日曜日, 10月 17, 2010

文京区散歩そのⅠ;本郷台地を辿り指ヶ谷の谷筋に。更に小石川台地を越えて神田川の川筋へ再び下る

文京区を歩くことにした。実際のところ、文京区は散歩の折々に幾たびと無く「掠め通って」はいる。豊島区の染井霊園にその源を発する谷田川(下流部では藍染川とも呼ばれる)、現在では川筋などなく道路を辿るだけなのだが、ともあれ本郷台地東側の川筋跡を根津谷に下ったことがある。同じく豊島区要町あたりの粟島神社・弁天池に源を発する谷端川(小石川とも千川とも呼ばれる)を下り、これもまた、今では川の面影など何処にもないのだが、その川筋跡を辿り白山台地と小石川台地の間の谷筋を後楽園まで下ったこともある。また、日暮の里・日暮里から上野台地に上り、一度根津の谷に下った後再び本郷台地に上り、またまた千川の谷に下りさらには小石川の台地を経て神田川に下ったこともある。こうしてみると、どれも武蔵野台地の東端にある文京区の、台地とその台地を刻んだ川筋を辿ったわけで、時空散歩の「空=地形」を楽しんだ、ということであろう。
今回の文京区散歩と銘打つも、いまひとつルートが思い浮かばない。根津神社にしても、後楽園にしても、伝通院や白山神社にしても折に触れて訪ねており、一筆書きを信条とする我が身としては、その地を再び訪ねる強い動機に今ひとつ欠ける。思案の末、というほどのこともないにだが、とりあえず郷土歴史館に行き、なんらかの「きっかけ」を得るに莫如(しくはなし)、ということで、まずは文京区ふるさと歴史館に。

本日のコース;JR総武線水道橋駅>神田上水掛樋跡>金毘羅宮>忠弥坂>昌清寺>本郷給水所公苑>壱岐坂通り>三河稲荷神社>春日通り>文京ふるさと歴史館>炭団坂>坪内逍遥旧居跡>菊坂>樋口一葉旧居跡>宮沢賢治旧居跡>本妙寺跡>長泉寺>本郷菊谷ホテル跡>菊坂通り>本郷通り>本郷三丁目交差点(春日通り_本郷通り交差点)>かねやす>桜木神社>法真寺(樋口一葉ゆかりの地)>石川啄木ゆかりの地>菊坂下交差点>白山通り・西方交差点>樋口一葉ゆかりの地>善光寺>沢蔵司稲荷>伝通院>春日通り>安藤坂>諏訪神社>神田川_白鳥橋>大曲>JR飯田橋駅

神田上水の掛樋跡
「文京区ふるさと歴史館」は文京区本郷4丁目にある。最寄りのJR野駅・水道橋で下車。水道橋と言えば、その名前の由来ともなった神田上水の掛樋(懸樋)跡が駅のすぐ近くにある。神田川に沿って外堀通りを少し上ると道脇に神田上水掛樋跡の碑。
掛樋のあたりの神田川の谷は深い。この谷は、人工的に開削されたもの。元々の川筋は飯田橋あたりから南に下っていたのだが、それでは江戸城が水害に晒される、ということでお茶の水の台地を切り開き現在の水路を開いた。水路用に切り開いたものではなく、江戸城の北方防備のため本郷台地を切り崩して造った外堀を活用した、との説もあるが、それはともかく、仙台の伊達藩が6年の歳月をかけて切り開いた。その故にこの谷は仙台堀とも伊達堀とも呼ばれる。掘り起こされた土は低湿地であった神田・日本橋一帯の埋め立てに使われた、と。
掛樋の通る神田上水は、江戸の人々、といってもお武家様中心ではあろうが、その飲み水を確保するため、遠く現在の吉祥寺にある井の頭の水を江戸の町まで引いたもの。もともとあった平川の自然水路を整備し直し、流路を井の頭までのばし、現在の神田川の流路がつくられた。神田上水は江戸川橋近くの関口大洗堰で神田川から分水される。神田川から分かれた上水の水路は現在の後楽園、当時の水戸徳川家の上屋敷に入り、その余水はさらに進みこの地で掛樋を渡る。掛樋を越えた上水は、神田や日本橋の武家屋敷を潤し、そしてその余水が町屋に流された、とのことである。

