日曜日, 3月 18, 2007

千葉 市川散歩 ; 真間に遊ぶ

松戸から市川へ歩く 松戸から市川に向かって歩いた。もともとは、後北条氏と里見氏が戦った国府台合戦の跡である「国府台(こうのだい)」、それと、万葉の時代から知られる「真間」を歩こうと思った、から。ともに市川市にある。では、なぜ松戸から、と言うと、まず市川の歴史博物館に行き、あれこれ資料を手に入れようと考えた、ため。博物館は、どちらかといえば、松戸からのほうが近そうに思えた。
そもそも、何故に国府台であり、真間であるか、ということだが、いつかどこかで買い求めた『江戸近郊ウォーク;小学館』がきっかけ。江戸期、清水徳川家の御広敷用人・村尾嘉陵が描いた『江戸近郊道しるべ』を現代語訳したこの本の中に、「下総国府台 真間の道芝」とか、「真間の道芝 中山国台も」などと「真間」とか「国府台」という記述があった。
国府台は、小岩あたりを散歩したとき国府台合戦のことを知り、そのうち歩いてみたいと思ってはいた。が、「真間」はこの本ではじめて知った。万葉集にも取り上げられた昔からの古い地名である、という。「まま」って音の響きにも惹かれていた。「まま」ってアイヌ語の「急な崖」の意味、とか。ちなみに、御広敷用人って、大奥の管理運営責任者としても使われるが、この場合は清水家の当主や夫人の暮らし向き一切を取り仕切る責任者のことである。さて、散歩をはじめる。


本日のルート:松戸駅>相模台>戸定が丘歴史公園・戸定邸>水戸街道>市川市歴史博物館?・堀之内貝塚>国分寺>真間の井>手児奈霊堂>真間の継ぎ橋>真間山弘法寺>下総総社跡>江戸川堤


松戸駅
常磐線・松戸駅、というか、地下鉄千代田線・松戸駅で下車。予想以上に大きな都市である。人口は48万人弱。昭和18年の人口は7千人強というから、首都圏のベッドタウンとして発展を続けているのであろう。 この地は平安の昔から交通の要衝。下総の国府(市川市国府台)から常陸の国府(茨城県石岡市)、武蔵の国府(都下府中市)への分岐点であった。
地名の由来は、例によって諸説あり、太日川(現在の江戸川)の津・渡しであったため、「馬津(うまつ)」とか、「馬津郷(うまつさと)」と呼ばれていたのが、「まつさと」となり、「まつど」になった、という説。なぜ「馬」か、というと、この松戸、というか下総台地一帯には小金牧といった放牧地があり、馬の飼育が盛んであった、から。そのこととも関連するのだが、「馬の里」から「馬里(うまさと)」となり、「まさと」、そして「まつど」となった、との説もある。更には、平安時代の「更級日記」に書かれた「松里」が地名の由来とも。こうなったらわけがわからない。

相模台
駅の東に台地が迫る。標高20m前後だろう。下総台地の西端である。開析された谷が樹枝状に入り組み、複雑な地形をつくっている。最初の目的地は市川市の歴史博物館。とりあえず南に下れば、とは思いながらも、途中に見どころはないか、と駅の案内板をチェック。線路に沿って南に下った台地に「戸定邸」がある。水戸藩最後の藩主・徳川昭武の別邸跡。ちょっと寄り道をしようと、南に下り、成行きで台地にとりつく。登りきったところは公園になっているのだが行き止まり。地図をチェック。戸定邸のある戸定台地ではなく、駅の東に迫る相模台であった。
一度台地を下りる。が、どうせのことなら、この台地の地形を楽しんでみようと再び台地に取り付く。台地上の松戸拘置支所の塀間際まで登り道。拘置所は未決囚を勾留・拘禁するところ。未決囚って被疑者・被告人ってことは知っていたが、死刑囚も未決囚。死刑執行までは未決囚扱い、となるようだ。わかったようで、よくわからない。
台地上を歩く。裁判所とか聖徳大学が並ぶ。こういった「公的施設」が集まるところは、昔の軍関係施設のあったところが多い。案の定、この相模台も陸軍工兵学校があった、とか。相模台の由来は、鎌倉時代、北条相模守長時がここ岩瀬坂に城を築いたことによる。
この相模台は第一次国府台合戦の戦場でもある。北条氏綱と里見義堯(よしたか)・足利義明が戦った。足利義明って小弓公方と呼ばれる。古河公方の分家。本家と覇権を争った、と。現在の千葉市中央区の小弓城に居を構えたのが名前の由来。江戸期の高家・喜連川として後の世に続くが、高家として優遇されたのは家康が足利家の「流れ」を重んじた、から。

