土曜日, 12月 10, 2016

伊予 石鎚三十六王子社散歩 そのⅡ;第一福王子社から第六子安王子社まで

「石鎚三十六王子」という言葉の響きに誘われ、お気楽に歩いたものの、いざメモする段階で常の如くあれこれ気になることが登場し、頭の整理に少々メモが長くなり、先回のメモは石鎚王子社まつわるあれこれで力尽きた。

今回は黒瀬峠近くの第一王子社から河口集落の第六王子社までメモする。河口から石鎚山腹の成就社向かう厳しい尾根筋の登りではなく、加茂川の左岸・右岸を、おおよそ県道に沿って50mから100mほどの比高差の道を進むルートであり、のんびり・ゆったりと進める。
但し、単独行であり、第一王子社から第四王子社まで加茂川左岸を進み、千野々集落で一度県道に下りて車デポ地まで5キロほど戻ることになる。また、第五王子社から第六王子社も同じく土径を歩いた後、車デポ地まで県道を数キロ戻るが、致し方なし。


本日のルート;
第一王子社から第四王子社まで
黒瀬峠>一の鳥居>黒瀬峠傍に車デポ>第一福王子社>上の原地区を進む>沢が切れ込む箇所に>「七曲り」を下り沢に出る>沢から拝礼道に登る>第二桧王子社>極楽寺分岐>極楽寺>植林地帯を進む>第三大保木王子社(覗の王子)>ザレ場を下る>第四鞘掛王子>県道に下りる
車デポ地に戻る
仙徳寺>極楽寺別院>西南日本中央構造線の黒瀬断層>車デポ地に
第五王子社から第六王子社まで
第五細野王子社に向かう>古長河内神社>細野集落への分岐道>細野集落跡>道が荒れてくる>迫割禅定>第五細野王子社>沢のガレ場を下る>第六子安王子社>ガレ場を下りる>旧県道の隧道>三碧橋


黒瀬峠傍に車デポ
黒瀬峠の切通し、一の鳥居を見終え、第一福王子社に向かう。第一福王子社は県道12号をほんの少し進み、山側・右に分岐する道、四国霊場60番札所・横峰寺に通じる平野林道に入ってすぐの「京屋旅館」傍にあるとのこと。
車で京屋旅館辺りまで進むが、横峰寺への小型バスへの乗替場のようなバス停のある広場があるのだが、なんとなく私用地のようで、車をデポする雰囲気でもない。
仕方なく、道を戻り、県道12号と県道142号の切通の出合い手前にある県道の広いスペースにデポすることにした。

長谷地蔵尊
車デポ地を探していると、県道142号が県道12号に合流した切り通しの少し先、派手なペンキが塗られている建物の傍にお地蔵様が見えた。「長谷地蔵尊 遷座記念碑」とあり、「石鎚旧跡 長谷地蔵尊は石鎚山表参道の入口の要衝黒瀬峠にいたる長谷の地に鎮座し永くこの世と浄土の境を守りしあわせを導くお地蔵様としてその信仰を集める。
時移り車社会となり谷底に淋しく立つお地蔵様を悲しく思い(中略)第一王子目前のこの地に遷座す。平成十七年」とあった。
詳しい経緯は不明だが、県道開削に伴い古の登拝礼道に取り残されたお地蔵様を地元篤志家がこの地に遷座したもののようである。

第一福王子社
石鎚三十六王子社の最初の王子社は横峰寺へ続く平野林道にはいってすぐ、「京屋旅館」と林道を挟んだ山側に道に面した竹藪の中にある。
お堂の中には割りと大振りなお地蔵さまが祀られ、その前に王子社を示す「石殿」が置かれている。お堂の左手に王子社石柱、右手には「第三十一番 千手十一面聖観音」が建っていた。「第三十一番 千手十一面聖観音」の由来は不明。西条四国三十三観音霊場とも合致しない。思考停止し、本題に戻る。

『旧跡三十六王子社』には「昔石仙高僧が石鎚山登山しようとして、ここに来たり遥かに石鎚大神を拝し、一夜を野宿した。その時夢枕に福の神が現はれ、願望達成を示され一心に祈願をしたと伝へられる。世人福の字をとりて福王子と唱う」とある。

石仙高僧って誰?チェックすると、石仙高僧とは前神寺、そして横峰寺の開基とされる高僧であった。
「えひめの記憶;愛媛県生涯教育センター」に拠れば、「石鎚山のことが最初に見えた文献は『日本霊異記』(年間成立弘仁八一〇~八二四)である。それによると寂仙という浄行の禅師がいて石鎚山で修行し、人々から菩薩とあがめられていた。寂仙は天平宝字二年(七五八)自分は死後二八年後に国王の子に生まれかおり、神野と名づけられるであろうとの言葉を残して死亡した。その予言通り桓武天皇に皇子が生まれ神野親王と名づけられたので人々は寂仙の生まれかわりと信じた。