文京区ふるさと歴史館に向かうべく、外堀通りを下り白山通りの交差点に。交差点脇にある都立工芸高校前に住所案内。歴史館への道すがら、なにか見どころはないものかとチェック。金比羅宮とか昌清寺とか三河稲荷とか、いくつかの神社仏閣がある。どうせのことならと、成り行きで辿ることにする。

金比羅宮
白山通りを一筋入ったあたり、宝生能楽堂の北に金比羅宮。このあたり元は高松松平家下屋敷。金比羅山さんと言えば四国の讃岐。虎ノ門の金比羅宮は讃岐丸亀藩の邸内祠と言うし、ここの金比羅さんも高松藩の邸内祠かと思ったのだが、事はそれほど簡単ではなかった。もとは江戸の町人がつくった邸内社。あれこれ経緯はあるものの明治23年に深川に移り「深川のこんぴらさん」などと呼ばれ人々の信仰を得ていた、と。その社も戦災で焼失。昭和39年に高松松平家より下屋敷跡のこの地の寄進を受け、社を建てた。その際に江戸の頃、松平家下屋敷の邸内社であった金比羅様も合祀された、とのことである。
金比羅さんは、ヒンズー教のクンビーラ神から。ガンジス川に棲むワニが神格化されたものであり、その「水」との関連故に竜神・水神として信仰され、海難とか雨乞いの守護神として信仰されるようになったのだろう。お宮はこじんまりしているのだが、狛犬がちょっとユニーク。阿吽それぞれが、授乳であるような、子供を宿しているような姿をしていた。

忠弥坂
昌清寺に向かう。桜蔭学園の東、坂を上ったところにある。桜蔭学園は東京高等女子師範学校(現在のお茶の水女子大)の同窓会が母体とのこと。お茶の水の聖橋脇にある湯島聖堂、と言うか昌平坂学問所は、現在は小じんまりとした佇まいではあるが、往時は広大な敷地をもっていた。その敷地は現在の東京医科歯科大とか順天堂医院あたりを含めたものであり、明治に入り、敷地跡に東京女子高等師範学校が建てられた、という。桜蔭学園創立の所以を納得。
桜蔭学園脇の急坂を上る。坂の途中に案内。チェックすると「忠弥坂」とある。文京区教育委員会の案内によれば、坂の上に丸橋忠弥の槍の道場があり、また慶安事件に連座し逮捕された場所にも近いということで名付けられた。慶安事件とは、忠弥が由井正雪とともに幕府転覆を企てた一大事件のことである。

昌清寺
桜蔭学園のすぐ東に昌清寺。小じんまりとしたお寺さま。文京区教育委員会の案内によれば、開基は駿河大納言忠長卿(家光の弟)の乳母。二代将軍秀忠と母のお江は兄の家光より忠長を愛で、次期将軍を忠長に譲ろうとした。が、家光の乳母である春日局は「長序の順を違うべからず」と家康に直訴し、結局三代将軍は家光と決まる。忠長は駿府城主となるも、心穏やか成らず、さらに大阪城主も求めた。ために家光の怒りに触れ領地は没収、高崎城に幽閉され自害に追い込まれる。28歳であった。
忠長死後、忠長夫人のお昌の方は剃髪し松考院となる。乳母のお清も剃髪し、お昌の方より一字をもらい、昌清尼と称する。松考院は忠長の菩提をとむらうにあたり、公儀に配慮し自分にかわり、乳母であるお清・昌清尼に菩提を弔わせた、と。乳母が開基の所以にもドラマがある。

本郷給水所公苑
次はどこ、と考える。すぐ東に本郷給水所公苑があり、そこには神田上水の石樋が残されている。散歩を始めた頃、一時期、用水歩きに「萌えた(燃えた?)」ことがある。玉川上水を羽村から4回に分けて新宿大木戸まで下ったり、神田上水を井の頭から隅田川合流点まで下ったり、三田用水や品川用水、六郷用水跡を辿ったことがある。そんなこともあってか、この公苑脇にある東京都水道歴史館には幾度となく足を運んだ。そのときに公苑の石樋は見てはいるのだが、その記録もおぼろげになってきており、ついでのことなので、ちょっと寄り道。
公苑の隅に石樋が残る。結構大きい。内径は1.5mほどもある。石樋は今で言う大規模幹線水道管。石樋からは少し小さい枝線水道管・木樋を通して地中を進み、枡で分岐し、また、枡から水が汲み上げられた。江戸の昔の井戸は、自然井戸ではなく地中を通る「水道管」の水を汲み上げていた、と言うことだ。葦や芦の生い茂る低湿地、遠浅の入り江を埋め立てた江戸の町では、自然井戸で汲み上げた水は、塩気が強く、とてものこと飲めたものではなかったようだ。

