なぜ大山に登る気持になったのか、実のところ、よくわからない。いつもより少し朝早く起きたこと、そして、これといって出かけるところが思いつかなかった、だけのような気もする。ともあれ、標高1252mの霊山・大山に出かけることにした。(水曜日, 9月 12, 2007のブログを修正)
本日のルート;小田急箱根線・伊勢原駅>(神奈川中央交通)>大山ケーブル駅バス停>大山ケーブルカー追分駅>下社駅>阿夫利神社下社>登山門>蓑毛裏参道分岐(16丁目)>ヤビツ峠分岐(25丁目)大山山頂>阿夫利神社本社>ヤビツ峠分岐(25丁目)>イタツミ尾根>ヤビツ峠>蓑毛バス停>(神奈川中央交通バス)>小田急線・秦野駅ケーブルカー追分駅>下社駅>阿夫利神社下社>登山門>蓑毛裏参道分岐(16丁目)>ヤビツ峠分岐(25丁目)大山山頂>阿夫利神社本社>ヤビツ峠分岐(25丁目)>イタツミ尾根>ヤビツ峠>蓑毛バス停>(神奈川中央交通バス)>小田急線・秦野駅
小田急線・伊勢原駅
小田急線で伊勢原駅に。イメージではもう少々大きな街かとは思ったのだが、思いのほか小じんまりとした駅前ではあった。北口バス停から神奈川中央交通バスで大山に向かう。バスの中で閑にまかせ、「観光お土産ガイドマップ」を眺める。駅で手に入れたものである。
小田急線・伊勢原駅
小田急線で伊勢原駅に。イメージではもう少々大きな街かとは思ったのだが、思いのほか小じんまりとした駅前ではあった。北口バス停から神奈川中央交通バスで大山に向かう。バスの中で閑にまかせ、「観光お土産ガイドマップ」を眺める。駅で手に入れたものである。
道灌が謀殺された粕屋館をかすめる
バス道の近く、東名高速を交差してすこし上に「太田道潅の墓」の案内。どうせのこと、武蔵のいたるところにある道潅由来の地のひとつ、であろうと気に留めることはなかった。が、メモする段階でチェックしていると、この地ってあの「粕屋」の地。道灌が謀殺された扇谷上杉の館・粕屋館の地であった。粕屋って伊勢原であったのだ。が、今となっては後の祭り。前もってあれこれ調べない、ケセラセラ散歩の習慣ゆえの慙愧の念。仕方なし。
大山ケーブル駅バス停
大山上粕屋線をどんどん山に入る。山容がせまる。昨日、雨が降った名残か、山腹は霧で包まれている。果たして山に登れるのか、などと思い悩むうちに「大山ケーブル駅バス停」に着く。伊勢原駅を出て、20分程度であった。そうそう、忘れないうちに伊勢原の地名の由来。どうせのこと、お伊勢さんに関係あるだろう、とは想像がつく。チェックする。江戸時代、伊勢出身の人達がこの地を開墾し、そこに伊勢神宮の分社を設けた、と。現在の伊勢原大神宮がそれ。駅から北に進み、国道246号線手前に神社はある。
矢倉沢往還
ついでのことながら、この国道246号線は昔の矢倉沢往還。江戸の赤坂御門を起点として、青山、渋谷、三軒茶屋より瀬田を経て、多摩川を二子で渡り、溝ノ口・長津田・下鶴間・国分・厚木・愛甲・伊勢原・曽屋・千村・松田惣領・関本と進み足柄峠手前の矢倉沢関所に至る脇街道である。タバコ、生糸など相模地方の産物を江戸に送る道でもあった。
矢倉沢往還は江戸時代中期以後、江戸庶民の大山詣での道として盛んに利用され「大山街道」、「大山道」と呼ばれるようになる。もっとも、鎌倉街道ではないけれども、大山に至る道はすべて大山道と呼ばれるわけで、この矢倉沢往還だけが大山道ということでは、ない。「大小の岐路、いやしくもその一端が大山に達するものは、大山道と名付く。その岐路に至って、人の迷うところには必ず、大山道の石標を設立せり。」と、大山史に言うことであろう。
(2008年11月、紅葉見物をかねて足柄道を歩く。途中矢倉沢関所も訪れる。足柄峠からの富士の眺めは見事)
ケーブルの駅に向かう
