木曜日, 7月 19, 2007

津久井散歩:津久井湖から相原へ

いつだったか、多摩の「よこやま」、つまりは、多摩丘陵の尾根道を歩いた。もう一年も前のことだろう、か。その尾根道は津久井湖・城山湖のほうまで続いている、と。そのうちに行ってみよう、とメモした覚えがある。
最近、八王子から多摩への散歩が続いている。その余勢をかって、というわけではないのだが、津久井湖・城山湖まで出かけよう、と思った。カシミール3Dでチェックする。確かに、多摩から続く丘陵は、国道16号線・御殿峠のあたりで南北のからの尾根道が集まり、そこから更に西に延び、津久井湖方面に向かって延びている。津久井湖・城山湖畔の散歩も惹かれるものがあるのだが、どうせのことなら、湖畔散歩だけでなく、そこから多摩に向かって尾根道を歩いてみよう、と思った。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



本日のルート;京王相模原線・橋本>(バス;三カ木行き;城山高校下車)>城山ダム管理事務所>城山大橋>津久井湖城山公園花の苑>津久井城址登山口>飯綱権現>山頂>津久井湖城山公園花の苑・刊行センター>山道>飯綱大権現>コミュニティ広場>城山発電所>川上橋>大戸>町田街道・大戸>八木重吉記念館>法政大学入口>法政トンネル>尾根道>相武カントリー倶楽部>武蔵岡中>町田街道・東京家政学院入口>東京家政学院前>峠>七国峠入口なし・引き返す>鎌倉古道>町田街道・相原十字路近くに下りる>長福寺>JR横浜線・相原駅

京王相模原線・橋本駅

京王相模原線のターミナル・橋本駅に向かう。多摩丘陵をトンネルでくぐりぬけ、多摩境を越えると車窓から多摩の丘陵が一望できる。尾根道緑道なのだろうか、町田の方角に南に向かって広がっている。先日の散歩で尾根道の乗り換えを間違い、延々と歩いた、あの尾根道である。少々の感慨に浸るまもなく電車は橋本駅に到着。駅前再開発が進んだのか、大型ショッピングセンターが目立つ。これほどの街とは想像していなかったので、少々の驚き。なんとなく、千葉・松戸の駅前の雰囲気を思い出す。

「三カ木行」バスで、「城山高校」で下車

構内でバスの案内を探す。見当たらない。西口に行けばなんとかなるか、と思い進む。バスターミナルはあったものの、津久井湖方面のバスはない。引き返し東口に。津久井湖へは「三カ木行」に乗り、「城山高校」で降りればいい、と。少し待ちバスに乗る。しばしバスの車窓からの眺めを楽しみ「城山高校」で下車。降りたら案内などあるだろう、と思っていたのだが、なにもない。前方に聳えるのが津久井城址のある山であろう、とは思うのだが、確たる自信もない。ダムの堤防のようなものが見える。とりあえず先に進む。





津久井城址登山口
国道413号線を堤防に向かって下ると城山大橋。大橋とは言うものの、実際はダムの堤防。城山ダムと呼ばれる。相模湖を堰き止めたもの。堤防を渡ると「津久井湖城山公園花の苑」。道の先に観光案内所が見える。道脇に「津久井城址登山口」の案内。誘われるように登山口に。階段を少し上る。なだらかなスロープの坂道を進むと、すぐに登山道にあたる。

「宝ケ池」湧水池。
つづら折れの登山道を進む。のぼり道は幾通りかあるよう。どちらに進めばいいのか、きちんとした案内がない。仕方なく、成行きでグングンのぼる。30分以上も歩いただろうか。山道脇に「宝ケ池」。湧水池。この城山にはこういった湧き水が数箇所あった、とか。水が確保できなければ、籠城策もできないわけであり、城郭の生命線。いつだったか小田原を歩いたとき、秀吉の一夜城跡にのぼった。そこの湧水地は規模が大きかったなあ、などと散歩の記憶に少々浸る。

飯綱権現

水場から少しすすむと尾根道に。飯綱権現がまつられてある。飯綱曲輪があった、とか。
飯綱権現、って高尾山の守り神。また、先日、信州の川中島を歩いたとき、信玄・謙信が策を競った妻女山から眺めた信州の山並みの中に飯綱山があった。これもまた、ひとしきり旅の思い出に浸る。
ちなみに飯綱権現って、飯綱山で修行する修験者が信仰したもの。白狐にまたがった天狗がシンボル。飯綱権現は軍神としても知られ、幾多の戦国武将の信仰を得た。

