土曜日, 7月 29, 2017

埼玉 古利根川散歩;川口から葛西用水を大落古利根川合流点まで

往昔、江戸に流れ込んでいたと言う古利根川を辿る散歩も、利根川東遷事業以前の古利根川の主流をなす二つの流れのひとつである会の川を川俣締切跡から三回に分けて歩き()、葛西用水と最接近する「会の川分水工」まで下り、また先日は古利根川のもうひとつの主流であったとされる浅間川筋跡を締切跡から島中領幹線用水に沿って下り十王堀排水路まで歩いた。 会の川筋も、浅間川筋も利根川東遷事業に伴い、その源頭部を失い廃川となるも、東遷事業の目的のひとつである新田開発のため、その廃川跡は用水路・排水路として活用されたようだが、会の川筋は現在も「会の川」としてその名を残し、上記「会の川分水工」で葛西用水と最接近した後、伏越で中川に余水を吐く。
一方、浅間川の廃川跡は、新田の灌漑用用水・排水路として使われ、利根川用水として整備された後、現在は埼玉用水路の下流部、島中領幹線用水路として流れ、途中から古利根排水路として往昔の名残の流路を下り、これも古利根川・浅間川の川筋と言われる、現在の十王堀排水路下流に余水を吐き、中川に合流する。
ここで言う、葛西用水も中川も、自然の川ではなく、人工的に開削された用水である。葛西用水は江戸の頃、中川は大正から昭和にかけて開削されたという。時間レイヤーは異なるにしても、共に利根川東遷事業の結果、廃川となった古利根川跡の新田開発のため旧流路を活用しながら開削された用水路である。

大雑把に言って、古利根川の主流のふたつである会の川筋と浅間川筋は、現在の川口分水工の辺りで合わさり、そこから南流、東流に分かれた、という。この川口分水工から南流する川筋が現在の葛西用水、東流する川筋が中川筋ということになる。
また、もう少し正確に言えば、東流する川筋には、現在の利根川が東遷事業によって人工的に開削される以前、利根の流路に阻まれることなく台地を南流してきた渡良瀬川が合流していたようだ。先回の散歩で出合った稲荷木落もその流路のひとつとも言われる。
現在の中川筋とは、南下した渡良瀬川が島川・権現堂川そして庄内古川を経て松伏の金杉で江戸川に合流していた「渡良瀬川」とみなしても、いいかと思う。 今回の一連の散歩は古利根川を下る旅。会の川筋、浅間川筋を歩いた後は、会の川筋、浅間川筋が合流した辺りという川口分水工を始点とし葛西用水をくだり、葛西用水の送水路として組み込まれた大落古利根川までくだろうと思う。

本日の散歩;東武伊勢崎線・鷲宮駅>青毛新堀川>江川堀>青毛堀川>天王新堀>葛西用水・川口樋前橋>川口分水工>会の川が伏越で中川に落ちる>葛西用水輿八圦跡の碑>中川>北側用水>葛西用水を下る>天王新堀川が接近>葛西橋>東北新幹線>薬王院橋>琵琶溜井に向かう>琵琶溜井分水工>中郷用水・南側用水の分水箇所>日光御成街道道標>大落古利根川起点・葛西橋>葛西用水・青毛堀川合流点へ>中落堀川に沿って久喜駅に向かう

東武伊勢崎線・鷲宮駅
本日の出発点、川口分水工の最寄り駅、東武伊勢崎線・鷲宮駅に向かう。駅の東に水路があった。青毛堀放水路(青毛新堀川)である。鷲宮駅の少し上流で後述する青毛堀川から分かれ、東武伊勢崎線に沿って一直線に下り、2キロほど下流で再び青毛堀川に合流する。
青毛堀放水路(青毛新堀川)
名称からも想像できるように、如何にも河川改修に伴い開削された水路と思える。大正8年(1919)から昭和11年(1936)にかけて青毛堀川の改修工事が実施されたようであり、その時期に開削されたものであろうか。

江川堀
青毛堀放水路を見終え、駅から川口分水工へと向かうのだが、地図を見ると駅の南に水路があり、水路は青毛堀川に合流している。すこし遠回りとはなるが、ちょっと立ち寄る。
道を成り行きで進むと橋にあたる。「くずめこばし」とある。メモの段階でチェックすると、「葛梅小橋」と書き、川は「江川堀」とあった。
江川堀
青毛堀川との合流点
Wikipediaには。「埼玉県加須市船越(西側)と水深(東側)との境界の水深側より端を発し、加須はなさき公園の南側を沿うように東流し、やがて久喜市鷲宮区域内を東流し青毛新堀川と平面交差する。平面交差のために流水の多くは青毛新堀川へと流下するが、江川堀の水路はそのまま東へと進み、砂原1丁目・上内・鷲宮の境界付近にて青毛堀川へと至り、終点となる。なお、青毛新堀川より青毛堀川までの区間では一部を除き、平常時は水がない」とあった。

