金曜日, 2月 25, 2022

予土往還 土佐街道・松山街道 ;久万高原町の三坂峠から越ノ峠を繋ぐ①

昨年だったろか、土佐の高知と伊予の川之江を結ぶ予土往還、土佐藩の参勤交代道でもある土佐北街道をすべて歩き終えた。で、ついでのことでもあるので、昨年予土往還のもうひとつのルートである伊予の松山と土佐の高知を結ぶ土佐街道・松山街道を歩くことにした。
どこからはじめよう、と少々考え、結局まずは伊予と土佐を隔てる山間部からクリアしようと伊予の久万高原間の越ノ峠(こしのとう)から歩きはじめることとした。越ノ峠は久万川とその支流である有枝川の分水界。峠とは言い条、整備された県道153号が抜ける小高い丘陵部といったところである。
越ノ峠より山入りし面河川の谷筋に下り、再び山入りし通称高山通りと称されるルートを辿り、予土国境の黒滝峠を越え土居川の谷筋に下りる。そこからまた山入りし鈴ヶ峠を越え仁淀川筋の越智の町へと抜けた。
越ノ峠から面河川筋までは藪も多いが、踏まれた道もありそれほど苦労せず抜けることができたのだが、それから先、予土国境の黒滝峠を越え水ノ峠を越えて山間の集落である寄合に下りるまで踏み込まれた道はほとんどなく、ほぼ藪漕ぎ。一度など下山途中で日没。頃は夏であり寒さの危険はなかったが、夜は沢水で渇きを癒すも夜があける頃には水も切れ、脱水症状なのか「幻覚」を見るといった結構危ういこともあった。

それはともあれ、予土往還の難関部をクリア。当初の目的は達成。その後の高知までは比定された旧土佐街道のルートもないため、どうしたものかとは思ったのだが、結局高知の城下までそれらしき道を辿ることになった。

で、高知まで繋いだのであれば、松山から先回スタート地点である久万高原町の越ノ峠までをも繋ぐべしと、伊予から見れば土佐街道、土佐から見れば松山街道とも呼ばれる松山と高知を結ぶ往昔の予土の主要往還の全ルートをカバーすることにした。
本来であればスタート地点である松山からはじめたいのだが、なにせこのコロナ禍。松山から始めるのは躊躇われ、まずは四国山地が松山のある道後平野へと落ちる片峠である三坂峠から久万高原町の越ノ峠へと向かうことにした。

ルートの目安は先回も予土国境までの頼みの綱とした久万高原町遊山会(以下「遊山会」)作成のトラックデータとその関連資料。データをGPSにプロットしチェックすると国道33号改修前の道筋なのだろうか、国道から逸れた箇所も結構多い。明らかに里道だろうと想定できる箇所も多いが、三坂峠からの スタートから直ぐは地図で見る限り、如何にも道無き藪といった中を進むよう。
藪はもうこりごりなのだが、時は冬。夏ほどは酷くないだろうし、藪とはいえ、国道の傍であり気持は楽。
ということで三坂峠からスタート。実際藪も冬枯れでそれほどのことはなかったが、一部危険個所は国道に迂回し里道に繋いだ。その先快適に歩きはじめたのだが、雪がパラツキはじめてたこともあり、三坂峠の下り道で雪で立ち往生は勘弁と越ノ峠まで繋ぐことなく途中撤退。距離は4キロほど。常の如く単独車行であり、国道440号の三坂峠傍の車デポ地まで往復8キロほどの散歩となった。残りは次回のお楽しみとする。


赤は実行トラックログ。青は「遊山会」の土佐街道トラックログ
本日のルート;
国道440号・三坂峠>旧三坂峠へ>地蔵尊>旧三坂峠
旧三坂峠から越ノ峠へ
駒繋ぎ石>駒つなぎの杉>国道合流点手前に遍路標石>3基の遍路墓>土佐街道標識>土佐街道標識>馬道?>徳右衛門標石>土佐街道標識と廻国供養塔>堰堤を渡る>国道に出る>土佐街道標識>六里の里程標石と常夜灯>河内神社の社碑と注連縄石>遍路標石と地蔵尊>常夜灯

