月曜日, 3月 23, 2009

鎌倉散歩 そのⅠ:天園ハイキングコースから亀ケ谷・化粧坂切通しへ

 
鎌倉は三方を山で囲まれている。鎌倉アルプスなどとも呼ばれている。アルプス、とは言うものの標高は150m程度。山登り、というほどのことはない。その尾根道にはいくつものハイキングコースが整備されている。尾根筋から眺める鎌倉の街並み、そして、その前に広がる湘南の海は、なかなかの景色である。
山に向かえば、「切通し」にも出合える。切通し、って山を切り崩した道である。昔、鎌倉に入るには、渚沿いの道のほかは、「切通し」を通るしかなかった、という。よく聞くのだが、歩いたことはなかった。ということで、鎌倉散歩は、古都を取り囲む山を歩き、そこに残る切通しの跡を巡る。あわせて、道すがら、名刹・古刹も訪ようと思う。
第一回は天園ハイキングコースから亀ケ谷・化粧坂切通しを辿るコース。北鎌倉の名刹からはじめ、鎌倉アルプスと呼ばれる標高150m程度の丘陵にある天園ハイキングコース歩く。ハイキングコースは尾根伝いに朝比奈方面・瑞泉寺のほうまで続いているが、今回は途中で尾根をくだり、鎌倉幕府が開かれた大蔵の地に下りる。そこで頼朝のお墓など名所を巡り西に向かい、亀ケ谷坂切り通し・化粧坂の切り通しを経てJR鎌倉駅に至る。



本日のコース:
円覚寺 > 東慶寺 > 浄智寺 > 建長寺 > 半僧坊 > 覚園寺 > 鎌倉宮 > 荏柄天神 > 源頼朝の墓 > 毛利季光・島津忠久の墓 > 亀ケ谷坂切り通し > 岩船地蔵堂 > 海蔵寺 > 化粧坂 > 英勝寺 > 寿福寺 > JR鎌倉駅

円覚寺
円覚寺横須賀線北鎌倉下車。駅近くに円覚寺。鎌倉五山第二位、臨済宗円覚寺派の大本山。文永・弘安の役、つまりは蒙古来襲の時になくなった武士をとむらうために北条時宗が創建したもの。読みは「えんがくじ」。開山は無学祖元。中国・宋の国・明州の生まれ。無学祖元禅師の流れは、夢窓疎石といった高僧に受け継がれ、室町期の禅の中核となる。五山文学や室町文化に大きな影響を与えたことはいうまでもない。
ところで、時宗が執権職についたのは18歳の時。亡くなったのは33歳。その間、文永・弘安の役といった国難、兄・時輔らとの内部抗争、日蓮を代表とする批判勢力の鎮圧、といた数々の難題。年若き時宗だけで、対応できるとも思えない。第七代執権・北条政村を筆頭に、金沢実時、安達泰盛といったベテランがバックアップしたのであろう。
舎利殿は国宝。
photo by jmsmytaste

東慶寺
東慶寺円覚寺を出て鎌倉街道を少し南に下り東慶寺に。お寺でもらったパンフによると「開山は北条時宗夫人覚山尼。五世後醍醐天皇皇女・用堂尼以来松ヶ丘御所と呼ばれ、二十世は豊臣秀頼息女天秀尼。明治にいたるまで男子禁制の尼寺で、駆け込み寺または縁切り寺としてあまたの女人を救済した」と。寺に逃げ込み3年間修行すれば女性から離縁することができたとのこと。
このお寺には多くの文人・墨客が眠っている。西田幾多郎(哲学者; 『善の研究」)、和辻哲郎(哲学者;『風土 人間学的考察』)、川田順(財界人・歌人。「老いらくの恋」の先駆者(?)。 そして、「何一つ成し遂げざりしわれながら君を思ふはつひに貫く」の歌)、安倍能成(骨太の自由主義者。一学校長・学習院院長・文部大臣。愛媛県松山生まれ)、鈴木大拙(禅を世界に広めた哲学者)、小林秀雄(文芸評論。『無常ということ』)などのお墓がある。あまりお寺っぽくない。品のいい日本邸宅のような趣。文人が好んで眠るのも納得。
photo by lioil

