先日手賀沼を歩いた。で、どうせのことなら北総台地に残るもうひとつの大沼・印旛沼を歩いてみたいと思った。印旛沼に向かう。
といっても、どこからはじめよう、と地図をチェック。先日手賀沼散歩の終点であったJR成田線の木下(きおろし)を成田方面に進んだ下総松崎(まんざき)駅の近くに、「房総風土記の丘」がある。北総台地上の古墳群がある、という。印旛沼の脇をひたすら歩く、って本日の散歩に、少々の文化的アクセントをつけるのもいいのでは、とスタート地点に決める。その後は印旛沼に沿って佐倉まで下る、ことに。
本日のルート:下総松崎駅(まんざき)駅>坂田ケ池総合公園>土師神社>風土記の丘・岩屋古墳>風土記の丘・旧学習院初等科正堂>房総風土記の丘資料館>龍角寺>松崎街道から北印旛沼に>北印旛沼>印旛捷水路>山田橋>県道65号・佐倉印西線>西印旛沼>京成線佐倉駅
下総松崎駅(まんざき)駅
地下鉄・千代田線で我孫子駅に。我孫子からJR成田線に乗り換え下総松崎駅に進む。2時間程度かかった、ようだ。下総松崎駅(まんざき)はまことにのどかな駅舎。
本日のルート:下総松崎駅(まんざき)駅>坂田ケ池総合公園>土師神社>風土記の丘・岩屋古墳>風土記の丘・旧学習院初等科正堂>房総風土記の丘資料館>龍角寺>松崎街道から北印旛沼に>北印旛沼>印旛捷水路>山田橋>県道65号・佐倉印西線>西印旛沼>京成線佐倉駅
下総松崎駅(まんざき)駅
地下鉄・千代田線で我孫子駅に。我孫子からJR成田線に乗り換え下総松崎駅に進む。2時間程度かかった、ようだ。下総松崎駅(まんざき)はまことにのどかな駅舎。
駅前といってもなにも、なし。駅前に「房総風土記の丘」への簡単な道案内。大雑把な方角だけ把握して歩き始める。
駅の前に車道。松崎街道と呼ばれる。成田山裏門交差点と印旛郡栄町安食までの区間を走る県道18号成田安食線のこと、である。
きちんとした車道があるわけでもないので、時折通過するトラックに少々怖い思いをしながら西に向かう。台地が街道に迫るあたりに「坂田ケ池総合公園」「房総のむら」への案内。台地に向かって街道を離れる。
坂田ケ池総合公園
道なりに台地を北に進む。案内に従い坂田ケ池総合公園に。坂田ケ池を中心に、湿性植物園や野鳥観察所、遊歩道などが整備された千葉県唯一の総合公園である、と。池の畔をしばし進み、房総風土記の丘に向かう。
坂田ケ池総合公園
道なりに台地を北に進む。案内に従い坂田ケ池総合公園に。坂田ケ池を中心に、湿性植物園や野鳥観察所、遊歩道などが整備された千葉県唯一の総合公園である、と。池の畔をしばし進み、房総風土記の丘に向かう。
土師神社
成行きで進むと道端に土師神社(はじ)が。土師神社って、土師連の氏神さま。で、土師連って、土師式土器や埴輪の製作、そして皇陵の築造の専門家集団。今から進む房総風土記の丘には古墳群があるわけで、何らかの関連がある、かと。
そういえば、印旛沼東の台地、そこには結構な古墳群があるようだが、その台地上には埴生神社が三社ある、という。埴生神社も土師神社も同源。埴輪つくりの部族の氏神様。ここまでの例証が揃えば、この土師神社が風土記の丘古墳群をつくった技術集団の氏神様であろうか、との推論もあながち間違いではない、かも。
風土記の丘・岩屋古墳
土師神社を離れ、先に進む。大きな道路に。あれ?なんだか、あらぬ方向に進んだよう。地名をチェックすると龍角寺。どうもこの道路は成田安食バイパスの、よう。風土記の丘は、もう少々西。 道に沿って西に進む。道脇に「岩屋古墳」「みそ岩屋古墳」への道案内。
道路を左に折れ、南へと進む。林の中を進むと小山が見える。それが「岩屋古墳」。方墳。一辺80m、高さ12mもある、という。推古天皇量にも勝るとも劣らないつくり。天皇陵にも匹敵する規模の古墳をつくることができた豪族の正体は未だ不明。
風土記の丘・旧学習院初等科正堂
