月曜日, 3月 29, 2021

土佐北街道散歩 ;高知城下からはじめ權若峠取り付き口の釣瓶まで そのⅠ

土佐北街道散歩も高知城下から権若峠への取り付き口である釣瓶までを残すのみになった。今回も『土佐の道 その歴史を歩く:山崎清憲(高知新聞社)』に記されるポイントとなる地名、史跡を追っかけてその道筋をトレースする。詳しいルートは記載されていないが、ポイントさえ見つかればなんとかなるだろう、との想い。
同書に記される土佐北街道の道筋は、お城を出て大手筋を進み、江ノ口川・山田橋南詰めの山だ番所、久万川に架かる比島橋を渡り掛川神社前を進む。
それより東に転じ、鳥付橋を渡り石淵の送り番所を経て布師田の布師田御殿に入る。布師田から先で市域は高知市から南国市に入るが、ここでルートはふたつにわかれる。ひとつは国分川南岸の中島を経由し国分川を八幡渡瀬で渡り返し北進し南国市岡豊町八幡に向かう。この道筋は初期の参勤交代道である野根山街道、通称「東街道」への道筋でもあったようだ。
そしてもうひとつは高知大学医学部の北を進み岡豊町八幡に出て、ここでふたつのルートは合流する。
合流点から先も二つのルートに分かれる。ひとつは現在の県道384号を領石に向かうもの。もうひとつは合流点から直ぐ、笠ノ川川を越え比江を経由して領石に向かうもの。比江経由の道は北街道が参勤交代に開かれた当初の道筋。比江の高村家を初日の宿泊所とした頃のもの。布師田に布師田御殿ができて以降は、直接領石を目指すようになったという。
領石で合流したルートは領石の送り番所を経て北進。一の瀬渡瀬で領石川を左岸に渡り、その先楠木渡瀬で右岸に、更に亀の本渡瀬で再び左岸に渡り直し、谷筋の小さな渡瀬を経て最後に梼山川の「下着渡瀬(私注;「着」はママ)を北に渡ると權若坂の登山口に着く、とある。 亀の本渡瀬から先は、過日土佐北街道・權若峠越えのとき、同書に記載のないふたつの渡瀬を確認しており、亀の本渡瀬で領石川左岸に移った土佐北街道は、「左手渡瀬」で中谷川の右岸に移り、その先中渡瀬で左岸に渡った後、中谷川に合わさる梼山川の左岸から下り付け渡瀬で右岸(北)に渡り權若坂の登山口に着くことになる。

ルートは以上の通りである。メモは途中郷土の偉人の案内なども多く結構長くなった。今回は城下から布師田までと布師田から釣瓶まで2回に分けてメモする。



本日のルート;
高知城下から布師田御殿跡まで
高知城>追手筋>山田橋・山田番所>茂兵衛道標(100度目)>比島橋>掛川神社>鳥付橋>土佐神社お旅所>お堂>石淵送り番所>岡村十兵衛先生住居跡>社>一木権兵衛先生の墓所>布師田御殿跡
布師田から岡豊町八幡の北岸・南岸ルート合流点まで
国分川北岸ルート
権兵衛井流>前田元敏先祖の墓所>奥官慥斎・奥宮健之父子の屋敷跡>西山寺>葛木橋>>葛木男神社>丘陵切通し>国分川筋に右折>山崎川・蒲原橋>山崎川橋>県道384号に出る>岡豊城跡>岡豊別宮八幡宮>県道を右に逸れ県道252号に出る
国分川南岸ルート
葛木橋を渡り国分川左岸に>郡境石>県道252号を左折し国分川に向かう>岡豊橋>県道252を北進し北岸ルートと合流
地図に記載された「土佐北街道」ルート
山崎川・蒲原橋>山裾を水路に沿って東進>岡豊橋北詰めに出る
北岸・南岸ルート合流点から領石まで
直接領石を目指すルート
県道252号を右に逸れる道に>県道384号右手に笠ノ川地蔵>県道384号を左に逸れ丘陵土径に>県道384号をクロス>高知道インター高架下を進みルート合流点に
比江経由のルート
笠ノ川川渡河地点>検地帳>左折・検地帳>県道256号に出る>左折し国分小学校東の道に>国府小学校の東の里道を北進>阿波塚神社>道のえき風良里(ふらり)>丘陵地の土径を進み国道32号に出る>高知道インターの北のルート合流点に
領石より権若峠取り付き口の釣瓶まで
県道384号に出る>領石の送り番所>天満宮>一の瀬渡瀬>楠木渡瀬>清川神社>県道33号に出る>亀(瓶)の本渡瀬>県道を右折し林道釣瓶線に>左手渡瀬>中渡瀬>下り付きの渡瀬>権若峠・釣瓶取り付き口


高知城下から布師田御殿跡まで


高知城
参勤交代のスタート地点として高知城を訪れる。土佐北街道のルート探しにどの程度時間がかかるかわからないため、足早に取り合えず「足跡を残す」といった思い出はある。
比較的新しそうな初代藩主山内一豊公の騎馬像を見遣り先に進むと追手門手前に「野中兼山先生邸跡」の石碑が立つ。宿老ゆえ、追手門すぐ傍に屋敷があったのだろう。
追手門を潜り城内に。板垣退助銅像(昭和31年(1956)造立)を見遣り石段を上ると、左手石垣から石樋が突き出る。なんだか面白い。これだけは案内をメモしておく;
石樋(いしどい)
高知県は全国でも有数の多雨地帯のため、高知城も特に排水には注意が払われている。 石樋は、排水が直接石垣に当たらないように石垣の上部から突き出して造られており、その下には水受けの敷石をして地面を保護している。このような設備は雨の多い土佐ならではの独特の設備で、他の城郭では見ることのできない珍しいものである。
石樋は本丸や三ノ丸などを含め現在16ヶ所確認されているが、下になるほど排水量が なるため、この石樋が一番大きく造られている」とあった。


