水曜日, 7月 16, 2014

横浜水道みち散歩;西谷浄水場から横浜水道みちを辿り、大貫谷戸水路橋を訪ね川井浄水場まで

先般の相模原台地散歩のおり、幾度となく「横浜水道みち」と出合った。散歩をメモするため、その経路をチェックしていると、横浜市旭区に谷戸を跨ぐ水路橋が目に入った。大貫谷戸水路橋と呼ばれるこの「橋梁」は、住宅のはるか上を水路が通る。そんな風景、今は撤去された山陰本線・余部鉄橋の如き景観が、横浜市域に残るとは思ってもみなかった。「水路」とか「用水」というキーワードに対しては無条件にフックが掛かる我が身としては、行くに如かず、ということで、日も置かず水路橋を訪ねることに。
ルートを想うに、水路橋の前後に、「横浜水道みち」の経路ポイントでもある、川井浄水場、西谷浄水場がある。どうせのことなら、このふたつの浄水場をカバーしながら、「横浜水度みち」を辿るべしと、スタート地点の西谷浄水場最寄りの相鉄線・上星川駅に向かう。

本日のルート;相模鉄道本線浜駅>相鉄・上星川駅>蔵王高根神社>西谷浄水場旧計量器室跡>西谷浄水場>横浜環状2号・主要地方道17号>みずのさかみち>新幹線と交差>相鉄・鶴ヶ峰駅>鎧橋と帷子川>「水道みちトロッコの歴史」の標識・19番目>送水管埋設標>二俣川合戦の地・吾妻鏡 畠山重忠公終焉の地>矢畑・越し巻き>清来寺>「水道みちトロッコの歴史」の標識・18番目>八王子街道と中原街道が交差>川井宿町交差点>トロッコ軌道跡>上川井交差点>大貫谷戸水路橋>川井浄水場>田園都市線・南町田駅

相模鉄道本線浜駅
横浜駅で相鉄こと、相模鉄道本線に乗り換える。相鉄に乗るのはいつだったか鎌倉街道を辿り、JR横浜線・中山駅辺りから鶴ヶ峰駅辺りを彷徨って以来のことである。
相模鉄道本線は横浜と海老名を結ぶ。本線と言う以上、なんらかの支線があるのかとチェックすると、二俣川から本線と分かれ藤沢市の湘南台駅を結ぶ「相鉄いずみ野線」があった。湘南台駅で小田急線と接続する。どこかで聞いた駅名と思ったのは、「サバ神社」を辿った散歩の折に、小田急・湘南台を利用したからだろう。
横浜駅を出た相鉄は平沼橋駅、西横浜駅へと進む。西横浜駅は昭和4年(1929)に相鉄の前身である神中鉄道の東のターミナルとして誕生。当時の横浜駅は高島町にあり、神中鉄道と繋がっていなかった。その後昭和6年(1931)横浜駅が現在地に移転する計画にともない、神中鉄道は平沼橋駅まで路線を延長し、昭和8年(1933)には、現在地に移った横浜駅と神中鉄道は繋がることになった。

○相模鉄道
相模鉄道は、元々は現在のJR相模線である茅ヶ崎駅 - 橋本駅間を結ぶべく開業した鉄道会社である。現在の相鉄本線にあたる横浜駅 - 海老名駅間を開業させたのは神中鉄道(じんちゅうてつどう)という鉄道会社であるが、昭和18年(1943)に神中鉄道は相模鉄道に吸収合併された。しかし、翌年には元の相模鉄道の路線であった茅ヶ崎駅 - 橋本駅間が国有化されたため、神中鉄道であった区間が相模鉄道として残った、ということであろう。

帷子川
電車は西横浜駅を超えると西区から保土ヶ谷区に入る。天王町を越え、帷子川に沿って進む。Wikipediaによれば、平安の頃まで天王町辺りまで入り海が迫り、袖ヶ浦と称される景勝の地として知られていた、と。そしてその入り江に注ぐ帷子川の河口には帷子湊が開けていた、とか。
江戸の頃、富士山の宝永の大噴火による火山灰により河口が浅間町辺りまで移動し、その地に新河岸が成立する。その後、江戸から明治にかけて袖ヶ浦の埋め立てが進み、現在の平沼町一帯が誕生した。因みに天王町は明治の頃、絹の輸出の増大に伴い、「絹の道」の通る町として賑わったようである。

○帷子(かたびら)川
帷子川(かたびらがわ)は、神奈川県横浜市を流れる二級河川。工業用水三級。現在の神奈川県横浜市保土ケ谷区天王町一帯は片方が山で、片方が田畑であったため、昔『かたひら』と呼ばれていた。その地を流れていたので『かたびらかわ』と呼んだのが名の由来だとされているが、これも地名由来の常の如く諸説ある。
神奈川県横浜市旭区若葉台近辺の湧水に源を発し、横浜市保土ケ谷区を南東に流れ、横浜市西区のみなとみらい21地区と横浜市神奈川区のポートサイド地区にまたがる場所で横浜港に注ぐ。
もともとは蛇行の激しい暴れ川で水害の多い川であったが、多くの地点で連綿と河川改良が進められた。近年、川の直線化や護岸工事など大規模な改修が進められ、西谷から横浜駅付近に流す地下分水路や、親水公園、川辺公園などが造られた。
横浜市保土ケ谷区上星川付近には、かつて捺染(なっせん)業が多く存在した。この染色・捺染の染料を流すこと(生地を水に晒す工程)や、周辺の生活排水や工場廃水などが増え始め、一時期は汚染が進んだ。また、上流域の横浜市旭区にゴミ処理場があり、その影響も心配された。 しかし、近年の環境問題に社会の関心が向いたことにより下水道の普及など状況は改善されつつあることや魚の放流などもなされた結果、自然が戻りつつあり、アユや神奈川県でも珍しいギバチも確認されている(Wikipediaより)

多摩丘陵と下末吉台地に挟まれた谷底低地を相鉄は進む
天王町駅を超える辺りから、線路の左右は下末吉台地に囲まれ、帷子川によって開析された樹枝状の谷底低地・氾濫原となってくる。その谷底低地を星川、和田駅へと進むと北は多摩丘陵、南は下末吉台地となる。西横浜駅から西の保土ヶ谷区は区の西部に多摩丘陵、中央部に下末吉台地が広く分布する。

○下末吉台地
下末吉台地(しもすえよしだいち)とは、神奈川県北東部の川崎市高津区、横浜市都筑区・鶴見区・港北区・神奈川区・西区・保土ケ谷区・中区などに広がる海抜40-60メートルほどの台地である。
鶴見川、帷子川、大岡川などによって開析が進み、多数の台地に分断されている。北側は多摩川沿いの沖積平野に接し、西側は多摩丘陵に連なる。横浜市中心部では海に迫っており、野毛山、山手や本牧など坂や傾斜地の多い地形を作っている(Wikipediaより)。

○多摩丘陵
関東平野南部,多摩川と境川の間に広がる丘陵。広くは東京西郊の八王子市から南南東にのびて三浦半島へと続く丘陵地を指すが,狭義には八王子市を流れる多摩川上流の浅川と,横浜市西部を流れる帷子(かたびら)川との間の地域を指す。
西は境川をはさんで相模原台地へと続き,北は多摩川をはさんで武蔵野台地へと続く。また,東はほぼ川崎市多摩区登戸~横浜市保土谷区を結ぶ線を境に下末吉台地へと連続している。多摩丘陵は地形・地質的には,これらの台地と関東山地の間の性格をもち,丘陵背面をなす多摩面と呼ばれる地形面は台地よりは古く,関東山地よりは新しい中期更新世に形成された(Wikipediaより)。

相鉄・上星川駅
相鉄に乗り目的地である西谷浄水場の最寄駅である「上星川駅」で下車。駅は大正15年(1926)、神中鉄道の「星川駅」として開業。昭和2年(1927)、横浜駅方面への区間延長計画に伴い、北保土ヶ谷駅が開業。昭和8年(1933)、北保土ヶ谷駅を「星川駅」と改称するに伴い、当駅を「上星川駅」とした。
○星川
因みに、この「星川」って田舎の愛媛県に姓として多い名前である。星川とか星加君といった同級生がいた。星さんとか星野さんって群馬とか福島に多いように聞く。何となく気になりチェック。
星川という苗字が最も多いのは山形(600弱)、愛媛は第二位(300ほど)とのことである。古代、雄略天皇の第四皇子に星川皇子がいる。西暦479年、雄略大王の死後、吉備氏の支援を受け、皇太子白髪皇子にクーデターを起こすも、大伴金村や東漢によって鎮圧され誅殺された人物である。
この皇子と山形や愛媛と関係あるのかないのか定かではないが、大和の星川氏は大和国山辺郡星川郷(奈良県奈良市)をルーツとし、武内_宿禰の子孫とされる。また、この地にも星川氏が武蔵国久良岐郡星川(神奈川県横浜市)に居を構えたとか。星川の地名は10世紀の『和名類聚抄』にすでに記録されている由緒ある地名であり、苗字も100弱と全国六位(山形>愛媛>北海道>東京>愛知>神奈川)なっている。

東海道貨物線が帷子川を跨ぐ
駅を下りる。駅前には帷子川が流れ、駅の北は多摩丘陵、南は下末吉台地が迫り、帷子川により開析された台地が複雑に入り組んでいる。駅の右手を見ると、帷子川の上を鉄道が跨ぐ。東海道貨物線が南北の丘陵をトンネルで抜け、帷子川の谷筋に橋梁となって姿を現している。
○東海道貨物線
東海道貨物線は、東京都港区の浜松町駅と神奈川県小田原市の小田原駅を結ぶJR東日本東海道本線の貨物支線および複々線区間、南武線の貨物支線の通称。上星川駅の北の丘陵を抜けた箇所に横浜羽沢駅があり、そこから東には地下を抜け東海道線・生麦駅に、西は丘陵の中を抜け東海道線・東戸塚駅と結ばれている。

蔵王高根神社
帷子川に架かる「光栄橋」を渡ると、蔵王神社前交差点。坂を少し上ると「蔵王高根神社」がある。この神社は旧坂本村の神社であった。坂本村には古くから蔵王社と高根社があり、村人の篤き信仰を集めていた,と言う。明治22年(1889)には町村制の施行により、坂本村と仏向(ぶっこう)村が合併して矢崎村が成立。その際、一村一社の政策に従い、蔵王社と高根社は杉山社に合祀された。
この杉山神社って横浜や川崎に地域限定で祀られる社。坂本村に該当する地域である仏向にも星川にも和田にもある。どの杉山神社か不明ではある。ただ、星川にある杉山神社は『江戸名所図会』には延喜式内神社との説もあるので、有難味から考えれば、この社かもしれない。とは言うものの、全く根拠なし。 それはそれとして、杉山神社に合祀された後も、当地の村民は信仰篤き故か社殿を残し、戦後になって再びこの地に分祀し社を成した、と言う。

○仏向・矢崎
因みに仏向村は仏に供える食物を意味する「佛餉」から(Wikipedia)。また、両村合併の際に何故「矢崎村」と名付けたのか気になりチェック。仏向村に頼朝ゆかりの矢崎と呼ばれる地名が見つかった。頼朝が放った矢が突き刺さり、その矢から矢竹が繁り、ために「矢シ塚(矢崎)」と呼ばれるようになった、とか。合併の際に、頼朝ゆかりの地名を持ち出し両村の合意を図ったのであろうか。

西谷浄水場旧計量器室跡
西谷浄水場に向かって上り坂の途中、煉瓦造りの建物がある。水道関連の歴史的建造物であろうと近づくと、案内に「西谷浄水場旧計量器室跡」とあった。「このレンガ造りの建物は西谷浄水場から横浜駅周辺・桜木町・元町・山手・本牧方面に給水する内径600㎜、910㎜、395㎜の三条の配水管の量を計る量水装置(水銀式ベンチュリメーター)を設置するため大正3年3月に建設されたものです。日本ではじめての近代水道として明治20年に創設(現在の野毛山公園に浄水場を建設、明治20年10月17日に通水)された横浜水道が昭和62年に100周年を迎えるにあたり、横浜水道記念館への玄関口として保存し公開するものです 横浜市水道局」とのこと。

