火曜日, 10月 25, 2022

伊予 石鎚三十六王子社散歩 そのⅤ;第二十一 大元王子社より西之川道を夜明峠まで上り第三十四 夜明峠王子社までを登拝し、尾根道を成就社まで折り返す

2022年(令和4年)秋、石鎚三十六王子社登拝道の第二十一大元王子社からはじめ西之川道を夜明峠まで上り、第三十四 夜明峠王子社までを辿ることにした。往昔の登拝道は西之川道を第二十七 祈滝王子社まで登拝し、そこから八丁へと尾根筋へと登り、第二十八 八丁坂王子社を拝礼した後、王子社の番号順に第三十四夜明峠王子社へと尾根筋を辿ったようだ。が、現在その道は無く、ために西之川道を夜明峠まで登り詰め、そこから石鎚山頂と逆方向、成就社に向かって折り返し王子社番号を逆に第三十三 早鷹王子社、第三十二 古森王子社、第三十 大剣王子社・第三十一 小剣王子社、第二十九 前社森王子社、第二十八 八丁坂王子社 を拝礼するすことした。

河口よりはじめ第七黒川王子社から今宮道を比高差1200mほど上り石鎚神社中宮・成就社境内にある第二十稚子宮鈴之巫女王子社にお参りし、黒川谷を下る黒川道を河口まで戻ったのは2016年(平成8年)12月のことである。知らず6年が過ぎていた。
こんなに期間が開いたのは西之川道を辿る王子道登拝は結構きつそうであるとの想いゆえ。一旦西之川道に入れば、石鎚登山道である尾根筋の夜明峠まで12キロほど、比高差1200mほど登らなけらばならない。途中で引き返し、数回に分けてといったことは段取りがよくないため一気通貫で進むしか術はない。尾根筋の夜明峠からお山を下るロープウエイのある成就社までは2キロほどであるが、延々と下る木の階段。想うだけで気が重くなる。どう考えても全行程で10時間ほどかかりそう。
そのうえ、成就社から下るロープウエイの最終時間の縛りもある。最終を逃せば成就社でビバークだ。 そんなこんなで時が過ぎていった。が、いつまでもほっておくのは何だかなあと、秋のとある週末、一念発起して西之川道にチャレンジすることにした。

「お山は三十六王子、ナンマイダンボ(南無阿弥陀仏のなまり)」。往昔、先達に導かれた石鎚講中の登拝者はこの唱えことばをかけながら険しい登拝道を霊山石鎚の頂上を目指した、と聞く。はじまりは江戸中頃と言う。
石鎚に王子社があることを知ったのは平成22年(2010)の元旦、雪の石鎚山に上った時のことである。石鎚神社中宮・成就社の本殿と見返遙拝殿の右手、八大龍王の祠の傍に、第二十 稚子宮鈴之巫女王子社があるのを知った。
「王子社」に出合ったのはこれがはじめてではない。いつだったか、熊野古道・中辺路道を歩いたとき、熊野九十九王子社のいくつかに出合っていた。『熊野古道(小野靖憲;岩波新書)』によれば、熊野参拝道の王子とは、熊野権現の分身として出現する御子神。その御子神・王子は神仏の宿るところにはどこでも出現し参詣者を見守った、とのことである。その王子社が石鎚山にもあった。

江戸の中期頃からはじまった石鎚三十六社巡拝であるが、江戸末期には既に衰退しその場所も不明となっていたようだ。明治になると神仏分離、修験道の禁止などにより、三十六王子社巡拝は踏み跡も消え藪に埋もれることになったのだろう。
その石鎚三十六王子社が再び日の目をみたのは石鎚神社宮司・十亀和作氏たちの努力による。往古役行者より代々の修験者の足跡を足で歩いて直に踏み訪ねるべく昭和38年(1963)より、社蔵の古文書や、古老の口碑、各王子社に建つ昭和六年十一月と記した石標(大十代武智通定宮司の時代)を元に現地踏査し、「何百年かの間、時代の変遷とともに登山道が逐次変更され、一部の王子を除いて殆ど日の目を見ない辺鄙と化していたため、探し当てるのは容易でなかった」王子社を昭和46年(1971)に調査し、昭和47年(1972)に『石鎚山旧跡三十六王子社』として発行された。現在の石鎚三十六王子社はこの調査の結果比定された王子社である。

平成22年(2010)に石鎚三十六王子登拝道を知り、歩いてみようと想いながら6年ほど経った平成8年(2016)の晩秋、黒瀬ダム近く、黒瀬峠あたりからはじまる石鎚三十六王子社の第一 福王子社より歩き始めた。大雑把に言うと、第一 福王子社から第六 子安王子社までは黒瀬峠から河口集落まで。加茂川の川筋に沿って、県道から比高差50mから150mほどのところを進む。次いで、第七 黒川王子社から第二十 稚子宮鈴之巫女王子社までは、河口から尾根道、昔の今宮道を等高線にほぼ垂直に直線距離で6キロ、比高差1200mほどを上り、上述の如く石鎚神社中宮・成就社境内にある第二十稚子宮鈴之巫女王子社までを登拝した。
で、今回ルートを想うに、本来であれば、先回の最終王子社である第二十稚子宮鈴之巫女王子社よりはじめるのが本筋ではあるが、ロープウエイの最終時間は土日祭日は最終午後6時 (平日は午後5時)。第二十稚子宮鈴之巫女王子社からスタートし、西之川道を辿ったとすれば石鎚のお山でビバーク必至。
ということで、第二十稚子宮鈴之巫女王子社より西之川の谷筋へ下りる道は別の機会とし、今回は上述の如く、西之川登山口よりスタートし西之川道を辿り第二十一 大元王子社から西之川道を夜明峠まで上り第三十四 夜明峠王子社まの7つの王子社(第二十一から第二十七まで)を登拝し、そこから石鎚登山道沿いに成就社まで戻る途次にある6つの王子社(第二十八から第三十三まで)をカバーすることにした。
ルート概要は大きな沢筋に合流する辺り2か所ほどはちょっとわかりずらいが、登山者も多いためだろうか、基本道はよく踏まれており、リボンなども助けに慎重に辿れば道に迷う心配はあまりないように思う。急坂、ちょっとした崖、崩れた道や沢などにはロープも整備されており、危険と感じるようなところもなかった。
西之川登山口を出発したのが午前6時15分、夜明峠午後2時20分。おおよそ8時間。ロープウエイ乗り場到着が午後5時20分。夜明峠から成就社までの尾根道2キロほどの距離に3時間かかっているが、これは途中第二十九 前社森王子社のある前社杜の頂上へと鎖場を這い上がったり、延々と続く下りの木の階段に膝の痛みを庇いながらの戻りであり、普通の方であればこんなに時間はかからないかと思う。
結局合計で10時間半ほどかかってしまったが、痛んだ膝でもなんとかこのくらいは歩けることがわかっただけで良しとする。
石鎚三十六王子社で残すは第三十五 裏行場王子と第三十六 天狗嶽王子社。共に石鎚山頂、弥山と天狗嶽に立つ。弥山と天狗嶽には何度か登っている。ということで、残り二つの王子社はいつか石鎚に登る時のお楽しみとし、石筒三十六王子社登拝メモは一応今回でお終いとする。




