水曜日, 3月 10, 2021

土佐北街道散歩 川之江へ:法皇山脈北麓の四国中央市半田平山集落から川之江へ

先回の散歩では国見山を越えた下山口から立川川の谷筋にある柳瀬集落までをメモした。国見山()下山口から四国山地の真ん中、北嶺地域の要衝の地である本山を経て吉野川を下り、川口で吉野川の支流・立川川の左岸に入り、現在の県道5号を北上、往昔立川川右岸に渡り山麓の道を進むことになる土佐北街道を柳瀬集落までを辿った(現在は柳瀬で右岸に渡る橋が崩壊しており、土佐北街道はひとつ手前一の瀬集落の金五郎橋で右岸に渡ることになる)。
今回は法皇山脈・横峰越えの下山口集落、四国中央市半田平山より川之江までをメモする。

柳瀬で立川川右岸に渡り、立川番書院まで進んだ土佐北街道は、そこから笹ヶ峰を越え新宮の谷筋に一度下り、再び法皇山脈を上り返し堀切峠近くを抜け.下った先で最初に出合う集落である。 
平山より先の土佐北街道は金生川支流に沿って山裾まで下り、金生川との合流点辺りからはその左岸を少し進んだ後、大きく蛇行する川筋から離れ北進し、蛇行し西流してきた金生川を渡り返し川之江の町に入ることになる。
法皇山脈・横峰越えは平山集落よりスタートし峠を越えて新宮に下りたのだけれど、今回は横峰越えのスタート地点であった平山集落から逆方向、山を下り川之江へと向かう。



本日のルート;平山集落の土佐北街道と遍路道分岐点>お小屋倉屋敷跡と旅籠屋・嶋屋跡の石碑>県道5号に下りる>県道5号を右に逸れ土径に入る>枝尾根突端部に土佐北街道標識>東金川集落(金田町金川)の茂兵衛道標>標石>大西神社南の道標>東金川バス停(金田町金川)傍の道標>土佐北街道分岐点>金生川に沿って「四つ辻」へ>槍下げの松>四つ角に標石と常夜灯>上分を離れ金生町下分に入る>金生橋を渡り川之江町に>陣屋跡>大標石>御本陣跡>高知藩陣屋跡>川之江八幡


新宮から平山;土佐北街道横峰越え



■平山集落からスタート■

平山集落の土佐北街道と遍路道分岐点
上掲ルート図の如く、法皇山脈・横峰越えの土佐北街道が堀切峠傍を下り平山の集落に下りてくる。T字路となった下り口には土佐街道の石碑、それと並んで地蔵丁石と茂兵衛道標が立つ。(念のため新宮から平山集落の土佐北街道委と遍路道分岐点までの土佐北街道横峰越えルートを上に載せて置)く。









土佐街道石碑
石碑には「是より 南 水ケ峰 新宮村を経て高知に至る  北 川之江に至る」と刻まれる。
茂兵衛道標と地蔵丁石
地蔵丁石には「奥の院まで四十八丁」と刻まれ、茂兵衛道標は手印で雲辺寺を示す。
遍路道
この道標の立つ地は伊予の最後の札所65番札所三角寺から、讃岐の最初の札所66番雲辺寺へと向かう三つの遍路道の合流点でもある。
一つは三角寺から一度金田町金川まで山を下り再び平山へと上るルート。金川から平山までは土佐北街道と重なる。今回平山から下る土佐北街道のルートでもある。
もう一つは三角寺から麓に下ることなく、佐礼を経由して山腹を進みこの地に達する。
三番目の道は三角寺の奥の院経由の道()。三角寺から法皇山脈の地蔵峠を越えて、銅山川の谷筋に下り奥の院・仙龍寺を打ち終え、一部往路を戻った後、北東へと法皇山脈を上り峰の地蔵尊で法皇山脈の尾根を越え北東に少し下った後、土佐北街道に合流し、平山のこの地へと下りてくる。地蔵丁石に「奥の院まで四十八丁」と刻まれるのは、このルートを示す。