○「横浜水道みち」
先般、数回に渡って歩いた相模原台地で折りに触れて「横浜水道」の送水管が通る、所謂「横浜水道みち」に出合った。そのとき横浜市水道局のHPなどの記事をもとにまとめたメモをもとに「横浜水道みち」を整理する。
幕末の頃、戸数わずか87ほどであった横浜は、安政6年(1859)の開港をきっかけに急激に人口が増加。しかし横浜は、海を埋立て拡張してきた地であり、井戸水は塩分を含み、良質の水が確保できない状況にあった。
このため当時の神奈川県知事は、横浜の外国人居留地からの水確保への強い要望や、明治10年(1877)、12年(1879)、15年(1882)、19年(1886)と相次いで起きた伝染病コレラの流行もあり、香港政庁の英国陸軍工兵少佐H.S.パーマー氏を顧問として、相模川の上流に水源を求め、明治18年(1885)近代水道の建設に着手し、明治20年(1887)9月に完成した。
□創設期の経路
相模川と道志川の合流地点(津久井郡三井村)に造られた三井(みい)用水取水所で、蒸気機関で動く揚水ポンプで汲みあげられ、相模原台地を横切り、横浜市旭区上川井につくられた川井接合井(導水路の分岐点や合流点で一時的に水をためる施設)を経て、横浜市西区老松町の野毛山浄水場に至る44キロの水の道。
相模川が山間を深く切り開く上流部には左岸岩壁に隧道を穿ち、相模原の台地を一直線に進み川井接合井に。川井接合井から野毛山浄水場までは相模原の平坦な台地から一変、起伏の多い丘陵などを貫くため、水路の建設は困難を極めたと言う。
近代水道の要ともなる水路管(グラスゴーから輸入)の運搬には、相模川を船で運び上げたり、陸路にはトロッコ線路を敷設し水管を運び上げたとのことである。現在三井の取水所跡から旧野毛山配水池(大正12年(1923)の関東大震災で被災し、配水池となる)まで26個の「トロッコ道」の案内板が整備されている。これが創設期の「横浜水道みち」ではある。
□横浜水道網の拡大
創設当初、計画対象人口を7万名と想定した横浜水道は、横浜市の発展とともに施設の拡充が図られる。明治34年(1901)には既に給水人口を30万と想定し川井浄水場、大正4年(1915)には給水人工80万を想定し西谷浄水場を整備するなど、明治から昭和55年(1980)までに8回に渡る拡張工事が行われている。
その拡張計画は、単に浄水場や配水場の新設・改築にとどまらず、創設時は道志川水系にその水源を求めた「横浜水道」は、その後昭和22年(1947)に完成した相模湖を水源とする相模湖系、昭和46年(1971)完成の相模川下流の寒川取水堰よりの水を水源とする馬入川系、昭和53年(1978)年完成の丹沢湖の水を水源とする企業団酒匂川系、平成12年(2000)完成の宮ヶ瀬湖を水源とする企業団・相模川系など水源の拡大をも図り、県内8浄水場を経由し、市内23か所の配水池から各戸に送水され、400万人近い市民を潤している、とのことである。

西谷浄水場
西谷浄水場旧計量器室跡を後に西谷浄水場に向かう。浄水場の南の道を行けば簡単に正面玄関に行けたのだが、どちらが正面ゲートか調べることもく、なんとなく北側を敷地に沿って大回り。丘陵から谷筋を埋める民家を眺めながら敷地の西に。ゲートがあるが、そこは横浜FCのトレーニングセンター入口とあった。浄水場の上を覆う天然・人工芝の練習場各1面とトレーニングセンターがあるとのことである。
更に南に回ると正面ゲートがあり、案内には水道横浜記念館や水道技術資料館などがあるとのことだが、日曜日はゲートが閉まっており敷地内に入ることは叶わなかった。ここであれこれと資料を手に入れようとの思惑であったが、予定が狂ってしまった。ちょっと残念。

○西谷(にしや)浄水場
西谷浄水場が完成したのは大正4年(1915)のことである。横浜市水道局の資料によれば、この時期は明治34年(1901)から大正4年(1915)に渡る横浜水道の「第1回~第2回拡張工事完成」時期にあたる。上にもメモしたように、当初7万人を想定した給水人口が30万から80万に急増する状況に対応し、明治34年(1901)に野毛山浄水場増強、青山沈殿池の完成、大正4年(1915)にはこの西谷浄水場、鮑子取水所が完成している。
ちょっと補足すると、明治20年(1887)に設置された創設時の三井取水所は明治30年(1897)に4キロ上流の道志川の青山に取水口を移した。これにより、2つの突堤で小湾口を設け、ポンプで沈澄池に揚水していた横浜水道は「自然流下式」で下ることが可能となった、とか。上述の青山沈殿池の完成はこの取水口の移行に伴うものであろう。
その後、大正4年(1915)には取水口は青山の更に上流1キロの鮑子取水口に移され、同時に完成した城山隧道により、それまでの相模川左岸の断崖絶壁路線を避け、相模川右岸を直線で現在の城山ダム(昭和40年完成であるので当時は影も形も無い)辺りで相模川を渡り、創設期横浜水道に繋いだ、とのことである。
西谷浄水場の完成した大正4年(1915)には横浜水道は、この道志川水系だけであり、鮑子取水所から取水された横浜水道は明治34年(1901)に完成した川井浄水場を経由してこの西谷浄水場に至り、増強された野毛山浄水場に下っていったのであろう。

○現在の西谷浄水場のネットワーク
横浜市の水道施設の紹介ページにある「水道施設フローシート図」によれば、現在西谷浄水場には道志川系の水が、川井浄水場の「接合井」>「着水井」を経て西谷浄水場の「着水井」に繋がる他、昭和22年(1947)完成の相模湖系の水が川井浄水場の「着水井」を経由し「着水井」に、また、昭和53年(1978)年完成の丹沢湖の水を水源とする企業団酒匂川系が相模原浄水場を経由しこの浄水場の「配水池」に繋がり、西谷浄水場からは野毛山新配水池、南の峰配水池などへと下っているようである。

横浜環状2号・主要地方道17号
西谷浄水場から導水路を追っかけることにする。25000分の一地の地図を見ると西谷浄水場から破線が丘陵下の「陣ヶ下渓谷公園」の南端に続いている。浄水場からのラインは、横浜FCの練習場入り口の北側の坂道から出ている。坂道を下ると環状2号・主要地方道17号に当たる。横浜市の中心部を取り巻き、高速道路や幹線道路を繋ぐ。起点は磯子区森三丁目、終点は鶴見区上末吉5丁目である。

みずのさかみち

高架となっている横浜環状2号を潜り、水路破線の続く「陣ヶ下渓谷公園」の南端に向かう。と、巨大な導水管が現れる。前述の「水道施設フローシート図」には川井浄水場の着水井から西谷浄水場の着水井には口径1100mmの導水管が続いている。その導水管であろうか、ともおもうのだが、それにしてはもう少し大きいように思う。
「水道施設フローシート図」を再度チェックすると、企業団酒匂川系統の送水管は口径2000mmとあった。その系統の送水管かもしれない。実際、横浜市水道局の「各水源の主な給水区域」を見ると、西谷浄水場から南の保土ヶ谷区、北の神奈川区北部、鶴見区は「企業団酒匂川系統の水」となっている。
それでは、創設期の「浜水道みち」の系統である道志川系の送水管はどこを通っているのだろう。普通に考えれば、創設期の「浜水道みち」は相鉄・鶴ヶ峰駅から相鉄線に沿って相鉄・西谷駅、上星川駅へと続いている。このルートに埋設されているのだろうか。

新幹線と交差
「みずのさかみち」を上り、住宅街を進み西原団地入口交差点、くぬぎ台団地交差点に。この交差点の西は旭区となる。道なりに進むと下り坂になり、新幹線の路線が見える手前で、再び巨大な導水管が一瞬姿を現し、新幹線を越えた坂を上ると再び水路は地中に潜る。ルートから考えれば酒匂川系統の送水管かと思う。

新幹線を越えたところには如何にも水路施設といったコンクリート構造物が2つ並んでいた。




相鉄・鶴ヶ峰駅
道なりにすすむと相鉄・鶴ヶ峰駅。いつだったか鎌倉街道中ノ道を辿り、横浜線・中山駅から戸塚まで歩いた時に訪れて以来の駅である。駅前に建つ高層ビルを見やりながら道なりにすすむと、「鎧橋と帷子川」の案内と、その横に「水道みち トロッコの歴史」の案内があった。

鎧橋と帷子川
「鶴ヶ峰公園のこのあたりは、古くは帷子川として流水をたたえたところですが、 河川改修により埋め立てられ誕生しました。鎧橋は、明治時代に横浜水道敷設のために造られた水道みちと帷子川が交差していたこの場所に架けられました。 当初、木で造られていた橋は、時代とともに架け替えられながら永く親しまれてきましたが、 平成15年の道路改修工事によりはずされました。 鎧橋という名の由来は定かではありませんが、一説には、 やや上流の旭区役所付近に「鎧の渡し」と呼ばれた渡し場があったことから名づけられたといわれています(旭区役所)」、と。





「水道みちトロッコの歴史」の標識・19番目
「この水道みちは、津久井郡三井村(現・相模原市津久井町)から横浜村の野毛山浄水場(横浜市西区)まで約44kmを、 明治20年(1887)わが国最初の近代水道として創設されました。 運搬手段のなかった当時、鉄管や資機材の運搬用としてレールを敷き、トロッコを使用し水道管を敷設しました。 横浜市民への給水の一歩と近代消防の一歩を共に歩んだ道です(横浜市水道局)」。
この案内には「三井用水取水口からここまで35キロ」とも記されている。26か所に建てられているトロッコ道案内の19番番目の標識である。


送水管埋設標
これら二つの案内の横に茂みがあり、そこに「送水管埋設標」と書かれた色褪せた案内があった。その時は何気なく写真に撮っておいたのだが、このメモをする段階でよくよく見ると「管種 2000mmダグタイル鉄鋳管 土被(どかぶ)り 15.52m 神奈川県内広域水道企業団」とあった。先ほど「みずのさか」の送水管のところで、「水道施設フローシート図」をもとに、その送水管は酒匂川系の送水管では、と推測したのだが、この案内によってほぼその推測は間違いないだろうと思う。とりあえず写真は撮っておくものである。



二俣川合戦の地・吾妻鏡 畠山重忠公終焉の地
先を進み鶴ヶ峰駅入口交差点に。この地で二俣川が帷子川に合わさる。その「ふたつの川が合わさる帷子川左岸に「二俣川合戦の地・吾妻鏡 畠山重忠公終焉の地」の案内。竹の植わる一隅に「さから矢竹の由来」。
案内には「鎌倉武士の鑑、畠山重忠公は、この地で僅かの軍兵で、北條勢の大軍と戦って敗れた。公は戦死の直前に「我が心正しかればこの矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」と、矢箆(やの)二筋を地に突きさした。やがてこの矢が自然に根付き年々二本ずつ生えて茂り続けて「さかさ矢竹」と呼ばれるようになったと伝えられる。
このさかさ矢竹も昭和四十年代の中頃までは、現在の旭区役所北東側の土手一面に繁っていたが、その後すべて消滅してしまった。この度畠山重忠公没後八百年にあたり、ここにさかさ矢竹を植えて再びその繁茂を期待いたします。(平成十七年六月ニ十二日 横浜旭ロータリークラブ)」、とあった。

○畠山重忠と二俣川の合戦
畠山重忠は頼朝のもっとも信頼したという武将。が父・重能が平氏に仕えていたため、当初、平家方として頼朝と戦っている。その後、頼朝に仕え富士川の合戦、宇治川の合戦などで武勇を誇る。頼朝の信頼も厚く、嫡男頼家の後見を任せたほどである。 頼朝の死後、執権北条時政の謀略により謀反の疑いをかけられ一族もろとも滅ぼされる。二俣川の合戦がそれである。
きっかけは、重忠の子・重保と平賀朝雅の争い。平賀朝雅は北条時政の後妻・牧の方の娘婿。恨みに思った牧の方が、時政に重忠を討つように、と。時政は息子義時の諌めにも関わらず、牧の方に押し切られ謀略決行。まずは、鎌倉で重忠の子・重保を誅する。ついで、「鎌倉にて異変あり」との虚偽の報を重忠に伝え、鎌倉に向かう途上の重忠を二俣川(横浜市旭区)で討つ。
討ったのは義時。父・時政の命に逆らえず重忠を討つ。が、謀反の疑いなどなにもなかった、と時政に伝える。時政、悄然として声も無し、であったとか。 その後のことであるが、この華も実もある忠義の武将を謀殺したことで、時政と牧の方は鎌倉御家人の憎しみをうけることになる。
「牧氏事件」が起こり、時政と牧の方は伊豆に追放される。この牧の方って、時政時代の謀略の殆どを仕組んだとも言われる。畠山重忠だけでなく、梶原景時、比企能員一族なども謀殺している。で、最後に実朝を廃し、自分の息子・平賀朝雅を将軍にしようとはかる。が、それはあまりに無体な、ということで北条政子と義時がはかり、時政・牧の方を出家・伊豆に幽閉した、ということである。