三の丸へ。往昔、年中行事や儀式を行う大書院・裏書院・藩主の控えの間である御居間などからなる三の丸御殿が建っていたところ。いまは広場となっている。
二の丸は藩主の居住空間である二ノ丸御殿があったところ。高知城下を眺める。
天守には本丸御殿が接している。天守と本丸御殿が残るのは高知「城だけとのことである。本丸御殿は二の丸御殿ができるまでは一豊公とその妻、賢妻で知られる千代の居宅であったと言う。
高知城
愛媛に育った者として折に触れ高知城は訪れている。 とはいうものの、過日、歩き遍路の過程で高知城が国分川、久万川、鏡川などの河川が織りなすかつての氾濫平野、三角州に立地することに初めて気づいた。で、そのメモにデルタ地帯に城下町ができた経緯と治水対策が気になりメモをまとめておいたのだが、ここには城下町普請の経緯を再掲しておく(治水施策に興味のある方はこちらの記事をご覧ください)。
元は大高坂山城
高知城は北は久万川、南は鏡川、東は国分川に囲まれた氾濫平野、三角州からなる低湿地帯のほぼ中央、標高44mほどの大高坂山に築かれている。大高坂山に城が築かれた、といっても砦といったののではあろうが、その初出は南北朝の頃、南朝方についた大高坂松王丸の居城であったとされるが、北朝方の細川氏に敗れ廃城となった。
長曾我部氏の城普請
戦国時代に入り、四国統一を目前に秀吉に敗れた長曾我部元親は、秀吉の命により居城を岡豊城からこの地に移すことになった。
デルタ地帯の水はけの悪さに加え、度重なる洪水被害に城普請は難渋を極め、城を本山氏の城塞のあった浦戸に移し浦戸城を整備したとの記事もある。が、地図で見る限りその地で本格的城普請が行われたとは考にくい。浦戸湾口に西から東に突き出た狭い岬に家臣団の住む城下町は考えられない。使われた瓦も安普請であり,浦戸城は朝鮮出兵に際しての出城であったとする説に納得感がある。事実、朝鮮出兵中も大高坂山城の整備が続けられていたとの説もある。
山内氏の城普請
長曾我部氏は関ヶ原の合戦で西軍に与し改易。山内一豊が土佐一国を与えられ掛川城から転封し、浦戸城に入るも、大高坂山を居城と定め城普請を始める。築城に際し、織田信秀の家臣として西軍に与し蟄居処分となっていた百々綱家(どど-つないえ)の登用を幕府に願い出でる。 百々綱家は元は浅井家の家臣であり、近江坂本の石工集団「穴太衆」との繋がりが強く、石垣普請の名手と称されていたようだ。幕府の許しを得た山内氏は6千石で百々氏を召しかかえ、総奉行に任じ、築城と城下町整備の全権を委ね、大高坂山に本丸の造営と、城下町の整備のために鏡川・江ノ口川など川の治水工事に着手した。石垣は浦戸城のものを流用したという。
慶長8年(1603年)1月、本丸と二ノ丸の石垣が完成。旧暦8月には本丸が完成し、一豊は9月26日(旧暦8月21日)に入城した。この際、城の名を河中山城(こうちやまじょう)と改名された。 普請開始は慶長6年(1601)9月といった記事もあるのでおよそ2年の工期。人足として山内家臣団も加わったという。
慶長15年(1610年)、度重なる水害を被ったことで2代目藩主忠義は河中の表記を変更を命じ、竹林寺の僧の助言を受け高智山城と改名した。この時より後に省略されて高知城と呼ばれるようになり、都市名も高知と呼称されるようになった。
慶長16年(1611年)、難関であった三ノ丸が竣工し、高知城の縄張りが全て完成した。

追手筋を東進
追手筋の高知城を出ところに県立高知城歴史博物館がある。高知北街道に関する資料はないものかと訪れるが、特にそれらしき資料は展示されていなかった。上述の書、『土佐の道』にある記事だけ(ルートは概要図のみ)を頼りにルートハンティングするしか術はない。仕方なし。 高知のお城を出た参勤交代の列は大手筋を東進したようだ。藩政時代の高知はお城を囲む一帯は重臣の居宅のある郭中、お城の西側は家臣・商人・職人の住む上町、郭中の東も家臣・商人・職人の住む下町といった3つのゾーニングに分かれていた。
郭中の追手筋を東進した参勤交代の一行は現在の廿代橋から南に下る道を境に下町に入る。「寛政七年(1667)高知城下図」には東西に走る追手筋の南に水路が見える。外堀の役割を果たしていたのだろうか。
郭中から下町に入り、かつての西蓮池町、播磨屋町、蓮池町と進み現在の国道32号を横切り県道249号の一筋手前を左に折れ北進しかつての山田町方面に向かう。ちなみにこれら旧地名は現在「はりまや町」となっている。

山田橋
北進すると江ノ口川に架かる山田橋にあたる。この橋は伊予の川之江に出る土佐北街道・北山越え、室戸岬東岸の甲浦に出る野根山越えの、通称「東街道」の起点でもある。「東街道」は土佐北街道が開かれる以前の初期の参勤交代道。野根山街道を甲浦に抜ける。
山田橋の南詰めは少し広くなっているが、そこにはかつって山田橋番所があった、と言う。 この山田橋は遍路道筋でもある。真念はその著『四国遍路道指南』に「過ぎてひしま橋山田橋という。次番所有、往来手形改。もし町に泊まる時は、番所より庄屋にさしづにて、やどをかる」と記す。 山田橋の由来は長曾我部氏が城下町を建設するにあたり、土佐山田の人が移り住んだ故と言う。
江ノ口川
細藪山地西端近くの山裾(高知市口細山辺り)に源を発し、西から東へと流れ高知城の直ぐ北を経由して更に東進し国分川に合わさり浦戸湾に注ぐ。江ノ口川はその流路故に、江戸時代の早い段階から浦戸湾と城下を結ぶ運河として利用され、高知城北側、江ノ口川に面する北曲輪は城に物資を運び込むための重要な場所であったとみられる。
江ノ口川の名前の由来は、現在の高知駅、入明駅周辺にあった江ノ口村に由来するようだ。

旧道に茂兵衛道標(100度目)
山田橋を渡ると現在の相生町に入るが、直ぐ先に土讃線の高架があり旧路らしき道筋は残っていない。次のポイントは久万川に架かる比島橋であるので、そちら方向に成り行きで進み一度県道249号に出る。
しばらくすると右に逸れる如何にも旧道らしき道がある。県道を逸れゆるやかに曲がる道を進むと道の左手に茂兵衛道標が立つ。手印と共に「安楽寺 左 高智 左国分寺 明治二十壱年」といった文字が刻まれる。茂兵衛100度目巡礼時のもの。
安楽寺は明治の神仏分離令に際し、廃寺となった善楽寺に替わり明治8年(1875年)に札所となったお寺さま。当地より南西5.5kmの所に建つ。