三河稲荷神社
次の目的地は新壱岐坂を越えた先にある三河稲荷神社。三河は徳川の出身地でもあり、なんらかの謂われを期待して進む。これまた小振りのお稲荷さん。謂われは予想通り、三河国稲荷山隣松寺の稲荷社にはじまる。往古、家康が三河の一向一揆に立ち向かうべく隣松寺に陣を張り稲荷社に戦勝を祈願。勝利を得る。江戸入府に際し、稲荷社を吹上の地(現在の吹上御所のあたりだろう、か)に勧請。その後、御弓組がこの地に大縄地を拝領したとき、その鎮守として昌清寺に祀られる。
江戸城の鬼門防備の役割を担った御弓組も鬼門防備の任が上野寛永寺に移ったため、この地を離れ目白台に。跡地は町屋となり、三河稲荷も町屋の鎮守となる。明治になり神仏分離で昌清寺と別れるも、先ほど訪れた本郷給水所が造られる際にこの地に移った。成り行きで訪ねたお寺や公苑が、ぴったりと繋がった。成り行き任せの散歩の妙。ちなみに御弓組は文字通りの弓を操る戦闘部隊。大縄地とは職務を同じくする者に対して土地を一括して与えること。

壱岐坂
お稲荷さんを離れ、ふるさと歴史館に向かう。成り行きで進むと東洋学園脇に壱岐坂の案内。標識には、「壱岐坂は、御弓町へのぼる坂なり。 彦坂壱岐守屋敷ありしゆへの名なりといふ。 按に元和年中(1615~1623) の本郷の図を見るに、此坂の右の方に小笠原壱岐守下屋敷ありて吉祥寺に隣れり。 おそらくは此小笠原よりおこりし名なるべし。御弓町については 「慶長・元和の頃御弓同心組屋敷となる。」、と。
ということは、彦坂壱岐守屋敷と笠原壱岐守下屋敷があったということ、か。彦坂壱岐守は若年寄、大目付、大阪町奉行などを歴任した人物。「死んでも人の惜まぬ物は鼠とらぬ猫と井上河内守。吝い物は金借り浪人と彦坂壱岐守。人に嫌われる物は食いつき犬と仙石丹波守。風向き次第に飛ぶ物は糸の切れた凧と坪内能登守。人をはめる物落し穴と稲生次郎左衛門」などと「吝い」人物として揶揄されている。小笠原壱岐守は九州佐賀県唐津で当時六万石の大名。吉祥寺は現在本駒込に移っているが、当時は水道橋の都立工芸高校あたりにあった。水道橋も吉祥寺橋と呼ばれていた。

大クスノキ
壱岐坂を越えて春日通りへと成り行きで進むと大きなクスノキがあった。樹齢600年とも。これは御弓組の旗本であった甲斐庄喜右衛門の敷地内にあったもの。楠木正成の流れという4000石の旗本は明治に楠氏と改名した、と言う。このような楠が保存されているのが、誠にありがたい。

文京区ふるさと歴史館
春日通りを越えて、やっと本日のスタート地と目したところに着く。館内をぐるり。文京区教育委員会編の『文京のあゆみ』などを買い求めるが、なにより有り難かったのが、受付の方に頂いた「本郷付近の史跡地図」。史跡もさることながら、多くの名のある坂が記されている。三多摩を含め都内には502の坂があり、その内に文京区には115の坂がある、とのこと(『文京のあゆみ』より)。武蔵野台地東端に位置し、河川の開削や湧水による浸食により台地に谷が刻まれ、結果、本郷台地・白山台地・小石川台地・小日向台地・関口台地とその台地を分ける谷との間に数多くの坂道がつくられたのだろう。
少し休憩した後は、この地図を頼りに彷徨うことにする。手始めに歴史館のすぐ北にある炭団坂に向かう。