浄智寺
浄智寺少し進んで浄智寺。鎌倉五山第四位。臨済宗円覚寺派。執権北条時頼の三男宗政の菩提をとむらうために宗政夫人が開く。お寺から頂いたパンフレットによると、「浄智寺が建つ山ノ内地区は、鎌倉時代には禅宗を保護し、相次いで寺院を建てた北条氏の所領でもあったので、いまでも禅刹が多い。どの寺院も丘を背負い、鎌倉では谷戸とよぶ谷合に堂宇を並べている。浄智寺も寺域が背後の谷戸に深くのび、竹や杉の多い境内に、長い歴史をもった禅刹にふさわしい閑寂なたたずまいを保つ。うら庭の燧道を抜けると、洞窟に弥勒菩薩の化身といわれる、布袋尊がまつられている」。鎌倉の地形の特徴がよく現されている。
photo by Koichu Suzuki

建長寺
建長寺JR横須賀線の線路を越えると建長寺。巨福山建長興国禅寺。臨済宗建長寺派の大本山。五代執権北条時頼が蘭渓道隆(後の大覚禅師)を開山として創建。日本初の禅宗道場。 巨福門(こふくもん)と呼ばれる総門を越えると三門。禅宗では「山門」ではなく、「三門」と呼ぶことが多いようだ。「三門とは悟りに入る3つの法門、三解脱門のこと。つまりは空三昧・無相三昧・無願三昧の三つの法門」、と。
photo by detsugu



半僧坊大権現
「天園ハイキングコース」は、建長寺境内からはじまり、裏山中腹の半僧坊から尾根道を歩き、鎌倉の山並みの最高峰・太平山、といっても156メートルだが、この太平山をこえ天園から天台山、そして瑞泉寺に降りるコース。
建長寺の境内を北に向かい250段ほどの階段を上ると半僧坊大権現。からす天狗をお供に従えた、この半僧半俗姿の半僧坊(はんそうぼう)大権現、大権現とは仏が神という「仮=権」の姿で現れることだが、この神様は明治になって勧請された建長寺の鎮守様。当時の住持が夢に現れた、いかにも半増坊さまっぽい老人が「我を関東の地に・・・」ということで、静岡県の方広寺から勧請された。建長寺以外にも、金閣寺(京都)、平林寺(埼玉県)等に半僧坊大権現が勧請されている。結構「力」のある神様、というか仏様であったのだろう。気になりチェック。
方広寺の開山の祖は後醍醐天皇の皇子無文元選禅師。後醍醐天皇崩御の後、出家。中国天台山方広寺で修行。帰国後、参禅に来た、遠江・奥山の豪族・奥山氏の寄進を受け、方広寺を開山した、と。半僧坊の由来は、無文元選禅師が中国からの帰国時に遡る。帰国の船が嵐で難破寸前。異形の者が現れ、船を導き難を避ける。帰国後、方広寺開山時、再び現れ弟子入り志願。その姿が「半(なか)ば僧にあって僧にあらず」といった風体であったため「半僧坊」と。

天園ハイキングコース
社務所前の小さな鳥居をくぐりハイキングコースに。樹林の中の起伏に富んだルート。遊歩道として整備されていることもなく、野趣豊か。木の根っこが飛び出す山道をどんどん進む。5分ほどで「勝上けん展望台」。名月院方面からの道が合流する。鎌倉の海の眺めが楽しめる。更に5分程度で「十王岩の展望」。かながわの景勝50選に選ばれた展望ポイント。海に続く一直線の若宮大路が見下ろせる。
「十王岩の展望」の先でコースは瑞泉寺へと続くメーンルートと、麓の覚園寺に下るコールに別れる。今回は、覚園寺へと下る。分岐点を5分も歩くと、「百八やぐら」。「やぐら」は横穴式のお墓。鎌倉では、岸壁や岩肌に横穴を掘って、そこに遺骨等を埋葬した場所を「やぐら」と言い、武士や僧侶の墓所であるとされている。 「やぐら」は鎌倉の谷戸や山間部の至るところに点在している。山に囲まれ土地が狭い故だろう、か。

