土曜日, 3月 17, 2018

伊予 歩き遍路;六十一番札所・香園寺から六十三番札所・吉祥寺へ

周桑平野の生木道を辿り、小松の大頭から湯浪に向かい六十番札所・横峰寺への登山口を繋ぐ順打ちの遍路道、また、同じく周桑平野の香園寺道を辿り六十一番香札所・香園寺から岡村を経て六十番札所・横峰寺へと上る登山口までの逆打ち遍路道をメモした。

順打ち、逆打ちとは言うものの、湯浪からの順路道を横峰に上り、復路を岡村に下れば、逆打ちルートは順打ちルートの一部となり、また、香園寺からの逆打ちルートから横峰に上り、復路を湯浪に下れば、順打ちルートは逆打ちルートの一部になるのだが、それはそれとして、この散歩を以て、いつだったか六十一番香園寺奥の院から逆打ちで六十番札所・横峰寺に上り、湯浪へと下りた遍路道と繋いだ。

今回から、六十一番札所・香園寺から四国中央市、法皇山脈の山腹にある六十五番三角寺までの辺遍道を数回に分けて繋ぐことにする。通過する行政区は西条市、新居浜市、四国中央市。新居浜市は生まれ故郷である。気まぐれに歩いた、愛媛のいくつかの峠越えの遍路道を、ついでのことながらと一気通貫につなごうと南予の予土国境からはじめた遍路歩きも、やっとホームグラウンドに戻ってきた。
当然のことながら、この香園寺から三角寺への道筋は土地勘があり過ぎ、知らないところを歩いてみたい、という散歩の醍醐味は少々薄れるため、いまひとつ散歩のメモをするモチベーションには欠けるのだが、ともあれ散歩のメモをはじめる。
第一回は六十一番札所・香園寺からはじめ、六十二番札所・宝寿寺を打ち六十三番札所・吉祥寺まで。実際は六十四番札所・前神寺までカバーしたのだが、小松の町のあれこれにメモが長くなったため、吉祥寺から前神寺までのメモは次回に廻す。


本日のルート;
香園寺から宝寿寺へ
六十一番札所・香園寺参道前の3基の道標>三嶋神社>三嶋神社東に茂兵衛道標>藤木橋
陣屋経由の道
遍路道分岐箇所の茂兵衛道標>西町地蔵>かぎ型箇所の道標>屈曲させた金毘羅道の道標>駅前通りとの交差箇所
寄り道
●近藤篤山旧邸●本善寺●中央公民館入口左手に道標●養生館●小松陣屋跡

宝寿寺へのその他の遍路道
●藤木橋から直進する遍路道●陣屋経由のバリエーションルート

陣屋経由の道を宝寿寺へ
JR四国・小松駅前の道標>六十二番札所・宝寿寺

宝寿寺から吉祥寺へ
小松駅東踏切に利平道標>御大典記念の道標>常夜灯>茂兵衛道標>北門の徳右衛門道標>六十三番札所吉祥寺


六十一番札所・香園寺から六十二番札所・宝寿寺へ


六十一番札所・香園寺参道前の3基の道標
香園寺から六十一番札所・宝寿寺に向かう。香園寺の参道を北東に進み先般歩いた五差路に出る。車道の北側には3基の道標が立つ。手印と共に清楽寺への道を示した円柱の利平道標、「右へんろ」と刻まれた小さな道標、手印と共に「六十一番香園寺 六十二番寶壽寺」が刻まれた面と、矢印のようなマークと共に「六十番横峯寺」と刻まれた道標が、「61番香園寺 0,2km」「62番宝寿寺1.2km」と書かれた「四国のみち」の木標脇に並ぶ。

「えひめの記憶」には、かつての遍路道は「清楽寺から三嶋神社前の三差路を経て、三嶋神社左手の田んぼの小道を通って、香園寺へと進んでいたようであるが、現在その道は残っていない」とある。
その道は残っていないようではあるが、三嶋神社の鎮座する丘陵を越えて国道11号線手前まで辿るルートも遍路道、といった記事をどこかで見たような気もするので、確たる根拠もないのだが、とりあえず神社のある独立丘陵に進むことにした。


