国府台に後北条氏と里見氏の合戦跡を辿る
ということで、総武線市川駅に。午後2時となっていた。日が暮れるまで3時間程度ある。国府台から総寧寺、それから「じゅんさい池」へと台地を下り、北総開発・矢切駅まで歩く、といったコースを頭に描く。
本日のルート:市川関所跡>国府台・羅漢の井>里見公園・ 紫烟草舎>里見公園・国府台城跡>里見公園・ 古墳>里見公園・ 「夜泣き石」>総寧寺>じゅんさい池
市川関所跡
駅を西に、江戸川の堤に向かう。「市川関所跡」が最初の目的地。国道14号・千葉街道に沿って歩く。市川橋の直ぐ北に関所跡。三代将軍・家光による参勤交代の制度などの影響もあり、この市川は房総と江戸の交通の要衝となる。当初は市川と小岩の間に「渡し」が設けられ、そのための番所が置かれていた。元禄10年(1697年)、江戸から佐倉に通じる街道のうち、八幡までを官道として道中奉行が直轄することになり、番所が「関所」にステータスアップとなった、とか。
とはいうものの、『江戸近郊ウォーク;村尾嘉陵(小学館)』の「下総国府台 真間の道芝」に「市川の関」の記述があるのだが、そこには、「伊那友之助という御代官の守っている所である。しかし、関とは名ばかりで、入る方も出る方も、杉の丸木で門を造ってあるだけで、留めるものはなにもない。これも現代の安泰を示すめでたいことであろう」と、ある。このエッセーが書かれたのは1807年。「入り鉄砲と、出女」を極めて厳重に取り締まっていた関所も、今は昔となっていた、ということ、か。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
国府台・羅漢の井
江戸川の堤を北に進む。国府台の台地が川堤に接近してくる。小岩散歩のとき川向こうに見える台地が気になり、しかも歴史的にも国府台合戦などの舞台となった城址があるわけで、いつか歩いてみたいと思っていた。やっとその地に足を踏み入れることになる。少々、心弾む。
遊歩道だけを残し、崖と川筋が接するように続く。遊歩道が車道にあたるところから台地の坂にとりつく。坂の途中に「羅漢の井」。弘法大師が見つけたとか、祈った結果湧き出した、とか、あれこれ由来はある。「江戸名所図会」に「総寧寺羅漢井」と紹介されているくらいなので、結構有名であった、よう。
里見公園・ 紫烟草舎
坂を登りきり、「里見公園入口」に。この公園には戦時中、高射砲陣地があった。また陸軍司令部を建設中に終戦となり、その後昭和34年に里美公園となった、とか。城址に向かう。といっても、これといった案内も見つからなかったので、成行きで崖の方に進む。
「紫烟草舎」が登場。あれ、これって、白秋の住まい跡。昨年、小岩を歩いていたとき、北小岩8丁目の八幡神社に白秋の歌碑があった。そのとき、小岩にあった住まいが江戸川の改修工事にひっかかり、市川に移した、ってことをメモした。それがこの「紫烟草舎」。ここで出会うとは予想外の展開。白秋ファンとしては望外の喜び。
ちょっと調べると、小岩に移る前にはもともと市川・真間に住んでいた、とか。大正5年、真間の亀井院の庫裏に、江口章子と暮らしていた、と。「葛飾閑吟集」には『葛飾の真間の手児奈が跡どころその水の辺のうきぐさの花』などの歌を残している。小岩に移ったのはその後のこと。1年2ヵ月ほど小岩で暮らした、よう。その住まい「紫烟草舎」が上記理由により、この地に移った。真間と小岩で暮らした生活は、白秋の人生や詩作の転機になったといわれ、『白秋小品』『童心』『雀の卵』『雀の生活』『白秋小唄集』『二十虹』などの作品として残されている。