青毛堀川
江川堀に沿って進む。Wikipediaにあるように水は青毛新堀川に一度落ちたためか少ない。ほどんと水がなくなった先、久喜市立砂原小学校の南端を暗渠で抜けると、何故か水が増えていた。
ともあれ、その先で江川堀は青毛堀川にあたる。Wikipediaに拠れば。「青毛堀川(あおげぼりがわ)は、埼玉県加須市から久喜市までを流れる河川で、騎西領用水(新川用水)およびその分水となる用水路の農業排水路である。久喜市太田地区では青毛を「オオゲ」と発音していたことから、青毛堀川を「オオゲボリ」と呼称する姿が見られる。
加須市下高柳の北青毛堀川(私注;加須市串作)と南青毛堀川(私注;加須市道地)の合流地点に「一級河川青毛堀川起点」の碑が設置されており、久喜市吉羽の大落古利根川との合流地点に「一級河川青毛堀川終点」の碑が設けられている。大落古利根川との合流地点より上流側約200m、葛西橋付近が大落古利根川の起点であり、それを示す標石が橋の袂にある。(中略)青毛堀川という名称は古くには上流より野久喜村までは川幅があまり広くなかったが、青毛村に至り川幅が広くなることからこの青毛村にちなみ青毛堀川という名称がつけられた(後略)」とある。
大落古利根川の起点
葛西用水の流路解説に、大落古利根川が葛西用水の一部に組み込まれている、ってあるのだが、大落古利根川の始点がよくわからなかった。地図で見ると、葛西用水と青毛堀川が合流する下流に「大落古利根川」とあるのだが、どちらの水路のどの辺りが大落古利根川の起点かはっきりしなかったのだが、上記記述で、「(青毛堀川と)大落古利根川(葛西用水と読み替える)との合流地点より上流側約200m、葛西橋付近が大落古利根川の起点、のようである。
騎西領用水(新川用水)
新川用水は加須市騎西町外田ケ谷で見沼代用水から取水し、騎西領(加須市、久喜市)の水田へ用水を供給し、白岡市で元荒川まで流れるが、途中で悪水をこの青毛堀川などの排水路(悪水落)に落としたようであり、結果的には大落古利根川に流れ込み葛西用水の加水の機能も果たすことになった。
この用水は往昔、古利根川の主流のひとつと言われた会の川より羽生市砂山で分かれ、南に下ったとされる日川(にっかわ)の自然堤防の微高地を利用したものと言われる。

天王新堀
青毛堀川を少し上流に進み、成り行きで北に折れる。県道410号を越えると水路にあたる。メモの段階でチェックすると「天王新堀」とあった。Wikipediaに拠れば「江戸時代に天王堀(てんのうぼり)として開削された葛西用水路の排水路で、当初は加須市を起点とする六郷堀とは別の河川であったが、現在では接続し、六郷堀の下流河川となっている。

六郷堀は加須市南大桑と久喜市鷲宮の境界付近に位置する東武伊勢崎線の橋梁西方付近で天王新堀と名を変える。流路は青毛堀川(南側)・葛西用水路(北側)との間をほぼ並行して流下している。久喜市鷲宮などの市街地では都市排水路を兼ねながら流下したのち、鷲宮(西側)と西大輪(東側)において境界を成しながら、水田などの農地の中を流下する。この周辺より野久喜字出来野の北方の水田まで、天王新堀は用悪水路(用水路兼排水路)となり、排水路としてだけではなく水田への用水としても利用されている。
久喜市野久喜および西大輪との境界に設けられている水門(天王堰)にて平沼落川を分水する。久喜市青毛で流路を南方に変え、埼玉県道153号幸手久喜線(久喜幸手新道)を横断、青葉2丁目より流域が再び市街地となり、同地の県営住宅の西側を流れ、青毛堀川に合流する」とある。

六郷堀?どこかで出合った記憶がある。思い起こすと、会の川散歩の三回目に出合った。そのときのメモを、ママ再掲する。
六郷堀
「花崎駅の少し手前で用水路と出合う。左右の護岸は都市型用水路で良く見る、鋼矢板と支保工のセット。継手を嵌め込みながら連続して鋼矢板が撃ち込まれ、鋼矢板の横からの荷重を天端で支保工が支える。当日は昔の農業用水の名残であろうと、まま駅に向かったのだが、メモの段階でチェックすると六郷堀川と呼ばれる用水であった。
源頭部は加須市東栄1丁目辺り(加須駅の東)というが、暗渠ではっきりしない。地図を見ると東に流れ久下浄水場の少し西で開渠となり花崎駅の北を通り、東北自動車道の手前で南に折れ、東武伊勢崎線を越え更に南に進み青毛堀川に落ちる。
が、ここで青毛堀川に落ちるのは余水吐、本流は東北自動車道を越え東に向かい、久喜市鷺宮町に入る。水路は東に向かい、東武伊勢崎線とクロスする手前で余水を青毛堀川に落としながら久喜市鷺宮町に入り、鷲宮神社の北を更に東に向かい、葛西用水手前で南に折れ、葛西用水と並行して南に下り東北本線、東北新幹線を越えて久喜市吉羽で青毛堀川に落ちる。
尚、久喜市鷲宮町に入ると、そこから下流を天王新堀と称する。東武伊勢崎線とクロスする手前で余水を青毛堀川に落としているが、そのあたりが六郷堀川と天王新堀の境であろうか。天王新堀と言えば、鷲宮神社を訪れた時に出合ったことも思いだした。
あれこれ歩いていると、これまたあれこれと繋がるものである。