戸定が丘歴史公園・戸定邸
台地の急坂を下り、南に進む。開析谷といった平地の直ぐ先に台地。この台地・戸定台の北端に「戸定が丘歴史公園・戸定邸」。「戸定」って、お城の外郭・外城の、意味である、とか。
戸定邸への緩い坂をのぼる。戸定が丘歴史公園って、松戸徳川家の敷地を公園として整備したもの。また、戸定邸は徳川昭武が明治に別邸としてつくったもの。大名の下屋敷の建築様式を今に伝える、と。邸内をひとまわりし、松戸市戸定歴史館に。幕末から明治の激動の時代を生きた昭武の事績を展示している。

 徳川昭武のメモ;最後の将軍・徳川慶喜の弟。1864年、12歳で、水戸藩兵300名を率いて京都御所警備に。1867年、将軍の名代でパリ万博に旅立つ。14歳のとき。万博終了後は、フランスに長期留学。次の将軍へと期待をかける慶喜の帝王教育であった、とか。
1868年、幕府崩壊。新政府よりの帰国命令。最後の水戸藩主となる。16歳のときのこと。1883年(明治16年)に隠居。戸定邸建設開始。翌明治17年、完成。明治天皇の傍につかえるため、通常は都内の水戸家本邸に住む。が、公職を離れ、アウトドアライフとか趣味の生活はこの地で楽しむ。多彩な趣味の中でも明治36年からはじめた写真撮影は有名、1500枚にのぼる写真が残る。

水戸街道


戸定邸を離れ、次の目的地、というか当初の最初の目的地・市川市の博物館に向かう。坂道を一度下り、台地の東端に沿って進み水戸街道と交差。再び台地に上ることになる。松戸周辺には中世の城址が多くある。48箇所もあるということから、「いろは城」などと総称される、と。代表的なものは松戸の北、北小金の大谷口歴史公園にある大谷城址であるが、この戸定台も中世の城址、とか。水戸街道との交差点の近くに「陣ヶ前(じんがまえ)」という地名が残る。小弓公方・足利義明の陣構え跡がその名の由来とも、松戸宿最初の旗本領主高木筑後守の陣屋跡がその名の由来、とも。
水戸街道を越え、南に進む。車の往来も多く、宅地が広がる。が、昔は、下総台地って、小金原とか佐倉原と呼ばれるように、湧水・湿地・斜面林など、谷津の豊かな自然が広がっていたのだろう。その台地には松戸の由来でメモしたように、江戸時代には多くの馬が放牧されていた。小金原って、松戸・野田市あたりだろう、か。そこには小金の牧という馬の放牧地があり、1500頭くらいの馬が放し飼いされていた、よう。次の機会に小金の牧の名残を求めて、松戸の北部を歩いてみよう、と思う。

市川市歴史博物館?・堀之内貝塚

「二十世紀が丘」地区に沿って南に進み。北総開発・北国分駅に。このあたりから市川市に入る。西に進み台地を下る。ちょっとした谷地の向こうにこじんまりした台地が残る。この谷地も削り取られたもの、とか。ともあれ、小島のように残った台地のうえに堀之内貝塚や考古博物館、歴史博物館がある。 貝塚は縄文後期・晩期のもの、というから、今から2000年から4000年前のもの。またここらか土器が発見されており、「堀之内土器」として知られる、と。考古博物館は先土器時代から律令時代あたりまで、歴史博物館は中世から現代までの資料が展示されている。考古専門の博物館をつくれる、ってことであるわけで、市川市が考古資料の宝庫って言われるのも、納得。
松戸から下ってきた最大の理由は、この博物館で資料を手に入れるため。『市川散歩』といった小冊子、『いちかわ 時の記録』といったいくつかの資料を買い求める。