この転生説話は当時広く信じられていたらしく、『霊異記』より約六〇年後の元慶二年(八七八)に撰せられた『文徳実録』にも類似話を載せている。しかし、ここでは転生したのは灼然という高僧の弟子上仙ということになっている。彼は高山の頂に住み、精進して師の灼然に勝って諸の鬼神を自由に使役した。彼は常に天子に生まれたいと願っていたが、その臨終に及んで人々に告げ「われもし天子に生まれたら郡名をもって名字にする」と予言して死んだ。ところが同郡橘の里にあって上仙を供養した橘の躯というのがあったが、上仙の跡を追い、来世での転生を希望して死んだ。神野親王(嵯峨天皇)とその妃橘夫人(檀林皇后)はそれぞれの後身である」といった記事がある。

『日本霊異記』では「寂仙」、『文徳実録』では「上仙」とあり、また寂仙に音の似通った「灼然」が登場するなど少々混み入ってはいるが、第一福王子に登場する「石仙」とは、「寂仙」とも「上仙」とも比定される。名前はともあれ、石仙とは役小角が開いたお山を修験の地となした奈良中期の修験僧のようだ。前述の熊野権現を勧請した芳元と同時代の僧とのことである。
石仙はお山に籠もって修行に努め「菩薩」とまで称えられた。登拝路を開き、横峰寺(四国八十八番札所六十番)、前神寺(四国八十八番札所六十四番)を開き、石鎚のお山を神と仏が渾然一体となった神仏習合の霊地として、明治の神仏分離令まで続く石鎚信仰のベースをつくりあげた高僧のようである。石鎚のお山を深く信仰した人々は桓武天皇、文徳天皇といった天皇から、源頼朝、河野一族、豊臣家といった武家など数多い。
なお、前神寺や横峯寺の開基縁起に登場する石仙(寂仙・上仙)が所属していた寺院は、小松の法安寺とされる。聖徳太子の伊予行啓の際に創建された寺院の境内に残る遺構・礎石跡は国指定史跡となっている。

山岳信仰・山岳仏教・修験道
山岳信仰とか、山岳宗教とか、修験道とかややこしい。ちょっとまとめておく。神奈備山とは、神が宿る美しい山ということ。往古、人々は美しい山そのものを信仰の対象とした。「山岳信仰」の時期である。その時期は平安時代に至るまで続く。南都の仏教では、山で仏教修行をする習慣はなかった。山に籠もり修行をした役小角などは「異端者」であったわけだ。伊豆に流されたということは、こういった時代背景もあったのだろう。
「山岳信仰」ではなく、所謂、「山岳仏教」が始まったのは平安時代。天台宗と真言宗が山に籠もって仏教修行をすることを奨励しはじめてから。深山幽谷、山岳でこそ禅定の境地に入ることができる、密教故の呪術的秘法体得ができる、とした。
Google Earthで作成
「修験道」はこの天台宗や真言宗といった山岳仏教を核に、原初よりの山岳信仰、道教、そして陰陽道などを融合し独特の宗教体系として育っていく。修験者の本尊は蔵王権現。石鎚だけでなく、加賀白山、越中立山、大和大峯山、釈迦岳(一部では月山とも)、駿河富士、伯耆大山など、全国に霊地が開かれていったのもこのころだろう。
室町期にはいると修験道は天台系と真言系のふたつの組織として体系化する。天台系は本山派と呼ばれる。近江の園城寺が中心。一方の真言系は当山派と呼ばれる。伏見の醍醐寺が中心となる。近世の徳川期には修験者はこのどちらかに属すべしとなり、明治の神仏分離令まで続いた。
熊野などの山岳修験の地、秩父の観音霊場など、散歩の折々には園城寺系本山派の事跡に出会うことが多かった。役の行者の開山縁起は、この園城寺派の活発な布教活動に負うことが大、とされる。本山派が「このお山は役の行者が開山の。。。」といった縁起を創っていった、とか。役の行者の石鎚開山縁起ができたのも、この室町末期のころだろう。

第一王子社で夢に登場した石仙を「深堀り」し、ちょっとメモが長くなった。とっとと先を急ぐことにする。

林道を進む
第一福王子社から第二桧王子社に向かう。県道に沿って比高差70mほどの「平野林道」から眼下に黒瀬ダムを見下ろす。ふと、昔の西条や氷見からの県道って、どの辺りを進んでいたのだろう。気になってチェックすると。
旧県道
大雑把ではあるが、西条からの旧県道はダムの下までは現在発電所のある、現在の県道よりちょっと下を通る。ダム手前には旧県道の手堀り隧道がふたつ残っているようだ。
その先も現在の県道より少し下を進み、現在の県道とほぼ並行して先に続いていたようだ。また、黒瀬峠に登ってきた氷見からの県道は、黒瀬峠で左に大きく振れ、ヘアピンカーブで曲がった後、西条からの県道に合流する。場所は半円を描いて進む現在の県道がダム湖に突き出た箇所で大きく方向を変える箇所の少し北のようである。

