水曜日, 8月 24, 2011

玉川上水散歩そのⅠ;序

いつの頃だったか、今となっては、はっきりしないのだが、玉川上水を羽村の取水口から四谷大木戸まで、歩いたことがある。散歩を初めて、それほどたっていなかったと思うので、2005年の頃だとも思う。羽村から四谷大木戸まではおおよそ43キロ。標高差92mということなので、平均千分の二、という緩やかな勾配の台地稜線部・馬の背を4回だったか、5回だったか、それもはっきりしないのだが、のんびり、ゆったり辿ったことがある。
きっかけは自宅の杉並区和泉から京王線明大前駅への通勤・通学路途中にある公園に、橋を模した欄干があり、ふと眼を止めたことに、ある。九右衛門橋とあった。川など、どこにもその痕跡は見あたらないのだが、そこは玉川上水の水路を埋めて整備した公園であった。
地図を見ると、環八辺りから新宿までは、代田橋・笹塚駅近辺の一部を除き、川筋は埋められ暗渠となっている。一方、その上流は多摩川の取水口まで開渠となっており、往昔、江戸の人々に潤いをもたらし、武蔵野の新田開発の水源ともなった流路が未だ残っていることを知り、その流路をとりあえず、取水口から辿ってみようと思ったわけである。
このときの「玉川上水一気通貫」の散歩に後も、折り触れ、玉川上水は歩いた。代田橋から新宿まで、玉川上水跡を整備した公園を歩いたのは、十回はくだらないだろう。逆方向、下高井戸から環八の西、開渠が暗渠にもぐる浅間橋跡まで、そして、浅間橋から井の頭までも、また、井の頭から三鷹まで、時には、玉川上水駅から三鷹まで下ったこともある。
野火止用水や千川用水跡を歩くため、玉川上水からの分水口を探しに出かけたこともある。狭山の箱根ヶ崎から下る残堀川を辿り、玉川上水とクロスしたこともある。ことほどさように、玉川上水は、あまりに「身近な」ものとなってしまい、頭の中では既にメモを書き終えたような気になっていた。
先日、近くの図書館に行き、『玉川上水・橋と碑と;蓑田たかし(クリオ)』と『玉川上水;アサヒタウンズ編(けやき出版)』を読み、長らく「熟成」させていた、メモをまとめてみようと思いはじめた。いつだったか古本屋で買った、『玉川上水物語;平井英次(教育報道社)』、『約束の奔流・小説玉川上水秘話;松浦節(新人物往来社)』、『玉川兄弟;杉本苑子(朝日新聞社)』、なども読み直した。幾度となく歩いた玉川上水ではあるが、時間軸は数年前のことであったり、つい最近のことであったりと、首尾一貫のメモからはほど遠い。失われつつある時を求めての玉川上水散歩のメモ、あるいはくっきり、あるいはぼんやり、とした風景を思い浮かべながらメモをはじめる。



本日のルート;青梅線・羽村駅>五ノ神社・まいまいずの井戸>新奥多摩街道>「馬の水飲み場跡」>禅林寺>都水道局羽村取水所・羽村堰>玉川水神社>陣屋跡>羽村堰第一水門>羽村堰第ニ水門>羽村橋>羽山市郷土博物館>羽村堰第三水門>羽村導水ポンプ所>羽村大橋>堂橋>新堀橋>加美上水橋>宮本橋>福生分水口>宿橋>新橋>清厳院橋>熊野橋>かやと橋>牛浜橋>熊川分水口>青梅橋>福生橋>山王橋>五丁橋>みずくらいど公園>武蔵野橋>日光橋>平和橋>拝島分水口>殿ヶ谷分水口跡>こはけ橋>ふたみ橋>拝島上水橋>西武拝島線・立川駅

青梅線・羽村駅
玉川上水の取水口の最寄り駅、青梅線・羽村駅に下りる。駅近くの観光案内で、辺りの見所を探す。取水口は駅の西ではあるのだが、駅のすぐ東に「五ノ神社」があり、そこに「まいまいずの井戸」がある、と言う。五ノ神社という名前にも惹かれるし、「まいまいずの井戸」も見てみよう、ということで、五ノ神社に。

