土曜日, 9月 08, 2007

多摩丘陵の東南端を歩く:武蔵小杉から梶ヶ谷へ

武蔵小杉から多摩の台地に向かう
ここ何回かに分けて川崎市の丘陵地帯を歩いた。が、いまひとつ川崎市の時空についてわかっていない。川崎市の郷土歴史館などないものか、と調べてみる。と、武蔵小杉の近く、等々力緑地に市ミュージアムがある。そこが川崎の歴史郷土館の機能をも持っている、と。
ということで、今回の散歩は、とりあえず市民ミュージアムに行く。そこで川崎市のあれこれについてのスキミング&スキャニング。その情報をもとに、武蔵小杉から、つまりは、多摩川によって開かれた平地・沖積原から、多摩丘陵の東端へと上るルートを組み上げてみよう、ということに。
結果的には、川崎市中原区・宮前区・高津区を歩くことになった。(土曜日, 9月 08, 2007のブログを修正)




本日のコース;東急東横線・武蔵小杉駅>(小杉御殿町)小杉御殿跡>(小杉陣屋町)小杉陣屋>小杉神社>市民ミュージアム>春日神社>府中街道>ニケ領用水>(上小田中)>中原街道>南武線・武蔵中原駅>下新城交差点>江川交差>千年(ちとせ)交差点>影向寺>神明社>尻手黒川道路>第三京浜交差>野川小交差点>矢上川>権六谷戸>権六坂>野川第一公園前交差点>国道246号線>新道馬絹>武蔵野貨物線>馬絹古墳>馬絹神社>東急田園都市線・梶ヶ谷駅

武蔵小杉駅
東急東横線で武蔵小杉駅に向かう。武蔵小杉には多くの鉄道路線が集中している。東急東横線、東急目黒線、横須賀線、南武線、そして東海道新幹線。東急目黒線は東急東横線の複々線のうちの複線部を使用しているので、まあ、同じものといってもいいかと思うが、それにしても多い。交通の要衝であった、ある、ということだろう。実際、武蔵小杉のあたりには古くからの街道が交差している。中原街道、綱島街道、そして府中街道である。

中原街道;中世以来の主要道。平塚の中原と江戸を結ぶ。東海道の脇往還でもあった。はじまりはよくわかっていない。が、本格的に整備されたのは小田原北条の頃から。家康の江戸入府のときは、東海道が未だ整備されていたかった、ということもあり、この街道を利用した、と。中原街道と呼ばれるようになったのは,1604年以降。平塚の中原に「中原御殿」があったのが、名前の由来。
綱島街道;矢倉沢往還とか中原街道などの主要道を繋ぐ枝道のひとつ。稲毛道とも呼ばれた。この道は、神奈川宿から矢倉沢往還の溝ノ口へ至るショートカット・コース。神奈川宿をスタートし、北に綱島まで進む。現在の道筋はそこから武蔵小杉に向かって東に進むが、昔の街道は綱島から北に高田、下田を経て溝の口に続いていた、ようである。
府中街道;川崎宿の六郷の渡し辺りから多摩川西岸に沿って北に進み、小杉で中原街道、溝の口で大山街道(矢倉沢往還)、登戸で津久井道、そして、再多摩川を超えて府中に達する道筋。現在は川崎駅から府中をへて東村山市まで続いている。
街道チェックのため地図を眺めていると、鉄路の異常なほど急激なカーブが目に付いた。横須賀線、そして東海道新幹線である。直進すれば多摩の丘陵地帯に入り込んでしまうために、いずれにしてもこのあたりでカーブはしなければならない、とは思うのだが、それにしても何故にこのあたりで急カーブをしなければならない路線をとったのであろう。ふたつの鉄路とも図ったように綱島街道手前で急カーブしている。綱島街道を越えられない、なんらかの理由があったのだろう、か。疑問が残る。
急激なカーブと言えば、我が家の近くの井の頭線・明大前にも急激なカーブがある。当初の計画では、直線上に路線が延びることになっていたのが、なんらかの事情で中止になり、急なカーブだけが残った、とか。地形・環境の「ノイズ」にはそれなりの理由があるわけで、そのうちに調べてみよう、か。寄り道が過ぎた。先に進む。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000 /50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