矢畑・越し巻き
先に少し進むと道の左側のちょっと入り込んだところに「矢畑・越し巻き」の木標。二俣川合戦で、北条勢の矢が、このあたり一面に無数に突き刺さり、まるで矢の畑のようになったことから「矢畑」、と。「越し巻き」の由来は、重忠が取り囲まれた故との説、とか、、その矢が腰巻きのようにぐるりと取り巻いたという説など、あれこれ。

今宿地区
帷子川に沿って「横浜水道みち」を進む。16号・八王子街道の一筋南の道筋である。鶴ヶ峰本町を抜け「今宿」地区に入る。水道みちの北側から川筋が合流する。これは帷子川の旧流路。洪水対策で直線化工事がなされたのであろう。先に進み、蛇行する旧流路にかかる「清来橋」の先の帷子川に擬宝珠が載る橋がある。地図を見ると橋を渡った左手に清来寺。ちょっと立ち寄るも、工事中で山門を潜っただけで元に戻る。
○清来寺
浄土真宗。開山は建治元年(1275)。もとは厚木にあったとのことだが、寛永年間(1624~43)にこの地に移った、と。この寺さまにはが所蔵する「夏野の露」という巻物があり、江戸時代末期のこのお寺様の住職が畠山重忠公の武勇をたたえるために編集したものとのことである。





「水道みちトロッコの歴史」の標識・18番目
水道みちに戻り、今宿団地前交差点を越え水道みちが旧帷子川を越える辺りの緑の中に「水道みち トロッコの歴史」の標識。三井用水取水所より3キロ」とあった。
また、その傍に「送水管埋設標」も。口径は2000mm。前述の埋設標と同じだが、土被りは32.53mとあった。地表から32mもの地中に埋設されているのだろうか。この送水管は神奈川県内広域水道企業団とあり、前述送水管と同じく酒匂川系の水のネットワークであり、水道みちとは基本道志川系のものであり、ということは、この下にはふたつの水系のふたつの送水管が埋設されているのだろうか。

八王子街道と中原街道が交差
先に進み筑池交差点で国道16号・八王子街道を越え、国道の北に二筋ある道の北側の道を進み中原街道とクロス。中原街道を越えると、今宿地区を離れ川井地区となる。
これはメモの段階でわかったのだが、八王子街道の北を進む二筋のうち南側の道筋が「横浜水道みち」であり、中原街道を越えてすぐの「都岡町内会館の辺りに17番目の下川井の「水道みちトロッコの歴史」の標識があったようだが見逃した。



川井宿町交差点
道を進むとズーラシア(動物園)辺りを水源域とすると思われる小さな水路を越えて進むと八王子街道・川井宿交差点に合流する。
先ほどの今宿もそうだが、この川井宿も、その「宿」という文字が気になる。チェックすると、今宿も川井宿も八王子街道や中原街道のクロスする地につくられた簡易な「宿」であったとか。簡易な「宿」と言う意味合いは、東海道など五街道に設けられた本格的な宿ではなく、近隣の農家が「宿」を提供した程度のようである。
○八王子街道
八王子街道は昔の浜街道とも神奈川往還とも、また絹の道とも呼ばれる。絹の道と呼ばれた所以は、安政6年(1859)の横浜開港とともに生糸の輸出が増加し、生糸の集積地である八王子から横浜へと運ばれた。
いつだったか、鑓水の絹の道を歩いたこと思い出す。その時の絹の道のメモ:。絹の道とは、幕末から明治30年(1897)頃までのおよそ50年、この地を通って生糸が横浜に運ばれた道。八王子近郊はもちろんのこと、埼玉、群馬、山梨、長野の養蚕農家から八王寺宿に集められた生糸の仲買で財をなしたのが、この地の生糸商人。この地の地名にちなみ、「鑓水商人」と呼ばれた。 鑓水商人で代表的な人は、八木下要右衛門、平本平兵衛、大塚徳左衛門、大塚五郎吉など。が、結局、このあたりの生糸商人も、横浜の大商人に主導権を握られていた、とか。その後、生糸が養蚕農家のレベルから官営工場への転換といった機械化により、養蚕農家の家内制生糸業を中心とした商いをしていたこの地の、鑓水商人は没落していった、と。また、鉄道便の発達による交通路の変化も没落を加速させたものであろう。ちなみに、当時この街道は「浜街道」と呼ばれた。絹の道とかシルクロードって名前は、昭和20年代後半になって名付けられたものである。
経路は八王子から町田市相原まで進み、そこからは二つのルートがあった、とか。ひとつはおおよそ現在の町田街道を町田市鶴間まで、もうひとつは境川を渡り橋本、淵野辺、上鶴間から鶴間へと進む、おおよそ現在の国道16号に沿った道である。で、鶴間で合わさったふたつのルートは今宿を経由して横浜へと向かった。

○中原街道
これもいつだったか、六郷用水を歩いたとき、福山正治の『桜坂』で知られる大田区の桜坂にあった旧中原街道の案内をメモする。「中原街道は、江戸から相州の平塚中原に通じる道で、中原往還、相州街道とも呼ばれた。また中原産の食酢を江戸に運ぶ運送路として利用されたため、御酢街道とも呼ばれた。すでに近世以来存在し、徳川家康が江戸に入国した際に利用され、その後、部分改修されて造成された街道である。江戸初期には参勤交代の道としても利用されたが、公用交通のための東海道が整備されると、脇往還として江戸への物資の流通や将軍の鷹狩などにもしばしば利用された。 また、平塚からは東海道よりも近道だったため、急ぎの旅人には近道として好まれたという。中略(大田区教育委員会)」。
中原には将軍家の御殿(別荘)があったようである。上に「中世以来」とあるが、Wikipediaによれば、小田原北条氏の時代に本格的な整備が行われたようで、狼煙をあげ、それを目印に道を切り開いたとされるが、その狼煙台の場所として今宿南町、清来寺の裏山、上川井の大貫谷などが記録に残る、とか。 中原街道の経路は、江戸城桜田門(後に虎の門)から国道1号桜田通り、東京都道・神奈川県道2号、神奈川県道45号を通り平塚に向かう。また「中原街道」という名称も、江戸期に徳川幕府が行った1604年の整備以降であり、それ以前は相州街道あるいは小杉道とも呼ばれていたようである。

トロッコ軌道跡
川井宿町交差点の次の交差点、川井本町交差点の傍に歩道橋がある。その脇に八王子街道に沿って帷子川に架かる小さな人道橋があるが、その橋に横浜水道創設期の工事に遣われたトロッコの軌道が埋め込まれていた。英国のグラスゴ-から輸入された水道の鋳鉄管を現場に運搬するために遣われたものである。よく見なければ見逃しそうに人道橋に馴染んで埋もれていた。

上川井交差点
やっと本日のメーンイベントである大貫谷戸水路橋に近づいた。八王子街道を先に進み、福和泉寺前交差点を越え蛇行する帷子川を再び渡り神明神社のある宮の下交差点を越え、またまた帷子川を渡り直し、上川井交差点に。福泉寺前交差点付近に16番目の「水道みちトロッコの歴史」の標識とトロッコ軌道跡があったようだが見逃した。
上川井交差点から横浜身代わり不動尊方面へと北に向かい、細流となった帷子川筋へ少し下り若葉台団地入り口交差点に。交差点を北に進むと巨大な水路橋が見えてきた。大貫谷戸水路橋である。

大貫谷戸水路橋
左右の丘陵を繋ぎ、かつては自然豊かな谷戸ではあったのだろうが、現在は民家や畑地となっている一帯を跨ぐ水路橋はさすがに見応えがある。高さは23m、延長414m(鉄鋼水路302m)、深さ2.7m、幅2.2mの構造を緑にペイントされたトレッスル橋脚で支えている。この水路橋は送水管ではなく、鋼桁がそのまま水路となっているとのことである。成り行きで西側の丘陵に上り、水路橋脇から谷戸を跨ぐ水路橋をしばし眺める
。 水路橋の逆側には導水路が西へと続き、国道16号・八王子街道と国道16号・保土ヶ谷バイパスがクロスする手前で保土ヶ谷バイパスに沿って北西に向かい、ほどなく川井浄水場と繋がる。

この水路橋が出来たのは昭和27年(1952)のことと言う。明治20年(1887)、横浜市へと近代水道を創設するも、給水人口の増加にともない、明治34年(1901)に川井浄水場を造り、大正4年(1915)には先ほど訪れた西谷浄水場を造り、昭和16年(1941)には西谷浄水場の拡張工事を実施した。
しかし、戦後の給水需要には間に合わず、横浜水道創設期の道志川系統以外に水源を求めることになり、昭和22年(1947)には相模ダムを建設。この神奈川県で最初の大規模人造湖である相模湖に貯水した水を川井浄水場の接合井に流すことになる。
で、川井浄水場から「相模湖系」の水を西谷浄水場に送ることになるわけだが、当初口径の大きい(1350mm)管の敷設を計画するも、鉄管のコストが高く、鉄管による導水を諦め、「開渠方式」により川井浄水場から西谷浄水場に送水する計画に変更。
そのルートは従来の横浜水道みちのルートとは異なった、川井浄水場の「接合井」から3つの多摩丘陵の尾根道を繋ぎ鶴ヶ峰に進むもの。丘陵の間にはこの大貫谷戸水路橋の他、梅田谷戸(三保市民の森南端)、鶴ヶ峰(鶴ヶ峰中学脇)にも水路橋を設け鶴ヶ峰の接合井(後に工業用水用の鶴ヶ峰浄水場となる)に進み、丘陵を下り西谷浄水場の着水井へと繋げた。この間おおよそ7キロ。100mで6cm下る傾斜を自然流下で繋げた。流速は人の歩く速度ほどとのことである。この新水路の完成により、昭和36年(1961)に給水対照人口が120万人となる横浜市の水需要に対応した。
○トレッスル橋
トレッスル橋(Trestle bridge)とは、末広がりに組まれた橋脚垂直要素(縦材)を多数短スパンで使用して橋桁を支持する形式の橋梁で、一般には鉄道橋としての用例が多い。
トレッスルとは「架台」、あるいは「うま」のことで、これに橋桁を乗せた構造を持つ桁橋である。長大なスパンがとれないため、多数の橋脚を必要とするので河川や海上に建設するのには不向きだが、陸上橋とすればトータルとしての使用部材量が少なくて済むことが特徴とされる。 山岳地帯や、渡河橋へのアプローチとして川沿いの氾濫原を横断するため等の目的で、19世紀には木製のトレッスル(ティンバートレッスル)が広範囲に造られた。樹皮をむいた丸太をクレオソート油に漬けて防食性を増したものを垂直要素の主構造材(縦材)とし、これに材木を釘うちやボルト係合してブレース(横材)とするのが一般的であった。
20世紀に入り、比較的大きな線路勾配が許容されるようになり、また、トンネル技術が発達したことにより、トレッスル橋の必要性は減少した。 日本では、(中略)JR西日本山陰本線余部橋梁(余部鉄橋、餘部橋梁)が日本最長のトレッスル橋であったが、2010年(平成22年)7月16日で供用を終了して一部が解体された(Wikipediaより)。

川井浄水場
大貫谷戸水路橋を堪能し、最後の目的地である川井浄水場に向かう。国道16号・八王子街道の一筋北の道を進み、保土ヶ谷バイパスと交差する国道16号・亀甲山交差点から保土ヶ谷バイパスに沿って進み川井浄水場入口交差点に。交差点手前には大貫谷戸水路橋から川井浄水場へと繋がるコンクリートで囲まれた導水路が見える。交差点を渡ってその先を確認すると、導水路は川井浄水場に繋がっていた。

