「名勝 桜三里」の看板のある千原集落の食堂(休業中であった)近くに車を停め「庄屋井手」を求めて集落を彷徨ったわけだが、その途中、五社大明神の前の道に「讃岐街道」とあった。古の「金比羅街道」である。
「街道」という言葉に滅法弱い我が身としては、ここを先途とフックが掛かり金比羅街道を歩くことにした。ルートを想うに、どうせのことなら高縄山地の桜三里を核とした所謂「中山越え」を歩くことに。出発点は山地に入る松山側入口である東温市川上地区、そこから桧皮(ひわだ)峠を越え、桜三里を辿り千原集落へ。千原からは国道11号脇の山肌を進むであろう街道跡を辿り、鞍瀬川が中山川に合流する落合の手前で国道に下り、中山川を越えて松山自動車道を潜り、唐子川に沿って山道を進み、笹ヶ峠下の鞍部を抜け、里道を来見に進む。その後は時間次第で中山川に沿って金比羅街道が中山川を越える、往昔の渡し場である釜之口に向かうことに。
当初はひとり車で出掛け、先日訪ねた湯谷口の熊野神社辺りにデポ。川上地区までバスに乗り、そこから金比羅街道を歩き終えた後、そこから新居浜の実家に戻る予定であったのだが、幸運にも弟も一緒に歩けることになり、実家の車を私が運転し終点にデポし、そこから弟の車に同乗し出発点に置くことに。歩き終えれば終点にデポした車で出発点まで戻り、2台の車で実家に帰る、といった段取り。終点地のデポ地である丹原の国道11号湯谷口交差点近くの熊野神社に向かった。
本日のルート:斉院ノ木交差点の四里・里程石>川上地区>分署坂の金比羅道石碑>川上神社>名越座跡の道標>吹上池手前の常夜灯>小鳥越え>大鳥越え>三軒屋の常夜灯>永寿橋(五里・里程標跡)>桧皮峠への分岐点>桧皮峠への七曲り道>桧皮峠>札場の道標>土谷集落>曙橋>石仏>六里・里程標跡>峠茶屋跡>清水寺跡>馬の治療所跡>源太桜>為馬菩提地蔵>千原取水塔>ダムへの隧道>中山川逆調整池堰堤>国道11号に>千原集落・千原児童遊園>五社大明神>山道の藪漕ぎ>石垣が見える>ガレ沢>七里・里程石跡>木橋の架かる沢>石垣のある道>国道11号に>上落合橋を渡る>松山自動車道>おんびきさん>切り通し>旧道に>八里・里程石>中山川水管橋>釜之口井堰
斉院(さや)ノ木交差点の四里・里程石
車で国道11号を走り、高縄山地と四国山地を隔てる中山川に沿って進み、桜三里を越え東温市川上地区に。東温市と言ってもなんとなくピンとこない。昔の温泉郡川内町のほうが馴染み深い名である。平成16年(2004)、川内町は重信町と合併し東温市となった。
スタート地点をどこにしようとあれこれチェックすると、バイパスとなった国道11号と旧11号である県道334号が分かれる東温市斉院ノ木交差点に金比羅街道の「里程石」があるとのこと。どうせのことなら「里程石」をスタート地とすることに。
■四里・里程石
○斉院
ところで、この斉院、「さいいん」と読むのかと想ったのだが「さや」と読むようだ。松山市内の西部にも斉院という地名があり、そこも「さいいん」ではなく「さや」と読む。
元は齋院(さいいん)。齋院とは京の加茂神社に奉仕する皇女である齋王に朝廷から贈られた領地のこと。松山には、天暦元年(947年)に、京の上賀茂神社の”斎院”(さいいん)に勤めていた一色式部大輔氏勝が、この地に「賀茂神社」と「高家八幡神社」を勧請した。ために、斎院という地名になった、と伝わる。とはいえ、「さいいん」が「さや」に転化した理由は不明である。
○松山城からこの地までの金比羅街道のルート
いくつかのルートもあるようだが、これはそのひとつ;