お小屋倉屋敷跡と旅籠屋・嶋屋跡の石碑
T字路より少し西に進むと、比較的新しい石碑が立ち、南面には「お小屋倉跡」、西面には「旅籠屋・嶋屋跡」の案内が刻まれる。。眼下一望の場所である。
お小屋倉跡
「土佐の国主が参勤交代の時、休み場が此処より1400米登ったところにあり、お茶屋と呼ばれここで休息される時、倉に格納してある組立式の材料を運びあげて臨時の休息所とされた」と書かれていた。
土佐街道横峰越えの折、このお小屋倉跡を訪ねた。その場所の案内には「この場所に泉があり土佐藩主山内公の参勤交代中の休み場であった。延べ50余mの石垣で三方を囲み、上段に70平方メートル余りの屋敷を構えた。
先触があると1400メートル下の平山のお小屋倉から組立式の材料を運び上げて休息所を建てた」とあり、その傍ブッシュの中の泉の跡には「お茶屋跡」との案内があり、「一般に「お茶屋」と呼ばれたこの地には、泉があり、すぐそばに大きな松の木があった。そのため、古くから旅人たちの休み場となっていた」とあった。
旅籠屋・嶋屋跡
案内には「薦田の家譜で約5アール(150坪余)の土地に広壮な建物があり、街道は屋敷の東(現在の谷)を下り隅で西に曲がり石垣の下を通っていた。石垣は土佐の石工が宿賃の代わりに積んだと言われ、兼山の鼠面積(長い石を奥行き深く使い太平洋の荒波にも強い)として有名である」とある。
兼山とは土佐北街道・本山の町や土佐の遍路歩きの途次でメモした通り、利水・治水の河川改修、港湾整備など土木工事の実績で名高い土佐藩家老の野中兼山のこと。で、その石垣は何処に、と周辺を下り探したのだが、特に案内もなく、それらしき石垣も見当たらない。実際は、今は無いとのこと。石碑下の、今は畑となっている北側に石垣があったようで、往昔の土佐街道・遍路道はその石垣下を廻り上ってきたようだ。なお、嶋屋に土佐のお殿様は泊まることはなく、川之江の本陣に滞在したとのことである。
平山
「えひめの記憶」には、「この集落は法皇山脈の標高200mを超す山腹に形成され、交通の要所として、かつては宿屋・居酒屋・うどん屋などが建ち並んで、ごく小規模ながら宿場町の形態をなしていた。その平山で最も大きな宿屋が嶋(しま)屋だったが、現在その跡地は畑になっている」とある。

県道5号に下りる
石碑の左手の坂を下ると県道5号に出る。県道5号に出たところにある民家右手に「土佐北街道」の案内石碑が立つ。





県道5号を右に逸れ土径に入る
県道を右に逸れトンネルを潜る
大きく北へと向きを変える県道を進むと、道の右手に「四国のみち」の指導標が立ち、「三角寺」「椿堂」への案内。椿堂はこの地より東、金生川の谷筋にある平山の集落から雲辺寺を目指すお遍路さんが多く立ち寄るお堂である。
土佐北街道はここで県道を右に逸れ県道下のトンネルを潜り、県道西側を下る土径に入る。トンネルは県道改修工事の際にでも造られたものだろう。
実のところ、金田町金川から平山までは三角寺からの遍路道をトレースする際に一度歩いたことがある。その道筋が土佐北街道と重なっていたため、このトンネルを潜り「椿堂」の標識を見ていたこともあり迷うことなくルートをメモしたが、はじめて歩くとしたら結構難儀するところかと思う。注意必要。

枝尾根突端部に土佐北街道標識
土径を少し進むと簡易舗装の道となり、その先で民家の間を抜けるとT字路に出る。角の民家のコンクリート塀には「土佐北街道」の標識が今来た道を指す。
「土佐北街道」の標識のある民家の辺りは、枝尾根突端といったところ、この角を左に折れ5mから10mほどの急坂を下り東金川の集落に向かう。
地図に記載された土佐北街道
左に折れ金田町金川の集落に向かう土佐北街道のルートは、三角寺から一旦西金川の集落まで下り、三角寺川に沿って西金川バス停まで進み、そこを右折し東金川の集落から平山に進む遍路道を辿った折、西金川バス停傍に「立川街道」の標石が立っており、その案内に従い遍路道と重なるルートを辿り、この地の「土佐北街道」の標識まで進んだわけだが、地図を見ると金田町金川の辺りから南に進む道筋に「土佐北街道」と記載されている。地図上では途中で「土佐北街道」の名は消えるが、その消えた辺りはこの枝尾根から真っすぐ下ったところにある。
なにか名残り、案内はないものかと林の中の土径を下り地図に示される「土佐北街道」と繋いだが、特段の案内はなかった。また地図に記載された「土佐北街道」が消えるあたりから東金川の集落に入る道筋もあるいたが、特段の案内はなかった。
メモは遍路道との重複ルートを案内するが、枝尾根部から北に下るルート、東金川の集落と繋ぐルートも一応記載しておく。

東金川集落(金田町金川)の茂兵衛道標
枝尾根突端部を左に進むと東金川の集落に入る。道の左手、石垣上にある東金川集会所を少し先に進むと四つ辻に茂兵衛道標が立つ。南に向かう面には「奥の院 土佐高知」の文字が刻まれる。


