月曜日, 1月 02, 2017

伊予 別子銅山廃道散歩 そのⅠ(往路);馬道(炭の道)跡から旧別子、そして馬車道跡を辿る廃道周回

暮れも押し迫った頃、弟から別子銅山の馬道(炭の道)を歩こうとのお誘い。馬道は江戸の頃から明治にかけて、粗銅精錬の焼鉱・溶鉱に欠かせない炭を運んだ道と言う。西条の笹ヶ峰北嶺から尾根筋を進み、大永山辺りから尾根をはずれ、水平道として旧別子の小足谷川筋に設けた粗銅精錬のための焼鉱・溶鉱所に薪炭を運んだ、とのこと。
馬道と馬車道(Google Earthで作成)
弟は笹ヶ峰から大永山辺りまでの馬道は歩き終えているようなのだが、それ以東は未だ歩いていないとのこと。既にその道を歩き終えた山仲間からの情報によると、平坦な水平路とのことで誠にお気楽に出かけたのだが、実際はとんでもない難路・険路ではあった。
また、復路は明治の頃開削された馬車道を小足谷川から車デポ地である大永山トンネル南口に向けて歩く、と。馬車道と言う言葉の響きから、これも平坦な道をイメージしていたのだが、難所・険路の数は馬道に比べて少ないものの、その危険度は馬車道が勝る、結構怖い道であった。よくよく考えれば、馬道は百年も前に廃道となったものであり(馬車道がいつ頃まで使われたか不明)、道が崩壊していても何も不思議ではなかった。

それはともあれ、廃道といえば、いつだったか明治の頃開削された青梅街道()を歩いたことがあるのだが、東京では奥多摩の山奥、山梨近くまで行かなければ出合えない。そんな結構しびれる廃道歩きが、実家から1時間弱のところで少々怖くはあるが楽しめた。旧別子にはいくつもの馬道コースがある、という。来年のお楽しみがまたひとつ増えた。

本日のルート;大永山トンネル南口>小滝>尾根筋>馬道分岐>広い道に出る>最初の沢>2番目の沢>沢>広い道が現れる>沢と朽ちた木橋>沢>沢>登山道に合流>沢と朽ちた木橋>沢と朽ちた木橋>沢>平坦地>沢と木橋>鉄塔巡視路分岐点>間違い道を戻る>鉄塔巡視路を下る>右手に大きな滝が見える>銅山峰登山道に出る・目出度町分岐

大永山トンネル南口・車デポ地:7時43分(標高986m)
午前7時、かつて別子銅山の鉱山社宅・新田社宅のあった山根グランドに集合。国領川上流の別子ラインに沿って県道47号・新居浜別子山線を進む。鹿森ダムの上流で小女郎川を分け足谷川と名を変えた川筋を走る。川は支流を分け、西鈴尾谷川となった川筋に中鈴尾谷川が合わさる手前辺りから、山肌をヘアピンカーブでグングン上ってゆく。
昔走った頃に比べて気持ち道が広くなったように思うのは気のせい?などと考えている間にトンネルに入る。大永山トンネルだ。総延長1159.0 m、幅6.5 m、高さ4.5 m、平成2年(1990)11月開通。もっと昔からあったように思ったのだが結構最近のことであった。このトンネルの開通によって、陸の孤島であった銅山川筋の別子山村が愛媛の東予、西に下って徳島・高知と結ばれることになった。

長いトンネルを抜け銅山川の谷筋に出る。笹ヶ峰山麓の「宿」から尾根筋を進む「馬の道(炭の道)への取り付口は、この大永山トンネルの南口から。トンネルを出たすぐの広いスペースに車をデポし尾根筋へと向かう。

小滝;7時58分(標高1.003m)
銅山川上流部、中七番川に沿って進む。等高線にほぼ平行に平坦な植林の中を10分強進むと、中七番川のナメ滝脇に出る。 沢に沿って等高線を斜めに、緩やかな傾斜の道を10分強歩き沢右岸に渡る(8時16分)。その先も等高線を斜めに緩やかな山道を20分ほど進むと尾根筋に出る。



