月曜日, 3月 26, 2007

千葉 市川散歩; 元八幡から大町の谷津に遊ぶ

本八幡の「真間の入り江」から大町の「谷津」を辿る

真間、国府台に惹かれはじまった市川散歩、今回は中山、本八幡、そして、北に進み大町へと歩みを進める。中山はいうまでもなく日蓮宗の大本山・法華経寺、八幡は葛飾八幡、そして「八幡不知」がある、という。「八幡不知」は一度迷い込めば二度と出られない、といった薮であった、とか。大いに惹かれる。で、その先はどういったコースを取るか、とチェック。北の大町には深く入りこんだ谷津があるという。地形フリークとしては、これは外すべからず、ということで、このルートに決定。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


本日のルート:本八幡駅から中山駅に>中山・法華経寺>八幡不知森>葛飾八幡宮>永井荷風終焉の地>真間川>真間川から大柏川に>武蔵野線>駒形大神宮>大町自然観察園

本八幡駅から中山駅に
都営新宿線・本八幡駅に下りる。いつものように、家を出るのが少々遅いため、中山までの行きかえりを歩くと、どうしても時間が足りない。京成線・八幡から京成・中山まで往復し、時間をかせぐことに。京成線に乗り換え京成・中山に向かう。途中の駅の名前が気になった。鬼越え、と。鬼が出没するので「鬼子居」と呼ばれていたのが後世になって、鬼越となった、と。
別の説によれば、地形に由来する、と。「おおきく崩れた崖」を意味する「オークエ」とか、「鬼のようなおおきな者が崩した崖」を意味する「オニクエ」が由来、とか。鬼が居たよりは地形からの由来のほうがしっくりくる、のは言うまでもない。このあたりも昔は少々の台地であったのが、崩落を繰り返し現在の地形になったのであろう。

中山・法華経寺
京成線・中山で下車。こじんまりした駅舎。駅前から続く参道を進み黒門に。法華経寺の総門。山門の朱塗りに対し、黒塗りのため、この名前がついた。江戸時代の中ごろに作られた、と。朱塗りの山門・赤門をとおり境内に。祖師堂、法華堂、五重塔、四足門といった堂々とした堂宇が並ぶ。法華経寺は日蓮上人の遺品が多く残されていることで知られる。

この寺は、日蓮に帰依した若宮の領主・富木(とき)常忍が館内に立てた法華寺と、中山の領主・大田乗明の子・日高がおなじく館内に建てた本妙寺を合体してひとつの寺、としたもの。常忍は日蓮入滅後、出家し「日常」と号し、開山上人となる。祖師堂は特徴的な屋根をもつ大堂。ふたつ並べた比翼入母屋造りが印象的であった。このお堂は、いい。法華経寺の直ぐ傍にある塔頭のひとつ、浄光院に訪れ中山を後にする。

八幡不知森
京成電車に乗り、本八幡に戻る。駅を南に進み、千葉街道・国道14号線に。東に進み市川市役所の手前に「八幡不知森」。「やわたしらずのもり」と呼ばれ、ここに入れば再び出ること叶わず、とか、祟りがある、といわれていた。広辞苑にも「八幡の薮知らず」として「出口のわからないこと」の意味で使われている、とか。とはいうものの、現在では、街道沿いに、こじんまりとした竹薮として残るだけ。
「薮知らず」は「八幡知らず」が転じたのだろう、と言われる。

あれこれ由来はあるが、最も有名なものは、平将門の祟りがあり、この地に入るべからず、という言い伝えを馬鹿げたもの、とこの地に入った光圀公が薮に入ったところ、白髪の老人が現れ、戒めを破ることなかれ、と戒めた、とか。この話が錦絵となり、この地が一躍有名になった。
『江戸近郊ウォーク;村尾嘉陵(小学館)』にも「八わたしらず」の記述がある;「道の南側に、八わたしらずという木立がある。四方に垣根をめぐらして、人が立ち入れないようにしてある。中に少し窪んだ所がある。ここに入った人は必ず死ぬという。時として、瘴気を発することがあるためであろう。上総にもここと同じような所があり、酢を熱く煮立てて、それを藁に沁み込ませ、それを撤き散らしんがら行けば、なんの問題もないという」、と。瘴気とは、本来、熱病などを引き起こすと考えられていた毒を帯びた空気のこと。言い伝えはそれとして、人々は合理的な解釈をしていたようだ。こういった言い伝えができたのは、この地が行徳の入会地であり、そのため八幡の住民はみだりに入ることが許されず、八幡不知として、祟りに話を広めたのであろう。