尾根道に「引橋」

飯綱権現を離れ、尾根道を頂上・本城跡に向かう。尾根道にはいくつか掘切跡が残る。堀切には普段、「引橋」が渡されており、一旦事が起こると、その橋を外し、敵の侵入を困難難ものにした、とか。

津久井城
烽火台跡、鐘撞堂跡などから眼下の眺め。南の方角を見下ろす。快適な尾根道を進み山頂から本城跡に。津久井城の案内。ここにくるまで、津久井城について、なにも知らなかった。津久井城のもと歴史的・地理的意味合いをちょっとお勉強;
「津久井城は地理的には、北方に武蔵国、西方に甲斐国に接する相模国の西北部に位置する。そして、八王子から厚木・伊勢原、古代東海道を結ぶ八王子道と、江戸方面から多摩丘陵を通り、津久井地域を東西に横断し甲州街道に達する津久井往還に近く、古来重要な水運のルートであった相模川が眼前に流れていることから、交通の要衝の地でもあった。
また、津久井地域は、その豊かな山林資源がら、経済的に重要な地域としても認識されていた。このように、津久井地域は中世の早い時期から、政治・経済・軍事上の要衝であり、利害の対立する勢力のせめぎあいの地でもあった」と。

何故、こんな不便な場所にお城が、などと思っていたのだが、それって、現在の大都市・東京の視点から考えているだけであって、往古、いまだ東京・江戸が一面の葦原であったころ、この辺りは陸運・水運の要衝の地であったわけだ。

「築城は鎌倉時代、三浦半島一帯に勢力を誇っていた三浦一族・津久井氏による、という。戦国時代、小田原北条氏は16世紀中ごろには相模・武蔵を領国とする戦国大名に発展。その広大な領土を支配し、外敵に対するため本城の下に支城を設け、支城領を単位とする支配体制をつくった。この津久井城は甲斐国に近く、領国経営上重視されており、津久井城(城主内藤氏)は有力支城として重要な役割を果たしていた。現在の遺構は16世紀の北条氏の時代のものである」、と。小田原北条時代の城跡であった、ということか。
「標高375m。西峰の本城曲輪、太鼓曲輪、飯綱神社のある飯綱曲輪を中心に、各尾根に小曲輪が階段状に配置されている。これらの曲輪には土塁や、一部石積みの痕跡も残っている。また、山頂尾根には敵の動きを防ぐため、3箇所の大堀切が、山腹には沢部分を掘削・拡張した長大な、堅堀が掘られている」
「津久井城は独立した山に築かれた「山城」。通常山城は平地が狭いため、城主の館や家臣の屋敷などを山麓に置いた。これが根小屋であり、山麓に根小屋を備えた山城のことを根小屋式山城という。津久井城は戦国時代の根小屋式山城の様子を伝える貴重な遺構が残る。
根小屋は根本・城坂・小網・荒久・馬込地区一帯に広がっていた、とされ。各地域で大小の曲輪が確認できる。とくに、城坂地区には、お屋敷跡、馬場、左近馬屋といった地名が残されており、根小屋の中心であったと考えられる。
お屋敷跡には建物跡や硝煙蔵跡、深さ3mにもおよぶ空堀、土塁跡などが残されており、城主館跡と考えられている」、と。根小屋とか根古屋、って散歩の折々に出合った。秩父にも根古屋があった、かと。いまになってはじめて、その由来がわかった。

登山口に戻る
山頂から下る。道案内がいまひとつしっかりしていない。成行きで下る。小網口へと下る道。が、どこに進むのかはっきりしない。なんとなく西に向かっている雰囲気。いやいや、どんどん西に向かう。予定では、登山口のあたりに戻り、観光案内所で地図でも手に入れようと思っていた。ということは西ではなく、むしろ東に進みたいわけで、少々焦る。途中で分岐。東に向かう道に乗り換え、幸運にも登山口に下りた。「津久井湖城山公園花の苑」内にある観光案内所に進む。が、そこはお土産屋。これといった資料はない。

壁にかかった地図を眺め、大体のルートをチェック。ここから先のルートは、城山湖>町田街道>法政大学>七国峠>JR相原駅といった段取りが、尾根道筋であろうかと、仮決め。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

津久井湖記念館

国道413号線を戻る。城山大橋を渡り、城山ダム管理事務所の横を進む。道脇に「津久井湖記念館」。ちょっと寄り道。津久井湖建設の歴史、というかダム建設で水没した村々の歴史をパネル展示。相模湖で堰き止められた相模川は、途中道志川の水を合わせ津久井湖に注ぐ。そして津久井湖の下流では串川や中津川が合流し厚木、平塚、茅ヶ崎と下り相模湾に流れ込む。源流は富士山麓・山中湖。全長100キロ強の一級河川である。