バス停からケーブルの駅に向かう。お土産店、旅館が軒を並べる参道を進む。石段の脇には「**講」といった石碑が多い。大山詣の御師の「ブランド名」であろう、か。御師(おし)とは、ある特定の寺社に属し、信者を案内し、参拝・宿泊の手配をするツアーガイドといった人。大山を山伏修行の地としていた修験者たちは、徳川家康の命により山を下りる。修験者は小田原北条氏とむすびつき、僧兵といった性格ももっていたので、そのことに家康が危惧の念を抱いた、ということであろう。この命により修験者は蓑毛の地などに住まいすることに。で、これらの修験者・僧・神職が御師となり、庶民の間に大山信仰を広め大山参拝にグループを組織した。それを「講」という。江戸時代には幕府の庇護もあり、大山講が関東一円につくられる。最盛期の宝暦年間(1751年から64年)には、年間20万人にも達した、とか。
バス道の近く、東名高速を交差してすこし上に「太田道潅の墓」の案内。どうせのこと、武蔵のいたるところにある道潅由来の地のひとつ、であろうと気に留めることはなかった。が、メモする段階でチェックしていると、この地ってあの「粕屋」の地。道灌が謀殺された扇谷上杉の館・粕屋館の地であった。粕屋って伊勢原であったのだ。が、今となっては後の祭り。前もってあれこれ調べない、ケセラセラ散歩の習慣ゆえの慙愧の念。仕方なし。
大山ケーブル駅バス停
大山上粕屋線をどんどん山に入る。山容がせまる。昨日、雨が降った名残か、山腹は霧で包まれている。果たして山に登れるのか、などと思い悩むうちに「大山ケーブル駅バス停」に着く。伊勢原駅を出て、20分程度であった。そうそう、忘れないうちに伊勢原の地名の由来。どうせのこと、お伊勢さんに関係あるだろう、とは想像がつく。チェックする。江戸時代、伊勢出身の人達がこの地を開墾し、そこに伊勢神宮の分社を設けた、と。現在の伊勢原大神宮がそれ。駅から北に進み、国道246号線手前に神社はある。
矢倉沢往還
ついでのことながら、この国道246号線は昔の矢倉沢往還。江戸の赤坂御門を起点として、青山、渋谷、三軒茶屋より瀬田を経て、多摩川を二子で渡り、溝ノ口・長津田・下鶴間・国分・厚木・愛甲・伊勢原・曽屋・千村・松田惣領・関本と進み足柄峠手前の矢倉沢関所に至る脇街道である。タバコ、生糸など相模地方の産物を江戸に送る道でもあった。
矢倉沢往還は江戸時代中期以後、江戸庶民の大山詣での道として盛んに利用され「大山街道」、「大山道」と呼ばれるようになる。もっとも、鎌倉街道ではないけれども、大山に至る道はすべて大山道と呼ばれるわけで、この矢倉沢往還だけが大山道ということでは、ない。「大小の岐路、いやしくもその一端が大山に達するものは、大山道と名付く。その岐路に至って、人の迷うところには必ず、大山道の石標を設立せり。」と、大山史に言うことであろう。
(2008年11月、紅葉見物をかねて足柄道を歩く。途中矢倉沢関所も訪れる。足柄峠からの富士の眺めは見事)
ケーブルの駅に向かう
バス停からケーブルの駅に向かう。お土産店、旅館が軒を並べる参道を進む。石段の脇には「**講」といった石碑が多い。大山詣の御師の「ブランド名」であろう、か。御師(おし)とは、ある特定の寺社に属し、信者を案内し、参拝・宿泊の手配をするツアーガイドといった人。大山を山伏修行の地としていた修験者たちは、徳川家康の命により山を下りる。修験者は小田原北条氏とむすびつき、僧兵といった性格ももっていたので、そのことに家康が危惧の念を抱いた、ということであろう。この命により修験者は蓑毛の地などに住まいすることに。で、これらの修験者・僧・神職が御師となり、庶民の間に大山信仰を広め大山参拝にグループを組織した。それを「講」という。江戸時代には幕府の庇護もあり、大山講が関東一円につくられる。最盛期の宝暦年間(1751年から64年)には、年間20万人にも達した、とか。
豆腐が名物
参道には豆腐料理店も目につく。大山名物、とか。いい水があった、ということもさることながら、坊さんといえば「豆腐」でしょう、といったこと、そして、大量にかつまた保存に適した食べ物としては「豆腐」がベストチョイスであったのだろう。なにせ、上にメモしたように年間20万人の参拝客の食事を賄う必要があったわけだ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
