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馬道と馬車道(Google Earthで作成) |
また、復路は明治の頃開削された馬車道を小足谷川から車デポ地である大永山トンネル南口に向けて歩く、と。馬車道と言う言葉の響きから、これも平坦な道をイメージしていたのだが、難所・険路の数は馬道に比べて少ないものの、その危険度は馬車道が勝る、結構怖い道であった。よくよく考えれば、馬道は百年も前に廃道となったものであり(馬車道がいつ頃まで使われたか不明)、道が崩壊していても何も不思議ではなかった。
それはともあれ、廃道といえば、いつだったか明治の頃開削された青梅街道(Ⅰ、Ⅱ)を歩いたことがあるのだが、東京では奥多摩の山奥、山梨近くまで行かなければ出合えない。そんな結構しびれる廃道歩きが、実家から1時間弱のところで少々怖くはあるが楽しめた。旧別子にはいくつもの馬道コースがある、という。来年のお楽しみがまたひとつ増えた。

大永山トンネル南口・車デポ地:7時43分(標高986m)
午前7時、かつて別子銅山の鉱山社宅・新田社宅のあった山根グランドに集合。国領川上流の別子ラインに沿って県道47号・新居浜別子山線を進む。鹿森ダムの上流で小女郎川を分け足谷川と名を変えた川筋を走る。川は支流を分け、西鈴尾谷川となった川筋に中鈴尾谷川が合わさる手前辺りから、山肌をヘアピンカーブでグングン上ってゆく。
昔走った頃に比べて気持ち道が広くなったように思うのは気のせい?などと考えている間にトンネルに入る。大永山トンネルだ。総延長1159.0 m、幅6.5 m、高さ4.5 m、平成2年(1990)11月開通。もっと昔からあったように思ったのだが結構最近のことであった。このトンネルの開通によって、陸の孤島であった銅山川筋の別子山村が愛媛の東予、西に下って徳島・高知と結ばれることになった。
小滝;7時58分(標高1.003m)
尾根筋・馬道合流8時35分(標高1,185m)
●「遠町」
元禄3年(1690)、旧別子山村の足谷山に銅の大鉱脈を見つけ、翌元禄4年より開坑された別子銅山は、江戸中期(17世紀中頃から18世紀中頃まで)には「遠町深舗」と称される鉱山固有の現象のうち、特に「遠町」と呼ばれる状況に直面する。「遠町」とは周辺の森林が伐採され尽くし、焼鉱・溶鉱に必要な薪炭が不足することを意味する(「深舗」は坑道が深くなること)。
旺盛な焼鉱(窯場)・溶鉱(床屋)のため、開坑の地、旧別子村の森林が薪炭の確保のため伐採され、またその焼鉱の過程で発生する煙害(流煙;亜流酸ガス岳による森枯れにより、「遠町」の状況に直面し、新たに薪や炭の供給地が必要となった。
●加茂川最奥部からの炭の道
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西条から旧別子までの馬道(Google Earthで作成) |
◆宿
炭の集積所であった「宿」には馬方人足の長屋が建ち並んだとのこと。二百名もの人足が八十頭もの馬を使い、一日一往復の行程で炭を銅山に運び、帰りは銅山子購買所で味噌・醤油を持ち帰った(「親子三代笹ヶ峰物語」)とのこと。 ◆炭の道の終焉
江戸中期よりはじまった馬道(炭の道)も明治30年代にはチチ山北麓が大崩壊し道が寸断され、明治38年(1905)には焼鉱・精錬所が瀬戸内の四阪島に移るに及び、馬道(炭の道)はその役割を終えた。
●大阪屋敷越
馬道のルートに登場した大阪屋敷越は、地図をみると登山道と尾根筋合流点のすぐ西にある。当初、馬道途中の中継地かと思ったのだが、チェックすると、この地名は別子銅山ではなく、立川銅山に関りのある地名であった。
大阪屋とは大阪屋久左衛門という立川銅山の経営者の屋号。別子銅山開坑の数十年前に綱繰山西麓に開坑し、その小屋がけを大永山トンネル北の稜線にした、とのこと。その場所が大阪屋敷越辺りのようである。