標石
茂兵衛道標が示す先がどうなっているのか南へと坂を上ると車道に合流。そこに標石が立ち、左は「雲辺寺 箸蔵寺」 、南方向は「奥之院」と刻まれる。左に進むと上述県道5号の「四国のみち 三角寺 椿堂」の立っていた地点に合流するが、南を示す方向には道らしきものはなかった。
新土佐街道
「えひめの記憶」には「茂兵衛道標から右折すると、いわゆる新土佐街道である。新土佐街道は、主として四国山地の楮(こうぞ)・三椏(みつまた)などの運搬道として明治時代を中心に使われた道である。遍路が利用することもあったらしく、街道沿いにあたる西方(さいほう)のバス停留所前にも道標が立てられているが、現在はその大部分が廃道の状態である」とする。新土佐街道のルート詳細は不詳。

標石
茂兵衛道標の立つ四つ辻から少し進み、東金川集落のはずれに標石が立つ。天保(1831‐1845)と記された道標には、手印と共に「遍んろみち」と刻まれる。

大西神社南の道標
更に緩やかな坂を下ると道の右手の小高い丘にに大西神社が建つ。その東南、白石川に神社の丘が突き出す車道右手に道標がある。文久(1861-1864)と記された道標には「右 金毘羅道 此方 へんろ道」の文字が刻まれる。
「此方」の面の手印は南を示す。「右 金毘羅道」は境目峠をトンネルで抜け徳島に向かう国道192号沿いの金比羅さんの奥の院である箸蔵寺()への道を指すのかもしれない。
尚「えひめの記憶」には、江戸時代の遍路道は、この少し先、東金川橋袂の道標までは行かず、三角寺川の北傍にある正善寺を過ぎたあたりで三角寺川・白石川を渡って現在の大西神社南麓に出て、北から来る土佐街道(笹ケ峰越えルート)と合流していたようである。その合流地点のあたりに道標が立っている、とする。この道標が江戸時代の遍路道との合流地点ということだろう



東金川バス停(金田町金川)傍の「立川街道 」標石
先に進み白石川が三角寺合流した先、橋を渡ると東金川バス停。その角に標石がある。大正の銘が刻まれる道標は「左 奥の院 「右 立川街道」と読める。土佐北街道はここを右折する。
立川街道
立川(たじかわ)街道とは土佐北街道の別名。土佐北街道のルート上、高知県長岡郡大豊町立川下名に立川口番所がある。藩政時代は土佐藩主参勤交代の際の本陣であり、遥か古代に遡れば古代官道の立川駅のあった地でもある。土佐北街道を立川街道とも称する所以である。
金川
金川の由来は近くの淵から金の仏像が彫り出された故とのこと。もっとも、この辺り、後程出合う金生川とか銅山川筋の金砂とか、金を冠する地名が多いが、これら川筋で砂金が採れた故との話はよく聞く。この川から金の仏像云々も、砂金故?といった妄想も膨らむ。

地図に記載の「土佐北街道」分岐点
地図に記載の土佐北街道分岐点
道を先に進むと地図上に記載される「土佐北街道」の分岐点にあたる。道は南へと向かい途中で記載が消えるのは既に述べた。記述メモに示したように、念のため分岐点を右折し南に進み、東金川の集落へと続く道、上述「土佐北街道」の標識のある枝尾根突端部へと辿ってはみたが、特段の標識・案内はなかった。常識的に考えれば、直接枝尾根突端部と繋がる道が土佐北街道であったようにも思える。
道を進むと前面に松山道の高架が見える。古き趣の商家といった風情の建屋が残る。