ちょっと寄り道。江口章子と暮らしたこの時期は白秋の再生の時期だった、とも。『邪宗門』で一躍時代の寵児となった白秋が、隣家の人妻・松下俊子と恋に落ち、姦通罪で拘置され、一瞬のうちにその地位・名誉を失う。「城ヶ島の雨」はそういった、傷心の時期に詠まれたもの。そう思えば、この歌詞の味合いも、ちょっと違ってくる、かも;「雨はふるふる 城ヶ島の磯に 利休鼠の雨がふる雨は真珠か 夜明けの霧か それともわたしの忍び泣き船はゆくゆく 通り矢のはなを ぬれて帆上げたぬしの舟ええ 舟は櫓でやる 櫓は唄でやる 唄は船頭さんの心意気雨はふるふる 日はうす曇る 舟はゆくゆく帆がかすむ」。 ともあれ、松下俊子と結婚するも、それも長く続かず、その離婚をまって江口章子と結婚することになる。この真間・小岩でのふたりの関係も長くはつづかず、念願の洋館を小田原に建てたころには江口章子は白秋のもとを去ることになる。その後、谷崎潤三郎のもとに走るなど、江口章子の「人生」をメモしはじめたキリがない。このあたりで散歩に戻る。
里見公園・国府台城跡
崖のほうに進む。いかにも土塁跡といった雰囲気の地形。この土塁の外側を空堀が囲っていたようだ。これが「国府台城」跡。文明11年(1479年)、太田道潅が開いた、と。石浜城主・千葉自胤を助け、長尾景春に呼応した千葉孝胤を攻める際に着陣したのが、はじまり、とか。その後この地では第一次、第二次国府台合戦の舞台となる。
天文7年(1538年)、小弓公方・足利義明、舎弟頼基は久留里城・里見義堯ら房総勢一万余騎を従え関宿城攻撃のために北上し、国府台城に着陣。江戸城を進発した北条氏綱・氏康勢ら二万騎とこの地で対陣した。里見軍に戦意なく、足利義氏はほとんど「単騎」突撃の末に戦死、里見軍をはじめとした房総勢は義明を見殺し。安房に退却。これが、第一次国府台合戦。小弓公方は滅亡。北条は下総を手中に。里見も小弓公方の領地・上総を手中に収め、領地を拡大する。
千葉自胤と千葉孝胤の整理;千葉自胤は武蔵千葉氏。もとは千葉宗家。鎌倉公方、後の古河公方・足利成氏と関東管領・上杉氏の争いで上杉方についたが、成氏方についた千葉の豪族・原氏や馬加氏に破れ武蔵に逃れることになる。一方の千葉孝胤は千葉宗家を滅ぼし、千葉宗家を継いだ馬加氏の子孫。 第二次国府台合戦は永禄6年(1563)年のこと。武田信玄の攻める上州倉賀野城救援のため上杉謙信が厩橋城に着陣。岩槻城の太田資正、佐貫城の里見義弘らに兵糧調達を命じる。里見・太田軍は市河津付近で調達活動開始。その情報を入手した北条氏康・氏政・氏照・氏邦は2万の軍勢で進撃、永禄7年(1564)年、国府台城周辺で里見・太田軍八千と戦闘。北条軍は先鋒の遠山丹波守綱景、富永三郎左衛門尉康景らが渡河作戦で討ち死するなど、里見・太田軍が序盤戦有利に展開。北条方の武将140名、雑兵900名ほどが戦死した、と『江戸近郊ウォーク;村尾嘉陵(小学館)』にある。
初戦の勝利に里見方に油断が生じる。東方の真間付近に迂回した北条綱成らの急襲を受け里見・太田軍は壊滅的な損害を受けて退却した。三千名の戦没者を出した、と『江戸近郊ウォーク;村尾嘉陵(小学館)』に。これが第二次国府台合戦。北条と総越同盟の直接対決であったと言える。里見勢は下総・上総の支配権を失う危機的状況。上杉勢は身動きできず、北条勢の勝利と相成った。で、天正十八(1590)年の北条討伐後、家康の江戸入封に従い、江戸俯瞰の地にあたる国府台城は廃城となった。江戸城を見下ろす場所にある城は不可、ということであった、とか。
里見公園・ 古墳