別子銅山開坑の頃は、尾根の稜線の北は西条藩、南は天領であり、立川銅山は西条藩内にあった。その後、宝永元年(1704)立川銅山のある立川村は幕領になり、立川銅山も宝暦12年(1762)別子銅山に吸収合併された。
なお、大阪屋は拠点を東北に移し、明治まで鉱山を経営し、大商人として活躍したようである。
馬道分岐;8時49(標高1,198m)
ひとつは道なりに進み尾根筋の少し南や北を巻き気味に、金鍋越を経て綱繰山(標高1466m)に向かい、西山(標高1428m)手前から銅山嶺北嶺を小足谷川筋に向かって下ってゆく。
もうひとつのルートは今回我々が辿る道。標識の右手の藪に入り、おおよそ等高線1200mから1250m辺りを「水平」に進み、最後に小足谷川筋に下る。小足谷川の谷筋の上流部は奥窯谷と呼ばれるようだし、明治に造られたものではあるが高橋精錬所などがあるので、一帯に焼鉱(窯場)・溶鉱(吹床屋)があったのだろう。
広い道に出る:8時55分(標高1,197m)
が、ほどなく平坦な広い道に出る。雪が残る広い道は5分以上続き、これが続くのか、とは思ったのだが、残念ながら再び道が切れる(9時4分)。
最初の沢;9時15分(標高1,194m)
2番目の沢;9時27分(標高1,207m)
沢と朽ちた木橋;9時46分(標高1,190m)
広い道のその先に木橋があった。木は朽ちており、沢に下りて木橋を迂回。橋の両端はしっかりと石が組まれていた。
広い道が現れる;10時2分(標高1,194m)
木橋を迂回した先はザレの度合いが酷くなってくる。時に右手が谷に切れ込んだ箇所もあり、気が抜けない。平坦な水平路とは程遠い難路である。10分強歩き、支尾根を廻り込むあたりでしっかりとした広い道に出る。
沢と朽ちた木橋;10時9分(標高1,201m)
先に木橋がある。2本の木を渡しているが、朽ちており、沢に下りて迂回することになる。
沢;10時14分(標高1,208m)
沢;10時34分(標高1,247m)
登山道に合流;10時39分(標高1,240m)
沢と朽ちた木橋;11時2分(標高1,263m)
沢と朽ちた木橋;11時15分(標高1,225m)
沢;11時22分(標高1,241m)
平坦地;11時32分(標高1,202m)
沢と木橋;11時44分(標高1,191m)
鉄塔巡視路分岐点;11時57分(標高1,185m)
何時だったか端出場発電所導水路跡(Ⅰ、Ⅱ)を歩いたとき、「住友共同電力高萩西線48番鉄塔」があったので、北に向かうほど鉄塔番号が増えるようである。
ここで道が複数現れる。上側にしっかり踏み込まれた道、その下に鉄塔巡視路といった道がある。どちらを進むか少々迷う。結局上の道を進んだのだが、オンコースは鉄塔巡視路道であった。
間違い道を戻る;12時47分
小雪も舞ってきた12時20分頃、弟が先の支尾根辺りを偵察に行き、無難に谷筋に下りルートは無いと判断し撤退を決める。来た道を20分ほどかけて元の鉄塔巡視路分岐点まで戻る。鉄塔巡視路分岐点で少し休み、13時前に鉄塔巡視路を下る。
鉄塔巡視路を下る;12時50分(標高1,185m)
右手に大きな滝が見える;13時16分(標高1,086m)
銅山峰登山道に出る・目出度町分岐;13時21分(標高1,069m)
小足谷川筋に出ると橋が架かる。小足谷川を渡ると「木方・東延」ルートでの銅山越えの登山道、川の右岸をそのまま左に上ると「大山積神社・目出度町」ルートでの銅山越えの道。右手にも橋が架かっているが、この沢が奥窯谷かもしれない。ともあれ、この谷筋が元禄4年(1691)、泉屋(住友)によって開かれた別子銅山発祥の地である。
江戸から明治・大正初期まで別子銅山の採掘・選鉱・焼鉱・溶鉱がこの谷筋の各所で行われ、それ故にいくつものルートを通り、焼鉱・溶鉱に必要な薪炭がこの谷に向かって運ばれてきたわけである。

今回のメモはこれでお終い。復路のメモは次回に廻す。
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