茂兵衛道標の直ぐ先、道の左手の古き趣のお屋敷端に「久保添家伝薬発売元」と刻まれた石碑が立つ。旧家には「クボゾエ外科科胃腸科」の看板がかかっていた。「*家伝来」は 家業意識の高さを示すもの。かつて家業として薬を販売していたのだろう。
この辺りの土佐北街道は高知城下を経由する遍路道と同じである。

久万川に架かる比島橋を渡る
旧道は旧家の先で県道249号にあたる。合流点である三差路を北進すると久万川に架かる比島橋。
比島は「山の形がひ;箕のこと)に似ている島の意味(「土佐地名往来」より)。箕は穀物の餞別に使われていた農具だろうと思うのだが、それを裏返した形に似ていたということだろうか。とはいうものの、往昔湿地に浮かんでいたであろう島の痕跡は今はない。
久万川
国分川水系の川と言う。が、東から西へ、物部川の発達した扇状地に阻まれ高知市内に注ぐ国分川とは真逆、高知市の北の細藪山地にその源を発し西から東へと流れ浦戸湾河口部で国分川に合流する。 現在は陸地化されているが、かつての久万川は氾濫平野を流れ、河口部は三角州であったわけで、とすれば両河川の浦戸湾への注ぎ口は現在より上流点であったろうし、であれば往昔は国分川と久万川は合流することもなく浦戸湾に注いでいたようにも思う。
それが国分川水系とされるのは?水系の定義である分水界を同じくする、を元にチェック。国分川と久万川の共通点は、東を土佐山田台地で物部川との分水界を画し、北は細藪山地が吉野川水系との分水界となり、西も南に突き出した細藪山地により鏡川と分水界を画している。要は北と西は細藪山地、東は土佐山田台地によって囲まれた流域であるということだ。
この定義にもとり、両河川は同一水系と考えてもよさそうだ。国分川水系とされたのは国分川も久万川も共に2級河川であるが、その流路距離や流路面積が一見して国分川が圧しているためだろうか。上述江ノ口川も国分川水系とされるもの、このゆえのことだろう。
国分川
国分川は、その源を高知県香美市土佐山田町 と平山 の甫喜 ケ峰 (標高 611m)に発し、領石川 、 笠 ノ川川等の支川を併せながら香長平野を南西に流れた後、下流部において久万川、江ノ口川 、舟入川等の支川を合わせ、浦戸湾に注ぐ。

掛川神社
久万川を渡り土讃線・薊野(あぞの)駅手前、県道249号の左手に掛川神社がある。遠州掛川5万石の藩主であった山内一豊が関ヶ原の合戦での功により土佐20万石の藩主に封 ぜられたわけだが、この社は二代目藩主忠義が掛川より勧請したもの。鳥居傍の石碑には「合殿 龍宮神社、東照神社、海津見神社」と刻まれる。
案内には「掛川神社 江戸時代の寛永十八年(一六四一)、第二代土佐藩主山内忠義が、その産土神であった牛頭天王を遠州掛川 (静岡県)から勧請して、高知城東北の鬼門守護神として建立したのがはじめである。
以来、代々藩主から特別の崇敬を受けていた。明治元年(一八六八)現社に改称した。 合祭神社→龍宮神社、海津見神社は、現境内地付近に鎮祭の古社で、何れも明治三十二年(一八九九) 合祭した。
東照神社は延宝八年(一六八〇)、四代藩主豊昌が徳川家康の位牌殿を設けたのが始まりで、文化十一年(一八一四)には、十二代藩主豊資が境内に社殿を築造し、東照大権現と称していたが、 明治元年東照神社と改称、明治十三年(一八八〇) 合祭した。祭神が徳川家康であることから、県下の神社では唯一、社殿の軒下や手水鉢に徳川家の家紋、三つ葉葵がつけられている。 社宝として、国の重要文化財に指定されている「糸巻太刀 銘国時」(山内忠義奉納)、「錦包太刀 銘康光」(山内豊策奉納)がある。いずれも、現在東京国立博物館に寄託されている。
飛地境内社として椿神社・秋葉神社がある。 高知市教育員会」とあった。
江戸の頃、澄禅もこの社に詣でており、その著『四国遍路日記』に「(観音院)・ 夫与西ノ方ニ一里斗往テ小山在、美麗ヲ尽シタル社也。是ハ太守、天正ノ昔、遠州懸川ノ城主夕リシ時ノ氏神ヲ、当国ニ勧請セラレタリ、天王ニテ御座ト云ウ」と記す。
このような由来ゆえか、藩主は掛川神社前で駕篭から下りて礼拝していたようだが、寺の僧が気をきかせ、駕篭を下りることなく「そのまま」で礼拝を勧めたため、以降掛川神社前では、「そのまま そのまま」と言う俚諺が出来たと『土佐の道』にある。俚諺(里人の言葉)、「そのまま そのまま」ってどういうコンテキストでつかわれたのだろう。
江戸の頃、牛頭天王と称していた社が明治に改名しているところが結構多い。一説には天王>天皇の連想から不敬に当たるとしての対処とも言われる。
国清寺
神社参道左手にお寺さま。牛頭天王の別当寺であった国清寺。案内には「陽貴山見龍院国清寺は、元和三年(一六一七)比島の龍乗院の開基でもある日讃和尚の開基で、寛永一八年(一六四一)牛頭天王宮 (現掛川神社) の別当寺となった。
二代快彦・三代快充・四代黙堂と次々に高僧が出て、藩主の帰依を得、上級武士や学者文人などとの交流が深かったといわれる。
もとは天台宗で、徳川将軍家の菩提寺である上野寛永寺門主支配の寺であった。慶安四年(一六五一)には三重の塔、続いて護摩堂が建立されるなど、藩主山内家の尊崇が篤かったが、明治 維新後の廃仏毀釈によって廃寺となった。
この廃寺に、明治四年(一八七一)四月から六年五月まで、明治政府によるキリシタン弾圧のため土佐に預けられた、長崎県浦上の信徒と家族九十人前後の人たちが、赤岡と江ノ口の牢舎から移されて生活していた。
明治一三年(一八八〇)、京都相国寺の独園大禅師が参禅道場を開き、退耕庵と名付けた。二代実禅大禅師も参禅を広め、門下の坂本則美・中山秀雄・弘田正郎らの協力を得て再興し、寺号 も旧に復して国清寺となった。臨済宗相国寺派に属する禅寺で、本尊は釈迦如来である。 高知市救向要員会」とあった。
〇明治政府のキリシタン弾圧
幕末、キリシタン禁止政策のもと、隠れキリシタン弾圧を受けた長崎の浦上村は「浦上四番崩れ」と世にいう4度目の弾圧により、一村全体、およそ3000名(3400名とも)が捕縛・拷問を受ける。幕府崩壊後もその政策を受け継いだ明治政府は村民すべてを流罪とし、流罪先は21藩に及んだ。ここ高知では当初赤岡(香南市)と江ノ口(高知市街)の牢舎に停め置かれたが、その後廃寺となっていた国清寺に移された。
キリシタン禁制が廃止されたのは明治6年(1873)。不平等条約改正のため欧州に赴いた遣欧使節団一行が、キリシタン弾圧が条約改正の障害となっていると判断し、その旨本国に打電通達し廃止となった。
獄中は劣悪な状態であり、おおよそ三分の一が帰らぬ人となったとのことである。
●薊野(あぞうの)
野アザミの里が通説。莇は薬草のクコ。別説は海が 入り込む浅海・あさみ説。崩れた岸や崖のあず (?)説も(「土佐地名往来」)