三嶋神社境内社・花陵神社
道標脇の注連縄の張られた鳥居を潜り、三嶋神社の鎮座する独立丘陵に上ってゆく。丘陵に上ると左手に小さな社がある。花陵神社である。嘉永7年(1854)、三嶋神社を新宮原(清楽寺の東辺り)からこの丘陵に遷座した時、武器や勾玉、須恵器などが発掘され、この丘陵が古墳であることがわかったようだ。後年のことではあろうが、この地の古墳は20基から成る古墳時代後期の群集古墳であるとされ、花陵神社は開掘の際に多数出土した石棺の人骨、副葬品を奉斎し、その霊を神として祀っている、とある。
三嶋神社の境内である丘陵西部の群集古墳地帯、といっても、これといってそれらしき古墳を目にするわけでもないのだが、ともあれ、丘陵西部から東部に向かうと三嶋神社の社殿に出る。

三嶋神社東に茂兵衛道標
三嶋神社のあれこれは、過日のメモに任せるとして、石段を下り参道鳥居の右手に立つ円柱の利兵衛道標、角柱の金比羅道標を見遣り、三嶋神社の道を隔てた東側に立つ茂兵衛道標脇の金比羅道に向かう。
茂兵衛道標には、正面には「六十一番 香園寺」左面には「六十二番一の宮宝寿寺」とともに、「旅う禮し 太だ一寿じ尓 法の道」と刻まれる(旅うれし ただひたすらに法の道)。
●金比羅道
いつだったか松山から桜三里を越えて、金比羅街道が中山川を渡る史跡 釜之口井堰へと辿ったことがある。大雑把に言って、そこから中山川を渡り国道11号の南や北、また国道11号と合わさった旧道を進むのが金比羅街道である。

藤木橋
茂兵衛道標脇の道を東に進むと小松川に架かる藤木橋に出る。現在の橋は昭和43年(1968)に架設されたものであるが、ひとつ上流に架かる大正モダンの香りを残す小松橋が大正15年(1926)に完成する以前は、遍路道でもある金比羅街道に架かるこの藤木橋が陣屋町である小松の往来の中心であったようだ。




陣屋経由の道


遍路道分岐箇所の茂兵衛道標
橋を渡ると道は二つにわかれる。右の道は、小松藩時代の陣屋町を通る遍路道(金比羅街道)、直進の道は現在多くの歩き遍路に利用されている道である。分岐点辺りの道の北、ガードレールの外に茂兵衛道標が立つ。「四國第六十二番一之宮道」と刻まれる。一之宮とは六十二番札所・宝寿寺のことである。一之宮の別当寺であった故の表記であろう。
道標は直進する遍路道を案内するが、右に折れ小松陣屋町を抜ける金比羅街道の遍路道を辿る。

西町地蔵
分岐を右に入ると西町。ほどなく道の右手に西町地蔵尊を祀るお堂。三代藩主頼徳の頃、享保8年(1723)天然痘退散を願い東西南北に設けられた地蔵尊のひとつ、とのことである。町の東西南北に地蔵尊が祀られる。







かぎ型箇所の道標
東進し、小松小学校の角で右折。立派なお屋敷である山本邸に沿って進む。途中に道標。「右遍んろ道」と刻まれる。弘化4年(1847)に立てられたもの、という。
右折する道筋は、小松陣屋建設にあたり、古くからの官道(金比羅街道)の東西二箇所を屈曲させ、防備体制を整えたもの。ここはその西の屈曲部。往昔の金比羅街道は現在の道筋とは異なり、ここを右折することなく直進していた、ということだ。

「えひめの記憶:愛媛県生涯教育センター」には、「小松藩の町づくりは、初代藩主直頼の命を受けた小松藩家老喜多川与次右衛門を責任者として進められ、三代藩主頼徳(よりのり)の時代に町としての体裁が整えられたと言われている。 彼らは道路を建設する際、陣屋町を防御するために角(かど)と突き当たりを各所につくり、見通しを悪くした。この名残は金毘羅街道にも見られ、東西の端がかぎ型に曲折している。
主な町筋は西から東西方向に、小松川を渡って西町、中町、本町と続き、常磐(ときわ)神社前で南北に曲がって横町、さらに東西に曲がって東町と続き、東町地蔵の前を通って氷見に向かう。大正13年(1924年)に常磐神社と小松町役場(当時は西町にあった)を移し、その跡地に道路ができるまでこの通りが小松市街地のメインストリートであった」とある。