三坂峠から越ノ峠前半部;赤は実行トラックログ、緑は「遊山会」のトラッゥログ


国道440号から旧三坂峠へ

国道440号・三坂峠
国道33号線を走り、途中当日は道路情報にチェーン装着規制とある旧国道33号(現在の国道440号)を避け、三坂道路(現国道33号)を久万高原町の東明神まで進み、そこから国道440号を折り返し三坂峠に。かつての伊予鉄研修所跡地ともドライブイン跡とも言われる平地前のスぺ―スに車をデポする(地図には国道440号の三坂峠は正式にはもう少し北にピンが立つ)。
桧垣翁顕彰碑
車デポ地右手には桧垣翁顕彰碑。明治期の上浮穴郡郡長。地域の発展に道路整備が不可欠と、三坂峠開削に尽力し所謂四国新道の一環として明治24年(1891)三坂峠道の開削が実現。

さらに郡長退任後も松山と土佐の佐川を結ぶ四国横断鉄道建設計画を推進するも志半ば大正13年(1924)に没した、といったことが刻まれていた。 
■旧国道33号(現国道440号)の歴史
その後、大正9年(1920)には県道松山―高知線として認定され、昭和27年(1952)には国道33号に昇格した。昭和初期には運搬主体が馬車からトラックに代わり、昭和9年(1934)には省営バス(国鉄、JRバスの前身)が松山と久万を結んだとのことである。
しかしながら、この国道は明治時代の運搬の主力である「荷馬車規格」であり、自動車道としては狭く、特に三坂峠付近の天狗鼻の険路は安全な交通の障害ともなっていた。そのため、昭和34年(1959)から国道の大改修が始まり、昭和42年(1967)には幅員も6mから6.5m、全線舗装の道に改修された。
この改修時、それ以前のルートも変更されている。当初のルートは大体は現在の旧国道33号(現国道440号)と同じではあるが、360度回転の塩ヶ森トンネル(全長152m)付近は、塩ヶ森トンネル開通以前、トンネル北側に道があり、そこから大友山の西麓を現在の砥部町総合公園の東側を通って砥部町の宮内へ出ていた、という。また、三坂隧道が開削され、現在も残る三坂隧道の付近、ヘアピンカーブから旧国道33号に沿って続き三坂隧道辺りで突起する天狗鼻を通るルートは変更され、新しいルートが開かれ、天狗鼻部分は開削され現在の三坂隧道を抜けるルートとなった、と言う。
斯くして改修された旧国道33号であるが、依然峠付近の急カーブの連続や冬の積雪、また240mm以上の雨が降れば通行止め、といった状況であり、それを解決する事業として三坂峠を回避する計画が昭和60年(1985)にはじまり、平成8年(1996)に事業化決定、着工平成11年(1999)、三坂第一トンネル(延長3,097m)と三坂第二トンネル(延長1,300m)の2本のトンネルと9本の橋梁によって、三坂峠を回避する自動車専用道路である「三坂道路」が開通した。構想から実現まで30年を有した事業であった(「えひめの記憶」より)。
現在は三坂道路が国道33号となり旧国道33号は国道440号となっている。
四国新道
上に、「上浮穴郡長に赴任した桧垣伸氏は、上浮穴の発展は道路の整備にあると四国新道(三坂新道)建設に尽力し」とメモした。正確には、四国新道の御坂峠道周辺の建設に尽力した、と言うことではある。
四国新道とは、香川出身の政治家である大久保諶之丞の構想によるものである。明治17年(1884)に「四国新道構想」を発表。そのルートは当初、丸亀、多度津から琴平、阿波池田、経て高知へ至る計画であったが、後で高知から佐川、須崎へ至る路線、更にそこから松山に至る計画も追加された。総延長は約280km。 1886年(明治19年)に起工。起工から8年後の1894年(明治27年)に四国新道は完成した(「Wikipedia)より)。