古き趣の残る街道を進み松山道高架を潜る

古き趣の商家の残る道筋を進み三角寺川などの支流が金生川に合わさる松山自動車道の高架あたりで金田町を離れ上分町に入る。




国道を右に逸れ金生川に沿って「四つ辻」へ
国道を右に逸れる
松山道を潜ると一瞬国道192号に入るが直ぐ右に逸れる金生川沿いの道が土佐北街道。 道を進み金沢橋の西詰で川沿いの道を離れ、川筋より一筋西の「四つ辻」へ向かう。
「四つ辻」
「四つ辻」は藩政期の頃、上分(町)の商業の中心地であったところ。「四つ辻」から北は本町、南の道筋は土手城下と呼ばれ、金生川を背にした片側町となっている。「えひめの記憶」には昭和初期の街並みとして「土手城下の上手は片側町であり、金生川ぞいには馬のつなぎ場があった。そこには近在の農家が副業として営む馬方が、嶺南地区から馬の背によって、楮皮・葉たばこ・木炭・材木などを運搬してきた。
四つ辻付近
一方、上分からは、日用雑貨品、食料、肥料などが運搬されていった。街道ぞいには日用雑貨品店が多いが、その顧客には山間部の住民が多かった。また旅館、飲食店が多いのも物資の集散地である街村の特色をよく反映している」と記す。本町には紙問屋など商家が建っていた。
上分
上分について「えひめの記憶」には「上分は川之江市を潤す金生川の谷口に立地し、川之江市域では川之江に次ぐ商業集落である。この地点は土佐街道と阿波街道の分岐する交通の要衝であり、近世以降背後の山間部の物資の集散地として栄えてきた集落であり、典型的な谷口集落といえる。
天保一三年の『西条誌』には、当時の上分の状況が次のように記載されている。「……川あり上分川と言う。此の川に土佐と阿波とへの道二筋あり。南へ向き金川村の方へ入れば土佐路也。川を渡り東へ行けば阿波路也。阿波境まで二里余、上佐境まで五里余あり。阿波の三好郡の内十ヶ村余、土佐の本山郷の内十ヶ村程の者、楮皮、櫨実を始め色々の物産を出すには、必ず当所を経、三島・川之江等の町にひさぐ。近来当所に商家多く出来、かの物産を買取る内に、土地自然と繁昌し屋を並べて街衢の如し。留まるもの少なかららず見ゆ。土佐侯江戸往来の路すじあり………」。
当時の上分は、土佐本山郷と阿波三好郡を後背地に控えた物資の集散地として大いに賑い、街村が形成されていたことがよくわかる」とある。
明治期似入っても土佐・阿波・嶺南地区などの山間部の物資-葉たばこ、楮皮などの集積地として栄え 明治17年(1884)の最盛期には120戸もあったと言われる商業地区であった上分も、大正から昭和にかけて整備されていった交通網の発達により、山間の地からの往来交通の要衝の地としての利点を失うことになり、現在静かな街並みをとどめている。
上分と下分
散歩の折々に上分と下分という地名の出合う。あれこれチェックしたのだが、なんとなく納得できるものに出合わなかった。少し寝かせておく。
上分町と金生町下分
地図を見ると、上分町は金生川支流三角寺川が金生川に合流する辺り、現在の松山道高架のあたりでは金生川右岸も一部町域に含まれれるがおおよそ金生川左岸にあり、北は金生町下分と、西は妻鳥町と、南は松山道の南で金生町金川に接する。
また金生町下分は金生川右岸の上分町の北側では金生町山田井に接し、金生川左岸の上分町の北側では蛇行し西進してきた金生川を境に川之江町に接する。
上分町に対し下分は金生町下分となっている。その理由は?下分町は下分村が町制施行し上分町となったのに対し、下分村は山田井村と合併し金生町となり、その後上分町、金生町などが合併し川之江市となったのがその因だろう。
金生川
金生川は伊予と阿波の国境、境目峠辺りを源流点とし、旧川之江市(現四国中央市)川滝・金田町と下り、松山道の先で左岸を上分町、右岸を金生町下分を分けて下り、川之江町を南北に分けて瀬戸の海に注ぐ。
「えひめの記憶;愛媛県生涯教育センター」に拠れば、「川之江は金生川とその支流の流れによる堆積作用により形成された沖積平野にあり、(金生)川の畔故の地名である。室町の頃から「かわのえ」と呼ばれたようである。
金生川は暴れ川であったようで洪水被害に見舞われることが多く、その暴れ川故、地味が豊かであり古代より開け、本川・支川流域には有力豪族の古墳が点在する。
その古墳石室に使用される巨石は、金生川の流れを利用して運ばれた、とされる。流域には金川、金生などの地名が残るが、これは、かつて流域で砂金が採れたことに由来する、とも。7世紀初め、渡来人である金集史挨麻呂(かねあつめのふひとやからま ろ)の存在も認められ、古来より砂金等が採取されていたようである」とある。

槍下げの松
「四つ辻」を北進するとほどなく道の左手に堂宇があり、その門傍に「槍下げの松と土佐街道」の案内:
「川之江市指定記念物 槍下げの松と土佐街道 この位置は昔の土佐街道の一部で、土佐の山内公の行列が参勤交代でここを通ったときのことである。
道にはり出している松の枝が邪魔で、家来たちが枝を切ろうとしたとき、山内公が「良い枝ぶりの松である 捨て置け」と言われ、以来ここでは槍を下げ、馬上の武士は身をかがめて通ったと伝えられている。これがこのや松の名づけられた由来である。
橋下げの松 目通り 二・七m 高さ 七m 樹齢数百年 川之江市教育委員会 松月庵」とあった。
松月庵
槍下げ松のある松月庵はお堂といったこじんまりとした堂宇。境内には石仏やミニ四国霊場、新四国は八十八ヵ所のいくつかの石仏が並ぶ。結願の八十八番大窪寺もあれば、二番、四番、五番や二十番代のいくつかの札所石仏も並び、何となくこの庵を含めた一帯にミニ四国霊場が広がる予感がする。本堂にはかつての槍下げの松の写真が飾られていた。