岩屋古墳を離れ、先に進む。すぐにちょっとした広場に。すぐそばに白亜のレトロな建物。旧学習院初等科正堂。もともとは新宿にあったものだが、正堂の新築にともない、成田市の下総御料牧場に移築された。その後成田市から千葉県に寄贈され、この地に移された、と。 案内に従い房総風土記の丘資料館に進む。雑木林の道に左右には古墳が続く。小さいものから大きいものまで様々。高さ数メートルといったものもある。それにしても数が多い。資料館に行って、この古墳群の何たるかをチェックするのが少々楽しくなってきた。先を急ぎ房総風土記の丘資料館に。
房総風土記の丘資料館
千葉各地から集められた考古学の資料が展示されている。展示説明やビデオを駆け足でチェック。お勉強した内容を簡単にメモ。この地の古墳群は龍角寺古墳群と呼ばれる。印旛沼と利根川に挟まれたた海抜約30mの台地上に、前方後円墳36基、円墳71基、方墳6基など113基の古墳が集まっている。つくられた時期は5世紀末から7世紀前半頃まで。前方後円墳で最大のものは、浅間山古墳。全長70m。方墳は先ほど訪れた岩屋古墳。日本での最大規模の方墳。6世紀後半、この地域に台頭してきた 豪族が勢力を伸ばし、7世紀前半に築造したものと考えられている。
龍角寺古墳の名前の由来は、この地から少し北にある寺院・龍角寺、から。7世紀後半に建てられた東日本で最も古い寺院と言われる、と。展示説明で最も興味を覚えたことは古墳とお寺の関係についてのコメント。龍角寺にしても、それをつくったのは岩屋古墳を築いた印旛地方の豪族であり、彼らは畿内の有力者と結びついて仏教をいち早く取り入れ、その勢力を広げるために一族の寺を建てた、とのこと。 古墳とお寺の関係といったのは、豪族が仏教に心が傾くにつれ、古墳をつくらずお寺を作るようになった、ということ。言われてみれば当たり前のことではあるが、今までそういった視点で古墳・寺院を見たことがなかったので、結構新鮮であった。
それにしても下総台地上には古墳が多い。先日歩いた手賀沼北岸の台地にも100近い古墳があるという。手賀沼南岸の沼南町もしかり。そしてここ印旛沼東北岸の台地、東岸の成田ニュータウンのある台地、そして佐倉市の印旛沼を見下ろす台地の山崎ひょうたん塚古墳群など数限り無い。往古、印旛沼も手賀沼も内海であり、この内海を臨む台地の上には長い年月に渡って古墳がつくられていったのであろう。先日娘の宿題で群馬が古墳王国であり、埴輪の出土数が全国一、といったことを知った。千葉もそれに負けず劣らず、といった様である。なんとなく訪れた印旛沼をきっかけに、あれこれ新しいことが見えてきた。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
龍角寺
資料館を離れ、龍角寺に向かう。北におよそ1.3キロ程度歩いたところ。資料館から北に向かって道が続く。白鳳道と呼ばれる。龍角寺が建てられたのが上でメモしたように7世紀後半の白鳳時代であることが、名前の由来。
白鳳仏とよばれる本尊・薬師如来を有した龍角寺に向かって白鳳道を進む。道の両側にはこれまた大小の古墳群が続く。 しばらく進むと「成田安食バイパス」に当たる。道の手前からバイパスをくぐる道に下りる。バイパス下のトンネルをくぐると雑木林に。蛇が出そうで少々怖い。道の北側は整地されることなく、野趣豊かな雰囲気がそのまま残る。夕暮れ時など独りで歩くのは少々躊躇われる、といった道筋である。
林を少し進むとのどかな農村風景の中に。龍角寺は直ぐ近く。資料館のビデオで何となく想像はしていたのだが、往時の壮大なる堂宇は、今は無い。金堂跡、といった跡が残るだけ。本堂らしき建物もないのだが、正面のつつましやかなお堂が、それなのだろう。重要文化財となっている本尊・白鳳仏がある、という。どこかの博物館にでも保管しているのか、と思ったが、どうもこの本堂の中にお座りになっている、とか。
しばし休憩。本日のメーンイベントである印旛沼散歩に備える。印旛沼までのコースを地図でチェック。来た道を戻り、坂田ケ池手前から松崎街道・県道18号成田安食線に出るのが最短コースであろうか、と。道を戻る。途中バイパス手前に前方後円墳・浅間山古墳がある、と。結構気をつけて歩いたのだが、確認できず。
