金曜日, 5月 05, 2017

伊予 歩き遍路;四十五番札所・岩屋寺より四十七番札所・八坂寺へ ①:千本峠遍路道:越ノ峠越えと千本峠越え

先日内子から久万の第四十四番札所・大宝寺と第四十五番札所・岩屋寺を結ぶ遍路道、下坂場峠・鶸田峠越えのルートと真弓峠・農祖峠越えのふたつのルートを辿った。
下坂場峠・鶸田峠越えは基本的に第四十四番札所に向かうことになるが、真弓峠・農祖峠越えは久万の町手前で第四十四番札所・大宝寺と第四十五番札所・岩屋寺に向かう道に分かれる。第四十四番札所・大宝寺に向かう遍路道は巡打ちで第四十五番札所・岩屋寺に辿り、そこから10キロ弱を大宝寺方面へと「打ち戻り」、久万を離れ第四十六番札所・浄瑠璃寺のある松山へと三坂峠を下る。
一方、真弓峠・農祖峠を越えて四十五番札所・岩屋寺に向かう遍路道は、巡礼の順序が四十五番から四十四番と「逆打ち」ではあるが、同じ道を「打ち戻る」ことの少ない遍路道である。
先回真弓峠・農祖峠を越えた時、計画ではそのまま「打ち戻し」のない遍路道を辿って越の峠を越え、四十五番札所・岩屋寺へ向かう尾根筋の八丁の坂(茶屋跡)まで道を繋ごうとしたのだが時間切れとなった。

今回の散歩はその続き。先回の最終地である久万高原町上野尻から久万川を渡り「越の峠(こしのとう)」を越えて菅生の谷に下り、有枝川の谷筋から槇谷川の谷筋を上り、槇谷の集落から山道に入り水峠から八丁の坂へと上り道を繋ぐ。 道を繋ぐ、の意味合いは、数年前、第四十四番札所・大宝寺から第四十五番札所・岩屋寺へと辿ったとき、八丁の坂(茶屋跡)から岩屋寺に続く尾根道を既に辿っているため、岩屋寺への「打ち戻しなし」のルートを繋ぐことができた、ということである。
今回も、常の如く車での単独行であり、水峠・八丁の坂からピストンで戻り、車をデポした槇谷の集落に下りたのが12時頃。当日の計画では、下山の時間次第ではあるが、久万の札所から三坂峠へと向かう遍路道である千本峠も越えることにしていた。全部は無理にしても峠までは、なんとか行けそうだ。

「えひめの記憶」に拠れば、千本峠越えは、第四十五番札所・岩屋寺から第四十四番札所・大宝寺へと「打ち戻る」途中、有枝川に西からの流れが合流する「河合」の集落から県道を少し峠御堂(とおのみどう)方面に戻る。そこから山に入り、高野、槻(けやき)之沢集落を経て国道33号へと下る、とのこと。 途中遍路道は落石で崩れているとあり、迂回し車道と繋ぎピストンで車デポ地に戻ったのだが、崩壊の状況だけでも見ておこうと遍路道を進むと、道は復旧されているようで、知らず高野の集落に着いてしまった。その先、車道から土径に折れる遍路道を確認しデポ地に戻った。
そこで時刻は3時半。家に戻る時間を考えると、高野から土径に入る遍路道を辿り国道33号を繋ぐ時間はない。残りは次回のお楽しみ、ついでのことでもあるので、その時には久万から三坂峠へと向かう遍路道のひとつ六部堂越えも組み合わせてみようと思う。

本日のルート;
「逆打ち・打ち戻しなし」の遍路道を八丁坂(茶屋跡)と繋ぐ
久万川>宮の前の道標>土佐街道を進む>越ノ峠>県道153号と209号分岐点>遍路道の案内>有枝川の左岸を下る>槇谷川右岸を上る>槇谷のお地蔵さまと道案内>槇谷の道標
●尾根に上る
遍路道に入る;10時51分>山道に入る:10時56分(標高592m)>植林帯を抜ける;11時13分(標高700m)>水峠;11時19分(標高756m)>八丁坂(茶店跡);11時27分(722m)>車デポ地に折り返し;12時