鳥付橋
掛川神社を離れた土佐北街道・県道249号は北東に進み 薊野東町で右折。県道384、44号、高知東部自動車道の高架を潜る。この高架下に水路がありそこに架かるのが『土佐の道』にあった鳥付橋であった。






土佐神社お旅所
をクロスし土讃線に沿って東進。一宮中町2丁目、川の西詰に社と、川沿いの道に鳥居が建つ。 何故に境内横の川沿いの道に鳥居が?ちょっと気になり境内に入る。案内には、「土佐神社お旅所 明治十三年建立 土佐神社の大祭「志那禰祭」の神幸祭に際して神輿が仮に鎮座する場所です。
神殿造りのお旅所は珍しく一宮ならではの建物です。古くは、須崎市浦ノ内に祀られる鳴無神社をお旅所とし、江戸時代からは、高知市五台山の小一宮様(現在の土佐神社離宮)をお旅所としていずれも海路御神挙しました。初般の都合により明治十三年当地に建立し徒歩にて御神幸するようになったものです。
お旅所祭は祭儀上重要なもので現在も鳴無神社に向かい巫女により神楽を奉納しています」とある。
現在御神幸は海路を進むことなく、このお旅所まで神輿神幸が行われているようである。川沿いにある鳥居を潜り北進すると土佐神社がある。
土佐神社
土佐神社の礫石
先般、歩き遍路で30番札所善楽寺を打ったとき、お隣にある土佐神社に参拝した。土佐一の宮、 『日本書紀』や『土佐国風土記』にも記される古代から祀られた古社で、中世・近世には土佐国の総鎮守として崇敬された神社である。
その境内を彷徨っているとき、上述お旅所の経緯に関係する「礫石」に出合った。畳二畳ほどの自然石の傍に案内があり「古伝に土佐大神の土佐に移り給し時、御船を先づ高岡郡浦の内に寄せ給ひ宮を建て加茂の大神として崇奉る。或時神体顕はさせ給ひ、此所は神慮に叶はすとて石を取りて投げさせ給ひ此の石の落止る所に宮を建てよと有りしが十四里を距てたる此の地に落止れりと。
是即ちその石で所謂この社地を決定せしめた大切な石で古来之をつぶて石と称す。浦の内と当神社との関係斯の如くで往時御神幸の行はれた所以である。 この地は蛇紋岩の地層なるにこのつぶて石は珪石で全然その性質を異にしており学界では此の石を転石と称し学問上特殊の資料とされている。 昭和四十九年八月 宮司」とあった。古くはこの礫石を磐座として祭祀が行われたとする説がある。
鳴無(おとなし)神社
高岡郡浦の内、現在の須崎市内の浦に鳴無神社がある、古代「しなね祭り」という土佐神社の重要な神事が海路、この鳴無神社へ神輿渡御されていたようだ。土佐神社を別名「しなね様」と称するわけだから、重要な神事ではあったのだろう。
それもあってか海辺に鳥居が建ち、参道は海に向かっている。

岩を投げたかとうかは別にして、鳴無神社の祭神は一言主。土佐神社の祭神と同じである。Wikipediaの鳴無(おとなし)神社の社伝によれば、葛城山に居た一言主命と雄略天皇との間に争いがあり、一言主命は船出して逃れた。雄略天皇4年の大晦日にこの地に流れ着き、神社を造営したのが始まりであるとし、土佐神社は鳴無神社の別宮であったとされる。 一方、土佐神社の社伝には祭神は、古くは『日本書紀』に「土左大神」とする。地方神としては珍しく「大神」の称号を付して記載されるが、この土左大神の祭祀には、在地豪族である三輪氏同族の都佐国造(土佐国造)があたったと考えられている。
その後、710年代から720年代の成立になる『土佐国風土記』の逸文(他書に引用された断片文)には「土左の郡。郡家の西のかた去(ゆ)くこと四里に土左の高賀茂の大社(おほやしろ)あり。その神の名(みな)を一言主の尊(みこと)とせり。その祖(みおや)は詳かにあらず。一説(あるつたへ)に曰はく、大穴六道の尊(おほあなむちのみこと)の子、味鋤高彦根の尊なりといふ」と神名が「土佐大神」から変わっている。
この記事の意味するところは、大和葛城地方の豪族である賀茂氏が土佐に勢力を及ぼすに際し、都佐国造の祀る土左大神に賀茂氏祖先神の神格を加えるべく、土左大神の鎮座譚に雄略天皇の葛城説話を組み込んだとされる。
賀茂氏とその祖先神一言主神と味鋤高彦根神
奈良県御所市に高鴨神社、葛城一言主神社がある。この社の祭神は共に味鋤高彦根神、一言主神。 大和葛城地方(現・奈良県御所市周辺)で賀茂氏が奉斎した神々とされる。
『古事記』や『日本書記』には、雄略天皇が葛城山で一言主と問答をした、といった記述があるようだ。また、『続日本紀』天平宝字8年(764年)条では、大和葛城山で雄略天皇(第21代)と出会った「高鴨神」が、天皇と猟を争ったがために土佐に流された、といった記述と変わる、さらに『釈日本紀』(鎌倉時代末期成立)には、葛城山で「一言主神」が雄略天皇と出会ったとし、一言主は土佐に流されて「土佐高賀茂大社」に祀られた、となっている。
しなね様の語源
しなねの語源は諸説あり、七月は台風吹き荒ぶことから風の神志那都比古から発したという説、新稲がつづまったという説、さらに当社祭神と関係する鍛冶と風の関連からとする説等がある(土佐神社の解説より)。

