日曜日, 10月 17, 2010

文京区散歩そのⅡ;本郷台地の東端をかすめ、台地上の街道を白山台地、そして駒込に

文京区散歩の第二回。本郷台地の南端あたりの湯島聖堂からはじめ、正確には文京区ではないけれど神田明神をちょっとかすめ、湯島天神、白山神社、そして駒込の富士塚を本日のポイントと大雑把に想い描く。ポイント間のルートは成り行きで進むことにする。富士塚だけは今回がはじめて。江戸の頃には駒込の富士塚とその名を知られていたようだ。そういえば、神田明神と将門、湯島天神の「湯島」、白山神社の祭神菊理姫など、よくよく考えればその何たるかについては、ほとんど何も知らない。歩く・見る・書く、をとおして、あれこれが見えてくれば、との想を描き散歩に出かける。



本日のコース;JRお茶の水駅>湯島聖堂>神田明神>蔵前通り>妻恋神社>三組坂上>霊雲寺>湯島天神>麟祥院>切通し>講安寺>旧岩崎邸庭園>境稲荷神社>竹下夢二美術館>立原道造記念館>言問通り>弥生土器発祥の地>言問通り_本郷通り交差>追分>追分の一里塚跡>旧中山道>大円寺>白山上交差点>心光寺>円乗寺>白山下交差点>白山神社>本郷通り>吉祥寺>目赤不動(南谷寺)>天祖神社>駒込名主屋敷>駒込富士神社>上富士前交差点(本郷通り_不忍通り交差点)>六義園>千石一丁目交差点(不忍通り_白山通り交差点>白山通り>浄土寺>本念寺>地下鉄三田線・白山駅

湯島聖堂
JRお茶の水駅聖橋改札に出る。神田川に架かる聖橋を渡り、古の昔、伊達仙台藩が切り開いた神田川の水路を見やる。橋を渡りきったところに湯島聖堂への入口。孔子の銅像を眺めながら門をくぐり大成殿へと向かう。なんとなく、中国の寺院の雰囲気。孔子をおまつりする廟であるので、当然、か。
この湯島聖堂、元は忍岡(上野公園)にあった朱子学派儒学者・林羅山の別邸内に建てられた孔子廟と家塾がはじまり。儒学に重きをおく幕府は、1690年(元禄3年)、将軍綱吉の頃、廟をこの地に移し「大成殿」を建て幕府の「聖堂」とした。その後、1797年(寛政9年)には林家の家塾も幕府官立の学問所となり、昌平校とも昌平坂学問所とも呼ばれるようになる。昌平とは孔子の生まれた村の名前である。聖堂東側の昌平坂をのぼり本郷通りに。次の目的地は本郷通りを隔てた神田明神。

神田明神
鳥居をくぐり境内に向かう。参道左手にある天野屋さんでは甘酒を買ったことがある。創業以来、地下の土室(むろ)で糀をつくりそれをもとに甘酒や味噌をつくる。江戸の頃、18世紀のはじめに湯島には百件以上の糀屋があったようだ。江戸末期には味噌屋も八十軒ほどあった、とか。関東ローム層、いわゆる赤土は室をつくりやすかったのだろう。が、現在は天野屋さん1軒だけだ、とか。
随神門をくぐり境内に入る。神田明神といえば明神下の(銭形)平次でしょう、ということで、崖端に向かう。崖下を眺める場所を探すが今ひとつ、これといった場所が見つからない。江戸の頃は観月の宴も開かれたところも周囲は様変わり。結局男坂上から明神下を見下ろす。
男坂は神田の町火消「い」「よ」「は」「萬」の四組が石坂を献納。天保の頃である。脇にあった大銀杏は安房や上総から江戸に来る漁船の目印になった、と言う。江戸の頃、渚は現在の小名木川のライン、江東区の清洲橋通りに沿って東西に進む川筋あたりであったというから、それはよく見えたことだろう。ちなみに今日読んでいた『今朝の春;高田郁(ハルキ文庫)』に「仰ぎ見れば神田明神の大銀杏が見える」といった描写があった。なんとなく散歩にも小説にもリアリティを感じる。
明神さまには、一之宮には大己貴命(おおなむちのみこと)、二之宮には小彦名命(すくなひこなのみこと)、三之宮には平将門が祀られる。大己貴命や小彦名命はさておくとして、神田明神といえば平将門でしょう、とは思えども、よくよく考えると、いかなる経緯で神田明神と将門が結びついたのか、はっきりしない。そもそも神田明神に限らず江戸には将門由来の神社が多い。先日歩いた神楽坂に築土明神があったが、この神社など将門の首塚などもあり、結びつきは結構強い。将門といえば築土明神でしょう、と言いたいぐらい。地元民が将門の威徳を偲び、かつ怖れたが故に神田明神にお祀りした、との話があるが、あまりに唐突でよくわからない。あれこれと素人なりの推論・妄想をしてみることに。