千本峠越え
(前半部)
千本峠入口;13時11分(標高560m)>林道と分かれ遍路道に;13時18分(標高589m)>千本高原分岐;13時20分(標高596m)>棚田跡の道標;13時33分(標高702m)>三叉路に道標とお地蔵さま;13時37分(標高722m)>千本峠;13時40分(標高737m)>道標;?時45分(標高722m)>通行止めの木標;13時51分(標高654m)>車道に;13時55分(標高596m)>通行止め木標から高野に向かう;14時5分(標高654m)>高野集落の道標;14時13分(標高725m)>高野休憩所;14時15分(標高737m)>県道12号に戻る;15時25分



■「逆打ち・打ち戻しなし」の遍路道を八丁坂(茶屋跡)と繋ぐ■

農祖峠から四十四番札所への「逆打ち」遍路

久万川

先回真弓峠・農祖峠から久万の町に入った最終地、久万川手前の道標のあった民家を見遣りながら久万川を越える。「えひめの記憶」には「橋台だけが川に残る」とあるが、道標から先、旧街道(土佐街道)が久万川を渡ったであろう箇所を見るが、それらしき遺構を見つけることはできなかった。
久万あれこれ
久万川は仁淀川水系の川。三坂峠を分水界として山地からの水を集め南に下り、落合で二名川と合わさり東に流れを変え、久万高原町上黒岩で面河川に合流し仁淀川となって下ってゆく。
久万高原町は平成16年(2004)、上浮穴郡久万町、面河村、美川村、柳谷村が合併してできた町。面積は県内市町村で最大である。久万の地名は、名物「おくま饅頭」にその名を残す「おくま」婆さん、三坂峠を越えてきた旅の僧・弘法大師をお饅頭でもてなした「おくま」婆さんに由来する、とも言われる。 お話としては面白いが、実際のところは、この久万高原町、仁淀川上流域一帯が室町の頃より、「久万」と呼ばれていたことに由来するのが妥当なところだろう。
「くま」とは、紀州の熊野と同じく、「山と山に挟まれた奥深いところ、隈」の意、であろうか。そうであるとすれば、『紀伊続風土記』によると、「熊野は隈にてコモル義にして山川幽深樹木蓊鬱なるを以て名づく」、つまり、鬱蒼たる森林に覆い隠されているためという。あるいは、死者の霊がこもる場所とも解釈される。
また、五来重氏によれば;死者の霊魂が山ふかくかくれこもれるところはすべて「くまの」とよぶにふさわしい。出雲で神々の死を「八十くまでに隠りましぬ」と表現した「くまで」、「くまど」または「くまじ」は死者の霊魂の隠るところで、冥土の古語である。これは万葉にしばしば死者の隠るところとしてうたわれる「隠国」とおなじで熊野は「隠野」であったろう。熊野は「死者の国」である、とする。
現在は道路が走り、人の往来も容易になってはいるが、往昔の久万は、山川幽深樹木蓊鬱な一帯ではあったのだろう、とは思うが、どうしたとことで素人の妄想解釈ではある。

宮の前の道標
川を越えた先の旧街道は寸断されているとのこと(「えひめの記憶)。成り行きで進み「えひめの記憶」に宮の前集落の外れにあると言う道標を探す。と、集落端に県道153号から左に入る土径があり、その分岐点に石垣と同化したような道標が立っていた。

土佐街道を進む

県道にスペースを見付け車をデポし土径を進む。遍路道の案内はない。土径はすぐに旧県道や県林業研究センターと繋ぐ舗装道で切れるが、その舗装路の先、一直線に峠に向かう新設されたバイパス県道脇に、草の繁った道筋が見える。そこに入ると「土佐街道」との木標があった。
左上に蛇行して進む旧県道、右に一直線に進む改修された広い県道を見遣りながら進むと、土径はほどなく改修されたバイパス県道に「吸収」され消え去る。後は峠まで改修された広い県道を進む、のみ。