都井沢交差点

記念 館を離れ、中沢中学脇を進み、都井沢交差点手前を北に折れる。都井沢交差点からは結構大きな道が山頂に続いているのだが、ここはおとなしくEZナビのガイドに従う。先に進む。小道を抜け、あろうことか竹薮の中にリードされる。だいじょうぶか?味気ない道路みちではなく、野趣豊かなルートを選んでくれたのであろうと、とりあえず進む。次第に道など無きに等しい状況に。薮を掻き分け進む。枝に足をとられ、転びつつ、まろびつつ、進む。心の中で、「勘弁してくれ」、と。大転倒数回を経て、右手に車道らしきガードレールが見える。一安心。ガードレールを乗り越え車道に。

ほっと安心。車道を進む。しばらく進み、何気なく胸に手をやる。「あれ、サングラスがない」。10年も昔になるだろうか、家族でグアムにいったときに買ったお気に入りのもの。唖然。先ほどの踏み分け道で転んだときに落としたに違いない。見つける自信はないのだが、とりあえずブッシュ道に戻る。雑草に覆われた道に目を凝らし進む。「見つからない、見つからない、あ、アッタ」。嬉しかった。思わず神さま仏様に感謝。大西滝治郎中将ではないが、神風特攻生みの親・大西中将のフレーズを使えば「深謝」。心の底から感謝、ってこんな状態を指すのであろう。喜色満面、車道に戻る。

飯綱大権現
車道東に都井沢配水地。その先で、城山町若葉台方面からの車道と合流。すぐ先に飯綱大権現。権現様は仏が神という仮の姿で現れた、って神仏習合の賜物。密教というか修験道の影響から生まれたもの。ともあれ、境内から見下ろす津久井湖はなかなかのもの。津久井城址のある小高い山も一望のもと。

城山発電所

権現様で一休みし、さらに進む。1キロ弱歩いただろうか、コミュニティ広場に。野球を楽しんでいる。広場の横は城山発電所。発電所の敷地内を通り、坂をのぼると湖畔に。湖畔といっても、擂鉢上の縁の上。水辺には下りる道はないよう、だ。

城山湖

城山湖。境川の支流・本沢渓谷を堰き止めたダム湖。本沢ダム、とも。とはいうものの、川筋が繋がっているようには見えない。なんとなく、現在では大雨などで溢れた水を放水するために境川水系を使っているようにも思える。

であれば、このダムの水はどこから?チェックした。水は津久井湖から夜間汲み上げている、と。で、電力需要の多い日中に、この城山湖から津久井湖へと落差153mで水を落とし、25万キロワット、12万世帯へ電力を供給している。湖畔に立ち入りを禁止しているのはこのため。揚水と落水の繰り返しで、水位が1日に28mも上下する、と。危なくって、近寄れないわけだ。城山湖のダムが本沢ダム。津久井湖のダムが城山ダム。少々ややこしいが、城山ダムの水を水源にしているのだから城山湖、って論法であれば、それなりに納得。

次の目的地・七国峠に向かう。ランドマークは法政大学・多摩キャンパス。地図をチェックする。城山湖の外周道からは降り口はない。この湖の周りは5キロ程度の素敵なハイキングコースとなっているようだが、時間的にちょっと無理。コミュニティ広場のところから、東に下り、町田街道に続く道筋がある。案内もなく、確信があるわけではないのだが、なんとか進めそうな気もするので、とりあえず歩を進める。 

町民の森の東を下る 
道をくだる。しばらく進み、ダムの堰堤を左手に眺める。進入禁止となっており堰堤に進むことはできない。町民の森の東を下る。大戸、本沢ダム入口、青少年センター入口といった案内を眺めながら、どんどん下る。

上大戸交差点
境川と本沢川が合流する。しばし境川に沿って進み、上大戸交差点に。近くに大戸観音。昔は立派であったのだろうが、現在はさっぱりしたもの。境内に案内:このあたりは横山之荘の相州口。大木戸番所があった。ために大木戸>大戸、と。このあたりは、鶴間から分岐して秩父、高崎方面に向かう「鎌倉街道山之道」でもあった、とか。


法政大学入口
先に進むと町田街道の大戸交差点。町田街道を下る。法政大学入口に。地図をチェックすると相武カントリークラブの中を横切る道がある。そんなはずはない、とは思いながら、多摩の唐木田にある東京国際カントリークラブでは、敷地内を小山田緑地へと進む道があったよな、などと、かすかな望みだけをたよりに進むことに。

