Google earthで作成 |
コースは建長寺境内の谷戸最奥部山腹にある半僧坊からはじまり、鎌倉の北と西半分を囲む天園ハイキングコースを瑞泉寺に向かい、瑞泉寺手前でハイキングコースを離れ、地図にルートのあった沢に下る。朝比奈の切通しへのショートカットが出来そうである。
地図に示されるだけであり、実際に歩けるかどうか行ってみなければわからないのだが、ともあれショートカットできれば、そのルートを進み、十二社バス停傍の脇道に入り朝比奈の切通しへ。周囲を山で囲まれた鎌倉への往還のために山稜を切り開き通した七口(7つの切通し)のひとつである。 朝比奈の切通しからの戻りは、切り通し近くの熊野神社から十二社方面に尾根筋を下る道らしきものが地図に見える。そのルートは等高線を垂直に下りている。転び滑りながら下りることになりそうではあった。
計画ではこの後、報国寺脇まで進み、そこから布張山に上り、名越えの切通しに向かい、祇園ハイキングコースを経て鎌倉駅へ、と思っていたのだが、朝比奈の切通から十二社バス停に戻ったところで、パーティ諸氏の「ここで終了」の目力に抗せず、計画を変更し終了。10キロ強の鎌倉散歩を楽しんだ。
本日のルート;北鎌倉駅>建長寺>半僧坊大権現>天園ハイキングコース>覚園寺分岐>大平山の頂>横浜市最高地点>天園休憩所>瑞泉寺分岐>沢を下る十二社へのショートカットルート>十二社バス停>大刀洗川に沿って進む>朝比(夷)奈切通し>磨崖仏>熊野神社>尾根筋を三郎の滝に戻る>十二社バス停
北鎌倉駅
集合地点は北鎌倉駅。ここに来たのは何年ぶりだろう。先回は駆け込み寺・東慶寺、名刹円覚寺、浄智寺などをお参りしながら進んだのだが、今回は天園ハイキングコーの始点・建長寺まで寄り道せずに向かう。
◆円覚寺
横須賀線北鎌倉駅近くに建つ。鎌倉五山第二位、臨済宗円覚寺派の大本山。文永・弘安の役、つまりは蒙古来襲の時になくなった武士を弔うために北条時宗が創建したもの。読みは「えんがくじ」。
開山は無学祖元。中国・宋の国・明州の生まれ。無学祖元禅師の流れは、夢窓疎石といった高僧に受け継がれ、室町期の禅の中核となる。五山文学や室町文化に大きな影響を与えたことはいうまでもない。
ところで、時宗が執権職についたのは18歳の時。亡くなったのは33歳。その間、文永・弘安の役といった国難、兄・時輔らとの内部抗争、日蓮を代表とする批判勢力の鎮圧といった数々の難題に直面。年若き時宗だけで、対応できるとも思えない。第七代執権・北条政村を筆頭に、金沢実時、安達泰盛といったベテランがバックアップしたのであろう。舎利殿は国宝。
◆東慶寺
円覚寺を出て鎌倉街道を少し南に下ると東慶寺。お寺の案内パンフレットによると「開山は北条時宗夫人覚山尼。五世後醍醐天皇皇女・用堂尼以来松ヶ丘御所と呼ばれ、二十世は豊臣秀頼息女天秀尼。明治にいたるまで男子禁制の尼寺で、駆け込み寺または縁切り寺としてあまたの女人を救済した」と。寺に逃げ込み3年間修行すれば女性から離縁することができたとのこと。
このお寺には多くの文人・墨客が眠っている。西田幾多郎(哲学者; 『善の研究」)、和辻哲郎(哲学者;『風土 人間学的考察』)、川田順(財界人・歌人。「老いらくの恋」の先駆者(?)。 そして、「何一つ成し遂げざりしわれながら君を思ふはつひに貫く」の歌)、安倍能成(骨太の自由主義者。一学校長・学習院院長・文部大臣。愛媛県松山生まれ)、鈴木大拙(禅を世界に広めた哲学者)、小林秀雄(文芸評論。『無常ということ』)などのお墓がある。あまりお寺っぽくない。品のいい日本邸宅のような趣。文人が好んで眠るのも納得。
◆浄智寺
少し進むと浄智寺。鎌倉五山第四位。臨済宗円覚寺派。執権北条時頼の三男宗政の菩提を弔うために宗政夫人が開く。お寺の案内パンフレットによると、「浄智寺が建つ山ノ内地区は、鎌倉時代には禅宗を保護し、相次いで寺院を建てた北条氏の所領でもあったので、いまでも禅刹が多い。
どの寺院も丘を背負い、鎌倉では谷戸とよぶ谷合に堂宇を並べている。浄智寺も寺域が背後の谷戸に深くのび、竹や杉の多い境内に、長い歴史をもった禅刹にふさわしい閑寂なたたずまいを保つ。うら庭の燧道を抜けると、洞窟に弥勒菩薩の化身といわれる、布袋尊がまつられている」とある。鎌倉の地形の特徴がよく現されている。
建長寺