松崎街道から北印旛沼に
白鳳道を資料館に戻り、そこから先は成行きで歩くと、印旛沼が見える散歩道、といったコースに出る。印旛沼が見える、とはいっても、眺望が開けたのは一箇所のみ。それなりにいい眺め。先を急ぐ。その先も成行きで進み、台地を少々下ると坂田ケ池の畔に。道なりに台地を下ると「大和の湯」に出る。今はやりの温泉(鉱泉)センター、か。台地裾にあるこの温泉センターを先に進み松崎街道に。松崎街道から先は、水田の中を印旛沼に向かって西に進む。途中ショートカットで田圃の畦道なども強引に踏み分ける。行き止まり。これも強引に水路を飛び越えなんとか印旛沼脇の道にたどり着く。ここから佐倉まで、10キロ以上の印旛沼散歩をはじめることにする。
北印旛沼
印旛沼散歩、とはいうものの印旛沼は全く見えない。道と印旛沼の間には水路があり堤防には登れない。堤防の高さは標高5m。水路、正確には低地排水路と呼ぶらしいが、その標高は1.2mといったところ。
見通しがきかない。そのうちに沼も見えてくるだろう、と先を急ぐ。 松崎、八代、舟形と進み、甚兵衛機場に。ここの役割は、低地排水路に流れ込んできた地域の排水をポンプで汲み上げ印旛沼に戻す。また、印旛沼の水をポンプで汲み上げ地域の最も標高の高いところに送り、そこから水田へと水を供給する。印旛沼の標準水位は2.3m、満水、つまりは農閑期の頃だろうが、その時で2.5mと低地排水路より高くなる。ために、ポンプで汲み上げているわけである。
ちなみに、甚兵衛って、義民・佐倉惣五郎を助け、お咎めを見越して自ら命をたった船頭さんの名前。飢饉・水害に苦しむ農民のため幕府への直訴を図る惣五郎のために、ご法度である夜間に舟を出した、ということだ。惣五郎は、首尾よく江戸で4代将軍家綱に直訴し、佐倉領主・掘田氏には厳しい叱責がなされた、とか。
印旛捷水路
甚兵衛機場を過ぎ、甚兵衛大橋を渡る。この道は464号線・宗吾街道。歩道があるわけではないので、車が通るたびに少々怖い思いをする。橋を渡ると左に折れ「印旛捷水路」に沿って南西に下る。印旛捷水路はいままで歩いた北印旛沼と西印旛沼を繋ぐ水路。捷水路、って自然の水路、つまりは曲がりくねった水路を人工的に開削し真っ直ぐに通した水路のことを言う。江戸時代の絵地図とか大正10年頃の地図を見ると、昔の印旛沼は印旛捷水路の東を流れる中央排水路に沿って、水路というか沼そのものが蛇行している。蛇行部分を干拓し、この捷水路を通して上下の沼を通したのであろう。
捷水路を進む。水路脇にはサイクリングロードが続く。北印旛沼に注ぐ長門川の酒直水門のあたりからはじまり、北印旛沼の西岸を通り、甚兵衛大橋のところで印旛捷水路に入る。印旛捷水路を進み、西印旛沼の南を進み、八千代市の阿宗橋のあたりまで延々と続いている。
山田橋
サイクリングロードを東橋、安能橋と進む。台地が迫る。この台地を切り崩して水路を通したのだろうか。なんらかの自然の水路もあったのだろうか。工事そのものは昭和40年代とのことではあるようだが、この台地を一直線に切り通すには、それなりの理由がなければ、とてもやっておれない、といったスケールの台地の切り開きではある。そのうちにこの工事のことでも調べてみようか、と思う。
鶴巻橋を渡り、水路の南側に移る。市井橋を過ぎたあたりから道は台地への上り、となる。水路北側の道は大地に上ることなく、水路に沿って続いていく。北側の道を見下ろしながら進み台地上に。山田橋が架かる。橋の袂にナウマン象発掘地点の碑。1966年、印旛捷水路の工事のとき、日本で最初にほぼ完全なナウマン象の化石が発掘された、と。
県道65号・佐倉印西線
山田橋には結構大きな道が走る。県道65号・佐倉印西線。橋の北方向にコンビニ。有り難い。実のところ、松崎で北印旛沼に入った頃から水を切らしていた。10キロ程度水無しで歩いただろう、か。結構きつかった。コンビニで浴びるように水分補給。一息つく。 しばし休憩の後、県道65号・佐倉印西線を西印旛沼に向かって台地を下る。南東方向に台地が舌状に延びる。昭和になるまでは、この台地を取り囲むように沼地が広がっていた、ということだが、真っこと違和感なしの台地・低地のコントラスト。