旧三坂峠へ
今回のスタート地点と決めた国道開削以前の旧三坂越えの険路にある三坂峠に向かう。ここは四国遍路道を辿る折、既に歩いており勝手知ったるところ。旧峠も国道から数分といったところにある。
三坂峠は所謂「片峠」。四国山地の北端、松山のある道後平野に向かって山地が落ちてゆくものであり、松山方面からは上りだけ、高知方面からは下りだけの峠ではある。その下り口となる旧三坂峠へ進む。
研修所跡(ドライブイン跡?)地の南端に左に逸れる簡易舗装の道があり、地図には「松山街道」と記される。入り口には「46番浄瑠璃寺 8.5km」「45番大宝寺 46番岩屋寺」と記された木の標識が立つ。その対面にあるコンクリートブロックはかつてこの地を訪れた時、バスから降りた停留所があったところ。バス停の案内標識もなくなっており、バス停はなくなったのだろうか。

地蔵尊
森の小径を進むと、三坂峠から札所46番浄瑠璃寺、47番八坂寺の先辺りまでの今回の「あるき遍路」のルート案内がある。また道の右手一段高いところに地蔵尊が祀られる。
さらに先に進むと、道脇に「四国八十八カ所へんろの旅」の案内。「四国八十八カ所へんろの旅;四国八十八カ所へんろの旅は、阿波の発心の道場(1-23)に始まり、土佐の修行の道場(23―39番)を経て、伊予の菩提の道場(40-65番)に入り、讃岐の涅槃の道場(66-88番)を巡って結願となります、全行程約1440km、なだらかなみちもあれば、険しいみちもあり、あかたもわたしたちの人生に似ているようです」とあった。
阿波で悟りの心を思い立ち、土佐の海岸線に沿った長丁場で修行の心を鍛え、伊予の山懐を辿る遍路みちで煩悩を解き悟りの心を養い、讃岐であらゆる煩悩から解き放たれた境地に至るってことだろうか。
発心・修行・菩提・涅槃と四国四県
この発心・修行・菩提・涅槃を四国四県と関連付けたのはいつ、誰なのだろう。 発心・修行・菩提・涅槃は仏道修行の「四門思想」に由来するとのことであり、お釈迦さまが「東方」で発心し、「南方」で修行を行い、「西方」で菩提をて、「北方」で涅槃の境地に入るとのこと。位置関係も四国四県に一致している。見事なブランド戦略を立案したのは誰なのか結構気になる。

旧三坂峠
国道から5分強土径となった土佐街道・遍路道を歩くと三坂峠の案内。「標高720メートル 久万高原町 伊予と土佐を結ぶ土佐街道にある急峻な峠です。江戸初期に久万の商人山之内仰西によって拓かれました。明治27年に三坂新道(国道33号)ができるまで、この道が松山と久万を結ぶ主要道でした。峠からは松山市内が一望でき、茶屋もあり、久万山馬子や四国遍路をはしめ多くの旅人が行き交ったことが絵図からわかります」とあった。
峠は切り通しとなっており、切り通しの上にはお地蔵様が佇むとのこと(「えひめの記憶」)。常光寺(松山市恵原町)の僧が文政9年(1826)、四国・西国霊場巡拝記念に造立したものと言うが見逃した。
で、人馬や遍路や往還したこの三坂峠、藩政時代には要害の地として幕末動乱期には砲台を据え付け、備えを固めた、と。松山藩は親藩ゆえ討幕派の土佐藩に対するものであろうか。とはいえ、土佐藩の松山藩征討軍に対し松山藩は抵抗することなく開城した。
久万の商人山之内仰西
三坂峠を拓いたとの案内のあった山之内彦左衛門翁(仰西は仏門に入ってからのもの)であるが、久万高原町に今も残る「仰西渠」でも知られる。久万川との川床の格差が10mもあり、豊かな久万川の水を耕地に引くことができず困っていた村人のため、私財を投げ打ち、農業用水路を開削した。岩盤を穿ち幅1.2メートル、深さ1.5メートル、途中約12メートルの隧道を通し全長さ57メートルの水路を3ヶ年の歳月をかけてつくった、と。仰西渠は越ノ峠への途次出合うことになる。