国土地理院地図にプロット

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本日のルート;西之川登山口>第二十一 大元王子社>第二十二 恵比寿滝王子社>第二十四 御鍋岩屋王子社>岩原分岐>御塔谷に出る>御塔谷左岸をせりあがる>第二十三 刀立王子社>御塔谷筋へと下る>御塔谷筋の支沢に架かる木橋を渡り左岸を進む>石仏>十字分岐>天柱石 第二十五御塔石王子社・第二十七祈滝王子社>第二十六 窟の薬師王子社>夜明峠>第三十四 夜明峠王子社>第三十三 早鷹王子社>第三十二 古森王子社>第三十 大剣王子社・第三十一 小剣王子社>第二十九 前社森王子社>第二十八 八丁坂王子社>成就社>石鎚山ロープウエイ山頂成就駅

ルート図


西之川登山口;午前6時15分(標高432m)
日没山中ビバークは勘弁と、常にもなく早起きし、西之川登山口に。道脇のスペースに車をデポする。登山口到着時は未だ漆黒の闇。夜明けを待ち、午前6時ころには空も白みはじめ午前6時15分、西之川登山口より石鎚三十六王子社登拝道でもある西之川道登山口石段を登る。 上ると直ぐ廃屋が並ぶ。

第二十一大元王子社;午前6時半(標高472m)
第二十一 大元王子社アプローチ口
ここを右折
直進し石組みの間の石段を登る
数件の廃屋を過ぎると前面が一段低い平場となっている道に二つの標識が立つ、「第二十一 大元王子社には「成就 土小屋 / 西之川」、「下谷 西条市街方面」のと書かれたふたつの標識の間、石垣で囲まれた小径へと右折する。先に進み石組みの間の石段を登る。

水路溝に沿って数s無と
木の根元に意味不明の標識。水路澪左を上る
石段を登り先に進むとコンクリート造りの水路槽がありその先水路溝が上に続く。水路溝右側に沿って上ると「もの言わぬ国」といった意味不明の標識があり、このあたりから踏み跡も消え。ちょっと途方に暮れる。
GPSでプロットした第二十一 大元王子社の位置はまだ上にある。「もの言わぬ国」より水路溝の左を登る。
石鎚三十六王子社道の標識
「石鎚三十六王子社道」標識が現れる
標識の左手には石段が続き上に民家がある
何となく踏まれた感がある。その先、石段も現れる。踏まれた道を辿り水路溝を右に移り、更に上に進むと黄色と赤の標識が木に打ち付けられており、黄色部分には「石鎚三十六王子社道」と書かれ道なき崖上方向を指す。また、木の根っこには青色の「王子社道」の標識もある。が、標識の示す方向はいまひとつはっきりしない。左手には民家(廃屋?)へと続く石段もある。

標識のある木から上へとロープが張られる
ロープを上り切った先に標識が倒れていた
さてどうしたものか戸惑っていると、木に打ち付けられた黄色と赤の「石鎚三十六王子社道」標識の根元辺りにロープが括られており、崖を真上にロープが張られている。ロープが張られているということは、それが王子社へのルートであろうとロープに捕まり崖を這い上がる。
ロープの張られた先、踏まれた道があり右に少し振るとそこに標識が倒れている。「西条市街地方面 / ロープウエイ方面」と記される。直ぐ倒れるとは思うのだが、取り敢えず土に差し込み標識を立てる。 
第二十一 大元王子社
第二十一 大元王子社
標石の童子。御子神?
さてその先は?と、右手木々の奥に幟が見える。成り行きで先に進むと第二十一 大元王子社があった。標石、幟、石の小祠があり、標石の正面には、正面を向いた童子のお顔のように見える御子神(?)お顔と大元王子と刻まれ、左側面には「昭和六年十一月」 右側面に「石鎚神社」と刻まれる。 石祠の裏には「大元神社跡」と刻まれた石碑も立っていた。復刻された標石は別にして、基本標石は前述の如く昭和六年(1931)、当時の石鎚神社宮司によって建立されたもののようである。
十亀和作著『旧跡三十六王子社』には「西の川本郷にある。登山口河口から県道を左の加茂川に副い上流へ約五粁(km)、西之川部落のほぼ中央斜面に森があって、方一米位の石段があり大元大権現と唱う。大元王子である。(中略)昔は女人禁制であった。
そのすぐ下に元西之川庄屋高須賀蔵人の子孫高須賀武男氏の家宅がある。先祖蔵人が石鎚大神の裏境内面河山を松山藩主より寄進の功績により、明治維新までは毎年旧5月30日夜成就社で行う大祭典には蔵人の子孫は代々馬人に乗り登山し祭典に参列するのを例としていた」とあった。

王子社道を進み西之川道に合流する;午前6時45分
王子社道標識より左の石段を上り民家前を進む
西之川道合流点には「三十六王子参道」標識
大元王子社を離れ、ロープの括られ石鎚三十六王子社道の標識が打ち付けられた木の箇所まで戻り、左手の民家(高須賀さんのお宅だろうか)へと続く石段を上る。
民家(高須賀さんの屋敷跡?)前の道を抜け、道なりに石段を上り、上り切ったところで左に折れる。その先踏まれた感のある道を進むと西之川道に合流する。合流点手前の木には大元王子社方向を示す「三十六王子参道」と記された黒の標識と、左右を示す青色の標識が木に打ち付けられている。
と、しらっと王子道を進むルートをメモしたが、実際は大元王子社から大元王子社アプローチ口まで戻り、せりあがる西之川道を登っていると、山側に逆方向を示す上述黒色の「三十六王子参道」の標識を見つけ、そこから折り返し王子道を進むと民家(高須賀さんのお宅?)の前の道に?がった、というのが本当のところである。第二十一大元王子社へと這い上がるロープが巻かれ「石鎚三十六王子社道」の標識があった木の根元に青色の「王子社道」標識が無造作に置かれていたが、元々はその標識が石段方向へと進む王子社道を示していたのかもしれない。

