会社の同僚から散歩のお誘い。どこか丘陵地を歩きたい、と。はてさて、どこにしようか。八王子から飯能にかけての金子丘陵もいいか、はたまた多摩丘陵・よこやまの道にしようか、とあれこれ思案。で、結局は八王子・片倉駅から絹の道に下る、里山&雑木林&尾根道コースを歩くことにした。先日、絹の道散歩のとき、絹の道資料館で頂戴したハイキングマップに掲載されていた、この「由井の里山自然探索コース」に、なんとなく惹かれるものがあったからである。里山とか雑木林とか尾根道といったキーワードには、滅法弱い我が身ではある。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
本日のルート;京王線・片倉駅>住吉神社・片倉城址公園>国道16号線・東京環状>JR横浜線交差>日本文化大学入口交差点>浅間神社>片倉高校前交差点西>雑木林の尾根道>御殿山・多摩丘陵自然公園>国道16号線>御殿峠交差点>山野美容芸術短大>多摩養育園>御殿山尾根道>道了山跨道橋>大塚山公園・道了堂跡>絹の道>絹の道資料館>鑓水>柚木街道・谷戸入口>鑓水中学・鑓水公園>小山内裏公園>戦車道>南大沢給水所>尾根道幹線道路と交差>桜美林大学野球場>上小山田町>小山田南小学校>小山田桜台>下小山田町・高齢者在宅サービスセンター>宮ノ前公園>すみよし緑地>下小山田町・大泉寺西>よこやまの道上口>大妻女子大多摩キャンパス>小田急・唐木田駅
京王線・片倉駅
京王線・片倉駅で下車。片倉の地名の由来は、「カタクリ」の群生地があったから、とか「集落の片側が崖」という地形を表す言葉であるとか、例によって諸説あり。駅前はいたって素朴。国道16号線を南に下る。
湯殿川
京王線のガードをくぐり、片倉交差点で北野街道を越え、湯殿川にかかる住吉橋を渡る。湯殿川源の流は、と地図を辿る。ほぼ西に向かう。高尾近くの町田街道沿いの拓殖大学あたりが源流点のようだ。京王線・長沼近くで浅川に合流する淺川水系の一支流である。ちなみに、住吉橋のひとつ上流に「カタクリ橋」。地形の「カタクリ説」の存在がわかっただけで、同じ地名がそれまでと違った地平に見えてくる。
住吉神社
住吉橋を渡るとすぐに西に折れる。ちょっと進むと住吉神社。片倉城の鬼門除けとしてまつられた、と。池というか湧水池というか、崖下に湿地が残る。本格的なカメラを構えた多くの人たちが池に向かって盛んにシャッターを押していた。情感乏しきわが身としては、風情よりは時空散歩へと石段をのぼり、おまいり。
室町期に片倉城主・長井某が摂津の住吉神社を勧請したとか、大江某が長門の住吉神社を勧請したとか、由来はあれこれ。定説はない。
住吉神社の祭神って、伊邪那岐大神の子供である、底筒之男命・中筒之男命・表筒之男命。神功皇后が三韓征伐の際、この住吉三柱の守護により無事に目的達成。摂津国西成郡田蓑島(現 大阪市西淀川区佃)におまつりしたのがはじまり、と。
住吉三柱まつる神社は全国に2100ほどもあるそうだ。が、あれこれ散歩をしても、東京近辺ではあまりみかけない。佃島の住吉神社は有名だが、それって家康とのつながりで江戸期の話。この地の住吉神社は室町期に開かれた、とのことであるが、なんとなく「?」が残る。そのうちに調べてみよう。
片倉城址
住吉神社を離れ、片倉城址に向かう。といっても、同じ台地内。成行きで歩いていると、偶然にも「片倉城址」への案内。『新編武蔵風土記稿』によれば東南は沼地、西は高い平地。高さ20m程度の山にある、という。