越ノ峠
新設工事で法面補強がされ、「越ノ峠(こしのとお)」から感じる趣からは程遠い、さっぱりした峠に到着。車デポ地から70mほど高度を上げたことになる。「えひめの記憶」には、「(遍路道は)峠近くで蛇行してきた県道(私注;旧県道)と合流するが、その手前50mほどの所で、美川村に向かうもうほとんど消滅に近い旧街道と分岐する。その分岐点に道標が立つ」、というが、バイパス道路で開削され道も消え、道標も移されたのだろうか、結構周囲を彷徨ったのだがその痕跡、道標はみつからなかった。
土佐街道
道標を探すため峠から南へ延びる林道にも入った。メモの段階でチェックするとその道筋は往昔の土佐街道に重なる。久万の町から越ノ峠に上った土佐街道は南に山稜を150mほど上げ、標高700mの「はじかみ峠」に進み、そこから東に有枝川に下り、そこからに西に2キロ上り「色の峠(標高650m)」に達する。色の峠から東に程野の谷に下り、谷筋を南東に下り面河川に面する七鳥に進む。 熊野神社脇の木橋で面河川を渡り対岸の高山、蓑川の谷筋、そして稜線を辿り標高1100m猿楽岩を経て予土国境を越え雑誌山の北の稜線を水ヶ峠へと向かい仁淀川に注ぐ土居川の土居の集落、または土居川が仁淀川に合流する大崎の集落へと下りて行ったようである(「えひめの記憶」)。
本筋からは全く関係ないのだが、街道を地図で辿るのは誠に楽しい。往昔人々が往還したであろう姿を想う。かつての往還は崩壊の危険の多い川筋を避け尾根筋を進むのが基本。往還道が川筋を通れるようになるのは、土木工事の技術が発達する近世以降を待つことになるようだ。

県道153号と209号分岐点
峠から改修前の旧県道をデポ地まで戻り車をピックアップし車で越ノ峠を越え、かつての中野村(現在は久万高原町菅生)に向かって下る。「えひめの記憶」には、「すぐに再び県道を右にそれ、下りの野道を100m余り行くと道標が立つ」とあるが、見つけることはできなかった。
少々の心残りを感じながら道を下ると北へと前述河合の地へと向かう県道153号と209号が分岐する箇所に。未だ谷底まで下りきっていないこの地に、谷を背にしていくつかの顕彰碑が建つ。バス停に「中野村」の名が地図にある。昔の村名の名残を残しているのだろうか。

遍路道の案内
「県道209号 美川松山線45番岩屋寺 日の出橋経由槇谷歩きルート」の案内に従い分岐を右に折れるとすぐに「遍路道」の案内。久万川からここまで何もなかったのが、唐突に現れた。
地図から見るに、すぐに県道に当たるとは思うのだが、とりあえず車をデポし土径の遍路道を下る。直線に下る坂の道はすぐに県道にあたり、傍にお地蔵さまが佇んでいた。
民家の中を抜ける県道に遍路道の案内は見当たらない。デポ地に戻り車をピックアップし大きくカーブする県道を進み、遍路道との合流点を見遣り有枝川の谷筋に下り切る。

有枝川の左岸を下る
有枝川に架かる橋を渡り、県道は有枝川の左岸を1キロほど下り、道の右手に祀られる道祖神やお地蔵さまにお参りし先に進むと、槇谷川に架かる日の出橋に出合う。
「えひめの記憶」には、日の出橋の手前山側に道標があるとあったが、見つからない。日の出橋辺りは大規模な河川改修工事が行われており、その影響でどこかに移されたのだろうか。
それはともあれ、日の出橋の橋桁はなかなか趣のあるものであった。道標を探して彷徨った故のお土産である。
有枝川
有枝川は皿ヶ嶺の山麓より流れ出し南に下り、上述の河合を抜けこの地に至り、更に南下して、河合で久万川に合流する。その少し東は久万川が面河川に合流し仁淀川と名前を変える箇所である。皿ヶ嶺への谷筋は次回予定の六部堂越えの道筋でもあった。