炭団坂
坂と言っても現在は石段となっている。教育委員会の案内によれば、本郷台地から菊坂の谷へと下る急な坂。名前の由来は、炭団などを商売にする者が多かったとか、切り立った急な坂で転び落ちた者がいた、ということからつけられた。台地の北側の斜面を下る坂のためにじめじめしており、今のように階段や手すりがないころは、特に雨上がりの時など転び落ち泥だらけで炭団のように真っ黒になった、ということ、か。
坂の右側の崖の上に坪内逍遥の旧居跡。明治17年(1884)から20年(1887)まで住んでいた。東大生時代に、家庭教師した親から感謝されプレゼントされた、とか。剛毅なものである。現在はオフィスビルとなっているが、この地で『小説神髄』や『当世書生気質』を著した。その後逍遥は歴史館近くに移ったとのこと。そういえば、歴史館脇にいかにも明治時代の趣を残す美しい屋敷があった。逍遥の屋敷跡ではないとは思うが、記憶に残る建物であった。それはともあれ、逍遥が移った屋敷跡は伊予の松山の元藩主・久松氏の育英事業である「常磐会」の宿舎となり、正岡子規もそこから大学予備門に通った、と。

菊坂
炭団坂を下り、下町の雰囲気を色濃く残す民家の間を抜け菊坂に下る。菊坂は本郷三丁目交差点付近から北西に下り言問通り通じるゆるやかな坂道。かつてはこのあたり一帯で菊の栽培が盛んであったのが、名前の由来。この界隈は多くの文人が居を構えたところ。震災や大戦の災禍から免れたこともあり、昭和の面影を今に伝えている。
菊坂の谷筋は東大下水(ひがしおおげすい)の支流の流路。東大構内(加賀藩上屋敷)の懐徳館の庭園にある池から流れ出し、本郷通りを横切り菊坂の谷を下っていた。永井荷風は「本郷なる本妙寺坂下の溝川」と描いている。この「溝川」は同じく東大農学部(水戸藩中屋敷跡)を水源に西片と本郷の境を下ってきたもうひとつの支流と合わさり、巣鴨駅あたりより白山通りの谷を下ってきた東大下水本流に合流する。東大下水本流はさらに下って小石川(千川・谷端川)に合わさる。
菊坂の一筋東に一段低い小径があるが、これが東大下水の支流跡であろう、か。ちなみに、「下水」とはいっても、現在我々が使う下水とは少しニュアンスが異なる。低地を流れる水路といった意味が近いだろう、か。湧水からの美しい水が流れていたとも伝わる。

文人ゆかりの地
荷風の描く「溝川」に沿って民家の軒先を辿っていると、炭団坂より少し北に宮沢賢治の旧居跡があった。現在はマンションとなっている。「溝川」を少し南に下る。民家の路地を左に折れると樋口一葉の旧居跡がある。あるといっても、昔ながらの民家とコンクリートつくりの民家の間、狭い路地に井戸が残っており、それが目安となっている。数年前ここに来たときは、案内もあったようなのだが、今回は見当たらなかった。訪れる人が多く、取り外したのかとも思う。迷惑にならないよう、早々に退却。

鐙坂
井戸の先に石段があり、その石段を跨ぐ、これまた年期の入った木造建築がある。先に進めるような、進めないような。人が住んでいるような、いないような。意を決して、石段を登る。人の気配がする。お邪魔にならないよう、静かに軒先をかすめ先に進むと鐙坂(あぶみ坂)に出た。坂の形が鐙に似ているとか、鐙をつくる職人がいたとか、由来はあれこれ。坂を少し上り、言語学者である金田一家の屋敷跡の案内あたりで引き返し菊坂に戻る。
今なお井戸の残る民家の軒下を進み菊坂の道筋に。胸突坂の手前に蔵造りの建物がある。伊勢屋と呼ばれるこの質屋は一葉ゆかりの地。金策のため通ったとの案内があった。