相武カントリークラブ

法政大学入口交差点を越えてすぐ、町田街道をはずれて北に小道を進む。しばらくすすむと法政大学トンネルの出口、というか入口。キャンパスの脇を丘陵地にのぼる。竹薮の中をおっかなびっくりで尾根道に。キャンパス近くということで整地されているのかとおもったのだが、ブッシュ。野趣豊かな尾根道を東に進む。相武カントリークラブのフェンスが見える

予想通りというか、残念ながらというか、相武カントリークラブはフェンスに囲まれている。なんとか入口はないかと、フェンスに沿った外周道を北に。しばらく進むと進入禁止のサイン。こんなところに来る人もいないのか、とは思うのだが、もう少し早く案内してほしいもの。引き返す(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

大戸小学校と武蔵岡中学の間に下りる

南に下る。フェンスに沿ってどんどん下る。これで行き止まり、って洒落にならんよな、などと思いながら丘陵地を下る。突然、行き止まり、というか進入禁止。「それはないよな」、と。よっぽどゲートを乗り越えてやろうかともおもったのだが、それも大人気ない、と気持ちを鎮める。あたりを見廻す。なんとなく林の中に踏み分け道っぽい通路。とりあえず進む。前方にフェ ンス。フェンスに沿ってくだる。なんとか平地に。大戸小学校と武蔵岡中学の間に下りることができた。一安心。

東京家政学院入口交差点

南に下り、再び町田街道に。町田街道は八王子の東淺川で甲州街道から南にくだり、町田を下り、東名高速横浜町田インター近くの鶴間まで続く。
町田街道を少し進むと東京家政学院入口交差点。七国峠はこの交差点を北にすすんだ峠道のちょっと東にある。七国峠に続く道はまずもってないだろう、とは思いながらも、とりあえず先に進む。

峠道
東京家政学院前交差点を越え、峠道をのぼる。ゆったりとした上り道。峠を越えるあたりから、七国峠に抜ける道がないかとチェック。それらしき雰囲気のところはあるのだが、整地されているわけでもなく、ブッシュが生い茂る。ちょっと薮に入ってみたが、とてものこと進めるといったものではない。諦めてもとの車道に戻る。

七国峠にこだわるのは、いつかどこかで、鎌倉古道が通る道筋という記事を見た覚えがある、ため。掘割、切り通し、といった風情を楽しむことができないかと、少々残念に思いながらも、藪蛇のうち、とくに蛇が怖くて諦めた次第。

車道を家政学院前交差点に。そこで左折。相原十字路交差点へと向かう。目的地はJR横浜線・相原駅。久しぶりにEZナビをセット。なじかわ知らねど、相原十字路まで進まず、途中から山道に入れ、とのガイド。もう峠道は結構、とはおもいながらも、とりあえず案内の通り先に進む。峠道といっても車の走る大きな道ではある。

峠をこえたあたりから、「下界」が開ける。方向からすれば相原とか多摩境といった街並みではあろう。やはりこのあたりは尾根道である、といったことをあらためて実感。城山湖から結構下ったはずではあるが、大戸そして法政大学、七国峠といったあたりが尾根筋なのではあろう、か。

鎌倉古道の案内

峠を越える。この道筋であれば、ひょっとすれば七国峠へと続く鎌倉古道にあたるかも、といった淡い期待。大正解。道脇に鎌倉古道の案内があった。南の雑木林に入ることになる。北にも道筋。ひょっとすれば北に進み七国峠に続く道案内があるかと、ちょっと北に。案内はない。北に進む整地された道のほか、雑木林に入る道もある。どちらかよくわからない。日も暮れてきた。本日はやめとこうと、峠道・車道に戻る。

JR横浜線・相原駅



車道脇の鎌倉古道案内のところから、山道に入る。心持ち掘割といった雰囲気が残る。雑木林の中を進むと二股に。切り通しといった雰囲気の道を下る。ほんの、あっという間に雑木林を抜ける。畑の脇を下り、里にでる。林の縁を進むと鎌倉古道入口の案内。どうも、さきほどの分岐で違った道を歩いたようだ。とはいってもなんの案内もないわけで、致し方なし。後は一路東へと進みJR横浜線・相原駅に。一路家路に。


相原駅から乗った電車の車窓から丘陵の姿をチェック。電車後方、というから八王子方面だが、小高い台地が聳えている。その台地は東からの台地と繋がっている。相模と八王子、そして多摩はこの台地で隔てたられている。地図を見ただけでは平坦な活字情報が目に入るだけであった。が、これからはこのあたりの地図を眺めたとき、地形のうねりも共に感じることができるではあろう。それがどうした、ということではあるが、自分としては、理由なき達成感にひとりほくそ笑む。

0 件のコメント:

コメントを投稿