金曜日, 7月 13, 2007

平山城址・絹の道散歩

先日府中から国立に多摩川に沿って、また立川から府中へと立川崖線に沿って歩いた。その時気になっていたのは、多摩川を隔てて聳える多摩丘陵。あそこは聖蹟桜ヶ丘か、ということはその東の丘は米軍のレクレーションセンターのあるところか、あのあたりは高幡不動か、と、あたりをつけながら歩いた。

そのときふと、平山城址公園ってどのあたりだろう、と地図をチェック。昔南大沢から分倍河原に向かって歩いたことがあるのだが、平山城址公園のそばの道を越え、北野街道に出た。そのときは、日没時間切れのため結局、平山城址公園に行けなかった。そのことが少々心残りであったのだろう。ということで、とある日曜日、平山城址公園へとでかけることにした。

行く前に地図をチェック。平山城址公園のそばに長沼公園がある。またその西には野猿峠・野猿街道が走っている。さらにその西南には「絹の道」のマーク。横浜開港時、八王子で集めた絹を横浜まで運んだ道筋とか。絹の道って、多摩の歴史などを読んでいると、しばしば登場するキーワード。いい機会なのでそこまで足を伸ばすことにした。距離は10キロ程度。が、カシミール3Dでチェックすると、結構なアップダウン。多摩の丘陵を登ったり降りたりの散歩となりそう。少々膝に不安を覚えながらも、まずは最初の目的に京王線平山城址公園に向かう事にした。



本日のルート;京王線・平山城址駅>宗印寺>平山城址公園>北野街道>長沼公園>展望台・南陽口>長沼公園・野猿峠口>絹ヶ丘>白山神社>北野台>大塚山公園>絹の道>絹の道資料館>鑓水>小泉家屋敷>京王相模原線・多摩境駅

平山城址公園駅

平山城址公園駅に降りる。のんびりとした駅前。ローカル線の旅といった風情。駅前で案内をチェック。平山季重を巡る散歩コースといった案内がある。
さて、最初の目的地平山城址公園に行くルートを探す。穏当に歩くとすれば、北野街道をすこし東に戻り、先日南大沢から分倍河原に戻る際に歩いた峠越えの車道であろう。途中から公園に上る入り口もあった、かと。
宗印寺から丘陵に上る
が、地図を眺めていると駅の南、北野街道からすこし丘陵地に入ったあたりに宗印寺。このお寺の裏山あたりから城址公園に上る道があるにちがいない、と故なき「確信」のもと歩を進める。
お寺に着く。眼下の眺めが美しい。登り道はないものかとチェック。お寺の西脇から山に向かう細道がある。とりあえず進む。

先に続く。結局オンコース。しばらく進むと、森を離れ住宅街に出る。住宅街の西端を進む。平山京王緑地に沿ってのぼる。京王研修センターと京王グランドの間を抜け、下からのぼってくる車道を西に折れ、少し進めば平山城址公園の入口に到着。

平山城址公園

平山城址公園の案内;「この地は遠く、嘉永の昔、今より七百七十余年前、源平一の谷の合戦で、熊谷直実と武勇を誇った源氏片の侍大将平山武者所季重の居住地で、居館の跡はこの下の市立図書館あたりにある。左方に突出した丘は丸山と呼び、季重居住の頃は見張り所の置かれたところで、勇士の名に因んでこの苑地を平山城址公園と名付けた」、と。

入口脇に駐車場。尾根筋となっている。案内板をチェック。公園敷地は尾根から下るよう。谷筋に沿ってルートが書かれている。下に進み、公園内を歩いてみたい、とは思うものの、例によってあまり時間もない。次の目的地・長沼公園に進むことに。

野猿尾根道コース

尾根道は「野猿尾根道コース」となっている。長沼公園をへて野猿峠・野猿街道に続いているのだろう。が、この尾根道コース、「私有地のため通行禁止」、と。いまさらそれはない、ということで、進めるところまでは進むことにする。快適な尾根道を進む。しばらく行くと再び「通行禁止のサイン」。その先に、焼け落ちた民家跡。残念ながらこれ以上先に進むのはあきらめ、近くにあった下り道をおりる。

北野街道に戻る

道を下ると住宅街。再び山に入る道はないものか、と意識しながら歩く。が、道は見つからず。結局、北野街道まで戻ってしまった。北野街道を西に進む。適当に進み、EZナビで長沼公園をチェック。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