五ノ神社・まいまいずの井戸
五ノ神社は創建、推古九年、と言うから西暦601年という古き社。『新編武蔵風土記稿』によると、熊野社と呼ばれていた、とか。この辺りの集落内に「熊野社」「第六天社」「神明社」「稲荷社」「子ノ神社」の神社が祀られており、ためにこの辺りの地名を五ノ神と呼ぶ。地域の鎮守さま、ということで五ノ神社、となったのであろう、か。熊野五社権現を祀っていたのが社名の由来、との説もある。
神社の名前の由来はともあれ、境内にある「まいまいずの井戸」に。すり鉢状の窪地となっており、螺旋状に通路が下る。すり鉢の底に井戸らしきものが見える。すり鉢の直径は16m、深さ4mもある、とか。何故に、井戸を掘るのに、これほどまでの大規模な造作が、とチェックする。井戸が掘られたのは鎌倉の頃。その頃は、井戸掘りの技術も発達しておらず、富士の火山灰からなるローム層、その下に砂礫層といった脆い地層からなる武蔵野台地では、筒状に井戸を掘り下げることが危険であったので、このような工法になった、とか。狭山にある「堀兼の井」を訪ねたことがある。歌枕にも登場する堀兼の「まいまいずの井」よりも、こちらのほうが、しっかり昔の形を残しているようだ。

新奥多摩街道
羽村駅に戻り、西口から渡り道なりに進む。新奥多摩街道を渡ると、道脇に「旧鎌倉街道」の案内:「北方3キロ、青梅市新町の六道の辻から羽村駅の西を通り、羽村東小学校の校庭を斜めに横切り、遠江坂を下り、多摩川を越え、あきる野市折立をへて滝山方面に向かう。入間市金子付近では竹付街道とも呼ばれ、玉川上水羽村堰へ蛇籠用の竹材を運搬した道であることを物語る」、とある。
旧鎌倉街道の多摩川の渡河点は現羽村大橋と永田橋中間付近。多摩川を渡ると、慈勝寺東側の多摩川崖下を東進、草花台から森の下、平井川を渡って、平沢、野辺、東郷、へと下る。
鎌倉街道と言えば、高尾から秋川、青梅を越えて秩父に進む鎌倉街道山ノ道()を辿ったことがある。また、西国分寺から東村山、狭山、毛呂山、武蔵嵐山へと進む鎌倉街道上ッ道も、断片的ではあるが歩いたことがある。八王子の平井川を下ったときは、その道筋は鎌倉街道の支道といったものであった。この案内の旧鎌倉街道も山ノ道とか上ノ道といった鎌倉街道の「幹線」からは外れており、支道といったものであろう、か。とはいうものの、「鎌倉街道」といったものが実際にあった訳ではなく、昔よりあった道を整備し、鎌倉への往来を容易にした、といったもの、その総称が「鎌倉街道」と呼ぶようでは、ある。

ハケ村
新奥多摩街道を離れ、多摩川の段丘崖を開いた切り通し坂道を下る。段丘崖のことを「ハケ」と呼ぶ。羽村の地名に由来は「ハケ」村が「ハ」村に転化したとの説がある。武蔵野台地の西端であり、「ハシ」村からの転化との説もある。地名の由来は、例によって、諸説、定まることがない。

「馬の水飲み場跡」「ハケ」の坂を下ると坂の右手の石垣に「馬の水飲み場跡」の案内。急坂を往来する馬の水飲み場跡であった。農産物の運搬だけでなく、明治27年青梅線が開通して以降は、多摩川の砂利を羽村の駅まで運んだ、と言う。

禅林寺
多摩川に向かって坂を下る。道の右手にお稲荷さま、左手にお寺さま。坂も寺坂と呼ばれるようだ。お稲荷様にお参りし、お寺様の境内に。禅林寺と呼ばれるこの寺には中里介山が眠る。中里介山と言えば、未完の大作『大菩薩峠』で知られる。その『大菩薩峠』で長い間、疑問だったことがあった。何故に、一介の素浪人が、こともあろうに、また、酔狂にも大菩薩峠といった高山に上り、旅人を殺めなければならないのか、理解できなかったのだが、中世の古甲州街道(大菩薩峠)を辿って、その疑問は氷解した。大菩薩峠って、中世には武蔵と甲斐を結ぶ甲州道中であり、江戸にはいっても、高尾から大垂水峠を越え、上野原から小仏峠越えで甲州に進む甲州街道の裏街道として、当時の幹線道路であった、ということである。今で言えば国道1号線での事件といったものであった。