天園ハイキングコース入り口のある建長寺に。天園コース東端の瑞泉寺方面から歩く場合は不要だが、建長寺側から天園ハイキングコースに入る場合は、建長寺の拝観料を払うことになる。
◆建長寺
巨福山建長興国禅寺。臨済宗建長寺派の大本山。五代執権北条時頼が蘭渓道隆(後の大覚禅師)を開山として創建。日本初の禅宗道場。 巨福門(こふくもん)と呼ばれる総門を越えると三門。禅宗では「山門」ではなく、「三門」と呼ぶことが多いようだ。「三門とは悟りに入る3つの法門、三解脱門のこと。つまりは空三昧・無相三昧・無願三昧の三つの法門」、と。
半僧坊大権現
境内を進み半僧坊大権現に向かう。「天園ハイキングコース」は、建長寺境内からはじまり、裏山中腹の半僧坊から尾根道を歩き、鎌倉の山並みの最高峰・太平山、といっても156メートルだが、この太平山をこえ天園から天台山、そして瑞泉寺に降りるコース(その逆も)。
建長寺の境内を北に向かい250段ほどの階段を上ると半僧坊大権現。からす天狗をお供に従えた、この半僧半俗姿の半僧坊(はんそうぼう)大権現。
大権現とは仏が神という「仮=権」の姿で現れることだが、この神様は明治になって勧請された建長寺の鎮守様。当時の住持が夢に現れた、いかにも半増坊さまっぽい老人が「我を関東の地に・・・」ということで、静岡県の方広寺から勧請された。建長寺以外にも、金閣寺(京都)、平林寺(埼玉県)等に半僧坊大権現が勧請されている。結構「力」のある神様、というか仏様であったのだろう。
◆方広寺
いつだったか方広寺を訪れたことがある。浜松駅から戦国の古戦場で知られる三方ヶ原を越え、伊井氏本貫地引佐の里を経て奥山方広寺に向かった。開山の祖は後醍醐天皇の皇子無文元選禅師。後醍醐天皇崩御の後、出家。中国天台山方広寺で修行。帰国後、参禅に来た、遠江・奥山の豪族・奥山氏の寄進を受け、方広寺を開山した、と。
半僧坊の由来は、無文元選禅師が中国からの帰国時に遡る。帰国の船が嵐で難破寸前。異形の者が現れ、船を導き難を避ける。帰国後、方広寺開山時、再び現れ弟子入り志願。その姿が「半(なか)ば僧にあって僧にあらず」といった風体であったため「半僧坊」と。
天園ハイキングコース
半僧坊社務所前の小さな鳥居をくぐりハイキングコースに。樹林の中の起伏に富んだルート。遊歩道として整備されることもなく野趣豊か。木の根っこが飛び出す山道をどんどん進む。5分ほどで「勝上献展望台」。アジサイで名高い名月院方面からの道が合流する。展望台からは鎌倉の海の眺めが楽しめる。 更に5分程度で「十王岩の展望」。かながわの景勝50選に選ばれた展望ポイント。海に続く一直線の若宮大路が見下ろせる。
◆名月院
このお寺も関東十刹のひとつ。もとは北条時頼の建てた最明寺。その跡に、子の時宗が禅興寺を建立。明月院はこの塔頭として室町時代、関東管領上杉憲方によって建てられた。将軍足利氏満の命による、と。室町幕府三代将軍・足利義満の時代に禅興寺は関東十刹の一位となる。が、明治初年に禅興寺は廃寺となり、明月院だけが残る。明月院は〝アジサイ寺″として有名。 鎌倉十井の一つ「瓶ノ井(つるべのい)」がある。やぐらは鎌倉時代最大のもの、である。
◇時頼の廻国伝説
北条得宗家の基盤を確固たるものにした時頼には、謡曲『鉢の木』にあるように廻国伝説が伝わる。先日会津街道(Ⅳ)を歩いた時も出合ったし、伊予・北條の古城巡りのときも時頼が登場した。
30歳で執権職を辞し、出家しその間、「中世の黄門様」のように全国を廻ったということだが、出家したとは言いながら、政権の中枢で隠然たる権力を持ち続けた時頼に、そんな暇があるとも思えない。また37歳という若さで亡くなったというし、伝説が残るのも得宗家の領地が中心というから、ますますもって「伝説」と考えるのがよさそうにも思えるのだが、所詮は素人の妄想であり、根拠があるわけではない。
覚園寺分岐
右手は深い木々、左手は山を切り崩し宅地開発した民家が迫るといったアンバランスな尾根道を進み、「十王岩の展望」の先でコースは瑞泉寺へと続くメーンルートと、麓の覚園寺に下るコールに別れる。今回はメーンルートを進む。
◆やぐら
いつだったかこの分岐から覚園寺へと下ったことがある。分岐点を5分も歩くと、「百八やぐら」がある。「やぐら」は横穴式のお墓。鎌倉では、岸壁や岩肌に横穴を掘って、そこに遺骨等を埋葬した場所を「やぐら」と言い、武士や僧侶の墓所であるとされている。 「やぐら」は鎌倉の谷戸や山間部の至るところに点在している。山に囲まれ土地が狭い故だろう、か。
