日曜日, 10月 17, 2010

三国街道・三国峠越え

三国峠を越えようと思った。上越国境の脊梁部をなす谷川連峰の西部、標高1244mのところにある。この峠には古の昔より、越後と上州を結ぶ峠道が通っていた。峠の名前をとって三国街道と呼ばれる。三国街道は高崎宿で中山道とわかれ、永井の宿から三国峠を越え、湯沢・長岡・出雲崎を経て佐渡に渡る。
古来幾多の人がこの峠を往来した。戦国期の上杉謙信の関東出兵、江戸期の佐渡金山奉行や大名の参勤交代。幕末の戊辰戦争では、その前哨戦とも言われる三国戦争の舞台ともなっている。上越往還の幹線ルートであったこの三国街道・三国峠越えも、昭和6年の上越線の開通、昭和34年の国道17号線の開通により古の役割は既に終えた。今は三国路自然歩道としてハイカーが辿る、のみ。
三国峠・三国峠越えのことを知ったのは、古本屋で見つけた『関東周辺 街道・古道を歩く(山と渓谷社)』の記事。亀井千歩子さんが文を書いている。亀井さんは昨年、信州の塩の道(千国街道・大網峠越え)をしたとき参考にした『塩の道・千国街道物語;亀井千歩子(国書刊行会)』の著者である。誠にいい本であった。で、亀井さんの紹介する街道であれば、行くに莫若(しくはなし)、ということに。
莫若、とは思ってはいたのだが、荻原朔太郎ではないけれど「行きたしと思えども、三国峠はあまりに遠い」。また、交通の便も誠によろしくない。登山口までの最寄りのバスの便を調べたのだが、あまり便数もないようで、しかも途中の猿ヶ京温泉まで。その先はタクシーを利用しなければならない。ということで、1年ほど延び延びになってはいたのだが、猛暑の続くこの夏、締め括りとして上越国境越えもよろしかろうと、ひとり三国峠・三国峠越えに。



本日のルート;猿ヶ京温泉>三国峠新潟側登山口>三国峠・御坂三社神社>三国山>三国峠・御坂三社神社>旧三国街道・三国路自然歩道>宝岩>くぐつが谷>駒返し>長岡藩士の墓>晶子清水>三坂茶屋跡>休憩所・吉田善吉の墓>大般若塚>永井宿>永井宿郷土館>町野九吉の墓>猿沢の下り>吹路(ふくろ)>猿ヶ京温泉
猿ヶ京温泉日曜日、午前6時前杉並の自宅を出発。お散歩は極力電車であり、バスをというのを基本とはしているのだが、今回は交通の便も悪く、また日帰りということもあり、車を使うことにした。自宅から猿ヶ京温泉まで160キロほど。関越道を進み、月夜野ICで高速を下り、国道17号線を15キロほど進み猿ヶ京温泉に到着。月夜野は平安時代の三十六歌仙のひとり、源順(したごう)がこの地で月を愛で「よき月よのかな」と言ったのが、その由来、とか。これって、先日足柄の山北を歩いた時に出会った、都夫良野の由来をリマインドする。酒匂川を臨む景観が南朝方の都であった吉野に似ており、御醍醐天皇が言われた「おお! 都よ。それ吉野よ!」を「都(みやこ)夫(そ)れ吉野(よしの)」と表記した、とのこと。共に少々出来過ぎ、とは思うのだが、はてさて。
猿ヶ京温泉に入り、タクシー会社を探す。国道脇に新治タクシー(0278-66-0631)。到着は8時半前。事務所の女性に登山口までの配車を依頼。始業前だとは思うのだけれど親切に応対していただき、かつまた会社の駐車場に車を停めさせていただいた。感謝。8時半前に到着した車に乗り登山口に。三国トンネルを抜けたところにある。おおよそ12キロ程度だろう、か。タクシー代は4500円であった。