槇谷川右岸を上る
橋脇にある「遍路道」の案内に従い、日の出橋北詰を左折し槇谷川の谷筋に入る。杉林の中、一車線の道を進み槇谷の集落に向かう。



槇谷のお地蔵さまと道案内
集落手前、道の左手にコンクリート被覆されたお地蔵さまと道案内がある。道案内は槇谷林道改築記念碑に刻まれ、大宝寺から中之村、岩屋寺の距離が刻まれる。林道完成は昭和48年と刻まれるが、距離は「丁(私注;約109m)」で表されていた。何となく面白い。

槇谷の道標
集落に入り道の右手、今は使われてはいない建物の前に自然石の道標がある。「えひめの記憶」にある槇谷公会堂前の道標がこれだろう。


□尾根に上る□
遍路道に入る;10時51分
公会堂の先、道の左手にある古き趣の曾鵞(そが)神社にお参りし、舗装された道を進むと最初のカーブ左手に遍路道の案内。車を神社まで戻しスペースにデポし、ここから八丁坂への遍路道を上ることにする。

舗装道を離れ沢に沿って土径を進む。しっかりとした石垣の組まれた廃屋跡を見遣り、一度舗装道に出るが、遍路道はそのまま一直線に進み道脇に石仏が佇む先で舗装道に出る。舗装道はここで行き止まり。ここからは八丁坂への山道に入ることになる。

山道に入る:10時56分(標高592m)
山道に入る手前に案内があり、水峠(みずのとう)まで710m、水場〈905m〉、八丁坂(茶店跡)1,180mとある。
石垣の組まれた数件の廃屋横の道を進み、木々に覆われた沢に沿って進む。道の要所に遍路道の案内があり迷うことはない。

植林帯を抜ける;11時13分(標高700m)
上り始めて20分ほど、沢から離れ標高700m辺りになると植林地帯を抜け、周囲が開ける。木々も自然林となり明るい道を上る。



水峠;11時19分(標高756m)
更に5分ほど歩き標高を50mほど上げると平坦な場所にでる。道脇に石仏が佇む。標識はないが、ここが水峠(みずのとう)だろう。地形図を見ると南東に平坦地が突き出ており、そこから尾根筋が落ちていた。