大平山の頂
心地よいアップダウンの尾根道を進むと鎌倉アルプスの最高峰、といっても159.2メートルの大平山の頂上に。この辺りに来ると車で近くまで乗ってきたような観光客が結構多い。住所は鎌倉市今泉。左手に見えるゴルフコースへの道を来るのだろうか。
岩場を下りゴルフ場のクラブハウスっぽい建物の横、広場を通り一部舗装された道を進む。鎌倉市と横浜市の境ではあるが、行政区域は横浜市栄区となる。
横浜市最高地点
ほどなく土径となった道を進むと「横浜市最高地点」の標識。「海面からの高度154.9m 横浜市最高地点は鎌倉市境にある大平山(山頂は鎌倉市域)の尾根沿い(栄区上郷町)でこの付近となります。背後の鎌倉市方面には鎌倉市街や相模湾を臨むことができます」とある。
かつて、この辺りに「天園峠の茶屋」があったと思うのだが、なくなっていた。 眼下の鎌倉の山々が美しい。相模湾も光っている。天園は別名、「六国峠」とも。武蔵、相模、上総、下総、伊豆、駿河が望めることができたから、と言う。
天園休憩所
「天園峠の茶屋」の少し南、「天園休憩所」は営業していた。ここで少し休憩。住所は再び鎌倉市十二社となる。
瑞泉寺分岐
天園休憩所から天園ハイキングコースに戻る。先を進むと瑞泉寺分岐の木標。道はふたつにわかれるが、右は瑞泉寺、左は支尾根へと向かう。沢に下るショートカットルートは道を少し戻り左手に下りることになる。
◆瑞泉寺
瑞泉寺は鎌倉幕府の重臣・二階堂道蘊が瑞泉院として建立。足利尊氏の四男・鎌倉公方・足利基氏が瑞泉寺に。中興の祖となる。以降、鎌倉公方の菩提寺となり、鎌倉五山に次ぐ関東十刹の第一位の格式を誇る。臨済宗円覚寺派。 いい雰囲気のお寺さん。品がいい。素敵な邸宅といった趣。庭もいい感じ。夢想疎石作との伝え。夢想疎石は京都の苔寺・西芳寺や天竜寺といった庭園で有名な寺院も後につくっている。鎌倉期唯一の庭園として国の名勝に指定されているのも納得。
そういえばこの夢想疎石、鎌倉の浄智寺の住職、円覚寺の住職も歴任した仏教界の重鎮。政治との関わり。も深く、後醍醐天皇や北条、足利氏と交わったと。円覚寺の開祖・無学祖元の流れを汲む高僧である。
沢を下る十二社へのショートカットルート
沢に下りる道は草に覆われ少しわかりにくい。iphoneのGPSアプリ、Gmap Toolsで地図に記される沢への下り口をチェックすると、なるほど下りの土径が見えた。
ほとんど整備されていない山道を下る。この沢道ではなく瑞泉寺へと下ると、南に突き出た尾根筋を大きく迂回して十二社に向かうことになる。足元はしっかりしないが、ショートカットのためには少々我慢。
十二社バス停
ささやかではあるが水の流れる沢筋に沿って下り、民家の建つ支尾根の間の道を進み県道204号の十二社バス停に。朝比奈の切通はバス停から県道から右に分かれ、大刀洗川に沿って道を進むことになる。
◆十二社
県道から少し左手に入ったところに建つ。十二所神社自体は結構さっぱりした神社。熊野十二所権現社として近くの光触寺境内にあったものがここに移されたと言われる
十二所権現って熊野三山の神を勧請したもの。熊野三山とは熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の総称。熊野の各社はそれぞれの主神を互いに勧請仕合っており、各社3つの神を祀る。
更に各社には共通の神さんとして「天照大神」が祀られる。ために、1社=4神、その三倍で12柱となる。これをもって、熊野十二所権現社と称した。 十二所=十二社。そう言えば、新宿西口に十二社が。そのすぐそばに熊野神社がある。納得。で、光触寺、こじんまりしたお寺。塩嘗地蔵(しおなめじぞう)がある。道を往来する商人が初穂としてそなえていたのだろう。
大刀洗川に沿って進む
十二社バス停付近で滑川に注ぐ大刀洗川には梶原景時の太刀洗水がある。頼朝の命により、上総介広常を討ち、その太刀を洗ったところ、とか。昔歩いてた時は「大刀洗水」の案内を見つけることができなかったのだが、今回はすぐ目に入った。
◆梶原景時
梶原景時って、義経いじめ、といったイメージが強く、判官びいきの諸氏にはあまりいい印象はない。どういった人物か、ちょっとメモ;