三国峠登山口;
標高1065m_時刻8時40分
トンネルを抜け、新潟側出口のすぐ脇に駐車場。既に数台の車が停まっていた。GarminのGPS専用端末をONにし、タクシーの運転者さんの「脅し」というか、アドバイスに従いクマよけの鈴を取り出し山道に入る。
山道はよく整備されている。さすが、上越国境の往来、五街道に次ぐ主要街道であるよ、なあ、などど、ひとり悦にいっていたのだが、この峠への登り道は昔の三国街道ではなく、昭和34年の三国トンネルの工事の後にできたもの。実際の旧三国街道は三国峠から三国トンネル上をトラバースして国道の東側の山中を1キロほど下り浅貝集落のほうに続いていた、と(現在は登山口から500mほど登ったところで、トンネル工事の時の土砂で埋まり道は途絶えている、とのことである)。
沢に沿って上る。峠との中間点あたりに三国権現御神水があったようだが、残念ながら見逃した。道を横切るささやかな沢を越えてきたのだが、そのどれかひとつあたりではあったのだろう。

三国峠;
標高1244m_時刻9時13分
歩きはじめて40分弱、距離にして1.3キロ程度だろうか三国峠についた。標高1244m。鳥居の先に御坂三社神社がある。神社は避難小屋を兼ねていた。神社には上野赤城(かみつけあかぎ)明神、信濃諏訪(しなのすわ)明神、越後弥彦(えちごやひこ)明神と三国の一宮が祀られている。「神社」は明治になり神仏分離令がはじまってからの用語ではあろうから、元々は「三国大明神」とでも呼ばれていたのだろう、か。
御坂三社神社は三国権現とも呼ばれていた。権現は神仏習合(混淆)に基づく神号であり、「仏が衆生救済のために、神という仮(権)の姿で現れる」というもの。「明神」と言う、神道用語ではなく仏教的色彩の強い「権現」をつかうようになったのは、仏に深く帰依し毘沙門天の化身とも称した上杉謙信によるとのことである。永禄3年(1560)、謙信は上杉憲政を奉じて関東に出兵。その際、「御坂三社大明神」に戦勝を祈願し、社名を仏名の「大権現」に変えさせたといわれている。三国峠はこの「三国権現」に由来する。
ところで御坂三社神社の御坂であるが、「みさか」を冠した峠は多い。太宰治の「富士には月見草がよく似合う」で知られる甲斐・駿河国境には御坂峠がある。昨年、信越国境・塩の道を辿ったときは、地蔵峠ルートには三坂峠があった。御坂、三坂、神坂、見坂、美坂、深坂などと表記は様々であるが、もとは「神(かみ)の坂=みさか」とされ、古代において祭司が執り行われたところ、と言う。「峠」は「たむけ=手向け」とも言うし、道中の安全を祈って手向け=神に供えて、いたのだろう。
古来、幾多の人がこの峠を往来した。平安時代には坂上田村麻呂が蝦夷征伐の折り、この峠を越後へと越えたと伝わる。伝承ではなく文献に現れるのは室町時代、文明18年と言うから西暦1486年のこと。道興准后の『廻国雑記』に峠越への記録が残る。密教聖護院派・山伏の門跡として、その組織固めのためでもあろうか、越後からこの峠を越えた。武蔵に入った道興准后は太田道灌との風雅な交流などを重ね、その事跡の地には散歩の折々に出会う。
戦国時代には上杉謙信が登場。この峠を越えること十数回、とも。天文21年(1552)には坂戸城の長尾政景に命じて峠を整備した、と。謙信亡き後、その跡目相続をめぐって勃発した御館の乱では、北条出身の上杉影虎を援護すべく小田原・北条の軍勢がこの峠を越えた。上杉と織田方の争いの時は、織田方の滝川一益との間で三国合戦の舞台ともなった。
江戸の頃には長岡をはじめ村上、与板、黒川、三日市、高田、三根山等の藩主が参勤交代にこの峠を越えた。佐渡金山奉行の往来もあっただろう。良寛さんも出雲崎へと道を急いだだろう。幕末には奥羽列藩同盟と官軍の間で戊辰戦争の前哨戦ともなる戦いの舞台ともなった。名前を挙げれば切りがない。上越往還の幹線として幾多の人がこの峠を越えた。
こうしてにぎわった峠道も明治になると状況は大きく変わる。明治18年の高崎・横川の開通に続き、明治37年には長野から直江津、新潟まで信越線が全線開通する。人や物の流れが大きく変わる。更に昭和6年上越線が開通。昭和34年には国道17号線の三国トンネルが開通。現在三国峠を越えるのは、誰に頼まれたわけでもないのに大汗をかきながら山道を進む、私の如き酔狂な人だけとなっている。
ついでのことながら、上越国境の峠道には、この三国峠のほかに清水峠という名の知れた峠があり、謙信はその峠を利用したとも言う。群馬の水上から谷川岳方面へ分岐し、一の倉沢のあたりから谷川岳の東の脊梁部を抜け新潟県の六日市へと続く。三国峠越えより1日行程が短く、軍事作戦には適していたのだろうか。実際、清水峠から下る尾根道には謙信尾根とも呼ばれる尾根が残る。上にメモした御館の乱のとき、北条勢が越えたのは清水峠とも言われる。江戸の頃は三国峠が主流となり、清水峠は通行禁止となったこともあるようだ。明治にはいると国道として整備されることになった。が、開通直後より積雪による道路崩壊が激しく、結局この国道は廃道、所謂「点線国道」となっている。群馬側にはルートが残るが、新潟側は一部藪こぎをしないことには歩けないようだ。行きたしと思えども、あまりに厳しそう。