四国霊場遍路道
土佐神社の隣に四国霊場30番札所善楽寺がある。善楽寺から31番札所竹林寺への遍路道は大きく分けて2つある。一つは高知城下を経て竹林寺へ向かうもの。もうひとつは城下を経由することなく善楽寺・土佐神社から南下し直接竹林寺を目指すもの。
高知城下経由の道は善楽寺・土佐神社の表参道を南に下り、県道384号を南西に進み、途中土佐北街道へと道を分ける県道249を越え掛川神社前を通り、久万川に架かる比島橋、江ノ口川に架かる山田橋を渡り、橋詰の番所で札改めを受け下町を南に下り鏡川に沿って南東に進み青柳橋を渡って五台山にある竹林寺に向かう。遍路は城下の郭中に泊まることは許されなかった。
もう一つの直接竹林寺へ向かう遍路道は、土佐神社の表参道を南に下り、土佐神社お旅所のあるこの地で左折、少し東に進んだ後土讃線一宮駅の東から南進し竹林寺に向かったようである。 土佐藩は遍路に対し厳しく城下町を経由する遍路道を避けこの道を進んだ遍路も多いと言う。

石淵送り番所
お旅所横の鳥居にフックがかかり、あれこれと寄り道メモが多くなった。お旅所を離れ土佐北街道を進む。Google Mapにはこの辺りから県道249号に「土佐北街道」と記される。 県道を東に進み土讃線土佐一宮駅を越えると直ぐ、道の左手にお堂が建つ。その直ぐ東に南に下る道がある。この道は30番札所から高知の城下を避けて直接竹林寺に向かう遍路道である。 この道の先、道幅が一車線に狭くなり石渕の集落に入る。

集落に入ると直ぐ、道の右手民家の前に案内が立つ。案内には「「石渕送り番所・参勤交代の道筋」とあり、「江戸時代初期の資料と推測される「御国村数名書帳」(皆山集)によると、高知城下より東方江ノロ村の次一里の場所に布師田村があり、「布師田村・大道筋・馬継」という記載が見られます。

「大道筋」は土佐藩内の東方面の他国に出る一番大きな道で、幅三間(約5.4m)と定められており、布師田は重要な交通の要所であったことが伺われます。 「馬継」とあるのが“石渕送り番所”です。他の地域に比べてとても多くの馬が飼われていた記録も残されています。送り番所は村役人待遇の送番頭が常勤し、通行手形のチェックや出張役人の対応、また馬や駕籠などをそなえて公用の書状や荷物の搬送などにあたりました。たびたび夫役として農民が労働を課され、地域村民の負担となったこともありました。
参勤交代が北山道を通るようになり、藩主第一泊目の布師田御殿がヒツ城(現在の布師田ふれあいセンター付近)に作られると、石渕送り番所の重要性はいっそう増していきました。
坂本龍馬や武市半平太など幕末に活躍した多くの人々もこの送り番所で通行手形のチェックを受けて旅立って行き、往来していたことでしょう。
※石送り番所の位置には諸説ありますが、この地であるという説が有力です。
龍馬青春の道
嘉永6年(1853年)3月17日、当時19歳の龍馬は藩から15ヶ月の国暇を得て私費での剣術修行のため、溝渕広之丞と江戸へ出立して行きました。城下を離れて最初の石淵送り番所で通行手形のチェックを受けたことでしょう。その後は参勤交代の北山道を通って、布師田橋は渡らずに国分川北岸を、西谷・折越峠・蒲原・小蓮と通って、藩境の立川番所をめざしたと思われます。『龍馬青春の道』とも言えるのではないでしょうか」とあった。
折越峠はどこか不明だが、西谷と蒲原の間とすれば、後ほど歩く県警交通機動隊の建屋前に抜ける丘陵切通しのあたりかもしれない。西谷・蒲原・小蓮は龍馬も後程その道筋を歩くことになる。