坂道というか、竹林の細をのぼる。台地上に広場。本丸、二の丸、三の丸(今は畑)があったところ。空堀、縦堀、土塁、馬出などの遺構が残る。築城時期は室町前期と推定されてはいるが、よくわかっていない。鎌倉幕府別当大江広元の子孫の長井道広が築城し、その後、山之内上杉氏に属する大石氏が支配して鎌倉道を守っていたとの説が有力。大江氏がこの地に関係をもったのは建暦3年(1213年)の「和田合戦」での活躍のため。この合戦において、多摩に覇をとなえる横山時兼以下の横山党は和田義盛に組し、北条軍に戦いを挑む。が、武運つたなく戦に破れる。ために多摩の横山庄は幕府に領地没収され、結果、大江広元に所領が与えられることになった、とか。
大江広元
大江広元といえば鎌倉散歩が思い出される。頼朝のお墓の近くに眠っていた。頼朝を支えた実務型官僚といったタイプの人物であったかと思う。朝廷の下級官僚から身を起こし、初代政所(まんのどころ)別当にまでなった人物。頼朝に守護・地頭設置を献策したのは、この広元と言われている。
以下、真に勝手な想像であるが、このあたりには由井小学校とか由井中学校といった名前が残る。現在の地名にはないのだが、昔はこのあたりは由井村といった、とか。先ほどの和田合戦で横山党と北条軍が戦ったのが「由比ガ浜」。勝者大江氏がこの地に領地をもったとき、鎌倉由来の「由比>由井」をいう地名を使ったのだろうか。勝手な想像というか妄想。なんら根拠なし。が、自分では妙に納得。
兵衛川
片倉城址公園を離れ、国道16号線を南に下る。JR横浜線をくぐり兵衛川にかかる兵衛橋を渡り、日本文化大学入口交差点を過ぎる。兵衛川の源流はすこし南に下った熊野神社・福昌寺のあたり。流れはJR横浜線に沿って北に進み、横浜線を越えたところで湯殿川に合流する。
浅間神社
交差点を少し南に進み、国道16号線を離れる。少し西に進むと小さな祠。浅間神社、と。清々しく整っている。地元の人達のお世話の賜物であろう。浅間神社脇から細い道が丘に向かう。
周囲には里山の風景が広がる。散歩をはじめていくつもの美しい里山に出会った。多摩というか町田の小山田の里もよかった。埼玉・寄居の車山あたりの里山も忘れられない。狭山湖に近い野山北・六道山公園あたりの里山もいい感じであった。心休まる風景がまだまだ残っている、などと、散歩で出合った里山を思い起こし先に進む。
大きな車道。16号線・片倉高校前交差点からJR横浜線・みなみ野駅に続く。地図で見ると駅の西には「八王子みなみ野シティ」が広がる。かつての里山を切り開いた住宅地。計画では28,000人が住むことになる、とか。
雑木林の尾根道
車道を越える。ここからは雑木林の尾根道。木橋と崖に注意、といった看板もある。確かに雑木林越しに眺める谷との比高差も結構ある。雑木林を抜けるとしばらく砂利道が続く。そのあたりでは西側が開ける。広がる住宅街は「八王子みなみ野シティ」、であろう。天気がよければ、北から南にかけて大菩薩、高尾、富士山、丹沢の山々を見ることができる、とか。あいにく天気が悪い。ちょっと残念。砂利道を進むと国道16号線・東京工科大学前交差点から延びる車道。これも「みなみ野シティ」に続いている。
京王線・片倉駅
京王線・片倉駅で下車。片倉の地名の由来は、「カタクリ」の群生地があったから、とか「集落の片側が崖」という地形を表す言葉であるとか、例によって諸説あり。駅前はいたって素朴。国道16号線を南に下る。
湯殿川
京王線のガードをくぐり、片倉交差点で北野街道を越え、湯殿川にかかる住吉橋を渡る。湯殿川源の流は、と地図を辿る。ほぼ西に向かう。高尾近くの町田街道沿いの拓殖大学あたりが源流点のようだ。京王線・長沼近くで浅川に合流する淺川水系の一支流である。ちなみに、住吉橋のひとつ上流に「カタクリ橋」。地形の「カタクリ説」の存在がわかっただけで、同じ地名がそれまでと違った地平に見えてくる。
住吉神社
住吉橋を渡るとすぐに西に折れる。ちょっと進むと住吉神社。片倉城の鬼門除けとしてまつられた、と。池というか湧水池というか、崖下に湿地が残る。本格的なカメラを構えた多くの人たちが池に向かって盛んにシャッターを押していた。情感乏しきわが身としては、風情よりは時空散歩へと石段をのぼり、おまいり。