屈曲させた金毘羅道の道標
右折した遍路道は、すぐ南で左折。小松橋から続く道筋を東に進むことになる。西町・中町を進むこの道筋は、陣屋建設に際し屈曲させた金比羅道である。少し東に進むと白壁の土蔵の手前に道標が立つ。「六十番 大峯寺」と刻まれる。
大峯寺
ここにある大峰寺とは六十番札所・横峰寺が明治4年(1971)の神仏分離令により廃寺となり、明治42年(1909)に元に復すまで一時期称した寺名である。経緯は明治4年(1871)、神仏分離令への対応策として、石鎚神社横峰社となり、明治12年(1897)に大峰寺、明治18年(1885)に六十番札所大峰寺、そして明治42年(1909)に横峰寺に復す。

六十番札所としての横峰寺が「消えた」時期は、六十番前札所である清楽寺が六十番札所清楽寺となり、横峰寺が明治18年(1885)に六十番札所・大峰寺に復したとき、清楽寺は六十番前札所に戻った。
ということは、この道標は明治18年(1885)から明治42年(1909)の間に立てられたものということになる。只、手印は東を指しているのだが、横峰寺に向かうには南に進むことになる。どこから移されたものだろう。

駅前通りとの交差箇所
道標から200mほど東に進むと、駅前通りと交差する。遍路道は、ここを左折し、駅前通りを北に進み、国道11号を横切り、小松駅前を左折し六十二番札所・宝寿寺に至るのだが、ここでちょっと寄り道し陣屋町を歩くことにする。







寄り道

近藤篤山旧邸
駅前通りとの交差箇所に近藤篤山邸がある。
「県指定文化財 史跡 近藤篤山旧邸
近藤篤山旧邸は小松藩(一万石・藩主は一柳家)の藩校(養生館)の儒官・金堂篤山先生が、文化三年(1806年)から弘化三年(1846)、八十一歳で亡くなるまでの四十年間を過ごした屋敷跡です。
篤山先生は優れて高邁な人柄から、「伊予聖人」と尊称され、江戸後期の教育・文化・精神に多大の功績を残しました。
この先生の業績を称えて、当地は昭和二十四年九月に愛媛県文化財に指定され、屋敷は復元整備され公開されています 西条市教育委員会」と案内にある。
本善寺
篤山旧邸の道を隔てた西側に小松藩の藩寺である本善寺。案内をまとめると「山号を聞名山(もんみょう)、院号を得生院とする法然宗祖の浄土宗の総本山、知恩院の直末寺。
寛永十三年(1636)、小松藩初代藩主・一柳直頼が、病没した父直盛の遺領を継いで小松に入封した際、付従った家臣荒木重勝によって創建された小松藩士の菩提寺。
本尊は平安末期から鎌倉初期の作と言われる阿弥陀如来像。荒木重勝が奉じたものとされ、制作当時の美しい姿を残す。
山門の額「聞名山」は当代随一の能書家として知られる三代藩主一柳直卿(頼徳とも)の書になるもので、阿弥陀如来像とともに市の指定文化財となっている」とする。
中央公民館入口左手の道標
本善寺の道筋を少し西に進むと中央公民館。入口左手に道標が置かれる。下半分が土に埋もれており、手印と共に「六十三番」までが読める。昭和54年(1979)の公民館開館とともに移設されたというが、詳細は不明(「えひめの記憶」)。