土塁跡をぶらぶら歩いていると、小高い丘。如何にも古墳跡といった雰囲気。登っていくと、そこに2基の箱式石棺が露出してある。ここが「明戸古墳石棺」。前方後円墳の後円部に相当する。古墳時代後期、というから、6世紀後半から7世紀はじめのものと推定されている。道潅がこの地に陣を築いた際、盛り土が取り除かれて地表にあらわれた、とか。
古墳跡を離れ、土塁の「尾根道」を公園入口のほうに戻る。途中に「里見諸将群霊墓」。第二次国府台合戦で戦死した里見方将士の数は三千名以上にもなったという。200年以上も弔う者とてなかったようだが、文政12年(1829年)になって、3基の墓というか塚がつくられた。
里見公園・ 「夜泣き石」
おなじ場所に「夜泣き石」。第二次国府台合戦で討ち死にした里見広次の娘が、父の霊を弔うべくこの地に。あまりの凄惨な光景に、泣き崩れ、そのまま息絶えてしまった。
駅を西に、江戸川の堤に向かう。「市川関所跡」が最初の目的地。国道14号・千葉街道に沿って歩く。市川橋の直ぐ北に関所跡。三代将軍・家光による参勤交代の制度などの影響もあり、この市川は房総と江戸の交通の要衝となる。当初は市川と小岩の間に「渡し」が設けられ、そのための番所が置かれていた。元禄10年(1697年)、江戸から佐倉に通じる街道のうち、八幡までを官道として道中奉行が直轄することになり、番所が「関所」にステータスアップとなった、とか。
とはいうものの、『江戸近郊ウォーク;村尾嘉陵(小学館)』の「下総国府台 真間の道芝」に「市川の関」の記述があるのだが、そこには、「伊那友之助という御代官の守っている所である。しかし、関とは名ばかりで、入る方も出る方も、杉の丸木で門を造ってあるだけで、留めるものはなにもない。これも現代の安泰を示すめでたいことであろう」と、ある。このエッセーが書かれたのは1807年。「入り鉄砲と、出女」を極めて厳重に取り締まっていた関所も、今は昔となっていた、ということ、か。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
国府台・羅漢の井
江戸川の堤を北に進む。国府台の台地が川堤に接近してくる。小岩散歩のとき川向こうに見える台地が気になり、しかも歴史的にも国府台合戦などの舞台となった城址があるわけで、いつか歩いてみたいと思っていた。やっとその地に足を踏み入れることになる。少々、心弾む。
遊歩道だけを残し、崖と川筋が接するように続く。遊歩道が車道にあたるところから台地の坂にとりつく。坂の途中に「羅漢の井」。弘法大師が見つけたとか、祈った結果湧き出した、とか、あれこれ由来はある。「江戸名所図会」に「総寧寺羅漢井」と紹介されているくらいなので、結構有名であった、よう。
里見公園・ 紫烟草舎
坂を登りきり、「里見公園入口」に。この公園には戦時中、高射砲陣地があった。また陸軍司令部を建設中に終戦となり、その後昭和34年に里美公園となった、とか。城址に向かう。といっても、これといった案内も見つからなかったので、成行きで崖の方に進む。
「紫烟草舎」が登場。あれ、これって、白秋の住まい跡。昨年、小岩を歩いていたとき、北小岩8丁目の八幡神社に白秋の歌碑があった。そのとき、小岩にあった住まいが江戸川の改修工事にひっかかり、市川に移した、ってことをメモした。それがこの「紫烟草舎」。ここで出会うとは予想外の展開。白秋ファンとしては望外の喜び。