もともとは平氏方。坂東八平氏である鎌倉氏の一族であり、頼朝挙兵時の石橋山の合戦では一族の大場氏とともに頼朝と戦う。
で、旗揚げの合戦に破れた頼朝の命を助けたため、後に頼朝に取り立てられ、頼朝の側近として活躍。教養豊かで都人からも一目置かれるが、義経とは相容れず対立。頼朝と義経の関係悪化をもたらした張本人と評される。頼朝の死後は、鎌倉を追放され、一族もろとも滅ぼされた。
いつだったか、八王子城址を訪ねた時、高尾駅から丘陵を越え、新宮前橋で北淺川の支流・城山川を渡り、少し進むと宮の前交差点の近くに梶原八幡があった。この八幡様は鎌倉幕府の御家人・梶原景時が建てたと言われる。鎌倉の鶴ケ岡八幡の古神体をこの地に奉祀したもの、とか。参道に梶原杉といった切り株も残る。で、そもそも何故この地に梶原氏が、ということだが、梶原景時の母がこのあたりに覇をとなえた横山氏の出。この地に景時の領地もあった、よう。
◆上総介広常
治承4年(1180年)8月に打倒平氏の兵を挙げ、9月の石橋山の戦いに敗れた源頼朝が、安房国で再挙を図ると、広常は上総国内の平家方を掃討し、頼朝のもとへ参陣。頼朝が鎌倉入りを果たせたのは、上総・下総両国を領し東国最大勢力であった上総介広常の軍事力が大きく寄与したと言われる。
鎌倉幕府が開かれてからも、その強力な軍事力故か、頼朝に対しても「傲慢不遜」な振る舞いもあり、謀反を疑われ頼朝の命により梶原景時に誅されることになる。
お話では、殺害後に広常の鎧から頼朝の武運を祈る願文が見つかり、頼朝は広常を殺害してしまった事を悔いたと言われるが、対朝廷策で協調派の頼朝と強硬派の広常の間に亀裂があったようで、殺害の因はそのあたりにある、との説もあるようだ。都生まれの頼朝と東国武士の広常故の対立があったのだろうか。
朝比(夷)奈切通し
先に進むと舗装も切れ、その先で道がふたつに分かれる。左手の小滝(三郎の滝)が落ちる道が朝比奈の切通し。先回訪ねた時はなかったように思うのだが、道脇に「朝夷奈切通」の案内がある;
「国指定史跡 朝夷奈切通しは、いわゆる鎌倉七口の一つに数えられる切通で、横浜市金沢区六浦へと通じる古道(現在の県道金沢・鎌倉線の前身)です。鎌倉時代の六浦は、鎌倉の外港として都市鎌倉を支える重要拠点でした。『吾妻鏡』には、仁知2年(1241)に、幕府執権であった北条泰時の指揮のもと、六浦道の工事が行われた記事があり、これがつくられた時期と考えられています。
その後、朝夷奈切通は何度も改修を受けて現代にいたっています。丘陵部に残る大規模な切岸(人工的な崖)は切通道の構造をよく示しており、周辺に残るやぐら(鎌倉時代の墓所)群・切岸・平場や納骨堂跡などの遺構と共に、中世都市の周辺部の雰囲気を良好に伝えています。 平成21年3月 鎌倉市教育委員会」。
また、三郎の滝の東側に石碑があり「朝夷奈切通 鎌倉七口ノ一ニシテ鎌倉ヨリ六浦ヘ通ズル要衝ニ當リ 大切通小切通ノ二ツアリ 土俗ニ朝夷奈三郎義秀 一夜ノ内ニ切抜タルヲ以テ其名アリト傳ヘラレルモ 東鑑ニ仁治元年(皇紀1900)十一月 鎌倉六浦間道路開鑿ノ議定アリ 翌二年四月 經營ノ事始アリテ執権北条泰時 其所ニ監臨シ 諸人群集シ各土石ヲ運ビシコト見ユルニ徴シ此切通ハ即チ当時ニ於テ開通セシモノト思料セラル」と刻まれる。
ふたつの案内を読み、一夜のうちに峠を切り開いたとされる武勇の士・朝夷奈三郎義秀のお話はともあれ、この朝比奈切通しは、執権北条泰時が鎌倉と六浦を結ぶ道の開鑿を決定。執権自ら監督し、鎌倉の外港であり下総などとの窓口・六浦と鎌倉の連絡を容易にし、東国の物資、また塩を鎌倉にもたらす戦略道路として開いたもではあろうが、そこに「朝夷奈三郎義秀」の話が登場するのが面白い。
◆朝夷奈三郎
朝夷奈三郎義秀は和田義盛の子。安房の朝夷郡に領地を有するが故の名前ではあろうが、和田義盛は北条打倒を図り、和田合戦を起こしている。朝夷奈三郎義秀はその合戦で最もめざましい奮戦をした武将である。戦いは北条氏の勝利に終わり、朝夷奈三郎義秀のその後の消息は不明とのことであるが、敵方である北条氏の執権が苦労の末開いたこの切り通しに朝夷奈三郎義秀の伝説が残るのは、誠に面白い。