三国山;
標高1626m_時刻9時55分
ベンチに座り、ちょっと休憩。鳥居越しに三国山が見える。すぐにも上れそう。予定にはなかったのだが、休憩をとった後に三国山に上ってみることにした。道標が無く、神社の周りを探すと南脇の草木の間にそれらしき道筋があった。先に進むと木の階段が整備されている。笹の中を続く木製の階段を上る。階段が延々と続く。通常の山道とリズムが違うのか、それとも炎天下、日を遮るものはなにもない故のことなのか、少々きつい。
上るにつれ、南が開けてくる。国道17号線が眼下に見える。谷間の家並みは法師温泉だろうか。先に進む。気まぐれに三国山へ、などと思ったことを少々後悔しながら、青息吐息。誠にきつい。しばらく進むとお花畑に。時期がよければニッコウキスゲなどが美しいとのことだが、真夏のことでもあり、なにが咲くわけでもない。下を眺めると上ってきた階段が連なる。先に御坂三社神社の鳥居も見える。

そろそろ頂上か、と思ったところは単なるガレ場。ガレ場には少々バランスの悪い、微妙に傾斜した木製の階段が続く。天国への階段とメモする人もいる。北に苗場リゾートが見えてきた。苗場や、「みつまた・かぐら」など、若い頃はスキーに通ったところではある。三国街道はその谷間を通る。谷間を流れる浅貝川、その川が合流する清津川も、三国街道に沿って越後湯沢へと向かい魚津川に合流するのだろう、と思ったのだが、どうも違うようだ、地図をチェックすると清津川は北へと進み、越後田沢で信濃川に合流していた。越後湯沢あたりで平地に顔を出すことなく、山間を延々と流れていくわけだ。
疲れもピークに達する頃、やっと三国山山頂に。標高1626m。9時55分。峠から40分弱かかった。鐘があるも、撞く気力もなし。南は猿ヶ京温泉のほうまで見渡せるが北は草木に遮られ、見通しも効かない。草木はあるものの、木陰もなくゆったり休める雰囲気もない。早々に山頂を撤退する。頂上近くに谷川連峰の平標山へと続くルートがあり、そちらにちょっと廻れば北の山稜が一望とのことであったが、その余裕もなく、今となっては跡の祭りである。ともあれ、跳ぶがごとく、峠まで下った。戯れに、山登りはせず、ということだろう。時刻;10時32分。30分程度で下りてきた。

三国路自然歩道
峠を離れ三国街道、というか三国路自然歩道に入る。峠から尾根筋は少し離れている。尾根に上るのは少々難儀だなあ、などと思っていたのだが、一向に尾根に上る気配がない。どうも山腹を巻いて進むようだ。10時36分。三国トンネル群馬側へ下る分岐点に(標高1274m)。
歩くにつれて所々で沢が道を横切る。山腹を進む以上避けられないことであるが、昔は雨の跡など修復に難儀したことだろう。谷川が広く開けたところで道を横切る沢もあった。沢の水量も多く、鋭く谷間に落ち込んでいる。そこが三国峠で最大の難所と呼ばれた「くぐつが谷」であったのかもしれない。案内があるわけでもないので、推測する、のみ。傀儡とは「操り人」。人を思うままに操る。谷間の妖怪のなせる技とされた。雪崩などで遭難した人が呼びよせたの、か。