松山城の高札場があった札の辻>県庁前から勝山通り>石手川の新立橋>南東に一直線に進む>一里木バス停近くの桑原公民館前に「札辻より壱里」の木の標識(松山藩が元文五年(1740)標識を耐久性のある石柱に代えるまで木製の里標識だったので「一里木」の地名が残ったという)>更に南東に進み東雲女子大交差点>県道40号を南に下り>県道334号(旧国道11号)、伊予鉄横河原栓を越え>川を渡りしばらく進み東に折れ一直線に進む>途中に「松山札之辻二里」と刻まれた道標>県道40号を越え、伊予鉄横河原線・鷹ノ子駅辺りから伊予鉄横河原線に沿って東に進み>伊予鉄横河原線・平井駅辺りから県道209号に乗り換え、川を渡り伊予鉄横河原線を東に渡り県道334号>県道334号を東に進み志津川を渡り>松山自動車道・志津川交差点を東に進み愛大病院を進む>途中内川を渡る辺りに「三里石」があった、とのこと>県道334号を着かず離れず進み>齋院ノ木交差点に
川上地区
道の傍には趣のある屋敷が建つ。旅籠跡のようである。古代の「川上駅」からの歴史をもつ川上地区には明治以前からの宿場町として、いくつもの宿屋、造り酒屋、鍛冶屋、当時は珍しかった風呂屋などがあった、と言う。
電灯なども地元篤志家の努力により他の地区より早く灯った川上地区であるが、伊予鉄が川上地区の少し西の横河原まで通ったことをきっかけに、商業の中心は横河原地区に移り川上地区は次第にその繁栄を失っていったと言う(愛媛県生涯学習センターンHPの「愛媛の記憶)より:以下「愛媛の記憶」)。
○分署坂の金比羅道石碑
○石垣
石垣は中世、鎌倉時代に築かれたものもある、と。石組みも、大きな岩盤を燃やし、水で一気に冷やしひび割れをつくり、それを玄翁で割り石を積み上げたとのことである(「愛媛の記憶)より)。
○川上神社
宝物の古文書によれば、応永4年伊予国司河野通久が社頭を決定し同34年社殿を再建して河野家の祈願所と定めた。後に松山藩主の祈願所となった。古記録によれば大宮社、河上社、河上大宮社、稲荷五社大明神等とも称えられたという。
明治4年郷社列格とともに川上大宮五柱大明神と改め、同28年川上大宮五柱神社、昭和18年9月15日川上神社と改称した」とあった。
■川上神社古墳
前方後円墳とも、方墳、長円墳など諸説ある。副葬品などから終末期古墳で、地方の有力首長の墓とされる。開口された東側の石室は全長7m、玄室の長さ2.65m、幅2.1m、巨石を使った古墳として知られる。特筆すべきは、馬具類。県下出土の馬具の数は比類すべきものはない」とあった。
名越座跡の道標
先に進むと三叉路に。その分岐点に道標が立つ。「左こんぴらみち 右名こへこんぴらへ一里」とある。「名こえこんぴら」って?チェックすると、国道11号を1.5キロほど東に進み、宮の谷交差点で国道494号を南に下った辺りにある「河之内の名越金比羅寺」のことであった。また、この道標はその昔、名越座と呼ばれる芝居小屋があったとのことである。
○川内と川上
往昔の川上宿が何故、川内町に?ちょっと気になりチェック。事は簡単。温泉郡川上村と三内村が昭和30年(1955)合併し、できたのが「川内町」。ふたつの村の「顔がたつように」造った町の名が「川(上)+(三)内」」町、と言うことであろう。
吹上池前の常夜灯
ところで、川上地区のしかるべき所に車をデポする予定が、ここまで車で来てしまった。この先も舗装道路であり、舗装道路を歩くのもなんだかなあ、ということで、舗装道路が切れる辺りまで車で進むことに計画を変更。車で先に進む。
○桜三里
温泉郡川内町川上(現在の東温市川上)から周桑郡丹原町湯谷口(現在の西条市湯谷口)までの間、中山川に沿ったこの山間部を越える道を往昔「中山越え」と称した。その中山越・三里の街道沿いに、貞享4年(1687年)に松山藩の代官矢野五郎右衛門源太が8,240本の桜を植えたのが「桜三里」の名前の由来。江戸の頃は多くの桜で旅人の旅情を慰めた桜三里も、千原鉱山の煙害のため大正期には枯れ果て、現在では「源太桜」二本を残すのみとなっている(千原鉱山や源太桜は後ほどメモする)。
小鳥越え
大鳥越え