いつの頃からこの伝説がおこったのか少々気になる。チェックすると、Wikipediaに拠れば、鎌倉時代の『吾妻鏡』には「六浦道」とあり、「朝夷奈」の文字はない。「朝夷奈」が江戸時代になっても「峠坂」と記録にあり、「朝夷奈」が記録に登場するのは延宝2年(1674)、徳川光圀編纂の『鎌倉日記』に峠坂を「朝比奈切通」とあるのがはじめてのようである。伝説もこの頃できたものだろうか。単なる妄想。根拠なし。
◆鎌倉七口
鎌倉七口(かまくらななくち)とは三方を山に囲まれた鎌倉への陸路の入口を指す名称。鎌倉時代には「七口」の呼び名は無く、江戸時代になってはじめて記録に登場する。一般には極楽寺坂切通、大仏切通、化粧坂、亀ヶ谷坂、巨福呂坂、朝夷奈(朝比奈)切通、名越切通を七口と称する。
もっとも、江戸時代初期の1642年~1644年頃に書かれたと思われる『玉舟和尚鎌倉記』には、「大仏坂」「ケワイ坂」「亀ヶ井坂」「小袋坂」「極楽寺坂」「峠坂」「名越坂」、上記の『徳川光圀鎌倉日記』には「ケワイ坂を「化粧坂」、亀ヶ井坂を「亀ヶ谷坂」、小袋坂を「巨福呂坂」、峠坂を「朝比奈切通」、大仏坂を「大仏切通」、極楽寺坂が「極楽寺切通」、名越坂が「名越切通」とあるようで、切通といった名称では統一されていないようである。
磨崖仏
崖からの湧水に濡れた石畳状の坂を上る。足場はあまりよくない。道脇に佇むお地蔵さまにお参り。「延宝三年十月十五日」と刻まれている。西暦1675年の作である。
坂を上り切ったところの崖が大きく切り開かれている。大切通しと称される箇所だろう。右手の崖には大きな磨崖仏が刻まれる。薬師如来と言う。
熊野神社
磨崖仏から少し坂を下ると熊野神社分岐がある。道を右手に取り、道なりに進むと熊野神社がある。社殿への石段前に車止め。意味不明。石段をのぼり拝殿にお参り。
由緒には「古傳に曰、源頼朝鎌倉に覇府を開くや朝比奈切通の開鑿に際し守護神として熊野三社大明神を勧請せられしと、元禄年中地頭 加藤太郎左衛門尉 之を再建す、里人の崇敬亦篤く安永及嘉永年間にも修築を加え明治六年村社に列格、古来安産守護に霊験著しと云爾」とある。
朝比奈切通の開鑿は仁知2年(1241)に幕府執権であった北条泰時の指揮のもと開始されたと上でメモした。頼朝既に亡くなっているのだが、由緒ってそんなものだろう、と。
それはそれとして、先日読んでいた大田道潅を主人公とした小説にこの神社が登場していた。狩のみぎり、突然の雨。山家に駆け込み蓑の借用を申し出 る。その家の娘、無言のまま、八重の山吹を盆に載せ差し出す。"実の"つかない八重の山吹。家が貧しく、"蓑"一つさえも無いことを婉曲に伝え詫びたもの。
道潅、わけもわからず不機嫌に帰館。家臣のひとりが、娘が旧歌で返答したのだと。「七重八重、花は咲けども山吹の、実の〈簑〉一つだになきぞ悲し き」。道潅、己が無学を恥じ、爾来研鑽を重ね、歌人としても名を成すに至った、そのきっかけとなった出来事の舞台がこのあたり、とのこと。
もっとも、この山吹の里って、散歩で出合っただけでも数箇所ある。埼玉・越生、川崎の鹿島田、都内豊島区の高田地区、などなど。それだけ道灌が人気者であった、ということだろう。
尾根筋を三郎の滝に戻る
社殿で皆さんが休憩の間に、地図にある社殿裏から尾根道を十二社方面、三郎の滝近くに下る道を確認に。社殿右手の土径を上り、社裏手の尾根筋に廻り込道を探る。左手に折れ果樹園へと向かう道と直進する尾根道を確認。尾根道筋には単なる倒木なのか、通行止めなのか不明だが、木が道を遮る。が、進めそうである。
ということで、休憩後、尾根道を下ることに。果樹園へのコースは道は安定してそうだが、何せ遠回りである。地図を見ると結構勾配が急なようではあるが、ショートカットルートを選択。
下り道は急な傾斜の上に粘土質の堀込みとなっており、足元が危うい。結構滑る。倒(こ)けつ転(まろ)びつ、三郎の滝に。
十二社バス停
三郎の滝から十二社のバス停まで戻り、皆さんの意向確認。当初の予定では、ここから報国寺まで歩き、布張山に登り**の切通し方面まで進む予定であったが、皆さん、ここで充分とのこと。今回の散歩は、これで終了とし、バスで鎌倉駅に向かい、一路家路へと。
覚園寺分岐
右手は深い木々、左手は山を切り崩し宅地開発した民家が迫るといったアンバランスな尾根道を進み、「十王岩の展望」の先でコースは瑞泉寺へと続くメーンルートと、麓の覚園寺に下るコールに別れる。今回はメーンルートを進む。
◆やぐら