第二十二 恵比寿滝王子社;午前7時(標高561m)
第二十二 恵比寿滝王子社アプローチ口
谷側に王子社ポール
山側にも王子道標識
王子道と西之川道が合流する地点からほぼ水平道を歩き、道が少しせりあがった先、道の谷側に上部に黄色のテープが巻かれたポールがあり、「第二十二 恵比寿王子社入口」と記される。王子道と西之川道が合流する地点からほぼ20分強のところだ。道の山側には「境界見出標」、その上の木にも赤と黄色の王子道標識が木に括られているので見落とすことはないだろう。
廃屋を目印に下る
下に見える廃屋に向かって下りる
王子社入口のポールを左に折れて谷側に下る。その先には廃屋が見える。廃屋を目安に僅かに残る石段などを踏み下に向かうが踏まれた道も消え、後は成り行きで廃屋谷側へと廻りこむ。 数分で廃屋谷側に着くが、辺りには王子社らしきものは見えない。
青い王子社道標識と鎖
廃屋左手、小高い丘の手前に青の王子社標識
鎖を少し上ると左手に幟が見える
王子社を探し廃屋谷側先を彷徨う。と、廃屋左手の小高くなった丘の手前の地面に青色の王子社標識が無造作に置かれ、そこから高みへと小さな鎖が張られている。鎖を使うほどの上りでもないが、折角なので鎖を掴みちょっと上ると、上に幟と石の小祠が見えた。鎖から先は、成り行きで王子社に向かう。
第二十二 恵比寿滝王子社
第二十二 恵比寿滝王子社
右を向く御子神?
石の小祠と幟、そして標石が立つ。石橋の正面には「恵比寿王子」の文字、そして結構摩耗しているが御子神(?)の顔が彫られる。右を向きているようにも見える。標石の左側面には、第二十一大元王子社と同じく、「昭和六年十一月」 右側面には「石鎚神社」と刻まれる。
王子社傍には御塔谷に垂直に落ちる切り立った崖面がある。覗き行場と称するらしい。高所恐怖症のわが身は恐るおそるカメラだけを突き出しおっかなびっくりで写真を撮る。
十亀和作著『旧跡三十六王子社』には「西之川にある。大元王子から部落道をお塔谷に向って行くと部落のはずれに、大きな岩石の上に松と欅(けやき)の大木があり、その大木の下に高さ50糎(センチ)位の木造の祠があり、中に素焼の恵比寿大黒の像が祀ってある。年代は不詳だが相当古いものと見え、作った人の指のあとがある。惜しい事に割れている。その岩石からのぞくと幾十米の嶽になっている。此の処を恵比寿滝王子と云う。
切り立った崖へはここが限度

字名を恵比寿滝と云い人家が二軒あり、その昔豊臣秀吉が四国征伐の時長宗我部元親の家臣が土佐の国から山を越し落人として住み着いたものらしく、石の圍(かこい)の中に高塚と刻んだ墓石と、権少尉梅若と彫った墓石があり、何だか由緒がるような感じがする。
尚石仙高僧が石鎚山に登る際、弟子に米を持たせ、この滝の霊地で金ぶちの桝で米を計ったと云う。その桝は明治時代まで恵比寿神社にあったと云うが、拝殿が破損した頃なくなってしまったと云う」とある。
石仙(灼然)
笹ヶ峰・瓶ヶ森の霊山を開山し、金色院前神寺(現在は石鎚神社中宮成就社)を創立したほか、石鎚蔵王大権現を称えて石?山(石鎚山)を開山した奈良時代の僧である寂仙(じょうせん、上仙とも)の師。 小松(現在の西条市)にあった法安寺の住であり、横峰寺を開いた、とも。石鎚三十六王子社の縁起にはしばしば登場する。第一 福王子社にも、「昔石仙高僧が石鎚山登山しようとして、ここに来たり遥かに石鎚大神を拝し、一夜を野宿した。その時夢枕に福の神が現はれ、願望達成を示され一心に祈願をしたと伝へられる。世人福の字をとりて福王子と唱う」と十亀和作著『旧跡三十六王子社』にあった。

御塔谷に架かる鉄の橋をふたつ渡る
最初の橋
西之川道に戻り5分ほど進むと御塔谷に注ぐ支流に架かる鉄の橋がある。





二番目の橋
橋の手前にも瀧があり、また鉄の橋から上流にも結構大きな瀧が見える。更にその先にも鉄の橋が架かる



第二十四 御鍋岩屋王子社;午前7時半(標高664m)
第二十四 御鍋岩屋王子社アプローチ口
木の桟道を廻り込み急な岩場の斜面を上ると
右手の木に王子社道の標識。ここを右に入る
ふたつの鉄の橋を渡った先には大岩を巻く木の桟道がある。ちょっと注意して大岩を迂回する。木の桟道の先に結構急な岩場の上り箇所がある。木の桟道から5分ほど上り、急坂が左に上るところに道に「土小屋 夜明峠」の木の標識が立つ。そしてその右手、木に打ち付けられた黄色と赤の王子社道の標識が見える。第二十四 御鍋岩屋王子社には、ここを右に折れ、この木の横を進む道に入る。細いが踏まれた感のある道を追っかける。なお、この分岐点には上部に黄色のテープの巻かれた三十六王子社のポールが折れて転がっていた。一応土に差し込み立て直しはしたが、いつまで持だろうか。
 ●涸沢を直進
涸沢はこの木を目安に直進
アプローチ口から5分強進むと道は涸沢に出合う。対岸のルートがわかりにくいが、彷徨った結果としては、対岸に見える大きな木を目安にそのまま直進しすれば踏まれた道に繋がる。

王子参道標識
踏まれた感のある細い道を進む。少し不安になりかけたころに木に打ち付けられた青色の「王子参道」、無造作に木の根っこに転がるこれも青色の「王子参道」標識が現れちょっと安心。