室町期に片倉城主・長井某が摂津の住吉神社を勧請したとか、大江某が長門の住吉神社を勧請したとか、由来はあれこれ。定説はない。
住吉神社の祭神って、伊邪那岐大神の子供である、底筒之男命・中筒之男命・表筒之男命。神功皇后が三韓征伐の際、この住吉三柱の守護により無事に目的達成。摂津国西成郡田蓑島(現 大阪市西淀川区佃)におまつりしたのがはじまり、と。
住吉三柱まつる神社は全国に2100ほどもあるそうだ。が、あれこれ散歩をしても、東京近辺ではあまりみかけない。佃島の住吉神社は有名だが、それって家康とのつながりで江戸期の話。この地の住吉神社は室町期に開かれた、とのことであるが、なんとなく「?」が残る。そのうちに調べてみよう。
片倉城址
住吉神社を離れ、片倉城址に向かう。といっても、同じ台地内。成行きで歩いていると、偶然にも「片倉城址」への案内。『新編武蔵風土記稿』によれば東南は沼地、西は高い平地。高さ20m程度の山にある、という。
坂道というか、竹林の細をのぼる。台地上に広場。本丸、二の丸、三の丸(今は畑)があったところ。空堀、縦堀、土塁、馬出などの遺構が残る。築城時期は室町前期と推定されてはいるが、よくわかっていない。鎌倉幕府別当大江広元の子孫の長井道広が築城し、その後、山之内上杉氏に属する大石氏が支配して鎌倉道を守っていたとの説が有力。大江氏がこの地に関係をもったのは建暦3年(1213年)の「和田合戦」での活躍のため。この合戦において、多摩に覇をとなえる横山時兼以下の横山党は和田義盛に組し、北条軍に戦いを挑む。が、武運つたなく戦に破れる。ために多摩の横山庄は幕府に領地没収され、結果、大江広元に所領が与えられることになった、とか。
大江広元
大江広元といえば鎌倉散歩が思い出される。頼朝のお墓の近くに眠っていた。頼朝を支えた実務型官僚といったタイプの人物であったかと思う。朝廷の下級官僚から身を起こし、初代政所(まんのどころ)別当にまでなった人物。頼朝に守護・地頭設置を献策したのは、この広元と言われている。
以下、真に勝手な想像であるが、このあたりには由井小学校とか由井中学校といった名前が残る。現在の地名にはないのだが、昔はこのあたりは由井村といった、とか。先ほどの和田合戦で横山党と北条軍が戦ったのが「由比ガ浜」。勝者大江氏がこの地に領地をもったとき、鎌倉由来の「由比>由井」をいう地名を使ったのだろうか。勝手な想像というか妄想。なんら根拠なし。が、自分では妙に納得。
兵衛川
片倉城址公園を離れ、国道16号線を南に下る。JR横浜線をくぐり兵衛川にかかる兵衛橋を渡り、日本文化大学入口交差点を過ぎる。兵衛川の源流はすこし南に下った熊野神社・福昌寺のあたり。流れはJR横浜線に沿って北に進み、横浜線を越えたところで湯殿川に合流する。
浅間神社
交差点を少し南に進み、国道16号線を離れる。少し西に進むと小さな祠。浅間神社、と。清々しく整っている。地元の人達のお世話の賜物であろう。浅間神社脇から細い道が丘に向かう。
周囲には里山の風景が広がる。散歩をはじめていくつもの美しい里山に出会った。多摩というか町田の小山田の里もよかった。埼玉・寄居の車山あたりの里山も忘れられない。狭山湖に近い野山北・六道山公園あたりの里山もいい感じであった。心休まる風景がまだまだ残っている、などと、散歩で出合った里山を思い起こし先に進む。
大きな車道。16号線・片倉高校前交差点からJR横浜線・みなみ野駅に続く。地図で見ると駅の西には「八王子みなみ野シティ」が広がる。かつての里山を切り開いた住宅地。計画では28,000人が住むことになる、とか。
雑木林の尾根道