旧三坂峠から越ノ峠へ

駒繋ぎ石
駒繋ぎ石?
旧三坂峠を「タッチ」し、本日の散歩をスタートする。国道440号へと戻る途次、標識はないのだが、なんとなく気になる道が左に逸れる。先へと進むと民家の前を道が進むのだが、その庭にこれも何だか気になる石がある。案内はないのだが、「遊山会」の資料にある「駒つなぎの石」に似ているようにも思える。
駒つなぎの石
「遊山会」の資料には「三坂峠前後の道は、「土佐街道」であると同時にへんろ道でもあり、国道が開通するまでは大変にぎわったようである。次に紹介する三坂馬子唄に歌われる「馬子」は賃金をもらって、物を目的のところへ運搬する人で、「駄賃持ち」と呼ばれ、「馬追い」「なかせ」「馬方」とも呼ばれていたという。
三坂越えすりゃ雪降りかかる戻りゃ妻子が泣きかかる
むごいもんぞや久万山馬子は三坂夜出て夜戻る
わしも若いときゃ城下まで通うた高井の川原で夜が明けた
馬よ歩けよ沓買うて履かそもどりゃとうきび煮て食わそ
馬による物資輸送は、当時、最大最良の方法だったようで、多くの「駄賃持ち」がいたらしいが、道の幅員が狭いので、振り分け荷物を満載した馬と馬との行き違いは困難を極めたようで、馬の首に鈴をつけて往来し、鈴の音を聞けば手前の広い場所で待って離合するようにしたのだという。人馬往来の多さを物語るように、今も峠の近くには、「駒つなぎの杉」「駒つなぎの石」残っている」とあった。
駒つなぎの杉
では「駒つなぎ」の杉とはどれ?民家前を右に折れ国道に向かう道筋に杉の木立が並ぶ。「遊山会」資料の写真と見比べると、如何にもそれっぽい。案内はないがこの杉の子立が駒つなぎの杉なのだろう。




国道合流点手前に遍路標石
民家の前を右に折れる駒つなぎの杉へと向かうことなく、そのまま先に進むと国道に出る手前に遍路タグ、国道合流点右手には古い遍路標石が立ち、左手には真新しい標石も立つ。
古い遍路標石には「右 へんろみち 左 松山道 浄るり寺へ二里 明治廿三年六月建立 鈴木覚蔵」、左手の新しい標石には、「南無大師遍照金剛 浄瑠璃寺八.二粁」と刻まれる。
どうもこのルートが旧土佐街道・遍路道のようだ。
また、「遊山会」の資料には「三坂峠について述べた文献には、必ず「鈴木の茶店」が登場するが、その鈴木の子孫の家の前を通り国道三三号へ出る手前にへんろ標があり」と記される。とすれば途次、庭に「駒つなぎの石」らしき石のあった民家が鈴木の茶屋があったところだろう。
南無大師遍照金剛
「南無」は「帰依する」。「大師」は高僧没後、朝廷より賜る尊称。「遍照金剛」は空海が唐で真言密教の正式な継承者としての儀式(潅頂)時に賜った潅頂名。光明があまねく照らし、金剛(ダイヤモンド)のように壊れることなく不滅である、の意。

3基の遍路墓
国道を右に逸れると
直ぐ道の左手に遍路墓3基
国道合流点の遍路標識から少し国道を南に進むと民家があり、その手前から西に逸れる道がある。道を進むと民家の裏手、生垣というか木立の中に3基の石仏。「遊山会」の資料には遍路墓とあった。
「遊山会」のトラックログは国道を横切り、その後しばらく国道の西を進む。地図には、国道から逸れる辺りに道筋が見えるが、トラックログはほどなく道筋から離れ国道に沿って進んでいる。そこには道筋は描かれてはいないため、この辺り藪漕ぎとなりそうな予感がしたが、予感敵中。今回も出だしから藪漕ぎとなった。