第二十四 御鍋岩屋王子社
重なり合った大岩の中に
幟が立つ
最後の詰めの箇所も少しわかりにくいが、直ぐ先は御塔谷の谷筋、そこに重なりあった巨大な岩が見える。そこが第二十四 御鍋岩屋王子社の祀られる大岩。成り行きで大岩に進めばいい(よく見ればかすかに踏まれた道はある)。アプローチ口から20分ほどかかっていた。
重なり合った大岩の隙間に入る。真っ暗で何も見えない。かすかに白っぽいものが見える。幟であろうとシャッターを切る。ストロボの明かりで周囲が見え、石の小祠と標石は幟からちょっと離れた岩の奥に立っていた。
十亀和作著『旧跡三十六王子社』には「西之川山中にある。刀立王子の下方に、山道を右に少し行くと谷のほとりに大きな岩石が重なり合っている。
その右手奥に第二十四 御鍋岩屋王子社
王子社の横は大岩が転がる御塔谷
その岩との間が岩屋となっている。この岩屋は二十畳敷ほどの広さであるが、王子と云ってもお堂もなく祠も見当たらない。石仙上人が米を持ち来たり鍋で炊いたと云う。又この附近の谷をナベラ谷と云う。ここは殆ど人通もなく、寂漠の感一入深く岩だい屋に幾百匹のコーモリが住んでいたと云う」とある。 西之川道を辿ったため第二十三 刀立王子社より先に第二十四 御鍋岩屋王子社を拝礼したが、昔は順番通り登拝したのだろうか。十亀和作著『旧跡三十六王子社』には「刀立王子の下方に、山道を右に少し行くと谷のほとりに」とあるが地図で見る限り山道を少し行くといった距離ではない。なんとなくはっきりしない。

岩原分岐;午前8時7分(標高884m)
第二十四大鍋岩屋王子社から分岐点迄戻り、次のポイントとなる岩原分岐へと向かう。踏まれた道には木に打ち付けられた黄色と赤の「石鎚三十六王子社道」標識、木の根元に置かれた青色の「王子社参道」、再び黄色と赤の「石鎚三十六王子社道」標識が現れオンコースであることが確認でき安心できる。 
岩原分岐
踏まれた御塔谷右岸を標高250mほど上げると巨石が現れる。ほどなく標識。「西の川/ 土小屋 /八丁坂 天柱石」の道を示す。土小屋は「ツナノ平(なる)を経て土小屋に至る登山道。ここは 右手谷側に下る「八丁坂 天柱石」方面へ進む。
「刀掛」標識方向へ下る
下り口に「刀掛」方向を示した標識があるが、この標識を立てた地元の方に登拝道で偶々お会いした。道に迷う人もあるため設置したとのことであった。





御塔谷に下る;午前8時17分(標高878m)
木橋を渡り
鉄橋で御塔谷左岸に売り
岩原分岐から木橋で小さな沢をクリアし(午前8時12分)、鉄橋を渡り御塔谷の左岸に移る(午前8時14分)。



ロープの張られたザレ場を抜け
一旦御塔谷に下りる
その先虎ロープの張られたザレ場を進み登拝道は一度沢に下りる。






御塔谷左岸に這い上がる;午前8時27分
ロープを見つけ這い上がる
踏まれた先にロープの張られた木橋がある
登拝道は左岸沢筋を少し進み、沢筋から別れ左岸をせりあがっていくのだが、このアプローチ点が少しわかりにくい。崖面に張られたロープを掴み這い上がると踏まれた道に入り、御塔谷に注ぐ小沢に架かるロープの張られた橋を渡り(午前8時27分)先に進む。






御塔谷左岸をせり上がる;午前8時43分
王子参道」の標識
御塔谷左岸をせり上がる
御塔谷から青色の「王子参道」の標識(午前8時32分)を見遣りながら御塔谷左岸の岩壁をせり上がる(午前8時43分)。
岩壁を先を進むのは「刀掛」の標識を善意で立てた方。
ロープを掴み急坂’(崖)を這い上がる
この辺りをよく歩いているようで、ルートのはっきりしない御塔谷に下りた辺りから先を進むこの方を追っかけていた。ロープの張られた崖を這い上がったのも先を進むこの方の後姿が崖面上に見えたため。西之谷道で最もルートがはっきりしない箇所を結果的にガイドしてもらったことになる。
踏まれた道が現れた辺りから軽快に進むこの方を追っかけるのをやめ、自分のペースで進むと10分強で急坂というか崖。張られたロープの助けを受けながら這い上がる(午前8時55分)。


第二十三 刀立王子社;午前8時59分(標高1017m)
第二十三 刀立王子社
岩原分岐から40分強歩くと谷側に突き出した岩場に第二十三 刀立王子社が祀られる。標石、幟、石の小祠が立つ。標石上部に御子神(?)のお顔。正面ではなく右を向く。右側面に「昭和六年十一月」 左側面に「石鎚神社」の文字が刻まれる。ここで小休止。
十亀和作著『旧跡三十六王子社』には「西之川の山中にある。恵比寿滝王子社から御塔谷、八丁坂に通じる山道を、約千米位の処に、一の瀬橋という小さな吊橋を渡り、四、五百米登ると尾根に突き立てたような大岩がある。その岩が刀をたてるに恰好の形をしている。南方に石鎚山頂を拝し、北を向けば西之川部落を遥かに望む。
昔石仙高僧が此処に来て帯刀をこの岩に立て置き登山したと云う。土地の人は俗に、刀掛けとも云うが刀を立てたことから、刀立が本名の様である。
この岩が往古、石鎚山の前境内の境界地点であったと云う。此処が東の起点で石鎚山の境内は七里四方であったと云われていたが、明治初年に官没と云って政府に全部没収せられ、前境内も後境内も無くなってしまったと云う。(高須賀蔵人が松山藩主から後境内として面河山貰い受けた)」とある。