国分寺
市川市歴史博物館を離れる。丘を下り、堀之内地区を東に進む。北国府と中国府の台地に挟まれた、ちょっと大きめの谷津といった雰囲気。中国府の舌状台地の東端を上り、国分寺に。ここは下総・国分寺跡。そのちょっと北に国分尼寺跡。現在は公園となっている。
天平13年(741年)、聖武天皇の勅願により全国に「金光明四天王護国之寺」と呼ばれた僧寺と、「法華滅罪之寺」と呼ばれた尼寺のふたつの寺が建立された。『江戸近郊ウォーク』には、「この山全体は千歳の古跡、つまりは下総国分寺跡であろうが、茅葺きの仁王門、本堂、本堂の傍らに堂」、といった国分寺の姿が描かれている。

真間の井

国分寺跡のある台地を下り、細長い谷津を経て国府台の台地の端を進み、「真間の井」に向かって歩く。下総台地の南端が低地に落ち込むところ。往古、このあたりは入り江が迫っていたのであろう。「真間の井」のある亀井院に向う。万葉集に「勝鹿(葛飾)の真間の井見れば立ち平(なら)し、水汲ましけむ手児奈し思ほゆ」と高橋虫麻呂が詠む。現在はちゃんとした井戸となっているそうだが、もとは湧水を水瓶のような受け皿で集めていただけであった、とか。そのためでもあろうか、亀井院は昔、瓶井坊と呼ばれた、とも。
『江戸近郊ウォーク』には、「今の真間の井戸は、世の中にごく普通にある堀井戸である。もとの姿ではない。(祠の方に引き籠もった所に小庵を造り、坪庭めいた所に井戸を堀り、さも意趣を凝らしたかのように井桁を組んで、石などで整えてあるのが、かえって野暮ったく見える)。昔の井戸は山際の、萩、薄のうっそうと生えている中にあった。今ではそこに行く人もいないであろう。その井戸は、山の際の窪んだ所に、山の水が自然に滴たり溜まっているものに、粘土質の土で囲いを造る程度にちょっと人の手を加えて,柄杓で汲みやすいようにしただけのものであった。実に自然のままに見えたものである」とある。あれこれ人の手が加わったことを少々嘆いているのが、実に「良い」。

手児奈霊堂
亀井院のすぐ近くに、手児奈霊堂。手古奈って、『万葉集』に詠われる女性。絶世の美女であった、とか。ために幾多の男性から求婚される。が、誰かひとりを選べば、その他の人を苦しめることになると思い悩み、入水自殺したとされる。万葉集の中で、山部赤人が詠った「吾も見つ 人にも告げむ 葛飾の 真間の手児奈が 奥津城処」が有名。
全文は以下のとおり;「葛飾の 真間の手児名が奥津城(おくつき)を 此処とは聞けど 真木の葉や 茂りたるらむ 松が根や 遠く久しき 言のみも 名のみも吾は 忘らゆましじ吾も見つ 人にも告げむ 葛飾の 真間の手児奈が 奥津城処葛飾の 真間の入江に うち靡(なび)く玉藻刈りけむ手児奈し思ほゆ(ここが葛飾の真間の手墓所だと。が、真木の葉が茂っているからか、長い年月ゆえか、その面影は、今はない。が、手児名ことは忘れることはないだろう。入り江に揺れる玉藻をみると手児名を思い出される。)

手児奈霊堂は、直ぐ北にある弘法寺の上人が手児奈の奥津城(墓)と伝えられるあたりに建立した、とされる。霊堂脇の池は水草が生い茂り、真間の入り江のありし日の姿を今に伝える。『江戸近郊ウォーク』には「畦の細道を蛇が進むようにくねくねと行き、辿り着いたところが手古奈の社の前である。(昔は)社は,蘆荻(ろてき)の生い茂った中に、5,6尺の茅葺きの祠があるだけで、鳥居などもなかった。それから多くの年月を経て詣でたときは、社は昔の面影のままであったが、鳥居が建っていた。なお年月が経て詣でたときには、もとの茅葺きの祠は取り払われ手、広さ2間ほどに造り変えられ、(中略)さらに今日、40年を経てきてみると、祠は、広さ5間ほど、太い欅柱に、瓦葺き、白壁造りのものに建て替えられていた。鳥居も大きなものを建て並べるなどして、昔の面影はどこにもない。誰がこんな社にしたのであろうか。人がなしたことなのか、知るすべもなし」とある。「昔はよかった」って、今も昔も同じである、ってことか。