八丁坂(茶店跡);11時27分(722m)
水峠からは750m等高線に沿って北に向かう。途中ささやかに水の流れる沢があったが、そこが「水場」だろう。岩屋寺への尾根筋を右手前方に見ながら、最後の少し緩やかな坂を下った先に、大きな石碑や石仏そして道標が立つ。 石碑には「遍照金剛」と刻まれ、手印のついたしっかりした道標、そして3基の舟形丁石が立つ。丁石には「廿二丁」「従是岩屋迄十九丁」「いわやへ十九丁と刻まれる(「えひめの記憶」)。ここが八丁坂である。
「八丁坂の茶店跡」
「45番岩屋寺1.9km 44番大宝寺7.0km」と書かれた木標の脇に案内; 「八丁坂の茶店跡 ここは野尻から中野村を経て槇ノ谷から上がる「打ちもどり」なしのコースとの出合い場所です。槇ノ谷は、昔、七鳥村の組内30戸程の人たちが、この道こそ本来のコースでることを示そうとの意気込みをもって、延享5年(1748)に建てた「遍照金剛」と彫った大石碑が建っている」とある。
案内文ママのものであるが、いまひとつ文意がはっきりしない。「打ちもどり」なしのコースとの出合い場所までの遍路道は、今回辿った道であり、その通りであるが、それ以下がわからない。ぱっと読むと「遍照金剛」と彫った大石碑が槇ノ谷に立っているのかと思うのだが、「えひめの記憶」に拠ると、この地に立つ3mほどの大きな石碑がそれである、とのこと。「槇ノ谷」を「槇ノ谷からのコース」とすれば文意は通じそうかと思う。
八丁坂
八丁坂は北の谷筋にある八丁坂の入口からこの地に上る急登のことである。距離は700mであるから距離 を示す8丁(1丁;109m)なのか、胸突き八丁なのか、どちらだろう。
無財七施 遍路五施
石仏でも石碑でもないのだが、槇ノ谷からの遍路道が八丁坂から上ってきた道と合わさるところに立つ木標に書かれている「無財七施 遍路五施」のフレーズが気になった。
「無財七施」はいつだったか足立の炎天寺で知り結構気に入ったフレーズ。お賽銭といった、形あるお布施もいいが、言葉や心など形のないもの、無財のもので施せば施すほど心が豊かになるということだが、その無財の七施(雑宝蔵経)とは
1.眼施:やさしい まなざし いつも澄んだ清らかな眼で人を見よう
2.和顔悦色施:にっこりと笑顔 ほほえみのある顔こそ最高
3.言辞施:親切なひとこと 人を傷つける言葉 いわなくてもいい言葉をつかっていないか
4.身施:きちんとしたおじき みなりをきれいにする
5.心施:あたたかいまごころ 真心をこめる
6.牀坐(しょうざ)施:ここちよい憩いの場 いま自分が坐っている場所をきれいにする
7.房舎施:ここちよいもてなし 家の周辺をきれいにする
ということだが、「へんろ五施」として;身施・和顔施・言施・眼施・心施と木標に書かれてある。遍路行で心すべきことということだろう。

岩屋寺への尾根道
遍路道はここから杉の木立の中、馬の背を越え尾根道を辿る。「岩屋寺まで1.9キロ」といったところである。アップダウンを繰り返し、時に南に開ける場所から山並みを眺め、道脇の木の根っこや路傍に佇む石仏を見やりながら進む。標高のピークは750m程度であるので、快適な尾根歩きではある。峠の茶屋跡からおおよそ30分で750mピークに到着。ここからは岩屋寺のある標高580m地点に向かって下ることになる。

車デポ地に戻る;12時
八丁坂(茶屋跡)から先、岩屋寺に向かう尾根道は一度歩いているので、「打ち戻しなし」の遍路道を繋ぐ散歩は八丁の坂(茶屋跡)でお終い。来た道を下り返し車デポ地に戻る。時刻は?時頃であった。上り下りそれぞれ30分程度といったものであった。


■千本峠越え■
(前半部)
千本峠越え(全行程)

四十五番・岩屋寺から四十四番札所・大宝寺へと「逆打ち」とはなるが、「巡打ち」による「打ち戻し」のない遍路道を繋ぎ、次は「打ち戻し」の遍路道を久万の町まで戻ることなく、三坂峠への道を繋ぐ千本峠越えに向かう。 四国八十八カ所霊場の普及に貢献した真念にしてもそうだが、多くの遍路は久万の町まで打ち戻っている。どの程度のお遍路が千本峠を抜けたかよくわからないが、とりあえず道を繋いでおこうと思う。

千本峠入口;13時11分(標高560m)
槇ノ谷から来た道を戻り、国道33号を少し北に戻り県道12号に乗り換え札所四十四番・大宝寺傍の峠御堂トンネルを抜け、右手に有枝川の刻んだ谷を見下しながら坂を下り河合の集落に。
かつては?軒もの遍路宿があり一晩に300人もの遍路が泊まったという集落に千本峠への案内などないものかと彷徨うが、特に何もない。仕方なく、地図に記載された、千本峠への登山道らしき「実線」が県道と繋がる箇所に向かうと「遍路道」の案内があった。一安心。木標には「高野 1.7km」とあり、千本峠を越えた先の集落である高野までそれほどの距離はない。これも一安心。道脇の広いスペースにデポし、千本峠越えに入る。