再び御塔谷筋へと下る;午前9時25分
ここが沢への下り口
急坂にロープ
少し休み、第二十三 刀立王子社を離れ次のポイントである十字分岐を目指すが、ここでちょっと注意が必要。王子社前に「成就社 / 天柱石・夜明峠」の標識はあるのだが、ちょっとわかりにくい。なんとなく歩きやすような水平道を進むと成就社方面に進んでしまう。
登拝道は王子社の立つ突き出た岩場と踏まれた道の境目辺りから急坂を沢へと下る。ちょっとわかりにくいが踏まれた下り道があるのでそこを一旦御塔谷の沢筋まで下りることになる。下りへのアプローチ点から直ぐ、よく踏まれた道となりその先ロープの張られた急な坂を下る。

下に沢に架かる木橋が見える
少し危うい2番目の木橋
と、その下に沢に架かる橋が見える(午前9時22分)。この沢は御塔谷ではなく、地図には描かれていないが、等高線が山側に深く切れ込んだところを御塔谷へと注ぐ枝沢ではあろう。
枝沢を渡ったその先にもちょっと危うい木の橋(午前9時25分)。慎重に橋を渡り、御塔谷筋の左岸を進む。

御塔谷筋の支沢に架かる木橋を渡り左岸を進む;午前9時47分(標高985m)
大岩の転がる沢に下りちょっと戸惑うが
少し下流に木橋が見えた。ここを渡ること
御塔谷筋の左岸を進むと御塔谷の支流(本流?)が御塔谷に合流する箇所に出る。それらしき道を進んできたのだが結構大きな沢筋まで下りてしまった。地図に描かれた登山道(登拝道)は国土地理院地図に描かれた御塔谷支流(本流?)を渡り御塔谷筋左岸を進むのだが、とすれば沢を対岸に渡ると右岸に移る?といっても、沢の対岸は岩壁で道があるようには思えない。
ちょっと混乱し沢を彷徨うと、少し下流に木の橋が見えた。
橋まで引き返し対岸に渡るとその前に御塔谷の本流。最初下りた沢は結構大きいが国土地理院地図に描かれていない沢で、木橋の左手に御塔谷の本筋があった。これで地図に描かれた通り、御塔谷左岸を進むことになり一安心。

石仏:午前10時9分(標高1026m)
踏まれた道を進むと
夜明峠 石鎚山頂 / 西之川」標識
木橋を渡ると踏まれた道が続く。「夜明峠 石鎚山頂 / 西之川」標識を見遣り、左手御塔谷の渓相を楽しみながら先に進む。



木橋を渡ると
石仏が佇む
その先、木橋を渡ると直ぐ、道の山側に石仏が立つ。美しいお顔の地蔵尊。西之川道で見た唯一の石仏ではあった。




十字分岐;午前10時52分(標高1182m)
美しい渓相を楽しみながら進むと
標石らしき石造物
美しい渓相を呈する御塔谷の左岸を10分ほど進むと、道の右手に傾いた標石が見える。文字や数字が刻まれているがはきりとは読めない。標石だろうか。気になりあれこれチェックするがヒットしない。 
ロープ箇所を抜けると踏まれた位置になり
十字方向を指す標識の立つ十字分岐に
その先ロープの張られた箇所を抜け、「夜明峠 / 西の川」と書かれた標識(午前10時36分)を見遣りながら踏まれた道を進むと四方を示す標識が立つ。「土小屋 / 刀掛 西之川/ 八丁 /夜明峠」の方向を示すこの地は十字分岐とも呼ばれているようだ。

天柱石 第二十五御塔石王子社・第二十七祈滝王子社;午前11時52分(標高1306m)
十字分岐標識そばのこの標識から先に進む
標識より10分強で木の階段
十字分岐からは沢筋を離れ夜明峠へと尾根筋にせりあがることになる。十字の分岐標識では道方向が少しわかりにくいのだが、その傍にもうひとつ「夜明峠 / 西の川」と記された標識(午前10時52分)があり、そこから先に見える踏み跡を進めばいいだろう。
木に括られたリボンを目安に進むと
沢の向こうに木に括られた青色の王子道標識
標識から10分強い歩き急坂に置かれた木の階段を上り(午前11時6分)、木に括られたリボンを目安に比較的よく踏まれた道を進み、涸沢に。涸沢の向こうに青色の「王子社道」標識が見える(午前11時28分)。

ロープの張られたルンゼを越え
10分ほど歩くと天柱石の標識
ロープの張られたちょっと危ういルンゼ(水に削られた険しい壁の溝)状の沢をクリアし(午前11時40分)、再び木の階段を上り(午前11時43分)沢を越えた(午前11時43分)先に「ここは天柱石」と書かれた標識が立つ(午前11時51分)。

天柱石(御塔石)
で、天柱石って何処だ?標識から直ぐ天柱岩の前に着く。途次右手に見えた岩山に引っ張られ右手にあるものだとおもっていたのだが、天柱石は標識の左手の谷側に屹立していた。
十字分岐から1時間ほど歩き高度を170mほど上げ天柱石に着いた。天に向かって屹立する巨大な岩の手前にふたつの王子社が祀られる。ひとつは第二十五 御塔石王子社, もうひとつは第二十七 祈滝王子社。第二十五 御塔石王子社は一段低いところに祀られている。





第二十五 御塔石王子社
第二十五 御塔石王子社
石の小祠、その後ろに石仏(大日如来?)、御塔石王子と刻まれた標石、幟が立つ。標石は上述、十字分岐近くの第二十七祈滝王子へと続く沢筋への入口近くで見つかり、平成31年・令和元年(2019)この地に戻されたようである、