境界石
松月庵の北隣に境界石が建ち、「従是南 西条領」とある。この地の南が西条藩領となったのは新居浜市の別子銅山の歴史と関係がある。これを知ったのはつい先日別子銅山の遺構散歩の折のこと。四国山地銅山峰の南、天領の地に開かれた別子銅山であるが、峰の北は西条藩領。ために別子銅山で採掘された粗銅は峰を越えて北に運ぶことができず、大きく東に廻り宇摩郡土居町(現在の四国中央市)の天満まで運び瀬戸の海を大阪の鰻谷にある住友の製銅所まで運ぶしか術はなかった。
峰を越え西条藩領を運べば16キロ、土居への天領運搬路は36キロ。西条藩に運搬路を開くことができれば20キロの短縮となる。西条藩領を運ぶ住友の願いは財政難解消に腐心する幕閣の支援もあり、寶永元年(1904)西條藩に對して、幕府は新居郡下の大永山、種子川山、立川山 (立川銅山)、両角野(西、東角野) 、 新須賀の五個村を公收し、その替地に宇摩郡内の幕領蕪崎、小林、長田、西寒川、東寒川、中之庄、上分、金川の八個村を与へ、次いで寶永3年(1906)に宇摩郡の津根、野田兩村を替地として、同郡上野村を幕府の領地とし、さらに後ち一柳直增侯に對して、さきに上野村の替地として與へたる津根五千石を公收するため、播州美嚢郡高木(三木町外) 五千石に移封するというものであった。

これが上分が天領から西条藩領となり、境界石が立つ因ではある。が、ここでちょっと疑問。これも過日遍路歩きで四国中央市を歩いていたとき、天領・西条藩・今治藩領を示す案内板に出合った。 その図によれば西条藩領と天領の境界は上分と下分となっている。その図に従えば、この境界石から南が上分となるが、地図によれば現在の上分と金生町下分の境はもう少し北の川原田橋の辺りとなる。往昔の上分と下分が現在の街域と同じがどうか不明だが、ひょっとするとこの境界石は往昔はもう少し北にあったものが何等かの事情でこの地に移されたものかとも妄想する。
特段のテーマはないものの、あれこれ歩いていると、あれこれのものが繋がってくる。面白い。

四つ角に標石と常夜灯
槍下げの松から直ぐ、唐突に「土佐北街道」の標識が立つ古き風情のお屋敷前を過ぎると、四つ角(上述「四つ辻」と区別するため四つ辻とする)。上分大橋から西に新町商店街交差点に続く道筋を交差する。
その交差点の東北角に常夜灯。西北角に標石。南面には「左 みしま 五十町 西条 十里 八和多浜 三十六里」 東面には「右 川之江 二十五丁 こんぴ羅 二十五里 丸がめ(?)十里二十五丁」と読める。四つ角を横切り直進する。
新町
一筋西の新町筋は上分町の商業の中心地。大正15年(1926)に道が整備され第二次大戦後は商店街が栄えたが、その後の新たな道路整備により交通路の重点が西に移ることになったため商業の重心も西に移ることになる。新宮往還の交通の要衝地であった谷口集落としての上分のポジショニングが変わってしまった、ということだろう。

上分を離れ金生町下分に入る
四つ角を直進、ほどなく金生川筋に出る。道の右手に地蔵。「新四国霊場八十七番長尾寺」とある。川原田橋西詰あたりで大きく左に蛇行する金生川から離れ北西する。この川原田橋の辺りが現在の地図にある上分と金生町下分の境界である。
ほどなく道の左手にお堂と常夜灯。お堂は近年修築されたものだろうか。お堂には台座に「萬霊」と刻まれた地蔵座像が祀られる。お堂の傍には常夜灯が立つ。
三界萬霊
散歩の折々に「三界萬霊」と刻まれた石仏に出合う。
三界萬霊(さんがいばんれい)とは三界のすべての精霊を供養するもの。三界とは欲界、色界、無色界。
欲界は三界の最下層のレイヤー。 淫欲・食欲・睡眠欲など、人の本能的な欲望が強い世界であり、20から36階層に分けられる。
色界は欲界の上位レイヤー。欲望は超越したが、物質的(色)な束縛はまだ残っている段階です。 16~18の段階に分けらる。
無色界は、欲望も物質的な面も超越した、精神的な要素(無色)のみからなる世界。四段階に分かれ最上位は「有頂天」。有頂天を軽々しく使うことを躊躇うべきか。
この三界の上のレイヤーが仏の世界となる。