養生館
本善寺から更に一筋南、先回の散歩で訪れた仏心寺から東に延びる道筋と駅前通りが交差するところに大きな石碑が立つ。養生館跡である。案内をまとめると、「養生館とは小松藩の藩校。七代藩主・一柳頼親公は、享和二年(1802)、藩校である「培達校」を開校。翌享和三年(1803)、近藤篤山先生を賓師の礼をもって招く。
近藤篤山先生は藩の参政でもあった竹鼻正脩と相談し、藩校を「養生館」と改め、江戸の昌平黌の制度も取り入れ、施設の拡充と教育内容の充実に努め、藩士の子弟に主として漢学や習字などの指導を行った」とある。
養生館は後に庶民にも入学が許可されるようになった、とのことである。因みに、「培達」とは古代朝鮮王朝の雅号でもある。藩校との関連は不詳。
小松陣屋跡
養生館跡北側の道を東へと進むと民家脇に「小松陣屋跡」の石碑と陣屋見取図があった。見取図によると太鼓櫓のあった辺り。右手に櫓門(やぐらもん)が見える。そこが正面入口のようだ。
小松陣屋は西条藩に移封された一柳監物直盛の急死を受け、遺領のうち周敷郡11か村と新居郡4ケ村、計1万石を領した三男直頼が立藩。寛永14年(1637)に陣屋建設の地を西条藩の氷見村と接する新屋敷村のこの地に決め、地名も小松と改める。小松が生えていたのだろう。陣屋建設は翌年より東西五十間、南北六十間、坪数317坪の縄張りで始められた、とのことである。
因みに柳監物直盛の遺領のうち、長男の直重が西条藩3万石を相続して2代藩主となる。また二男直家は播磨国(兵庫県)加東郡及び伊予宇摩郡・周布郡に2万8600石を領し、川之江に陣屋を構えた。
ということは、小松以東の伊予はすべて一柳家の領地であり、陣屋の備えも、西に対する防御を重視したという。とはいうものの、長男が領した西條藩は直重の子直興の代に勤仕怠慢の理由により除封され松平氏が入り、また、二男直家も但馬国出石城主小出吉親の次男直次を養子として幕府に届け出たが、許可がおりる前に寛永19年(1642年)に病没。末期養子が認められず直次は播磨国小野に一万石で移され、伊予の地は幕府直轄領として陣屋跡に代官所が設けられた。結局幕末まで伊予に留まった一柳氏はこの小松藩のみ、ということだろうか。


宝寿寺へのその他の遍路道


藤木橋から直進する遍路道
藤木橋の東で右に折れず直進する道は、現在多くの歩き遍路に利用されている道である。道を直進し、小松郵便局の東150mほどのところにある四つ角を左折し、国道11号を越えて宝寿寺に向かう。小松駅前通りの一筋西のこの四つ角には、かつては昭和6年(1931)建立の道標が立っていたが、その道標は現在宝寿寺の境内に移されている。

陣屋経由のバリエーションルート
陣屋経由の道は、前述の如く駅前通りを左折し宝寿寺へと向かうが、ここを左折することなく、金比羅道を少し東に進み、常盤神社角を左折し宝寿寺へと向かう遍路道もあった。
金比羅道・遍路道分岐点の道標
一筋北の隅に道標があり、東方向を示す手印と共に「右こんぴ」、摩耗し読みづらいが、北を示す手印と共に「一ノ宮」と刻まれた道標がある。北に進むと遍路道、東に向かうのが金毘羅道となる。





◆東町地蔵
なお、常盤神社から鉤型に曲がる金比羅道は、陣屋建設時に東西で屈曲された金比羅道の東部であり(当時の常盤神社は敷地が北に延び、現在の神社北側を抜ける道路は無かった)、上述の金比羅道標に従いを東に進むと、道の左手に右膝を崩した地蔵がある。これは東西南北に天然痘除けに祀られた東町地蔵のようだ。







◆金比羅常夜灯と境界石
更に東に進むと車道と交差する四つ角に金比羅常夜灯、そして「従是東 西條領」と刻まれた境界石が稲荷の社の傍に立っている。










陣屋経由の道を宝寿寺へ


あれこれ寄り道したが、近藤篤山旧邸角を左に折れ、駅前通りを小松駅へと向かう遍路道のメモに戻る。

JR四国・小松駅前の道標
駅前通りを北に進み国道11号を越え、JR四国・小松駅前に進むと、駅前を東西に走る道の西角に道標が立つ。手印と共に、「四国六十二番宝寿寺 四国六十三番吉祥寺」と刻まれる。手印に従い、西に道を向かうと六十二番札所・宝寿寺に至る。