沢が切れ込む箇所に
平野林道と並行して進んでいた県道も、東に大きく離れるあたりで、林道も沢に沿って大きく迂回する。その箇所には古びた鉄の鳥居が建っている。地図を見ると、迂回した道は、沢を迂回しおおよそ現在地の対岸に戻る。
弟の記事では林道を進んでいるのだが、この辺りは車で走っている。車なら仕方ないにしても、徒歩、しかも修験の歩きであれば、この箇所から直接沢に下り、対岸に這い上がったのではないだろうか?唐突に鳥居も建ち、なんとなく「ノイズ」を感じる。
鳥居のある箇所から沢に迂回する道の逆方向に坂道がある。坂道の途中の農家の元気な犬に吼えられながら、その先に進むと「カフェテラス葉風る」があった。店は閉まっており、あちこちと下りる場所を見るが、それらしき箇所は見当たらない。
再び鳥居の箇所に戻ると、犬に吼えたてられた農家のご主人がいた。この辺りからの王子拝礼道を尋ねると、鳥居の先の崖から下る「七曲がり」の道がある、という。途中までは踏み跡もあるが、途中からは藪が酷いよ、と。一応ロープは常備しているので、なんとかなろうと「七曲がりの難所」道を下ることにする。後日メモの段階で『石鎚 旧跡三十六王子社』にも「七曲り」の記事があった。
因みに横峰寺には、ここから切れ込んだ沢を廻りこみ、沢に架かる橋を右に折れて進むことになる。
鉄の鳥居
後日、鉄の鳥居をチェック。『石鎚山 旧跡三十六王子社』は、古い遥拝所を示すものとあり、寄進者は高知の人、との記事があった。が、同書に掲載の鳥居と現在の鉄の鳥居はその形が異なっている。現在の鉄の鳥居には「大正」らしき文字が刻まれているように見える。『石鎚山 旧跡三十六王子社』の記事のもとになった踏査行は、46年(1971)に行われたものであり、鉄の鳥居が大正であれば、この鳥居が同書に掲載されるのが普通かと思うのだが、何故鉄の鳥居の形が異なっているのだろう。不明である。

「七曲り」を下り沢に出る
教えて頂いたように、鉄の鳥居から直線上の崖端に踏み跡がある。踏み跡を進むと石組の箇所があり、それなりに道となっているのだが、七曲りのうち、三曲りほど進んだ先は藪に覆われ、道はまったくわからない。藪漕ぎをして力任せに沢筋に下るだけ。
「七曲り」のルートとは程遠いとはおもうのだが、下り始めて25分、比高差100m弱の崖を下り沢に出る。沢に橋はないが、幸い水量は多くなく、飛び石で沢を渡る。沢に沿って舗装された道が通っていた。

沢から拝礼道に登る
舗装された沢脇の道を右往左往し、沢筋から対岸の拝礼道に登る道を探す。踏み跡は沢に突き出た尾根筋を北に廻り込んだ辺りに見つかった。登り始めると道はしっかり踏まれており、先ほどの下りとは様変わりの快適な土径であった。おおよそ10分弱で舗装された道に出た。






道の山側石垣にはブルーの「石鎚三十六王子社」鉄板道標が架っており、この道に間違いなし。南に瓶が森から高森山の稜線らしき四国山地が開けていた(山のことは詳しくないので、カシミールの機能であるカシバードで描画した結果であり、まちがっていれば御免なさい)。


第二桧王子社
簡易舗装の道を20分弱歩くと曲がり角に、「山火事注意」の幟が立つ消防施設の建物らしきものがある。何気に右手を見ると「第二桧王子社」と書かれたブルーの王子社鉄板案内があり、その上に王子社の幟が見えた。危うく通り過ぎるところであった。

苔むした石段を上ると左手前に「第二桧王子社」と刻まれた細長い石柱があり、お堂の中にはお地蔵様。桧の地蔵と称される。王子社を示す石殿は、お堂の外、左手に祀られていた。
『石鎚山 旧跡三十六王子社』には「昔左甚五郎が成就社本殿の建築を終り、用材の桧を杖にして茲(ここ)に下山休息した。その時杖を地に突き立てて帰った。其の杖が芽を出し成長し、大木となり真径お凡そ二米もあったと云う。何時の世にか伐採し今に其の切株がある。逆杖であったため木の枝がみな逆枝であったと云い伝えられている。その大桧があったので地名を大桧と云い、桧王子と唱えている」とある。
境内には「奉誦光明真言百万遍」や「白衣観音一字一石西国三十三霊場供養」と刻まれた明治に建立の石碑も見られた。