葛西用水・川口樋前橋
北に進み、県道152号を越える辺りから市街地を離れ、農地の中を進むことになる。しばらく進むと葛西用水に出合う。用水路に沿って少し北に上ると「川口樋前橋」に出合う。
「樋前」の「樋」が何時の時代のものを指すのか不明ではある。この橋の上流にかつて「川口溜井」があったとのことではあるので、圦樋(取水口)のことではあろうかと思う。

溜井
溜井とは灌漑用貯水池と遊水池を兼ねたもの。江戸の川普請に度々登場する伊奈氏の「関東流」治水開発モデルでもある。その特徴とするところは、上流の排水を下流の用水として使用する「循環型」の思想、また洪水対策も霞堤とか乗越堤といった名の通り、河川を溢れさすことで洪水の勢いを制御するといった思想である。
こういった「自然に優しい工法」が関東流の特徴である。しかし、それゆえに問題もあり、なかでも洪水の被害、そして乱流地帯が多くなり、新田開発には限界があった、と言われてもいる。因みに関東流に対するものが見沼代用水に見られる井沢弥惣兵衛為永を祖とする紀州流と呼ばれるものである。
葛西用水と溜井
溜井は葛西用水を特徴づけるものである。現在では行田市下中条の利根大堰(昭和43年;1968)で取水され、東京都葛飾区まで延びる大用水であるが、これははじめから計画されたものではなく、新田開発が進むにつれ、不足する水源を、上流へと求めた結果として誕生したものであり、その歴史的経緯の要点に溜井が登場する。葛西用水と溜井の関係をまとめておく。
亀有溜井
そもそも、葛西の地をはるか 離れた地から延々と葛西の地に下る用水を葛西用水とするのは、この用水のはじまりが葛西領を潤した亀有溜井をもってその嚆矢とする故である。
文禄2年(1593),利根川東遷第一次の工事として伊奈忠次は当時の会の川を川俣地点で締切り,浅間川筋に落とし、この川口の地で二流に分けるも、その主流は渡良瀬川の水も合わせ東へと、現在の中川の川筋(当時中川という川は、ない)である島川・権現堂川、庄内古川を経て金杉で太日川(現在の江戸川)に落とした。
また西遷事業(寛永6年;1629)施行以前の荒川(現在の元荒川)の水も、川口から南に下った古利根川(現在の大落古利根川)と越谷で合さり、これも小合川を経て太日川に落とし、江戸の町を直接利根川の水害から守るという、利根川東遷事業の当初の目的は果たした。
次いで、東遷事業の大きな目的のひとつである新田開発であるが、この目的で最初に設けられたのが「亀有溜井」。水源は荒川西遷事前で水量豊富な綾瀬川に求め葛飾区新宿で水を溜めて葛西領を潤すことになる。
◆綾瀬川
Wikipediaに拠れば、「戦国時代の頃は利根川と荒川の本流であった。当時の利根川・荒川は、今の綾瀬川源流の近く、桶川市と久喜市の境まで元荒川の流路をたどり、そこから今の綾瀬川の流路に入った。
今の元荒川下流は、当時星川のものであった。戦国時代にこの間を西から東につなぐ水路が開削されて本流が東に流れるようになり、江戸時代に備前堤が築かれて綾瀬川が分離した。この経緯により、一部の地図には綾瀬川(旧荒川)の括弧書きが行われる事がある」とある。
地図を見ると久喜市、桶川市、蓮田市が境を接する辺りにある「備中堤」から南に綾瀬川、東に元荒川が流れ、その元荒川は東に進んだ後、久喜市飛地で星川に合流している。上述Wikipediaの説明を元に推測すると、この備前堤から東に流れる元荒川は「戦国時代に開削された西から東へつなぐ水路」であり、星川との合流地点の下流は現在は元荒川ではあるが、かつては星川の流れであり、元来の元荒川は備前堤から南に下る綾瀬川筋であった、ということだろう。
瓦曽根溜井
慶長19年(1614)には新田開発を上流に伸ばし、荒川(現在の元荒川)本流を越谷の瓦曽根で締切り瓦曽根溜井を築堤し、下流域を潤した。
寛永6年(1629)に伊奈忠治は,荒川の西遷事業を開始。これにより元荒川は,水源を失い,瓦曽根溜井の水は枯渇していくことになる。このため幕府は寛永7,8年頃から,元荒川の加用水として水源を太日川に求め、庄内領中島(幸手市)より中島用水を開削し,寛永18年(1641)になると太日川を北に掘り抜いた現在の江戸川開削後は,江戸川に圦樋を移し用水を引いた。
松伏溜井
中島用水は,現在の春日部市八丁目で古利根川(現在の大落古利根川)に落とされることになるが,下流松伏村に松伏溜井が造られる。ここで堰き止められた水は、その一帯を潤しながらも、その流量のほとんどは松伏溜井の末流大吉村から元荒川までの問に新たに開削された逆川用水に流され,瓦曽根溜井まで送水された。この一連の工事の完成は寛永11年(1633)といわれている。
また,この一連の工事により,荒川の瀬替えにより水量が激減していた綾瀬川を水源とする亀有溜井への加用水も可能となる。瓦曽根溜井から一帯を潤していた用水・悪水落を延長し瓦曽根溜井から古綾瀬川へと落とす水路が完成し、亀有溜井は瓦曽根溜井・松伏溜井と繋がった。