岡村十兵衛先生住居跡
山裾に沿った石淵の集落を進むと、道の左手に「岡村十兵衛先生住居跡」の案内があり、「岡村十兵衛先生住居跡 岡村十兵衛の先祖は、戦乱の京を逃れて土佐に下向した一条教房の従者として土佐に入国しましたが、主家が長宗我部元親に滅ぼされた後浪人し、後に土佐に入国した山内氏の中村城主(山内修理大夫)に仕えることになります。
布師田に在住した十兵衛は、天和元年(1681年)羽根浦(私注;室戸市羽根町)分一役を命ぜられ、羽根浦に着任しました(同郷布師田の大先量一本権兵衛が亡くなったわずか二年後)。分一役”とは軽格の武士が任命され、諸税の徴税や民生に当たりました。
当時土佐藩の疲弊は激しく、特に安芸の東部沿岸は相次ぐ野中兼山の殖産興業策が民力を削ぎ、浦奉行の苛政も加わり、身売りや逃散が続いていました。羽根村も例外ではなく、十兵衛赴任の前から風水害が相次ぎ、漁もなく凶作で村人の生活は困窮の極に達していました。
十兵衛は民情を詳しく視察し、惨状を救うのに心を砕きました。売掛米を貸し付けたり、藩に願って黒見(私注;羽根川上流に黒見の地名が地図に記される)の御留山を明けてもらい、松材を上方方面に売り、その利益を地下に用立てたりして滞人の救済を図りました。こうした努力にもかかわらず、十兵衛赴任後の天和の三年間も災害や凶作・不漁は続き、その後も事態好転の兆しは一向に現れませんでした。
十兵衛は御米蔵の年貢米を施すより外はないと判断し、再三にわたって藩庁に窮状を報告し、御米蔵の米を救い米として放出することの許しを願い出ました。一ヶ月が過ぎても藩からの沙汰は一向になく、十兵衛は責任を一身に負う覚悟を決め、庄屋を呼び尾僧(私注;室戸羽根町の国道55号傍に尾僧の地名が記される)の米蔵を開いて餓死寸前の村人に施米をして人々を救いました。 許可なく藩の米蔵を開いた罪は軽くなく、追っての沙汰を待つように謹慎を命ぜられた十兵衛は、事務整理を終え、貞享元年(1684年)七月十九日未明、罪を一身に背負って役宅で切腹して果てました。
村民は嘆き悲しみ、八幡宮の傍らに募って香華を絶やすことはなかったと伝えられています。また、死後、時を置かず庄屋や年寄りたちが連名で十兵衛の罪に対する願書を提出しています。 天保四年(1833年)七月十八日、百五十年祭が挙行されています。
弘化四年(1847年)第十三代藩主山内豊熈は東巡の折、参拝して十兵衛の忠義を称える漢詩を贈っています。また、豊熈は高知に帰り、十兵衛の子孫を探し出して召抱えようとしましたが、跡目が絶えていて果たすことができませんでした。
明治四年(1871年)組頭・地下惣代十数名が願い出て“神社”として祀り、明治七年正遷宮の儀を営んでいます。
昭和二十七年(1952年)十一月、羽根十兵摘会は二百七十年祭を村と共催で盛大に行って遺徳を偲び、その仁政を顕彰しました。
毎年11月第2日曜日には鑑雄神社境内で岡村十兵衛先生追善相撲大会が盛大に開催され、布師田の子供も参加しています。また米をかたどった“お蔵饅頭”が羽根名物として百年以上線く老舗で販売されており、平成7年4月からは“十兵衛手打ちうどんのお店も営業しています。
高知の作家田岡典夫は、小説「武辺土佐物語」の中の“羽根浦救民記”で、岡村十兵衛が住民が藩に一揆などおこすことのないよう気を配り、「皆の者、やっとのお許しが出たのでお倉の米を配給する。」と告げて御米蔵を開放し、住民がに大いに感謝したとして著わしています。当時の想像を絶する状況と人物の大きさが伝わってきます。
以上を引用した“室戸市史 上巻第九章 二人の義人の二人とは、岡村十兵衛《貞喪元年(1684年)許可を得ずに御米を開放して自刃》と一木権兵衛《延宝七年(1679年)室津港大改修完成後自刃》であり、いずれも布師田に在住した藩の役人でした。
ここ住居跡と言われる場所の庭には、先生の心を和ませたと思われる"十兵衛牡丹”が伝えられていて季節には美しい花を咲かせています。狩野様のご厚意により布師田小学校にも株分けされています」とあった。

一木権兵衛先生の墓所
岡村十兵衛先生住居跡を越えると道は山裾を北東に進む。道の左手に社が建つ辺りから道は東進するが、土佐北街道は最初の四つ角を左折し北進する。道の右手に建つ布師田小学校を越え右折すると直ぐ、道の左手に「一木権兵衛先生の墓所」の案内があり、一木権兵衛先生の肖像画と共に記事があった。
「豊臣氏が滅んでわずか2年後の元和三年(1617年)現在の高知市布師田に長宗我部氏の元家臣(一領具足)の家に生まれた一本権兵衛先生は、布師田の権兵衛井流を造ったことを山田堰工事の検分に向かっていた野中兼山に認められて、正保二年(1645年) 29 歳頃百人並み郷士に取り立てられます。野中兼山は家老として二代藩主山内忠義の信任を一身に受け土木灌漑新田開発・港湾工事・産業奨励等土佐藩の基盤づくりの大改革を進めていましたので有能な者は身分を問わず取り立てていたのです。
物部川の山田堰関連工事に参加した一木先生は確かな業績が認められ、慶安元年(1648年)32歳の時、異例の大抜擢を受けて初めて普請奉行に任ぜられます。仁淀川に八田堰を造り用水路を整備して春野地方に広大な水田を拓く大工事の現場最高責任者として着任します。
堰は“糸流し工法”や“四つ枠工法”等で、 用水路は“提灯測量”や“千本突き”等で、“ずいき” を 焼いての削岩法“いもじ十連”等の言葉も残る岩山を切り裂く『行当(ゆきとう)の切り抜き」と呼ばれ る難工事もありましたが、承応元年(1652年)五ヶ年に及ぶ大工事は完成し広大な水田が出現しました。
その後も宿毛の大堤や幡多方面の堰や用水路工事にも関わり、寛文元年(1661年)の津名港や室津港改修等の港湾事業にも関わっていきます。これら大きな功績により“御馭初式”(おのりぞめしき)という毎年正月に藩主の閲兵を受ける武士としての晴れ舞台に参加できるようになり、寛文四年(1664年)48歳の時には郷士7組中最高の189人を従えていた記録が残っています。
三代藩主山内忠豊に変わったのを機に、工事続きでの財政難や民衆の苦しみを失政として訴えられついに野中兼山は寛文三年(1663 年)失脚し同年49歳で急死します。兼山の多くの部下は一緒に失脚しますが、一木先生などわずか数名が特に罪に問われることはありませんでした。一木先生 47歳の時でした。技術面や資金面で常に支えてくれた最大の理解者兼山を失って大きな落胆と悲しみのどん底にありました。
兼山失脚から十四年、延宝五年(1677年)3月になってようやく江戸幕府の許可を得て土佐藩を挙げての室津港大改修工事が始まります。普請奉行として61歳の一木権兵衛先生が再び重責を背負って“延宝の堀次”と言われる難工事に着任することになります。湾内は完成間近でしたが、港の入り口になかなか砕けない大岩があり、一木先生は工事の成功を自身の命にかえて海神に祈願しました。ツチやノミを持って皆でかかったところ大岩は血のようなものを吹きだして砕けていき、延宝七年(1679年) 三ケ年に及ぶ難工事は完成します。
一木先生は報告のため城下へ行こうと浮津のあたりまで来ますが体がしびれて動けません。室津に帰ると楽になります。何度かこのようなことがあって海神との約束を果たすのは今だと確信します。城下から人を呼んで引き継ぎを済ませ、家族を呼び寄せ後のことを託しました。
延宝七年(1679年)六月十七日の夜、海上に祭壇を設け鎧兜並びに太刀を海神に献じたのち、未明に自ら人柱となって切腹して亡くなりました。
一木先生は大幅な出費の責任を取り亡くなったと言われていますが墓碑には病死”となっています。 一木先生は公儀からの借財を支払うため延宝六年四月十四日付で、自身の約五町歩の土地を藩に売り渡し、室津港改修の莫大な支払いに当て自ら全てを投げ打って責任をとっていることがわかります。いつもバックアップしてくれていた兼山はすでになく、孤軍奮闘一木先生の想像を絶した苦悩のほどが察せられます。
工費と人役には諸説がありますが、『室津港忠誠伝』によると、役夫は約百七十三万人、工費は約十万一千三百両とも見積もられていました。
港内面積はそれまでのほほ二倍の約一町九反となり、参勤交代の御座舟や五百石積み廻船が停泊可能等航海が安全になり皆に大変喜ばれました。
一木先生の死は、日頃野中兼山から「御普請には存分の金銀をついやしてもかまわぬ、ただ完全なものを仕上げることだ。」と教えられていて予算以上の莫大な費用となったのでその責任を取ったとも言われています。また兼山に取り立ててもらった大恩を忘れずにいて、藩による兼山の失脚や遺族に対する厳しい処置への抗議の意味も含まれていたとも言われています。
一木先生は野中兼山の国中に於ける土木工事を補佐し、七人扶持二十四石となり、延宝年中には永年の功により分限七百石となっていて三男二女にも恵まれていました。 三男市三郎さんが家督を継ぎ、二男市之助さんは横山新兵衛として一木先生の奥さん“福”さんの里の横山家を継いでいます。
室津港はその後拡張整備され、土佐古式捕鯨や近代鰹鮪漁業の基地となり、世界の海に雄飛しました。今日、その基盤を作った先人の偉業を長く顕彰し忘れられないよう語り伝えて行かねばなりません。 室津港を見下ろす高台にはお墓も建てられ立派な一木神社も建立されています。高知県漁協室戸統括事業所(旧室戸漁協)を中心に篤くお祭りが引き継がれています。室津港のすぐ上の太田旅館では宴会時の皿鉢料理の中の一品として“権兵衛寿司”が伝わっています。散らし寿司の上にあらかじめ味付けされた3~4種類の新鮮な刺身がふんだんに散りばめられ、大きな海鮮丼のような豪快で大変おいしいお寿司です」と記される。