本妙寺跡
胸突坂を上る。上りきったあたりに趣のある建物。旅館鳳明館とある。明治の下宿屋をリユースした、とか。登録有形文化財に指定されている建物を見やりながら本郷通り方面に向かって進み、法真寺の手前で右に折れ本妙寺跡に。
本妙寺は振袖火事として知られる明暦の大火の火元とされている。町屋や大名屋敷だけでなく江戸城の天守閣も含め江戸の市街を焼き尽く。なくなった人が3万とも10万とも伝わる。
幕府はこの大火を契機に、江戸の都市改造計画をつくる。大名屋敷や武家屋敷、寺社を江戸の周辺部に移すことになる。大名屋敷に上屋敷だけでなく、中屋敷・下屋敷がつくられたのはこのことがきっかけ、と言う。戦備防衛上、千住大橋しか認めていなかった大川・隅田川に両国橋も掛けられた。火災の避難路を確保するためもあろう。これを契機に大川東岸に深川などの町屋が開かれることになる。
振袖火事と呼ばれる所以は、供養のために燃やした振袖が本妙寺の本堂に引火し、大火のトリガーとなったから、と。もっとも、火元も本妙寺ではなく老中阿部家との説もある。老中の屋敷が火元では如何にも具合が悪かろう、ということで本妙寺が火元身代わりの役を担った、といった説もある。振袖が出火の原因とするお話はいつ頃、だれがつくったのだろう、か。八百屋お七にしても、この振袖を着ていたお嬢さんにしても、寺小姓に恋い焦がれた故の出火・大火事ってプロットは結構近い。ちなみに、本妙寺は先日谷田川(藍染川)の源流へと染井霊園を訪ねたときに偶然出会った。染井の地には明治の末に移ってきた、と。名奉行・遠山金四郎や剣豪千葉周作が眠る。

赤心館跡
本妙寺跡の坂は菊坂に下る。少し逆に戻り、道を折れて菊坂ホテル跡に向かう。多くの文人が止宿した宿も今はなく、碑が残るだけ。菊坂ホテル跡を離れ、長泉寺を抜けて菊坂に下る途中に赤心館跡の案内。石川啄木が金田一京助を頼って上京し下宿した宿。作品は売れず苦しい生活であった、とか。有名な「たはむれに母を背負ひて そのあまり輕きに泣きて 三歩あゆまず」はこの時代に作品。

見返り坂・見送り坂
菊坂に下り、坂を本郷通りへと上る。ゆるやかな坂を上り切った本郷通りのあたりは。往古、見返り坂・見送り坂と呼ばれていた。本郷通りは本郷三丁目から菊坂にかけて微かに下り、菊坂から赤門にむかって微かに上る。この境目に橋があったと、言う。東大下水の支流に架かる橋であったのだろう。
道脇にある案内によれば「むかし太田道灌の領地の境目なりしといひ伝ふ。その頃、追放の者など、此処より放せしと。いずれのころにかありし、此辺にて大きなる石を掘出せり、是なんか別れの橋なりしといひ伝へり。太田道灌の頃罪人など湖の此所よりおひはなせしかば、ここよりおのがままに別るるの橋といへる儀なりや。」、と。江戸を追放される科人がこの橋を渡り見返り、そして親子が見送ったのであろう。

桜木神社
本郷交差点の脇を少し入ったところに本郷薬師。江戸に奇病(マラリア)が流行ったとき、このお薬師さまに祈願して病気が治まった。以来ここの縁日は神楽坂にある善国寺の毘沙門様とともに大いに賑わったようである。その傍に桜木神社。太田道灌が江戸築城に際し、京都の北野天神を勧請し、江戸城内にまつる。将軍秀忠の時、湯島の高台・桜の馬場に移し近隣の産土神として桜木神社と名付けられた、と。その後、綱吉が湯島聖堂をつくるに際し、この地に移る。名前の由来は桜の馬場からとの説と、ご神体が桜で彫られているとの説がある。

かねやす
本郷三丁目の交差点脇に「かねやす」の看板をつけたビルがある。「本郷も かねやすまでは 江戸の内」と呼ばれる「かねやす」の現在である。兼康祐悦という口中医師(今で言う歯医者)、がはじめた乳香散(にゅうこうさん)という歯磨粉を売るお店があった。
「本郷も かねやすまでは 江戸の内」とは、「かねやす」のあたりが江戸の町の境であった、ということだろうが、実際のところ、町奉行の支配は巣鴨辺りまでカバーしていたようで、この辺りが江戸の境と言うわけでもないようだ。世に言われる解釈は、「かねやす」を境にした街並みのコントラストによる、と。大岡越前守が防火のため、江戸の町屋は土蔵造りや瓦屋根を奨励したことにより、土蔵造り・瓦葺きの江戸の街並みと、その先にある中山道沿いの茅葺の家並みの境目が「かねやす」あたりであった、よう。現在の「かねやす」は洋品店となっている。