境内には天明の義挙を顕彰する「豊饒碑」が残る。天明2年(1782)の大飢饉、翌年の浅間山の大噴火などにより、農民が疲弊・困窮、全国で農民一揆が起きた。この多摩においても、農民の窮状を憂えた、羽村の指田、森、島田、嶋田ら名主・組頭といった九名が、穀類の買い占めを計る富商・農家の打ち壊しを計画。天明4年、箱根ヶ崎村の池尻(狭山池)に2万とも3万とも、と伝わる農民が集結。その規模において、武州世直し一揆といった、幕政を揺るがすほどのものとなった動きに対し、幕閣は強圧策で臨み、首謀者9名と十数か村の63名は捉えられ獄死した。先日、農民が集結した、と言う箱根ヶ崎の狭山池を歩いた。その時のメモで、幕末に官軍に反発する幕府の振武隊も箱根ヶ崎に留まった。今は静かな箱根ヶ崎ではあるが、往昔、青梅筋、狭山筋から青梅街道をへて江戸と結ぶ、交通の要衝であった、ということを、改めて実感した。

都水道局羽村取水所・羽村堰
禅林寺を離れ、県道183号を道なりに進み、多摩川沿いを走る奥多摩街道に出る。多摩川の対岸には草花丘陵が連なる。道を少し上手に進むと玉川上水の取水口が見えた。羽村堰第一水門だろう。豊かな水が蓄えられている。
その左手に鉄製の水門といった形の堰、その先にはコンクリートの堰、さらにその先には河川敷が拡がる。鉄製の水門は「投渡堰」と呼ばれている。多摩川に4本の橋脚を据え付け、その前に杉丸太を組み、砂利によって水を堰止めている。そして、その杉の丸太上部を3本の「鉄の梁」で固定している。その「鉄の梁」を「投げ渡し」とよぶようだ。増水時には「鉄の梁」をウィンチで巻き上げ、水圧で杉丸太を倒し、砂利ごと水を下流に流すことによって水位を落とし、水門を守る。現在は「鉄の梁」ではあるが、昔は、その投げ渡しも木材であったことは、言うまでも、ない。
その先のコンクリートの堰を「固定堰」と呼ぶ。昔は、蛇籠とか牛枠・三角枠等と言った竹や木材と石を組み合わせて造った枠、というか、現在で言うところのテトラポットで堰を築いていた、と言う。牛枠は、胴体は蛇篭に詰められた砂利であり、頭が三本の木材を組み、斜めに付きだしている、といったその形状から名付けられたものであろう。

河川敷にも、蛇籠とか牛枠らしきものが点在する。多摩川はこの堰に少し上流、丸山付近で、ほぼ直角に曲がっているが、その水勢や水路を制御し、平時には効率よく見水を一直線に取水口に導き、増水時には護岸を守るために置かれているのだろう。
投渡堰と固定堰の境はスロープ状になっている。そこは、江戸の頃、奥多摩や青梅で切り出した木材を筏に組んで多摩川を下った、筏師たちのたの「筏通し場」の跡である、とか。
「きのう山さげ きょう青梅さげ あすは羽村のせき落とし」、と歌われた、多摩川の筏流し。奥多摩・青梅の山の材木を多摩川に流し(山さげ)、鳩ノ巣渓谷の岩場を超した沢井のあたりで材木を三枚に繋ぎ(青梅さげ)、羽村まで下る。羽村の堰ができるときは、筏師と工事関係者では一悶着あったことだろう。が、所詮、堰はお上の普請。筏師が敵うべくも無く、筏師は堰通過に細心の注意を払う、のみ。当初、堰の修理費は筏乗りの負担であった、とも。筏流しは羽村から六郷までおおよそ四日。日当も農作業の倍以上で、割りのいい仕事であった、よう。筏師の仕事は大正の頃まで続いたようである(『玉川上水・橋と碑と;蓑田たかし(クリオ)』)。