六十二番札所・宝寿寺
境内手前右手には「一國一宮 別當 寶壽寺」と刻まれた石柱と、その裏手に道標1基、左には4基の道標が並ぶ。境内に入ると正面に本堂、右に大師堂。小振りではあるが落ち着いたお寺さまである。創建、開基は聖武天皇云々、本尊は弘法大師が彫った十一面観音云々との縁起があるが、縁起は所詮縁起としておく。
「愛媛の記憶」には、「六十二番宝寿寺は一之宮神社の別当寺であり、開創以来たびたび移転してきた寺である。古くは中山川の北側にあったという。延宝7年(1679)に小松町一本松、現在一之宮神社がある一ノ宮の地に移され、明治維新後、神仏分離令により一時香園寺に合併されたが、明治10年(1877)あるいは明治11年ともいうが旧に復した。大正12年(1923)の省線讃予線の開通で境内を線路が通ることとなったため、寺は一之宮神社の境内から線路南側の現在地(宝来町)に移った」とある。
「一國一宮別當 寶壽寺
境内手前右手立つ、「一國一宮 寶壽寺」は一之宮神社の別当寺であったことに由来するのだろう。ところで、この「一國一宮」であるが、伊予国の一宮は大三島の大山祇神社であるわけで、この地の一宮神社ではないだろうし、どういう意味?
気になりチェックする。と、この一國とは伊予の国ということでもないようである。『愛媛の面影』に、「三島明神を一州の一宮と祟めたるよし豫陽盛衰記にみえたり。されば外に一宮のあるべきよしなし。『小松邑志』に云う。一国ノ一宮アリ、一郡ノ一宮アリ、一郷ノ一宮アリ、必シモ当国ノ一宮ヲ云ウニアラズ。必一郡一郷ノ一宮ヲ誤伝タルナルベシ、といへり」とある。
生れ故郷の新居浜市にも一宮神社があるが、そこは郡一宮とされている。この一國一宮は、郡か郷の一宮といったもののようである。
5基の道標
「一國一宮別當 寶壽寺」の裏手に立つ道標は、前述藤木橋から直進する遍路道から移されたもの。手印と共に「六十一番香園寺 六十三番吉祥寺」「横峰寺」「宝寿寺」と刻まれる。
境内手前の左手に立つ4基の道標は鉄路、国道建設に伴い移されたもの。一番外側の道標は明治28年(1895)の道標である。「逆香園寺へ八丁 順吉祥寺へ七丁」と刻まれる。
二つ目は円柱の利平道標である。地震で倒れた鳥居の再利用とも言われるこの道標には、手印と共に「香園寺 吉祥寺」の文字が刻まれる。明治14年(1881)建立の道標である。
三つ目は「六十番横峰寺 六十一番香園寺」「六十二番宝寿寺」「六十三番吉祥寺」の文字が刻まれる。
一番境内寄りの4つ目の道標は徳右衛門道標。「右これより吉祥寺迄七丁」の文字が刻まれている。
なお、宝寿寺境内のソテツの前に、「右一の宮」と刻まれた真念道標があったが、現在は宇和町(現、西予市宇和町卯之町)にある愛媛県歴史文化博物館に保管展示されている、とのことである。

一宮神社
JRの線路によって泣き別れとなっている、一宮神社を訪ねる。まことにささやかな社が鎮守の森に鎮座していた。宝寿寺から一宮神社に向かう道、宝寿寺北の一本松踏切手前に、上に地蔵が乗った円柱の茂兵衛道標があった。往昔、現在地より北に宝寿寺があったことを示している。