川井浄水場は現在工事中。従来、川井浄水場から道志川系の原水を西谷浄水場に導水管により送水していたが、将来構想として、道志川系の原水は川井浄水場に、相模湖系の原水は西谷浄水場で処理されることになるようだ。その計画に関連した工事であろうか。
○道志川系
前述「水道施設フローシート図」をチェックすると、道志川系は鮑子取水口>青山隧道>青山沈澱池>城山管路隧道>第一接合井>城山水路隧道>第二接合井>城山ダム水管橋>第三接合井>久保沢隧道>上大島接合井と進み1350mm,1500mmの送水管によって川井浄水場の「着水井」と繋がる。川井浄水場の「着水井」から西谷浄水場の「着水井」に1100mmの送水管が繋がっているが、この送水管が使用停止となるのだろうか。
○相模湖系
また、相模湖系の原水は西谷浄水場で処理されることになるとのこと。相模湖系の経路をチェックすると、津久井隧道>津久井分水地>相模隧道>下九沢分水池>横浜隧道>虹吹分水池>相模原沈澱池を経て川井浄水場の「川井接合井」と繋がる。その先は川井浄水場の「接合井」から「着水井」に向かい、そこから、1100mmの送水管で西谷浄水場の着水井と結ばれている。

このように道志川系・相模湖系が同居している川井、西谷浄水場を川井は道志川系、西谷は相模湖系にまとめるとのことだが、企業団酒匂川系の導水管も川井、西谷浄水場とも繋がっている(企業団相模川系は両浄水場とは繋がっていないように見える)わけだから、結構ややこしく、おおがかりな工事になるのだろう。
因みに、「水道施設フローシート図」を見ると。川井浄水場からは浄水場内の「配水池」を経て恩田幹線で「恩田配水池(青葉区榎が丘)」、三保幹線により「三保配水池(緑区三保)」、さらには牛久保配水池(都筑区牛久保)へと水が送られているように見える。
○鶴ヶ峰ルートの相模湖系
また、この構想にともない、従来相模湖系の原水を処理していた鶴ヶ峰浄水場は鶴ヶ峰配水池(仮称)を残して廃止することになり、今後川井浄水場で処理した水を鶴ヶ峰配水池へ送水するための送水管更新工事が行われるようである。現在川井浄水場の接合井からの相模湖系の水は、先ほど見た大貫谷戸水路橋のある水路を「鶴ヶ峰配水場(浄水場は廃止予定)」に向かい、鶴ヶ峰配水場の接合井から西谷浄水場の着水井と繋がっているが、今回の導水管更新工事の地図は、おおよそ横浜水道道の経路であり、鶴ヶ峰への尾根道ルートではないようだ。

川井浄水場の接合井に注いだ相模湖系のルートを更にチェックすると、接合井から着水井に進み、そこから1100mmの送水管で西谷浄水場の着水井と結ばれている。川合浄水場から西谷浄水場への相模湖系のネットワークは鶴ヶ峰の尾根道水路ルートだけではないようだ。
今回の導水管更新工の資料を見ると、現在川井浄水場を経て西谷浄水場へ原水を導水している既設の導水管の一部を整備し、川井浄水場から鶴ヶ峰配水池(仮称)への送水管として使用するための工事がおこなわれるようであるが、その工法は総延長約 6km の導水管に内挿管工法により新たな管を挿入するものとあり。その口径は1000mmとある。現在川井浄水場の着水井から西谷浄水場の着水井に繋がる送水管は1100mmとあるので、口径1100mmの送水管の中に1000mm 送水管を内挿管工法によって工事がおこなわれるのだろうか。

ここでわかったことと、わからなくなったことがそれぞれひとつ。わかったことは、川井浄水場からの1100mm送水管は横浜水道みちに沿って埋められているだろう、と思えたこと。西谷浄水場のところで、企業団酒匂川系統の送水管が「横浜水道みち」から離れて「陣ヶ下渓谷公園」から一直線に西谷浄水場に向かっており、道志川・相模湖系の送水管がどの道筋に埋められていたかわからなくなっていたが、送水管更新工事のルート図は「横浜水道みち」の道筋であったからである。
で、わからなくなったことは、それでは従来相模湖系の水を西谷浄水場に送っていた「鶴ヶ峰の尾根道水路ルート」はどうなるのか、ということ。従来通り、川井浄水場の接合井から水路を流れ西谷浄水場の着水井への流れ残るのだろうか。よくわからない。

○横浜市内の系統別配水地域
西谷浄水場、川井浄水場を訪れることにより、横浜市の水のネットワークも一端を垣間見た。上にメモしたように、横浜市の水は、創設時は道志川水系にその水源を求めた。その後昭和22年(1947)に完成した相模湖を水源とする相模湖系、昭和46年(1971)完成の相模川下流の取水堰よりの水を水源とする馬入川系、昭和53年(1978)年完成の丹沢湖の水を水源とする企業団酒匂川系、平成12年(2000)完成の宮ヶ瀬湖を水源とする企業団・相模川系など水源の拡大をも図り、県内8浄水場を経由し、市内23か所の配水池から各戸に送水され、400万人近い市民を潤している、とのことである。
大雑把ではあるが横浜市内の系統別配水地域をまとめておく。

□西区の全域、中区の大半、南区の大半、保土ヶ谷区の東部、神奈川区の南部、鶴見区の東部・南部、港北区の南部の一部・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・道志川系と相模川系

□南区西部、戸塚区の北西部、旭区の南東部、神奈川区の北部、鶴見区中央部、港北区の南部と北部、都築区の北部・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・企業団酒匂川系

□神奈川区の北半分、緑区の南部、旭区の東部・・・・相模湖系

□泉区のほぼ全域、戸塚区ほぼ全域、港南区全域、磯子区全域、栄区・金沢区のほぼ全域、瀬谷区東南部、旭区中央部・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・馬入川系と企業団相模川系

□青葉区・緑区全域、旭区北部、瀬谷区の大半・・・・道志川系と企業団酒匂川系

□港北区中央部、都築区南部、青葉区の一部・・・・・馬入川系と企業団酒匂川系

□栄区と金沢区の南部の一部・・・・・・・・・・・・・・・・・・企業団相模川系
まことに大雑把ではあるが、複雑に入り組んだ横浜の水のネットワークが少し実感できる。

田園都市線・南町田駅
本日のメーンイベントである大貫谷戸水路橋も堪能し、西谷浄水場、川井浄水場を訪れることにより、横浜市の水のネットワークも一端を垣間見た。また、大貫谷戸水路橋その経路チェックをした折に、大貫谷戸水路橋以外にも同一導水路上にふたつの水路橋があるとのことである。
次回は、この水路橋を見るべしと、川井浄水場から保土ヶ谷バイパスに沿って進み、東名高速をクロスし、最寄の鉄道駅である田園都市線・南町田駅に向かい、本日の散歩を終える。

火曜日, 7月 01, 2014

相模台地散歩Ⅳ;下溝の鳩川分水路から南に鳩川に沿って田名原段丘面を海老名まで

先回までの三回の散歩で、相模原台地の中位段丘面である田名原段丘面を流れる姥川と道保川が鳩川に合わさり相模川に注ぐ下溝の鳩川分水路、また下位段丘面である陽原段丘面を流れる八瀬川が相模川に注ぐ鳩川分水路の少し北辺りまで歩いた。
大雑把に言って三段からなる相模原台地を実際に歩き、高位・中位・下位の各段丘面の「ギャップ」などを実感したわけだが、この鳩川分水路のある下溝辺りで、中位段丘面である田名原段丘面と下位段丘面である陽原段丘面の「ギャップ」がはっきりしなくなり、というか、陽原段丘面が田名原段丘面に「吸収・埋没」されているように感じる。その田名原段丘面は下溝から南に細長く続き座間辺りで沖積面に埋没するようである。
それはともあれ、地図を見ていると鳩川分水路から南に鳩川が南下する。下溝で相模川に注ぐ鳩川は「分水路」であるわけで、理屈から言えば当たり前ではるのだが、分水路で終わりと思っていた鳩川が更に南下し海老名辺りで相模川に注いでいる。これはもう、最後まで鳩川とお付き合いすべし、と。
大雑把なルートを想うに、先回までの散歩で取り残した、当麻から先の八瀬川を相模川に注ぐ地点まで辿り、そこから鳩川に乗り換え海老名まで。下溝から南の田名原段丘面の崖線上は、当たり前に考えれば高位段丘面の相模原段丘面ではあろうが、座間丘陵が相模原面との間に割り込んで居る、というか、相模原面より古い時代の相模川の堆積によってつくられた丘陵地であるので、「先住民」として田名原面の東端を画す。相模川の堆積によってつくられた扇状地の平坦面が、開析され丘陵地形となった座間丘陵を見遣りながら鳩川を海老名まで辿ることにする。


本日のルート;相模線・原当麻駅>浅間神社>浅間坂>神奈川県営水道・桧橋水管橋>湧水>崖線坂に沿って八瀬川を南下>八景の柵>三段の瀧>八瀬川が相模川に注ぐ合流点>鳩川隧道分水路>鳩川>道保川緑地>左右に分かれる不思議な分水点>有鹿神社>勝坂遺跡>>長屋門>中村家住宅>石楯尾神社入口>勝坂式土器発見の地>石楯尾神社>勝源寺>庚申塔>日枝神社>四国橋>左岸用水路>伏越し>鷹匠橋>見取橋>はたがわ橋>大和厚木バイパス>宗珪寺>県立相模三川公園>横須賀水道上郷水管橋>有鹿神社>小田急・海老名駅

相模線・原当麻駅
相模線・原当麻駅を降り、南の県道52号に進み麻溝小学校交差点で左折し県道46号に。地図を見ると田名原段丘面(中位)と陽原段丘面(下位)とを画す段丘崖の途中に浅間神社がある。八瀬川に下るまえにちょっとお参り。
○陽原段丘面
因みに、上に「田名原段丘面(中位)と陽原段丘面(下位)とを画す段丘崖」とメモしたのだが、カシミール3Dで地形図で見る限りは県道52号から南は陽原段丘面(下位)はほとんど広がりはなく、崖線から八瀬川の間がかろうじて陽原段丘面として残り、八瀬川から西の水田は相模川の氾濫原と言ったもののように見える。地形図の中には田名原段丘面が直接相模川が相模川の氾濫原に接しているようなものもある。崖線から八瀬川の間しか段丘面が無いとすれば地形図には表示されないかもしれない。素人の妄想。根拠なし。

浅間神社
坂の途中に浅間神社。祭神は木花之佐久夜毘売命。正徳3年(1715)再建の棟札あり、という(『相模風土記』)。社はそれとして、この地の南側は城山と呼ばれ往昔「当麻城」があった、とのこと。西と南は相模川、東は沢(鳩川)の侵食谷に囲まれており、要害の地と見える。
○当麻城
当麻城は鎌倉時代初期、源範頼の家臣・当麻太郎がこの地に城を築いたと言われるが確たる証拠はない。戦国時代には北条氏の狼煙台が築かれ、津久井城とともに武田や上杉の攻略に備えたとのとこ。秀吉の小田原攻めの時は、当麻豊後守がこの城に立て籠もったとも伝わるが、北条氏の家臣に当麻氏がいたとの記録はないようである。現在はとりたてて明確な城の遺構が残っているようには見えないが、この浅間神社の辺りには郭があった、とも言われている。
○当麻太郎
鎌倉時代初期、源範頼の家臣。兄頼朝から謀反の嫌疑を受けた主人範頼の無実を晴らすべく頼朝の寝所に忍んだ(頼朝暗殺を企てたとも)。が、発覚し主人範頼は伊豆に流され殺される。当麻太郎は頼朝の娘・大姫の病祈願故に、罪一等を減ぜられ日向国島津荘に赴任する島津忠久(母は源頼朝の乳母である比企能員の妹・丹後局)に同行、鬼界ヶ島に流刑。頼朝死後、島津氏に仕え、新納院に住み、新納を称し武功をたてた、と。

浅間坂
浅間神社脇の浅間坂を下りる。鬱蒼とした斜面林である。道を下ると手書きの看板で「飄禄玉」の案内。坂を下りきった所にいくつもの貯水槽があり、地図には「中島養魚場」とある。飄禄玉(ひょうろくだま)は鯉、ます、鮎料理の店のようであった。