いつだったかこの分岐から覚園寺へと下ったことがある。分岐点を5分も歩くと、「百八やぐら」がある。「やぐら」は横穴式のお墓。鎌倉では、岸壁や岩肌に横穴を掘って、そこに遺骨等を埋葬した場所を「やぐら」と言い、武士や僧侶の墓所であるとされている。 「やぐら」は鎌倉の谷戸や山間部の至るところに点在している。山に囲まれ土地が狭い故だろう、か。
大平山の頂
心地よいアップダウンの尾根道を進むと鎌倉アルプスの最高峰、といっても159.2メートルの大平山の頂上に。この辺りに来ると車で近くまで乗ってきたような観光客が結構多い。住所は鎌倉市今泉。左手に見えるゴルフコースへの道を来るのだろうか。
岩場を下りゴルフ場のクラブハウスっぽい建物の横、広場を通り一部舗装された道を進む。鎌倉市と横浜市の境ではあるが、行政区域は横浜市栄区となる。
横浜市最高地点
ほどなく土径となった道を進むと「横浜市最高地点」の標識。「海面からの高度154.9m 横浜市最高地点は鎌倉市境にある大平山(山頂は鎌倉市域)の尾根沿い(栄区上郷町)でこの付近となります。背後の鎌倉市方面には鎌倉市街や相模湾を臨むことができます」とある。
かつて、この辺りに「天園峠の茶屋」があったと思うのだが、なくなっていた。 眼下の鎌倉の山々が美しい。相模湾も光っている。天園は別名、「六国峠」とも。武蔵、相模、上総、下総、伊豆、駿河が望めることができたから、と言う。
天園休憩所
「天園峠の茶屋」の少し南、「天園休憩所」は営業していた。ここで少し休憩。住所は再び鎌倉市十二社となる。
瑞泉寺分岐
天園休憩所から天園ハイキングコースに戻る。先を進むと瑞泉寺分岐の木標。道はふたつにわかれるが、右は瑞泉寺、左は支尾根へと向かう。沢に下るショートカットルートは道を少し戻り左手に下りることになる。
◆瑞泉寺
瑞泉寺は鎌倉幕府の重臣・二階堂道蘊が瑞泉院として建立。足利尊氏の四男・鎌倉公方・足利基氏が瑞泉寺に。中興の祖となる。以降、鎌倉公方の菩提寺となり、鎌倉五山に次ぐ関東十刹の第一位の格式を誇る。臨済宗円覚寺派。 いい雰囲気のお寺さん。品がいい。素敵な邸宅といった趣。庭もいい感じ。夢想疎石作との伝え。夢想疎石は京都の苔寺・西芳寺や天竜寺といった庭園で有名な寺院も後につくっている。鎌倉期唯一の庭園として国の名勝に指定されているのも納得。
そういえばこの夢想疎石、鎌倉の浄智寺の住職、円覚寺の住職も歴任した仏教界の重鎮。政治との関わり。も深く、後醍醐天皇や北条、足利氏と交わったと。円覚寺の開祖・無学祖元の流れを汲む高僧である。
沢を下る十二社へのショートカットルート
沢に下りる道は草に覆われ少しわかりにくい。iphoneのGPSアプリ、Gmap Toolsで地図に記される沢への下り口をチェックすると、なるほど下りの土径が見えた。
ほとんど整備されていない山道を下る。この沢道ではなく瑞泉寺へと下ると、南に突き出た尾根筋を大きく迂回して十二社に向かうことになる。足元はしっかりしないが、ショートカットのためには少々我慢。
十二社バス停
ささやかではあるが水の流れる沢筋に沿って下り、民家の建つ支尾根の間の道を進み県道204号の十二社バス停に。朝比奈の切通はバス停から県道から右に分かれ、大刀洗川に沿って道を進むことになる。
◆十二社
県道から少し左手に入ったところに建つ。十二所神社自体は結構さっぱりした神社。熊野十二所権現社として近くの光触寺境内にあったものがここに移されたと言われる
十二所権現って熊野三山の神を勧請したもの。熊野三山とは熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の総称。熊野の各社はそれぞれの主神を互いに勧請仕合っており、各社3つの神を祀る。
更に各社には共通の神さんとして「天照大神」が祀られる。ために、1社=4神、その三倍で12柱となる。これをもって、熊野十二所権現社と称した。 十二所=十二社。そう言えば、新宿西口に十二社が。そのすぐそばに熊野神社がある。納得。で、光触寺、こじんまりしたお寺。塩嘗地蔵(しおなめじぞう)がある。道を往来する商人が初穂としてそなえていたのだろう。
大刀洗川に沿って進む
十二社バス停付近で滑川に注ぐ大刀洗川には梶原景時の太刀洗水がある。頼朝の命により、上総介広常を討ち、その太刀を洗ったところ、とか。昔歩いてた時は「大刀洗水」の案内を見つけることができなかったのだが、今回はすぐ目に入った。