車を進め、松瀬川を渡ったところで、丘陵へと上る道を進む。坂を上り倶楽部ハウスの手前にゴルフコース下を抜いたトンネルがある。金比羅街道はこのトンネル辺りを進むようであるが、如何にも狭い。軽四がかろうじて通れると言ったもの。入口には点燈スイッチがあり、赤と緑のシグナルにより逆側にトンネルに入ることを知らせるようである。
トンネルを抜けるか、抜けれるか、ちょっと悩む。と、坂を上って来た軽四がスイッチを押し中に入っていった。が、どうしても、自分たちの車は入れそうもない。結局国道11号まで戻り、ゴルフ場のある丘陵の東の谷、本谷川筋を北に向かう県道327号に入り、トンネルを抜けたところまで迂回することに。 この丘陵越えを「大鳥越え」と称したようである。また、「小桧皮峠」とも称された、と。
三軒屋の常夜灯
永寿橋(五里・里程標跡)
三軒屋の常夜燈を離れ、県道327号に戻る。金比羅街道はこの県道327号と平行に、時に合わさりながら北に進む。しばらく進み、北東に道が分岐する先の本谷川に真新しい永寿橋が架かる。往昔、橋の袂には、石の「松山札辻より五里」の里程標があったようだが、現在はなにも、ない。
桧皮(ひわだ)峠への分岐点
道を右にとると、ほどなく青汁の工場があり、桧皮峠を越える道は、県道を離れ、この工場の道を東側を上ることになる。
○水越・篠森神社
桧皮峠への七曲り道
桧皮峠
札場の道標
道を成り行きで下ると札場の集落。道脇に「金毘羅大門より二十五里、土州久萬山道、右名越金毘羅へ一里」と刻まれた道標が建っていた。「金毘羅大門より二十五里」とは讃岐の金比羅さんまで25里、「土州久萬山道」は土州=土佐、久萬山道とは現在の久万高原町であり、久万高原町は、かつては「久万山」とか「久万郷」と呼ばれていたようである。
「右名越金毘羅へ一里」とは既にメモした県道494、河之内の名越金比羅寺のこと。この札場あたりの集落は金比羅寺の檀家であり往昔は、現在国道11号(バイパスではない)の河之内隧道のある山を越え金比羅寺へと向かった、と言う。
「讃岐の金比羅さんまで25里は文字」と刻まれた側面の「土州久萬山道」には手形が描かれており、その示す方向は右方向となる、つまりは、道を右にとると,土佐・久万 へと通じる道であり,河之内にある名越金毘羅にも通じることを示しているようだ。
札場は現在は静かな農村であるが、往昔は旅籠もあり交通の要衝の地であったのだろう。札場の由来も、人々の往来賑やか故に告知板=札が立つ場(地)であったのだろうか。単なる妄想。根拠なし、
土谷集落
○源太桜の案内
源太桜の案内には、「山腹の杉木立の中、旧桜三里街道に並ぶ二本の桜がそれである。貞享4年(1687年)に田野の代官矢野五郎右衛門源太は藩命を破り金比羅街道の川内町桧枝峠から丹原町落合に至る三里の間に8240本の桜を植えた。その時、深い谷川から急坂をあえぎあえぎ水をかつぎあげ桜に水を汲んだであろう、 人々はその過酷な労働に堪えかねて「桜三里は源太が仕置き 花は咲くとも実はなるな」、と怨嗟の謡を残した。以降、この道を桜三里と呼んだと言う。
桜はその後千原鉱山の煙害などでほとんど枯れてしまい、この桜がそのとき植えられたものかどうかわからないが、ともかく300年以上生き延びて、春には 見事な桜を咲かせている ふるさと桜三里会」とあった。
■六里・里程標
案内図の前に「松山札の辻より六里」と刻まれた石標があるが、如何にも新しく、最近造られたレプリカではあろう。また里程標の在った場所も、この先の森の中にあったようである。
橋の袂の「源太桜・旧金比羅街」の示す方向は道幅も狭く、大雑把な案内ではあるが源太桜の案内のところにある地を見ても、とても車で行けそうもない。ということで、土谷橋を渡り、国道11号の広いスペースに車をデポ。 当初、高縄山地の西・川上地区(昔の温泉郡川内町)にデポするつもりが成り行きでこの地まで車で移動することになった。ここ土谷から所謂散歩にでかけることになる。
曙橋
○鞘橋