葛飾八幡宮
「その道の北側に八幡宮がある。宮居を朱に塗り、神さびた雰囲気があって尊い感じがする。社頭の左に古木の銀杏の樹がある。かつてここを詣でた時にはこずえが高く立ち伸びていて、雲にかかるほどであった(中略)。石の鳥居、そして楼門がある。その東に小社がある。その傍らに桜が一本あり、春にはさぞかし華やかであろうと思われる」と『江戸近郊ウォーク;村尾嘉陵(小学館)』に描かれているのが葛飾八幡宮。
寛平年間というから、9世紀末、宇多天皇の勅願によって京都・岩清水八幡宮を勧請したもの。頼朝、道潅、家康など武人の祟敬を受けた。神木である巨樹「千本公孫樹木(せんぼんイチョウ)」は国指定の天然記念物。これて、村尾嘉陵がメモした古木の銀杏のことであろう。「江戸名所図会」には「この樹に小蛇がすみ、毎年8月15日の祭礼のとき数万の小蛇が現れる」と。はてさて。

永井荷風終焉の地
八幡不知を離れ、京成・八幡駅に向かう。駅の北、菅野の地に、永井荷風終焉の地がある、とか。それらしきところを探し回ったが結局見つけることはできなかった。散歩大好き人間としては、散歩エッセーとして有名な『日和下駄』の作者でもあるので、少々残念であった。昭和21年の借家住まいからはじまり、友人宅の間借り、そして昭和34年、買い求めた古屋で独り寂しくなくなるまでこのあたりに住まいした。浅草の歓楽地に「日参」したのも、この地からであろう。また、この菅野の地にはほかに幸田露伴などの文士が居住した、と。

真間川
市川市北部の台地と千葉街道の間は、かつては真間の入り江であったところ。この菅野も、文字とおり、「スゲ」などが一面に密生した湿地帯、だったのだろう。明治末期に、排水が悪く、すぐ氾濫するこの地を耕地に変える事業がおこなわれた。そのため、真間川の流路を改修し、原木から東京湾に流れるようにし、大いに排水が促進されるようになった、とか。
実のところ、真間川の流れに「当惑」していた。地図を見ると、西は江戸川につながり、南は東京湾に繋がっている。堀でもなければ、こんな川、って有り得ない。散歩・散策を好み、この真間川を愛した荷風も同じ思いを抱いたようだ。



数ヶ月前池袋・雑司が谷近く、明治通り沿いの古本屋で見つけた『永井荷風の東京空間;松本哉(河出書房新社)』の中にこうった記述がある;「この流のいづこを過ぎて、いづこに行くものか、その道筋を見きわめたい」とずっと辿っていった、という。そのときの有様を晩年の最高傑作と言われる随筆『葛飾土産』に書いている。「片側(東端)は江戸川に注ぎ、もう一方(南端)は海に注ぐ真間川はいったいとっちに向いて流れているのか、ボクが抱いた興味はそれでした。どちらも水の出口。北の方から流れ込んでくる支流の水を双方に流していることに気づきます。しかし、実際に辿ってみると、予想通り、そんな簡単なものではありませんでした。支流との合流点でもなんでもないところで突如流れの向きを変えているのです。やはり「川は生きもの」。こういう不思議な流れ方を見届けたのがボクの「葛飾土産」でした(『葛飾土産』)」。 荷風も疑問を抱いた、北も南も、どちらも水の出口、っていうのは、改修工事の結果であった。昔は、国分川とか大柏川といった流れを集めて江戸川に流れ込んでいたのだが、排水をよくし洪水を防ぐため、海沿いの砂州を切り開き東京湾に流れる人工の法水路をつくったわけだ。その結果、川の流れが西ではなく東と言うか南というか、ともあれ逆に流れるようになったわけだ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