車道を越える。ここからは雑木林の尾根道。木橋と崖に注意、といった看板もある。確かに雑木林越しに眺める谷との比高差も結構ある。雑木林を抜けるとしばらく砂利道が続く。そのあたりでは西側が開ける。広がる住宅街は「八王子みなみ野シティ」、であろう。天気がよければ、北から南にかけて大菩薩、高尾、富士山、丹沢の山々を見ることができる、とか。あいにく天気が悪い。ちょっと残念。砂利道を進むと国道16号線・東京工科大学前交差点から延びる車道。これも「みなみ野シティ」に続いている。
御殿山の山裾をぐるっと迂回
車道を横切りふたたび丘陵地に。御殿山の山裾をぐるっと迂回する道筋。このあたりは昔「多摩丘陵自然公園」と呼ばれていた、と。昭和25年の指定。片倉から多摩市の桜ヶ丘公園にかけての丘陵地が、そう呼ばれていた。カシミール3Dでチェック。
地形
聖蹟桜ヶ丘公園方面からいわゆる横山の道、そして戦車道、小山内裏公園をへて御殿峠に続く尾根道、そしてもうひとつ、平山城址公園、というか高幡不動方面から平山城址公園、長沼公園、野猿峠から大塚山をへて御殿峠に続く尾根道が見える。こういった丘陵地を「多摩丘陵自然公園」としたのだろう。景色のよい尾根道が続いていたのではあろう。が、都市開発の影響で尾根道はところどころで分断され住宅地に変わっている、と。「みなみ野シティ」もそのひとつ。また、先日歩いた野猿峠と大塚山の間にある北野団地もそういった雰囲気であった。もっとも、多摩ニュータウン全体が多摩丘陵を切り開いたものであるわけで、始めて多摩・南大沢一帯を目にしたときの、あの「近未来的空間」に迷い込んだといった感覚を思い出せば、大概のことは「普通」に思えてはしまう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
御殿峠
夢見から散歩に戻る。御殿峠を迂回するこの道筋には相原から続く昔の鎌倉道も合流している、と。地図には、日本閣の近くに鎌倉道が合流していた。が、残念ながら確認できず。
丘陵を抜けると国道16号線。自然公園前交差点。すこし東に戻り御殿峠に。名前の由来は粟飯原氏だか、藍原氏だかの館があった、とか。
が、この峠で思い出すのは明治天皇の兎狩り。明治14年のこと。その狩をことのほか愛で、急遽、もう一日兎狩りとあいなった。で、そのお狩場となったのが、聖跡桜ヶ丘の地であった。このことは聖跡桜ヶ丘散歩でメモしたとおり。
御殿山尾根道に
御殿峠からは国道を離れ、山野美容芸術短大のところを東に入る。少し進むと多摩養育園。御殿山尾根道に抜けるには、この養育園の敷地内を通ることになる。
車道を横切りふたたび丘陵地に。御殿山の山裾をぐるっと迂回する道筋。このあたりは昔「多摩丘陵自然公園」と呼ばれていた、と。昭和25年の指定。片倉から多摩市の桜ヶ丘公園にかけての丘陵地が、そう呼ばれていた。カシミール3Dでチェック。
地形
聖蹟桜ヶ丘公園方面からいわゆる横山の道、そして戦車道、小山内裏公園をへて御殿峠に続く尾根道、そしてもうひとつ、平山城址公園、というか高幡不動方面から平山城址公園、長沼公園、野猿峠から大塚山をへて御殿峠に続く尾根道が見える。こういった丘陵地を「多摩丘陵自然公園」としたのだろう。景色のよい尾根道が続いていたのではあろう。が、都市開発の影響で尾根道はところどころで分断され住宅地に変わっている、と。「みなみ野シティ」もそのひとつ。また、先日歩いた野猿峠と大塚山の間にある北野団地もそういった雰囲気であった。もっとも、多摩ニュータウン全体が多摩丘陵を切り開いたものであるわけで、始めて多摩・南大沢一帯を目にしたときの、あの「近未来的空間」に迷い込んだといった感覚を思い出せば、大概のことは「普通」に思えてはしまう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
御殿峠