覚園寺
覚園寺手付かずの自然の中を下ると覚園寺の脇に出る。覚園寺の創建は13世紀初頭、北条義時が薬師堂を建てたことにはじまる。その後薬師堂は足利尊氏によって再建。現在の薬師堂は江戸時代に作り直されたもの、と。薬師堂前の地蔵堂には全身黒ずんだお地蔵さん。蒲原有明の随筆『鎌倉のはなし』に、このお地蔵さんの記述が;「覚園寺の地蔵尊は地獄で獄卒にかわって火を焚き、罪人の苦痛をやすめたといわれ、世間では火焚き地蔵とも黒地蔵とも呼んでいる」と(『だれも書かなかった鎌倉:金子晋(講談社)』)。近辺の谷戸(津)には紅葉の名所も多い、とか。「獅子舞」、瑞泉寺のある紅葉ヶ谷(もみじがやつ)などである。
photo by jmsmytaste
鎌倉宮
宮が。明治天皇が、後醍醐天皇の第1子護良親王(もり ながしんのう)を祭「神として創建したもの。大塔宮護良親王は建武の新政の際の征夷大将軍。が、足利尊氏と対立して鎌倉に流され、後に暗殺される。小説で呼んでいた、親王が幽閉されていたという土牢もこの裏手にある。黒須紀一郎さんの『婆娑羅太平記』」などでの護良親王の姿にリアリティが出る、かも。
次はどこに。案内掲示をチェック。荏柄天神>源頼朝の墓>大江広元の墓>鶴岡八幡経由の建長寺とする。

荏柄天神
荏柄天神は日本 三大天神社(福岡・太宰府天満宮、京都・北野天満宮)の一つ。学問の神様として信仰されている。祭神は菅原道真。創建は平安後期と伝えられている。


源頼朝の墓
ちょっと歩き源頼朝の墓に。白幡神社を過ぎ、大蔵幕府跡が一望できる大倉山中腹にある、高さ約2mの層塔が頼朝の墓。53歳で亡くなったが死因不明。この墓は江戸時代、18世紀、薩摩島津藩島津重豪がつくったとのこと。右奥には三浦一族をまつる、「やぐら」がある。

大江広元・毛利季光・島津忠久の墓

源頼朝の墓の近くに大江広元の墓。あまり整備されていない階段をのぼり、結構寂しい場所の「やぐら」の中に祀られている。大江広元って結構面白い人物。無骨なる荒武者相手に文官として 頼朝の最高ブレーン、頼朝亡き後も北条政子や北条義時とともに北条氏の執権独裁体制を確立させるため奮闘した文治官僚。

で、この大江広元のお墓を囲むように、毛利季光、島津忠久のお墓。中国毛利家の藩主、薩摩島津家の藩主と大江広元や頼朝との関係は?
毛利季光(もおりすえみつ)。大江広元の四男。相模の国・毛利荘を領して、初めて毛利姓を称した。宝治・三浦の乱に三浦一門に組し、北条時頼軍に敗れ、源頼朝 の法華堂(白幡神社)で三浦一族郎党500名とともに自害。ちなみに、この戦いに参加しなかった毛利一族が安芸国に移り、これが、戦国大名毛利家の祖先と なる。 島津忠久。母は比企能員の妹・丹後局。一説には源頼朝のご落胤とも。宝治・三浦の乱で同じく法華堂で自決。薩摩藩主・島津氏の祖。島津家が頼朝の子孫と言うわけは、このあたりに。島津家が頼朝の墓をつくったりした理由も納得。

亀ケ谷坂切り通し
東御門から西御門地区、途中、頼朝が政務を行った幕府・大蔵幕府跡地、一遍上人が開山という来迎寺(あまりに普通のお寺さん)に寄り道しながら、鶴丘八幡を素通りし建長寺に戻る。西に向かい、「亀ケ谷坂切り通し」に。鎌倉七口のひとつ。観光用に一番綺麗に整備されている「切り通し」。