林道と分かれ遍路道に;13時18分(標高589m)
植林の中、わりと広い林道といった道を進む。右手には惣津谷の流れが見える。杉木立の中を?分弱進むと右手に遍路道の案内があり、右に分かれる土径に入る。「河合 0.6km 高野 1.3km」の木標を見遣り先に進むと、道は狭くなった惣津谷の沢を渡る。



千本高原分岐;13時20分(標高596m)
惣津谷を右岸から左岸に渡ったところに「高野 1.2km 千本高原キャンプ場 0.5km」の木標があり、その傍に「開拓の地 千本高原 千本高原は今から千数百年前に開拓され、畑野川開拓の第一歩をしるした所です。今では夏大根やりんごなど高原特有の作物が栽培され、またハイキング・キャンプ場として大いに利用されています」との案内板があった。
右に向かえば千本高原、遍路道は惣津谷の左岸を進む。谷は狭くなるが水量は結構多く、滑状の小滝なども見える。

棚田跡の道標;13時33分(標高702m)
7分ほど歩き「高野 1㎞ 河合 0.9km」の木標が立つ辺りから空が開け、前方に棚田跡が見えてくる。手入れはされておらず雑草に覆われている。道脇の「四国の道」の石標などを見遣りながら土径を上ると、棚田跡が切れる辺りの三叉路に木標が立つ。「高野 0.9km 河合 1km 千本高原キャンプ場 0.8km」と書かかれたその木標の立つ三叉路山側に遍路道標があった。周囲に同化し、注意しなければ見逃しそうだ。

三叉路に道標とお地蔵さま;13時37分(標高722m)
周囲の開けた棚田跡を過ぎると、道は木立に覆われた緩やかな尾根筋をトラバース気味に進むことになる。5分ほど歩くと「高野 0.5km 河合 1.4km」の木標があり、2基の道標が立つ。「えひめの記憶」には「峠近くの三叉路に2基の道標が立つ」とあるが、遍路道からの分岐道はほぼ消え去って道はほとんどわからない。
最初記事を読み地図を見たとき、上述「棚田跡の道標」のある箇所が尾根道と上り道の三叉路となっており、そこが「えひめの記憶」にある「三叉路」と思っており、現場で少々混乱してしまった。
ともあれ、この木標のあるところが件の「三叉路」である。「えひめの記憶」を遍路歩きの友としているわが身ではあるが、実際長い遍路道を歩き疲れ果てている方が、険しい旧遍路道を好んで歩いたり、古き道標を気にする余裕などないとも思うが、一応念のため。

千本峠;13時40分(標高737m)
三叉路の道標から数分、傾斜のある道をちょっと上ると狭い鞍部があり、小さな木に「千本峠」と書かれていた。風雪に耐えた一体のお地蔵さまが佇んでいた。岩本素白さんの言う「如何に神とはいえ淋しかろう」ではないが、「如何に仏といえ淋しかろう」と、ちょっと思った。

道標;?時45分(標高722m)
千本峠を越え、前夜の雨のため足場の悪い道を下る。落石注意もうなずける巨石ゴロゴロの箇所を足早に通りすぎると「四国の道」の木標が立つ。その傍の木の根っこに半分壊れた自然石の道標があった。
実のところ、「えひめの記憶」には「峠を下るとすぐ左に道標が」とあり注意して探したつもりではあるが、見つけることができず、ピストンでの戻りの時に何気なく木の根元を見て出合うことができた。ピストン行の賜物である。
地図を見ると、この「四国の道」の木標辺りから右に折れ、700m等高線に沿って高野の集落へと向かう道もあるのだが、遍路道は尾根筋を南に下る。