長岡藩士の墓;標高1245m_時刻10時47分
道は上り下りと蛇行をくりかえしながら小さな沢をいくつか渡る。道標が整備されており心強い。道を進むと道脇に石仏。あたりは「駒返し」と呼ばれたようだ。群馬側の永井宿から上ってきた馬が凍結した道で進めず引き返した処とか、上杉謙信が形勢不利と引き返した処とか、由来はあれこれ。現在は緩やかな道筋であり、馬が難儀するような坂道とは思えないが、このあたりにヒノキ峠という難所があった、ということだし、昔はそれなりの急坂ではあったのだろう。
駒返しのすぐ先に長岡藩士を供養する碑が建っていた。長岡藩士の供養、と言うから、てっきり戊辰戦争などでの犠牲者をとむらうものかと思っていたのだが、案に相違して、江戸からの罪人を佐渡に護送中、雪崩に巻き込まれた長岡藩士8名を供養するものであった。元文5年(1740)2月5日、ヒノキ峠近くで雪崩に会い遭難した、と言う。ひょっとして先ほどの道端の石仏は長岡藩士を供養するものであったかもしれない。
しかしながら、ふと考えた。たかが、と言えば不遜ではあろうが、それでも、たかが雪崩の遭難ごときで何故にこれほどまでの供養が必要なのだろう。チェックすると、遭難者捜索に3000名もの村人が動員されている。越後側・浅貝本陣の綿貫家に文書が残る。「旧記控 ご本陣 綿貫作右衛門(元文五年)△二月五日 てうすか谷ニ而雪なてニ而、長岡御家中九人 十日町組蔵又(倉股)者弐人 荷添人足吹路村七之助子ト都合拾弐人 死申候・・・江戸表へ相又五郎助 猿ヶ京彦之丞 飛脚遣シ 新兵衛様(代官池田新兵衛)ならびに民部様(牧野忠周)御屋鋪へ注進仕り候」。遭難の場所はヒノキ峠ではなく、てうすか谷、とある。それはともあれ、藩をあげての大騒動であったようだ。
ちなみに、この雪崩では罪人は難を逃れた、と。ために永井宿では「罪人が助かったのは、お裁きに誤りがあった」と言った噂が流れた、とも伝わる。

法師温泉分岐点;標高1265m。時刻10時51分
「三国峠1.8km 永井宿6.0km 法師温泉4.0km 国道17号1.3km」の標識のあたりに休憩所。お手洗いも用意されている。ここからは国道17号に出て法師温泉へと下る分岐がある。
分岐を越えゆるやかな上りを進むと沢から落ちるささやかな滝水が道を横切る。猿ヶ京温泉のタクシー会社で頂戴した案内(「三国峠;新治村観光協会発行)には、このあたりに「晶子清水」がある、と言う。昭和6年、与謝野晶子が三国峠へと進んだときに喉を潤した沢水。弘法大師由来の清水って聞いたことがあるが、歌人由来の清水、とは。里から駕籠に揺られた旅のようではあったので、地元にそれなりのインパクトを与えていた、っていうことだろうか。とはいうものの、標識があるわけでもないので、どの沢水が晶子清水かは、よくわからない。

三坂の茶屋跡;標高1262m_時刻午前11時
山側が平らに開けたあたりに案内板。「三坂の茶屋跡」とある。先にメモしたように、三坂も御坂も同じ。坂上田村麻呂の子孫と言われる田村越後守が営んでいた茶屋跡とのころ。この田村越後守は三国権現の神主でもあり、毎日、三国峠の三国権現までお賽銭の回収に歩いた、と。
案内に"三国街道の或る一日"として、「文久三年二月十五日 長岡藩主奥方一行 御人四人 次女中四人 陸尺三十一人 雇方同勢三百人 馬子八十九人など 総計五百七十八人」との記録があった。お供の如何に多いこと、よ。