ちょっと調べると、小岩に移る前にはもともと市川・真間に住んでいた、とか。大正5年、真間の亀井院の庫裏に、江口章子と暮らしていた、と。「葛飾閑吟集」には『葛飾の真間の手児奈が跡どころその水の辺のうきぐさの花』などの歌を残している。小岩に移ったのはその後のこと。1年2ヵ月ほど小岩で暮らした、よう。その住まい「紫烟草舎」が上記理由により、この地に移った。真間と小岩で暮らした生活は、白秋の人生や詩作の転機になったといわれ、『白秋小品』『童心』『雀の卵』『雀の生活』『白秋小唄集』『二十虹』などの作品として残されている。
ちょっと寄り道。江口章子と暮らしたこの時期は白秋の再生の時期だった、とも。『邪宗門』で一躍時代の寵児となった白秋が、隣家の人妻・松下俊子と恋に落ち、姦通罪で拘置され、一瞬のうちにその地位・名誉を失う。「城ヶ島の雨」はそういった、傷心の時期に詠まれたもの。そう思えば、この歌詞の味合いも、ちょっと違ってくる、かも;「雨はふるふる 城ヶ島の磯に 利休鼠の雨がふる雨は真珠か 夜明けの霧か それともわたしの忍び泣き船はゆくゆく 通り矢のはなを ぬれて帆上げたぬしの舟ええ 舟は櫓でやる 櫓は唄でやる 唄は船頭さんの心意気雨はふるふる 日はうす曇る 舟はゆくゆく帆がかすむ」。 ともあれ、松下俊子と結婚するも、それも長く続かず、その離婚をまって江口章子と結婚することになる。この真間・小岩でのふたりの関係も長くはつづかず、念願の洋館を小田原に建てたころには江口章子は白秋のもとを去ることになる。その後、谷崎潤三郎のもとに走るなど、江口章子の「人生」をメモしはじめたキリがない。このあたりで散歩に戻る。
里見公園・国府台城跡
崖のほうに進む。いかにも土塁跡といった雰囲気の地形。この土塁の外側を空堀が囲っていたようだ。これが「国府台城」跡。文明11年(1479年)、太田道潅が開いた、と。石浜城主・千葉自胤を助け、長尾景春に呼応した千葉孝胤を攻める際に着陣したのが、はじまり、とか。その後この地では第一次、第二次国府台合戦の舞台となる。
天文7年(1538年)、小弓公方・足利義明、舎弟頼基は久留里城・里見義堯ら房総勢一万余騎を従え関宿城攻撃のために北上し、国府台城に着陣。江戸城を進発した北条氏綱・氏康勢ら二万騎とこの地で対陣した。里見軍に戦意なく、足利義氏はほとんど「単騎」突撃の末に戦死、里見軍をはじめとした房総勢は義明を見殺し。安房に退却。これが、第一次国府台合戦。小弓公方は滅亡。北条は下総を手中に。里見も小弓公方の領地・上総を手中に収め、領地を拡大する。
千葉自胤と千葉孝胤の整理;千葉自胤は武蔵千葉氏。もとは千葉宗家。鎌倉公方、後の古河公方・足利成氏と関東管領・上杉氏の争いで上杉方についたが、成氏方についた千葉の豪族・原氏や馬加氏に破れ武蔵に逃れることになる。一方の千葉孝胤は千葉宗家を滅ぼし、千葉宗家を継いだ馬加氏の子孫。 第二次国府台合戦は永禄6年(1563)年のこと。武田信玄の攻める上州倉賀野城救援のため上杉謙信が厩橋城に着陣。岩槻城の太田資正、佐貫城の里見義弘らに兵糧調達を命じる。里見・太田軍は市河津付近で調達活動開始。その情報を入手した北条氏康・氏政・氏照・氏邦は2万の軍勢で進撃、永禄7年(1564)年、国府台城周辺で里見・太田軍八千と戦闘。北条軍は先鋒の遠山丹波守綱景、富永三郎左衛門尉康景らが渡河作戦で討ち死するなど、里見・太田軍が序盤戦有利に展開。北条方の武将140名、雑兵900名ほどが戦死した、と『江戸近郊ウォーク;村尾嘉陵(小学館)』にある。
初戦の勝利に里見方に油断が生じる。東方の真間付近に迂回した北条綱成らの急襲を受け里見・太田軍は壊滅的な損害を受けて退却した。三千名の戦没者を出した、と『江戸近郊ウォーク;村尾嘉陵(小学館)』に。これが第二次国府台合戦。北条と総越同盟の直接対決であったと言える。里見勢は下総・上総の支配権を失う危機的状況。上杉勢は身動きできず、北条勢の勝利と相成った。で、天正十八(1590)年の北条討伐後、家康の江戸入封に従い、江戸俯瞰の地にあたる国府台城は廃城となった。江戸城を見下ろす場所にある城は不可、ということであった、とか。