川口溜井
承応3年(1654)には利根川東遷による関東平野の治水と利水が一応の安定を得る。それにともない新田開発が一層推進されることになるが,古利根川左岸から旧庄内川の右岸一体、水源を池沼にゆだねていた幸手領(幸手市,杉戸町,春日部市,鷲宮町)においては用水不足をきたすようになる。
その水源として求めたのが東遷事業の完了した利根川である。万治3年(1660)に古利根川本川の本川俣地点に圦樋を設けて南東に水路を開削し,会の川の旧河道を流し,川口地点に川口溜井を造り,権現堂川(島川)筋の加用水として北側用水を開削した。
琵琶溜井
さらに,川口溜井から水路を開削して古利根川の河道につなげられ琵琶溜井が造成され,そこに中郷用水と南側用水の2用水が開削された。琵琶溜井には幸手用水の余水流しに圦樋が設けられ,青毛堀,備前堀等の悪水と一緒に古利根川(現在の大落古利根川)に落し,下流の松伏溜井への加用水として供した。これをもって幸手領用水とした。琵琶溜井は後ほど訪れる。

葛西用水の成立
その後,宝永元年(1704)の大洪水の際に中島用水が埋没したため,享保4年(1719),関東郡代伊奈忠蓬は,幸手領用水の加用水として新たに本川俣の少し上流の上川俣の利根川本線に圦樋を設け,幸手領用水に接続させ,川口溜井と琵琶溜井では圦樋を増設して水量を確保した。以来,本川俣および上川俣の利根川取水から葛西井堀末端までを「葛西用水」と称するようになり,ここに関東地方切っての大用水が形成された。

以上、溜井のまとめをしながら、結局は葛西用水成立の歴史ともなった。葛西用水は利根川の東遷事業、荒川の西遷事業と密接に関連しながら、廃川となった利根川(大落古利根川)の川筋跡を活用しながら、上流へと延びる新田開発に伴い下流から上流へと水源を求め、最終的に利根川にまでたどり着いた、ということであろう。

川口分水工
かつて川口溜井があったであろう水路を少し北にのぼると川口分水工がある。ここが本日の散歩の起点である。
この分水工で本流は南下、そして左岸に北側用水を分ける。上述の如く、かつては川口溜井から加用水として権現堂川(島川筋)に水を流した北側用水であるが、現在は権現堂川用水の加用水となっているようである。
北側用水・権現堂川用水
権現堂川用水は、現在の権現堂川(権現堂川調整池)対岸の中川より分水し、国道4号の東に沿って下り、幸手市内国府間・北2丁目・北3丁目の境界にて西より流下してくる北側用水路に合流し、権現堂川用水路に加水される。その後県道371号の南を東流し、県道371号と交差した後は下吉羽で流路を南に変え、中川の西に沿って平野、中野、長間と下り、北葛飾郡杉戸町に入り、並塚、才場、蓮沼をへて大塚で中川右岸に合流する。

会の川が伏越で中川に落ちる
先日会の川を3回に分けて歩いた最後に、会の川が葛西用水路に最接近する会の川分水工(合流工?)に出合った。ちょっと目には葛西用水路に合流するようにみえるのだが、葛西用水にあわさる水量調整用のゲートがあるにしても、会の川本流はそのまま葛西用水と仕切られた水路を葛西用水と並行して下る。 葛西用水と仕切られる理由は、会の川の水路は葛西用水の水路より低く、洪水時に葛西用水から会の川に逆流することを防止するため、と言う。しばし葛西用水と平行して下る会の川の水路はこの地の調整ゲートで葛西用水を潜り中川に落とされる。