大般若塚;標高1241m_時刻午前11時37分
「三国峠2.5km 大般若塚1.0km」、そして「三国峠3.0km 大般若塚0.5km」などといった標識を見やりながら歩き大般若塚に到着した。山側の少し開けたところに大般若塚が建つ。さきほど「くぐつが谷」でメモしたように、この山地で遭難し妖怪となった霊を鎮めるために建立した、と言う。塚の対面には屋根のついた休憩所もあり、ここで本日の朝・昼兼用の食事のため10分休憩。大般若塚は三国峠から4キロ弱。永井宿までの中間地点にある。この地は永井宿に下る道、猿ヶ京温泉へと別の尾根筋(治部歩道)を進む道、そして法師温泉へと下る道が交差する山中の三叉路。交通の要衝地でもあるわけで、戊辰戦争ではこの地を舞台に三国戦争と呼ばれる戦端が開かれた。休憩所近くにあった「戊辰戦役戦史」の案内などを参考に大般若塚の戦況をメモする;
大般若塚の戦い
慶応4年4月、会津軍は、西軍の越後進入を阻止すべくこの大般若塚に陣を敷いた。越後小出島の郡奉行町野源之助(主水)を総大将、弟の町野久吉を副大将として藩兵16名、それに郷土兵らを加えた総勢120余名の兵力であった。
一方三国峠に進撃を開始した官軍は東山道総督巡察副使豊永貫一郎、原保太郎の率いる高崎、佐野、吉井の諸藩兵600余名。須川宿に陣を構え、高崎藩兵200名は永井の裏山伝いに、吉井佐野の藩兵180名は法師から、本隊は三国街道を進み大般若塚を目指し進軍。4月24日未明、会津軍を三方から挟撃。不意をつかれた会津軍は、官軍の圧倒的多数に抗しきれず越後小出島まで退いた。
会津軍隊長の弟である町野久吉(17才)少年は、兄の制止を振り切り、蒲生家伝来家重代の名槍をふるい官軍本隊に単身切り込み、阿修羅の如く奮戦。武運つたなく満身に銃弾を身に受け戦死した。久吉は当時17歳。会津の日新館において文武両道を学び質実剛健、特に槍の達人であった、と言う。
久吉の最後の状況は綱淵謙錠『戊辰落日(文春文庫)』に詳しい。また、久吉の兄である町野主水は、「最後の会津武士」と称された希代の人物。戊辰の戦役で図らずも生き長らえた後は、新政府に対して会津の名誉回復・復興につとめた。その姿は中村彰彦氏の小説『その名は町野主水(角川文庫)』に詳しい。
法師温泉への下り坂入口には戊辰戦争で犠牲になった官軍兵士、というか人足であった吉田善吉の墓があった。官軍に徴用されて参戦したのだろう。「戊辰戦役戦史」には吉田善吉を含めて3名の官軍方戦死者の名前が書かれている。どうして吉田善吉だけが葬られているのだろう。他の2名、高崎藩の深井八弥、堀田藩の伊島吉蔵は本国で手厚くほうむられているのだろうか。ついでのことながら、大般若塚での死傷者はこの3名のほか、負傷者3名と言う。死傷者率は極めて低い。殲滅戦とはほど遠い。これが戦いの実情でもあろう、か。

国道17号線に下りる;標高828m。時刻12時44分
大般若塚を離れ、一路永井宿に下る。おおよそ4キロ弱。ひたすらの下りだろう。堀割り、いかにも昔の街道といった趣の坂を下る。「大般若塚2.0km 永井宿1.8km」の標識あたりまで下ると、谷間が右手に見えてくる。
タクシー会社でもらった『三国峠』のパンフレットには、三国山の風を法師谷に返す「風反り茶屋跡」、永井方面の見晴らしがいい「遠見」、荷運びの駄賃の値上げを言い出す「金堀り坂」などといった案内はあるのだが、標識もなく、あれあれ、と言うまもなく山道を下り、国道17号線に出てしまった。
「風反り」は、戊辰戦争のとき、会津方が物見に出張ってきたところ。「金堀り」は、客の懐から金を掘り出す、といったニュアンス、から。その「金堀り坂」は、九十九折の急坂が目安とのことでもあったが、九十九折が連続しており特定などできなかった。また、道はずっと木立に覆われており、見通しのいいところ・遠見があるとは思えなかった。ともあれ、4キロ弱、420mほどの比高差を1時間弱で下りてきた。