里見公園・ 古墳
土塁跡をぶらぶら歩いていると、小高い丘。如何にも古墳跡といった雰囲気。登っていくと、そこに2基の箱式石棺が露出してある。ここが「明戸古墳石棺」。前方後円墳の後円部に相当する。古墳時代後期、というから、6世紀後半から7世紀はじめのものと推定されている。道潅がこの地に陣を築いた際、盛り土が取り除かれて地表にあらわれた、とか。
古墳跡を離れ、土塁の「尾根道」を公園入口のほうに戻る。途中に「里見諸将群霊墓」。第二次国府台合戦で戦死した里見方将士の数は三千名以上にもなったという。200年以上も弔う者とてなかったようだが、文政12年(1829年)になって、3基の墓というか塚がつくられた。
里見公園・ 「夜泣き石」
おなじ場所に「夜泣き石」。第二次国府台合戦で討ち死にした里見広次の娘が、父の霊を弔うべくこの地に。あまりの凄惨な光景に、泣き崩れ、そのまま息絶えてしまった。
『江戸近郊ウォーク;村尾嘉陵(小学館)』にこの夜泣き石の記述がある;「東の竹垣の外に卵塔がある。その中に二尺ほどの大きさの石で、人がうづくまっているような形に蓮華座に据えてあるのが見える。夜啼の石、という。当寺(総寧寺)の某和尚の時に、山の鬼哭を聞いた。その場所を探し当ててそこを掘ってみると、この石がでてきた。それで塚を造ったら哭く声がやんだ」という。もともとは、総寧寺の境内にあったようだが、いつのころからかこの地に移された、と。
総寧寺
里見公園を離れ、総寧寺に向かう。曹洞宗のこの寺は、もともとは、永徳3年(1383)に近江源氏の佐々木六角氏頼により近江に創建された、もの。天正3年(1595)に北条氏政により、関宿宇和田(埼玉県幸手町)に移転。しかし、この地は洪水に遭うことしばしばで、寛文3年(1663年)、家綱のときこの地に移ってきた。寺領は128石あまりであるが、幕府はこの寺を関東僧録寺とし、歴代住職には十万石大名の格式をもって対処した、と。現在は小ぶりな寺域となっているが、江戸期には里見公園から真間山下にまでおよぶ広大なものであった、とか。
寺の入口にはその格式ゆえの「下馬」の碑が残る。『江戸近郊ウォーク;村尾嘉陵(小学館)』にも、「下馬の表示から大門まで1丁(110m)余り」、と書かれている。また、その大門は「故水戸の西山公(徳川光圀)が、当時の住職である、一間和尚のために建立したもの瓦葺きで、建物は黒く塗ってある」と。また、続けて、「一間は西山公の甥の縁続きの人である。この人には大計があり、曹洞一門の総本山になることを図ったが、批判を受け、戒律により処罰を受けた」とある。総本山になることはなかったようだが、関東僧録寺であった」、と。
総寧寺
里見公園を離れ、総寧寺に向かう。曹洞宗のこの寺は、もともとは、永徳3年(1383)に近江源氏の佐々木六角氏頼により近江に創建された、もの。天正3年(1595)に北条氏政により、関宿宇和田(埼玉県幸手町)に移転。しかし、この地は洪水に遭うことしばしばで、寛文3年(1663年)、家綱のときこの地に移ってきた。寺領は128石あまりであるが、幕府はこの寺を関東僧録寺とし、歴代住職には十万石大名の格式をもって対処した、と。現在は小ぶりな寺域となっているが、江戸期には里見公園から真間山下にまでおよぶ広大なものであった、とか。