ケーブルカーの途中に大山寺
参道を登るとケーブルカーの追分駅。待ち時間は少々あったが、乗り込むと下社駅まではほんの6分程度。途中、お不動さんへの駅があったのだが、その有難さがいまひとつ分からず途中下車することもなく進む。このお不動さんが大山寺。天平勝宝7年(755年)良弁僧正の開山。良弁僧正って、東大寺の建立に尽くし、初代別当になったという高僧。大山山頂にある大山阿夫利神社・大山石尊大権現と相まって、山全体が神仏習合の信仰対象として崇拝されてきた、と。
阿夫利神社下社
大山ケーブルカー追分駅で下車。阿夫利神社下社に向かう。拝殿にのぼる石段の横に茶店。お昼時でもあり、おむずびを買い求め先に進む。鳥居を抜けるとひろびろとした境内。案内をメモ;「御祭神は大山祗神(おおやまずみのかみ)・高オカミノ神(たかおがみのかみ)・大雷神(おおいかずちのかみ)。大山は、またの名を「あふり山」という。あふりの名は、常に雲や霧を生じ、雨を降らすのでこの名が起こったといわれる。標高は、1,251mで、関東平野にのぞんで突出している雄大な山容は、丹沢山塊東端の独立峰となっている。
阿夫利神社は、古代からこのあたりに住む人たちの心のよりどころとなり、国御岳(くにみたけ、国の護りの山)・神の山としてあがめられてきた。山野の幸をつかさどる水の神・山の神として、また、海上からは羅針盤をつとめる海洋の守り神、さらには、大漁の神として信仰をあつめると共に、庶民信仰の中心として、今日に及んでいる。
山頂からは、祭りに使ったと考えられる縄文時代(紀元前約1,000年頃)の土器片が多く出土していて、信仰の古さを物語っている。仏教が伝来すると神仏習合の山となり、阿夫利神社は延喜式(えんぎしき)内社として、国幣(こくへい)の社(やしろ)となった。
武家が政治をとるようになると、代々の将軍たちは、開運の神として武運の長久を祈った。祭(ひきめさい)・簡粥祭(つつがゆさい)・納め太刀・節分祭・山開きなど、古い信仰と伝統にまもられた神事や、神に捧げられる神楽舞(かぐらまい)・神事能・狂言などが、昔のままに伝承されている。全山が四季おりおり美しい緑や紅葉におおわれ、神の山にふさわしい風情で、山頂からの眺望もすばらしい。都市に近いため、多くの人たちに親しまれ、常に参詣する人の姿が絶えない」、と。大山祗神(おおやまずみのかみ)って、イザナミノミコトの子でコノハナノサクヤヒメの父、である。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
登山口
本堂の左手に登山口の案内。先に進む登山口にあった案内;「当阿夫利神社は、海抜1,252メートルの山頂に本社があり、現在地の下社御拝殿は700メートルに位置し古くより信仰活動の中心霊場。神仏習合時代には石尊大権現とも称せられ堂塔はその威容を誇った。が、安政元年12月晦日と明くる正月2日の二度にわたる山火事により焼失。仮殿が再建。明治33年に下社御造営事業が着手。本殿のみ新装。拝殿は手がつかぬまま。で、昭和52年に竣工を見た」、と。
平安時代から朝廷の庇護(ひご)を受けていた大山信仰であるが、武士の世になっていよいよ盛んになる。源頼朝をはじめ、足利尊氏、小田原北条氏など多くの武士もこの山を信仰した。源頼朝は、天下泰平・武運長久を願って阿夫利神社に太刀を奉納している。武家政治の時代には将軍達は開運の神として武運長久を祈る。「時により すぐれば民の なげきなり 八大竜王 雨やめたまえ」。鎌倉三代将軍の実朝が大山の山神に献じた歌と言われている。勿論、大山が全国的に有名になったのは江戸時代。庶民の間に大山信仰が広まってから、ということは上でメモしたとおり。
山頂への登山口は鳥居と片開きの扉、そしてその向こうには、急峻なる石段が続いている。登山口にあった案内;「明治初年の神仏分離までは、この登拝門は夏の山開き大祭(7月27日~8月17日)期間以外は固く閉ざされ、山頂への登拝は禁止されていた。登拝門の鍵は遠く元禄時代より、280年に及ぶ長い間、大山三大講社の一つである東京日本橋のお花講が保管し、毎年7月27日の夏開きには、お花講の手により扉は開かれる慣例となっている。