夢見から散歩に戻る。御殿峠を迂回するこの道筋には相原から続く昔の鎌倉道も合流している、と。地図には、日本閣の近くに鎌倉道が合流していた。が、残念ながら確認できず。
丘陵を抜けると国道16号線。自然公園前交差点。すこし東に戻り御殿峠に。名前の由来は粟飯原氏だか、藍原氏だかの館があった、とか。
が、この峠で思い出すのは明治天皇の兎狩り。明治14年のこと。その狩をことのほか愛で、急遽、もう一日兎狩りとあいなった。で、そのお狩場となったのが、聖跡桜ヶ丘の地であった。このことは聖跡桜ヶ丘散歩でメモしたとおり。
御殿山尾根道に
御殿峠からは国道を離れ、山野美容芸術短大のところを東に入る。少し進むと多摩養育園。御殿山尾根道に抜けるには、この養育園の敷地内を通ることになる。
地層観察ポイント
駐車場には土がむきだしになった崖。地層が観察できるようになっている。赤土の下に礫っぽい地層。こういったところに地下水が溜まるのだろう、などとなんの根拠もなく、ひとり納得。地層観察ポイントをはなれ園内をあちら、こちらと進み、尾根道を探す。
道了山跨道橋
なんとかかんとか尾根道に。フェンスに沿って進む。フェンスの向こうは東京工科大学であろう。尾根道はほぼ西から東に進む。尾根道はいい。尾根道というだけで、心が弾む。
しばらく進むと跨道橋。国道16号線のバイパスを跨ぐ、道了山跨道橋。橋の少し南は鑓水峠。橋の上から南北の景色を眺める。結構いい景観。
大塚山
橋を渡ると前方に小高い山。大塚山である。標高213m。山裾を時計と逆周りに歩き「絹の道碑」に。先日、この絹の道を歩いたとき、行けなかった山頂の「道了堂跡」に進む。先回は、絹の道記念館の閉館時間が気になり石段を登る余裕がなかったわけである。
道了堂跡
山頂には礎石が残る。道了堂跡だろう。「絹の道」での商売が盛んなりしとき、この地の絹商人・鑓水商人が財を誇ってか、浅草花川戸から勧請したもの。が、鑓水商人の衰えとともに、今は、ない。
尾根道緑道を経て小田急線・唐木田駅へ
石段を下りで絹の道を下る。絹の道資料館に立ち寄り、鑓水を過ぎ鑓水小山給水所のところまでは、前回の散歩と同じコース。前回はここから多摩境の駅に進んだが、今回はここから小山内裏公園を抜け尾根道緑道を経て小田急線・唐木田駅へと進むことに。
小山内裏公園
小山内裏公園って、結構ありがたそうな名前。由来についてははっきりしないが、このあたりの地名が「小山ケ丘」であり、また、小山内裏公園の北、多摩ニュータウン通りに沿って、内裏谷戸公園とか、内裏橋といった地名がある。ふたつの地名「小山」+「内裏」=小山内裏、としたのであろう。
小山内裏公園の
戦車道
中の尾根道を進む。尾根道緑道とも戦車道とも呼ばれている。これも既にメモしたとおり、昔相模原にあった陸軍造兵廠で製造された戦車の走向実験がこの尾根道でおこなれた、ため。淵野辺のあたりは戦前、陸軍兵器学校・陸軍航空技術飛行機速度検定所や原町田憲兵分隊が駐屯する陸軍の街であったわけだ。戦後は米軍が接収。米軍補給廠となる。戦車道には陸軍の戦車に替わって米軍の戦車やブルドーザーが走っていた、と。
尾根道幹線と交差
尾根道緑道を進む。ところどころに見晴らし広場。相模原の町並み、丹沢の山並みが広がる。少し進むと尾根道幹線と交差。尾根道幹線道路は、京王線の永山というか若葉台あたりから多摩を東西に横切り、唐木田、長池公園傍をへて町田街道に抜ける。ほぼ「よこやまの道」と並行して進む大きな車道。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
目的地は唐木田であり、本来ならここで尾根道を乗り換えなければならなかったのだが、うっかり。そのまま尾根道緑道を進んだ。尾根道緑道って、小山内裏公園から唐木田に続く尾根道と思い込んでいたわけだ。
桜美林学園野球場