玉川水神社

奥多摩街道から羽村の水門と堰を眺め、さらにその少し上流にある玉川水神社と陣屋跡に進む。玉川水神社と陣屋跡は隣り合わせて並んでいた。玉川水神社は、承応3年(1654)、玉川上水の完成をもって、玉川庄右衛門・清右衛門兄弟が「水神社」を吉野の「丹生川上神社」より勧請した、と。「丹生川上神社」は白鳳時代、というから7世紀とか8世紀の創建と伝わる古社。「ミズハノメノカミ」「ミクマリノオオカミ」を祭神とする。もとは、「水神宮、などと呼ばれていたのだろうが、明治になって玉川水神社となった。水神社の境内には「筏乗子寄進灯籠」が残る。
玉川庄右衛門・清右衛門兄弟とは、玉川上水工事を請け負った兄弟。羽村在の加藤家の一族で、江戸で枡屋の屋号で割元、というから、土木工事への「人材派遣」を生業にしていた、とも、江戸柴口の商人とも諸説ある。上水完成の誉れ、として苗字帯刀を許され、「永代御役」をつとめ、年額二百石分の金子の給付をうけることになった。玉川の名を賜ったのは、その時以来である。玉川用水開削の計画は承応元年(1652)、川越藩主・松平伊豆守信綱等の幕閣により決定、町奉行神尾備守に多摩川を水源とする上水の開削の事業計画の立案を命じた。いくつかの業者の入札をおこない、工事請負代金六千両で玉川兄弟が落札。入札金額は九千両から四千五百両まで幅があり、その金額の妥当性については、水利事業のスペシャリストであり、上水計画の実施にあたっては上水奉行(道奉行)に就いた関東郡代・伊奈半左衛門の知見を重視した、とのことである。工事着工は承応2年(1653)4月、8ヶ月後の承応2年(1654)11月には、四谷大木戸まで、およそ43キロの上水路開削が完成した。江戸の町に水が流れたのは翌年、承応3年(1655)6月のことである。

家康が入府した頃の江戸は、低地は一面の汐入の地。日比谷の辺りまで入り江拡がっていた。その低湿地を埋め立て、武家屋敷や町屋の敷地をつくるも、問題は飲料水の確保。埋め立ててつくった江戸の町から掘り出す井戸水は塩気が多く、飲料水とはなり得ない。上水を確保すべく、赤坂に溜池を堀り、湧水を上水用としたり、小石川の水を上水としたり、井の頭の水を水源とする神田上水を整備するなどして江戸の町を潤すも、町の急速な発展には従来の上水網では追いつかず、多摩川からの水を江戸に導くことになった。これが玉川上水である。

陣屋跡
明和六年(1770)、玉川上水の管理を、それまでの民間の上水請負人を廃止し、幕府の直轄支配となってからの現地管理事務所、といったもの。「出役」と呼ばれる幕府の役人3名が三ヶ月交替で勤務。その下の、水番人や見廻り役を差配し、上水流量の増減による分水口開閉の立会、水路の巡視、塵芥の除去、四ッ谷大木戸水番人・御普請方役所への連絡、橋の監理などをおこなった。

羽村に2名、砂川村に1名(見廻り役)、代田村に1名、四ッ谷大木戸に1名、赤坂溜池に1名、計5カ所に六人の水番人を置き、砂川村以外には水番所が設けられていた、と(『玉川上水・橋と碑と;蓑田たかし(クリオ)』)。