笹原に土佐街道標識
敷地を抜けると山裾に小川。先は笹原
「遊山会」の資料には遍路墓からの先は「ここから道は怪しくなるが細い谷の右岸に出て小さなせせらぎを渡る手前にまたへんろ墓がある。さらに進むと、堀切のような景観をした典型的な馬道を通り、古い木製の小さな橋を渡って左岸に移る」とあり、トラックログも地図記載の道から離れ国道33号に沿ってしばらく進んだ後で国道に合流している。
トラックログに従い道を左に逸れると一帯は切り開かれ広い敷地となっている。国道筋にあった土地分譲 住宅建設企業の敷地のようだ。敷地の西は山裾、南は藪。その境界には幾多の大きな岩が置かれている。住宅建設時の庭石なのだろうか。 敷地を抜け成り行きで進むと小川があり、小川に沿って進むと山裾を流れる小川と合流する。「遊山会」の言う小川がどちらか分からない。ふたつの小川の右岸を彷徨ったが上述遍路墓を見付けることはできなかった。
笹原に土佐街道標識

が、ふたつの小川が合わさる少し先、山裾の木々と笹原の境あたりに円柱のポールが見える。近づくと「土佐街道」と期されていた。なんとなく土佐街道を辿ってはいるようだ。
標識から先は笹原、そして冬枯れの藪。時に木立に括られたリボンを目安に藪を進むと、踏み込まれた道に出る。



土佐街道標識と馬道
踏み込まれた道に土佐街道標識
標識の先に掘り切り風の道。馬道?
山裾の踏み込まれた道を少し進むと再び土佐街道の標識。オンコースを辿っている。
踏み込まれた道はその先、藪に消えるが、藪の手前に掘り切りと言えばそうとも見える箇所がある。それほど深い堀切ではないが、それが「遊山会」の資料に「さらに進むと典型的な堀切の景観を示す「馬道」なのだろうか。
馬道?の先は藪
国道から見た土佐街道筋。藪漕ぎで進む

が、その先、「遊山会」のトラックは山裾を離れ国道33号の一段低いところを南進し国道に合流している。トラックログに従い山裾を離れ冬枯の藪の中を成り行きで進む。「遊山会」の資料には「馬道を通って古い木製の橋を渡り左岸に移る」とあるが背丈より高いい草藪、幾筋も流れる細流など泥濘に落ち込まないよう足元だけが気になり、特段「古い木製の橋」を意識することもなく、草藪の中をしばらく進みトラックログに従いガードレールの間から伸びるステップを上り国道に出る。

徳右衛門標石
ステップを見つけ国道に出る
徳右衛門標石
国道に出て少し三坂峠方面に戻ると、国道東手に徳右衛門標石が立つ。「是より浄るり寺へ二里」「東明神村中」と刻まれる。「遊山会」の資料には四国新道開通後に旧道から移されたとあった。
武田徳右衛門
徳右衛門こと武田徳右衛門は越智郡朝倉村(現在の今治市)、今治平野の内陸部の庄屋の家系に生まれる。天明元年(1781)から寛政四年(1792)までの十一年間に、愛児一男四女を次々と失い、ひとり残った娘のためにも弘法大師の慈悲にすがるべし、との僧の勧めもあり、四国遍路の旅にでる。
その遍路旅は年に3回、10年間続いた。で、遍路旅をする中で、「道しるべ」の必要性を感じ、次の札所までの里数を刻んだ丁石建立を思い立ち、寛政6年(1794)に四国八十八ヶ所丁石建立を発願し、文化4年(1807)に成就した。その数は102基に及ぶとのことである(「えひめの記憶」を参考に概要をまとめる)。 因みに、幾多の遍路道標を建てた人物としては、この武田徳右衛門のほか、江戸時代の大坂寺嶋(現大阪市西区)の真念、明治・大正時代の周防国椋野(むくの)村(現山口県久賀町)の中務茂兵衛が知られる。四国では真念道標は 三十三基、茂兵衛道標は二百三十基余りが確認されている。