鞘橋とは?気になりチェック。Wikipediaによれば、鞘橋(さやばし)は、琴平町を流れる金倉川に架かる橋。銅ぶき、両妻唐破風(りょうづまからはふう)、上屋根千鳥破風の屋根付橋である。十返舎一九の金毘羅道中膝栗毛の中には、「上の覆ふ屋形の鞘におさまれる御代の刀のようなそりはし」と書かれており、当時から珍しい形状の橋であったと考えられている、とのこと。
「曙橋は中山川に架かる鞘橋で」との記述の意味は、昔、金毘羅の鞘橋(さやばし)を造った大工が架けたことに拠る、と。橋には杉皮で葺いた屋根のある珍しい橋であったようだが、レプリカとしてこの地に置かれた曙橋の屋根は木造ではあった。
石仏
■六里・里程標跡
杉林の中、沢に沿ってしばらく北に進むと、右に曲がった辺りの北側に耕地らしきものが見える。この辺りに「松山札辻より六里」の里程石があったようだが、現在は行方不明とのこと。
峠茶屋跡
「伊予路の歴史と伝説(合田正良編著)」には、こんな話が残る。「その昔、殿様が中山越えを通り、茶屋で休憩。旅人の旅情を慰めるべく桜を植えることを代官の矢野五郎佐衛門に命じ、道の両側に8400本の桜を植えた。5年も経つと花を咲かせ、その見事な景観をして「桜三里」とよばれるようになり、村も「桜樹村」と称するようになった、とか。
それから年月を経るうちに桜も枯れ始め、当時の殿さまが林源太兵衛に桜の修理を命じたが、源太兵衛は事を急ぎ、村人に負担多く、「桜三里は源太のしおき、花は咲くとも実はなるな」と唄われたと云う。前述の源太桜の説明と異なるが、伝説とはこういったものであろう。
清水寺跡
馬の治療所跡
この先、林道は下りとなり、林道の左手に旧道が残る。旧道を進むが、ほどなく再び林道と合流。その地点で再び旧道は林道から離れ山道に入る。ちょっとしたアップダウンを繰り返し、旧カーブする道脇に「順路」の案内。その先は左手が開け源太桜のある盗谷(ぬすっとだに)とも呼ばれる谷に到着する。
源太桜
源太桜は現在2本残る。幹も立派である。春の頃、源太桜を見るために訪れた写真を掲載する。現地にあった「源太桜」の案内によれば、「市指定天然記念物 源太ザクラ 指定年月日 昭和56年11月26日 所在地 東温市河之内
説明
この桜の植え付けには、松山藩の囚人が使われたといわれている。その作業は大変厳しいもので、松山藩士矢野五郎右衛門の通称である源太の名をとり、「桜三里は 源太が仕置き 花は咲くとも実はなるな」と詠ったと言い伝えられている(東温市教育委員会)」。
土谷の説明、伝説、そしてこの地の案内と、それぞれ説明内容は異なるが、それはそれとして受け入れるべし。
源太桜を後に道を進むと、ちょと下りとなる。その下り口に「為馬菩提地蔵」の案内。案内には、「為馬菩提地蔵(対岸);昔、馬を数珠繋ぎで追っていた。一頭が流されると次ぎ次ぎと川に流され死んでしまった。その後ここを通ると馬の鈴音が聞こえる。その為、流された馬の供養のために建てられたものと云われる」とあった。
千原取水塔
ダムへの隧道
中山川逆調整池堰堤
ダム湖は正式には「中山川逆調整池」。先回の丹原利水史跡散歩の時にメモしたように、「西条 水の歴史館」のHPに掲載された資料に拠れば「道前道後平野は瀬戸内海に面し雨量の少ない地方にあるため河川の流量が少なく、たびたび干魃の被害を受けてきました。このため、昭和32年から10年かけて面河ダムや道前道後平野に水を送る施設を国(農林水産省)がつくりました。
因みに「逆調整池」とは、「ダムの上流に水力発電所がある場合、昼間と夜間の電力需要が著しく異なるため、昼間の流下水量と夜間それが大きく異なる。ために、下流への流下水量を調整し一定の水量を下流に流すためつくられるダムや堰堤のことを意味するようである。