とすれば、三界とは、仏の世界ではなく、「この世」のあらゆる生命あるものの霊を、その先祖も含め供養するためのもの、またはこの世にある人の修養の発達レベル、仏の世界に達するためのメルクマールといったような気もする。単なる妄想ではある。
国道11号バイパス
土佐北街道とはまったく関係ないのだけど、旧伊予三島市(現四国中央市)中之庄町の通称、「遍路わかれ」辺りから海岸線を走る国道11号から離れ内陸部を抜ける国道11号バイパスが川原田橋近くまで通じている。国道11号の混雑緩和と松山自動車道へのアプローチルートであることはわかるのだが、川原田橋辺りでルートは終点となり一般道に合流し、国道11号に戻るには一般道を北に走らなければならない。これってバイパス?前々から気になっていたのでメモのついでにチェック。どうも現在の終点から金生川右岸に進み、宇摩向山古墳を避けJR川之江駅の東へと抜ける計画があるようだ。前々からの疑問はこれで解決。

金生橋を渡り川之江町に
古き趣の屋敷が時に残る金生町下分の街を進むと、道の右手に地蔵座像。台座に「三界萬霊」と刻まれる。
その先で道は川原田橋辺りで、大きく右に蛇行した後西進してきた金生川に架かる金生橋を渡り川之江町域に入る。



陣屋跡
金生橋を渡ると直ぐ、左に逸れる道がある。それが土佐北街道。先に進むと四差路があり、そこに常夜灯が立つ。土佐北街道はここを北東に向かう道をとり、ほどなく予讃線の踏切を越えて東進。二つ目の角を右折し北進する。東西に走る二つ目の通りで土佐北街道から離れ、陣屋跡にちょっと立ち寄る。
栄町商店街を右に折れスーパーフジ川之江店を少し東に進みすスーパーフジ納入業者駐車場の東隣にひっそりと「一柳直家公御陣家跡」の石碑(注;「陣家」はママ)。その傍に「一柳陣屋の広さは約88,000平方メートル以上の広さを誇り、東は栄町通り、西は新町沿いの区間まで、また、南は愛媛銀行やフジ川之江店、北は吉祥院や天神ノ森あたりまでを含む規模であった。
一柳家が播磨小野に去ったあと、陣屋は半分に縮小され、新たに松山藩御預かり代官陣屋、幕府直轄代官陣屋となってからも、川之江は旧宇摩の政治の中枢として海陸交流の要衝とし、発展を続けた」との解説があった。
場所は少し分かり難いが道を隔てた南側に愛媛銀行川之江支店がある。
一柳直家
慶長4年(1599年)、一柳直盛の次男として伏見に生まれる、父の直盛は関ケ原の戦いで戦功をあげ伊勢神戸5万石の所領を賜り、また大坂の陣でも戦功を挙げ寛永13年(1636年)6月に直盛は1万8000石余の加増を受けて伊予国西条に転封される、石高は計6万8000石余。このとき直家は加増分の中から播磨国加東郡内5000石を分け与えられている。
同年8月、西条に向かう途上で直盛が死去。直盛の遺領6万3000石余は3人の子(直重、直家、直頼)で分割されることとなった。直家が相続したのは2万3600石で、さきに与えられていた磨国加東郡内5000石と合わせ、伊予国宇摩郡・周敷郡にまたがる2万8600石の大名となった。
直家は伊予川之江に陣屋(川之江陣屋)を定め、川之江藩を立藩。播磨国は分領とし小野に代官所を置いた。直家は川之江の城山(川之江城跡)に城を再建する構想もあったようだが、実現しなかった。
翌寛永14年(1637年)に初の国入りが認められるが、同年播磨小野の代官所を陣屋に改めて拠点を移しており(『寛政重修諸家譜』では当初から小野に居したとある)、実質的に小野藩が成立した。
寛永19年(1642年)に死去、享年44歳。直家には娘しかいなかったため、末期養子がまだ許されていなかった事情もあり、家督相続は認められたものの伊予国内の1万8600石が没収されることとなった。これにより小野藩の所領は播磨国内のみとなり、川之江藩はわずか6年で消滅した。その後は天領となり、陣屋跡に川之江代官所が設けられた。
直重と直頼
なお、長男の直重は直盛の遺領3万石を継ぎ二代目西条藩主。三男の直頼は小松藩1万石を立藩した。
西条藩の直重は正保二年(1645)に死去し、遺領は二人の息子が分割相続する。兄の直興は西条藩を相続した。弟の直照は5000石を分知され、のちに津根村八日市に陣屋を構えた。旗本一柳家の始まりである。旧土居町(現四国中央市)津根八日市に「一柳公陣屋跡」の碑が残る。
寛文五年(1665)に兄の直興は不行跡により改易となり、領地を召し上げられる。西条藩はその後、徳川御三家の一つ紀州徳川家(紀州藩)の一族(御連枝)が入り、その支藩として廃藩置県まで存続した。
津根の八日市陣屋の分家2代目の直増は、宝永元年(1704)に播磨高木へ移封となり、八日市陣屋もその役割を終えた。因みに、この旗本一柳家9代目が浦賀奉行の直方。 ペリー来航の7年前浦賀軍艦2隻を率いて現れたアメリカのビッドル提督に対応した浦賀奉行である。