極楽寺分岐
第二桧王子社から10分弱、左手に竹林が茂る辺りで道は二つに分かれる。「右 極楽寺」の木標に従い左に折れる。緩やかな坂を進むと行く手に校舎らしき建物が見える。近づくと校舎外壁に据え付けられた黒板が、びっしり寄せ書きで埋められている。廃校となった大保木小学校跡地であった。

仙徳寺跡
『石鎚山 旧跡三十六王子社』にある真鍋充親氏(『伊予の高嶺』の著者。新居浜市の図書館で読んだことがある)の「紀行文」には「大保木小学校を南ま上に見上げ乍ら小さな谷の道を進むとおもひがけず叢の中に寺跡をみつけた。ここはかつての天台宗仙徳寺のあった処で、いくつもの信徒や檀徒らの寄進をしめす石標もみられた。この寺は今千野々県道傍に移転している」とある。 今回は校庭を進んだが、旧登拝道は、もっと加茂川の谷寄りを進んだのだろう。ために、叢の中に寺跡を見つけることはできなかったが、仙徳寺は県道傍に移転したとあるので、ピストンで車デポ地に戻る途中に寄ってみようと思う。

市指定天然記念物 旧大保木小学校のそめいよしの
校庭にあった案内の概略;樹高2mまでの間で3カ所の枝が分かれ、それぞれの枝分かれ部分の周囲が2m前後と、枝分かれ部分の大きな幹が特長。樹齢は不明だが古木のよう。西条市の市花が桜でもあり、市の天然記念物に指定される。そめいよしのは大島桜と江戸彼岸の交配種。明治の初め頃つくられた。
◇大保木(おおふき)の由来
「ふき」は「はけ」とも「ほけ」と同じ、崖を意味する。急峻な崖地の意味だろう。

極楽寺
大保木小学校から歩くこと20分強、道なりに進むとお寺様の境内に入る。誠に立派な本堂が建つ。境内にあった案内に拠ると、「本堂(金堂)の建築について:この本堂は平安時代(794~1192)の建築様式で建立されております。白鳳時代(672~685)の建築文化が、この時代に日本固有の表現に移り変わった時代で、宇治の平等院などが代表的な建物と言えます。
つまり、堂内の床が土間から板張りの床に移行したり、屋根の瓦が藁葺きとか桧皮葺きにと日本古来からの建築用材である植物が主体となって、その建築美を醸し出しているわけです。
おだやかな屋根の流れ、躍動的な棟のラインともども、その構造体の質実剛健な構えや優雅な軒に「ひらかな」をあみだした平安人の雅をご観覧ください 石鎚山真言宗総本山 極楽寺」とあった。

案内にある通り、誠に優美な構えである。前神寺とか横峰寺のことは知っていたのだが、不勉強にも極楽寺のことははじめて知った。Wikipediaに拠ると、「 極楽寺(ごくらくじ)は、愛媛県西条市大保木にある石鎚山真言宗総本山の寺院。山号は九品山(くぼんざん)。本尊は阿弥陀三尊・石鎚蔵王大権現。石鎚山信仰の根本道場であり、約1300年前から山岳宗教の一大修験道場でもある。 寺伝によると、西暦680年頃役の行者が石鎚山を仰ぎ見ることのできる龍王山に籠り、不動ヶ滝に身を清め修行をされ、阿弥陀三尊と三体の石鎚権現を本尊とする天河寺(てんがじ)を開基し、平安時代から室町時代に至るまで隆盛をきわめた。
ところが、室町時代末期になり、戦国の兵火で1350年天河寺は炎上、その時の住職行善大徳は、その弟子宥法師に天河寺の法灯を継続する地を探すよう命じ自らは遷化した。そして、宥法師は龍王山を仰ぎ見ることのできるこの地を探し出し堂宇を建立し極楽寺と名づけ法灯を守った。
その後、天河寺焼け跡から本尊であった三体の石鎚蔵王権現のうち中尊の「金剛蔵王権現」が掘り出され蔵王殿本尊として祀られた。極楽寺になって二度の火災により寺宝も多く焼失したが権現像は守られ、現在に至るまで石鎚金剛蔵王権現の御前にて護摩焚きが朝夕行われている。 2014年失われていた両脇尊である「龍王吼蔵王権現」「無畏宝吼蔵王権現」が新調され三体が揃った。
特筆するは、明治時代神仏分離令で、前神寺も横峯寺も一時期廃寺になった時も、当山では脈々と石鎚信仰が途切れることなく続いてきたことである」とあった。
極楽寺は天河寺の法灯を継ぐ古刹であった。一説には、蔵王権現はもとは瓶ヶ森にあり、天長5年(827)に石鎚に移った、ともされ、蔵王権現が瓶ヶ森にあったときの常住は天河寺であった、とも言う。ともあれ古い歴史をもつお寺さまであった。
地図を見ると、極楽寺から加茂川を隔てた対岸の山中に西大門といった、如何にも寺を連想させる地名がある。また、坂中地区に残る坂中寺は天河寺ゆかりの寺と言う。龍王山のピークは標高850mほどのところにあるが、天河寺跡はどのあたりか不明ではある。そのうちに探し歩いてみたいとも思う。
本堂から下る長い石段がある。大正末期に開かれた県道傍に別院が造られた、という。これも、車デポ地へのピストンの途中に寄ってみようと思う。