西印旛沼
坂道を下り、西印旛沼に。沼畔に公園。ちょっとした見晴らし台といったものもある。寄っては見たいのだが、先客がのんびり沼を眺めている。邪魔をするのも如何なものかと、先に進む。
しばらく進むと印旛中央排水路。現在はささやかな水路ではあるが、総合開発がはじまる昭和38年以前は、沼はこの西印旛沼東端と同じ500mほどの幅があったのではなかろう、か。
印旛沼についてちょっとメモ;今を遡ること1000年、平安時代の頃、印旛沼は手賀沼や霞ヶ浦と一帯となった大きな水域であった。香取の海あるいは安是の海と呼ばれる広くて大きな海水の入り込む内海であった、よう。 が、上流からの流される土砂や海退現象によって、次第に陸地化し、それぞれが独立した水域となる。人々は土砂で浅くなった水域の周囲を開墾し新田開発に努めた、とか。
その状況が大きく変化したのは江戸時代。幾度かメモした利根川の東遷事業によって流路が銚子へと変わった利根川により、印旛沼は洪水に見舞われることになる。江戸を守るために流れを変えた利根川の水が印旛沼に流れ込み、地域に洪水被害を引き起こす。 洪水被害を防ぐため江戸時代に数度にわたって印旛沼の水を江戸湾に流す工事をおこなう。が、天明期の担当老中の田沼意次、天保期の水野忠邦の失脚などにより工事は頓挫。
しばし休憩。本日のメーンイベントである印旛沼散歩に備える。印旛沼までのコースを地図でチェック。来た道を戻り、坂田ケ池手前から松崎街道・県道18号成田安食線に出るのが最短コースであろうか、と。道を戻る。途中バイパス手前に前方後円墳・浅間山古墳がある、と。結構気をつけて歩いたのだが、確認できず。
松崎街道から北印旛沼に
白鳳道を資料館に戻り、そこから先は成行きで歩くと、印旛沼が見える散歩道、といったコースに出る。印旛沼が見える、とはいっても、眺望が開けたのは一箇所のみ。それなりにいい眺め。先を急ぐ。その先も成行きで進み、台地を少々下ると坂田ケ池の畔に。道なりに台地を下ると「大和の湯」に出る。今はやりの温泉(鉱泉)センター、か。台地裾にあるこの温泉センターを先に進み松崎街道に。松崎街道から先は、水田の中を印旛沼に向かって西に進む。途中ショートカットで田圃の畦道なども強引に踏み分ける。行き止まり。これも強引に水路を飛び越えなんとか印旛沼脇の道にたどり着く。ここから佐倉まで、10キロ以上の印旛沼散歩をはじめることにする。
北印旛沼
印旛沼散歩、とはいうものの印旛沼は全く見えない。道と印旛沼の間には水路があり堤防には登れない。堤防の高さは標高5m。水路、正確には低地排水路と呼ぶらしいが、その標高は1.2mといったところ。
見通しがきかない。そのうちに沼も見えてくるだろう、と先を急ぐ。 松崎、八代、舟形と進み、甚兵衛機場に。ここの役割は、低地排水路に流れ込んできた地域の排水をポンプで汲み上げ印旛沼に戻す。また、印旛沼の水をポンプで汲み上げ地域の最も標高の高いところに送り、そこから水田へと水を供給する。印旛沼の標準水位は2.3m、満水、つまりは農閑期の頃だろうが、その時で2.5mと低地排水路より高くなる。ために、ポンプで汲み上げているわけである。
ちなみに、甚兵衛って、義民・佐倉惣五郎を助け、お咎めを見越して自ら命をたった船頭さんの名前。飢饉・水害に苦しむ農民のため幕府への直訴を図る惣五郎のために、ご法度である夜間に舟を出した、ということだ。惣五郎は、首尾よく江戸で4代将軍家綱に直訴し、佐倉領主・掘田氏には厳しい叱責がなされた、とか。
印旛捷水路
甚兵衛機場を過ぎ、甚兵衛大橋を渡る。この道は464号線・宗吾街道。歩道があるわけではないので、車が通るたびに少々怖い思いをする。橋を渡ると左に折れ「印旛捷水路」に沿って南西に下る。印旛捷水路はいままで歩いた北印旛沼と西印旛沼を繋ぐ水路。捷水路、って自然の水路、つまりは曲がりくねった水路を人工的に開削し真っ直ぐに通した水路のことを言う。江戸時代の絵地図とか大正10年頃の地図を見ると、昔の印旛沼は印旛捷水路の東を流れる中央排水路に沿って、水路というか沼そのものが蛇行している。蛇行部分を干拓し、この捷水路を通して上下の沼を通したのであろう。