十亀和作著『旧跡三十六王子社』には、「お塔谷の上流にある。刀立王子社から上に登ると住友の野地鉱山跡がある(今は廃鉱)が、斜左にお塔谷に沿うて細道を約千百米位登ると、俗に天柱石と云って土地からはえて伸びたような実に不思議な感じのする岩がある。何万年か何十万年かの間に、周囲が次第に崩れおちてその岩が残ったものであろう。岩層は横或いは斜めに積み重ねた様な岩で、見るからに覆いかぶさって今にも倒れ落ちそうである。
回り目どおり四十米(二十二間)高さ七十八米(四十三間)の自然抜出の様な石柱が、谷の近くの斜面に突き立っている。この石の元に石像が祀ってある。之がお塔石王子社である。又この石柱そのものが王子であり、大日如来と称えている。(中略)
役の行者がこのあたりを拠点として浄行を続け願意達成を祈請したと伝えられる。又西条誌を見ると、弘法大師が護摩を修し給うとある。明治、大正年間迄は修験行者がこの山中で少なくとも七日七夜の断食行をしたとのことである」とある。
また、西條誌には 「七層塔の勢をなす / 末ほど細く長く秀て大風には吹き倒さるべく危なく見ゆ。 いわゆる鬼工神造にてただ驚きあきる外はなし / 更には下に窟あり。 深さ壱丈も有るべし。 旧は 大日如来を安置すという今は見えず。 仏器少々残る」 とある。天柱石の左手崖数メートルのところに窟があるようだ。
野地鉱山
解説にある野地鉱山はかつて第二十三 刀立王子社より成就方面に上ったところにあった。西之川や東之川にはいくつか鉱山があり、西之川には、赤谷抗(西之川抗ともいう)、野地抗、有永抗と三ヶ所抗口があったと言う。これら三つの西之川の鉱山をまとめて野地鉱山と呼ばれていたようである。 明治年間から開発され、最盛時には選鉱製錬設備もあり、精鉱3000トン(月)ほど出鉱したが、昭和20年(1945 )に休山、26年(1951)に再開したが、31年(1956 \)に廃鉱になった。
第二十七 祈滝王子社
第二十七 祈滝王子社
幟、標石、石の小祠が立つ。標石上部には正面を向いた御子神(?)ではなく不動明王のようなお顔、下部は埋まり正面「祈瀧」、右側面には「石鎚神社」、左側面には「昭和六年十一月」の文字が刻まれる。
十亀和作著『旧跡三十六王子社』に拠れば第二十七 祈滝王子社は「窟の薬師の向い側にある。この王子は祈り滝行(ぎょう)の滝、行(おこない)の滝などと言い十二所権現を祀っていると云う。役の行者が石鎚山中をさまよい、力尽きて成就社に帰り下山しようとした時、白髪の老人に諭され(斧を砥いで針にする)再び勇気をふるい起し、この滝に来て七日七夜の断食をして、座禅を組み祈っている内に満願の日にこの滝が二つに割れて御光がさしたので愈々(いよいよ)この山中に石鎚大神が鎮まっていることを感じ、練苦の末弥山に登り、願望を達したと云う。この滝に行者の座禅石がある。然しこの滝は嶽にして常人は行くことが出来ない。至って峻険である」とある。

右御塔石王子社、左祈滝王子社、背後が天柱石
解説では祈滝王子社は「窟の薬師の向かい側にある」とする。窟の薬師とはこの後に辿る第二十六番 窟の薬師のことだろう。あれこれチェックすると、第二十七 祈滝王子社は本来この場所ではなく、第二十六番 窟の薬師王子の東の深い沢筋にあるとのこと(比高差100m)。そこには行場でもある祈り滝があるようだ。解説にあるように「この滝は嶽にして常人は行くことが出来ない。至って峻険である」ためこの地に王子社が祀られているとのことである。
因みに祈り滝王子の旧標石は八丁坂王子に放置されていたが、昭和46年(1971)11月28に発見され昭和48年(1973)11月8日石鎚神社により現在の地に置かれた。本来の王子社の地は「この滝は嶽にして常人行くことが出来ない」故のことだろう。
祈り滝へのルート
あれこれチェックすると、祈り滝へは上述十字分岐辺りから御塔谷の沢筋に入り上流へと滝へと詰めるようだが(天柱石から下る剛の者もいる)、王子社の順番から言えば、往昔は天柱石(御塔石)から少し上った第二十六番 窟の薬師辺りから沢筋へと100mほど下っていたのだろうか。

岩壁下を廻り込む;午後12時9分(標高1327m)
少し休憩し次のポイントである 窟の薬師王子社を目指す。5分ほど歩くと「夜明峠/ 西の川」の標識(午後11時59分)。その先10分ほどで巨大な岩壁下を廻りこむ(午後12時9分)。この岩壁は剣山より東に伸びる岩尾根であり、風化した岩がガレ場状に転がる。この辺りが西之川道で最もキツイ箇所だったように思える。

第二十六 窟の薬師王子社;午後12時19分(標高1355m)
右手に岩壁に架かる鉄橋子が見える
更に10分ほど進み天柱石より高度を70mほど上げると登山道の右手の岩壁に架かる鉄梯子が見える。 窟の薬師王子社ではあろうと登山道を右に逸れ鉄梯子下に。古い鉄梯子に被さるように新しい鉄梯子が整備されていた。
鉄梯子を上り、ちょっとしたテラス状の岩場右手奥に石の小祠、標石、幟、最奥部には薬師如来が祀られていた。第二十六 窟の薬師王子社である。標石には正面に「穴薬師」、左側面に「昭和六年十一月建立」 右側面に「石鎚神社旧跡」の文字が刻まれる。標石に刻まれる「石鎚神社」と「石鎚神社旧跡」の違いは何なのだろう。
鉄梯子を上り
第二十六窟の薬師王子社に
十亀和作著『旧跡三十六王子社』には「お塔石の上にある。お塔石から谷間に沿うて登ると、三角形の云わば岩の割れ目の様な岩屋があり、仙人が穴を掘ったと云う。穴の一段高い所に薬師如来の石像が祀ってある。役の行者はこの岩屋に籠り、長く修行したとのことである。2・3名は悠に籠る場所がある。 
今から二百年位前の宝暦年間頃までは、成就社から八丁坂を下り、お塔別れの道を左下に下り、お塔石、穴之薬師を拝し(八丁坂からお塔石までの約二千三百米)お塔石を経て、夜明かし峠(第一の鎖の下方)へ登る道が、登山本道で之れを一の業と云っていたが、今は全く人通りもなく、荒れ果て、昔の道を辿ることも出来ない。それまでは現在の登山道は下向の際の本道であった」とある。

表参道・石鎚登山道に合流;午後14時14分(標高1651m)
窟の薬師王子社より登山道に戻り尾根筋の夜明峠へと向かう。比高差は300mほどだろうか。10分ほど進み鉄の橋(午後12時46分)を渡り先に進むと山の相が異なり、美しい樹林帯に入る。 

踏まれた道筋を外れないよう進むと「夜明峠 石鎚山頂 / 西之川」の標識(午後12時57分)。その直ぐ先、大きな沢に2番目の橋が架かる(午後12時58分)。第一の橋から第二の橋の間は切れ込んだ1400m等高線に沿って進む。