植林地帯を進む
第三大保木王子社に向かう道は、本堂境内下を横切る。少し進むと歩道が切れ、上下二手に道が分かれるが、登拝道は下の道。用水路のような風情を感じる土径を進むと「高橋兵佐右衛門の墓」の矢印。道はその辺りから植林地帯に入る。 更に進むと再び「高橋平左右衛門の墓」の矢印。そこで道は再び上下二手に分かれるが、「高橋平左右衛門の墓」の矢印のある下の道を進む。


王子社名が書かれたブルーの道標を越えると、「高橋平左右衛門の墓」の道標が上下に分かれた上に向かう。登拝道はここは下の道。基本お墓はパスするので、そのまま登拝道を進む。





「赤と黄色の」王子社登拝道の標識を越すと、植林の杉林の中で道は上下に分かれる。住友共電大保木線の鉄塔保線鉄柱がある上側の道を進む。先に登拝道の道標も見える。大岩脇を越えると広場となり、その山側に王子社が見えて来た。




高橋平左右衛門
「銀納義民」として知られる。極楽寺境内にあるという「銀納義民記念碑文」の説明には「堅忍不跋の心を以て為すときは事成らずと云うことなし。そもそも大保木山、中奥山、東の川山、西の川山、黒瀬山の五ヶ山農民の年貢米、未納未進となり住民の至難なるより、慶長八年身を犠牲に供し、銀納受所に祈願せんと衆議一決し、五十有年間何回となく嘆願するも聞き届けなく、遂に時の領主一柳監物殿に請願中、大保木山庄屋左衛門、中奥山治兵衛その倅三名外百姓十一名、承応二年八月入獄され遂に三年二月一八日死刑に処せられ非命の死を遂げしは、悲嘆の極みあらずや。
然るに平左衛門はその後、横峰蔵王権現に祈願し感応により死刑を免れ生存せしを以て萬治元年二月外十名と供に総代となり、西条鴨川に於いて駕訴せしに聞届けられ同四月八日銀五貫三百五十八勺三分一厘に定められ、明治八年に及ぶまで二百十八年間当地の人民鼓腹の楽をなせしも、銀納を訴えた義民右十七名の功勤に因るもの。感嘆の余を以て其の万分の一の報恩の為、碑を建て略誌する事斯くの如し 明治二十三年五月大保木村 工藤弥五郎」と記される、と。 大雑把にまとめると、林業などを主とするこの地域では、コメ相場により高騰する年貢米の替りに銀を納めるべく、庄屋を中心に当時の西条藩・一柳家に直訴するも、願い叶わず16名が処刑される。
死刑を免れた高橋平左右衛門は、改易になった一柳家に替わり西条藩主となった(一時天領となる)紀州家の松平頼純(よりずみ)に駕訴をおこない、銀納が認められることになる。地元人は感謝し、17名を義民として称えた、という。

第三大保木王子社(覗の王子)
王子社の祠には三界万霊地蔵が祀られ、その左手には王子社を示す石柱と王子社石殿が並ぶ。
『石鎚山 旧跡三十六王子社』には、「大保木字覗にあり、此の王子は大保木分であるが、千野々天台宗派仙徳寺の真上約百米、見るからに断崖絶壁今にも岩石崩れ落ちんばかりの感があり、旧参道のほとりにて、のぞきの王子とも称し石の地蔵が祀ってある。(中略)昔松山藩主が領内の山林面河山取調の際この山に入り、東之川のお樽の滝(白糸の滝とも云う)を見物した。西之川庄屋高須賀蔵人が藩主を歓迎してもてなした。
藩主は大いに満足し蔵人を召し出し、其の望を問われ蔵人が曰く、石鎚の神には表境内はあれども(昔は成就から奥は全山表境内であった)裏境内がないので、面河山全部の寄進を願い出た処、藩主驚き蔵人を殺害しようと計り、大保木の庄屋へ召しだした。蔵人はこの大保木王子に来て、石鎚大神に祈願し、抜いた刀を石に突き差し、願意成就を祈り大望を達したと謂う。石の各所に刀を差し込んだ跡がある」とある。

覗きの行場のようだが、木々が茂り、今一つ断崖絶壁感がなかった。木々の間から千野々集落や加茂川を見下すのみ。

ザレ場を下る
虎ロープを頼りにザレ場を下る。振り返ると大岩の崖が見えるようだが見逃した。大保木王子社の「覗きの行場」跡であろうか。
ザレ場を下ると左手に住友共電の鉄標、右手に王子社を指す鉄柱がある。その分岐を右に進むとほどなく巨大な岩壁の下に王子社が見えて来た。第三大保木王子社から10分も歩いていないだろう。