神奈川県営水道の桧橋水管橋
食べものに今ひとつフックがかからない我が身はお店をスルーし八瀬川に。そこにブルーでペイントされたアーチ型の水管橋。神奈川県営水道の桧橋水管橋であった。
この水管橋は、谷ケ原浄水場から来た北相送水管・中津支管(内径800mm)。北相送水管・中津支管は田んぼの中の道を相模川に架かる昭和橋の方へ向かい、昭和橋を水管橋で渡り愛川町の中津配水池へ向かう。
○北相送水管
この水管は神奈川県企業庁(神奈川県が経営する地方公営企業。住民の福利厚生を目的に税金ではなく、独立採算で運営される)がおこなう水道事業網の水管。県営企業団の水道事業は相模川水系の寒川や谷ヶ原で企業庁が取水した自己水源、そして酒匂川・相模川の水を水源とする神奈川県内広域水道企業団(神奈川県、横浜市、川崎市、横須賀市が昭和44年に共同で設立した「特別地方公共団体」)からの受水をもとに、湘南、県央、県北及び箱根地区など12市6町を給水区域とし、神奈川県民の約31パーセントにあたる約278万人に給水しているが、この水管はその水のネットワークの一環である。
□経路
経路は、相模ダムでの発電放流水を下流の沼本ダムで取水し、津久井隧道を経て津久井分水池(津久井湖から西に下る相模川が大きく南に流路を変える辺り)に導き、分水池で県営水道、横浜水道、川崎水道などに分水。県営水道に分水された水は、津久井分水地のお隣にある県営谷ヶ原浄水場で浄水され水道水となり、相模原、厚木、愛川町の45万人を潤す。
北相送水管の大雑把な経路は谷ヶ原浄水場から、相模川に沿って大島地区に下り、渓松園辺りから県道48号を大島北交差点まで進み、交差点から左に折れ北東に向かい六地蔵に。そこから南東に「作の口交差点」方向へと下り、この地で姥川を渡る。
姥川を渡った水路は南東へと南下を続け、虹吹、七曲をへて、途中相模原に分水しながら、下原交差点で県道52号に当たる。北相送水管は県道で右に折れて県道にそって進み、相模川を昭和橋で渡り中津工業団地当たりの中津配水池に到る。何気なく撮った一枚の水管写真から、神奈川の送水ネットワークの一部が見えてきた。ちょっとしたことにでも好奇心を、って成り行きまかせの散歩の基本を改めて想い起こす。

段丘崖下を八瀬川に沿って進む
崖線の斜面林を眺めながら八瀬川をくだる。崖線からの湧水がパイプ水管を通して流れ出す箇所もあり、ちょっと様子をと崖の坂を上下したりする、段丘面相互の比高差は30m弱もあるだろうか。 崖線に沿って下る八瀬川は、下溝の鳩川分水路辺りの整備された公園手前にある「新八瀬橋」あたりで崖線を離れ緑低木の中を相模川へと注ぐ。「新八瀬橋」辺りまでは水路に沿って歩く道がありそうだが、水路を離れ段丘崖上にあると言う「八景の棚」へと向かう。

八景の柵
段丘崖上に上り、県道48号を北に戻る。しばらく歩くと県道脇に細長く、誠にささやかな公園がある。そこが八景の柵であった。相模川、そのはるか彼方に聳える丹沢山塊が一望できる。八景とは「はけ=崖線」のこととも言う。 この地が景勝の地として知られるようになったのは、昭和10年(1935)、横浜貿易新報社による、「県下名勝45選」に当選したことによる。公園には当選記念の石碑も建つ。
記念の石碑といえば、公園の南端にいくつかの石碑。ひとつは「出征記念碑、慰霊塔」。昭和12年(1937)のシナ事変からの当地戦没者名を刻んだ慰霊碑である。もうひとつは「浄水の碑」。碑に刻まれた案内をメモする。
○浄水の碑
相模原市が首都圏整備法による市街地開発区域の指定をうけ 各種工場の進出と急激な人口の増加をきたしたが上段地域における市街化の急進展にひきかえ 麻溝地域は都市計画による地域指定もなく すべてにおいてなんらの恩恵にも浴せず かつての清流鳩川姥川は都市化のひずみをうけ 昔日の面影を失い 汚染甚しく日常の利用にさえ事欠く状態となった。
昭和三十六年この窮状を打解すべく 地域住民の願望を結集して地元市議会議員を中心に県営水道敷設の件を関係当局に陳情した。 水源に恵まれた当麻地区には簡易水道が設けられたが下溝原当麻芹沢地区は不幸にも取り残され 住民の困惑はその極に達した。
 越えて昭和三十八年十月にいたり県営水道敷設の議が整い関係地区住民の七二%に当る五百五十名が加入して「麻溝上水道組合」が結成された。
県営水道の敷設は将来の地域開発を考慮し配水本管は二万四千余米経費五千余万円の膨大なものとなった 巨額な資金は相模原市農業協同組合より役員の個人保証により借り入れ工事の促進が図られた 組合員もまたこの事業の趣旨を良く理解し月賦制度による円滑な返済をなし役員の労苦に応えた。 
待望久しかった本事業の完成により環境衛生の改善 消火栓の増設 学校給食 小中学校プールへの給水等その成果は地域開発の基礎をつちかい組合員の功績は高く評価されることと信じ ここに経過の大要を誌し永く後世に伝えるものである 麻溝上水道組合 組合長 小山右京撰書」とあった。

溝原当麻芹沢地区の利水事業の歴史が刻まれている。「芦沢地区」とは相模線・原当麻駅と無量光寺の間の台地上一帯の地。今回の散歩の最初に「神奈川県営水道・北相送水管の桧橋水管橋」に出合ったが、原当麻辺りのこの流路をトレースすると、国道129号「作の口交差点」から南東へと南下を続け、虹吹、七曲をへて、県道52号下原交差点に下った流路は県道で右に折れ、県道に沿って進み、八瀬川を跨ぐ桧橋水管橋を経て水田を進み、相模川を昭和橋で渡り中津工業団地当たりの中津配水池に到るわけで、芹沢地区を進んでいるように思える。この奈川県営水道・北相送水管事業のことを指しているようにも思えるのだが、根拠はない。
○さいかちの碑
「八景の棚」を少し北に進むと「さいかちの碑」。この碑は戦勝を祝って武田信玄が植えたとされる「さいかち」の木を記念したもの。「さいかち」は「さきがち(先勝ち)」を想起するから、とか。永禄12年(1569年)、北条攻めのため2万の大軍を率いた信玄は、まずは高尾駅北の廿里(とどり)合戦、滝山城攻めで北条氏照を破り、御殿峠、相原、橋本を経て、北条勢を迎え撃つべくこの地に陣を張ったようだが、この地に「さいかち」を植え、滝山攻めの戦勝を祝い、再びの戦勝を願い験を担いだと伝わる。
武田勢はこの後、小田原城に進軍するも北条勢は籠城。見切りをつけた武田勢が甲斐へと帰路、三増峠・志田峠で戦われたのが、日本三大山岳合戦と称される「三増合戦」である。戦いの地を三増峠志田峠韮尾根の台地へと辿った散歩を想い起こす。
因みに「さいかち」の寿命は80年程度とのことであるので、現在のものは何代目であろうか。


 三段の滝下広場
八景の棚を離れ、県道46号を南に戻り鳩川分水路に架かる新磯橋交差点に。鳩川分水路の周辺は「三段の滝展望広場」や「三段の滝下多目的広場」として整備され、各広場を繋ぐ散策路がつくられ、三段の滝下には滝見物用の人道橋も用意されている。
人道橋からの相模川の眺めも美しい。正面には、この辺りで大きく蛇行する相模川、川中の中州、対岸はるかかなたの丹沢の山塊、右に目を移すと八瀬川が下ってきた段丘崖線の斜面林、八瀬川と相模川の間を埋める田圃の広がりなど、結構な眺めである。神奈川八景とのブランドも頷ける。

三段の滝
三段の滝とは鳩川の水を相模川に逃がす分水路にあり、段丘上からの放水の水勢を弱めるため段差が造られているのだが、その段差が三段であることから「三段の滝」と呼ばれる。大雑把に言って三段の堰堤といったものである。この鳩川分水路は昭和63年(1988)に造られた。
ちなみに、分水路は新旧ふたつある。この鳩川分水路は「新」分水路であり、昭和8年(1933)につくられた「旧」はその南にある。

八瀬川が相模川に注ぐ地点に
ここで何となく八瀬川が相模川に注ぐ姿を見てみようと整備された公園の北端といった辺りにある「新八瀬橋」まで戻る。で、橋から八瀬川が相模川へと向かう水路を見下ろすも、とても快適に歩けるといったものではない。蛇も怖いし、橋から見る八瀬川の流れを見て、善しとする。
田名郵便局辺りの源流域とは言い難い風情、そのすぐ南のやつぼからの豊かな養水、大杉池系からの豊かな湧水、下水道が整備される以前の生活排水で汚れた水と清冽な湧水の流路を分ける八瀬川の中を平行に流れるふたつの水路など、源流域の姿を想い起こす。
○八瀬川
八瀬川(やせがわ)は、神奈川県相模原市を流れる延長約5kmの準用河川。相模原市上田名付近に源を発し、相模原市磯部上流のJR相模線下溝駅付近の新八瀬川橋よりすぐ先で一級河川相模川に合流する(Wikipediaより)。

鳩川隧道分水路
新八瀬橋から三段の滝下広場の人道橋を渡り旧鳩川分水路へと向かう。正式には「鳩川隧道分水路」。鳩川隧道分水路を上ると鳩川分水路と同様に、というか本家の三段の滝がある。分水路は昭和8年(1933)につくられた石組のものだけあって、コンクリート造りの新分水路より趣きがある滝、というか堰堤になっている。
旧分水路の緩衝滝の両脇には遊歩道が整備されており、その小径を進み新磯橋交差点から県道46号を分かれ、相模線の西を下る道路の下をくぐると隧道が見えてくる。これが鳩川隧道である。
古き隧道を見遣りながら県道46号を潜り鳩川分水路脇に出る。鳩川隧道分水路は県道46号、相模線下を潜り地中を進んでおり旧分水路の水路は見えない。

鳩川
段丘崖上に至り、左手に道保川を合わせた鳩川分水路の水路を見ながら進む。右手は窪地となっており、鳩川隧道の入口が見える。この窪地への水路は?鳩川分水路の少し南から水路が南に下る。これが、分水路を越え更に南に下る鳩川である。水路にそれほど水が流れてはいない。ブッシュで見にくいが鳩川から窪地に導水する水路もあるようではある。それにしても水が少ない。



道保川緑地
鳩川に沿って南にくだろうと辺りを見ると、道保川緑地との表示がある。道が先に続いているかどうか不安だが、とりあえず先に進む。と、道保川緑地の中を水路が続く。水路に注意しながら進むと水路は右に分岐し鳩川方向へ向かう。

左右に分かれる不思議な分水点
水路を進むと鳩川に合流。で、奇妙なことに水は合流点で左右に分かれ流れている。意図的にしているのだろうか?左手は鳩川の流れであるのでいいとして、右はどこに向かうのか気になって先に進む。と、水は窪地方向、鳩川隧道入口へと向かっていた。どうも鳩川隧道分水路の水源は、道保川緑地の水路のようである。
ここでちょっと疑問。道保川緑地の小川の水源はどこなのだろう?元に戻り逆に水路を戻ると道保川に突き当たる。が、水路と道保川は水位が大きく異なり、道保川から直接水を導水しているようには思えない。その時は鳩川か道保川からサイフォンで「伏越し」しているのだろうか、とも思ったのだが、メモするに際しチェックすると、道保川の少し上流に取水口といったものがあり、そこから取水しているようである。南下する鳩川の水源は道保川の水のようである。

鳩川を下る
道保川緑地の水路が鳩川に注ぐ地点まで戻る。これから鳩川を下る、といっても、その水源は道保川からの取水であるわけで、道保川と言ってもいいのでは、とは思うが、鳩川分水路が出来る前は分水路地点辺りで道保川の水を集めた鳩川が南に下っていた、ということであろう。
それにしても、ここに分水路を通す、ということは鳩川って、姥川や道保川の水を集めた結構な「暴れ川」であったのだろう。鳩川ハザードマップなどを見ると、洪水時の想定被害地はこの地から下流の相武台下、入谷駅辺りが0.5mから1m程の浸水が想定されており、三川が合流したこの下溝以南への水量を調節し相模川に吐きだしているのだろう。