案内には記事と共に、その下に《室津の一木神社≫、≪ 一本権兵衛先生布師田の墓所≫、《一木先生(右)と福さん(のお墓)≫、《一木先生室津の墓所≫、《 権兵衛寿司≫などの写真、また《 権兵衛井流(ゆる)≫の現在の写真と解説(一本権兵衛先生が指揮して造ったといわれる用水路の水門。増水時に国分川に水を流して下流域の浸水や土手の崩壊を防ぐための仕組み。現在もほぼ当時のままの位置に2ヶ所残っていて機能を果たしています)といった写真と記事が補足されていた(室津漁港の写真と記事もあったのだが、写真がうまく撮れていなかったので省略する)。
 
過日歩き遍路や土佐北街道散歩の折、物部川仁淀川(本山の上井・下井戸),行川さらには春野の利水
・治水の事績に出合った。その時は野中兼山のことのみをメモしたが、それらの事績は一木權兵衛といった腹心の存在があったればこそという事を改めて認識した。

布師田御殿跡
道を東進し国分川にあたる手前、道の右手に布師田ふれあいセンターがあり、その敷地内に「布師田御殿跡」と刻まれた石碑、「参勤交代 北山道 布師田御殿跡の案内と北街道のルート図があった。石碑台座の石は取り壊された布師田御殿の石垣の石を残したものである。






案内には「参勤交代制度」、「師田御殿跡」「野中兼山と一木権兵衛」が記される;
参勤交代制度
参勤交代制度は3代将軍徳川家光の時代寛永12 (1635)年の“武家諸法度”で制度化されました。江戸に妻子を住まわせ、1年交代で江戸と領国を往復させ諸大名の財力をそぐという大名統制政策で、幕末まで維持されます。一方この制度で各ルートは公道として整備され、往来も盛んになり、産業・学問・文化の交流窓口ともなって行きました。

参勤交代の規模は、大名の石高に応じた従者の数が定められていました。土佐藩では1,500~2,700人・元禄元(1688)年には総勢2,531人で片道30日ぐらいを掛けて往復した記録が残っていて道中の大変さが偲ばれます。
当初は高知からの海路を利用していました。17世紀後半以降、甲浦まで陸路でここから海路を取ることも多かったようです。しかしながら天候に左右されることや遭難もあり、享保3 (1718)年6代藩主山内豊隆から“北山越え"の利用が始まり、次第にこのルートが整備されて主流になって行きます。
北山道を取る場合、発駕後一泊目は主として比江高村家に宿しましたが、天保頃から布師田に転じ、天保4(1833)年 12代豊資以降は布師田御殿泊が中心となります。
北山道は愛媛県側からは、「土佐街道」「立川街道」と呼ばれていました。文久2(1862) 年、16代豊範の時にはそれまでの隔年から3年に一度となり、在府日数も削減され妻子の帰国も承認されるようになりました。この政策は、15代豊信(容堂)が政事総裁職松平春嶽と計って進めたものでした。
宿泊地 (ルート)
布師田御殿または比江高村家⇒本山土居⇒立川番所 ⇒ 馬立本陣 ⇒ 川之江⇒ 丸亀又は仁尾 ⇒海路本州へ
布師田御殿
布師田は国庁のあった国分の地に隣接した土佐郡の主要な中心地として古くから交通の要所でした。
江戸時代になって山内氏が入国後、参勤交代制度が始まった時、古代から交通の重要な拠点であった布師田に第一泊目の藩主の泊まる“本陣”やお供の泊まる"脇本陣”などが置かれたのも当然のことでした。
江戸に上る「参勤」の場合は、布師田で高知城を発した時の正装を解き長期の旅支度に着替えて出発して行きました。土佐に帰る「交代」の場合は、この布師田での最終泊後、正装して行列を整え城下に入って行きました。
「宿場としての布師田橋付近は非常に繁昌し、商店は軒を並べ旅館あり料亭あり、明治になっても人力車は梶棒を並べて客を呼び、清流国分川には屋形船を浮かべて風雅を楽しむ客などもあり、その賑わいぶりは御殿宿場としての名に恥じないものがありました。」と「布師の里」に記されています。
野中兼山と一木權兵衛
土佐藩は江戸時代初期から、幕府から申し付けられる普請役や参勤交代の出費などにより財政が行き詰ってきていました。そのような中、野中兼山は、若干17歳で藩の奉行職となり2代藩主山内忠義の強力な後ろ盾のもと藩政の基礎を確かなものにするために、約30年に及ぶ大改革に取り組むことになります。物部川や仁淀川・四万十水系などに堰を造り、用水路を引いて広大な 水田を開き米の増収を図りました。海路船での参勤交代の安全や海運・漁業などを盛んにするため、室津港や津呂港・手結港などの整備も行いました。
布師田出身の義人一木権兵衛は、国分川からの用水路に“権兵衛井流”を造った功績で野中兼山に郷士として取り立てられます。兼山の代表的な政策である土木灌漑港湾事業の多くの場合に於いて、権兵衛は普請奉行など現場の技術責任者として約35年間にも及び強力に兼山を支えていくことになります。兼山失脚後も遺志を継ぎ海神に一命を捧げる覚悟で最重要な難工事の室津港大改修を完成(延宝7(1679)年)した後、自ら人柱となるため自刃して63歳の生涯を閉じました。今は室戸市の一木神社に祀られており、又その墓所は西谷地区にあります。
このように、参勤交代の経路となる海港の整備も進められましたが天候不順や危険性の心配の伴う海路ルートよりは、陸地を進む山越えのルートが、徐々に主流となって行きました。