第四鞘掛王子
岩壁の真下に石柱、石殿、お地蔵様が、少々窮屈そうに並ぶ。『石鎚山 旧跡三十六王子社』には、「中奥字千野々。(中略)第三王子の項でも述べた通り、西之川庄屋高須賀蔵人が松山藩主の召に応じ大保木の庄屋に出頭する時、藩主の計略をさとり、ここで刀を抜き一命を堵けて石鎚大神に祈り、鞘のみ木の枝に掛け覚悟を決めて出頭したので、鞘掛の王子と云い伝えられる(後略)」とある。




県道に下りる
王子社から住友共電の鉄柱があった三差路まで戻り、鉄塔保線路を左下に10分弱下り県道12号に出る。車デポ地からおおよそ2時間半ほどで県道に出た。 南に加茂川に架かる赤く塗られた鉄の橋が見える。
千野々橋と呼ばれるこの橋は、大正14年(1925)に完成した愛媛県最古のプラットトラス橋(斜材を橋中央部から端部に向けて「逆ハ」の字形状に配置したもの)。上流にコンクリート橋が架かるまで現役であったが、現在は公園(「石鎚ふれあいの里」)へのアプローチ橋となっている。ここから車デポ地まで歩いて戻ることになる。
千野々
千野々の地名の由来は、この地で合戦があり一面血の海となったため、といった説もある。地名の由来は諸説あり、真偽のほどは不明だが、合戦があったとすれば、天河寺も焼失したという土佐の長曽我部氏との合戦ではなかろうか。





車デポ地に戻る

仙徳寺
歩きはじめるとほどなく、道の左手に結構風雪に耐えた趣のお寺さまがある。 お堂入り口の右手の木札には、紙が上に張られ読みにくいのだが「天台宗総山明王院仙徳寺」と書かれている。大保木小学校のところで「今千野々県道傍に移転している」とあった天台宗仙徳寺であった。
お堂左手には同じく紙が上に張られた木札に「石鎚山(不明)大護摩火渡所」、狛犬の台座には天保十三の文字が刻まれる。
扉は閉じられ内陣を見ることはできなかったが、御堂には波切不動、石鎚蔵王大権現が祀られ、不動明王は、もとは天河寺にあったものとも言う。 札にあった火渡りの行事といった修験が未だ行われているのかどうか不明だが、昔は石鎚修験の寺ではあったのだろう。

極楽寺別院
更に先に進むと道脇にお寺と、その先に強大な建物が見えてくる。如何にも宿坊といったもの。ここが先ほど訪れた極楽寺の別院。本堂から下る長い石段も見える。
大正末期に県道が開かれ、昭和6年(1931)には河口までバスが走るようになると(私注;バス運行の年は異なる年度の記事もある)、石鎚参拝は、この県道を通るルートが登拝道の主流となった、と。別院は県道開削に合わせて、道脇に造られたとのことである。
登拝道の主流となった県道近くに本堂があり、道脇に別院を設けた故の隆盛だろうか、お寺も石鎚山真言宗総本山と一派を起こし独立総本山として、60ほどの末寺を抱えるという。巨大な宿坊故の妄想ではあり、根拠は、ない。

西南日本中央構造線の黒瀬断層
少々単調な舗装道を進み、柳瀬橋を越え、左半円周りに進路を変えた県道を進むと道脇に大きな案内がある。とりあえず近寄ってみると、「西南日本中央構造線の黒瀬断層」の説明がイラストと共に記されていた。
案内には「中央構造線は西南日本を内・外帯に二分する国内第一級の地質構造線で、その延長は長野県諏訪湖付近から九州熊本県八代付近まで至る。 黒瀬断層は、北側にある約7千万年昔に浅い海の底に堆積してできた和泉層群の堆積岩が、南側の1億年昔に地下の深い所で変成岩になった結晶片岩類の上に乗り上がった形の断層である。
これら岩石(岩盤)の間にはこの断層の間に安山岩が貫入している。この安山岩は、石鎚山の火山活動の時(1500万年前)に、断層形成により脆弱となった岩盤の破砕部に貫入してきたものである。
この断層は、約2~3千万年昔に活動したものである。 この断層の走向(延びの方向)はN60゜Eで、北へ30゜~35゜傾斜している。
愛媛県内では黒瀬断層以外にも中央構造線に関係した断層として砥部衝上断層(砥部町)と湯谷口衝上断層(丹原町)が有名で、いづれも断層部に安山岩の貫入が見られる。このような断層を観察できる場所は限られており、大地の動きを考える上で貴重な露頭となっている」とある。