尾根道緑道を進む。桜美林学園野球場のサイン。このあたりから、ちょっとおかしいぞ、とは思い始めてはいた。EZナビで唐木田駅までの距離をチェックすると、縮まるどころか逆に増えている。が、確認することなく歩みを続ける。なんとなく丘陵を下る雰囲気。小山田南小学校、小山田桜台、桜美林協会。住所は下小山田町。これはあまりに、ということで現在地をチェック。あらあら、とんでもない方向に進んできている。最寄の駅はJR淵野辺駅などと、なっている。唐木田までは5キロ弱、と。
町田市リサイクル文化センター
Ezナビで小田急・唐木田駅をセット。ガイドに従い進むことに。町田市のリサイクル文化センターの近くからスタート。市考古資料室などといった惹かれる施設もあるのだが、寄る気力、これなく、先に進む。もっとも時間も5時を過ぎており、閉館してはいただろう。
鶴見川の上流
道を進み、宮ノ前公園脇を進み、水路を渡る。この水路は鶴見川の上流であろう。源流点は町田市の北部、多摩市との境でもある小山田地区。川の脇には小山田神社もある。残念ながらここにも寄ること叶わず。川を渡ってちょっと進むと車の多い、といっても、そこそこの交通量だが、ともあれ、車道に出る。道の東の緑は小山田緑地であろう。
大泉寺
道を北に。大泉寺の案内。ここはいつだったか訪れたことがある。小山田氏ゆかりの寺。鎌倉時代、この地で覇をとなえた小山田有重の館があったところ。有重が家督を行重に譲ったとき、館近くに寺をつくった。高昌寺と呼ばれた。その後、小山田氏が没落。15世紀に大泉寺が開基された。そのとき、高昌寺もこの地に移された、と。
小山田氏
小山田氏のあれこれをちょっとメモしておく。小山田氏の祖は秩父氏。桓武平氏の流れとも。小山田氏の開祖有重は秩父重弘の次男。重弘の長男重能は畠山姓を名乗る。その重能の次男が豪傑で名高い畠山重忠である。小山田氏と畠山氏は兄弟である。有重はもともとは保土ヶ谷の地で榛ケ谷御厨を治めていた。
この地に移ってきたきっかけは、小山田荘の別当に任命された、ため。別当とは馬牧の管理人ということである。上にメモしたように、大泉寺のあたりに館を構えた。有重の母が横山党・横山孝兼(小野孝兼)の娘であったため、その遺領土を継いだ、とも言われる。八王子を根拠地として相模に勢力を広げようとした横山氏は積極的な婚姻政策をとった。秩父氏と縁を結んだのも、そのひとつである。
母の遺領は小山田の地だけではなかった、よう。小野路・稲城・矢野口にもひろがっていた。ために、小野路は次男義重が、稲城は三男重成が継ぎ稲毛氏と称す。また矢野口・小沢城は稲城重成の子の小沢小次郎が領した。また、保土ヶ谷の地は棒谷重朝が継いだ。小山田氏が没落するのは、二俣川で畠山重忠が北条によって粛清された、とき。畠山氏の一族として、稲城三郎重成や棒谷四郎重朝も誅される。
小山田氏が再び歴史上に登場するのは、有重から六代目の小山田高家のとき。延元元年(1336)南北朝動乱の時である。足利尊氏・直義兄弟と戦う南朝軍の一員として名前が登場する。摂津国・湊川の合戦において、新田義貞の身代わりとして討ち死にした。これが小山田高家。湊川の美談として 後世に伝えられた。ちなみに町田市忠生の地名の由来は、この美談による。忠臣高家の生まれた村という ことから忠生村の名がつき、現在での忠生となった。
あれこれ大泉寺や小山田氏のことをメモした。今回は時間なく訪れることはなかったのだが、小山田氏の記憶をぼんやりしてきたので、ちょっと整理といった、按配。
大泉寺のあたりからは、谷戸といった道筋を北に進む。美しい里山が続く。いつだったか歩いた東京国際カントリー倶楽部脇の尾根道から小山田緑道への美しい里山の景観が思い出される。これも時間があれば寄ってみたいのだが、如何せん既に6時が近い。今回は先を急ぐ。