小杉御殿
武蔵小杉で下車。北口に向かう。常のごとく、駅前の案内板をチェック。市民ミュージアムのある等々力緑地の途中に、小杉御殿跡とか小杉陣屋後の案内。そうそう、小杉御殿って、あったよな、小杉陣屋って二ケ領用水を開削した小泉次太夫の陣屋跡であるよな、などと思いがけないキーワードの登場に少々の喜び。成行き任せの散歩ゆえのサプライズ、といったところ、か。
北口の南武沿線道路を南武線に沿って西に進む。小杉交差点を越え、府中街道・小杉御殿町交差点を北に折れる。道成りに進み中原街道・西明寺交差点に。中原街道はこのあたりでカギ形に折れ曲がっている。街道脇に「小杉御殿とカギ形道」の案内板:「御殿の敷地はおよそ1万二千坪(四万平米)。表御門、、裏御門、御屋敷、御賄屋敷、御殿番屋敷、御蔵、御主殿などの各屋敷が連なり、規模大であった中原街道はここでカギ形に曲がる。城下町で見られるカギ形の道は防衛のために工夫されたもの。背後の多摩川、さらに西明寺や近くの泉沢寺も合わせて御殿の守りを固めていた」、と。
近くに道案内図。「小杉御殿の御主殿跡」、「小杉陣屋と次太夫」といった場所の大雑把な道順が示されて、いる。道案内を目安に「小杉御殿の御主殿跡」に。中原街道から一筋北の住宅地の中に、こじんまりとした祠があった。そこが御主殿跡。案内板:「二代将軍秀忠のたてた小杉御殿は家康の送迎のほか、鷹狩の休憩所として使われた。後に東海道が主街道となると、御殿は廃止された」、と。
御殿って、開幕時、新領国の安定・整備のために設けられたもの。慶長13年(1608年)の頃と言う。慶長期には江戸近郊に鷹場が設けられ、その宿舎としても御殿が使われた。いつだったか青砥のあたりを歩いたときにも青砥御殿に出合った。千葉には御茶屋御殿といったものも、あるようだ。また、前出の平塚・中原御殿もそのひとつ。静岡の御殿場もその名残、だろう。
この小杉御殿はまた、駿河と江戸を往復するための家康の宿舎としても使われた。西国大名の参勤交代のときの接待の場としても使われた。上にメモしたように、鷹狩りのときの宿舎としても使われた。勿論、鷹狩とはいうものの、それは単に鷹狩りだけでなく、領内の政治状況の安定と譜代家臣の結束を図る、といった目的もあった、よう。ために、藩幕体制が磐石なものとなってくると、その存在意義が薄くなる。同時に主街道が東海道に移ったこともあり、17世紀の中旬頃にはその役割を終え廃止された、とか。

小杉陣屋と次太夫

「小杉御殿の御主殿跡」を離れ、案内にあった「小杉陣屋と次太夫」に向かう。大雑把な案内図でもあり、いまひとつ場所がわからない。成り行きで進むと小杉陣屋町2-10に、ささやかな跡地を発見。小泉次太夫はじめて出会ったのは、世田谷区・砧散歩のときであった、かと。丸子川に出合い、あれこれ調べていると、丸子川って、昔の六郷用水の中流部、であった。この六郷用水の工事責任者が小泉次太夫、ということであった。それ以来、気になる人物であった。
二ケ領用水のことを知ったのもその時。次太夫は六郷用水だけでなく、多摩川を挟んだ川崎側にも用水を開削した。それが二ケ領用水。稲毛と川崎の二つの地を貫くため、「二ケ領」用水、と呼ばれた。で、今回、思いがけなく小泉次太夫の陣屋辺りに出会えた。また、近くには二ケ領用水も流れている。成行き任せの散歩の賜物、ではある。
それにしても、六郷用水はよく歩いた。取水口はどこ、下流はどこまで続いているのかと、取水口を求めて狛江市の和泉多摩川まで歩いた。下流部へと太田区を数回に分けて歩いた。北堀とか南堀とかいくつもの分流があり、六郷用水の詳しい流路をチェックするため、馬込にある大田区の郷土資料館に行ったりもした。池上本門寺から大森への流れの跡を辿った。世田谷区喜多見の次太夫堀公園にも足を運んだ。そのときの情景が少々ながら思い出される。