葛西用水輿八圦跡の碑
少し上流の川口橋を渡ると、葛西用水左岸に「葛西用水輿八圦跡の碑」が建つ。 輿(与)八圦とは上流の羽生領(羽生市・加須市)、向川辺領(旧大利根町;現加須市)、島中領(旧栗橋町;現久喜市)の悪水を島川(現.中川)から葛西用水へ加用水(用水の補給)として流入させていた圦樋(樋管)のようである。 万治3年(1660)、幸手領に利根川を水源とする用水整備が始まる以前、羽生領、向川辺領、島中領の悪水は、川口付近で島川(当時は権現堂川の旧流路)と古利根川へ落とされていたようだが、享保4年(1719)の葛西用水の開削に伴い、古利根川筋は島川や浅間川から切り離され幸手領の用水路として整備されたため、上記地域の悪水を幸手領へ流すことができなくなった。
そのため上記地域の悪水は島川に落としていたようだが、島川も権現堂川の高い水位(多分江戸川と繋がれたため?)に阻まれ排水が困難になっていた。その排水のために天保12年(1841)設けられたのが輿八圦である。島川から圦樋(樋管)で葛西用水の加用水として落とした、とのこと。幸手領用水の整備にともなって途絶えていた古利根川筋への悪水落がおおよそ200年の時を経て「復活」したともいえる。
この輿八圦も昭和初期に実施された中川の改修によって、羽生領の悪水を中川へ落とすことになったため廃止され、羽生領の悪水は現在、川口分水工の付近で、中川放流工を経由して、中川に落とされているようである。

中川
葛西用水の直ぐ東に中川が流れる。「中川」とはいうものの、前述の如くこの川は「人工的」に造られたものであり、それも大正から昭和初頭にかけて出来上がったものといっていいだろう。
Wikipediaに拠れば、「現在の中川の流路は、その上流部は明治時代以前の庄内古川(幸手市高須賀より上流は島川)と、下流部の古利根川(利根川東遷事業以前の利根川本流で東京湾へ注ぐ河口部は現在の旧中川)とを、松伏町大川戸から松伏町下赤岩まで大正・昭和時代に開削された河道で接続して造られた。それ以前は古利根川が亀有付近で分流した河道のうち、江戸川区西葛西付近の河口へ向かう河道を中川と呼んだ」、とある。
もう少し詳しくまとめると;
現在の中川は羽生市を起点とし、埼玉の田園地帯を流れ東京湾に注ぐ全長81キロの河川。起点は羽生市南6丁目あたり。宮田橋のところで葛西用水を伏越で潜り、宮田落排水路(農業排水路)とつながるあたりが起点、とか。
中川には山岳部からの源流がない。低平地、水田の排水を34の支派で集めて流している。源流のない川ができたのは、東遷・西遷事業がその因。江戸時代、それまで東京湾に向かって乱流していた利根川、渡良瀬川の流路を東へ変え、常陸川筋を利用して河口を銚子に移したこと。また、利根川に合流していた荒川を入間川、隅田川筋を利用して西に移したことによって、古利根川、元荒川、庄内古川などの山からの源流がない川が生まれた。
現在の中川水系一帯に「取り残された」川筋は、古利根川筋(隼人堀、元荒川が合流)と島川・庄内古川筋(太日川。後の江戸川に合流)に分かれていた。幕府は米を増産するために、この低平地、池沼の水田開発を広く進め、旧川を排水路や用水路として利用した。が、これは所詮「排水路」であり「用水路」。「中川」ができたわけではない。
中川水系の水田地帯を潤し、そこからの排水を集めた島川も庄内古川も、当初その水を江戸川に水を落としていた。が、江戸川の水位が高いため両川の「落ち」が悪く、洪水時には逆流水で被害を受けていたほどである。
低平地の排水を改善するには、東京湾へ低い水位で流下させる必要があった。そこで目をつけたのが古利根川跡(大落古利根川)。古利根川筋は最低地部を流れていた。島川や庄内古川を古利根川とつなぐことが最善策として計画されたわけである。実際、江戸川落口に比べて古利根川落口は2m以上低かったという。
この計画は大正5年(1916)から昭和4年(1929)にかけて外周河川である利根川、江戸川および荒川の改修に付帯して実施された。
島川は利根川の改修で廃川となった権現堂川を利用したうえで、幸手市上宇和田から杉戸町椿まで約6キロを新開削して庄内古川につながれた。庄内古川は松伏町大川戸から下赤岩まで約3.7キロ開削して古利根川につながれた。こうして「中川」ができあがった。
また、昭和22年(1947)カスリーン台風の大洪水のあと、24年(1949)から37年(1962)にかけて放水路として新中川も開削される。都内西小岩から河口までの約7.6キロ、荒川放水路計画の中で用水路に平行して付け替えて綾瀬川を合流させた。こうして中川・新中川が誕生した。ちなみに、中川って、江戸川と荒川の「中」にあったから。とか。
大雑把に言って、利根川の東遷事業、荒川の西遷事業によって「取り残された」埼玉中央部の川筋を、まとめ直した川筋をして中川水系、と言ってもいいだろう。


利根川東遷事業
葛西用水輿八圦跡の碑の少し北に、先回下った浅間川筋の旧路である大王堀排水路が中川に合流する。対岸の高柳地区は江戸の頃、浅間川締切の地でもある。浅間川の高柳地区での締切は元和7年(1621)、利根川東遷事業の新川通りの開通に合わせてのことである。