大岩の前を右にトラバース
美しい森を抜けると前方に大岩があり、登山道はこの大岩前を右手を登る(13時54分)。木の階段も整備されていた。ここまで沢に架かる鉄の橋から知らず1時間が経過していた。
この辺りからは等高線に垂直に比高差180mを上ることになるのだが、地図で見る限り直登気味のこの先のルートより、トラバース気味のこの大岩までのほうがキツかったように思う。

尾根筋・表参道登山道合流点(右手)
最後の登りの周囲は熊笹に囲まれた道を登る。黄色と赤の「石鎚三十六王子道」標識(午後14時4分)を見遣りながら踏まれた道を進むと上から人の声が聞こえてきた。尾根筋登山道を歩く人たちだろう。この声に元気をもらい最後の力をふり絞り尾根道の登山道(石鎚表参道)に倒れ込む。西之川登山口から8時間がたっていた。結構キツイ。

第三十四 夜明峠王子社;午後14時20分( 標高1653m )
夜明峠の標識
山稜右端に天狗岳が見える
大休止の前に夜明峠と夜明峠王子社 を確認に向かう。西之川道が尾根道に合流する箇所の直ぐ上に夜明峠の標識が立ち、その直ぐ先に第三十四 夜明峠王子社の石の小祠があった。左手には先端部に御子神の頭部が彫られた標石、幟が立つ。標石は下部が埋まっており左側面には「石鎚神社」、左側面には「昭和六年」の文字が刻まれる。
第三十四 夜明峠王子社
十亀和作著『旧跡三十六王子社』には、「登山道にある。早鷹王子から約二百米位登ると五葉松の大木がある。それよりだらだら坂を少し下ると夜明し峠王子である。俗に夜明しと云う。 左右は一面の熊笹で一番低い所の左に小道があって、そこを下るとお塔石に至る昔の本道であった。 役の行者がお塔石、穴の薬師、祈滝の王子で修行を終えた後、今宮の八郎兵衛(現在の丸八旅館の先祖)と四手坂の多郎左衛門(現在の藤原多郎左衛門の祖先)を前後に従え登る時、八郎兵衛は松明(たいまつ)を持って導き、多郎左衛門が後ろに従い夜を徹して登山、此処で夜が明けたので夜明し峠と名づけられる。
明治初年まで松明銭として参詣者一人につき八文を徴収し、八郎兵衛の所得とする権利があった。然し若し石鎚登山中に人が行方不明になった時は、八郎兵衛が責任を以って尋ね出す義務を負うことになっていたと云う。多郎左衛門は山法取締を許し、見返り遥拝殿の徹賽銭は全て代々多郎左衛門に授ける例となっていたと云う。現在の先達階級会符の起源であろう」とある。

第三十三 早鷹王子社;午後14時34分(標高1662m)
右手熊笹の中に幟が見えた
第三十三 早鷹王子社
15分ほど休憩し、石鎚登山道を成就社方面に折り返す。成就社まで2キロ強。整備はされているが下りの木の階段が延々と続くルートであり普通であれば、最終6時のロープウエイには楽勝ではあろうが、なんせ脛に傷を持つ、というか痛めた膝を持つ身。下りにスピードは出ないだろうがなんとかロープウエイの最終時間間に合うだろうと歩を進める。
登山道を下山する多くの紅葉見物の石鎚登山者に混じって数分進み、1680mピークを東に巻いたところ、少し登山道から入った笹の中に石の小祠と幟が見える。 早鷹王子社だ。小祠から少し離れた所に立つ標石には「早鷹王子」の文字がはっきり読める。他の標石とは趣が異なっているがこの標石は復刻されたもののようだ。
十亀和作著『旧跡三十六王子社より』 には「この王子も登山道にある。古森王子を過ぎて斜め右に廻って登ると原始林の緑の中に、薄赤色をした岩肌の前社森がくっきりと姿を現している。うねを上がるとその附近が早鷹王子で、右下がりの斜面にブナ、モミ、ツガ等の大木が密生しているが、王子らしい形跡はなく、この森林地帯が王子であろう。(中略)早鷹は即ち山岳仏教に結びつく天狗であろうと云う事である」とある。
石鎚山 旧跡三十六王子社は石鎚神社第13代宮司である十亀和作氏の発案により古文書調査、聞き取りが行われ昭和38年(1963)の実踏調査でその存在が明らかになったとのことであるが、上掲解説には実踏調査の時点では王子社の形跡はなかったようだ。

第三十二 古森王子社;午後14時41分(標高1638)
第三十二 古森王子社
ピークを巻き30mほど高度を下げると道の右手、笹の中に標石、小祠そして幟が見える。第三十二 古森王子社だ。標石の上部角には御子神(?)の顔が彫られ、正面には「小森之王子」、左側面に「昭和六年十一月建立」 右側面に「石鎚神社」の文字が刻まれる。
「石鎚参道にある。剣の王から約百米位登った処であるが、往古は大木が生い茂り神厳な森をなしていたと云うが、今は古い木は見当たらず只々平凡な登山道で、古蹟らしいものはない」と、十亀和作著『旧跡三十六王子社より』 にある。

第三十 大剣王子社・第三十一 小剣王子社;午後14時45分(標高1629m)
三十六王子社のポールから登山道を逸れる
第三十 大剣王子社・第三十一 小剣王子社
古森王子社から直ぐ、登山道右手の笹の中、傾いたポール先端に黄色のテープが巻かれる。「第三十一 小剣王子社入口」と書かれた石鎚三十六王子社のポール箇所から登山道を逸れ、笹の間の小径を先に進むと二つの王子社が並ぶ。右手が大剣王子社、左手が小剣王子社である。
石の小祠、幟、標石には御子神(?)の顔が彫られる。大剣の標石は剣をもつようなお姿。不動明王とも言われる。標石正面に「大劔」「小劔」、左側面に「昭和六年十一月建立」 右側面に「石鎚神社旧跡」の文字が刻まれる。
奥に進むと大剣が見える
十亀和作著『旧跡三十六王子社』には、「前社森から二百米ほど登ると、左側の笹の中に小道があり、すぐ上が大剣と並び小剣王子である。剣の禅定とも云う。西条誌に「剣に大つるぎ小つるぎの名分る岩聳えて峰をなし、鋭き事剣の形に似たり、因って名づく誰れ納めたるや昔は錆たる剣ありしと云う」頂上に山神を祀ってあり、大剣には三米位の鎖がかかっているが、足がかりもなく北側は断崖幾十丈、目が廻る様である。現在は危険につき通行を禁止している」とある。
王子社から見える巨大な岩山が大剣。鎖場を登ると頂上から小剣の岩山が見えるとのことだが、高所恐怖症のわが身は敬して近づかず。