大標石
陣屋跡を離れ土佐北街道に戻る。少し東に戻り北進。ほどなく道の右手に大きな標石。「左 阿波とさ 於久の似んミち」「右 満津やま」「左 こんぴら道」と読める。「於久の似んミち」は奥の院道。この奥の院って金毘羅さんの奥の院箸蔵寺のことだろうか。 「満津やま」は松山だろうが、そうとすれば、 なんとなく指示方向と場所が合っていないように思える。どこかららか移されたのだろうか。

 

御本陣跡
大標石から直ぐ、道の左手の古き趣のお屋敷のブロック塀の内に「御本陣跡」と刻まれた石碑が立つ。土佐藩参勤交代時藩主の5日目の宿泊地である。




高知藩陣屋跡

本陣跡のお屋敷の斜め向かい、民間前に石碑が立ち「高知藩陣屋跡」とある。これって何だ? 思うに、明治維新の政変の折、朝敵となった幕府方の高松藩、松山藩に土佐藩兵の征伐軍が進軍している。この川之江は松山藩預かりの幕領でもあり、土佐軍兵が進軍。松山藩、高松藩共に恭順の意を示し戦端が開かれることはなかった。

川之江に進駐した土佐藩は厳しい軍律のもと軍政を実施し不安におののく人心は安定した。その役所名jは川之江陣屋のほかに土州鎮撫所、御陣屋などを使用している。また明治初年の土佐藩の正式名称は高知藩となっている。とすれば、この「高知藩陣屋跡」は土佐藩進駐下の役所跡のように思える。
軍制下によって人心が落着くと、土州政府は川之江の経済発展や生活安定のための民生策を実施。陣屋は慶応四年七月ごろに川之江政庁と改められ、その後川之江出張所、川之江民生局と名称を変え、「その治政は廃藩までの僅かな期間ではあったが、明治以降の宇摩地方発展の大きな布石となった。(中略)高知藩の役人は善政を行った話が語り継がれている。廃藩置県の動きが起きると、川之江の有力者たちが高知県へ入りたいとの血判した嘆願書を中央政府へ提出したほどである」と「えひめの記憶」にある。
それにしても、参勤交代の土佐北街道が松山藩預かりの川之江、高松藩征伐(実際は慶喜追討の東征軍として土佐を出たようであるが、途中で高松・松山藩征伐の追討令を受けたようである)の進軍路となったことは、歴史の流れとは言え、ちょっとした感慨を覚える。

川之江八幡
地図に「土佐北街道」とある道筋を北に進むが、途中地図から「土佐北街道」の記載が消える。 後は成り行きで土佐藩主が参勤交代の旅の安全を祈願した社である川之江八幡に進む。
太鼓橋を渡る。この橋は天明の昔、煙草屋喜兵衛、竹屋清兵衛を中心として村人達は、山田郷総鎮守川之江八幡神社に太鼓橋を奉納したものだが、近年懸け替えられた、と。
最近随身門を潜り境内に。
土佐灯籠と陣屋門
境内には海路の安全をお礼に土佐藩主が寄進した土佐灯籠も立つ。また、境内には新町の陣屋門が移され解体しその材料を使って復元されている。石碑に刻まれた案内には「この建物は旧川之江藩一柳陣屋門」の遺構である。江戸初期に乳児門様式を知る上からも極めて重要で、末永く後世に伝えるものとしてこの度文化庁より登録有形文化財に指定された」とあった。
乳児門様式はあれこれチェックするもヒットしなかった。


土佐北街道標識
社を彷徨い何気に境内北東より道に出る。と、そこに「土佐北街道」の標識。西を指す。案内に従い道を進むと道の左手に標石が立つ。「こんぴら道」と読める。