市民ミュージアム・等々力緑地
小杉陣屋町を離れ、市民ミュージアムのある等々力緑地に向かう。陸上競技場などが整備されたこの公園敷地は多摩川の旧川道。明治14年頃の地図を見ると、緑地のあたりで多摩川が大きく湾曲している。湾曲した川道の南端にあたりに鳥居のマーク。公園に沿った道路の南に小杉神社があるが、このあたりが昔の多摩川の自然堤防であろう、か。
外周道路に沿って進むと緑地の北に市民ミュージアムがある。立派な構え。あれこれ美術展などもおこなっている、よう。2階に歴史資料が常設展示されている。展示資料は、まあ、それなりのもの。なんとなく印象に残ったのは、影向寺、そして馬絹古墳、といったもの。資料も書籍として手ごろなものはなかったが、「二ケ領用水」とか「中原街道」「橘樹郡家と影向寺」といった小冊子を買い求める。
少々休憩。資料を見ながら、コースを検討。当初の方針は多摩川の沖積原から多摩丘陵に進むってこと。中原街道を西に向かい丘陵をのぼり影向寺に進む、そこから尾根道を北に進み国道246号に。東に折れ、馬絹古墳に向かい、梶ヶ谷で終わりとする、といったルーティングを想う。

春日神社
市民ミュージアムを離れ先に進む。先ほど歩いた緑地の外周道路を少し南に戻る。途中成行きで西に折れ、先に進むと春日神社。創建時期ははっきりしないが、12世紀頃と言われる。この地・稲毛郡の荘園領主であった九条家(藤原北家の系統)の氏神である奈良の春日大社をこの地に勧請したものであろう。また、神社の隣の常楽寺は奈良時代創建の古刹である、と。

二ケ領用水
神社を離れ西に進むと府中街道にあたる。府中街道を越えるとすぐに二ケ領用水。遊歩道になっている。用水は総延長32キロ。稲田堤の近くの中野島取水口、そして宿河原近くの宿河原取水口より多摩川の水を取り込み、川崎市のほぼ全域を流れる。先日取水口から武蔵小杉まで歩いたばかり。そのうちにメモをまとめておこう。

巌川橋・江川
道を南西に進み、南武線・武蔵中原駅手前で中原街道に合流。中原街道を西に進む。大戸小入口交差点、下新城交差点、巌川橋で江川を渡る。江川は二ケ領用水・根方堀の一部。二ケ領用水は溝の口の近く、久地で根方堀、川崎堀、六ケ村堀、久地・二子堀と4つに分かれる。灌漑面積に応じて用水を分流する施設・久地円筒分水が久地にある。地図をチェックすると、久地不動尊のある緑地、っぽいところに分流施設があった。のような形が見て取れる。

影向寺
橋を渡り千年(ちとせ)交差点に。このあたりは高津区になる。交差点の向こうには丘陵地が迫る。このあたりが多摩丘陵の東端であろう。地形図をチェックすると、溝の 

口から南東に千年交差点に向かって引いた線が丘陵の東端となっている。中原街道を離れ台地に上る。住宅街の中を第三京浜方面に向かって西に進むと影向寺がある。住所は宮前区野川となっている。
影向寺(ようごうじ)。7世紀後半の創建というから、法隆寺とおなじ頃つくられた古刹。平安時代後期に造立された薬師三尊像は重要文化財に指定されている。古代王権の確立期には、このあたりに武蔵国橘樹郡の役所である郡衙、正確には郡司である豪族の私邸を使っていたので郡家と呼ぶようだが、ともあれ郡の中心地があった。先日歩いた柿生の王禅寺が「西の高野山」と呼ばれるように、この寺は「関東の正倉院」とされる。ということもあり、お寺ももっともっと大きな構えを想像していたのだが、静かに、そして落ち着いた、つつましい堂宇であった。どうも中世の頃、時の権力者からの庇護もなく荒れ果てていたようである。15世紀の頃、伽藍再興の勧請をおこない小規模ながら金堂が建立された。深大寺とのコラボレーションもあった、とか。

矢上川
寺を離れ崖上に進む。崖の下には第三京浜が走っている。地形図で見る限り、丘陵を切り崩して道を通している、よう。崖線上を南に下る。神明社脇を進み、丘陵地を下ると再び中原街道に。野川交差点で尻手黒川道路に乗り換え西に進む。中原街道はこの野川交差点で南に折れ、第三京浜に沿って下ることになる。
第三京浜下をくぐり尻手黒川道路を西に進む。尻手黒川道路は矢上川に沿って進む。この道筋はどうも矢上川によって開かれた谷筋のようである。矢上川は東名高速川崎ICの西、というか先回歩いた生田緑地の南あたりを源流とし、下末吉台地を切り開き、高津区から中原区を流れ、幸区の矢上で鶴見川に合流する。

権六谷戸
しばらく進み、野川小入口交差点で尻手黒川道路を離れる。近くに「権六谷戸」がある、という。野川小学校脇を過ぎると道は上りとなる。その手前あたりで車道を離れ、谷地をのんびりと進む。奥まったところには未だに農地が残っている。なんとなく谷戸の雰囲気を楽しむ。権六谷戸の由来は、戦に破れた武士団、といっても20名程度であったそうだが、この地に落ち延びる。が、追っ手の追討を浮け、殆どが討ち取られた。で、ひとりのこった武家が権六と改名し、なくなった仲間の菩提をとむらった、とか。