社伝によれば、神田明神は天平2年(730)頃、武蔵国豊島郡芝崎村に入植した出雲系の氏族が、大己貴命を祖神として祀ったのに始まる、という。一之宮に祀られている大己貴命、というか大国主命・大黒様は出雲の神様であるので話は合う。もっとも、房総半島から移ってきた忌部族(海部族)が守護神である安房神社に祀られていた海神様を祀ったのが神田明神のはじまりとの説もあり、どちらにしても遙か昔のことで、よくわからない。わからないが、当時一面の入り江が広がる海辺の集落・柴崎に誰かが、なんらかの祖先神をまつったのが、そのはじまりだろう。
時代は下って10世紀前半に平将門の乱。争乱の経緯は省くとして、結局将門は武運つたなく討ち取られ首級は京の都に晒される。伝説によれば、首は天空を跳び柴崎の地、現在の大手町の三井物産の近くに飛来したとのことだが、そんなこともあるわけもなく、実際のところは、将門ゆかりの人々が密かに持ち帰ったのだろう。その首級をまつった祠・観音堂が津久戸明神=築土明神のはじまり、という。この段階では将門との関係は築土明神に大いに分があり、そもそも神田明神は姿も形も、ない。
更に時代は下った14世紀のはじめ、時宗の真教上人が柴崎の地を訪れる。当時、この地は疫病が流行しており、それは将門の祟りであると、朽ち果てていた祠を修復し供養する。と、あら不思議疫病が退散。上人を徳とした村人は近くの寺・日輪寺に留まるよう懇願。上人は天台の寺であった日輪寺に留まり、寺を時宗に改め念仏の道場とした。また、上人は近くにあった祠(安房神社との説も)を修復し、そこに将門の霊を合祀しその社を神田明神と名付ける。同時に日輪寺も神田山日輪寺と改名し、両社とも将門の霊を祀る所となった。ここで神田明神と将門が結びついた。神田の由来は、将門の胴塚をまつる茨城県岩井の地を神田山(かどやま)と呼ぶようだが、それに関係あるのだろうか。
更に更に時代が下って江戸の頃。江戸城の築城に際し津久戸神社は神楽坂に、日輪寺は浅草の柴崎、神田明神は現在の神田駿河台に移る。以降、神田明神は江戸城の鬼門の守護神として徳川家の庇護を受け大いにそのプレゼンスを高める。氏子は江戸の下町の半分以上を占めたと言う。現在で言えば、日本橋、秋葉原、大手丸の内、旧神田市場、築地魚市場などなど108町会をカバーしている、とか。境内に駕籠職人の籠祖神社、漁師の水神社などなどの摂社が祀られる所以である。
それはともあれ、神田明神の祭りが天下祭りとも呼ばれるようになる。御輿、というか当時は山車のようだが、神田祭りの山車が江戸城内に入ることも許されたようだ。神田祭りが天下祭りと呼ばれる所以である。こういった神田明神のプレゼンスが大きくなったが故に、ほかの社を差し置いて、将門=神田明神、ということになったのだろう、か。素人の妄想。真偽のほどは定かならず。ちなみに祭りの山車が神輿に変わったのは、市電だか都電だかの架線に引っ掛かるため、といった話を聞いたことがある。
ついでのことながら、二之宮の「小彦名命」誕生は明治期の将門の位置づけと大いに関係がある。徳川幕府が倒れ天皇の御代となった明治には、天皇に反逆した逆賊将門を祀るのは少々具合が悪かろうと、大己貴命との国造りのパートナー小彦名命を祭神とした、との説がある。大己貴命が鎮座するのに、どうして助っ人が必要だったのだろう?大己貴命と大己貴命のペアが必要だったのだろうか?また、小彦名命を茨城の大洗神社から分祠したとのことだが、大洗神社と神田明神はどういう関係だったのだろう。将門の本拠地が茨城であったことに何か関係があるのだろうか。はてさて。

遠藤家旧店舗・住宅主屋
次の目的地である妻恋神社へと成り行きで明神様に沿って進むと、明神様脇に誠に美しい木造の日本家屋がある。案内によると戦前の商家・木材問屋「遠藤家旧店舗・住宅主屋」。もとは江戸開闢期からの町屋である古町・鎌倉河岸に店があった、とか。建物は関東大震災後の昭和2年に建築されたもの。外壁は「江戸黒」とよばれる黒漆喰で伝統的な店蔵を再現している。一時府中に移築して保存していたものが、この地に移された。本当に美しい。
遠藤さんは神田明神の氏子総代をもつとめていた。将門塚の保存につとめ、かつ将門研究家でもあった、とか。佐伯泰英さんの『鎌倉河岸捕物控え』ではじめて知ったのだが、江戸開闢期からの古町町人にはいろいろと特権が与えられていたよう。