真間の継ぎ橋
弘法寺に向かう。参道に「真間の継ぎ橋」。万葉集に「足の音せず行かむ駒もが葛飾の 真間の継ぎ橋止(や)まず通(かよ)はむ」の歌がある。往古、このあたりの入り江には多くの洲があり、その洲の間を継いだ橋であったため、継橋、と。別の説もある。『江戸近郊ウォーク』には、「昔は「まま」という言葉だけあって文字がなかったが、時代がたつにしたがって漢字を当てて「真間」とし、この橋も「真間橋」といったのであろう。しかし、時代が経つと「真間」という漢字を「継(まま)」と書き換えるようになり、そのうちに「継橋(つぎはし)」と呼ばれるようになってしまったのであろう」、と。
『江戸近郊ウォーク』には手児奈霊堂から継橋あたりの景色についての記述もある。昔はこのあたりから妙法経寺のある中山や(本)八幡のあたりまで見渡せたのであろう;「また、今は社の後ろ、入江にまで稲を植え、辺り一面田圃になっている。かつては社頭に背丈の高い松があって、その下枝が生い下がって入江の波に浸っていたが、その松もいつの間にか枯れてしまって今はない。(中略)社頭を去って継橋に着いて、入江を見渡せば、一里ほど東南に正中山(妙法経寺)が、その手前に八幡の宿の木立が見える。入江に小舟を浮かべて、刈り取った稲を運んでいる。その眺めに、昔見た以上の感動を覚えるのは、若いときには心もそぞろにひと渡り見ていただけだからであろう。この継橋の通りは、真間山の大門に向かう道で、継橋の下の細い流れも,入江の水も、利根川に注ぎ込む流れである」、と。

真間山弘法寺

真間山弘法寺(ぐほうじ)。「真間山の石段を五十段ほど登って楼門に入ると、向いに釈迦堂、祖師堂がある」と『江戸近郊ウォーク』に描かれている。立派な構えの寺院。天平9年(737年)、行基が『万葉集』に詠われる真間の手古奈の霊を慰めるため創建した、と。もとは「求法寺(ぐほうじ)」、と呼ばれる。のちに弘法大師が伽藍をつくり、ために「弘法寺(ぐほうじ)と改められた。その後、天台宗の時期もあったが、建治2年(1276年)中山・法華経寺の上人によって日蓮宗に改宗された。元亨3年(1323年)には千葉胤貞が寺領寄進、また家康からは朱印が与えられている。
江戸の頃は紅葉の名所としても知られ、「真間の紅葉狩り」として有名であった。台地からの眺めを、などと考えたのだが木立が邪魔して、見晴らしはよろしくなかった。
ところで、千葉胤貞って、中山門流日蓮宗を庇護した九州の肥前・千葉一族。大隈守である。なぜ肥前の千葉氏が?ちょっと気になり調べてみた。千葉氏は桓武平氏の一族。平安末期に、「下総権介」として千葉の地に移り、「千葉」氏を名乗った。千葉氏隆盛のきっかけは、頼朝の挙兵。平氏追討戦への貢献大で、頼朝より「師父」と呼ばれるほどに。鎌倉幕府の勢威拡大とともに、北は東北から南は九州・薩摩国へまで知行地をもち、その覇を拡大した。各地に千葉氏の流れができることになる。
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肥前・千葉氏の誕生のきっかけは元寇の役。肥前小城郡に知行地をもつ千葉宗家・頼胤に出陣命令。この宗家筋は元寇の役が終わった後も九州の警護のため、帰国叶わず大隈守護職として九州に留まる。いつまでも下総に戻ってこない、というか、戻ってこれない宗家筋に対し、宗家の弟筋が「千葉介」に就任。下総千葉氏がこれ。九州に下った「宗家筋」が肥前千葉氏となる。逆転現象である。 で、やっと大隈守千葉胤貞の登場。誕生は肥前。が、元服の頃には鎌倉に出仕していたようである。千葉宗家たる「千葉介」は弟筋が継いたわけだが、肥前千葉氏はもともとは「本家」千葉介であったわけで、父ゆかりの知行地も残っていた。八幡庄や千田庄がそれである。大隈守とはいうものの、活動の拠点は八幡庄周辺であったとされる。