中央構造線って、アジア大陸東端部に出来ていた日本列島の日本海側半分に、太平洋側からの半分が合わさって形成された日本列島の「接合部」といった程度の大雑把なことはわかるのだが、中央構造線がここに現れていて、和泉層群とか結晶片岩類とか安山岩が見られると言われても、周囲は木々で覆われ何も見えない。
今は黒瀬ダムの底に沈む黒瀬村の中央を中央構造線が走っており、川床には露出ポイントがあったという、その記念ということだろうか。門外漢故その有り難さがそれほどわからない。

車デポ地に
下山口から県道をのんびり、おおよそ1時間強かけて車デポ地までもどる。


第五細野王子社に向かう


弟の記事に拠れば、次の王子社である第五細野王子社は、第四鞘掛王子社から県道12号に下り、橋を渡り加茂川右岸に移り、古長河内神社の少し先、県道から左に分岐する道を進むようである。
距離は第四鞘掛王子社から県道に下りた辺りまでおおよそ5.5㎞、その先県道からに分岐する道野辺りまでおおよそ1.5㎞ほどある。 10時過ぎに第一福王子社に向かって歩き始め、千野々橋傍の県道に下りたのが12時半。車デポ地にピストンで戻ったのが2時過ぎ。季節は冬、日暮は早い、ということで、当初の千野々橋あたりに車をデポし、徒歩で進むのを取りやめ、県道から第五細野王子社への分岐箇所まで車で進めることにする。

古長河内神社
車を進め、赤く塗られた千野々橋を見遣りながら先に進むと道脇にちょっと印象的な社が目にとまる。とりあえず車を停め境内に入る。
歴史を感じる鳥居を潜り境内に。本殿・拝殿ともに誠に立派な構えである。 祭神は譽田別尊。応神天皇を指す。譽田別尊は八幡神と同一視される、武運成就の神である。境内社には出雲神社も祀られる。
境内には西条藩主松平依頼純公お手植えの杉が2本あったとのことだが、それといった案内も無かったので枯れてしまったのだろうか。それはともあれ、いい雰囲気の社であった。

細野集落への分岐道
県道から細野集落への分岐には四国電力の黄色と黒に塗られた鉄のポールがあり、その横に「細野王子社」と書かれた道標と方向を示す木標が立つ。道は簡易舗装されており、どこまで続くか不明であるが、取り付き部は車で入れる。 杉林の中、廃屋を見遣りながら進むとブルーの王子社道標がある。その先、取り付口から10分強歩くと、道が左に大きく曲がる箇所の右手の土径に王子社の道標、四国電力の保線路鉄杭、そしてお地蔵さんが見える。

細野集落跡
ここで、舗装道から分かれ土径を進む。道の両側には石垣やお墓がある。この土径はその先ですぐに舗装道路と合流する。土径は舗装道路を横切り上に進むが、王子道は舗装道路を右に進む。
舗装道路を進むとすぐに黄色と赤の王子社道標をつけた鉄ポールがあり、案内に従い斜め右手の土径に入る。鬱蒼とした木々の間を数分進むと少し開けたところに廃屋が残る。

先ほどの石垣や廃屋など、この辺りが細野の集落があった辺りだろうか。『石鎚 旧跡三十六王子社』には、「河内神社の傍を通り淀(私注;県道に「淀バス停」があった)と部落のはずれから旧道の部落道を登る。大正十五年頃県道が通じる迄は唯一の参道であったが、今は細野部落の通行道として三輪車が通れるほどになった。細野には黒門と云って石鎚名物の肉桂(にっき)販売の老舗があったが、今は淋しく屋敷のみ残っている」とある。
子供の頃はおばあさんから折に触れて肉桂(にっき)の根をお土産にもらった。今でいうシナモンではあろうが、最近はあまり肉桂(にっき)をかじる子供を見かけることもない。当たり前ではあろうが。

道が荒れてくる
廃屋脇を進む。道は四国電力の鉄塔保線路のようである。道は次第に荒れてくる。虎ロープが登場する。虎ロープを頼りに先に進むと、道が崩壊した箇所に出るが、木の梯子、桟道、虎ロープが整備されており、安全に先に進むことができた。



迫割禅定
崩壊箇所から5分位歩くと、大きな岩の下にお地蔵さまが佇む。お地蔵さまから左手に登る道があり、寄り道すると大岩が二つに分かれていた。そのときはなんだろうと思いながらも元に戻ったのだが、どうも迫割禅定跡のようであった。
迫割禅定と言えば、人ひとりかろうじて通れる、といったイメージであり、そのイメージには程遠いスペースでもあったので、写真も撮らなかったのだが、『石鎚 旧跡三十六社』によれば、「この部落(私注;細野集落)を通り抜け、五百米くらいの処に迫割と云って狭い岩の間を通る道ががあり、迫割禅定と云う。西条史を見ると「この処両方より石が突き出てその間甚だせまく、童子といえども、からだを細めぎれば通ること能はず、然れどもわずか二間程の間なり」とあり、後世道を作りかえ現在はすぐ下を通るようになったが、その面影は残っている」とあり、同じく同書の真鍋充親氏の紀行文には、石鎚まいりの難所とあり、「度重なる地すべりの為寸断されていて細道を求めるのに困難し」、調査チームの一度目の踏査では辿りつけなかったようである。