その後、明治20年には登拝者の増加に伴い、春山開き大祭(当時は4月5日~15日)が新たに設けられ、この期間の山頂登拝が出来得ることとなり、山頂登拝の規制は徐々にゆるめられる。更に、みのげ・日向・ヤビツ峠方面等の表参道以外よりの登山道が開かれると共に、昭和40年には国定公園に指定をされ登山者は急激に増加したので、現在では年間を通して常時庶民の山として登拝門は開かれるようになった。然し、その結果は、必然的に登拝門の伝統的意義と性格が失われてしまったので、ここに往時をしのびつつ登拝門のもつ史跡としての重要性を考え合わせて、一枚の扉のみを閉じて片開きといたし、その名残をとどめることした」と。
登山開始
さて、散歩、というか、本格的な登山開始。上社に向けて登山をはじめる。スタート地点が1丁目。頂上は28丁目となる。1丁目から3丁目までは急な石段。一気にのぼる。3丁目からはすこしゆるやか。6丁目に千本杉。杉の中を進む。岩の転がる山道を進む。昨日の雨により石が滑りやすくなっている。危ないことこの上なし。上りはまだしも、下りはこの道は避けたい。山頂から西にヤビツ峠に向かう道か、東に見晴台から日向薬師に下りるか、ふたつのルートがある、どちらかの尾根道を下ることにすべし、と。
8丁目には夫婦杉。樹齢600年を越す杉の大木。樹林の中を登る途中、時折、眺望の開けるところがある。が、天気が悪く見通しがきかない。霧というか水蒸気というか、ともあれ下界は白煙に包まれ、なにも見えない。16丁目で蓑毛からの裏参道と合流。石尊大権現と彫られた大きな石柱がある。
20丁目に富士見台。天気がよければ富士山の眺望が素晴らしい、と聞く。本日はなにも見えない。足場は依然よくない。雨で濡れ、滑りやすい。登山になれない若者が息も絶え絶えになりながら上っている。散歩で鍛えた我が身としては、必要以上に軽快なるふりをして、お先に失礼する。25丁目でヤビツ峠からの道が合流。ここまでくれば山頂までは10分ほど。鳥居を2つくぐると、28丁目・山頂に到着。のぼりはじめて1時間程度であった。
山頂
山頂には阿夫利神社・上社がある。山小屋風の社にて、少々情緒に欠ける。山小屋なのか退避小屋なのか、よくわからないが、小屋のまわりで食事をするパーティが多い。わたしゃ、ひとり旅。ひとりでしばらくぶらぶら。天気がよければ360度の眺望、とはいうものの、本日はまったくの霧の中。天気がよければ、真鶴半島と伊豆半島、小田原の海。利島、大島、三浦半島、房総半島。都心、多摩、丹沢山塊、富士山がずらりと見える、はず。まったくもって残念至極。
景色はあきらめ、お世辞にもホスピタルティ精神があるとは思えない売店で、これまたお世辞にも美味とはいえないお蕎麦を食べ、下山ルートを検討。「ヤビツ」という名前に惹かれてヤビツ峠ルートに決める。ヤビツの地名の由来は、武田と北条の合戦がこのあたりで行われ、そのときの矢櫃が発見された、とか、アイヌ語から来るとか、あれこれ。
ヤビツ峠ルートを下る
山頂から下る。下りは怖い。慎重に歩を進める。ヤビツ峠分岐まで戻り、ヤビツ峠に続くイタツミ尾根をひたすら下る。見晴らしのいいガレ場や尾根上の急激な下りなどを繰り返し進む。岩が転がる道と比べれば圧倒的に楽な道。この選択は正解。40分程度あるいただろうか、道はゆるやかになり、小さな広場に。ここを過ぎればヤビツ峠はすぐ。
蓑毛バス停
ヤビツ峠から本数はすくないもののバスは出ているよう。が、蓑毛まで山道を下ることに。ヤビツ峠の広場からは、蓑毛方面への案内に従い登山道を下る。杉林の中、九十九折れの道をどんどん下る。穏やかな下り。日陰が多いのか、薄暗く日暮れの、よう。ヤビツ広場から40分程度あるいただろうか、下りついたあたりから舗装された林道となる。沢沿いの林道をしばらく歩くと蓑毛バス停に。秦野駅までのバスの旅。途中、いつだったか秦野・弘法山散歩の折り歩いた丘陵を眺め、少々の感慨に浸る。秦野駅で小田急に乗り、一路家路へと急ぐ。参道には豆腐料理店も目につく。大山名物、とか。いい水があった、ということもさることながら、坊さんといえば「豆腐」でしょう、といったこと、そして、大量にかつまた保存に適した食べ物としては「豆腐」がベストチョイスであったのだろう。なにせ、上にメモしたように年間20万人の参拝客の食事を賄う必要があったわけだ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