清水坂
遠藤家旧店舗・住宅主屋がある宮元公園を抜け蔵前橋通りに下り、清水坂下交差点から清水坂を上る。坂の名前の由来は明治・大正の頃の精機会社の名前から。江戸の頃、この地には霊山寺と言う寺があった。
寺は明暦3年(1657年)の明暦の大火後、浅草へ移ったが、その敷地は妻恋坂から神田神明神にいたる広大なものであった よう。その広大な敷地は明治になり「清水」という精機会社の所有となる。で、その広い敷地が邪魔となり湯島神社と神田明神の往来が不便なったため、敷地を提供し坂道を整備した。これが清水坂となった所以である。

妻恋神社清水坂をちょっと上り、右に折れる。日本独特のホテルの前にささやかな社。社殿もコンクリート造りと少々赴きが乏しい。日本武尊ゆかりの社伝をもち、江戸の頃は王子稲荷神社とならんで稲荷社を勧請する際の惣社、総元締めであった社の雰囲気は、今はない。
日本武尊が東征の折、東京湾を渡り房総に向かう時、突然の大暴風雨。海神の怒りを鎮めるべく、妃の弟橘姫が海に身を投じる。妃を慕う日本武尊を思い、妃と尊を祀ったのが妻恋神社の始まり、とか。 「吾嬬者耶(あづまはや)」 (ああ、わが妻よ、恋しい)と言ったエピソードは散歩のいたるところで出会うので、縁起は縁起とするだけであるが、この神社の「縁起」物として名高いのは七福神を乗せた宝船の版画。「夢枕」と呼ばれ、正月2日の夜、枕の下に敷いて寝ると縁起のいい初夢が見られるとして売り出され、大いに人気を博したとのことである。
境内を離れる。日本独特のホテルには少々違和感があるも、この湯島天神の西側は明治維新後に栄えた花街・三業地。昭和のはじめには芸子置屋59軒、芸者100人以上、待合が31軒もあった、という。教育の街・文京区にこの類(たぐい)のホテルは如何に、との議論も多いが、歴史を踏まえてのホテルであろうから、「衣食足って」の後の「礼節」の話には、少々違和感あり。

霊雲寺
妻恋神社を離れ、三組坂上交差点に。家康亡き後、お付きの中間・小人・駕籠方の「三組の者」にこの地が与えられた。三組坂から湯島天神に向かう途中に大きな甍が見える。霊雲寺にちょっと寄り道。堂々たる堂宇は戦後再建されたコンクリートつくりのようだが、往時の威勢を少し感じる。チェックすると、江戸の頃柳沢吉保の帰依を受け、ために時の将軍である綱吉からこの地を得て寺を開いた。幕府から朱印状を受け元禄の頃は関八州の真言律宗の総本山であった、とか。
霊雲寺が知られるのはその結縁灌頂。出家に際してその守り本尊を決める儀式。目隠しをして曼荼羅の上に華を投げ、その落ちたところの仏と結縁する。ここで結縁した衆生の数は4万人近くいた、という。本堂の脇に灌頂堂が残る。江戸の名所図会にもこのお堂が描かれていた。

湯島天神
春日通り・湯島天神入り口を少し折り返し湯島天神に。境内に梅の木が並ぶ。紅梅、白梅併せ梅の名所となっている、と。湯島天神といえば、「♪湯島通れば想い出す お蔦 主税の 心意気♪」というフレーズを思い出す。「湯島の白梅」の歌詞の一部である。泉鏡花原作の『婦系図』、正確には原作をもとにした芝居でのお蔦と主税の別れの舞台がこの湯島天神となっている。『切れるの別れるのッて、そんな事は、芸者の時に云うものよ。......私にゃ死ねと云って下さい。』というあの有名なフレーズである。お蔦は後の鏡花夫人がモデル、「俺を捨てるか、婦を捨てるか」と主人公(鏡花がモデル)迫る先生は鏡花の師匠である尾崎紅葉とのことである。
梅園の脇に奇縁氷人石がある。落とし物や探し人の時は石柱の右側の「たつぬるかた」に、拾ったり見つけた人は左側には「をしふるかた」に紙に書いて貼っていた、という。氷人とは仲人の意味、とか。

湯島天神は菅原道真を祀る社として知られる。社伝によれば、雄略天皇2年(458)勅命による創建と伝えられ、天之手力雄命(あめのたじからおのみこと)を祀ったのがはじまりとか。天之手力雄命って、岩屋に隠れたアマテラスを引き戻し、世に明るさを取り戻した神様。縁起は縁起としておくとして、世が下り14世紀の前半、いかなる契機か定かではないが、菅原道真の威徳を偲ぶ郷民が京都の北野天満宮から天神様を勧請した、と。15世紀後半には太田道灌に、また徳川の御代も朱印地を受けるなど篤い庇護を受けた、とのことである。