一葉桜木の宿
「かねやす」を離れ、本通りを東大・赤門方向へ進む。赤門の対面あたりに法真寺。ここも樋口一葉ゆかりの地。この法真寺の東隣に一葉が4歳から9歳まで過ごした、通称「一葉桜木の宿」があった、とか。現在は駐車場となっているあたりだろう。一葉がこの地に住んでいたころは、親の事業も順調であったようであり、恵まれた家庭で過ごしていた、と。『ゆく雲』の中で「腰衣の観音さま、濡れ仏にておはします御肩のあたり、膝のあたり、はらはらと花散りこぼれて、前に供へし樒の枝につもれるもをかしく」と描いているのが当時の法真寺。境内には今も腰衣観世音菩薩像が御座(おわ)します。なお、桜木の宿の由来は「詞がきの歌より」にある、「かりに桜木のやどといはばや、忘れがたき昔の家には いと大きなる その木ありき」から、だろうか。

啄木ゆかりの地・蓋平館別荘
法真寺を離れ、本郷台地を下り、次は小石川台地へと向かうことにする。東大正門あたりから成り行きで本郷通りを右に折れ先に進むと、道の途中に石川啄木ゆかりの宿の案内。蓋平館別荘とのこと。貧窮に喘ぐ啄木を助ける金田一京助の配慮で、赤心館よりここに移った、と。日誌には、「金田一君が来て、今日中に他の下宿へ引越さないかといふ予は、唯、死んだら貴君を守りますと笑談らしく言って、複雑な笑方をした。それが予の唯一の心の表し方であつたのだ!午後九時少し過ぎて、森川町一番地新坂三五九、蓋平館別荘(高木)といふ高等下宿に移つた。家は新らしい三階建、石の門柱をくぐると玄関までは担かな石甃だ。家の造りの立派なことは、東京中の下宿で一番だといふ。三階の北向の部屋に、二人で先づ寝ることにした。成程室は立派なもの。窓を明けると、星の空、遮るものもなく広い。下の谷の様な町からは湧く様な虫の声。肌が寒い程の秋風が天から直ちに入つてくる」とある。

言問通り
蓋平館前の新坂を下り言問通りに出る。本郷通の東大農学部前の交差点から下るこの道筋は東大下水(ひがしおおげすい)の支流の流路でもあったのだろう。言問通りには天空に架かる、というのは少々大げさではあるが、通りを跨ぐ橋・清水橋がある。樋口一葉の日記には「空橋」と描かれている。「空橋のした過る程、若き男の、書生などにやあらん、打むれて、をばしば(らんかん)に依りかかりて()」などとある。農学部あたりを水源とする東大下水の支流が、往時谷底であったこの言問通りを流れていたのだろう。

石坂
言問通りを下り、白山通りの手前にある石坂にちょっと立ち寄り。坂の途中にあった案内によれば、石坂の上の台地一帯、旧中山道まで備後福山藩十一万石阿部家の中屋敷と幕府の御徒組・御先手組の屋敷があった。明治から昭和初期にかけて阿部家自らが宅地開発をし、東大も近いという環境もあり、坪井正五郎、佐藤達次郎、木下杢太郎、夏目漱石、佐々木信綱、和辻哲郎といった多くの学者が住む瀟洒な住宅街となった、とか。戦災からも免れ、明治の趣を伝える街並みが残る、とのことであるが、少々時間がタイトになってきた。坂を上りきったあたりで引き返す。ちなみに、地名の由来はその昔、中山道を挟んで両側に町ができ。街道の東側を東片町、こちら右側を西片と名付けられた、とのことである。

白山通り
言問通りに戻り、白山通りへ。交差点を少し北に行った道脇、洋服のチェーン店の店先に樋口一葉終焉の地があった。この白山通りは東大下水の本流の流路。巣鴨駅付近を水源に、いくつかの支流を合わせ本郷台地と白山台地の間を下り、最後は小石川台地と白山台地の間を下ってきた小石川(千川・谷端川)と合流する、というか、していた、と。今は車が走る通りに川筋の面影を見るのは少々難しい。