ケーブルカーの途中に大山寺
参道を登るとケーブルカーの追分駅。待ち時間は少々あったが、乗り込むと下社駅まではほんの6分程度。途中、お不動さんへの駅があったのだが、その有難さがいまひとつ分からず途中下車することもなく進む。このお不動さんが大山寺。天平勝宝7年(755年)良弁僧正の開山。良弁僧正って、東大寺の建立に尽くし、初代別当になったという高僧。大山山頂にある大山阿夫利神社・大山石尊大権現と相まって、山全体が神仏習合の信仰対象として崇拝されてきた、と。
阿夫利神社下社
大山ケーブルカー追分駅で下車。阿夫利神社下社に向かう。拝殿にのぼる石段の横に茶店。お昼時でもあり、おむずびを買い求め先に進む。鳥居を抜けるとひろびろとした境内。案内をメモ;「御祭神は大山祗神(おおやまずみのかみ)・高オカミノ神(たかおがみのかみ)・大雷神(おおいかずちのかみ)。大山は、またの名を「あふり山」という。あふりの名は、常に雲や霧を生じ、雨を降らすのでこの名が起こったといわれる。標高は、1,251mで、関東平野にのぞんで突出している雄大な山容は、丹沢山塊東端の独立峰となっている。
阿夫利神社は、古代からこのあたりに住む人たちの心のよりどころとなり、国御岳(くにみたけ、国の護りの山)・神の山としてあがめられてきた。山野の幸をつかさどる水の神・山の神として、また、海上からは羅針盤をつとめる海洋の守り神、さらには、大漁の神として信仰をあつめると共に、庶民信仰の中心として、今日に及んでいる。
山頂からは、祭りに使ったと考えられる縄文時代(紀元前約1,000年頃)の土器片が多く出土していて、信仰の古さを物語っている。仏教が伝来すると神仏習合の山となり、阿夫利神社は延喜式(えんぎしき)内社として、国幣(こくへい)の社(やしろ)となった。
武家が政治をとるようになると、代々の将軍たちは、開運の神として武運の長久を祈った。祭(ひきめさい)・簡粥祭(つつがゆさい)・納め太刀・節分祭・山開きなど、古い信仰と伝統にまもられた神事や、神に捧げられる神楽舞(かぐらまい)・神事能・狂言などが、昔のままに伝承されている。全山が四季おりおり美しい緑や紅葉におおわれ、神の山にふさわしい風情で、山頂からの眺望もすばらしい。都市に近いため、多くの人たちに親しまれ、常に参詣する人の姿が絶えない」、と。大山祗神(おおやまずみのかみ)って、イザナミノミコトの子でコノハナノサクヤヒメの父、である。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
登山口
本堂の左手に登山口の案内。先に進む登山口にあった案内;「当阿夫利神社は、海抜1,252メートルの山頂に本社があり、現在地の下社御拝殿は700メートルに位置し古くより信仰活動の中心霊場。神仏習合時代には石尊大権現とも称せられ堂塔はその威容を誇った。が、安政元年12月晦日と明くる正月2日の二度にわたる山火事により焼失。仮殿が再建。明治33年に下社御造営事業が着手。本殿のみ新装。拝殿は手がつかぬまま。で、昭和52年に竣工を見た」、と。
平安時代から朝廷の庇護(ひご)を受けていた大山信仰であるが、武士の世になっていよいよ盛んになる。源頼朝をはじめ、足利尊氏、小田原北条氏など多くの武士もこの山を信仰した。源頼朝は、天下泰平・武運長久を願って阿夫利神社に太刀を奉納している。武家政治の時代には将軍達は開運の神として武運長久を祈る。「時により すぐれば民の なげきなり 八大竜王 雨やめたまえ」。鎌倉三代将軍の実朝が大山の山神に献じた歌と言われている。勿論、大山が全国的に有名になったのは江戸時代。庶民の間に大山信仰が広まってから、ということは上でメモしたとおり。