崖が「切り取られて」いる。国史跡、とはいうものの、地域の生活道路。山ノ内地区、つまりは大船・戸塚・武蔵方面と扇ガ谷(おうぎがやつ)地区を通じる路。亀ケ谷(かめがやつ)は扇ガ谷(おうぎがやつ)の古称。室町時代の関東管領が扇ガ谷上杉殿と山の内上杉殿に分かれて、といった話がよく小説に描かれているが、これがその扇ガ谷の地。ちなみに山の内地区は浄智寺のあたり。坂を下り住宅街に。

岩船地蔵堂
JRとの交差近くに岩船地蔵堂が。頼朝の娘・大姫の守り本尊と伝えられている。木曾義仲の長男義高に嫁いだ大姫は、父・源頼朝に夫を殺され自らも命を絶つ。その悲恋は「吾妻鏡」に記されている。




海蔵
JR横須賀線をくぐり海蔵寺近くへ。もうあたりは暗く、海蔵寺も階段の両側から草木が迫っているって感じを受けるだけ。海蔵寺の近くに鎌倉七切通しのひとつ、化粧坂への案内。とりあえず行けるとこまで行く。住宅街を進み、山道へ。整地なし。自然のまま。もう足元も見えなくなった。少々やばい。引き返す。で、英勝寺から寿福寺前を通り御成町から鎌倉駅に。本日の予定終了。化粧坂、あらから先はどうなっているのだろう、あのまま行けたのか、道に迷うことになったのか、心残り。明日も再度鎌倉だ!