幕府による上水管理・支配は幾度となくその支配替えをおこなっている。開削当初は玉川上水奉行・関東郡代である伊那半十朗忠治の支配下に玉川兄弟(玉川庄右衛門、清右衛門)が「上水役」としてその任にあった。江戸に5人の手代、羽村に二人、代田に一人、四ッ谷に一人の手代を置き、羽村大堰の管理、上水路の補修・維持管理を行い、水銀の徴収をおこなった。(『玉川上水・橋と碑と;蓑田たかし(クリオ)』)。
杉本苑子さんの『玉川兄弟』によれば、水の取水口の見込み違いなどで工事代金が増え、二千両を自己負担することになった庄右衛門・清右衛門兄弟に対し、関東郡代・伊那半十朗忠治が水銀の徴収の権利を与えるよう幕閣に訴えた、とある。また、別説では、当初、水銀の徴収といっても、単に集金業務だけであり、収入は幕府に入り、年額二百石の給付金では上水の維持管理・水銀の徴収のコストはまかないきれず、万治2年(1659)、二百石の給付金を返上する代わりとして、水銀の徴収による収入を認めてもらうよう玉川兄弟が幕府に訴え、それが認められた、ともある。どちらが正確か、門外漢にはわからないが、ともあれ、以降は水銀の徴収による収入で上水運営に関わるすべてのコストをカバーするようになる。
玉川上水奉行支配ではじまった玉川上水の運営体制であるが、寛文十年(1670)には、町年寄(奈良屋市右衛門、樽屋藤左衛門、喜多村彦兵衛)の支配下となる。町年寄って、江戸の町屋の自治支配体制の頂点であり、その町年寄は町奉行の支配下、と言うことであるから、結局は上水の支配役は町奉行の傘下となったと、言うことだろう。その頃までには四谷大木戸から江戸の町へと石樋や木樋で結んだ上水路整備も一段落し、上水の運営・支配は、上水工事担当役員から江戸の町の行政担当役員に担当替えした、ということ、かも。この町奉行支配も元禄六年(1693)には、道奉行支配となる。
元文四年(1739)には、玉川両家の上水管理業務は、その懈怠故に、職を免ぜられた、とある。その理由は定かでは、ない。定かではないが、単なる業務上の問題以上に、政治的な思惑が働いているように思える。そもそもが、水銀の徴収とは、使用・不使用にかかわらず、上水網がカバーする地域からは、有無を言わさず徴収するものであり、一種の税金のようなものである。その税金を一介の請負人に任せるのは幕府の官僚としては心穏やかならず、といったものであったろう。官僚は、機会を見てこの既得権益を取り戻そうと考えていたことと、思う。
その既得権益を取り返すきっかけには、武蔵野の新田開発への分水問題が大きく関係しているようにも思える。亨保7年(1722)、将軍吉宗の新田開発推進策を実行するため、武蔵野に多くの新田が開発され、そこに玉川上水からの分水を流した。従来、玉川家は、上水は水銀、灌漑用水は水料米として徴収していたが、武蔵野新田は水料を免除されていた、と言う。玉川家と武蔵野新田開発担当の幕府役人との間には、いろいろと軋轢が起きていた、と想像できる。こういった状況の中で、玉川家が起こした、なんらかの瑕疵を捉え、この時とばかり、罷免へと持ち込んだのであろう。支配役の担当替えが多かったのも、その一因とも思う。支配役が同じであれば、開削当時の状況も忖度し、開発の貢献者の子孫の水元役をすべて剥奪するといったこととは、違った状況になっていたか、とも思う。

それはそれとして、それにしても、散歩でいくつかの用水を訪ねたのだが、民間主導で行われた用水工事は最終的には、その功績を「無」とする傾向が武家側に多いように見受けられる。工期4年、延べ80万の人夫を動員し箱根の外輪山を穿ち、深良へと芦ノ湖の水を通した、希有壮大なる「深良用水」の工事請負人である江戸の商人・友野某の工事後の消息は不明である。獄死した、との説もある。箱根と言えば、箱根湯本から小田原の荻窪へと岩山を穿ち、「荻窪用水」を完成させた川口廣蔵については、個人の記録はおろか、工事の記録そのものもほとんど残っていない。稀代の事跡を商人如きに、との武家・小田原藩の作為の所作であろう、か。

玉川兄弟の罷免の後、町奉行の支配下に神田上水の請負人でもあった鑓屋町名主長谷川伊左衛門、大据町名主小林茂兵衛が、神田・玉川上水の監理をおこなう。明和五年(1769)には町奉行所管から普請奉行支配下に代わるも、翌年、上水請負人が廃止され、幕府の直轄支配となる。玉川兄弟が上水役から罷免され、わずか30年ほどで、幕府官僚の思惑通りの上水支配となった。陣屋跡からだけでも、あれこれ空想・妄想が拡がってしまった。玉川上水散歩の第一回は、実際は拝島を越え、西武拝島線・立川駅当たりまで下ったのだが、イントロのメモが少々長くなった。上水を辿る散歩のメモは次回から、とする。

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