大鳥居
その対面に鳥居が建ち、案内には「川之江八幡大鳥居 川之江市指定文化財 この鳥居は畠山から現在地に奉遷されたとき、大庄屋三宅七郎右衛門家経が献じたものである。慶安四年〈1651)の作で一石づくりの笠石が特徴となっている。規模、古さともに現存する鳥居としては全国二番目である。
型式 明神形 高さ 約5メートル 幅 約3メートル」とあった。 この八幡様って、アプローチが多くどこが正面かはっきりしなかったが、ここが正面のようだ。なんとなく落ち着いた。
奉納者として記載される、川之江村大庄屋三宅家には川之江藩陣屋門が移されているとのことである。
八幡神社由緒
神社由来に拠ればこの社は推古天皇6年(598年)に 宇佐本宮より勧請し、当地切山にお祀りしたのが始まりとされている。その後、源頼義により康平7年(1064年)が畠山山頂に遷宮されたが、長宗我部元親の手で焼かれた。現在地の遷宮されたのは正保3年(1646年)のことと言う。
畠山って何処にあるのかはっきしないが、予讃線が川之江駅を越えた少し先、海に突き出た丘陵裾の海岸線を走る丘陵に畠山城跡がある。築城年代ははっきりしないが、川之江城の支城であったよう。その辺りだろうか。切山は金生川中流、下川町の北の阿讃山脈の峰にほど近い山中に切山と冠する地名がある。町域は金生町山田井となっている

常夜灯から土佐北街道を繋ぐ
大鳥居から先、土佐北街道の案内はないのだが、地図上に記載された「土佐北街道」へと繋ぐ、最も自然と思われる道を進む。と、ほどなく常夜灯。なんとなく旧街道のエビデンス。そこを西進しう、地図に記載された「土佐北街道」と繋いだ。これで本陣跡からなんとなくもやっとした土佐北街道の八幡様への道筋がちょっと見えてきたように思える。




■川之江から先の土佐藩参勤交代道■

高知の城下を発し、初日は布師田本陣(ぬのしだほんじん)、二日目は本山本陣、三日目は立川番所院、四日目は新宮の馬立本陣、五日目は川之江本陣と土佐北街道を進んだ土佐藩参勤交代の一行は、ここから船に乗ったわけではないようだ。
川之江八幡で旅の安全祈願をした後、海岸線に沿って讃岐に入り観音寺市豊浜町の和田浜を経て三豊市仁尾に進み、初期の頃はそこから船に乗り播磨の室津に向かったようである。後になって更に丸亀まで進み、そこから船出したともある。実際、丸亀には丸亀本陣もあったようだ。 土佐藩参勤交代道をトレ-スするには仁尾、丸亀までも進むべきかとも思うが、なんとなく土佐北街道と言うには違和感もあり、土佐北街道散歩の瀬戸内側はこの川之江で打ち止めとする。 残るは高知の城下から権若峠への上り口までを繋ぐ道筋だけとなった。

ちょっと寄り道;川之江城
土佐北街道とは直接関係ないが、市街の西の城山に建つ川之江城がちょっと気になり訪ねてみた。
天守を構える城ではあるが、これは川之江市制施行30周年を記念して建設されたもので史実に即した城ではないようだ。天守は犬山城を模したとも言われる。
城は歴史を踏まえたものではないが、伊予・讃岐・土佐・阿波を結ぶ交通の要衝であり、南北朝から戦国時代にかけて山城、というか砦が築かれていたようである。
南北朝時代、南朝方の河野氏の砦が築かれた。その後北朝方、四国の守護と称する讃岐の細川頼春氏の攻撃を受けて落城するも、その後もこの城をめぐる攻防が幾たびかあり、河野氏の所領に復する。
河野氏の所領に復した川之江城は、元亀3年(1572年)に阿波の三好勢の攻撃を受けている。その後、、川之江城を預かる河野氏重臣は土佐の長宗我部氏へ寝返るが、河野勢の攻撃を受けて落城。が、天正13年(1585年)に土佐の長宗我部氏の攻撃を受けて、川之江城は再び落城する。
長宗我部氏の攻略からわずか数ヶ月後、豊臣秀吉の四国平定軍が四国へ侵攻を開始(四国攻め)。川之江城も豊臣軍による攻囲を受け、長宗我部氏は降伏し川之江城は開城となった。 以後の川之江地方は小早川氏、福島氏、池田氏、小川氏と目まぐるしく領主が変わり、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後に伊予国に移封された加藤嘉明が川之江を領すると、慶長7年(1602年)に城を織豊系城郭へと改築した。しかし、嘉明が居城を伊予松山城へ移すと川之江城は廃城になった。
一柳直家が寛永13年(1636年)に川之江藩を立藩し、城を再築しようとしたが、寛永19年(1642年)に死去。領地は収公され、以後の川之江は天領になったため再築されることはなかった。

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