千葉胤貞と日蓮宗との関わりは、その八幡庄に屋敷を構えたことからはじまる。そこに父の政務官でもあった富木常忍入道日常や、大田左衛門尉乗明といった、日蓮宗のエバンジェリストがいたわけだ。富木常忍は迫害を受けた日蓮を庇護し、その後出家し屋敷を「法華寺」としている。大田乗明の屋敷は「本妙寺」となっている。もっとも、「千葉介」を奪い取られた敵愾心から、下総千葉氏が信仰する真言宗とは別の宗派を押し立てることによって、自らの存在感を示すことにあった、との説も。下総千葉氏との確執などあれこれのストーリーはあれど、本筋からどんどん離れていきそうである。何故肥前千葉氏が弘法寺の堂宇を寄進し、日蓮宗を庇護したか少々理解できたところで鉾を収める。

下総総社跡
弘法寺を離れ、少し北にある下総総社跡に向かう。弘法寺の境内から裏に抜ける。千葉商科大学の塀にそって進む。キャンパスが切れ、運動場のあたりになり一度台地を下り、裾を進む。道成りに進み、再び台地にのぼり運動場に進む。
下総総社跡は、運動場のど真ん中といったところにある。昔はこのあたり一帯は鬱蒼とした森であった。「六所の森」とか「四角の森」と呼ばれていた、とか。ここに六所神社があった。総社というのは、国守が領内に点在する由緒ある神社をいちいち廻るのが鬱陶しい、ということで一箇所に集めたもの。国府の近くに合祀したわけだ。
和洋女子大前でバスを待ち、市川駅に戻り、本日の散歩を終えることにする。当初予定した国府台は時間切れでキャンセル。次回改めて歩き直すことにする。

江戸川堤

江戸川の堤を北に進む。東京都と千葉の境界。昔は「太日川」と呼ばれた。「太日川」の流れは江戸期における利根川東遷事業に大いに関係する。つまりは、もともとは、前橋のあたりで平野に入り渡良瀬川と合流し江戸湾に流れていた利根川を、関宿近辺で瀬替え工事をおこない、本流を銚子に流す工事をおこなった。その際、支流を人工的に開削し、この太日川に通すことになった。そのためこの流れは、「新利根川」などと呼ばれることもあった、ようだ。
「江戸川」と呼ばれるようになったのは、いつの頃からだろう、か。利根川水系を利用し、常陸那珂湊から内陸に入り、霞ヶ浦から「江戸」に物資を運ぶ、いわゆる『内川廻し』による船運が発達した頃からだろう、か。とはいうものの、『江戸近郊ウォーク;村尾嘉陵(小学館)』にはこのあたりのことを「利根の渡し」と書かれているので、少なくとも1807年頃は、「利根」と言われていたようだ。
また、たまたま今日読んでいた『郊外の風景;樋口忠彦(教育出版)』の中で田山花袋の『東京の近郊』の一部が引用されていたのだが、そこには「小利根(江戸川)」と書かれている。大正5年のことである。江戸川となったのは結構最近のことのように思えてきた。

往古、江戸川の水はとびきりきれいであった、と。『江戸近郊ウォーク;村尾嘉陵(小学館)』には、「水の重さが普通の水に比べて相当軽い、と棹をさしている男が言った」、と書かれている。いつだったか、小名木川に沿って行徳へと続く「塩の道」散歩の折り、江戸川に面した江戸川5丁目の「熊野神社」での芭蕉の句が思い出される。
「茶水汲む おくまんだしや 松の花」といった句碑があったのだが、この辺り、「おくまんだし(御熊野さま)」のあたりの清澄な水は将軍家のお茶の水として使われていた、とか。上流の野田といえば醤油だが、これもいい水を江戸川からとっていたのであろうし、ともあれ、江戸川って昔は澄んだ美しい流れであったので、あろう。


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