永井宿;標高780m_時刻12時51分。
国道17号線を少し下り、すぐ国道を離れ永井宿へ入る。坂道の両側にしっかりとした造りの民家が続く。現在の町並みは万延元年(1860)の火災以降に再建された、とのこと。当然、それ以降、建て替えが進んでいるとは思うが、昔の宿場の雰囲気を今に伝える。
永井の集落は寛治年間(1089~92年)に奥州阿倍家の家臣、長井左門が開いた村と伝わる。戦国時代に入り、上杉謙信が関東侵攻の為、三国峠を開削するとともに次第に重要性を帯びるようになった、とか。
江戸時代に入り三国街道が開削されると宿場が設置され、元禄2年(1689)に米問屋場に指定されるとともに集落は飛躍的に発展した。越後米の取引をここで一手に取り扱った、ということだ。また、三国峠を控えた宿場町だったため、参勤交代の大名、佐渡奉行、新潟奉行といった公用のためだけでなく、多くの人がこの地で宿泊や休息をとった。
坂道を下る。本陣を務めた豪商笛木家住宅は昭和に入り解体され跡地が小公園となっている。与謝野晶子の歌碑をはめ込んだ本陣の石碑が建立されているとのことだが、どこだかよくわからなかった。さらに少し下ると永井郷土資料館。展示資料もさることながら、管理人の女性にお茶やキュウリ、梅の接待を受け山道の疲れを癒した。誠に感謝。「山かげは日暮れはやきに学校のまだ終わらぬか本読む声す」とは若山牧水の句。この郷土館はもともと分校であった、と管理人の女性の言。30分休憩し13時21分出発。

町野九吉の墓;標高768m_時刻13時34分
ゆったりと休み、再び歩きはじめる。当初は永井宿まで、などとも思っていたのだが、未だ時間も早く、疲れもそれほどでもない。予定を変更して旧三国街道を猿ヶ京温泉まで辿ることにした。郷土館のはす向かいに石碑があり、そこが旧三国街道への分岐。少し里を歩くが、ほどなく林の中に。コンクリートの道には苔がついており、少々滑る。足元に注意を払いながら坂を下り終えたところで沢をわたる。
ささやかな「かじか橋」を渡り坂を上ると国道17号。国道の向こうのトラックステーションを見やりながら、国道に沿った歩道橋を進み、少し巻いた峠に町野九吉の墓があった。上でメモしたように、大般若塚の戦いで、敵陣に切り込み憤死。久吉の首は永井宿の近くに晒される。それを哀れんだ村人が近くの山に葬った、とのこと。「昭和35年6月 町野武馬翁有縁の有志再建也」と。脇面に石井光次郎書とあるが、石井氏は衆議院議長まで勤めた政治家。どういう関係か、と思っていたのだが、『その名は町野主水;中村彰彦(角川文庫)』の中に、町野主水の嫡男である町野武馬の元に佐賀県の陸軍軍人石井賢吉の娘トキ子が嫁いだ、とあった。石井光次郎氏も久留米市の出身である。詳しいことはわからないが、なんとなく話は合ってそう。

吹路景色はこのあたりから急に里めいてくる。穏やかな里の景観の中、道は農道を進む。地域も永井から吹路に移る。吹路は「ふくろ」と読む。面白い読み方だ。由来をチェックすると、三国峠でメモした道興准后が現れた。道興の書いた紀行文『廻国雑記』に「ふくろうの里」の名前が出てくる;ふくろうといへる里にて。ねざめに思いつづけける。「この里のあるじがほにも名乗るなり深き梢のふくろふの声」、と。
フクロウが我が物顔に鳴く里であったのだろう。「上野郡村誌」にも「梟鳥村ト称ス、後転訛シテ吹路村」と記されている。とはいうものの、ふくろう村=梟鳥村が、「吹路」と転化したプロセスは不明である。江戸の頃は永井宿が三国越えの上州最後の集落であったが、それ以前、17世紀末に永井宿が整備される以前、上州の最終集落は「梟鳥村」であり、ために、上州の袋小路>「袋路」と推測される方もいる(見城さん)
車道をふたつほど交差しながら農道を進む。一つ目の大きな車道は法師温泉へ続く道。ふたつ目の所では道標を見落とし、車道を延々と歩き西川に当たる橋まで進んだ。橋も新しいようで地図には載っていないようだ。橋の袂で引き返し、元の交差箇所で道標を確認、オンコースへ戻る。20分ほどロスしてしまった。
諏訪神社のあたりまで来ると、それなりに民家も現れる。標高706m。時刻14時7分。民家に間の坂を上り一度国道17号線に。ほどなく国道を離れ、再び旧道に戻る。「猿ヶ京温泉2.0km。永井宿2.0 km」といった道標を越えるあたりで吹路の集落を抜け沢道に近づく。