尾根筋・馬道合流8時35分(標高1,185m)
登山道と尾根道はT字に合わさる。その尾根道は西条方面から続く馬道でもある。馬道は「炭の道」とも呼ばれる。銅山嶺南麓の別子銅山の粗銅精錬(当初山元でつくられた粗銅は大阪の吹屋に送られ銅とした)に必要な炭を運ぶ道である。当時、粗銅1トンを作るには鉱石?トン、薪6トンと木炭4.8トンを要したという。

「遠町」
元禄3年(1690)、旧別子山村の足谷山に銅の大鉱脈を見つけ、翌元禄4年より開坑された別子銅山は、江戸中期(17世紀中頃から18世紀中頃まで)には「遠町深舗」と称される鉱山固有の現象のうち、特に「遠町」と呼ばれる状況に直面する。「遠町」とは周辺の森林が伐採され尽くし、焼鉱・溶鉱に必要な薪炭が不足することを意味する(「深舗」は坑道が深くなること)。
旺盛な焼鉱(窯場)・溶鉱(床屋)のため、開坑の地、旧別子村の森林が薪炭の確保のため伐採され、またその焼鉱の過程で発生する煙害(流煙;亜流酸ガス岳による森枯れにより、「遠町」の状況に直面し、新たに薪や炭の供給地が必要となった。

加茂川最奥部からの炭の道
西条から旧別子までの馬道(Google Earthで作成)
供給地はいくつもあったろうが、その一つが西条の加茂川最奥部の集落。中之池、黒代、川来須、笹ヶ峰周辺で焼かれた炭を、天ヶ峠を越え、笹ヶ峰北麓の「宿」の集積所に集める。そこからチチ山北麓を巻き、西山越から大阪屋敷越を経てこの地に至り、複数の道を辿り奥窯谷(目出度町分岐先の小足谷川の谷筋だろう)から高橋精錬所(この精錬所は明治にできたもの)辺りにあった溶鉱炉、というか焼鉱のための窯場・溶鉱のための吹床屋に運ばれたようである。
宿
炭の集積所であった「宿」には馬方人足の長屋が建ち並んだとのこと。二百名もの人足が八十頭もの馬を使い、一日一往復の行程で炭を銅山に運び、帰りは銅山子購買所で味噌・醤油を持ち帰った(「親子三代笹ヶ峰物語」)とのこと。 ◆炭の道の終焉
江戸中期よりはじまった馬道(炭の道)も明治30年代にはチチ山北麓が大崩壊し道が寸断され、明治38年(1905)には焼鉱・精錬所が瀬戸内の四阪島に移るに及び、馬道(炭の道)はその役割を終えた。

大阪屋敷越
馬道のルートに登場した大阪屋敷越は、地図をみると登山道と尾根筋合流点のすぐ西にある。当初、馬道途中の中継地かと思ったのだが、チェックすると、この地名は別子銅山ではなく、立川銅山に関りのある地名であった。
大阪屋とは大阪屋久左衛門という立川銅山の経営者の屋号。別子銅山開坑の数十年前に綱繰山西麓に開坑し、その小屋がけを大永山トンネル北の稜線にした、とのこと。その場所が大阪屋敷越辺りのようである。
別子銅山開坑の頃は、尾根の稜線の北は西条藩、南は天領であり、立川銅山は西条藩内にあった。その後、宝永元年(1704)立川銅山のある立川村は幕領になり、立川銅山も宝暦12年(1762)別子銅山に吸収合併された。
なお、大阪屋は拠点を東北に移し、明治まで鉱山を経営し、大商人として活躍したようである。