◆梶原景時
梶原景時って、義経いじめ、といったイメージが強く、判官びいきの諸氏にはあまりいい印象はない。どういった人物か、ちょっとメモ;
もともとは平氏方。坂東八平氏である鎌倉氏の一族であり、頼朝挙兵時の石橋山の合戦では一族の大場氏とともに頼朝と戦う。
で、旗揚げの合戦に破れた頼朝の命を助けたため、後に頼朝に取り立てられ、頼朝の側近として活躍。教養豊かで都人からも一目置かれるが、義経とは相容れず対立。頼朝と義経の関係悪化をもたらした張本人と評される。頼朝の死後は、鎌倉を追放され、一族もろとも滅ぼされた。
いつだったか、八王子城址を訪ねた時、高尾駅から丘陵を越え、新宮前橋で北淺川の支流・城山川を渡り、少し進むと宮の前交差点の近くに梶原八幡があった。この八幡様は鎌倉幕府の御家人・梶原景時が建てたと言われる。鎌倉の鶴ケ岡八幡の古神体をこの地に奉祀したもの、とか。参道に梶原杉といった切り株も残る。で、そもそも何故この地に梶原氏が、ということだが、梶原景時の母がこのあたりに覇をとなえた横山氏の出。この地に景時の領地もあった、よう。
◆上総介広常
治承4年(1180年)8月に打倒平氏の兵を挙げ、9月の石橋山の戦いに敗れた源頼朝が、安房国で再挙を図ると、広常は上総国内の平家方を掃討し、頼朝のもとへ参陣。頼朝が鎌倉入りを果たせたのは、上総・下総両国を領し東国最大勢力であった上総介広常の軍事力が大きく寄与したと言われる。
鎌倉幕府が開かれてからも、その強力な軍事力故か、頼朝に対しても「傲慢不遜」な振る舞いもあり、謀反を疑われ頼朝の命により梶原景時に誅されることになる。
お話では、殺害後に広常の鎧から頼朝の武運を祈る願文が見つかり、頼朝は広常を殺害してしまった事を悔いたと言われるが、対朝廷策で協調派の頼朝と強硬派の広常の間に亀裂があったようで、殺害の因はそのあたりにある、との説もあるようだ。都生まれの頼朝と東国武士の広常故の対立があったのだろうか。
朝比(夷)奈切通し
先に進むと舗装も切れ、その先で道がふたつに分かれる。左手の小滝(三郎の滝)が落ちる道が朝比奈の切通し。先回訪ねた時はなかったように思うのだが、道脇に「朝夷奈切通」の案内がある;
「国指定史跡 朝夷奈切通しは、いわゆる鎌倉七口の一つに数えられる切通で、横浜市金沢区六浦へと通じる古道(現在の県道金沢・鎌倉線の前身)です。鎌倉時代の六浦は、鎌倉の外港として都市鎌倉を支える重要拠点でした。『吾妻鏡』には、仁知2年(1241)に、幕府執権であった北条泰時の指揮のもと、六浦道の工事が行われた記事があり、これがつくられた時期と考えられています。
その後、朝夷奈切通は何度も改修を受けて現代にいたっています。丘陵部に残る大規模な切岸(人工的な崖)は切通道の構造をよく示しており、周辺に残るやぐら(鎌倉時代の墓所)群・切岸・平場や納骨堂跡などの遺構と共に、中世都市の周辺部の雰囲気を良好に伝えています。 平成21年3月 鎌倉市教育委員会」。
また、三郎の滝の東側に石碑があり「朝夷奈切通 鎌倉七口ノ一ニシテ鎌倉ヨリ六浦ヘ通ズル要衝ニ當リ 大切通小切通ノ二ツアリ 土俗ニ朝夷奈三郎義秀 一夜ノ内ニ切抜タルヲ以テ其名アリト傳ヘラレルモ 東鑑ニ仁治元年(皇紀1900)十一月 鎌倉六浦間道路開鑿ノ議定アリ 翌二年四月 經營ノ事始アリテ執権北条泰時 其所ニ監臨シ 諸人群集シ各土石ヲ運ビシコト見ユルニ徴シ此切通ハ即チ当時ニ於テ開通セシモノト思料セラル」と刻まれる。
ふたつの案内を読み、一夜のうちに峠を切り開いたとされる武勇の士・朝夷奈三郎義秀のお話はともあれ、この朝比奈切通しは、執権北条泰時が鎌倉と六浦を結ぶ道の開鑿を決定。執権自ら監督し、鎌倉の外港であり下総などとの窓口・六浦と鎌倉の連絡を容易にし、東国の物資、また塩を鎌倉にもたらす戦略道路として開いたもではあろうが、そこに「朝夷奈三郎義秀」の話が登場するのが面白い。
◆朝夷奈三郎
朝夷奈三郎義秀は和田義盛の子。安房の朝夷郡に領地を有するが故の名前ではあろうが、和田義盛は北条打倒を図り、和田合戦を起こしている。朝夷奈三郎義秀はその合戦で最もめざましい奮戦をした武将である。戦いは北条氏の勝利に終わり、朝夷奈三郎義秀のその後の消息は不明とのことであるが、敵方である北条氏の執権が苦労の末開いたこの切り通しに朝夷奈三郎義秀の伝説が残るのは、誠に面白い。