長沼公園
ガイドに従って、北野街道から離れ、山道に入る。山道といっても車道であり、舗装もされている。この道は北野街道・長沼公園入り口交差点から続く道であった。道は細い。車一台がかろうじて通れる車幅。
しばらく進むと車止め。そこから先は尾根道にのぼる山道だけとなる。公園というより完全な山地。長沼「公園」、という名前故に、芝生の広がる、いわゆる「公園」をイメージしていたのだが、予想外の展開。聖蹟桜ヶ丘公園にしても、平山城址公園にしても、公園とはいうものの、林そのもの、丘陵地そのものだったわけで、なにゆえ長沼公園だけ、いわゆる公園と考えていたのか自分でも理解に苦しむのだけれども、ともあれ、予想外の野趣豊かな自然に直面することになった。

霧降の道コース
しばらく進むと案内。尾根道にはいくつかのルートがある。長泉寺尾根ルート、西長泉寺尾根ルート、西尾根ルートとかとかルートもいくつか用意されている。が、文字通り「脛に傷もつ」我が身としては、あまり膝に負担がないコースと、結局は簡易舗装がされている「霧降の道コース」をとり、尾根に登る。道に沿って「柿木谷戸」が続く。柿木谷戸には西の沢が合流。西尾根の西側にはひよどり沢が下る。尾根道と谷戸が入り組む。尾根に到着。そこからは多摩の街並みが見える。南大沢のあたりだろうか。

野猿尾根道コースを東に

尾根道は「野猿尾根道コース」となっている。西に向かえば野猿口。東に向かえば向陽台口に。さきほどの平山城址公園での「通行止め」のその先など、どうなっているものやらと、ひたすらの好奇心で東に進む。
気持のいい尾根道を進む。途中に展望台。北に広がる高尾、金子丘陵などなどが一望のもと。先に進むと丘陵地の端。山はここで一度切れ、谷地となり、その先に再び平山城址公園に続く丘陵が盛り上がっている。谷地のあたりは宅地開発され、瀟洒な住宅が山裾まで続いている。
平山城址公園と長沼公園は尾根道でつながっているわけではなかった。「通行禁止」のその先の姿を眺め、なんとなく納得し、引き返す。

野猿尾根道コースを西に
尾根道をしばらく西に進むと民家、というかお休み処。先に進み、「バス停方面」といった案内に従い西に進む。住宅街を抜けると野猿街道にあたる。

野猿街道
野猿(やえん)街道は八王子市の中心部と多摩市とを結んでといる。八王子市側の起点は甲州街道。線路を南へ越えて八王子駅南口を経て東へ進み北野に。ここまでは、北野街道とも呼ばれる。北野から南東へと丘を登り、野猿峠を越えて下柚木に。そこで東進して多摩市一ノ宮で川崎街道に合流する。 現在では八王子市街と多摩ニュータウン方面を繋ぐ ルートとして交通量の多い道路だが、かつての野猿峠はかなり険しい山道であったらしい。

野猿峠の名前の由来だが、「武蔵名勝図会」によれば、大石道俊(定久)がこの峠に甲を埋めて碑を建てた、とか。で、当時は「甲山峠」と呼ばれたようだが、その後、甲を申と書き間違え、「申山峠」と。それが、猿山峠となり、江戸の末期には何故だか知らねど、「猿丸峠」となった。で、結局、野猿峠となったのはいつの頃からなのかはっきりしない。国土地理院が正式に「野猿峠」と書くようになったのは、昭和28年から。当時、京王電鉄が峠付近をハイキングコースと整備し、「野猿峠」という名前を使い始めたともいわれるが、確証はないよう。

大石定久
大石定久って滝山城とか戸倉城とか高月城とか、八王子・秋川・青梅散歩の折々に出会う。八王子一帯に覇を唱えた豪族である。そう言えば、東久留米の浄牧寺も大石氏ゆかりの寺であった。滝山城を娘婿の北条氏照に譲り、秋川渓谷の入口の地・戸倉城に隠居したといわれるが、野猿峠で割腹したとか、柚木城に移されたとか、はたまた、この峠下、下柚木にある、永林寺に住んでいた、とか、諸説あり。

野猿街道からの次の目的地は「絹の道資料館」。途中に「白山神社」。どうせのことなら、ちょっと寄ってみよう、ということでEZナビをチェック。ガイドに従い先に進む。野猿街道を少し下り、絹ヶ丘2丁目の交差点西に折れる。南西に進み、白山通りで南に。右手に公園、というかゲートボール場を眺めるあたり、その先に「白山神社」。

白山神社
白山神社。成立の時期ははっきりしないようだが、平安の頃、比叡山西塔の僧、武蔵坊弁慶の血縁といわれる弁智が法華経を納めた関東七社のひとつとされる。このあたり中山村の鎮守様。参道は南から急な階段を上って続いている。北からきたのであまりわからなかったのだが、上りきった台地の端に位置しているのだろう。
比高は結構ある。普通の地図で見る限りでは、こういった地形のうねりなどわからない。最初、この神社に寄ろうと思った時のイメージは、住宅街に鎮座する少々寂しげな神様、と思っていたのだが、とんでもありません。堂々たる社でありました。