菅原道真を祀る社を天神さまとか天満宮とか言う。どういう関係なのだろう。ちょっとチェック。天神さまとは、国津神に対する「天津神」であり、どれといって特定の神様を指すということではないようだ。天満宮は天満大自在天神を祀る社。天満大自在天神とは、怨霊として畏れられた、その魂を鎮めるために道真与えられた神号である。もともとは天神と道真は別物であったようだが、天満大自在「天神」として祀られた道真と天神が次第に同一視されるようになり、天神=道真=天満、というようになったのだろう。火雷天神を祀っていた北野の社が天満大自在天神=菅原道真を祀るようになり北野天満宮となったのはその証。
湯島天神は学問の神とはいいながら、婦系図の舞台など妙に艶めかしい。妻恋神社のところでメモしたように、花柳界が周りにあったのが大いにその遠因であろう。また、この神社は江戸の頃、富クジ発行の社としても知られる。聖俗併せ持つ社であろう、か。
それはそれとして、湯島の地名の由来。件(くだん)の如くあれこれ説がある。が、どれもしっくりこない。崖下一面は湿地であり、本郷台地の端にあるこの地が「島」のように見えた、と。それはそれでいい。が、「湯=温泉」が出たから、との説は如何にも不自然。「斎の島」からとの説もある。台地の突端にあり、昔はここに神を祀りその斎場があった、とする。「斎(いつき)の島」が、「ゆつきのしま」>「ゆしま」と転化したとする。台地の突端の斎場といった論は、よさげな気もするのだが、よくわからない。
湯島ではない表記もある。菅江真澄の「北国紀行」には由井(ゆい)島と示されている。武州豊嶋郡江戸油嶋郷と表記されているケースもある。はじめに「音」があり、それに「漢字」を被せるわけだから、表記をそのまま鵜呑みにすることはできないが、由井には「湿地」の意味がある。湿地帯に浮かぶ島、といったイメージは如何にも、いい。真偽の程は定かではないが、自分としては結構気に入っている。

麟祥院
春日通りの坂を少し上り麟祥院に向かう。坂は湯島の切通し坂と呼ばれていた。昔の奥州街道であった崖下の道を切り開き本郷台地と御徒町方面を結んだ。現在は湯島天神の逆方向にはマンションが建ち、地形がはっきりしないが、明治末期の写真を見ると崖上が緑地となっており、それなりに切り通しの雰囲気が感じられる。江戸の頃は急坂であったようだが、明治37年には上野広小路と本郷の間に電車が走るようになったため、緩やかな坂にした、という。
麟祥院は三代将軍徳川家光の乳母である春日局の菩提寺。寺の名前は春日局の法号から。境内は品のいい雰囲気。明治になって、この地には東洋大学の前身でもある哲学館が創立された。創立者である井上円了さんは中野散歩のとき、哲学堂で出会った。

講安寺
麟祥院を離れ、坂を少し下り「切通し公園」に向かう。切通しの名残でもないものか、と辿ったのだがありふれた公園でしかなかった。道なりに進み、お屋敷の塀をぐるりと一回り。趣のある坂に出る。案内に「無縁坂」と。その昔、この坂上にあった無縁寺によるとか、周囲武家屋敷が多いが故に、武家に縁がある>武縁>無縁、など例によって地名の由来はあれこれ。さだまさしの歌・「無縁坂」の舞台でもある、とか。
坂の途中に講安寺。土蔵造りの本堂が面白い。外壁が漆喰で塗り固められ防火対策を施している。住職の遺言として「類火は格別、寺内門前共に自火の用心専一に致す可き事」とある。

旧岩崎邸庭園
坂を下り、長い塀に沿って南進み旧岩崎邸庭園に。もとは越後高田藩・榊原氏の江戸屋敷跡。明治になり三菱財閥・岩崎家の屋敷となった。現在残る建物は三菱財閥三代目当主である岩崎久弥の館。洋館と撞球室の設計は英国人ジョサイヤ・コンドル。建物は重要文化財となっている。旧古川庭園の洋館や綱町三井クラブ、三菱一号館など散歩の折々にコンドルの作品に出会う。明治期のお雇い外国人として来日し、日本の近代建築の基礎をつくった人である。戦後はGHQに接収され、その後最高裁判所の司法研修所として使われていたが、現在は都立の庭園として公開されている。

境稲荷神社
東大構内東端に沿って道なりに進む。やたら朱のあざやかな小ぶりの社がある。境稲荷神社。創建時は不明。文明年間、15世紀の中頃に室町幕府の足利義尚が再建したとの伝承がある。社の名前は、この地が忍ヶ丘(上野台地)と向ヶ丘(本郷台地)の境であることによる。この社はかつての茅町(現在の池之端1,2丁目の一部)の鎮守であった、と。茅町とはいかにも茅の原というか、湿地のイメージ。昔は一帯が低湿地であったのだろう。
社の北脇には弁慶鏡ヶ井戸。義経主従が奥州に向かう途中、弁慶がこの井戸をみつけ喉を潤した、とか。江戸の頃には名水として知られ、戦中には被災者の渇きを癒したと。