土佐街道標識と廻国供養塔
国道を逸れ簡易舗装の道を下る
直ぐ道の右手に土佐街道標識
徳右衛門標石から「遊山会」のログに従い国道を進み、トラックログが再び国道から逸れる皿ケ嶺登山口休憩所まで歩く。と、メモの段階で「遊山会」の資料を読むと、徳衛門標石から先も「さらに藪漕ぎを続けて小川の左岸に下ると、文政八年の供養唐の前に出る」とある。この供養塔の場所は皿ケ嶺登山口休憩所の南を下る澤の手前にプロットされている。トラックログは国道を辿るように見えるが、土佐街道は国道に出ることなくそのまま皿ケ峯登山口休憩所の西斜面下まで進むのかも知れない。
土佐街道標識の裏手に回国供養塔
ともあれ、当日は皿ケ峯登山口休憩所から国道を逸れ斜面に下る場所を探す。と、簡易舗装のされた道が国道から斜面を下る。そこを下りていくとすぐ「土佐街道」の円柱標識が立っていた。
土佐街道の標石の直ぐ裏手、杉の木に隠れるように供養塔が立つ。「遊山会」の資料には「天下泰平 九州筑後久留米 奉納神社仏閣回国供養塔 日月清明 光厳大徳 文政八乙酉七月 施主同行妻さよ 同娘とも」とある。

崖下の土佐街道を戻るも鉄柵でブロックされる
崖道を進む
ほどなく前面が鉄柵で完全ブロック

「さらに藪漕ぎを続けて小川の左岸に下ると、文政八年の供養唐の前に出る」と「遊山会」の資料にあったため、藪道を繋いでみようと土佐街道標識から国道下の崖道を沢に沿って折り返してみた。杉林の中をしばらく戻ると鉄柵が国道から沢筋まで設置されそれ以上進めない。獣除なのだろうか。どこか入り込める箇所はないかと探したが、完全にブロックされておりそれ以上進むことは止めにした。国道に出ることなく藪や崖道を進んできてもここで行き止まりとなる。
回国供養塔
大乗妙典回国(廻国)供養塔。六十六部供養塔と、略して六部供養塔とも言われるもの。日本各地の66の代表的寺院(国分寺など)に写経した大乗妙典(法華経)を各一部奉納すべく全国各地を巡礼してまわる。通常、祈願成就の折建立するものではあるが、この供養塔は「九州筑後久留米」とあり在地ではないため祈願成就ではないだろう。供養塔は祈願成就だけでなく、回国途次なんらかの縁ができた地、または途次倒れた地に建立することもあるとのこと。
文政二乙酉(きのととり)
回国供養塔に刻まれた「文政八乙酉」の銘。文政は元号、乙酉(きのととり)は干支(えと)。乙酉(きのととり)は干支と呼ばれる60を周期とする数詞の22番目。古代中国にはじまる暦法上の用語であり、暦を始めとして、時間、方位、ことがらの順序などに用いられる。
干支は十干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10種類)と十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の12種類)の組み合わせよりなり、甲子よりはじまり、乙丑 ,丙寅,丁卯,戊辰,己巳,庚午,辛未,壬申,癸酉,甲亥、、と十干と十二支がひとつずつずれる組み合わせで進み、、60番の癸亥で一巡する。ぱっと見には10と12であれば120のようにも思えるが、61番は最初の組み合わせに戻るため60通り。そういえば10と12の最少公倍数は60だ。
で、前々から干支が元号(この場合は文政)とペアで並ぶのは?と思っていたのだが、よくよく考えればお上の都合でころころ変わる元号では経年がわからない。 例えば、文政の三つ前の元号は寛政だが、例えば、寛政五年と文政八年までは何年あるかこれだけではわからない。
が、干支と合わせると、寛政五年(1793)は癸丑(みずのとうし)で干支の50番目。文政八年(1825)は乙酉(きのととり)は干支で22番目。60-50 +22=32。1825-1793=32。これなら商人も10年でいくらといった利子をつけた商いも安心してできるかも。なんとなく納得。
因みに、干支は通常十二支とするが、本来は十干と十二支の組み合わせであり上述の60の組み合わせを言う、また還暦を61とするのは干支(暦)が一巡し元に還ることに拠る、と。