思うに、今日迫割禅定へと辿った道は四国電力の保線路であり、往昔の王子道は保線路より上を進み、直接迫割禅定の岩場に出たのだろう。ゆったりしたスペースの大岩をもう少し先に進めば、それらしき岩場があるのだろうか。後の祭りではある。

第五細野王子社
お地蔵さまから5分ほど進むと、また崩壊地に出る。右手の切れたった崖を木道の迂回路でクリア。そこから数分歩くと広場があり王子社が見えてきた。第五細野王子社である。
中央に石灯籠の上部といった石塔に首だけのお地蔵さまが祀られ、その右手に王子社石殿、さらにその右には石柱が立つ。王子社の裏は岩尾根となっている。
『石鎚 旧跡三十六王子社』に拠れば、「中奥字細野にある。迫割禅定があった場所(私注;部落から五百米)から二百米ほど行くと、小高い森があり石の祠がある。その中に頭だけの地蔵が祀ってある。之が細野王子社である。(中略)北には河口の下の片マンプ(私注;逆コの字の岩壁)の岩上、屏風の如く、南には高さ二百米もあらう大岳が峨々とそびえ、仰ぎ見るとまさに倒れかからんばかり、之を王子の嶽と云う。この付近に小谷があり、石鎚参詣の導者はこの滝水で禊をしたという」とあった。

沢のガレ場を下る
第五細野王子社から右下に下る道に入る。崖に沿って急な斜面を下ると、なりゆきで沢のガレ場に入り、そこを下ることになる。『石鎚 旧跡三十六王子社』に「細野王子から直ぐ急な下り坂にかかる。坂と云うより嶽と云うのが適当の様である。昔は此の所に鎖がかかっていたが、後世道を作り少し歩み易くなったので、その鎖を弥山(今の石鎚山一の鎖)へ移したと西条誌に記してある」辺りだろう。
今は、鎖の替りに張られた虎ロープを頼りに慎重に下る。ガレ場は処々で石組みとなっているのは崩落防止のためだろう。

第六子安王子社
ガレ場を下ると、岩壁に沿って道が進む。『石鎚 旧跡三十六王子社』に「急坂は百米ほどで王子の嶽の麓を二百米行くと、山の張り出た所に大岩が横たわり、その岩の傍に石の地蔵が二尊仲よく並んで祀ってある」とある。そこが第六子安王子社である。第五王子社から10分程、といったところだろうか。
王子社石殿の右手に王子社石柱、左手に二体のお地蔵さま。石に刻まれたお地蔵様と石仏の二尊である。覗きの行場だろうか、河口(こうぐち)集落が真下に見える。


『石鎚 旧跡三十六王子社』には「中奥字細野にある。(中略)この王子の真下が登山口の河口であり、石の突端に立ちて見下ろすと千尋の谷、後をふり向くと王子の嶽が立ちふさがり、実にたけだけしい感じである。(中略)この王子は元結掛(もつといかけ)王子とも云い、又細野覗とも云う。明治維新以前は土地の児童等ここで、初登山の者に対し鋏で元結を切り三文乃至五文の料金を申受けるのを例としていた。その子供達が「新客や元結払い南無三宝六王子」と唱えて切った元結を松の木にかけて、登拝の無事を祈ったと云う処から子安場と云い伝えられる。
又その王子の岩場は行場であり、大先達が初めて参詣する若者を芋綱でしばり、岩の端から覗かせて、是迄の悪行をさんげさせ、心を改め行いをつつしむ事をちかわして、然る後、引き上げて登山し更に石鎚大神に誓いを立てさせ、善導して処と伝えられている」とあった。

ガレ場を下りる
第六王子社から急な坂を下る。道はトラバース気味に進むが、足場がザレて、虎ロープのオンパレードである。最後は沢のガレ場。虎ロープを頼りに下る。この沢も崩落防止のため石組みがなされている。




旧県道の隧道
ガレ場の下に加茂川が見え、その手前の道に下りる。第六王子社から10分強。旧県道のようである。道を右に取ると、前方に隧道が見える。近づくとその先にも隧道が続く。河口第四隧道と河口第三隧道とのこと。旧県道建設時、大正13年(1924)に開削された手掘り隧道とのことである。


三碧橋
隧道を抜けると三碧橋北詰に出る。三碧とは渓谷の緑色片岩、加茂川の青き水、茂る木々の緑とのこと。橋からエメラルドグリーンの加茂川の水、山々の残り紅葉を楽しみ第一王子社から第六王子社の散歩を終える。
次回は、この坑口から比高差1,200mほど上った石鎚山腹・成就社までの尾根筋に残る第七王子社から第二十王子社まで一気に歩く予定。結構大変そう。

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