デテールに入り込み、東遷事業の全体像が見えなくなってきた、ちょっとここで利根川東遷事業に関わる利根川の河道の変遷をまとめておく;利根川は群馬県の水上にその源を発し、関東平野を北西から南東へと下る。もともとの利根川の主流は大利根町・埼玉大橋近くの佐波のあたりで、現在の利根川筋から離れていた。流れは南東に切れ込み、加須市川口・栗橋町の高柳へと続く。その流れは浅間川とよばれていたようだ。地図を見ると、現在は「島中(領)用水」が流れている。が、これは昔の浅間川水路に近い。
で、ここから流れは「島川筋(現在の「中川筋」)を五霞町・元栗橋に進んでいた。ここで北方、古河・栗橋・小右衛門と下ってきた渡良瀬川(思川)と合流し、現在の権現堂川筋を流れ、幸手市上宇和田から南へ下る。上宇和田から先は、昔の庄内古川、現在の中川筋を下り江戸湾に注ぐ。これがもともとの利根川水系の流路であった。
この流路を銚子方面へと変えるのが利根川東遷事業。はじまりは江戸開府以前に行われた「会の川」の締め切り工事。文禄3年(1594年)、忍城(行田市)の家老小笠原氏によって羽生領上川俣で「会の川」への分流が締め切られることになる。利根川は往古、八百八筋と呼ばれるほど乱流していたのだが、「会の川」はその中の主流の一筋であり、南利根川とも呼ばれていた。
会の川は加須市川口、現在川口分流工のあるあたりで、ふたつに分かれる。ひとつは島川筋(現在の中川)、もうひとつは古利根川筋(現在の葛西用水の流路)。実際、現在でも中川と葛西用水は川口の地で最接近している。こういった流れの元を閉め切り、南への流れを減らすべくつとめた。これが「会の川」締め切り、である。
ついで、元和7年(1621年)、浅間川の分流点近くの佐波から栗橋まで、東に向かって一直線に進む川筋を開削。これが「新川通り」とよばれるもの。この「新川」開削に合わせて、高柳地区で浅間川が締め切られた。そのため、島川への流れが堰止められ、川筋は高柳で北東に流れ伊坂・栗橋に迂回。そこから渡良瀬川筋を下り、権現堂川から庄内古川へと続く流れとなった。「新川通り」は開削されたものの、すぐには利根川の本流とはなっていない。この人工水路が、利根の流れを東に移す本流となったのは時代をずっと下った天保年間(1830年‐44)頃と言われる。
この「新川」の延長線上に開削されたのが「赤掘川」。栗橋から野田市関宿まで開削される。赤堀川も当初はそれほど水量も多くなく、新川の洪水時の流路といったものであったようだ。が、高柳・伊坂(栗橋町)・中田(古河市)へと流れてきた利根川水系の水と、北から下り、中田あたりで合流した渡良瀬川の水をあつめ、次第に東に流すようになったのであろう。
「新川通り」の開削といった、利根川の瀬替えにより、利根川水系・渡良瀬川水系の水が権現堂川筋から庄内古川(中川)に集まるようになった。結果、沖積低地を流れる庄内古川が洪水に脅かされることになる。その洪水対策として実施されたのが「江戸川」の開削。庄内古川に集まった水を江戸川に流す工事がはじまる。
江戸川は太日川ともよばれていた常陸川の下流部であった。この江戸川を庄内古川とつなぐため、北に向かって関東ローム層の台地が開削される。関宿あたりまで切り開かれた。17世紀中頃のことである。
この江戸川とつなぐため、上宇和田から江戸川流頭部・関宿まで権現堂川が開削される。同時に、権現堂川から庄内古川へ向かう流れは閉じられた。この結果、栗橋で渡良瀬川に合流した利根川本流は、栗橋・小右衛門・元栗橋をとおり権現堂川を下り、関宿から江戸川に流れることになった。こうして、南に向かっていた利根の流れを東へと移し替えていったわけである。
ちなみに、現在関宿橋のあたりから江戸川・利根川の分岐点あたりまでは寛永18年(1641年)に開削されたもの。当時、逆川と呼ばれていたようだ。関宿の少し南、江川の地まで開削されてきた江戸川と、赤堀川、というか、常陸川水系をつなぐことになる。
で、この逆川は複雑な水理条件をもっていた、と。『日本人はどのように国土をつくったか;学芸出版社』によれば、普段は赤堀川(旧常陸川)の水が北から南に流れて江戸川に入る。が、江川で「江戸川」と合流する川筋・「権現堂川」の水位が高くなると、江戸川はそれを呑むことができず、南から北に逆流し、常陸川筋に流れ込んでいた、ということである。

北側用水
左に中川、右に葛西用水を見遣りながら川口分水工まで戻る。北川用水をその雰囲気だけでも感じてみようと、ちょっと水路に沿って歩く。少し進み、下川面橋で右に折れ、葛西用水に戻る。
北側用水路の流路
北側用水路(きたがわようすいろ)は、埼玉県加須市・久喜市・幸手市を流れる農業用水路である。北側用排水路(きたがわようはいすいろ)とも称される。 埼玉県加須市川口の葛西用水路より分水し、主として中川の南側を沿うように流下し、中川南側の水田地域を灌漑する。幸手市内国府間・北2丁目・北3丁目の境界にて北より流下してくる権現堂川用水路と合流し、北側用水路は終点となる。