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

後日談
家に戻り本棚を探し唐木順三さんの『あづま みちのく』を取り出した。大学生の頃読んだ本である。中に、「頼朝の長女」という記述がある。これって、つまりは、鎌倉・岩船地蔵尊で出会った大姫のこと。「頼朝の娘・大姫の守り本尊と伝えられている。木曾義仲の長男義高に嫁いだ大姫は、父・源頼朝に夫を殺され自らも命を絶つ。その悲恋は「吾妻鏡」に記されている。」と簡単にメモした。が、「頼朝の長女」を読んで、簡単なメモではなく、ちょっとまとめておこうと思った。以下、「頼朝の長女」からの抜粋;
1. 大姫は、女性史からだけでなく、中世史全体からみても留意すべき人であった、と唐木順三氏
2. 頼朝と木曽義仲の間柄が険悪になる。それは、甲斐源氏・武田太郎信光の讒言による。武田信光が娘を木曽義仲の嫡子・志水冠者義高にと思うが、木曽義仲にすげなくあしらわれプライドが傷ついたため。讒言の内容;木曽義仲が京に上るのは、平家と連合し頼朝を討つため、と。
3. 頼朝より;謀反なき証として、志水冠者・義高を鎌倉に送るなら、「父子の儀」をなすと。志水冠者は当時11歳。大姫6,7歳。許婚者となる。
4. 2ヵ月後義仲、京都に攻め込む。平氏西海へ逃れる。備中水島で平氏に敗れる。後白河法皇、鎌倉に義仲追討を命じる。範頼・義経軍に敗れ義仲、近江で敗死
5. 1184年(寿永3年)4月。頼朝が義高を亡き者にとの動きあり(「誅せらる可きの由、内々おぼしめし立ち。。。」:吾妻鏡)。大姫・大姫付きの女房たち、義高を逃すべ工作。義高女装。近習が冠者になりすます偽装工作。夕刻露見。頼朝激怒。
6. 頼朝;堀藤次親家に、義高を討ち取るべしとの下知
7. 大姫「周章して魂を、けさしめたまう」
8. 脱出6日目。堀藤次親家の郎党、藤内光澄帰参して曰く「志水冠者を入間川の河原で殺した」と。境川(東京都と神奈川県の境を江ノ島まで流れる)に沿って遡り、町田、府中、国分寺を過ぎて所沢に出て、そこから入間川に達したものと思われる。
9. 大姫、漏れ聞き愁嘆。母の政子も、姫の心中を察し哀傷殊に甚だしく、殿中の男女も嘆色を示す
10. 当時義高12歳。大姫8歳程度。
11. 政子の怒り;堀藤次親家の郎党、藤内光澄、斬首のうえさらし首。
12. 理由;志水冠者を殺して以来、大姫の哀傷いよいよ募り、病床に在って懊悩。日ごとに憔悴の度を加えている。志水冠者を殺したのが大姫憔悴の原因であるから、その郎党に責任がある
13. 1186年(文治三年)2月、吉野の蔵王堂で捕らえられた静御前が鎌倉へ護送。政子の再三の懇請により舞を。上下皆興感を催す。5月、大姫が鬱気を散ずるため参籠しているお堂に大姫の願いにより静が招かれる。2ヵ月後、静、義経の子出産。幕府の命により、由比ガ浜に棄てられる。大姫の愁嘆甚だしく、宥めるすべなし、と
14. 文治年間は大姫の病状は一進一退。大姫の発願により多くの寺で志水冠者の冥福をいのる催し。大姫も岩殿の観音堂に参詣。
15. 1191年(建久2年)、大姫15歳。病状、はなはだ御辛苦。御不例。頼朝、岩殿・大蔵の観音堂に参籠。大姫の快癒を祈る。「総軍家の姫君、夜よりご不例。是れ恒の事たりと雖も、今日殊に危急なり。志水殿の事有りしの後、御悲嘆の故に、日を追いて御憔悴、断金の志に堪えず。殆ど沈石の思いを為し給うか。且つは貞女の操行、衆人の美談とする所なり」と。頼朝、参詣・快癒祈願を繰り返す。
16. 京より一条高能、鎌倉に。頼朝の甥。大姫を一条高能に嫁せしめようと。鎌倉を離れることにより、過去を忘れさせんと。大姫、強いて言うなら「身を深淵に沈むべし」と。一途に亡き志水殿を慕っている。
17. 1195年(建久6年)、頼朝、奈良東大寺大仏落慶法要に。19歳の大姫も同行。在京100余日。大姫、後鳥羽天皇の妃として入内の工作。確か、平氏により大仏殿が焼け落ちたはず。
18. 京都から鎌倉に。大姫、いたく病む。入内拒否の故と。「心身常に非ず、偏に邪気の致す所か」。大姫拒否の理由は、志水冠者へのやみがたき思慕、懐旧に由ると『吾妻鏡』は言う。
19. 入内を自分の意思で拒んだ女性は歴史上、大姫以外に思い当たらない、と。このような未曾有のことが19歳ほどの若い女性によって行われ、その悩乱によって程なく死にいたったのである。1197年(建久8年)7月14日、「京へまいらすべしと聞こえし頼朝がむすめ久しくわづらひてうせにけり」と。
20. このような大姫、殺伐な世の中に己を持して生きていたということだけでも、私(唐木順三)は言っておきたい。
散歩のときの数行のメモ、ちょっと調べればその裏には、あたりまえのことながらすごい歴史が紐づいていた。そういえば、同じような生き方をした女性の本も最近読んだ。先日、渋谷散歩の際、学芸大学の古本屋で買った『千人同心』、また作家は忘れたが、『大久保長安』の中に登場した武田信玄の五女松姫の話。織田信長の長男・信忠との婚約の儀。松姫7歳、信忠11歳くらいか。輿入れの日を待つだけ。が、信玄と家康、三方が原で激突。信長は家康に援軍を。結果、武田・織田友好関係解消。松姫の婚約も解消。織田の武田攻めを逃れ、松姫武州恩方(東京都八王子)に逃れる。武田家天目山で滅亡。信忠本能寺で自刃。それより前、八王子に松姫がいることを知った信忠、妻に迎えたいとの使いを出し、松姫が信忠のもとに向かう途中で本能寺の悲報を聞いたといった、ドラマティックな説もある。松姫出家。信松尼で生涯を終えるまで、信忠の許婚としていき続ける。大姫も松姫も、雛人形のごとき思いを一生大切に、己を持して生きていた。
後日、義高が誅された入間の地、松姫が余生を過ごした八王子の心源院や信松院を訪れた。


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