捷水路を進む。水路脇にはサイクリングロードが続く。北印旛沼に注ぐ長門川の酒直水門のあたりからはじまり、北印旛沼の西岸を通り、甚兵衛大橋のところで印旛捷水路に入る。印旛捷水路を進み、西印旛沼の南を進み、八千代市の阿宗橋のあたりまで延々と続いている。
山田橋
サイクリングロードを東橋、安能橋と進む。台地が迫る。この台地を切り崩して水路を通したのだろうか。なんらかの自然の水路もあったのだろうか。工事そのものは昭和40年代とのことではあるようだが、この台地を一直線に切り通すには、それなりの理由がなければ、とてもやっておれない、といったスケールの台地の切り開きではある。そのうちにこの工事のことでも調べてみようか、と思う。
鶴巻橋を渡り、水路の南側に移る。市井橋を過ぎたあたりから道は台地への上り、となる。水路北側の道は大地に上ることなく、水路に沿って続いていく。北側の道を見下ろしながら進み台地上に。山田橋が架かる。橋の袂にナウマン象発掘地点の碑。1966年、印旛捷水路の工事のとき、日本で最初にほぼ完全なナウマン象の化石が発掘された、と。
県道65号・佐倉印西線
山田橋には結構大きな道が走る。県道65号・佐倉印西線。橋の北方向にコンビニ。有り難い。実のところ、松崎で北印旛沼に入った頃から水を切らしていた。10キロ程度水無しで歩いただろう、か。結構きつかった。コンビニで浴びるように水分補給。一息つく。 しばし休憩の後、県道65号・佐倉印西線を西印旛沼に向かって台地を下る。南東方向に台地が舌状に延びる。昭和になるまでは、この台地を取り囲むように沼地が広がっていた、ということだが、真っこと違和感なしの台地・低地のコントラスト。
西印旛沼
坂道を下り、西印旛沼に。沼畔に公園。ちょっとした見晴らし台といったものもある。寄っては見たいのだが、先客がのんびり沼を眺めている。邪魔をするのも如何なものかと、先に進む。
しばらく進むと印旛中央排水路。現在はささやかな水路ではあるが、総合開発がはじまる昭和38年以前は、沼はこの西印旛沼東端と同じ500mほどの幅があったのではなかろう、か。
印旛沼についてちょっとメモ;今を遡ること1000年、平安時代の頃、印旛沼は手賀沼や霞ヶ浦と一帯となった大きな水域であった。香取の海あるいは安是の海と呼ばれる広くて大きな海水の入り込む内海であった、よう。 が、上流からの流される土砂や海退現象によって、次第に陸地化し、それぞれが独立した水域となる。人々は土砂で浅くなった水域の周囲を開墾し新田開発に努めた、とか。
その状況が大きく変化したのは江戸時代。幾度かメモした利根川の東遷事業によって流路が銚子へと変わった利根川により、印旛沼は洪水に見舞われることになる。江戸を守るために流れを変えた利根川の水が印旛沼に流れ込み、地域に洪水被害を引き起こす。 洪水被害を防ぐため江戸時代に数度にわたって印旛沼の水を江戸湾に流す工事をおこなう。が、天明期の担当老中の田沼意次、天保期の水野忠邦の失脚などにより工事は頓挫。
結局は昭和38年からはじまる印旛沼総合開発事業の完成を待つことになる。印旛沼の水を花見川を通し東京湾に流すことができたのは昭和44年のことである。
京成線佐倉駅
台地を上る。歩道はない峠道。少々怖い。右手は佐倉市民の森。左手は岩名運動公園。ゆっくりと台地を下り、台地の裾・下根地区を進む。山崎地区を過ぎれば駅は直ぐ。日も暮れた。京成線佐倉駅から家路へと急ぐ。
京成線佐倉駅
台地を上る。歩道はない峠道。少々怖い。右手は佐倉市民の森。左手は岩名運動公園。ゆっくりと台地を下り、台地の裾・下根地区を進む。山崎地区を過ぎれば駅は直ぐ。日も暮れた。京成線佐倉駅から家路へと急ぐ。
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