寺の入口にはその格式ゆえの「下馬」の碑が残る。『江戸近郊ウォーク;村尾嘉陵(小学館)』にも、「下馬の表示から大門まで1丁(110m)余り」、と書かれている。また、その大門は「故水戸の西山公(徳川光圀)が、当時の住職である、一間和尚のために建立したもの瓦葺きで、建物は黒く塗ってある」と。また、続けて、「一間は西山公の甥の縁続きの人である。この人には大計があり、曹洞一門の総本山になることを図ったが、批判を受け、戒律により処罰を受けた」とある。総本山になることはなかったようだが、関東僧録寺であった」、と。
僧録寺って、幕府の禅宗に対する統制政策として設けられたもの。1619年、僧録が新設。金地院僧録、とも呼ばれたように黒衣の宰相・金地院祟伝が任命される。が、この制度は禅宗五山派にしか影響が及ばなかったようだし、祟伝没後は、幕府の宗教政策としては寺社奉行が設けられるなどして、僧録の権限は大幅に縮小されるようになった、と。結局は「本山・末寺制度」などの整備で仏教に対する政策を実行していった、とか。
本堂左手に大きな五輪塔。若くして逝った関宿城主・小笠原政信夫妻の供養塔。
里見公園はもともと、総寧寺の境内であった。が、明治になって、この地に大学をつくる計画があった、とか。総寧寺が現在の地に移る直接のきっかけはこの施策。が、結局は大学がつくられることはなかった。実現しておれば、東大クラスの国立大学がこの地に誕生したことであろう。で、その跡地に目をつけたのだが陸軍。都内というか東京市内に点在していた陸軍教導団、陸軍の下士官養成機関、をこの地に設置した。明治19年には兵営が完成した、と。現在のスポーツセンターのあたりは練兵場であった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
明治32年、下士官制度改正にともない教導団廃止。跡地に野砲16連隊。日露戦争では旅順や奉天の会戦に参戦し目ざましい戦果を挙げる。その後、野砲14,15連隊もこの地に移る。終戦まで国府台は軍隊の町であった。
じゅんさい池
総寧寺を離れ、次の目的地「じゅんさい池」に向かう。東に進み、松戸街道に。成行きで国府の坂を下ると、国分の台地との間に深く切り込まれた谷津、というか谷戸がある。ここに沼があり、じゅんさいが生えていたことから、この「じゅんさい池」という名前がついた。
じゅんさい池
総寧寺を離れ、次の目的地「じゅんさい池」に向かう。東に進み、松戸街道に。成行きで国府の坂を下ると、国分の台地との間に深く切り込まれた谷津、というか谷戸がある。ここに沼があり、じゅんさいが生えていたことから、この「じゅんさい池」という名前がついた。
昔は、じゅんさいを出荷したようだが、昭和の初期には沼が干上がり、じゅんさいは絶滅した、と。その後田圃となったが、汚染が激しくなり泥沼の状態となる。昭和54年、地元の人の要望をうけ、公園として整備された。現在は昔の谷津が残され、斜面林とともに、心なごむ景観をつくっている。ちなみに、じゅんさい(蓴菜)は睡蓮科の植物。澄んだ池や沼に生える水草。茎と葉は粘膜でつつまれ、ぬるぬるしている。若葉を食用にする。
じゅんさい池の遊歩道を進み、谷津の最奥部あたりで再び台地に取り付き、松戸街道に戻り、道なりに進み北総開発・矢切駅に到着。本日の予定終了とする。
じゅんさい池の遊歩道を進み、谷津の最奥部あたりで再び台地に取り付き、松戸街道に戻り、道なりに進み北総開発・矢切駅に到着。本日の予定終了とする。
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