堰堤を渡る
堰堤を渡り久万川左岸に
堰堤先の水路を進むと砕石場への道に出る
「遊山会」のトラックログは沢を渡る。特段橋はない。沢に設けられた堰堤を渡り左岸に出る。その先堰堤手前から引かれた水路に沿って進みむと道にでる。先を進むと大きな採石場前の三差路に出る。
「遊山会」のトラックログに従い、三差路にある橋を左折し一旦国道方向へ向かう。

国道に出る
土佐街道は国道手前で採石置き場右手を進む
直ぐ藪となり、先は危険そう。国道に出る
土佐街道は国道手前で右折。採石場の西側を進むと砕石場から離れ草藪に入る。
草藪を少し進むが、久万川と国道が接近する辺りに近づくと、その先はちょっと危険そう。国道と久万川の間は急斜面となっており、また、「遊山会」のトラックログもこの辺り点線表示されており、道筋も比定されていないようでもあるため、国道を歩き迂回することにした。
辺りを見廻し、成り行きで藪から国道に出る。

土佐街道標識
鉄柵の切れ目から下る
土佐街道標識。その先に三坂道路が走る
レストパーク明神まで国道を歩く。レストパーク明神から川筋を見ると結構開けている。前面には三坂道路が見え、川はその下を潜る。川筋まで結構比高差はあるが、安全に下りることができそう。
下り口を探すと鉄柵の切れたところから下に下りるステップがあった。ステップをを下りると久万川の谷筋に幾段もの段差があり、そこに桜の木が植えられている。レストパーク明神にあった桧垣伸翁の顕彰碑にあった「桧垣佐倉公園」がこれなのだろうか。
橋を渡り、三坂道路の高架を潜り里道に出る
この段差をジグザグと谷筋へと下ると土佐街道の標識が立っていた、その先で久万川支流に架かる橋を渡り舗装道へ。そこから三坂道路の高架を潜り畑の間の農道をGPSにプロットしたトラックログに従い先に進む。




桧垣伸翁の顕彰碑
「久万地域の発展を願って明治14年第2代の上浮穴郡長となった桧垣伸さんは、上浮穴郡の発展には道路を整備することが重要だと考え、各方面に熱心にはたらきかけ、郡民の先頭に立って多くの困難を乗り越え、7年間の歳月をかけて、国道33号の開通を成し遂げました。
そのほか、久万凶荒予備組合結成の基礎をつくったり、また、植林や三椏の栽培を進めるなど、上浮穴郡の発展に大きな力を注がれました。
垣伸さんの業績をたたえる、道路開通の記念碑は、現在も三坂峠に建てられています。
伸さんのお孫さんで東京にお住まいだった、桧垣端さんは、おじいさんの素晴らしい業績に強く心を打たれ、久万地域の人々が、地域を大切にする心を一層強め、久万の地域がますます栄えることを願い、平成13年、久万町に3,000万円というたくさんのお金を寄付されました。
桧垣伸さんの尊い業績と、桧垣端さんのご意志に深く感謝し、そのご意志を受け継ごうとの強い決意で、桧垣端さんの寄付金をもとに、ここに「桧垣桜公園」をつくり記念碑を建てて記念します。平成24年3月吉日 桧垣伸翁を顕彰する会」。 三坂峠に建てられた記念碑とは上述の顕彰碑もの。

六里の里程標石と常夜灯
舗装された里道を進むと
右手土径に常夜灯が見えた
舗装された農道を進むと右手、舗装道から外れたところに常夜灯が見えた。「遊山会」の資料にある常夜灯であろうと、舗装された農道を右に逸れ常夜灯へと向かう。その対面には「遊山会」の資料にある里程標石も立っていた。里程標石には「松山札の辻から六里」と刻まれる。
里程石
常夜灯
常夜灯の対面に六里の里程標石
松山城下、現在の市電本町三町目停留所近くのお濠そばに松山藩の高札場があり、その札の立つ場所より土佐街道を予土国境の黒滝峠まで一里ごとに里程石が立つ。