県道46号
道保川緑地の深い緑の森を抜ける鳩川に沿って進み、大下坂交差点から下る車道に当たる。道保川の水路から養水された鳩川は水量も増え、鳩川分水点の始点とは趣を変え、水草が茂る水路となって下る。

「発見のこみち 勝坂(かっさか)案内マップ」
相模線の東を通る県道46号を進み、磯部八幡の東、磯部山谷地区、上磯部バス停の次の交差点から県道を離れ、鳩川の左岸に移り勝坂遺跡を目指す。
鳩川に架かる橋の北詰めに「発見のこみち 勝坂(かっさか)案内マップ」。案内を見ると、勝坂遺跡は「勝坂遺跡公園 勝坂遺跡D区」、「勝坂遺跡A区」に分かれている。「勝坂遺跡A区」には「縄文土器発見の地」が表示されている。また、案内マップには「ホトケドジョウ」「有鹿神社」とか「石楯尾神社」といった今までの散歩で出合っていない社などもある。勝坂遺跡もさることながら、縄文遺跡の近くに祀られる「有鹿神社」とか「石楯尾神社」って、如何なる社か、好奇心に俄然フックが掛かる。

ホトケドジョウ
案内から緑の中に敷かれた木道を進むと「相模原市塘登録天然記念物 ホトケドジョウ」の案内。「ホトメドジョウは日本固有種で、本州、四国東部に分布し、流れのゆるやかな細流に生息する魚です。かつては市内の各地の細流でよく見られましたが、生息環境の悪化により、今では限られた場所でのみ生息しています。国、県ともに、絶滅が危惧される生物とされています」とあった。この辺りの湿地に生息しているのだろうか。

有鹿神社
成り行きで進むと、深い照葉樹林の中に小さな鳥居と、誠に小さな祠。鳥居の手前には丘陵奥からの湧水の水路が通る。案内もなにもないのだが、これが有鹿神社奥宮であった。因みに先ほどの「ホトケノドジョウ」はこの湧水の細流に生息しているとのことである。
Wikipediaによれば、「有鹿神社(あるかじんじゃ)は、神奈川県県央に流れる鳩川(有鹿河)沿いに形成された地域(有鹿郷)に鎮座する神社であり、本宮、奥宮、中宮の三社からなる相模国最古級の神社。「お有鹿様」とも呼ばれる。 相模国の延喜式内社十三社の内の一社(小社)で、相模国の五ノ宮ともされるが諸説ある。また、中世までは広大な境内と神領を誇っていた神社で、当時としては、まだ貴重な『正一位』を朝廷より賜っている。(中略)。現在、海老名の総氏神となっている。
○本宮
本宮は、神奈川県海老名市上郷に鎮座し、有鹿比古命を祀る。神奈川県のヘソ(中央)に位置しており、子育て厄除けの神様として有名で、神奈川県の全域から広く信仰を集める。境内は「有鹿の森」とされるが、松が1本もないため「松なしの森」ともいわれる。
○奥宮
奥宮は、本宮から北に6キロメートル程離れた神奈川県相模原市南区磯部の「有鹿谷」に鎮座し、有鹿比女命を祀る。鎮座地の傍は水源となっていて小祠と鳥居がある。また、東側の丘陵(有鹿台)には勝坂遺跡がある。
○中宮
中宮は「有鹿の池(影向の池)」とも呼ばれ、本宮から約600メートル(徒歩5分程)の位置に鎮座しており、有鹿比古命・有鹿比女命の2柱を祀る。鎮座地には小さい池(現在は水が張られていない)と小祠、鳥居がある。この池で有鹿比女命が姿見をしていたという伝承がある。
三社の位置関係は、本宮は鳩川の相模川への流入口域にあり、奥宮は鳩川の水源の一つにある。中宮は鳩川の中間地点の座間市入谷の諏訪明神の辺りにあったが、中世期に衰退し、海老名の現在地に遷座した。なお、鈴鹿明神社の縁起では、有鹿神と鈴鹿神が争った際、諏訪明神と弁財天の加勢により鈴鹿神が勝利し、有鹿神は上郷に追いやられたとされる。これが有鹿神社の移転の伝説となっている。
有鹿比古命
アリカヒコノミコト。『古事記・日本書紀』にはその名がみえない神で、太陽の男神といわれている。海老名耕地の農耕の恵みをもたらす豊穣の神として、海老名の土地の人々に篤く崇められてきた。農業・産業振興の神とされる。本宮と中宮で祀られている。
有鹿比女命
アリカヒメノミコト。『古事記・日本書紀』にはその名がみえない神で、水の女神といわれている。主な神徳は安産、育児など。奥宮と中宮で祀られている。

この小さな祠は相模で最古の社の奥宮であった。鳥居前を流れる湧水路を上流に辿ると「有鹿の泉」があるとのことだが、わかったのはこのメモをする段階。事前準備なしの成り行き任せの散歩の常、後の祭りとなってしまった。そのうちに訪れてみたい。
それはともあれ、この鳩川の水源のひとつでもある有鹿の泉からの湧水は、縄文時代には「貴重」なものであり、有鹿の谷の傍にある縄文時代の勝坂遺跡に住む人々により「聖」なるものとして祀られ、弥生時代にはじまった農耕文化とともに、鳩川流域にその祭祀圏が広がりその流域に中宮、相模川との合流する地点に本宮が祀られるようになったのだろう。なお、鳩川は有鹿河とも称されるが、これは、有鹿神社が祀られる鳩川流域一帯は、往昔有鹿郷と呼ばれた故であろう。また、その有鹿は、勝坂遺跡のある有鹿台より、「ヘラジカ」の骨が出土している故との説もある。
散歩の時は、この小祠が相模最古の古社などと思いもよらず鳩川から離れた中宮にお参りすることは叶わなかったが、鳩川散歩の最終地である相模川との合流点で有鹿神社本宮にもお参りでき、成り行き任せの割りには結構な結果オーライといった結果ではあった。

鈴神社と有鹿神社の争い
上のWikipediaに、「鈴鹿明神社の縁起では、有鹿神と鈴鹿神が争った際、諏訪明神と弁財天の加勢により鈴鹿神が勝利し、有鹿神は上郷に追いやられたとされる。これが有鹿神社の移転の伝説となっている」とある。なんのこと? チェックする。欽明天皇の御代(539~571)、座間市入谷の鈴鹿明神社は欽明天皇の御代、伊勢鈴鹿郷の神輿が相模国入海の東峯に漂着したので、里人が鈴鹿大明神として祀ったのが始まりという。実際は、伊勢鈴鹿郷の部族がこの地に進出。ために座間の先住部族は梨の木坂の神(現在の諏訪神社)に集結し、鈴鹿勢と対抗するも最後は和睦したと読む説もある。
ともあれ、座間の地に橋頭堡を築いた鈴鹿勢に対し、北から「有鹿の神」を祀る部族が攻め来る。が、それに対し鈴鹿・座間連合軍がこれを打ち破り、有鹿神は勝坂へ帰ることができず、やむなく上郷に住み着くことになったと言う(有鹿の谷に逃げ戻ったとの説も)。
ちなみに、現在伊勢には鈴鹿大明神という名称の社は見あたらない。いつだったか、鈴鹿峠を越えたとき、鈴鹿大明神を祀る片山神社に出合った。この社がこの地に来たりた鈴鹿の神であろうか。欽明天皇(聖徳太子の祖父)の御代といえば、蘇我氏、物部氏、大伴氏が覇権争をしている時期であり、伊勢の鈴鹿の神を奉じる部族がなんらかの事情で、相模川がつくり上げたこの豊饒の地に逃れてきたのではあろう。もっとも、数年前歩いた座間の湧水巡りの際、鈴鹿神社を訪れており、そのときのメモには、この地が鈴鹿王の領地となったとあった。鈴鹿王(すずかのおおきみ)の父は天武天皇の子である高市皇子。兄は長屋王という名族である。この辺りが落としどころかとも思い始めた。


史跡 勝坂遺跡公園・勝坂遺跡D区
有鹿神社の奥宮を離れ、勝坂遺跡公園に向かう。案内に従い進むと、広場があり、そこが「史跡 勝坂遺跡公園・勝坂遺跡D区」である。「史跡 勝坂遺跡公園案内図」には、「勝坂遺跡は、縄文時代中期(約4500~5000年前)の代表的な集落跡です。大正15年(1926年)に発見された土顔面把手(注;顔を表現した取っ手)付き土器などの造形美豊かな土器は、この時代を代表するもので、「勝坂式土器」として広く知られています。
この周辺には、起伏に富んだ自然地形、緑豊かな斜面林の樹林、こんこんと湧き出る泉など、縄文人が長く暮らし続けた豊かな自然環境が、今なお残されている。」とある。
広場の南端に竪穴式住居がふたつ見える。住居は予想以上に大きい。説明には柱は6本、竪穴の掘作で出た土の量は10トンダンプ4台分にもなるとのこと。復元された住居はふたつだけだが、50もの縄文住居が発見されている。
竪穴式住居の北の広場には、耐用年数10年程度の縄文住居の廃絶された住居の窪地(ゴミ捨て場に活用されたよう)、北と南の間の谷戸が埋まった埋没谷、縄文中期の終わり頃に登場した柄鏡の形に石を敷いた住居跡のレプリカなどがあるようだが、古墳にはそれほフックが掛からない我が身は遠く眺める、のみ。 それはともあれ、この勝坂遺跡D区は、昭和48年(1973年)の発掘調査で発見された集落の一部、勝坂遺跡D区(16,591平方メートル)が、昭和49年(1974)に国の史跡として保存され、昭和55年(1980)・59年(1984)に指定地が追加され、D区の面積は現在の19,921平方メートルといった広場となっている。
これは昭和47年(1972)、勝坂遺跡周辺に大規模な宅地造成が計画されたため、市民有志による「勝坂遺跡を守る会」が結成され、相模原市も県や国(文化庁)と共に試掘を行い、多数の竪穴式住居跡、土器や打製石斧を発掘することになった。その結果、造成工事は中止され、上記の如く国指定の遺跡にまでなったようである。

長屋門
勝坂遺跡D区を離れ、民家の間の道を南に下り、T字路に当たる。T字路脇にも案内マップがあり道を確認。東に少し坂を上り再びT字路を左折し、少し進むと長屋門がありその横に旧中村家住宅のの建物は並んでいる。共に中村家のお屋敷。まずは、道に面した長大な長屋門に。長さは20mほど。慶應年間(1865-1868)に建てられたもの。1階の一部は公開されているようではあったが、外から眺めるだけで十分であった。

旧中村家住宅
長屋門と同じ頃の建築物。1階が和風、2階が洋風といった和洋折衷の建物である。この中村家は勝坂遺跡と深い関係がある。土器が発見されたのは中村家の畑であり、それがきっかけで勝坂遺跡の調査が始まったわけである。旧中村家住宅の裏手が勝坂遺跡A区であり、その端に勝坂式土器が発見された場所がある。

石楯尾神社入口の石碑
道を北に進むと「石楯尾神社」と刻まれた神社入口の石碑。すぐそばに、阿闍羅(あじゃら)尊という文字が刻まれた庚申塔。その横には風雪に耐えた風情の石仏もある。金剛力士とも言う。阿闍羅尊は不動明王のことのようである。