北野台

急な階段を降りる、痛めた膝が少々苦しい。台地下に降り、西に向かってすすむ。車道に出る。車道にそって先に進み大きく湾曲するあたりで車道から離れ、急な階段を台地に上る。尾根道でもあるのだろうか、と想像していたのだが、上は住宅街。北野台と呼ばれる。尾根道ではなく、南から続く台地の上に出た。周りは住宅街。西に進む。

大塚山
しばらく進むと再び急な階段。台地のその上にそびえる山といった雰囲気。なにゆえこんな山に引っ張っていかれるのか、EZナビに少々クレーム。山頂に到着。 案内版。案内版のところから里に向かって「絹の道」が続いている。遇然ではあろうが、絹の道に出た。先ほど文句を言ったナビ君に感謝。あえてこのコースを選んでくれたのか、はたまた、資料館に行くにはこのコースしかなかったのか、神のみぞ知る、ってことではあろうが、結構感謝。

この山は大塚山と呼ばれる。標高213.5m。頂上に大塚山公園がある。明治の頃、この地に生糸商人が浅草花川戸から勧請したお堂を建てた。お大尽振りを示したのも であろう。が、明治30年を境に、生糸商人は没落。それと機を同じくしてこのお堂も忘れられ、平成2年に大塚山公園として整備された。

京王片倉駅あたりからこの地までの絹の道をチェック。国道16号線>京王線片倉駅>慈眼寺・白山神社脇>釜貫>片倉台中央公園>大塚山公園、と続く。遡ってもみたいのだが、如何せん時間が足らない。

絹の道
北に向かう思いを抑え道を南に下る。絹の道、といわれるだけで、ありふれた掘割道もありがたいものに思える。時刻は四時を過ぎている。閉館が心配で走るがごとく、翔ぶが如く進む。しばし進み車道に。「史蹟絹の道」の案内。

絹の道資料館

絹の道資料館は道を下ること120m。絹の道って、幕末から明治30年頃までのおよそ50年、この地を通って生糸が横浜に運ばれた。八王子近郊はもちろんのこと、埼玉、群馬、山梨、長野の養蚕農家から八王寺宿に集められた生糸の仲買で財をなしたのが、この地の生糸商人。この地の地名にちなみ、「鑓水商人」と呼ばれた。
鑓水商人で代表的な人は、八木下要右衛門、平本平兵衛、大塚徳左衛門、大塚五郎吉など。この記念館もその八木下要右衛門さんの屋敷跡。アーネストサトウも訪れたことがある、と。
が、資料展示を見ていると、結局、このあたりの生糸商人も、横浜の大商人に主導権を握られていた、とか。その後、生糸が養蚕農家のレベルから官営工場への転換といった機械化により、養蚕農家の家内制生糸業を中心とした商いをしていたこの地の、鑓水商人は没落していった、と。また、鉄道便の発達による交通路の変化も没落を加速させたものであろう。ちなみに、当時この街道は「浜街道」と呼ばれた。絹の道とかシルクロードって名前は、昭和20年代後半になって名付けられたものである。

資料館をはなれ、帰路に。最寄りの駅をチェック。京王相模原線・多摩境まで2キロ強。鑓水地区の道を下り、柚木街道と交差。谷戸交差点を渡り、多摩ニュータウンの
西端あたりにそって南に進む。

鑓水
このあたりも鑓水の地。鑓水って、尖った竹などを崖に刺し、そこから地下水をとった、「遣り水」に由来する。岩盤の層があり、先の尖ったもので刺すと地下水が湧き出るわけだが、その水を瓶などに溜める。その瓶から水を流れるようにしたものを「遣り水」といった、とか。

小山内裏公園
道端に小泉家って昔の農家が残されている。鑓水中学、鑓水公園脇を進む。しばらく進むと、なんとなく昔見たような風景。これって先日南大沢あたりを歩いた 「戦車道」の端あたりにあった小山内裏公園。戦車道って、昔相模原にあった陸軍工廠でつくった戦車の走行実験をしていた尾根道。昔はこのあたりは、一面の丘陵地。人の心配などしなくてよかったのだろう。

多摩境
小山内裏公園の西端に沿ってちょっと台地を下る。谷戸の交差点からこのあたりまでの道筋はほぼ昔の絹の道。絹の道はここからまっすぐ進み、町田郵便局手前で現在の町田街道と平行して下っていた。日も落ち、これ以上絹の道を辿ることもできない。交差した道を西に折れ、多摩境の駅に。本日の予定はこれで終了。

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