逆調整池と称される所以の発電所は「道前道後第三発電所」と呼ばれ、中山川逆調整池の上流にある。四国山地の仁淀川水系割石川に建設された面河ダム(1967年竣工)の水を面河ダム直下にある道前道後第一発電所に水を落とし、その水を石鎚山脈の地中を貫く導水用水路で送水し、滑川にある道前道後第二発電所に。そこで発電に水を利用した後、再び山中に掘られた導水用水路を走ってこの道前道後第三発電所に水を送っているようである。
ダムの堰堤から左手を見ると、堰堤から導水路を通り中山川に放水されている。その水は先回散歩した劈巌透水路の少し上流に造られた中山川取水工で取水し、両岸分水工で右岸幹線水路と、左岸幹線水路に分水され道前平野を潤す(詳しくは「伊予・丹原散歩;丹原のの利水史を辿る」をご覧ください)。道後側にはダム湖に造られた千原取水灯で取水され道後平野を潤すことは既に述べた通り。
国道11号に
が、国道から五大明神までの道筋ははっきりしない。ということで、国道を少し東に向かった辺りにある、落石防止・土砂崩れ防止のコンクリートの遮蔽物と山肌の間にある隙間を抜けて千原の集落へと向かう。
山肌に上ったものの、道があるわけでもないので、藪漕ぎである。急斜面に植えられた「ハナシバ」の間を縫って成り行きで進むと、斜面も次第に緩やかとなり畑が現れ、その向こうに先日の丹原利水史跡散歩で出合った五大明神辺りらしき雰囲気の地が見えてくる。成り行きで畑下を迂回して道なりに進むと舗装された道と合流。五大明神の少し上、大きく開けた平坦地の前を下る金比羅街道に出た。
千原集落・千原児童遊園
○千原の集落
「愛媛の記憶」に拠れば千原の集落は、「桜樹村地区の西端に千原の集落がある。集落は上千原・中千原・下千原の三つの小集落から構成されているが、その三集落は標高二〇〇~四五〇mの西向きの山腹緩斜面に連なって立地する。千原の集落の立地する緩斜面は、桜樹地区で最大のものであるが、これは地すべり地に由来するものである。集落は散村状をなして山腹斜面に展開し、また随所に水田がみられるが、これは地すべり地特有の湧水が各所にあり、それが飲料水と灌漑水を提供していることによるものである」とある。また、日本歴史地名体系39」によると、千原村 は宝永7年(1710) 田 4反4畝であったものが、明治初年(1868) には田 6町8反余、との記載があった。先人の努力の賜であろう。
○千羽ケ岳と千原鉱山
で、千原鉱山が本格的に稼働はじめたのは明治になってから。明治35年(1902)以降、近代的鉱山として形が整えられ、明治37年(1904)には千原鉱山精錬所、大正8年(1919)には千原鉱山専用発電所(鞍瀬上城谷下流)が完成し、硫化鉄鉱や銅鉱を採掘・精錬した。
しかし、山峡の地での精錬は甚大な煙害問題を起こすことになる。精錬所のできた明治37年(1904)には既に煙害が農作物に及ぼす悪影響が問題となり、中川村村長である越智茂登太氏(劈巌透水路の改修にも貢献した人物)などを中心に被害地域3ヶ村(桜樹村・中川村・石根村)が団結し、国、県、鉱山側とねばり強い交渉を続けた結果、大正3年(1914)千原鉱山は製錬を中止することになる。
因みに、この千原鉱山の煙害問題と同時期に別子銅山四坂島精錬所の煙害も発生し、周桑郡の14町村が煙害調査会を発足させ、住友と折衝することになる。 この地での精錬を中止した千原鉱山は、その後も都度都度休業しながら操業を続け、終戦後の昭和23年(1948)に再開するも、昭和38年(1964)に廃鉱となった。「愛媛の記憶」には、国道11号の南の斜面・中千原の辺りに鉱山に働く人々の社宅の写真があった。
■桜三里と千原鉱山
ヒガンザクラやヤマザクラを除いて一般にサクラの寿命は短く江戸時代に植えた桜は百年後にはほとんど枯れてしまった。残っていたものも大正初期の千原(ちはら)鉱山(昭和38年〔1963年〕閉山)の鉱毒によってほとんど全滅してしまったが、源太桜(エドヒガンサクラ)は気流の関係で今に残っている。今日古老が語る「桜三里」は、国道31号に植えられたサクラであるが、これもほとんど枯れている。国道11号には、川内町が緑化推進運動の一環として、新桜三里の景観づくりを目指し、昭和38年(1963年)にボタンザクラ100本・ソメイヨシノ100本、昭和39年にソメイヨシノ193本を徳吉(とくよし)・田桑(たぐわ)間に植えており、これが現在、桜の名所となっている。