余談
六十一番札所香園寺を訪れたとき、境内に「六十二番札所 納経所」の案内があった。その時はこの宝寿寺が工事中なのだろうか、などと思っていたのだが、特に工事中でもないため、なんのことだろうとチェック。と、札所寺院でつくる『四国八十八ヶ所霊場会』とこの宝寿寺との間で裁判沙汰になっているとの記事があり、高松地裁が宝寿寺の『四国八十八ヶ所霊場会』からの脱退を認めたとのこと。香園寺にあった「六十二番札所 納経所」の案内の背景には、六十二番札所の納経所が十分に機能していない、といった『四国八十八ヶ所霊場会』の主張を踏まえての事情のようであった。事の真偽は不明である。


六十二番札所・宝寿寺から六十三番札所・吉祥寺へ


小松駅東踏切に利平道標
六十二番札所・宝寿寺を離れ、六十三番札所・吉祥寺に向かう。宝寿寺の境内からJR伊予小松駅まで打ち返す。遍路道は駅前にある道標に従い右折し、国道11号を左折し東に向かうルート、駅前をそのまま直進し小松駅東踏切を右折し国道に出るルートとふたつある。小松駅東踏切には、線路沿いの金網の内側に利平道標が立つ。


御大典記念の道標
国道に沿って進むと歩道橋手前に「御大典記念道」「吉祥寺一丁、一之宮七丁」「昭和三年」と刻まれた道標がある。一丁は109mほどであり、六十二番から六十三番札所までの距離はおおよそ900mということになる。
「えひめの記憶;愛媛県生涯教育センター」には、「平成12年年末の歩道橋改修工事の際に上端から50cmくらいのところで折れ、現在は倒れている」とあったが、折れてもないし、倒れてもおらず、国道脇に立っている。道標も昭和三年とは思えないような新しい見栄えであり、素人目にはレプリカのようにも見える。
御大典
天皇の即位儀礼は、前天皇の死後ただちに後継者が即位する「践祚(せんそ)」、天皇即位を国の内外に宣言する「即位式」、新天皇がその年の新穀を神と共食する「大嘗祭(だいじょうさい)」の3つの儀礼からなるが、明治42年(1909)の登極令の制定により、即位式と大嘗祭は、前天皇の喪が明けた年の秋冬の間に行われることに決められ、このふたつの儀礼をまとめて「御大典」と称す。昭和天皇の御大典は、昭和3年(1928)の11月にふたつの儀式が実施された。

常夜灯
御大典記念の道標から東に150mほど進むと国道脇に常夜灯が立つ。遍路道はこの常夜灯を左折し国道11号を離れる。
国道脇の茂兵衛道標
かつては、御大典記念道標の西、100mほどのところに茂兵衛道標があったが、宝寿寺の真念道標と同じく、現在は宇和町(現、西予市宇和町卯之町)にある愛媛県歴史文化博物館に保管展示されている。この道標には「うまれ来天残るものとて石は加り わが身は消え天昔那り計梨(うまれきて のこるものとて いしばかり わがみはきえて むかしなりけり)」の添歌が刻まれるという。 元の歌は観音寺の県道脇の建立年代も氏名も不明な道標に、ほぼ同じ(最後が「むかし成ら無(なるらむ」と異なるだけ)の添歌が刻まれている、という。茂兵衛もこの道標の添歌を目にし、幾多の石に刻まれる己が名を見るにつけ、同様の心境になった故の添歌だろう。

茂兵衛道標
常夜灯を左に折れ、径を少し進むと右を示す茂兵衛道標が立つ。手印と共に大師像が彫られた面には「吉祥寺」の文字と、「先祖代々 當病平癒 家内安全 海上安全 施主 越後國 新潟市上大川前通 片桐寅吉」の文字、また別の面には手印と共に「寶壽寺 願主 中務茂兵衛義教」と刻まれる。



北門に徳右衛門道標
茂兵衛道標に従い道を右に折れ、東に60mほど進むと吉祥寺の北門前に出る。かつてはここが正門であったようだが、現在は閉じられている。そこに徳右衛門が立つ。正面には梵字、大師坐像が彫られ、その下が硯彫りとなっており、そこに「前神寺廿丁」と刻まれる文字は後世に改刻されたもの、とも言われる。

