ」、だって。がっくり。

八丁池への分岐

旧天城トンネルを過ぎると緩やかな下り。30分程度で寒天橋に。八丁池への道が分岐する。八丁池は標高1200m、天城原生林の中に佇む火口湖。「伊豆の瞳」とも。1時間ちょっとで行けたよう。後の祭りではあるが、歩いてみたいかった。

二階滝(にかいだる)
寒天橋あたりからは舗装。道なりに下ると寒天橋のそばに二階滝(にかいだる)。落差20m。河津川一番目の滝。八丁池からの水が二段にわけで落ちている。二階、という名前の由来でもある。滝を「たる」と呼ぶのは、「垂水」から、と。二階滝園地を過ぎさらに下る。新道への分岐案内。踊子歩道から離れ、杉などの茂る細道に。

平滑の滝
国道を横切る。小さな橋を二つ渡り、わさび田にぶつかる。コースは鉄橋を渡る。「平滑の滝」はコースからちょっとそれる。滝は幅20m・高さ4mの一枚岩。

宗太郎園地

橋を渡り、さらに下ると宗太郎園地。この先から宗太郎杉並木の林道がしばらくつづく。宗太郎園地には、太い幹の杉が立ち並ぶ。江戸時代に幕府の直轄地となっていたこの地の杉を伐採する際に、伐採の御礼にと植えた杉の苗が育ってできた森。「園地」とはいうものの、遊園地があるわけではない。美しい杉林と休憩用の東屋と水汲み場があるだけである。

河津七滝

しばし歩き河津七滝の入口に。河津七滝とは、河津川にかかる7つの滝(釜滝、エビ滝、蛇滝、初景滝、カニ滝、出合滝、大滝)の総称。河津川は、天城山を源とする河津川と天城峠の南斜面から流れる荻ノ入川が出合滝で合流し、河津平野を通り相模灘に注ぐ長さ 9.5キロの二級河川。
七滝散歩に向かう。滝方面への分岐を右に。石段は260段。まさか、また、戻るわけじゃないよね、などと少々の怖れ。小さな橋を渡ると河津七滝の第一「釜滝(かまだる)」。高さ約22m、幅約2mで、河津七滝中、大滝に次いで、2番目に高い滝。滝の周りは岩・玄武岩が柱状に規則正しく割れている。「柱状節理」。直ぐ下に「エビ滝」「蛇滝」と続く。川に沿って道があり、来た道を戻ることがない、とわかって少々安堵。蛇滝の先、階段を下りると「初景滝」。このあたりから舗装された道に。「カニ滝」。「出会滝」。ふたつの渓流が出会うこと、から。最後に「大滝」。七滝中最大の大滝。幅 7m、高さ30m。周囲には釜滝と同じく柱状節理が見える。


七滝のメモはしごく簡単になった。生来の情感の乏しさゆえか、はたまた、田舎の出身であり、美しい自然があたりまえ、故郷の自然が一番と思っている我が身には、どうしても、自然描写に気合が入らない。そのかわり、というわけもないのだが、河津の七滝にまつわる伝説をメモしておく。
その昔、この地、万三郎岳・八丁池のあたりに天狗が棲んでいた。八丁池で洗濯する天狗の美しい妻に、七つの頭をもつ大蛇が懸想。天狗は、大蛇を退治すべく策をめぐらす。八丁池のあたりに強い酒をなみなみと満たした七つの樽を置く。女性を求めてき た大蛇、酒の魅力に負け泥酔。頃もよし、と蛇を切り刻む。で、このとき使った七つのタルは河津川に捨てられ、流れ流れてそれぞれ谷に引っかかり、七滝の滝壷になった、とか。

河津駅
河津七滝散歩を終え、河津七滝バス停から河津駅までバスに乗る。30分弱。少し時間があったので、早咲き桜で名高い、河津桜が並ぶ河津川沿いを歩く。桜祭りが近々はじまるらしく、屋台の準備が大規模に行われていた。川堤を少しのぼり、姫宮神社で大きな楠を堪能。踊子号にて一路家路を急ぐ。

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