葛西用水を下る
北側用水から葛西用水に戻り、南に下る。ほどなく、用水をコンクリートの蓋が覆う。何だろう?衛星写真で見ると、コンクリート蓋と同じ幅で用水左岸に区画された土地が見える。その東にも不自然に広いスペースが見える。この辺りまで権現堂堤が続いていた、というのでそれと関連あるのだろうか。不明である。
それはともあれ、新橋、金山橋、新古川橋、古川橋と鷲宮の街中を下ってゆく。さらに、霞が関橋、上古川橋、柳橋、上河原橋と進むと右手から天王新堀が接近してくる

天王新堀川が接近
葛西用水が県道3号と交差する辺りで天王新堀が最接近。天王新堀は本日の散歩のはじまりの辺りで出合った。上述の如く、流路は青毛堀川(南側)・葛西用水路(北側)との間をほぼ並行して流下。久喜市鷲宮などの市街地では都市排水路を兼ねながら流下したのち、鷲宮(西側)と西大輪(東側)において境界を成しながら、水田などの農地の中を流下する。この周辺より野久喜字出来野の北方の水田まで、天王新堀は用悪水路(用水路兼排水路)となり、排水路としてだけではなく水田への用水としても利用されている。
久喜市野久喜および西大輪との境界に設けられている水門(天王堰)にて平沼落川を分水し、久喜市青毛で流路を南方に変え、埼玉県道153号幸手久喜線(久喜幸手新道)を横断、青葉2丁目より流域が再び市街地となり、同地の県営住宅の西側を流れ、青毛堀川に合流する。
平沼落川
Wikipediaに拠れば、「埼玉県久喜市野久喜と西大輪との境にある天王新堀川との分流地点(天王堰、溜井および水門が設けられている)を起点とし、久喜市青葉1丁目と5丁目の境目の地点より青毛堀川に合流・終点となる。 久喜市青葉はかつて平沼土地区画整理事業が行われる以前、(中略)湿田などの耕地であった。平沼とは(中略)青毛堀川の東側に存在していた低地であり、主に水田として利用されていた土地である。またこの水路は平沼落(ひらぬまおとし)とも称される。
平沼土地区画整理事業が立ち上がると、それまでの農業地域から市街化への変化に伴い、これらの水路の流路は整理され、用排水路はほぼ一本の水路としてまとめられた。そして現存しているのが平沼落川である」、とある。

葛西橋
県道3号下平井橋を潜り、河原橋を越え、天王堀川と並走する葛西用水を下ると前方にJR東北本線、左手の土手上に東武伊勢崎線が見えてくる。葛西用水が JR東北本線と交差する手前に架かる葛西橋の辺りで、天王新堀が再び最接近。東武伊勢崎線も土手でJR東北本線を跨ぐ。少し西に青毛堀川が流れるため、東武伊勢崎線もここを通るのであろうが、水路や線路がすべて集まり、結構面白い姿となっている。
JR東北本線の出来野踏切は、天王新堀に架かる天王橋を渡り南に越え、人道橋の外野橋を渡り葛西用水に戻る。

東北新幹線
天王新堀と並走し先に進むと東北新幹線の高架が見えてくる。その高架か北西に高架が分岐している。何だろう?チェックすると、JR東北本線・東鷲宮駅にある新幹線保線基地とつなぐ路線であった。

薬王院橋
平沼落
新幹線の高架を潜り先に進むと薬王院橋に出合う。このあたりから西に向かう葛西用水と南に下る天王新堀が離れてゆく。
地図を見ると薬王院橋の少し南で天王新堀からの分流がみえる。上述の平沼落の溜井、堰らしきものがあった。

琵琶溜井に向かう
葛西用水に沿って小さな水路が並走するが、その水路は天王堀川から分かれた平沼落川ではあろう。少し東に進み流路を南に変えて青葉1丁目と5丁目の境目へと続く水路が見える。
葛西用水は東に向かい大きく弧を描く。途中で、たまや橋、だいにち橋、へいせい橋と続き、県道153号に架かるさいわい橋を越え、べんてん橋を過ぎると 水路が心持ち広くなってくる。琵琶溜井分水工が近づいてきた。

琵琶溜井分水工
ゲートを設けた分水堰が見える。かつての琵琶溜井はこの辺りにあったのだろう。万治3年(1660)に琵琶溜井が設けられた頃は溜池に設けた樋管から中郷用水と南側用水に分水していたとのことだが、現在はコンクリートの隔壁による直流式の定比分水路となっている。昭和37年(1962)に改修されたようだ。 用水への分水量を巡る諍いのもととなった番水制度(取水地域と時間の管理)も廃止された。琵琶溜井分水工の右岸に水路改良記記念館があるが門は締め切られていた(通常締め切られているようである)。
琵琶溜井
既にメモしたが、大雑把にまとめると、承応3年(1654)には利根川東遷による関東平野の治水と利水の安定ともない古利根川左岸から旧庄内川の右岸一体の水田開発も進むが、水源を池沼にゆだねていた幸手領(幸手市,杉戸町,春日部市,鷲宮町)においては用水不足をきたすようになる。
その水源として求めたのが東遷事業の完了した利根川である。万治3年(1660)に古利根川本川の本川俣地点に圦樋を設けて南東に水路を開削し,会の川の旧河道を流し,川口地点に川口溜井を造り,権現堂川(島川)筋の加用水として北側用水を開削。
さらに,川口溜井から水路を開削して古利根川の河道につなげられ琵琶溜井が造成され,中郷用水と南側用水の2用水が開削された。琵琶溜井には幸手用水の余水流しに圦樋が設けられ,青毛堀,備前堀等の悪水と一緒に古利根川(現在の大落古利根川)に落し,下流の松伏溜井への加用水として供した。これをもって幸手領用水とした。