小石川・千川筋
白山通りを渡る。通りの一筋西にも大きな通りがある。都道426号線のこの道は小石川(千川・谷端川)の川筋跡。小石川は豊島区要町あたりの粟島神社・弁天池を水源に、池袋の台地を、ぐるりと迂回し板橋そして大塚を経て小石川台地と白山台地の間を南東に下る。台地から平地に出た小石川・千川の川筋は流路を変え、白山通りと平行に下り、最後は白山通りを下ってきた東大下水の流路と合わさり神田川に注ぐ。
いつだったかこの小石川・千川の流路を源流点から辿り、この地の「こんにゃく閻魔」まで歩いたことがある。今回はこんにゃく閻魔をパスし、直接小石川台地に進む。ちなみに千川と呼ばれる所以は、東大下水が千川用水の水により養水されていたことによる。

澤蔵司稲荷
小石川2丁目と3丁目の間にある善光寺坂を上る。坂の途中に善光寺。元は伝通院の塔頭であったものが、明治になり善光寺と名前を変え、信州の善光寺の分院となった。善光寺の上隣に澤蔵司(たくぞうす)稲荷。縁起によれば、十八檀林(全寮制仏教学専門学校、といったもの)として多くの学僧が学ぶ伝通院に澤蔵司と名乗る修行僧が現れる。この学僧、非常に優秀で浄土教の奥義を3年で習得し、ある日「我は太田道灌公が江戸城に勧請した稲荷大明神である。浄土教を学び得たお礼に、今後とも伝通院を守っていこうと思う。ついては我のために祠を建て、稲荷台明神を祀るべし」とのメッセージ残し暁の空に隠れたという。坂道の脇に椋の大木が残るが、これには澤蔵司の魂が宿ると伝えられる。椋の樹のあたりを少し入ったところには幸田露伴が住んでいた。
澤蔵司稲荷のある慈眼院の境内には、松尾芭蕉翁の句碑が建立されている。「一(ひと)しぐれ 礫(つぶて)や降りて 小石川」。礫とは小石のこと。小石(礫)が多い川であったために小石川と呼ばれた。

伝通院
坂を上りきったあたりに伝通院。数年前訪れたときは本堂の改築をしていたように思うのだが、今は美しくできあがっていた。もとは小石川の極楽水に浄土宗第七祖了誉聖冏上人が開いた無量山寿経寺と呼ばれる小さな寺であったが、家康公の生母である於大の方の追善のため菩提寺と定められ、徳川将軍家の庇護のもと大伽藍が整えられた。傳通院殿は於大の方の法名。また、この寺は、関東十八檀林のひとつとして、浄土宗の教学の根本道場と定められ、境内に多くの坊舎(修学僧の宿舎)を有し修行僧が 浄土教の勉学に励んでいた、と。澤蔵司縁起の所以である。境内には千姫も眠る。二代将軍徳川秀忠の娘として7歳の時に豊臣秀頼(11歳)に嫁し、大阪城に入る。大阪夏の陣で豊臣氏が滅亡後播州姫路城主本多忠刻に再嫁。波乱万丈の生涯を過ごした姫君として多くの映画や小説になっている。

安藤坂
伝通院を離れ、春日通りを越え神田川の川筋へと坂を下る。坂の名前は安藤坂。元は結構急な坂道であったようだが、明治に路面電車を通す際に傾斜を緩やかにした。名前の由来は坂の西側に安藤飛騨守(紀州藩支藩・田部藩主)の上屋敷があったから。幕末の長州征伐の時、石州口総督軍の先鋒隊長に紀伊藩兵を率いた安藤飛騨守という人物がいる。長州軍に大敗したようではあるが、安藤坂の安藤飛騨守って、この先鋒隊長と同じであろう、か。
古くは坂の下は入江、江戸の頃も未だ白鳥池と呼ばれる一大湿地であったと言われる。そのため漁をする人が坂の上に網を干し、また御鷹組屋敷の鳥網を干していたので、「網坂」とも呼ばれたようだ。
坂の途中には中島歌子の案内;「塾主中島歌子(弘化元年~明治36年・1844~1903)は、幼名とせといい、日本橋に生まれた。水戸藩士の夫林忠左衛門が天狗党に加わって獄死したため、実家の旅人宿池田家にもどり、桂園派の和歌を加藤千浪に学び、実家の隣に歌塾萩の舎を開いた。御歌所寄人伊藤祐命(すけのぶ)、小出粲(つぶら)の援助で、おもに上、中流層の婦人を教え、門弟1,000余人といわれた。歌集『萩のしづく』(2卷・明治41年刊)などがある。明治36年、歌子の死去と共に萩の舎は廃絶した。樋口一葉(明治5年~明治29年・1872~96)は、父の知人の紹介で萩の舎に入門した。一時(明治23年・18歳)内弟子として、ここに寄宿したこともある。 佐佐木信綱は、姉弟子の田辺竜子(三宅花圃)、伊東夏子と一葉の3人を萩の舎の三才媛と称した。一葉はここで歌作と歌を作るため必要な古典の読解に励んだ。姉弟子の田辺竜子の『藪の鶯』の刊行に刺激されて、近世・近代の小説を読み、半井桃水に師事して、処女作『闇桜』を発表(明治25年)して、小説家の道に進んだ。近くの北野神社(牛天神・春日1-5-2)境内に中島歌子の歌碑がある(文京区教育委員会)。