言問通り
東大構内に沿って言問通りに向かう。道の途中に立原道造記念館とか弥生美術館・竹下夢二美術館がある。時空にはフックがかかるが情感にあまりに乏しい我が身としては、立ち寄るのも少々敷居が高い。素通りし言問通りに。根津に向かって少し下ると道の左手、東大農学部側に「弥生式土器発祥の地」の案内。東大農学と工学部の境(ゆかりの碑、のあるところ)、根津小学校裏の崖、東大工学部内弥生二丁目遺跡など諸説ある弥生式土器発祥の地の案内がある。いずれにしても往古一面の海を臨む本郷台地の端。そこに弥生の民が住んでいたのだろう。

弥生式土器発祥の地
更に少し根津方面に下ると、道の反対側、東大工学部側に「弥生式土器発掘ゆかりの地」の碑があった。ここも弥生土器発祥の候補地のひとつ。明治17年、東京大学の先生たちが根津の谷に面した貝塚から赤焼きの壺を発見。それがどうも従来の縄文式土器とは異なる、ということで土地の名をとり弥生式土器と名付けられた。
弥生の地名は水戸斉昭公の歌碑の詞書から。江戸の頃、このあたりは水戸藩の中屋敷。明治となり町名を決めるに際し、水戸藩の廃園にあった歌碑の詞書き、「やよひ(夜余秘)十日さきみだるるさくらがもとにしてかくは書きつくるにこそ;名にしおふ春に向ふが岡なれば、世に類なき華の影かな」の中から「やよひ(夜余秘)>弥生」を取り出し、向ヶ岡弥生町とした。

本郷追分
言問通りの弥生坂を上り返し本郷通りとの本郷弥生交差点に向かう。弥生坂は先ほど歩いてきた弥生美術館方面からの道との交差点あたりまでのよう。坂下に幕府鉄砲組の射撃場があったため、鉄砲坂とも呼ばれている。更に上り本郷弥生交差点を右に折れるとほどなく道はふたつに分かれる。そこが本郷追分と呼ばれた中山道と岩槻街道・日光御成道の分岐点。
街道が別れる角に一里塚の案内が残る。日本橋を出た中山道はこの地で1里となる。一里塚の案内がある家屋は高崎屋とあった。江戸の頃、追分には酒・醤油を商う高崎屋と青果を商う八百屋太郎兵衛という大店があったとのことである。この高崎屋はその後裔だろうか。上方からのブランド品:下り物に対抗するため、「下らない物=江戸近辺の地回り品」である定評ある野田や銚子の味噌や醤油に「江戸一」といったブランドで現金大安売りをおこない身代を築いたと言う。八百屋太郎兵衛は八百屋お七の実家、とか。

大円寺
17号線・中山道を白山に向かって進む。白山上交差点の少し手前に大圓寺。なにげなく寄り道。「ほうろく地蔵」がある。「八百屋お七」にちなむ地蔵尊であった。天和の大火(1682年)の際、避難した寺(円乗寺)で見初めた寺小姓に恋慕。火事が起これば再び会えるかと、実家に付け火。小火(ぼや)で終わったものの、付け火は大罪。火あぶりの刑を受けたお七を供養するため建立されたお地蔵さま。お七の罪業を救うため、熱した焙烙(素焼きの土鍋)を頭に被り、自ら灼熱の苦しみを受ける、その後このお地蔵さまは頭痛・眼病・耳や鼻といった首から上の病に霊験あると人々の信仰を得た。
お七が避難した円乗寺はすぐ近く。お七のお墓もあると言う。後ほど訪れる。ちなみに目黒の散歩で訪れた大圓寺は、お七の恋い焦がれた吉三が仏門に入り修行した寺。寺の名前が同じであるのは単なる偶然、か。
また、この寺には高島秋帆が眠る。高島平散歩の折り、松月院で出会った。徳丸が原(現在の高島平)で幕閣を集めて砲術の訓練をおこなったことで知られる。鳥井耀蔵に貶められ一時幽閉されるも、ペリー来航などの国難に直面し放免され海防指導に努める。高島平の名はこの人物の名前から。

旧白山通り
白山上交差点から旧白山通りを下る。この坂は薬師坂とも浄雲寺坂とも白山坂とも呼ばれる。薬師坂は坂の途中にある妙清寺の薬師堂から。浄雲寺坂はこれも坂の途中にある心光寺の寺号である浄雲院より。白山坂は坂を少し奥まったところにある白山神社から。白山神社は後ほど訪れることにして、坂を下り白山下交差点を左に折れ円乗寺に向かう。