五社大明神
山道の藪漕ぎ;11時57分
取り敢えず坂を上り、沢を渡り山道に入る。が、ほどなく道は消え、全くの荒れた竹藪。前を覆う枝を折りながら先に進む。弟がいたので先に進めたが、独りでは即撤退といった強烈な藪こぎとなった。
石垣が見える;12時5分_標高241m
藪の中、緩やかなアップダウンしながら10分弱進むと石垣が見えた。金比羅街道の石組みであろうと石垣の上に。道幅も結構広く風情が感じられる。なんとか金比羅街道に辿り着いたようである。それにしても、成り行きで進み、よく道筋に出合ったものである。
ガレ沢;12時21分;標高244m
■七里・里程石跡;12時33分_標高230m
ガレ沢からは道は下りとなり、坂を下りきった辺りから再び道が荒れてくる。その昔、この辺りに「松山札辻より七里」の里程標があった。その後「里程標」は国道沿いの「七里茶屋」の前に置かれていたようだが、その店も現在東温市北方に移っているようだ。里程標は何処?
道を遮る竹を潜ったり・折ったりを繰り返しながら5分程度進むと(標高230m)、しっかりした道跡となる。こんな山中に、こんな道幅の広い道は電力会社の作業道とか林業作業者の作業道とも思えず、この道は金比羅街道であることを確信した。
木橋の架かる沢;12時56分_標高210m
○国道11号の変遷

明治35年(1902年)、国道31号が松山から香川まで大改修されたが、それをたどってみると、米田屋の前を右に折れ渋谷川に向かい渋谷橋を渡り、吹上池の南側を通り滝之下橋を経て、一部現在の国道11号を走り滝の下バス停あたりから松瀬川沿いに松山自動車道の下を走り、船野山の山際を桧皮峠に通じており、途中で旧街道と合流し土谷にいたり、土谷から丹原町湯谷口までは現在の国道11号と同じである。国道31号は、車時代の先駆けとして道幅を広げ曲がりくねりを少なくした道であったはずだが、現在は地元の者しか通らない道となり、その道沿いで生活していた人たちは大きく生活が変化することとなった(「得愛媛の記憶」より)。
石垣のある道;13時5分_標高196m
国道11号に;13時20分_標高193m
上落合橋を渡る;13時33分_標高105m
と言われても、更に道を下って落合橋辺りまで進み、大きく迂回する元気もなく、「自己責任」と言い聞かせ橋を渡る。橋は上落合橋かとも思うのだが、橋の名は記載されておらず確証はない。なお、橋は朽ちているわけでもなく、割としっかりしていた。
松山自動車道;13時38分_標高130m
おんびきさん;13時51分_標高177m
「おんびきさん」って愛媛の方言(香川も)では「蛙」のことである。正確には「ヒキガエル」のことで、「ヒキ」に敬語の「御(おん)」がついたもの、とか。蛙は家の守り神といった民間信仰に拠るのだろうか。 それはともあれ、蛙が何故に喉の病気に効くのか定かではないが、頭より大きく膨らむ蛙の喉にその因があるように思える。
切り通し;13時53分_標高195m
旧道に;13時55分_184m
■八里・里程石;14時20分_標高85m

中山川水管橋;14時25分_標高70m
釜之口井堰
釜之口井堰には金比羅街道に関する3つの石碑があり、「右こんひら道長野村中」「金毘羅大門より二十二里」、「旧金比羅街道渡舟場跡」と刻まれている(「釜之口井堰」に関する詳しい説明は「伊予・丹原散歩 そのⅡ」をご覧ください)。
本日の散歩はこれでおしまい。成り行きで進み、結果的にルートの半分以上は車移動となったが、千原集落からの旧道の発見(?)もあり、結構満足した散歩」となった。