馬道分岐;8時49(標高1,198m)
登山道とのT字合流点から尾根筋を5分程度進むと「銅山越え 笹ヶ峰」と書かれた木標が立つ。ここが馬道分岐とのこと。
ひとつは道なりに進み尾根筋の少し南や北を巻き気味に、金鍋越を経て綱繰山(標高1466m)に向かい、西山(標高1428m)手前から銅山嶺北嶺を小足谷川筋に向かって下ってゆく。
もうひとつのルートは今回我々が辿る道。標識の右手の藪に入り、おおよそ等高線1200mから1250m辺りを「水平」に進み、最後に小足谷川筋に下る。小足谷川の谷筋の上流部は奥窯谷と呼ばれるようだし、明治に造られたものではあるが高橋精錬所などがあるので、一帯に焼鉱(窯場)・溶鉱(吹床屋)があったのだろう。

広い道に出る:8時55分(標高1,197m)
木標から数分はしっかり踏み込まれた道ではあるが、藪となっている。藪が切れると道が切れ、ザレ場(8時53分)となる。馬道は平坦な水平道との話であり、イメージでは別子銅山上部鉄道跡の道を思い描いていたのだが、ちょっと話が違うようだ。
が、ほどなく平坦な広い道に出る。雪が残る広い道は5分以上続き、これが続くのか、とは思ったのだが、残念ながら再び道が切れる(9時4分)。

最初の沢;9時15分(標高1,194m)
切れた道を自然林の中、斜面を進む。10分弱進むと、沢というか岩場から水の落ちる箇所に出る。昨日の雨の影響だろうか。尾根筋とは比高差100mほどあるのだが、岩場の上は開けて見えた。









2番目の沢;9時27分(標高1,207m)
支尾根を岩場に沿って迂回し進む。10分ほど難路を進み、沢を越える。先ほどの沢というか、岩場よりは「沢」っぽい。







沢と朽ちた木橋;9時46分(標高1,190m)
倒木で塞がれた道を進み、支尾根を廻り込み進む。笹に覆われた箇所、豪快に根元から抉れた樹木などバリエーション豊かな難路を20分ほど進むと、比較的広い道に出る。
広い道のその先に木橋があった。木は朽ちており、沢に下りて木橋を迂回。橋の両端はしっかりと石が組まれていた。

広い道が現れる;10時2分(標高1,194m)


木橋を迂回した先はザレの度合いが酷くなってくる。時に右手が谷に切れ込んだ箇所もあり、気が抜けない。平坦な水平路とは程遠い難路である。10分強歩き、支尾根を廻り込むあたりでしっかりとした広い道に出る。




沢と朽ちた木橋;10時9分(標高1,201m)
5分ほどしっかりした道を進む。
先に木橋がある。2本の木を渡しているが、朽ちており、沢に下りて迂回することになる。








沢;10時14分(標高1,208m)
5分ほど進むと沢。これも、前日の雨水が岩場を落ちている、といったものではある。沢の先は難路と平坦路が交互に登場。ザレた斜面あり、岩壁下の道あり、しかりした平坦路あり、岩場と急斜面のザレ道コンビネーションありと、バリエーション豊かではあるが、楽にはさせてくれない。


沢;10時34分(標高1,247m)
20分ほど難路・平たん路混在の道を進むと木橋の架かる沢に出る。二本の木を渡した橋はこれも朽ちており、沢を迂回。







登山道に合流;10時39分(標高1,240m)
沢筋から5分ほどで登山道に合流。登山道は左手に進むが、右手の支尾根があり、そちらに馬道があるかどうか確認する。支尾根突端に出るも、それらしき道もなく、合流点に戻り、左手の登山道を進むことにする(10時54分)。



沢と朽ちた木橋;11時2分(標高1,263m)
ここからは等高線1250mに沿って、少し南を進むことになる。比較的平坦な道を5分強進むと二本の木を渡した木橋があった。ここも木は朽ちており、沢に下りて迂回。





沢と朽ちた木橋;11時15分(標高1,225m)
沢を迂回した先は結構厳しい道となるが、数分で結構平坦な道(11時6分)となる。平坦な道は10分弱続いただろうか。その先の平坦な道に木橋が架かる。いままでのパターンでは、沢に近づくと道が崩壊していたのだが、ここは道が残り、そこに橋が架かる。二本渡された木橋は、朽ちており沢に下りて迂回する、