中郷用水・南側用水の分水箇所
琵琶溜井戸分水工の少し南にある葛西用水に架かる栄水橋を渡り、葛西用水を見遣り、西に進み県道65号の栄水橋東詰交差点辺りから葛西用水から分かれる中郷用水、南側用水の分流点を確認する。
中郷用水
Wikipediaに拠れば、「中郷用水路(なかごうようすいろ)は、埼玉県幸手市・北葛飾郡杉戸町を流れる農業用水路である。埼玉県幸手市大字上高野の葛西用水路・琵琶溜井より分水し、主として倉松川周辺の水田地域を流下し、幸手市南西部および北葛飾郡杉戸町の中央部を灌漑する」とあり、余水は中川に吐く。
南側用水
埼玉県幸手市大字上高野の葛西用水路・琵琶溜井より分水し、主として大落古利根川より東側の水田地域を灌漑する。用水路は現在でも開削当時の面影を残す素掘りの区間が多い。北葛飾郡杉戸町杉戸4丁目より周辺は市街地となり、南側用水路は暗渠化され地上は遊歩道となる(Wikipedia)。


日光御成街道道標
県道65号・栄水橋東詰交差点脇に石橋があり、「史跡 御成街道道しるべ」と書かれた木標があった。馬頭観音が道標を兼ねているとのことで、「西、く起(久喜)/志よう婦(菖蒲)/かず(加須)、道 右 日光/左 い王つき(岩槻)、道 と刻まれている」とのことである。
日光御成道
日光御成道(にっこうおなりみち)とは、江戸時代に五街道と同様整備された脇往還の一つである。中山道の本郷追分を起点として岩淵宿、川口宿から岩槻宿を経て幸手宿手前の日光街道に合流する脇街道である。将軍が日光社参の際に使用された街道であり、日光御成街道(にっこうおなりかいどう)とも呼ばれている。

大落古利根川起点・葛西橋
葛西用水に戻り、下流へと。圏央道の高架を潜れば葛西用水と青毛堀川との合流点も近い。合流点から下流は基本的に葛西用水の一部として組み込まれている「大落古利根川」である。

葛西用水の左岸には青毛堀川との合流点付近には橋が無いため、右岸を進み、合流点手前の「かさい橋」に。「大落古利根川」の起点を探す。「青毛堀川と大落古利根川との合流地点より上流側約200m、葛西橋付近が大落古利根川の起点であり、それを示す標石が橋の袂にある」とのことだが、見つけることはできなかった。

葛西用水・青毛堀川合流点へ
葛西橋を右に折れ、青毛堀川に沿って少し戻り迂回して葛西用水・青毛堀川合流点に向かう。再び圏央道を潜り「かわら橋」、その上流の「江口橋」辺りに「大落古利根川起点」の標石がないものかと彷徨うが、見つからなかった。
起点標石探しは諦め、青毛堀川を葛西用水との合流点まで進む。一応合流箇所を確認し、合流点の下流「大落古利根川」をそのまま下る。
本日の散歩はこれで終わり。最寄りの駅である久喜駅に向かう。

中落堀川に沿って久喜駅に向かう
どうせのことなら水路に沿って駅に向おうと、大落古利根川を少し下ったところで合流する水路に進む。水路を上っていけば久喜駅に繋がる。
この水路、途中で「中落古川」とわかったのだが、水路に沿って道はない。なんとかなるかと、そのまま進む。少々難儀なところもあったが国道368号を越え「備中岐橋」に。
そこから先は川に沿って歩けそうもないので、成り行きで進み、向地橋辺りで再び中落堀川にあたり、其処から先は水路に沿って整備された道を向地大橋へと進み、水路に沿って久喜の駅前まで戻り、一路家路へと。
中落堀川
Wikipediaをもとに簡単にまとめると、「中落堀川(なかおとしほりがわ)は、埼玉県北東部を流れる準用河川である。歴史は比較的古く、元禄6年(1693年頃)にすでに排水路として描かれている。昭和29年(1954)に合併するまでは、久喜町(現:久喜地区)と太田村(現:太田地区)の町村界を成していた。
今日では、久喜駅の北北西数キロメートルの場所を起点に、久喜区域の市街地を西から東へほぼ貫流し、いくつかの水路と合流した後、大落古利根川に合流・終点となる。久喜駅北側(東口)より本川終点までコンクリート護岸がなされている。

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