蛇行する坂道を進み尾根筋にのぼる。そこには、ちょっとした公園。これって、「横山の道」への上り口。京王線・永山から続く「よこやまの道」の道筋である。ここに来たのはもう1年も前だろう。ここから小山田緑地へと下ったり、西に大妻女子大の裏を進むも、建設工事のため通行止めとなった、といったことが思い出される。
小田急唐木田駅
駐車場には土がむきだしになった崖。地層が観察できるようになっている。赤土の下に礫っぽい地層。こういったところに地下水が溜まるのだろう、などとなんの根拠もなく、ひとり納得。地層観察ポイントをはなれ園内をあちら、こちらと進み、尾根道を探す。
道了山跨道橋
なんとかかんとか尾根道に。フェンスに沿って進む。フェンスの向こうは東京工科大学であろう。尾根道はほぼ西から東に進む。尾根道はいい。尾根道というだけで、心が弾む。
しばらく進むと跨道橋。国道16号線のバイパスを跨ぐ、道了山跨道橋。橋の少し南は鑓水峠。橋の上から南北の景色を眺める。結構いい景観。
大塚山
橋を渡ると前方に小高い山。大塚山である。標高213m。山裾を時計と逆周りに歩き「絹の道碑」に。先日、この絹の道を歩いたとき、行けなかった山頂の「道了堂跡」に進む。先回は、絹の道記念館の閉館時間が気になり石段を登る余裕がなかったわけである。
道了堂跡
山頂には礎石が残る。道了堂跡だろう。「絹の道」での商売が盛んなりしとき、この地の絹商人・鑓水商人が財を誇ってか、浅草花川戸から勧請したもの。が、鑓水商人の衰えとともに、今は、ない。
尾根道緑道を経て小田急線・唐木田駅へ
石段を下りで絹の道を下る。絹の道資料館に立ち寄り、鑓水を過ぎ鑓水小山給水所のところまでは、前回の散歩と同じコース。前回はここから多摩境の駅に進んだが、今回はここから小山内裏公園を抜け尾根道緑道を経て小田急線・唐木田駅へと進むことに。
小山内裏公園
小山内裏公園って、結構ありがたそうな名前。由来についてははっきりしないが、このあたりの地名が「小山ケ丘」であり、また、小山内裏公園の北、多摩ニュータウン通りに沿って、内裏谷戸公園とか、内裏橋といった地名がある。ふたつの地名「小山」+「内裏」=小山内裏、としたのであろう。
小山内裏公園の
戦車道
中の尾根道を進む。尾根道緑道とも戦車道とも呼ばれている。これも既にメモしたとおり、昔相模原にあった陸軍造兵廠で製造された戦車の走向実験がこの尾根道でおこなれた、ため。淵野辺のあたりは戦前、陸軍兵器学校・陸軍航空技術飛行機速度検定所や原町田憲兵分隊が駐屯する陸軍の街であったわけだ。戦後は米軍が接収。米軍補給廠となる。戦車道には陸軍の戦車に替わって米軍の戦車やブルドーザーが走っていた、と。
尾根道幹線と交差
尾根道緑道を進む。ところどころに見晴らし広場。相模原の町並み、丹沢の山並みが広がる。少し進むと尾根道幹線と交差。尾根道幹線道路は、京王線の永山というか若葉台あたりから多摩を東西に横切り、唐木田、長池公園傍をへて町田街道に抜ける。ほぼ「よこやまの道」と並行して進む大きな車道。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
目的地は唐木田であり、本来ならここで尾根道を乗り換えなければならなかったのだが、うっかり。そのまま尾根道緑道を進んだ。尾根道緑道って、小山内裏公園から唐木田に続く尾根道と思い込んでいたわけだ。
桜美林学園野球場
尾根道緑道を進む。桜美林学園野球場のサイン。このあたりから、ちょっとおかしいぞ、とは思い始めてはいた。EZナビで唐木田駅までの距離をチェックすると、縮まるどころか逆に増えている。が、確認することなく歩みを続ける。なんとなく丘陵を下る雰囲気。小山田南小学校、小山田桜台、桜美林協会。住所は下小山田町。これはあまりに、ということで現在地をチェック。あらあら、とんでもない方向に進んできている。最寄の駅はJR淵野辺駅などと、なっている。唐木田までは5キロ弱、と。