沢;11時22分(標高1,241m)
厳しい斜面のザレ道を5分ほど進むと再び二本の木を渡した橋がある。なお、定かな場所は不明だが、この辺りに中七番から上ってくる「炭の道」が合流していたようである。





平坦地;11時32分(標高1,202m)
そこから10分ほど厳しい斜面のザレ道を、木々につかまりながらクリアすると、広い平坦な箇所に出る。地形図で見ると1200mと1210m等高線の間隔が結構広くなっている。馬も一息つけるようなスペースである。




沢と木橋;11時44分(標高1,191m)
平坦地から5分ほどおだやかな道を進むと、三本の木を渡した木橋がある。ここは結構しっかりした木橋のようだが、安全のためここも沢を迂回する。






鉄塔巡視路分岐点;11時57分(標高1,185m)
その先もしっかりした広い道が続く。石組で補強された箇所もある。10分強歩くと送電線鉄塔標識が見えてきた。住友共同電力の標識で、「34号 35号 と記されていた。高萩西線送電線の鉄塔であろう。
何時だったか端出場発電所導水路跡()を歩いたとき、「住友共同電力高萩西線48番鉄塔」があったので、北に向かうほど鉄塔番号が増えるようである。
ここで道が複数現れる。上側にしっかり踏み込まれた道、その下に鉄塔巡視路といった道がある。どちらを進むか少々迷う。結局上の道を進んだのだが、オンコースは鉄塔巡視路道であった。

間違い道を戻る;12時47分
上段の道はしっかり踏み込まれている。幅も広く安定しているのだが、道は1200m等高線に沿って少し上り気味に進んでゆく。大雑把なルートとしては小足谷川の谷筋に向かって下っていくはずではあるのだが、これでは谷筋と同じ比高差を保ったままである。
小雪も舞ってきた12時20分頃、弟が先の支尾根辺りを偵察に行き、無難に谷筋に下りルートは無いと判断し撤退を決める。来た道を20分ほどかけて元の鉄塔巡視路分岐点まで戻る。鉄塔巡視路分岐点で少し休み、13時前に鉄塔巡視路を下る。

鉄塔巡視路を下る;12時50分(標高1,185m)
石組みで補強された道を数分下る。小雪舞い散る道脇には鉄塔巡視路標識が3つ現れる(12時51分、12時58分、13時2分)。3番目の巡視路標識には「35 36」と記されていた。





右手に大きな滝が見える;13時16分(標高1,086m)
等高線に沿って、または斜めに緩やかに10分強、比高差100mほど下ると右手樹林の間に比高差のある巨大な滝が見えてくる。小足谷川も指呼の間となった。






銅山峰登山道に出る・目出度町分岐;13時21分(標高1,069m)
と、坂の下に建屋らしきものが見える。確認のため下るとそこは用水施設跡といったものであった。それよりなにより、そこまで下りてはじめて、弟達は、そこが見知った銅山峰登山道であることがわかったようであった。
小足谷川筋に出ると橋が架かる。小足谷川を渡ると「木方・東延」ルートでの銅山越えの登山道、川の右岸をそのまま左に上ると「大山積神社・目出度町」ルートでの銅山越えの道。右手にも橋が架かっているが、この沢が奥窯谷かもしれない。ともあれ、この谷筋が元禄4年(1691)、泉屋(住友)によって開かれた別子銅山発祥の地である。
江戸から明治・大正初期まで別子銅山の採掘・選鉱・焼鉱・溶鉱がこの谷筋の各所で行われ、それ故にいくつものルートを通り、焼鉱・溶鉱に必要な薪炭がこの谷に向かって運ばれてきたわけである。

今回そのうちのひとつのルートを辿ってきたのだが、話に聞いていた平坦な水平路とは程遠い難路の馬道(炭の道)であった。明治30年(1897)頃には燃料も炭からコークスに変わり、明治32年(1899)に新居浜市内の惣開に移るに及び馬道(炭の道)もその役割を終えたわけで、廃道となって100年以上経過しているとすれば、当然といえば当然のことではあった。
今回のメモはこれでお終い。復路のメモは次回に廻す。

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