野川台
谷内から丘陵に戻る。台地上の道を進む。どうも尾根道のようではある。尾根道とはいうものの、車の往来の激しい道筋、ではある。この丘陵は野川台と呼ばれている。北は矢上川、南は有馬川によって開かれた谷筋となっている。野川第二公園、野川第一公園と進む。住宅の脇から僅かに見える台地下の景色を確認しながら北西に進む。しばらく歩くと国道246号線・野川団地入口にあたる。

武蔵野線・梶ヶ谷貨物ターミナル

交差点を東に折れる。台地を下る。下りきったところは矢上川によって開かれた谷筋である。尻手黒川道路を越え、矢上川を渡るとその先には武蔵野線の梶ヶ谷貨物ターミナル。この武蔵野線に最初に出合ったのは確か稲城であった、かと。丘陵のトンネルに入る貨物を見て、このトンネルって、どこまで続いているのだろうか、とチェック。地中を走り、この梶ヶ谷でやっと地表に出ていた。
武蔵野貨物線が出来たきっかけは、山手線新宿近くで起きた米軍燃料貨物車の脱線事故。大都市のど真ん中で大爆発でも起きたら大事、ということで、その代替線として武蔵野線が計画された、とか。貨物だけでよかったようだが、沿線住民への説得材料として「人」も運びます、ということで、計画が承認された、といったことをどこかで聞いたかと思う。路線は横浜市の鶴見駅から首都圏をぐるっと周り千葉県船橋市の西船橋まで。そのうち旅客サービスは府中本町から西船橋駅までが定期サービス区間となっている。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000 /50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


馬絹古墳・馬絹神社
武蔵野線を越えると道は再び台地への上りとなる。国道246号線に沿って坂道を上る。目指す馬絹古墳は馬絹神社の隣にある。馬絹古墳;幅33m、高さ6mの円墳。7世紀後半のものであろう、と言われている。古代朝鮮半島の古墳様式の影響を強く受けているも

のである、と。
古墳を離れ馬絹神社に。アプローチを誤り、一度台地を下りることになった。後からわかったのだが、古墳から時計の逆回りに進めば割りと簡単に神社に行けたよう。ともあれ、一度台地を下り、神社正面から入ることに。結構構えの大きなお宮さま。長い石段を台地上まで進むと本殿。昔は女躰権現社と呼ばれていた、とか。明治に八幡社、熊野社、三島社、白山社が集まり「神明社」、と。馬絹神社とよばれるようになったのは、1986年のことである。
薄絹を身にまとった女性が杜に消えた。それをおまつりしたのが女躰権現社のはじめ、とか。ちなみに馬絹の由来であるが、この地に馬の放牧地があり、「まきの」と呼ばれていたのが、いつしか「まきぬ」になった。武将の馬に掛けた絹がこよなく美しかった、ため、とか。例によって諸説あり、これといった定説は、ない。



女体神社って、散歩の折々に出会う。昨年だったか、大田区の東嶺町を歩いていたときであった白山神社が、もともとは女体神社と呼ばれていた。また先日の埼玉・見沼散歩のときにも氷川女体神社に出会った。その艶かしき名前ゆえに、少々の驚きも覚えたのではあるが、よくよく考えれば「男体(山)」って名称は結構あるわけで、逆があってもそれほど不思議ではない、ということではあろう。
氷川女体神社の祭神は奇稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)。素戔鳴尊(スサノオノミコト)が八頭大蛇退治のとき助けて妃にした女性。ちなみに、大宮氷川神社は、もとはスサノオノミコトだけを祀る男体神社であった。日光の男体山には男体権現こと大己貴命(おおなむちのみこと)、女峰山の御神体は田心姫命(たごりひめのみこと)が女体権現として祀られる。筑波山には西の峰に伊弉諾命が男体権現として、東の峰には伊弉冉命が女体権現として祀られる。と、あれこれメモしたがいまひとつ、よくわかっていない。そのうちに調べてみようかと思う。ついでのことながら、筑波の由来は、山頂で琴(筑)を弾いたところ、海の波が山まで届いたから、とか。この馬絹神社をもって本日の予定終了。国道246号線に戻り、国道に沿って東にすすみ田園都市線・梶ヶ谷駅から一路家路へと急ぐ。

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