円乗寺
路地といった雰囲気の円乗寺の入口に、お七の地蔵尊。今ひとつ寺域といった赴きに乏しい「小径」を進むと本堂横に三基の墓があった。住職や住民や、そして演じたお七が当たり狂言となった寛政年間の歌舞伎役者の岩井半四郎が建てたもの。お七の事件は世間の耳目を集めたのか、事件の3年後、貞享3年(1686)には井原西鶴によってお七が取り上げられた。お七が有名になったのもこの歌舞伎・浄瑠璃故のことではあろう。とはいうものの、そのブームもいつまで続いたのか、太田南畝が『一話一言』を書いた天明5年(1785)の頃には墓は荒れ果てていたようだ。「石碑は折れ、無縁の墓のため修繕もできない」とある。再びお七が有名になったのは、その少し後、上で目もしたように岩井半四郎の演じたお七が大人気となり、石塔を建ててからである。虚実入り乱れた八百屋お七の話は、恋い焦がれた寺小姓も吉三、とか吉三郎だとか、庄之助、とか佐兵衛とかあれこれ。

東大下水の支流・北指ヶ谷跡
白山坂下交差点に戻り、坂を少し上り戻し、なりゆきで左に折れて白山神社に向かう。白山神社への道は一度窪み、再び上りとなる。窪んだあたりは昔の東大下水の支流のひとつ、六義園から下る通称・北指ヶ谷の流路ではなかろうか。六義園からの水路は東洋大学前交差点で旧白山通りを越え、蓮久寺や妙清寺脇を下り、白山坂下で駒込方面から下る東大下水の本流・西指ヶ谷で合流する。

白山神社
複雑なうねりの地形を眺めながら白山神社境内に。開基は古く10世紀の中頃、加賀一宮白山神社を本郷1丁目の地に勧請。時代は下って江戸の頃、二代将軍秀忠の命により巣鴨原(現在の小石川植物園)に移すも、その地を館林藩主松平徳松(後の5代将軍綱吉)の屋敷造営のため、17世紀の中頃この地に移った。この縁もあり社は綱吉とその生母・桂昌院の篤い帰依を受けた。この神社の祭神として菊理媛(くくりひめ)がいる。イザナギが変わり果てた妻のイザナミに少々恐れをなし諍いを起こしたときに仲直りをさせた神さまとか。ために、縁結びの神、最近では、はやりのパワースポットとして菊理媛におまいりする人がいるとか、いないとか。それにしても、菊理媛って、古事記には登場しないし、日本書紀にもほんの一言だけ登場する神さま。「(イザナミから一緒に帰れないとの伝言を伝える、黄泉の国の番人の台詞に続いて)その時菊理媛も語った。イザナギはそれを聞いてほめ、別れて立ち去った」、と登場するのみ。何を語ったのかも書かれていない。死者の言葉を取り次ぐ、あの世とこの世の橋渡し=仲介をする、といったことから縁結びとなったのだろうか。よくわからない。
境内には富士浅間社・稲荷社・三峰社・天満天神社・山王社・住吉社といった摂社が祀られる。富士神社には小高い富士塚が残る。富士参詣に行けない人の模擬富士登山・信仰のために塚が立つ。八幡神社は10世紀中頃、奥州征伐に向かう八幡太郎義家がこの地に御旗を掲げ京の石清水八幡を勧請。戦勝を祈念した。ということは、このあたりに奥州への古道が通っていた、ということ、か。

吉祥寺
次の目的地は吉祥寺。東大下水の支流・北指ヶ谷跡かな、と思う道筋を辿り旧白山通り・東洋大学交差点付近に上る。その後は成り行きで北に向かい本郷通り・吉祥寺前交差点に。
本郷通りに面して風格のある山門が残る。参道に入ると脇にお七・吉三の比翼塚とか二宮尊徳の墓碑などもある。榎本武揚や鳥井耀蔵もこの地で眠る。先に進むと如何にも広い境内というか駐車場。30年ほども前にこの寺を訪れたときのうっすらとした記憶では、もっと構えの小さいお寺さま、といったものであったので、少々戸惑う。境内というか駐車場脇にこれまた風格のあるお堂がある。このお堂は教蔵。檀林寺の図書館といったところ、か。それにしても広い。その昔、曹洞宗の檀林(学問所)として学僧1000名を越え、七堂伽藍を誇ったお寺ではあるが、戦災で灰燼に帰した、という。このアンバランスなほどのスペースは、そのうちに往時の堂宇の再建を考えてのことであろう、か。檀林は現在の駒沢大学の前身である。
寺の歴史は古く室町の太田道灌の頃に遡る。道灌が築城の江戸城内に開山。その後江戸時代になり、水道橋津金に移る。水道橋も当時は吉祥寺橋と呼ばれていた。この地に移ったのは明暦の大火の後。寺院を江戸の町中から周辺に移した。火の気が多い寺院は火災もとになることが多かったのだろう。ちなみに中央線の吉祥寺は、明暦の大火で罹災した水道橋脇の吉祥寺門前の住民が移り住んだことからその名が付けられた。