記事は今まで処々でメモしたおさらい、といったものではあるが唯一疑問となっていたことが解消されたことが有り難かった。それは何故に布師田(ないしは比江)を初日の宿泊地にしたのか?ということである。城下からあまりに近く、二日目の本山までの距離はあまりに遠い。その理由が城下を進む正装を解き旅支度にするため、また逆に旅装束から正装に威儀を正して城下入りをするためであったようである。

北街道ルート図
それよりなにより有り難かったのが北街道ルート図。上述お旅所の辺りから南国市岡豊町八幡あたりまでのルートが記されている。そのルート図に拠れば、布師田までは今まで辿ったルートの他、土佐一宮・土佐神社に参拝しお旅所まで南下し布師田に向かうルートもあったようだ。 また、布師田から先は二つに分かれ、ひとつは国分川の北、現在の高知大学医学部の北を向かうもの、もうひとつは布師田の先で国分川を渡り中島を経由し現在の岡豊橋辺りで国分川を北岸に渡り、岡豊町八幡でふたつの道は合流する。


実のところ、この地図を見るまではGoogle Mapに「土佐北街道」と記された道があり、その道を辿るつもりであった。その道は29番札所国分寺からの遍路道でもあり、高知大学医学部手前の川崎川蒲原橋で、案内にあった北に進む北街道と分かれ医学部の南を国分川に沿って岡豊橋北詰で中島経由の北街道と合流する。遍路道はその先、笠ノ川川の下乃橋を渡り29番札所国分寺に続く。



布師田金山城跡
布師田ふれあいセンター敷地内に「布師田金山城跡」の案内。「「土佐川郡誌」(※1)に「古城蹟 在布師田山東峯或日元親置斥候所」と記され、『南路志』(※2)には「古城石谷民部少輔(領千石一宮社職)後号執行宗朴為元親落城其後久武内蔵助居之」と記録に残るように、城主は細川氏の末流と伝えられる石谷民部少輔 源重信 で、後に長宗我部元親に降伏して執行宗林と名乗り、一宮にある土佐神社の神職になったといわれています。その後元親は当城を久武内蔵助に与えたと伝えられています。
また、「土佐物語」(※3)では、すぐ南に見える大津城やその南の下田城などが激しい戦いの末、長宗我部氏によって相ついで滅ぼされてゆくのを間近に見て、金山城主石谷民部は重臣たちと計って長宗我部氏に降伏した様子が記されています。以後、岡豊城を中心に東方の久礼田城と西方の金山城などが連携して、岡豊城の防御と周辺進出の拠点となっていたことがうかがえます。 金山城は国分川を眼下にする要害の地で、周辺が遠く見渡せる好位置にあって小規模ながら遺構のよく残る中世・戦国時代の城跡の一つであります。元親の本拠地である岡豊城は2.5kmのすぐ東方に望めます。

標高113.6mの山頂の詰ノ段はややいびつな楕円形をなし、高さ 1.3~1.6m の土塁がめぐらされています。
詰ノ段下の二ノ段は一部に土塁を残して東から南~西と広がっています。
ニノ段から急斜面の約10m 下には三ノ段が配置され、幅は5mから広い所で9m ほどあります。 三ノ段から下は急斜面が東から西方に裾を広げているが一か所東方下の尾根に向かって降りる道があります。
三ノ段の南方下には四ノ段が認められます。
詰ノ段北の二ノ段西側下には珍しい遺構の深い空堀が残り、更に周辺には竪堀・堀切や曲輪跡が認められます。
北西に延びる北山の尾根には峰を平坦に削った防御施設としての曲輪がそれぞれ堀切に区切られて二つ連なっています。

眺望としては、遠くは高知龍馬空港・太平洋・岡豊城・高知大学医学部・岡豊高校・大津城・五台山・浦戸湾・筆山・高知市街など、近くは国分川・あけぼの街道・RKC アンテナ広場・JR 布師田駅・サンピアセリース・じばさんセンターなどが一望できます。
※1・・・・・・土佐藩政中期に藩の儒学者緒方宗哲の編纂した歴史・地理・統計等 藩政史の重要資料 全47 冊
※2……文化 12 年(1815 年)高知城下豪商美濃屋の武藤父子が学者を動員して編纂した歴史・地理・故実等の資料
※3.……戦国時代初期から江戸時代初期頃までの主に長宗我部元親の生涯を中心にした軍記物語
金山城へは、当ふれあい広場西北側のフェンス出入口からお登りください。」とあった。

詳細な案内板の解説が多くメモが長くなった。高知城下から權若峠取り付き口・釣瓶までの土佐北街道メモの第一回はここまでとしう、次回布師田から權若峠取り付き口・釣瓶までのルートをメモする。

0 件のコメント:

コメントを投稿