勝坂土器発見の地
石楯尾神社に向かうと鳥居があり、その傍に道標があり, 石楯尾神社は直進、左方向は「勝坂土器発見の地」とある。石楯尾神社にお参りの前に「勝坂土器発見の地」に寄ることにする。
畑の脇道といった小径を進むと民家脇にひっそりと「勝坂土器発見の地」の案内があった。
案内によると、「勝坂遺跡は縄文中期の典型的な集落跡であり、わが国における考古学上の代表的な遺跡でもあります。また、本遺跡から出土した「勝坂式土器」は、縄文時代中期を代表する土器として、今日では全国的にその名前が知られています。
この土器は大正15年(1926)10月3日、考古学者大山柏氏が中村忠亮氏所有の畑地を発掘調査した際に、はじめて発見してもの。大山氏が土器を発掘した場所は現在正確にわかっていないが、地図に示した場所の近辺と推定されます。大山氏の発掘調査はわずか一日だけであったが、昭和2年(1927)年に刊行された調査報告書は今日的にみても精緻極まる大変豊かな内容をもつものであります。
その後、昭和3年(1928)には考古学者山内清男氏により時期区分の基準となる土器として「勝坂式」という土器型式名称が与えられ、勝坂遺跡は勝坂式土器の標式遺跡となりました。
「勝坂式土器」は、今から5000年前、縄文時代中期につくられたものですが、イラストの顔面把手のように彫刻的な把手や立体的な模様に大きな特徴が見られ、器形の雄大さや装飾の豪華さなど、その造形はいずれの土器形式に例を見ないものです」とあった。

土器発掘調査のきっかけは、この地出身の学生がこの地より多くの土器が見つかるため、サンプルとして2片を大山氏に手渡したこと。それを受け大山氏がわずか一日で多くの完形または復元可能な土器と大量の石斧、それと当時では類例の僅かな顔面把手を発掘した。土器の評価もさることながら、大量に出土した打製石斧から、原始農耕論が提唱されたことも考古学上、大きな話題となったようである。

なお、大山柏氏は、陸軍元帥大山巌の次男。明治43年に陸軍士官学校を卒業後、大正13年(1924)にドイツに留学するも、人類学や考古学を学び、退役後慶應大学で人類学講師となり、この発掘につながっていった。

勝坂遺跡A区
また、大山柏氏の調査地点周辺も勝坂遺跡A区として指定されている。平成17(2005)年の発掘調査で発見された集落の一部、磯部字中峰地区が平成18年に新たに追加指定され保存されてはいるが、一面の平坦地で特に地表に何があるわけもないように見える。

石楯尾神社へ
土器発見の地から元に分岐点に戻り。石楯尾神社に向かう。鳥居脇には鐘楼のお堂があるが朽ち果てている。山道といった参道を進むと狛犬や左手には小祠も見える。100段以上もあると思える石段を上りきると社があった。由緒でもなかろうかと彷徨うも、それらしきものは無し。勝坂遺跡や有鹿神社奥宮へと続く森に佇む社としかわからない。チェックする。
○石楯尾神社
Wikipediaによれば、石楯尾神社(いわたておのじんじゃ、或いは いわたておじんじゃ)とは相模国の延喜式内社十三社の内の一社である。この社に関しては論社が多く」とある。吾こそは「本家なり」と唱える社が7社もある、それも旧高座郡内に5社、旧愛川郡(後の津久井郡)に2社もあり、それも北は現在の相模原市緑区(旧藤野町)から南は藤沢市鵠沼神明まで散在している。どこが延喜式の石楯尾神社かとの決定打はないようだが、現在のところ最有力と目されているのは相模原市緑区名倉(旧津久井郡藤野町)の石楯尾神社とされる。 名倉の石楯尾神社の社伝では「第12代景行天皇の庚戊40年、日本武尊東征の砌、持ち来った天磐楯 (あまのいわたて)を東国鎮護の為此処に鎮め神武天皇を祀ったのが始まりとされる、また、この社には「烏帽子岩」という巨石信仰も伝わっている。
名倉の地は高座郡ではなく旧愛甲郡である。高座の縁起式内社が愛甲郡にあるのはちょっと変?チェックすると、往昔高座郡は相模川沿いに上流まで延びていたとの説があった。

翻ってこの地の石楯尾神社を見るに、祭神は大名己貴命(おおなむちみこと)、とか。創建年代は不詳。社殿は寛政12年(1800)と天保5年(1834)に再建、明治5年(1984)に改築されており、手水鉢は文久元年(1861)、弘化4年(1847)には灯籠が奉納されている。社の屋根は入母屋作りで仏式の建築様式。木鼻には彫刻がほどこされている、
また、社のある山を羽黒山と呼んだことから、明治のはじめまでは「羽黒権現社」と呼ばれていた、とも言われるようであり、延喜式の石楯尾とは異なるような気がする。いつの頃か村人が分祠したものであろうか。

勝源寺
石楯尾神社からの戻り道、右手に金属板葺き・入母屋造りの屋根をもつお寺様。畑地をショートカットし境内に。特に由緒などの説明はない。宝形屋根の鐘楼、薬医門などが建つ。
遺跡や古社のある地域のお寺さまであり、なんらかの「発見」がとも思いチェックする。曹洞宗のお寺さま。本尊は千手観世音菩薩(千手千眼観世音菩薩)とのことだが、それより堂内に祀られる青面金剛尊が養蚕の神として、相模で知られたお寺さまとのこと。
青面金剛尊と養蚕は普通に考えれば、どうも結びつかない。もう少々深掘りすると、明治の廃仏毀釈のご時世故のお寺さまの知恵が見えてきた。当時、養蚕で栄えたこの辺りの農家に、民間に拡がる庚申信仰をベースに「青面金剛尊が養蚕に御利益ある」とPR。青面金剛尊を六本庚申(手が六本あるから)とか千体庚申と呼び、陶製の「ミニチュア青面金剛」を1000体ほど用意。農民はその六本庚申を自宅に持ち帰り、養蚕期が終わるとお寺様に返した、と。現在でも幾つかの陶製六本庚申が残っている、とか。
で、この六本庚申は磯部や新戸・当麻・下溝・淵野辺・上鶴間地区とともに、現在の町田市や座間市・海老名市・愛川町・厚木市・伊勢原市にも拡がったようである。境内の庚申塔は御礼に奉納されたものではあろう(相模原市立博物館の資料より)。

庚申塔
勝源寺を離れ、長屋門の前の道を南に戻り、県道46号の新磯小学校入口交差点へと向かう。鳩川を渡り新磯小学校入口交差点脇に、正面に「青面金剛」と記され、台座には「三番叟」(さんばそう)を踊る三匹の猿が刻まれている石塔があった。相模原市立博物館の資料によれば、「相模原地区には庚申塔が200のあるとのことだが、そのうち80が、この磯部地区に集中する。それもその多くが明治5年(1872)に建立されているとのこと。
六本庚申と庚申塔の因果関係は確定されてはいないが、磯部の庚申塔は勝坂集落周辺の非常に狭い範囲に建てられていることや、集落の入口に当たる場所(二か所)に大きくて目立つ庚申塔があることは、これらの庚申塔が六本庚申を祀る勝源寺の位置を示す言わば道標の役割を果たしているかのようです。多くの庚申塔には「春祭」とも記されていて、おそらく明治5年の春に勝源寺において、青面金剛像を養蚕の神仏として祀る大きな祭りがあったことを表していると考えられます」とあったが、この石塔は勝坂地区への入り口であり、上記説明の庚申塔のうちのひとつではあろう。

○座間丘陵
ところで、勝坂地区の上の座間丘陵には広い軍用敷地が広がる。米軍のキャンプ座間と、敷地に同居する陸上自衛隊座間駐屯地である。この地には昭和12年(1937)に帝国陸軍士官学校が開設されるも、昭和20年(1945)、敗戦により米軍に接収される。その後横浜市にあった米軍施設を此の地に集約するため整備が計られ飛行場も有する巨大な敷地となっているが、現在は戦闘部隊は存在しない司令部のみの兵站基地となっている。
また、敷地内には陸上自衛隊の「中央即応集団司令部」が同居し,緊急時に即応すべく米軍と連携し、陸上自衛隊の部隊を一元的に運用する体制を整えている。 ○座間丘陵
座間丘陵は相模原面、中津原面、田名原面よりなる相模原台地の西端部、相模原市南部から海老名市にかけて分布し、相模原台地より海抜高度が高く、かつ相模台地より古い堆積面の開析が進み丘陵状になっている。相模原台地は5万円以上前に相模川によって形成されたものであるが、座間丘陵はそれより古く、約14~10万年前以前の下末吉期形成されたものとされる。
座間丘陵は座間市海老名市にかけて東西0.5~1km、南北9km南北に細長く分布する。旧両面はおおよそは90~50mの地表面高度をもち、5‰の傾斜で北から南へ傾斜する。


日枝神社
県道46号・新磯小学校交差点付近の20ほどの庚申塔群。上でメモした勝源寺関連の石塔ではあろう。そこから先は、県道を挟んで東、そして西と流れる鳩川に沿って歩く。県道46号新磯高校前交差点で県道の西に流路を変えた鳩川に沿って下ると、上新戸地区に日枝神社。コンクリートの明神鳥居。
境内にあった神社由来によれば、「磯部東町内の産土神日枝大神は 大山咋神を祭神として祀り 約百二十年前延文元年以前より山王宮として親しまれ また国土安泰家内安全 の守護神として氏子の崇敬をあつめ護持をされて参りましたが 正和二年再建の社殿が老朽化のため新らしく建立に決し 昭和五十四年九月着工  氏子共有地を処分しこれに充て 特志者奉納による鳥居その他境内諸設備と併せ十二月完成致しました 新社殿には総本宮である大津市坂本  日吉大社より大御霊を頂き奉遷されております」とあった。

左岸用水路が接近する
ゆるやかに蛇行する鳩川に沿って進み、左岸にある調整池を見遣り下新戸の「四国橋」。由来が気になるが不詳。更に先に進み、相模線・相武台下駅の東に到ると西から水路が合流する。この水路は左岸用水路である。

○左岸用水路
WEBにある『疏水名鑑』の「相模川左岸疏水(左岸用水路)」の案内をメモする。
■疏水の所在 神奈川県の中央部を南北に流れる相模川の左岸地域、相模原市・座間市・海老名市・寒川町・茅ヶ崎市の4市1町。703ha。
疏水の概要・特徴
昭和3年県営による用排水路整備の議が起こり、昭和5年、新磯町、座間町、海老名町、有馬村、寒川町、御所見村、小出村、茅ヶ崎町(現・相模原市、座間市、海老名市、寒川町、藤沢市、茅ヶ崎市)に及ぶ1,954ha余の水田にかんがいする用水路及び、排水施設の整備を目的とする県営相模川左岸用排水改良事業が施行されることとなり、初代管理者、当時の海老名村村長、望月珪治氏のもと、相模川左岸普通水利組合として発足し、地方農村技師、舟戸慶次氏が農業水利改良事務所長として設計にあたり、昭和7年2月新磯部村(現相模原市磯部)にて起工式を行い、資材、労力が不足する中9年の歳月と壱百萬円の巨費を要し昭和15年3月、20.2km余に及ぶ用水路と鳩川貫抜川永池川等の排水施設を完成させた。

相模川の左岸、相模原市より茅ヶ崎市に至る南北21キロメートル、東西0.5~4.0キロメートルの地域に県下でも屈指の水田地帯が広がっているが、これは左岸用水の完成に負うところが大きいと言う。江戸時代後期、上流部には、に、磯部村、新戸村など五つの村の水田に用水を引くために五ヶ村用水が造られたが、洪水・氾濫のたびに堰が壊され、また中・下流部は、排水設備が十分でなく、水田が冠水し甚大な被害を繰り返していた、とのことである。そのような状況を背景に、望月翁は近郷7か町村を集め相模川左岸普通水利組合を設立、管理者として、十数年にわたるかんがい用排水改良事業の完成に尽力したとのことである。

左岸用水の大雑把な経路
鳩川分水路の下流にある磯部頭首工より取水した水は、右岸用水と左岸用水に分けられるが、左岸用水は取水口から南東に一直線に相模線・相武台下駅まで下り、この地で鳩川に接近する。わずかの間鳩川と平行して流れる左岸用水は伏越し(サイフォン)で鳩川を潜り、その後は相模線に沿って南下。海老名辺りでは暗渠・緑道となり南下し、横須賀水道みちと大谷八幡宮の北でクロスし、更に南下。東明高速、東海道線を越し、目久尻川をコンクリート掛樋で越え寒川町の小動神社辺りに下り、中原街道を越え茅ヶ崎市に入る。その先にあるゴルフ場下を潜り、新湘南バイパスを越えて室田2丁目と高田3丁目の境にある高田バス停あたりまで下り、その先にある千ノ川に注ぎ終点となる。