目赤不動
吉祥寺前交差点を少し本郷方面に戻り、道脇にある目赤不動・南谷寺に向かう。お堂は本堂脇、二間四方といった、つつましやかなもの。もとは不忍通りと本郷通りを結ぶ動坂あたりにあり、赤目不動と呼ばれていたようだが、三代将軍家光が駒込に鷹狩りの折り、府内目白・目黒不動の因縁をもって目赤不動とすべし、ということで目赤不動となった、と。江戸名所図会には「目赤不動 駒込浅香町にあり。伊州〔伊賀国〕赤目山の住職万行(まんぎょう)和尚(満行、?~一六四一)、回国のとき供奉せし不動の尊像しばしば霊験あるによつて、その威霊を恐れ、別にいまの像を彫刻してかの像を腹籠(はらごも)りとす。 すなはち赤目不動と号し、このところに一宇を建立せり、始め千駄木に草庵をむすびて安置ありしを、寛永(1624-44)の頃大樹(将軍家光)御放鷹(ごほうよう)のみぎり、いまのところに地を賜ふ。千駄木に動坂の号あるは、不動坂の略語にて、草堂のありし旧地なり。後年、つひに目黒、目白に対して目赤と改むるとぞ」とあり、家光によりこの土地を賜ったのは記録に残るも、目赤となったのは後の世、とも読めるが、それはそれとして府内五色不動のうちのひとつ、目赤不動が誕生した。
日本各地に五色不動が残るが、江戸の御府内の五色不動も知られる。目黒(目黒区下目黒の滝泉寺)・目白不動(江戸の頃は文京区関口の新長谷寺。現在は豊島区高田の金乗院)は江戸の前から存在していたようだが、江戸の頃のこの目赤不動が生まれ、明治以降に目青不動(世田谷太子堂)、目黄不動(江戸川区平井の最勝寺と台東区三ノ輪の永久寺の2つ)が登場して現在に至る。

動坂
駒込の富士神社に向かう。近くに先ほどメモした動坂がある。このあたり、現在の駒込病院のあたりは鷹場のあったところという。動坂下から天祖神社にかけては御鷹匠屋敷や御鷹部屋などもあった。目赤不動での家光の鷹狩り云々の所以である。現在その名残があるとも思えないが、とりあえずちょっと寄り道。道すがら駒込名主屋敷跡。慶長年間というから17世紀の初頭、この地を差配した名主の屋敷。趣のある門が残る。現在もお住まいのよう。
成り行きで天祖神社に進み、道坂上あたりをかすめ、このあたりに鷹場があったのだろう、とか、目赤不動のもともとの赤目不動の祠があったのだろう、などと往古を想い富士神社へととって返す。

駒込富士神社
駒込の富士塚として知られる。散歩の折々に富士塚が現れる。所沢・佐山湖脇の荒畑富士、葛飾・飯塚の富士塚、川口・木曽呂の富士塚などが記憶に残る。通常、塚と社殿が分かれていることが多いのだが、この神社は塚の上にのみ社殿がある。社殿部分は平らになっており、富士塚でよく見るお椀を伏せた、といった形状ではない。長さも40mほどもありそうで結構大きい。古墳跡とも言われるが、定かではない。元は本郷にあったとのことだが、その地が加賀藩の江戸屋敷となったため、この地に移った、とか。
富士塚は富士信仰のため富士山に見立てた造った塚。冨士講を組織し富士への参拝を本旨とするも、すべての人が富士に行けるわけもなく、その代わりとして各地の富士塚をお参りする。食行身禄などにより江戸で広まり、「江戸八百八講 講中八万人」と言われるほどになった。食行身禄の生涯は新田次郎さんの『富士に死す』に詳しい。

六義園
本郷通りを進み不忍通りとの交差点・上富士前交差点を少し先に進み六義園に。六義園は五代将軍綱吉の側用人・柳沢吉保の下屋敷として造った庭園。平坦なところに土を盛り、水は千川用水から導水し7年の歳月をかけて造り上げた。
柳沢家は甲府、大和郡山と領地は移るも、六義園は柳沢家の下屋敷として幕末まで続く。維新後は三菱財閥を興した岩崎弥太郎が入手。現在の赤煉瓦はそのときのもの。関東大震災や戦災に被害を受けることもなく現在に至る。
なお、六義園の六義とは紀貫之が『古今和歌集』の序文に書いた「六義」(むくさ)という和歌の六つの基調を表す語に由来するとか。「六義」の原典は『詩経』にある漢詩の分類法。3とおりの体裁「風」「雅」「頌」という三通りの体裁と、「賦」「比」「興」からなる三通りの表現法から構成される。紀貫之はこれを借用して和歌の六体の基調を表した、と。「風」は各地の民謡、「雅」は貴族・朝廷の公事・宴席の音曲の歌詞、「頌」は朝廷の祭祀の廟歌の歌詞、「賦」は心情の吐露、「比」はアナロジー、「興」は詩情を引き出す自然を歌うさま、といったもの、とか。