牛天神
坂を下り牛天神に。牛天神下を流れる神田上水を描いた「江戸名所図会」を見たことがあり、どんなところか一度訪れたいと思っていた。石段を上り崖上に鎮座する天神さまにお参り。牛天神の由来は、その昔源頼朝が奥州征伐の折り、入江に船を漕ぎ寄せこの地で休憩。その時、牛に乗った菅原道真が夢に現れ、「ふたつ願いが叶う」とのお告げがあり、夢から覚めると牛に似た石があった、とか。頼家が誕生したとか、平家鎮定といった願いも叶い、そのお礼にと牛によく似た岩を御神体とし、太宰府天満宮より天神様を勧請した。この由緒のためか、ご神体の岩を撫でると願いが叶うといわれる。
牛天神の縁起はよく聞く話ではあるので、今ひとつインパクトに欠けるのだが、結構フックがかかったのが境内にある太田・高木神社の縁起。現在は芸能の神・天鈿女命(あめのうずめのみこと)と武の神・猿田彦命(さるたひこのみこと)のご夫婦をお祀りしているとのことだが、もともと祭られていたのは貧乏神と言われる黒闇天女。容貌(ようぼう)醜悪で、人に災難を与えるというこの女神、吉祥天の妹で、弁財天の姉。密教では閻魔王(えんまおう)の妃とされる。この貧乏神がある出来事がきっかけで福の神に転じることになる。
話はこういうことだ;小石川に住む貧乏旗本の夢の中にこの貧乏神が現れ、「住み心地がいいので長い間やっかいになったが、このたびよそに移ることにした。ついては、赤飯と油揚げを備えて私を祀れば福徳を授ける」、と。そのお告げを忘れず励行した旗本は、たちまち運が向き、お金持ちになった、とか。以来太田神社は貧乏神を追い出して福の神を呼ぶ神様として信仰を集めた。縁起自体はわかったようでわからないのだが、貧乏神がいた、ということが新鮮な驚きである。八百万の神さまの守備範囲は如何にも、広い。「江戸川をこえ、りうけうばしをわたり、すは町を北に泉松山にのぼり、牛天神のみまへにぬかづく。かたへに一つの石のほこらあり。苔むして戸ぼそなし。白駒がいふ、これ貧ぐう(窮)をまつる、よく人を禍福す。むかし小日向のほとりにすめる人、家の内の貧を逐ふとて、窮鬼のかたちをつくりて、此ところにまつれるなり」と太田南畝こと蜀山人が描いている(『ひぐらしのにき』)。

白鳥橋
安藤坂に戻り、神田川に架かる白鳥橋に。上にもメモしたが、往古東京湾はこのあたりまで入り込んでいた。その名残でもあろうか、江戸の頃も白鳥池と呼ばれる低湿地が一面に広がっていた、と。江戸になっても、このあたりまで汐が上ってきていたようで、関口の大洗に堰を設けたのは、井の頭から引いてきた神田川の真水に汐が交じらないようにとする配慮。白鳥池が完全に埋め立てられたのは明暦の大火の後と伝えられる。白鳥橋のあたりを大曲と呼ぶのは、神田川が大きく曲がっているため。白鳥橋から神田川に沿ってJR飯田橋まで下り、本日の散歩を終える。

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