山頂への登山口は鳥居と片開きの扉、そしてその向こうには、急峻なる石段が続いている。登山口にあった案内;「明治初年の神仏分離までは、この登拝門は夏の山開き大祭(7月27日~8月17日)期間以外は固く閉ざされ、山頂への登拝は禁止されていた。登拝門の鍵は遠く元禄時代より、280年に及ぶ長い間、大山三大講社の一つである東京日本橋のお花講が保管し、毎年7月27日の夏開きには、お花講の手により扉は開かれる慣例となっている。
その後、明治20年には登拝者の増加に伴い、春山開き大祭(当時は4月5日~15日)が新たに設けられ、この期間の山頂登拝が出来得ることとなり、山頂登拝の規制は徐々にゆるめられる。更に、みのげ・日向・ヤビツ峠方面等の表参道以外よりの登山道が開かれると共に、昭和40年には国定公園に指定をされ登山者は急激に増加したので、現在では年間を通して常時庶民の山として登拝門は開かれるようになった。然し、その結果は、必然的に登拝門の伝統的意義と性格が失われてしまったので、ここに往時をしのびつつ登拝門のもつ史跡としての重要性を考え合わせて、一枚の扉のみを閉じて片開きといたし、その名残をとどめることした」と。
登山開始
さて、散歩、というか、本格的な登山開始。上社に向けて登山をはじめる。スタート地点が1丁目。頂上は28丁目となる。1丁目から3丁目までは急な石段。一気にのぼる。3丁目からはすこしゆるやか。6丁目に千本杉。杉の中を進む。岩の転がる山道を進む。昨日の雨により石が滑りやすくなっている。危ないことこの上なし。上りはまだしも、下りはこの道は避けたい。山頂から西にヤビツ峠に向かう道か、東に見晴台から日向薬師に下りるか、ふたつのルートがある、どちらかの尾根道を下ることにすべし、と。
8丁目には夫婦杉。樹齢600年を越す杉の大木。樹林の中を登る途中、時折、眺望の開けるところがある。が、天気が悪く見通しがきかない。霧というか水蒸気というか、ともあれ下界は白煙に包まれ、なにも見えない。16丁目で蓑毛からの裏参道と合流。石尊大権現と彫られた大きな石柱がある。
20丁目に富士見台。天気がよければ富士山の眺望が素晴らしい、と聞く。本日はなにも見えない。足場は依然よくない。雨で濡れ、滑りやすい。登山になれない若者が息も絶え絶えになりながら上っている。散歩で鍛えた我が身としては、必要以上に軽快なるふりをして、お先に失礼する。25丁目でヤビツ峠からの道が合流。ここまでくれば山頂までは10分ほど。鳥居を2つくぐると、28丁目・山頂に到着。のぼりはじめて1時間程度であった。
山頂
山頂には阿夫利神社・上社がある。山小屋風の社にて、少々情緒に欠ける。山小屋なのか退避小屋なのか、よくわからないが、小屋のまわりで食事をするパーティが多い。わたしゃ、ひとり旅。ひとりでしばらくぶらぶら。天気がよければ360度の眺望、とはいうものの、本日はまったくの霧の中。天気がよければ、真鶴半島と伊豆半島、小田原の海。利島、大島、三浦半島、房総半島。都心、多摩、丹沢山塊、富士山がずらりと見える、はず。まったくもって残念至極。
景色はあきらめ、お世辞にもホスピタルティ精神があるとは思えない売店で、これまたお世辞にも美味とはいえないお蕎麦を食べ、下山ルートを検討。「ヤビツ」という名前に惹かれてヤビツ峠ルートに決める。ヤビツの地名の由来は、武田と北条の合戦がこのあたりで行われ、そのときの矢櫃が発見された、とか、アイヌ語から来るとか、あれこれ。
ヤビツ峠ルートを下る
山頂から下る。下りは怖い。慎重に歩を進める。ヤビツ峠分岐まで戻り、ヤビツ峠に続くイタツミ尾根をひたすら下る。見晴らしのいいガレ場や尾根上の急激な下りなどを繰り返し進む。岩が転がる道と比べれば圧倒的に楽な道。この選択は正解。40分程度あるいただろうか、道はゆるやかになり、小さな広場に。ここを過ぎればヤビツ峠はすぐ。
蓑毛バス停
0 件のコメント:
コメントを投稿