通行止めの木標;13時51分(標高654m)
遍路道は等高線650m辺りで尾根筋から逸れ、右に曲がり等高線に沿って進むことになる。木標の指示の通りに進めば道に迷う事はない。
四国の道の木標から5分ほど進んだところに「高野 0.5km河合 2km」の木標があるが、そこには「高野方面 通行止め 迂回」の案内がある。迂回路はV字になって高野に向かう。「えひめの記憶」には「遍路道はこの指示どおり進んで高野の集落へ通じていたが、この道は凝灰岩の崩落により潰(つぶ)れ、現在はやや下を迂回してから高野に上がっていく」ともあるため、迂回路がどの程度の距離なのか記載していないが、とりあえず迂回路へと下る。

車道に;13時55分(標高596m)
地図には実線表示のある迂回路を5分ほど、高度を50mほど下げたところで舗装された道に出合う。高野への迂回路の案内はない。木標にV字のルートと記されていたので、右に折れて道を上るのだろうとは思いながら、車道と繋いだのでこの地から車デポ地に下り返すことにする。この箇所まで車を寄せ、遍路道を探そうとの想い。

通行止め木標から高野に向かう;14時5分(標高654m)
舗装された道からピストンで折り返し、通行止めの木標のところに戻る。で、木標をよくよく見ると、通行止めに使われたようなロープが外され木標脇に無雑作に置かれている。
ひょっとすれば通行できる?出来ないにしても、通行止めの因という崩落個所が如何なるものか確認してみようと高野への道に入る。
入った瞬間に倒木が道を防ぐ。大木であり人為的に通行止めのサインに使われたとも思えない。偶然の重なりであろうと思い込んで先に進む。これといった崩壊、崩落箇所はなく、ごくありふれた山道である。一箇所だけ道の真ん中に岩が落ちている箇所があったが、大岩というほどでもない。
岩の崩落個所は何処?など思いながら道を辿ると、前方が開け右手に民家が見えてきた。どうも岩の崩落による道の崩壊は復旧しているようであった。

高野集落の道標;14時13分(標高725m)
民家に向けて野道を上ると木標が立ち、その先はコンクリート補強の崖面に阻まれ道は左右に分かれる。「仰西バス停 2km 高野休憩所 0.1km」とある。
「えひめの記憶」には「T字型交差路に浄瑠璃寺までの里程を示した道標がある。道路崩壊前は千本峠からの道筋にあったものを移設したという」とある。ここがT字路だろう。とすれば道標は?よくみれば木標傍に自然石と見まがう石柱があり、それが道標であった。

高野休憩所;14時15分(標高737m)
遍路道は木標を左に折れるが、とりあえず高野休憩所に向かう。四阿や天満宮の小祠のある休憩所から久万の街並み、聳える山塊を眺め少し休憩。

土径の遍路道分岐;14時24分(標高718m)
休憩の後、T字路の木標に戻り左に折れて進むと車道に出る。「えひめの記憶」 に、「(T字路を)左折して高野道路を少し行き右折して田んぼの畦(あぜ)道、杉林の山道を下って槻之沢(けやきのさわ)に向かう」とある、その「右折」箇所を探す。
道脇の祠に座るお地蔵さまに一礼しながら、車道から分かれる遍路道は?ピストンで戻る関係上、あまり遠くまで下ったところであってほしくないと願いながら道を下ると、道脇に土径に折れる遍路道の案内が見えた。一安心。T字路からは5分もかからなかった。

県道12号に戻る;15時25分
ここから先へ槻之沢に下りることは時間的に無理そう。とりあえず、道を繋ぐ目安箇所を確認し、来た道をおおよそ1時間かけて車デポ地に戻る。

時間は午後3時半。本日の散歩はこれでお終い。高野の土径分岐点から槻之沢の集落を経て国道33号と繋ぐ散歩は次回とする。

0 件のコメント:

コメントを投稿