いつの頃からこの伝説がおこったのか少々気になる。チェックすると、Wikipediaに拠れば、鎌倉時代の『吾妻鏡』には「六浦道」とあり、「朝夷奈」の文字はない。「朝夷奈」が江戸時代になっても「峠坂」と記録にあり、「朝夷奈」が記録に登場するのは延宝2年(1674)、徳川光圀編纂の『鎌倉日記』に峠坂を「朝比奈切通」とあるのがはじめてのようである。伝説もこの頃できたものだろうか。単なる妄想。根拠なし。
◆鎌倉七口
鎌倉七口(かまくらななくち)とは三方を山に囲まれた鎌倉への陸路の入口を指す名称。鎌倉時代には「七口」の呼び名は無く、江戸時代になってはじめて記録に登場する。一般には極楽寺坂切通、大仏切通、化粧坂、亀ヶ谷坂、巨福呂坂、朝夷奈(朝比奈)切通、名越切通を七口と称する。
もっとも、江戸時代初期の1642年~1644年頃に書かれたと思われる『玉舟和尚鎌倉記』には、「大仏坂」「ケワイ坂」「亀ヶ井坂」「小袋坂」「極楽寺坂」「峠坂」「名越坂」、上記の『徳川光圀鎌倉日記』には「ケワイ坂を「化粧坂」、亀ヶ井坂を「亀ヶ谷坂」、小袋坂を「巨福呂坂」、峠坂を「朝比奈切通」、大仏坂を「大仏切通」、極楽寺坂が「極楽寺切通」、名越坂が「名越切通」とあるようで、切通といった名称では統一されていないようである。
磨崖仏
崖からの湧水に濡れた石畳状の坂を上る。足場はあまりよくない。道脇に佇むお地蔵さまにお参り。「延宝三年十月十五日」と刻まれている。西暦1675年の作である。
坂を上り切ったところの崖が大きく切り開かれている。大切通しと称される箇所だろう。右手の崖には大きな磨崖仏が刻まれる。薬師如来と言う。
熊野神社
磨崖仏から少し坂を下ると熊野神社分岐がある。道を右手に取り、道なりに進むと熊野神社がある。社殿への石段前に車止め。意味不明。石段をのぼり拝殿にお参り。
由緒には「古傳に曰、源頼朝鎌倉に覇府を開くや朝比奈切通の開鑿に際し守護神として熊野三社大明神を勧請せられしと、元禄年中地頭 加藤太郎左衛門尉 之を再建す、里人の崇敬亦篤く安永及嘉永年間にも修築を加え明治六年村社に列格、古来安産守護に霊験著しと云爾」とある。
朝比奈切通の開鑿は仁知2年(1241)に幕府執権であった北条泰時の指揮のもと開始されたと上でメモした。頼朝既に亡くなっているのだが、由緒ってそんなものだろう、と。
それはそれとして、先日読んでいた大田道潅を主人公とした小説にこの神社が登場していた。狩のみぎり、突然の雨。山家に駆け込み蓑の借用を申し出 る。その家の娘、無言のまま、八重の山吹を盆に載せ差し出す。"実の"つかない八重の山吹。家が貧しく、"蓑"一つさえも無いことを婉曲に伝え詫びたもの。
道潅、わけもわからず不機嫌に帰館。家臣のひとりが、娘が旧歌で返答したのだと。「七重八重、花は咲けども山吹の、実の〈簑〉一つだになきぞ悲し き」。道潅、己が無学を恥じ、爾来研鑽を重ね、歌人としても名を成すに至った、そのきっかけとなった出来事の舞台がこのあたり、とのこと。
もっとも、この山吹の里って、散歩で出合っただけでも数箇所ある。埼玉・越生、川崎の鹿島田、都内豊島区の高田地区、などなど。それだけ道灌が人気者であった、ということだろう。
尾根筋を三郎の滝に戻る
社殿で皆さんが休憩の間に、地図にある社殿裏から尾根道を十二社方面、三郎の滝近くに下る道を確認に。社殿右手の土径を上り、社裏手の尾根筋に廻り込道を探る。左手に折れ果樹園へと向かう道と直進する尾根道を確認。尾根道筋には単なる倒木なのか、通行止めなのか不明だが、木が道を遮る。が、進めそうである。
ということで、休憩後、尾根道を下ることに。果樹園へのコースは道は安定してそうだが、何せ遠回りである。地図を見ると結構勾配が急なようではあるが、ショートカットルートを選択。
下り道は急な傾斜の上に粘土質の堀込みとなっており、足元が危うい。結構滑る。倒(こ)けつ転(まろ)びつ、三郎の滝に。
十二社バス停
三郎の滝から十二社のバス停まで戻り、皆さんの意向確認。当初の予定では、ここから報国寺まで歩き、布張山に登り**の切通し方面まで進む予定であったが、皆さん、ここで充分とのこと。今回の散歩は、これで終了とし、バスで鎌倉駅に向かい、一路家路へと。
0 件のコメント:
コメントを投稿