真間川から大柏川に
はてさて、名所・旧跡巡りは終了。あとはのんびりと北の野趣豊かな谷津に向かうことにする。八幡地区を成り行きで北に進み真間川と交差。川に沿って東というか南に進むと大柏川と合流。真間川は南に下る。これが改修工事でつくられた放水路であろう。散歩は大柏川に沿って北に進む。
大柏川は鎌ヶ谷市の二和川、中沢川、根郷川といった支流を集め真間川に合流していた。市川学園を過ぎたあたりに大きな調整池がある。真間川流域では市街化の進行により、洪水被害が頻発したよう。この都市型水害を防ぐため、真間川水系には調整池が目につく。支流のひとつ国分川流域にも調整池があった。国分川の支流といった春木川には地下貯水池もある。
春木川がふたたび国分川の合流するところに春木川排水機構。北に目をやると、春木川と紙敷川が合流した国道464号の北で国分川分水路が西に進み坂川に合わさる。坂川が江戸川と合流するところには柳原排水機構。真間川と江戸川の合流点には根本排水機構。真間川が東京湾に合流するところには真間川排水機構。下総の台地にこれほどの排水施設があるとは想像外。自然に抗って人が住まいするようになった、そのための自然との戦いの結果だろう、か。

武蔵野線

さらに進む。武蔵野線の高架が目にはいるあたりから、西の台地が接近してくる。曾谷・宮久保・下貝塚・大野地区。台地上には曾谷城跡、安国寺、曽谷貝塚などがある。曽谷城は日蓮に帰依し安国寺を開いた、曽谷教信一族の城、と。
宮久保は台地が宅地開発で切り取られ弥生時代の宮久保遺跡は姿を消したが、縄文時代の遺跡とその周囲に貝塚が残っている。武蔵野線と交差するあたりは、東からの台地も迫ってくる。このあたりから樹枝状台地と谷津(戸)が複雑に交差する。


駒形大神宮

武蔵野線を越えると北というか西に迫る台地に大野城跡。平将門が下総西部を制圧するためにつくった出城との言い伝えはある。が、実際は戦国時代のものではないか、とも。台地上には浄光寺、法蓮寺、礼林寺といった日蓮宗、そして曽谷教信ゆかりの寺が集まる。曽谷教信って、日蓮に深く帰依し、富木常忍や大田乗明などとともに日蓮の初期の壇越として熱狂的なる支持者となった曽谷の領主。富木常忍と大田乗明は中山・法華経寺でメモしたとおり。
曽谷教信は、はてさて、どこかで聞いた覚えがあるのだが、どこだったか?そうそう、松戸の名刹・本土寺を開いた人だった。
台地を進む。殿台遺跡。縄文と弥生期の住居跡、さらには先史時代の石器もみつかった。その先に駒形大神宮。一度台地を下り、その先の台地の端に鎮座する。大野には将門伝説が多い。大野城もそのひとつだが、この神社も経津主命(ふつぬしのみこと)とともに、将門がまつられている。

大町自然観察園

成行きで先に進む。市川動植物園に。目的の大町自然観察園はこの敷地内にあるようだ。よくわからないながら先に進むと大町自然観察園に。市川で一番深く切り込まれた長田谷戸(津)の最奥部にあたる。2キロ弱の谷津のうち700mが、湧水・湿地・谷・斜面林という下総台地の典型的な自然を残す観察園として保全されている。隣接してバラ園やせせらぎ園なども整備されている。台地上は梨畑などの農地となっている。
現在は蛍の群生地もある自然観察園として保全されているこの大町自然観察園ではあるが、ここにいたるまでは、それなりの「歴史」を経ている。谷津の入口は市川北高のあたりであるが、S字形に曲がる2キロ弱のこの谷津は、昭和42年頃までは田圃が広がっていた。昭和46年頃には休耕地が目立つようになり、自然公園開設の準備が始まった。

最奥部には養魚場があった、とか。昭和56年頃には、S字形の中央の湾曲部から下流は霊園が整備され、上流部は孤島のような湿地帯として取り残されることになる。つまりは下流の水系から切り離された、ってこと。
昭和60年ころには動物園といった観光開発が進められる。平成元年には動物園開園。そのほかバラ園とか池が整備される。平成5年には鑑賞植物園開園。養魚場は半分湿地帯に戻ってしまう。平成13年頃には養魚場は完全に湿地帯に戻ってしまう。つまりは、田んぼや休耕地が広がっていた時期があり、ついで、S字形の屈曲点から下流が開発された時期があり、そして、観光開発が始まり、自然公園が自然観察園として現在に至る。大町自然観察園に「歴史あり」ってことか。とはいうものの、結果的に、湧き水の流れが網の目のように広がる湿地帯となり、野趣豊かな自然観察園となったのは素晴らしいことではあった。谷戸の北端から台地にのぼるとすぐに北総開発・大町駅。本日の予定はこれで終了。一路自宅へと。

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