第二十九 前社森王子社;午後15時3分(標高1568m)
小屋と前社森の岩山
鎖場を上る
大剣王子社、小剣王子社より登山道に戻り50mほど下ると鞍部となり、そこに前社森小屋がある。いつだったか真冬の石鎚に登ったとき、一時避難した小屋だ。今は秋、登山者が休憩したり店で買い物をしたり、のんびりくつろいでいた。

登山道は前社森と称する岩山を巻くが、第二十九 前社森王子社は岩山頂上に祀られる。前社森小屋から右に巻く道を過ごし岩山へと直進する。と、頂上に向かって鎖が繋がる。試しの鎖と称され、ここをクリアすれば石鎚の鎖場を登るのは大丈夫ともされる鎖場。登りたくはないのだが、頂上に王子社がある以上仕方なし。大きな鎖、小さな鎖を適宜握りながら頂上を目指す。
第二十九 前社森王子社
第二十九 前社森王子社
岩山の頂上に第二十九 前社森王子社。石の小祠、石仏、下半分が折れた標石があった。幟のポールはあるが、幟は風で飛ばされたのか残っていなかった。
頂上近くの岩場に座り込みしばし周囲の景観を楽しむ。頂上からは大剣、小剣の岩山も見えた。とてもではないがあんな岩場の鎖場に行かなくて正解であった。また、頂上岩場から北側に下りる鎖もあった。鎖場で前社森をクリアできることを知らず、岩場手前にザックを置いて来たため同じルートを下り登山道へ戻る。

大剣と小剣が見えた
鎖場を下りる
十亀和作著『旧跡三十六王子社』には「登山道にある。仏語で禅定ヶ森又は禅師ヶ森とも云う。先に述べたお塔石の廻りを大きく、高さを短くした様な岩で、八丁坂から千五百米位登った処に突っ立っている。
頂上から表裏両面に鉄の鎖が懸かっている。鎖の長さは表約四十米、裏約二十米余あり、昭和七年に備中の鬼石組が奉懸したものである。岩頭には東予崇敬の元祖組合長加藤平太翁の頃、組合員が奉安した大山祇大神の石像と年代不詳の石像が祀ってある。この鎖は度胸試しとも又力試しとも云って、上り下りとも中々の行であるが、この鎖行を無事にかけたら、第一第二第三の鎖も容易に登る事が出来る。〔中略〕
岩上に立てば南方に石鎚山頂を拝し、北方に成就山を見下ろし、左右は延々と山並みを眺め、天下に吾一人あるのみの感がする。裏側の麓に茶店があり、道中唯一の休場で、名物のアメユや菓子などを売っている」とある。

第二十八 八丁坂王子社;午後16時24分(標高1300m)
試しの鎖(南面)
鎖場より前社森小屋まで戻り、小屋前から右に下りる道に入り、前社森を東に巻き尾根筋に戻る。尾根筋の西には前社森に北から登る試しの鎖が見えた(午後15時46分)。ザックを背負って鎖場を登れば、前社森の頂上からここに下りることができたのだろう。
ここから八丁坂王子社まで距離は1キロほど。尾根筋に整備された木の階段を延々と下ることになる。 痛めた膝にはキツイ下り。軽快に下る皆さんに道を譲り、40分ほどゆっくり下ると八丁坂王子社がある。石の小祠と上部に正面を向いた御子神(?)の顔が刻まれ、正面に「八丁阪」、左側面に「昭和六年十一月建立」 右側面に「石鎚神社旧跡」の文字が刻まれた標石が立つ。


第二十八 八丁坂王子社
十亀和作著『旧跡三十六王子社』には、「登山道八丁坂にある。お塔石王子から三百米ほど下ると、上り八丁道という道しるべがある。西に向って斜め上へ登る事約二千米にして八丁に出る。それから登山道を少し行くと急坂にかかる処の上の旧参道に石像がある。八丁王子である。一名に一の坂王子とも云うが由緒も伝説もない様である(表参道八丁坂の事である)」とある。
説明には「お塔石王子から三百米ほど下ると、上り八丁道という道しるべがある。西に向って斜め上へ登る事約二千米にして八丁に出る」とある。文字通り解釈すれば、往昔の登拝道は第二十五 御塔石王子、少し登り第二十六 窟の薬師王子、沢に下り第二十七 祈滝王子と拝礼し、第二十五 御塔石王子まで戻った後200mほど下り、標石を目安に八丁に向かって尾根筋を登り第二十八 八丁坂王子へと向かったのだろうか。第二十六 窟の薬師王子社の解説にあった『旧跡三十六王子社』のルート案内とは異なるが、このルートであれば王子社をそ第二十七 祈滝王子から第二十八 八丁阪王子へと向かい、尾根筋を第二十九 前社森王子社から三十四 夜明峠王子へと塔拝できることになる。

成就社;午後16時52分(1407m)
石鎚遥拝の鳥居
成就社神門
八丁坂王子から成就社へは1キロ弱(109m /丁)。100mほどの上り。八丁坂王子社から5分強で石鎚遥拝の鳥居(16時31分)。 八丁坂王子社から30分弱で成就社神門( 午後16時52分 )に到着。西之川登山口からおおよそ10時間半かかった。

石鎚山ロープウエイ山頂成就駅;午後17時20分(標高1275m)
霧に曇る成就社境内
第十八 杖立王子社に一礼しロープウエイ駅に
境内の縁台で少し休憩。売店の方にお聞きするとロープウエイ乗り場まで、おおよそ20分程度とのこと。最終6時の便には間に合いそう。平日は午後5時が最終とのことであり、念のためにと週末を選んだが、平日であれば成就でビバークするところだった。
日も暮れかかり、ガスも出てきたロープウエイ駅への道を下る。途中訪ねた道端に立つ第十八 杖立王子社に一礼しながらロープウエイ駅に。
午後17時40分発のロープウエイで山麓下谷駅に下りる頃には日もとっぷり暮れ、真っ暗な県道12号を西之谷登山口駐車場まで500m ほど歩き長かった登拝道散歩を終える。



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