六十三番札所吉祥寺
ぐるりと塀に沿って進み、東の山門より境内に入る。境内に入ると正面に本堂、左手に大師堂がある。本尊は毘沙門天。仏法を守護する四天王である持国天(東)、増長天(南)、広目天(西)、多聞天(北)のうち、多聞天のこと。通常毘沙門天と称する場合は、四天王のリーダー的ニュアンスをもつようだ。
本尊が毘沙門天とするお寺さまは四国遍路ではここだけ。更には毘沙門天が属する天部という、仏教の尊像において、如来・菩薩・明王・天という四区分の四番目のカテゴリーの尊像を本尊とするのも、ここだけとのこと。寺名は脇仏の吉祥天より。吉祥天は毘沙門天の妻。旦那ではなく妻が寺の名となるもの面白い。
「えひめの記憶」には「この寺は、もとは南東の坂元川谷間の山中にあったが、天正13年(1585)の豊臣秀吉による四国平定の際に兵火にかかって焼失し、それ以後、西条市氷見(ひみ)の現在地に移されたという。
寂本の『四国?礼霊場記』(元禄2年〔1689〕)には、「当寺むかしは今の地より東南にあたり十五町許をさりて山中にあり。(中略)毛利氏当所高尾城を攻るの時、軍士此寺に濫入し火を放ち(中略)仏具典籍一物を存せず燬撤す。それより今の地に本尊を移し奉る。とあり、西条藩の地誌である『西條誌』(天保13年〔1842〕)にも同様の記述が見える。かつて吉祥寺があったとされる場所は、現在では「吉祥寺藪(やぶ)」あるいは「大藪」と呼ばれ、山の斜面一帯に竹林が広がっている」とある。往時は21坊を有する大寺院であったようだ。
成就石
境内に右下に穴の開いた丸い自然石があり「成就石」と呼ばれる。目隠をして、石をめがけて歩いていき、金剛杖をこの穴に通すことができれば願い事がかなうという伝承があるようだ。
元は石鎚山麓の滝壺にあったものを万治年間、というから17世紀の中頃、吉祥寺に移された。積年の滝の水により穴が穿たれたわけだが、何事も一心に成さば、この石のように初志貫徹する故に成就石と称される。金剛杖云々は江戸時代の後半になっておこなわれはじめたようである。
道標
東門の左手に道標1基。「四國第六十三番吉祥寺」と読める。吉祥寺山門前に吉祥寺の道標があるのも異なものであり、国道建設などで移されたものだろう。 「えひめの記憶」には境内南口に3基の道標がある、とのことだが、2基しか見当たらない。あれこれ見て回ると庫裏傍に1基の道標が立っていた。



南口の2基の道標は、1基は円柱であり、「吉祥寺 宝寿寺」と刻まれ、もう1基は「石土神社 へんろ」の文字が読める。共に利平道標とされ、手印からして、どこからか移されたものだろう。
庫裏近くの道標は結構大きい。「右へんろ道」と刻まれる。庫裏の門の中にあり、立ち入りことはできず、その他の面は読めなかった。
石土神社
ここにある「石土神社」って何処のことだろう。生木道を経て、小松の大頭から六十番札所・横峰寺へと辿る順路の遍路道に「石土神社」があった。が、場所からして、ここからでは逆打ちとなるため、「逆へんろ 石土神社」となっていれば大頭の石土神社の可能性もあるが、そうではないため候補から外す。 とすれば、ここから東に進んだところにある石鎚神社?とは言うものの、この神社は明治の神仏分離令により六十四番札所・前神寺の敷地を以て設けられた社であり、札所ではないため候補としては少々弱い。
それでは、石土神社は?前神寺の寺伝に、役行者が石鎚山の山上で修行し、蔵王権現を感得しその尊像を祀り、その後上仙道人が山頂への道を開き、そこに祀った社を上古、「石土(いわつち)」の社、後に石鉄権現としたとのことであるので、この「石土神社」とはその別当寺である六十四番札所・前神寺のことではないかと推測する。

当日は更に東、六十四番札所・前神寺へと進んだのだが、生まれ故郷に近い割には余り知らなかった小松のあれこれが気になり、思いの他メモが長くなった。メモはここまでとし、六十三番札所・吉祥寺を打ち、六十四番札所・前神寺に至るメモは次回に廻す。

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