本念寺
長かった散歩も次が本日最後の目的地である本念寺。蜀山人こと太田南畝が眠る。通りを進み千石1丁目交差点で左に折れ白山通りに入る。千石駅前交差点で旧白山通りと別れ白山通りを下る。この道筋は東大下水の本流・西指ヶ谷の流路ではあったのだろう。緩やかな坂道の途中、京華高等学校の通りを隔てたあたりを右に折れ、台地を上る。ほどなく本念寺に。
ささやかなお寺さま。ここに大田南畝が眠る。18世紀末、天明期を代表するこの文人・狂歌師そして能吏には散歩の折々に出会う。上野公園の蜀山人の碑;一めんの花は碁盤の上野山 黒門前にかかるしら雲 。向島百花園の扁額、赤札仁王さまで名高い北区・田端の東覚寺には蜀山人の狂歌碑;「むらすずめ さはくち声も ももこえも つるの林の 鶴の一声」。新宿・十二社の熊野神社には太田南畝の水鉢があった(2010年9月に訪れた時は水鉢は消えていた)。神田駿河台には蜀山人終焉の地の案内;南畝辞世の句、「生き過ぎて 七十五年食ひつぶし 限りしられぬ 天地の恩」。入谷の鬼子母神には「恐れ入谷の鬼子母神、どうで有馬の水天宮、志やれの内のお祖師様」が残る。文京区散歩では牛天神で貧乏神を描く南畝にも出会った。

都内だけでなく多摩でも出会う。国立の谷保天神は南畝によって「野暮天」のキャッチフレーズをつけられところ:「神ならば出雲の国に行くべきに目白で開帳やぼの天神」。目白で出開帳を行いお賽銭を集めたことを皮肉った。日野の安養寺は南畝の『調布日記』に「大きさ牛をかくすといひけん木々の銀杏2本並びたてり、かのちちというものあまたありて目を驚かす」と記されている。『調布日記』は南畝が玉川通勘定奉行方として多摩川地方の水害調査に訪れた時の地誌録。その折りのこと、日野の本陣では当主手作りの蕎麦を食し「ことし日野の本郷に来りてはじめ蕎麦の妙をしれり......しなのなる粉を引抜の玉川の手づくり手打よく素麪の滝のいと長く、李白が髪の三千丈もこれにはすぎじと覚ゆ」という蕎麦賞味の所感を書いている。ついでのことながら、本邦初のグルメ本『頭てん天口有(あたまてん てんにくちあり)」』を著したのも南畝と言う。
太田南畝は18世紀末、天明期を代表する文人・狂歌師。若くして四方赤良(日本橋で有名な味噌「四方の赤、から)のペンネームで活躍。有名な「世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶといひて夜もねられず」も四方赤良の句、とも言われるが、寛政の改革での戯作者の弾圧をみるにつけ、逼塞が得策と狂歌から離れる。その後、幕府の人材登用試験に主席で合格。とはいうものの竹橋の倉庫での文書整理。「五月雨の日もたけ橋の反故しらべ 今日もふる帳あすもふる帳」と詠んでいる。
19世紀の頭には大阪銅座に赴任。銅にちなんだペンネーム「蜀山人」を使うのはこれ以降。その後長崎奉行所に赴任。はじめてのコーヒーのテースティングを記す;紅毛船にてカウヒイといふものを飲む。豆を黒く炒りて粉にし、白糖を和したるものなり、焦げくさくして味ふるに堪ず。上記多摩川巡視は60歳の頃と言う。
誠に多彩な人物。現在もっとも興味のある人物でもある。狂歌師、能吏、『調布日記』や『玉川砂利』、『向丘閑話』、。『改元紀行』等の十九冊にも及ぶ紀行文。それと水練の技を引き継ぐ家柄として、将軍家治の御前での水泳披露など、誠におもしろい。メモをはじめると終わりそうにないので、ちょっと狂歌をならべ、クロージングとする;
「雑巾も 当て字で書けば 蔵と金あちら拭く拭く(福々)こちらふくふく」。
「一刻を千金づつにつもりなば六万両の春のあけぼの」
「いまさらに何をかをしまん神武より二千年来くれてゆくとし」
「世の中に絶えて女のなかりせばをとこの心のどけからまし」
「今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」
「世の中は金と女がかたきなりどふぞかたきにめぐりあひたい」
なお、太田南畝を描いた小説には平岩弓枝さんの『橋の上の霜』がある。愛憎に悩む南畝の姿が描かれる。
本念寺の向かいにある浄土寺には松平忠直卿の墓がある、とのこと。それにしては少々趣に乏しい、ということで、軽くお参りし、成り行きで地下鉄三田線・白山駅に向かい、本日の散歩を終える。

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