伏越
相模線・相武台下駅の東で一部は鳩川に合流するも、左岸用水はしばらく鳩川と平行に、コンクリートで鳩川と区切られた水路を少し高い(数mほど)水位を保ち南に進む。
ほどなく相模原市域から座間市域に。その先に水路施設が見えてくる。水門巻上機もあり、鳩川への放水口もあるが、左岸用水は格子の間から吸い込まれてゆく。吸い込まれた用水は鳩川潜り伏越し(サイフォン)で鳩川左岸に吹き上げられ上述の如く南下する。

実のところ、散歩の時には、吸い込まれた用水が鳩川左岸に出るといったことは知らず、北西に向かって相模線の踏切方面へと続く水路を追っかけたりもしたのだが、水流が逆であるため、どこに出るのか戸惑っていたところである。地図をよく見れば鳩川左岸にも水路が見えるのだが、そのときは気がつかなかった。ちょっと残念。

鷹匠橋
鳩川に沿って進み、座間西中脇を下り鷹匠橋へ。鷹匠橋のひとつ北、西中学校の校庭が切れる辺りを東に進めば有鹿神社のあれこれに登場した、入谷の鈴鹿神社や諏訪神社がある。上にも簡単にメモしたが、いつだったか、っ座間の湧水を巡た時に鈴鹿神社も諏訪神社にも足を踏み入れていた。その時のメモ。 ○鈴鹿神社
「鈴鹿神社。伝説によれば伊勢の鈴鹿神社の神輿が海に流され、この地にたどりつく。里人は一社を創建しこの座間一帯の鎮守とした、とか。欽明天皇の御代というから、5世紀中ごろのことである。伝説とは別に、正倉院文書には天平の御代、この地は鈴鹿王の領地であったわけで、由来としては、こちらのほうが納得感がある、ような。鈴鹿王(すずかのおおきみ)、って父は天武天皇の子である高市皇子。兄は長屋王。ちなみに、「明神社」って、「明らかに神になりすませた仏」、のこと。権現=神という仮の姿で現れた仏、と同じく神仏習合と称される仏教普及の手法でもある」とメモしていた。上の有鹿神社と鈴鹿神社の争いのところであれこれ妄想したが、この地は鈴鹿王の領地であったということであれば、気分的には一見落着である。


排水路が合流
鷹匠橋を越え、鳩川に沿って進み水路から鳩川に注ぐ水は何処から?などとちょっと悩みながら相模線に接近する鳩川に架かる見取橋を過ぎると東から水路が鳩川に合流する。相模川の東を南下する左岸用水からの水かとも思ったのだが、座間警察署あたりから始まる排水路のようである。左岸用水とは相模線のあたりで立体交差し、この地で鳩川に合流する。

大和厚木バイパス
排水路との合流点で流路を西に変えた幡川は、県道51号に掛かる「はたがわ橋」を越えるとその流路を南西に変え国道246・大和厚木バイパスにクロスする。バイパスには近くに交差点や歩道橋が見あたらない。仕方なく鳩川にお掛かるバイパスの下を潜り抜ける。背を屈め、コンクリートつくりの傾斜面を恐々抜ける。




宗珪寺
バイパスを潜りぬけると鳩川右岸にピカピカのお寺さま。宗珪寺。伽藍とでも形容できそうな三門、鐘楼を兼ねた中門そして本堂が直線に並んでいる。地面はコンクリートや真新しい砂利が敷かれている。境内には特に案内はない。 チェックすると、このお寺様はこの地の南、中津川と小鮎川が相模川に合流する地点の左岸の河原口地区(河原口38)にあったものが、さがみ縦貫道(首都圏中央連絡自動車道)の建設用地に掛かり移転してきた、とか。鬱蒼とした森の中にあった古き堂宇は解体され、まったく新たにつくりなおされていた。それにしてもこの散歩だけでさがみ縦貫道絡みで改築・新築された寺社に3か所も出合った。

県立相模三川公園
鳩川に沿って進むと流路は県立相模山川公園の中に入ってゆく。相模三川公園はその名の通り、相模川、中津川、小鮎川の3つの川の合流点の上流につくられた公園。県立都市公園では初めての河川公園とのことである。広々とした芝生の公園の先にある相模川を隔てて丹沢山塊、大山が美しい。園内には鳩川に沿って遊歩道が整備されている。

横須賀水道上郷水管橋
公園から成り行きで鳩川が相模川に合流する地点へと向かう。鬱蒼と茂る森の脇の道を進むと右手に水管橋が近くに見えてきた。横須賀水道上郷水管橋である。
上郷水管橋は大正7年(1918)に完成した10連のプラットトラス橋。プラットハウスとは橋桁の構造の一種。柱と梁で出来た四角形の中に筋交いを入れ、三角形の組み合わせにすることで安定した構造となるが、これをトラス構造と言い、プラットハウスとは斜材を橋中央部から端部に向けて「逆ハ」の字形状に配置したものである。理屈はともあれ誠に美しい橋である。なお、この横須賀水道半原水系は、横須賀の軍備拡張にともなって明治45年(1912年)から大正10年(1921)にかけて建設されたものであるが、老朽化を以て平成19年(2007)に取水を停止している。
横須賀水道
「横須賀水道」でとは、横須賀の海軍工廠をはじめとする海軍施設や艦船の補給水とすべく建設されたものである。
Wikipediaによれば、「日露戦争後の軍備増強の結果、走水系統では供給が間に合わなくなった。海軍当局は、愛甲郡愛川町半原石小屋地区の中津川に取水口を設け、約53km離れた横須賀まで20インチの鋳鉄管を使用し、落差約70mの自然流下による半原系統の建設工事を1912年(明治45年 / 大正元年)に着手、1918年(大正7年)10月に通水開始した。(中略)
今日この水道管が埋設されている土地は横須賀水道道、横須賀水道路、横須賀水道みち、あるいは単に水道みちと呼ばれ、国土地理院の地形図にも「横須賀水道」として表示されている。ただし水道専用橋の上郷水管橋を始め、至る所で通行不能な場所が存在している。
半原系統の経路は、愛川町の宮ヶ瀬ダム近くにある半原浄水場から中津川沿いを通り、内陸工業団地のそばを経由して厚木市に入り、国道129号・国道246号をほぼ一直線に横切り、向きを変えて相模川を上郷水管橋で渡る。
海老名市に入るとアツギの敷地を切り取り海老名SAの北側(吉久保橋)を通り、綾瀬市まで起伏の上下に関わらずほぼ一直線に通り、藤沢市に入るといすゞ自動車の敷地内を通り抜けて、国道1号を越えるまで藤沢市内を再びほぼ一直線に通る。鎌倉市に入り由比ヶ浜駅の前を通り水道路交差点を過ぎたあたりから横須賀線と並走して逗子市を通り、横須賀市の逸見浄水場に至る。なお、この半原系統の取水は2007年(平成19年)より停止されている」とある。
説明を補足すると、走水とは京急・馬掘海岸駅近くの走水海岸の辺りにある湧水池。また、半原系統の取水は年平成19年(2007)より停止されている、とあるが、半原取水口、半原沈殿地や逸見浄水場は現存しており、大正10年完成の逸見浄水場内には、平成17年(2005)7月12日、国指定の有形文化財に登録された施設が残っている。

有鹿神社本宮
水管橋の南の森に有鹿神社本宮。道から直接社の境内に。古き社ではあるが、印象は結構あっさりした社。扁額に「有鹿大明神」とある拝殿にお参り。既に有鹿神社奥宮でメモしているので、だぶることもあるだろうが、神社にあった案内をメモする。
「主祭神 ;有鹿比古命・有鹿比女命。創建;詳細は不明。 有鹿神社は、相模国の最古の神社であり、しかも、海老名の誕生と発展を物語る総産土神である。はるか遠い昔、相模湾の海底が次第に隆起し、大地の出現をみた。縄文の頃より、有鹿谷にある豊かな泉は、人々の信仰の対象となった。この泉の流れ落ちる鳩川=有鹿河に沿って農耕生活が発展し、有鹿=海老名の郷という楽園が形成された。海老名耕地における農耕の豊饒と安全を祈り、水引祭が起こり、有鹿神社はご創建されるに至った。
奈良から平安初期まで、海老名耕地という大懇田を背景として、海老名の河原口に相模国の国府があった。東には、官寺の国分寺、西には、官社の有鹿神社が配置された。天智天皇3年(664)に国家的な祭礼を行い、また、延長5年(927)、延喜式の制定により、相模国の式内13座に列せられた。美麗な社殿と広大な境内を有し、また、天平勝宝8年 (756)、郷司の藤原廣政の寄進により、5百町歩の懇田も神領となった。神社の境内には、鬱蒼とした「有鹿の森」が茂る。松が1本もないので「松なしの森」ともいう。これは、大蛇となった有鹿様が大角豆の鞘で目に傷を負ったため、大角豆を作らず使わず、という伝承に由来する。
相模原市磯部の勝坂には、「有鹿谷」と呼ばれる聖地がある。樹木の繁る谷の奥には、有鹿窟という洞窟があり、そこから、こんこんと清水が湧き出ている。この水は、鳩川に流れ落ち、海老名耕地の用水となっている。そのかたわら、石の鳥居の奥に「奥宮」が祀られている。
谷の東側の丘陵(有鹿台)には、縄文中期の大集落の遺跡があり、国指定史跡「勝坂遺跡」となっている。また、谷には、4世紀頃の祭祀遺跡もある。水引祭は毎年4月8日と6月14日、海老名の本宮から有鹿谷の奥宮まで神輿が渡御し、有鹿大明神は2ヶ月余りの間、奥宮にとどまる。この祭りを『水引祭』『水もらいの神事』という。この祭りは、人々の穢を祓い清め、新しい生命をいただくものであり、現在では、農業を始め、すべての産業の祭りとなっている」とある。

少し補足すると、この社は相模国五の宮との説もある。鎌倉時代に神社の最高位である『正一位』を朝廷より賜っている。この時期の社殿は豪奢であり、有鹿神社の神宮寺である総持院と合わせると、十二の堂宇が立ち並び、境内も現在の社家駅近辺まで参道が延びるほど広大であった、とか。平安中期よりこの地に覇を唱えた海老名氏という鎌倉幕府の中心人物の強い庇護があったため、と言う。

実のところ、事前準備など無の散歩であり、この由緒書きで、勝坂の有鹿神社が奥宮であったといったことがわかったわけで、成り行きとはいいながら有鹿神社の奥宮と本宮はカバーできた。後は中宮をそのうち訪ねてみたいと思う。

海老名氏館跡
海老名氏の館は有鹿神社のすぐ南にあったようである。地名も「御屋敷」などと如何にもといった地名である。
海老名氏は横山党の流れ。治承四年(1180)の石橋山の戦いで平家方として戦うも、その後頼朝に与して功を挙げ、鎌倉幕府の御家人として取り立てられた。
建暦三年(1214)の和田合戦で、横山党は和田義盛方に戦いに敗れ、一時衰退。戦後しばらくして海老名氏は勢いを取り戻したとされるが、元弘三年(1333)の鎌倉滅亡に際して、海老名氏は新田義貞軍と戦い、再び勢力を失ったとされる。
永享十年(1438)の永享の乱では、鎌倉公方足利持氏に従い幕府管領の追討軍と戦う。持氏軍は早川尻での戦いに敗れ、海老名氏館の西にある海老名道場(宝樹寺)に退いた。その後持氏は鎌倉で自害したが、このとき海老名一党も捕えられ、自刃した。
この乱の終結により、海老名氏は壊滅したとみられるが、一族の生き残りが安房里見氏の武将の助けで海老名郷を回復し、厚木駅の東、中新田に屋敷を構えたとする伝承が残る。現在、屋敷跡の名残を残す遺構は何も残っていないようである。

鳩川が相模川に注ぐ
成り行きで由緒ある有鹿神社まで来たのだが、最終目的地である鳩川が相模川に注ぐ姿を見ていない。社を引き返し堤を歩くが、堤からは合流点を見ることができそうもない。iphoneで地図をチェックすると、堤から川床に入らないと三川公園から続く鳩川の流路が見えないようである。
で、堤から川床に下る道、そこには立ち入り禁止のサインもあったのだが、自己責任と失礼し、地図の流路を頼りにブッシュを彷徨い、鳩川が相模川に注ぐ地点を確認。本日はこれでおしまい。小田急線・海老名駅に向かい一路家路へと。