越ノ峠から黒滝峠までの里程石
越ノ峠からすぐ八里里程標石、有枝川の谷筋へと向かう色ノ峠手前に九里里程標石、七鳥かしが峠を越え面河川の谷筋に出ると十里の里程標石、面河川を渡り高山通りの尾根筋手前に十一里の里程標石、黒滝峠へ向かう尾根道の猿楽岩傍に十二里、黒滝峠には十二里十六丁の里程標石は、昨年の土佐街道歩きですでに確認済。 この先越ノ峠までに七里の里程標石があると言う。また遍路歩きの途次、八坂寺の北の遍路道に三里、一遍上人修行の場として知られる窪寺に四里の里程標石に出合っている。

河内神社の社碑と注連縄石
六地蔵
高山寺
六里の里程標石を離れ先に進むとすぐ舗装された農道・生活道に出る。トラックログに従い道なりに進むと六地蔵。更に進むと高山寺。その直ぐ先に河内神社がある。「遊山会」の資料には河内神社には三輪田米山の揮毫になる社碑と「大順成徳」の文字を刻んだ注連縄石が見えるとある。道脇のある社にお参り。
三輪田 米山(みわだ べいざん)
    河内神社の注連縄石。
社碑
文政4年1月10日(1821年2月12日)- 明治41年(1908年)11月3日)は江戸末期から明治にかけての書家。僧明月、僧懶翁とともに伊予三筆と並び称される。 伊予国久米郡(現在の愛媛県松山市)の日尾八幡神社神官三輪田清敏の長男に生まれる。嘉永元年(1848年)、父死去、神官を嗣ぐ。
国学、漢学、和歌を国学者大国隆正に学ぶ。また書を日下陶渓(字・伯巌)を手本に学び、僧明月、細井広沢、王羲之の書法を研究。
明治4年(1871年)、旧松山県より日尾八幡神社祠官に任命。
明治13年(1880年)、隠居。愛媛県中予地方を中心に約3万の揮毫を残す。酒が入らぬと良い書は書けぬと二、三升の酒を浴びるように飲み、倒れる寸前まで飲んでおもむろに筆を取るのが常であったという。書風は豪放磊落にして気宇壮大、雄渾にして天衣無縫、何物にも捉われない破格の書体は、近代書の先駆としていまなお独自の輝きを放つ。また明治天皇の侍候を務め書の訓導にあたった」とWikipediaにあった。

遍路標石と遍路墓
河内神社の先、土佐街道のトラックログは国道へと向かう。国道に出る直ぐ手前に遍路標識。その横の小祠に地蔵立像と石仏。「遊山会」の資料には遍路墓とある。 遍路標石は風雨に摩耗し文字は読めない。
地蔵
地の蔵。生きとし生けるものを涵養する大地。釈迦(仏陀)滅後、はるかな年月をへて次の仏陀(弥勒菩薩)が現れるまで、仏陀にかわり六道輪廻を巡る衆生を救済するのが地蔵菩薩と言う。六地蔵はこの六道(仏教の輪廻(りんね)思想において、衆生がその業に従って死後に赴くべき六つの世界。 地獄道、餓鬼道、畜生道、阿修羅道、人間道、天道をいい、六趣ともいう)の衆生を救済する菩薩さま。

常夜灯
遍路標石から左に折れ国道に出る。その角には大きな常夜灯。天、金、石の文字が刻まれる。天は天照皇大神宮を指し伊勢神宮の伊勢信仰、金は金毘羅神宮・金毘羅信仰、石は石筒神社・石鎚信仰を指す。慶応三年三月吉日 組中の銘も刻まれる 慶応三年(1867)の建立。組中はこのあたりは中組と称される地区。中は講中といった風に使われるのを見かける。(中)組中とのことだろうか。
この頃には四国の石鎚巡礼、金毘羅巡礼だけでなくこの地よりお伊勢参りに出かける人も多かったのだろうか。逃散を畏れ、村を離れることが許されなかった庶民も、江戸の頃になるとより当局の許しを得れば神社・仏閣への参拝の旅は許されるようになった、とか。
江戸期には宗教礫・経済的相互扶助組織の講が組織され、進行と娯楽を兼ねた神社仏閣参拝が盛んに行われたと言う。
先ほどより雪がパラツキ始める。三坂峠で車の立ち往生もかなわんと、今日はここで打ち止め。車デポ地へと戻る。



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