町田市リサイクル文化センター
Ezナビで小田急・唐木田駅をセット。ガイドに従い進むことに。町田市のリサイクル文化センターの近くからスタート。市考古資料室などといった惹かれる施設もあるのだが、寄る気力、これなく、先に進む。もっとも時間も5時を過ぎており、閉館してはいただろう。
鶴見川の上流
道を進み、宮ノ前公園脇を進み、水路を渡る。この水路は鶴見川の上流であろう。源流点は町田市の北部、多摩市との境でもある小山田地区。川の脇には小山田神社もある。残念ながらここにも寄ること叶わず。川を渡ってちょっと進むと車の多い、といっても、そこそこの交通量だが、ともあれ、車道に出る。道の東の緑は小山田緑地であろう。
大泉寺
道を北に。大泉寺の案内。ここはいつだったか訪れたことがある。小山田氏ゆかりの寺。鎌倉時代、この地で覇をとなえた小山田有重の館があったところ。有重が家督を行重に譲ったとき、館近くに寺をつくった。高昌寺と呼ばれた。その後、小山田氏が没落。15世紀に大泉寺が開基された。そのとき、高昌寺もこの地に移された、と。
小山田氏
小山田氏のあれこれをちょっとメモしておく。小山田氏の祖は秩父氏。桓武平氏の流れとも。小山田氏の開祖有重は秩父重弘の次男。重弘の長男重能は畠山姓を名乗る。その重能の次男が豪傑で名高い畠山重忠である。小山田氏と畠山氏は兄弟である。有重はもともとは保土ヶ谷の地で榛ケ谷御厨を治めていた。
この地に移ってきたきっかけは、小山田荘の別当に任命された、ため。別当とは馬牧の管理人ということである。上にメモしたように、大泉寺のあたりに館を構えた。有重の母が横山党・横山孝兼(小野孝兼)の娘であったため、その遺領土を継いだ、とも言われる。八王子を根拠地として相模に勢力を広げようとした横山氏は積極的な婚姻政策をとった。秩父氏と縁を結んだのも、そのひとつである。
母の遺領は小山田の地だけではなかった、よう。小野路・稲城・矢野口にもひろがっていた。ために、小野路は次男義重が、稲城は三男重成が継ぎ稲毛氏と称す。また矢野口・小沢城は稲城重成の子の小沢小次郎が領した。また、保土ヶ谷の地は棒谷重朝が継いだ。小山田氏が没落するのは、二俣川で畠山重忠が北条によって粛清された、とき。畠山氏の一族として、稲城三郎重成や棒谷四郎重朝も誅される。
小山田氏が再び歴史上に登場するのは、有重から六代目の小山田高家のとき。延元元年(1336)南北朝動乱の時である。足利尊氏・直義兄弟と戦う南朝軍の一員として名前が登場する。摂津国・湊川の合戦において、新田義貞の身代わりとして討ち死にした。これが小山田高家。湊川の美談として 後世に伝えられた。ちなみに町田市忠生の地名の由来は、この美談による。忠臣高家の生まれた村という ことから忠生村の名がつき、現在での忠生となった。
あれこれ大泉寺や小山田氏のことをメモした。今回は時間なく訪れることはなかったのだが、小山田氏の記憶をぼんやりしてきたので、ちょっと整理といった、按配。
大泉寺のあたりからは、谷戸といった道筋を北に進む。美しい里山が続く。いつだったか歩いた東京国際カントリー倶楽部脇の尾根道から小山田緑道への美しい里山の景観が思い出される。これも時間があれば寄ってみたいのだが、如何せん既に6時が近い。今回は先を急ぐ。
蛇行する坂道を進み尾根筋にのぼる。そこには、ちょっとした公園。これって、「横山の道」への上り口。京王線・永山から続く「よこやまの道」の道筋である。ここに来たのはもう1年も前だろう。ここから小山田緑地へと下ったり、西に大妻女子大の裏を進むも、建設工事のため通行止めとなった、といったことが思い出される。
小田急唐木田駅
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