猿沢;標高667m。時刻14時20分。
沢に下るあたりに案内がある。「猿沢の下り」とあり、若山牧水が法師温泉に一泊し、猿ヶ京に戻るときのことが描かれている;「旧三国街道猿沢の下り  十月廿三日 うす闇の残ってゐる午前五時、昨夜の草鞋のまだ湿ってゐるのを穿きしめてその渓間の湯の宿を立ち出でた。峰々の上に冴えてゐる空の光にも土地の高みが感ぜられて、自づと肌寒い。(中略)吹路の急坂にかかった時であった。十二三から廿歳までの間の若い女たちが、三人五人と組を作つて登って来るのに出合った。真先の一人だけが眼明で、あとはみな盲目である。そして、各自に大きな紺の風呂敷包を背負つてゐる。訊けばこれが有名な越後の瞽女(ごぜ)である相だ。収穫前の一寸した農閑期を狙って稼ぎに出て来て、雪の来る少し前に斯うして帰ってゆくのだといふ。「法師泊まりでせうから、これが昨夜だったら三味や唄が聞かれたのでしたがね。」とM君が笑った。それを聞きながら私はフッと或る事を思ひついたが、ひそかに苦笑して黙ってしまった。宿屋で聞かうよりこのまゝこの山路で呼びとめて彼等に唄はせて見たかった。(後略)。この紀行文は大正11年10月23日若山牧水が法師温泉に宿泊した後、猿ヶ京温泉で昼食し、沼田への帰路を綴った「みなかみ紀行」の一節である。昔の風情がそのまま残る旧三国街道猿沢の小径を散策してみて下さい」とあった。
牧水になった気分で山道を下る。なかなか厳しい坂道である。雨など降れば、さぞや難儀したことだろう。下り切ったところで小橋を渡る。標高596m。時刻14時26分。比高差70mといったところ。

耳だれ地蔵;標高623m。時刻14時29分。
坂を上ると、上りきったあたりにお地蔵さまが佇む。耳だれ地蔵とあった。案内をメモ;昔は農山村に特に子供に耳だれが多く痛いので悩まされたという。又耳鳴りのする人も多かった。この地蔵さんも江戸時代の中頃に出来たらしく耳だれで悩む子供や耳鳴りで困る大人はこの地蔵さんにすがるより他にないのでだんだんお参りする人が多くなった。「お願」をかける時には耳を治して下されば「お腕」の蓋の真ん中に穴をあけて紐で通し両端を結びこれをお地蔵さんの首に掛けてあげます。早く直して下さい」とお願いし治るとこのように用意して「おがんしょばたし」をしたと言われています。今でもお地蔵さんはすました顔でこのお椀を首に掛けています(新治村観光協会)」、と。
そういえば子供の頃、耳だれ、洟垂れ、目病みといった子供が多かったのだが、最近はとんと見かけない。栄養がよくなり、衛生がよくなった、ということだろうか。

「旧三国街道猿沢の上り」;標高633m、時刻14時32分。
耳だれ地蔵を越え、沢筋から抜けると再び里にでる。「永井宿2.7km」といった道標があるあたりで旧道は里道と合流。合流点に案内があり、そこには「旧三国街道猿沢の上り」とあった。同じく若山牧水の紀行文。こちらは法師温泉に向かうときの情景であった;「旧三国街道猿沢の上り10月22日。今日もよく晴れてゐた。嬬恋以来、實によく晴れて呉れるのだ。(中略)今日これから行かうとしてゐるのは、沼田から二里ほど上、月夜野橋といふ橋の近くで利根川に落ちて来てゐる赤谷川の源流の方に入って見度いためであった。その殆んどつめになった処に法師温泉はある筈である。(中略)吹路といふ急坂を登り切った頃から日は漸く暮れかけた。風の寒い山腹をひた急ぎに急いでゐると、をりをり路ばたの畑で稗や栗を刈ってゐる人を見た。この邊では斯ういふものしか出来ぬのださうである。従って百姓たちの常食も大概これに限られてゐるといふ。かすかな夕日を受けて咲いてゐる煙草の花も眼についた。 小走りに走って急いだのであったが、終に全く暮れてしまった。 山の中の一Iすぢ路を三人引っ添うて這ふ様にして辿った。そして、峰々の上のタ空に星が輝き、相迫った挟間の奥の闇の深い中に温泉宿の灯影を見出した時は、三人は思はず大きな声を上げたのであった。(後略)この紀行文は大正11年10月22日若山牧水が沼田市鳴瀧屋旅館に宿泊した後、猿ケ京を経、法師温泉までを綴った「みなかみ紀行」の一節である。 昔の風情がそのままに残る旧三国街道猿沢の小径を散策してみて下さい」、と。

いこいの湯;標高618m_時刻14時37分。
合流点を先に進むと民家が増えてくる。ほどなく道脇に「いこいの湯」。永井宿郷土館の管理人の女性に道すがらの共同温泉としてここを教えてもらっていた。時間は14時37分。時。300円を払い、少々熱い湯ではあったが、朝9時過ぎからの汗を流しさっぱりとする。誠に爽快である。一風呂浴びた後はビールならぬ、牛乳で一人乾杯。20分の休憩


民宿通りしばしの休息の後、15時2分、気分もさわやかに最後の目的地・新治タクシーへと。道すがらいくつものお野仏、地蔵様が佇む。二十三夜講、庚申塚、いぼ地蔵、目病みを治してくれるお薬師さん。「願かけ」のことをこのあたりでは「おがんしょかけ」と呼んでいる。案内によれば、「医療の手だてを持たない当時の民衆は、一刻でも早く病の不安や痛みから逃れようと、猿ヶ京の村人たちがそんな思いを込めて心優しい地蔵や神々を三国街道の傍らにまつり、願かけを行いました。そして願いがかない、また病がなおると、お礼に神々の好物をお供えするのが習わしです。街道のあちこちにこのような野仏が多くみられ、このお地蔵様や神々を訪ねるコースが設定されています(中部北陸自然歩道 環境庁 群馬県 新治村)」、と。二十三夜講は月待ち信仰のひとつ。月待ち信仰の中ではもっともポピュラーなもの。二十三夜の月を共に拝み、悪霊退散を祈るもの。信仰とともに娯楽のひとつでもあったのだろう。

つるべ井戸、旧家と常夜塔、水車、石仏など、宿場の雰囲気を楽しみながら国道17号線に合流。そぐ傍の新治タクシーでお礼を延べ車に乗り込み、三国峠・三国街道散歩を終了し一路家路へと。標高612m。時刻15時19分。全行程6時半卿強といった一日であった。
ついでのことながら、新治タクシーで思い出したしたことだが、猿ヶ京のあたりで随所に新治村と言う地名が登場したが、現在新治村という地名はない。新治村は2005年、利根郡月夜野町、水上町と合併して「みなかみ町」となっている。漢字の水上ではなく「みなかみ」となっているのは、しばしば登場した若山牧水の『みなかみ紀行』から、と言う人もいる。『私は川の水上といふものに不思議な愛着を感ずる癖を持っている。一つの流れに沿って次第にそのつめまで登る。そして峠を越せば其処にまた一つの新しい水源があって小さな瀬を作りながら流れだしている。といふ風な処に出会ふと、胸の苦しくなる様な歓びを覚えるのが常であった』。真偽の程は定かではないが、プロットとしてはなかなか美しい。
猿ヶ京は上杉謙信が「申ヶ今日」と名づけたのが、その名の由来との説もある。温泉が猿ヶ京温泉と呼ばれるようになったのは昭和30年。それ以前は猿ヶ京村の笹の湯温であり、湯島温泉と呼ばれていたようだ。
牧水の『みなかみ紀行』での猿ヶ京の描写がある;読者よ、試みに参謀本部五万分の一の地図「四万」の部を開いて見給え。真黒に見えるまでに山の線の引き重ねられた中にただ一つ他の部落とは遠くかけ離れて温泉の符号の記入せられているのを、少なからぬ困難の末に発見するであろう。それが即ち法師温泉なのだ。更にまた読者よ、その少し手前、沼田の方角に近い処に視線を落して来るならば其処に「猿ヶ京村」という不思議な名の部落のあるのを見るであろう」。この大正11年には「法師温泉」とは呼ばれているが、猿ヶ京は猿ヶ京村と呼ばれている。もうひとつついでのことながら、猿ヶ京のあったもとの地名である「新治」の「はる」は「墾・耕」で「新墾」「新耕」の地、つまり新しく開拓開発されたところを指した古代の地名である。

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