火曜日, 11月 27, 2018

面河渓谷散歩 そのⅡ;晩秋の頃、石鎚北壁の深い谷、仁淀ブルーの源流・面河渓谷に遊ぶ

面河渓散歩の第一回は,面河への道の道すがら気になったあれこれでメモを終えた。今回は面河渓のメモ。当日は常の如く事前準備無し。成り行き面河山岳博物館手前、石鎚スカイラインが右に折れる手前の駐車場に車を停め,取りあえず歩を進め面河山岳博物館脇にある面河渓散策図でおおよそのルーティング。面河散策ルートは面河山岳博物館がスタート地点であった。
まずは面河山岳博物館から始まる「関門コース」の遊歩道を進み、次いで「面河本流コース」へ。面河本流コースを遊歩道終点まで歩いた後は折り返し、「パノラマ台亀腹遊歩道コース」へと上る山道を経由し「鉄砲石川コース」を歩くことにした。

ルートは予定通りではあったが、そのメモの主眼は当初イメージしていた「紅葉の落ち葉の中をのんびり歩く」といったものとは違ったものになった。勿論、当日は左右に斧で削られたような岸壁が対峙する景勝・関門の渓谷、巨大な一枚岩の大岸壁・亀腹やいくつもの奇岩、開けた河原に敷かれたような一枚岩とも見える白い河床。面河渓を形づくるこれら地形・地質を見ながら、「こんな景観・渓谷はどのようにできたのだろう」と思いながらも、のんびりと散歩をたのしんだのだが、メモの段階でこの面河の景観は石鎚火山活動に伴う陥没カルデラ形成時の「賜物」であることを知った。面河の案内にある結晶片岩とか凝灰岩とか石灰岩とか、何のことやらさっぱりわからなかった岩層・岩質も、今から1500万年前に起きたこの石鎚の火山活動とそれにともなう陥没カルデラ生成の各プロセスを表すものであることもわかった。
門外漢の,それも少々付け焼刃の感は否めないが、景勝面河渓の散歩を地質・地層面の視点を交えてメモしようと思う。

本日のルート;
関門コース
面河山岳博物館>猿飛谷の出合>空船橋>通天橋
面河本流コース
五色河原>亀腹岩>面河茶屋>鶴ケ背橋>蓬莱渓>紅葉河原>第二キャンプ場>下熊淵>上熊淵>石鎚山登山口入り口の鳥居>熊淵橋>休憩所>虎ケ滝>苔の桟道
パノラマ台亀腹遊歩道コース
紅葉河原>パノラマ台の木標>玉
ねぎ岩>急な上り>尾根道>馬の背>亀腹展望台・石鎚山の展望>パノラマ台>隧道入り口・下山口
鉄砲石川コース
隧道>櫃の底>鉄砲キャンプ場>千段の滝>紅葉石>お月岩>兜岩>鎧岩>布引の滝

面河渓

石鎚スカイラインに折れる手前に関門駐車場
面河川に沿って進んで来た県道12号は、前方に面河山岳博物館が見える手前で右に折れ石鎚スカイラインとなるが、面河渓は面河山岳博物館方面へと直進する。事前準備がないため、どこが面河渓のスタートラインか不明だが、県道が石鎚スカイラインへと右折する手前にあった駐車場に車を停める。そこが関門散策コースの駐車場であった。
石鎚スカイライン
石鎚陥没カルデラ(『愛媛の地質』)
昭和45年(1970)開通。当初は有料道路であったが平成7年(1995)に無料開放される。上り口の標高は650m、終点の石鎚登山口ともなっている土小屋は標高1500m。18キロほどの区間を1000mほど駆け上がる山岳道路である。
『愛媛の地質;永井浩三(愛媛文化双書刊行会)』に拠れば、石鎚スカイラインは1500万年前に石鎚の火山活動によってつくられた石鎚陥没カルデラ内を10キロに渡り走り、陥没させた環状断層を3回横切っている、とする。同書に掲載のカルデラの周囲縁線と国道地理院2万五千分の一の地図を見比べると、面河渓に入ってすぐの猿飛谷を抜け、ご来光の滝の展望ができる長尾根展望台手前の金山谷でカルデラの周縁と石鎚スカイラインが合わさっている。地質の門外漢であり確証はないが、これらの箇所がその断層部だろうか。
「岩石鉱物鉱床学会誌「四国 石鎚陥没カルデラと天狗岳火砕流」
陥没カルデラはその径が7キロから8キロの円形状になっている。「岩石鉱物鉱床学会誌(第64巻第1号;1970年7月5日:吉田武義)「四国 石鎚陥没カルデラと天狗岳火砕流」にあった地質図によれば、その域は、東は石鎚スカイラインに沿って猿飛谷から金森谷、スカイラインから離れ番匠谷を横切り、北は鶴の子の頭から石鎚山の天狗岳、二の森、堂ケ嶺に至る稜線の北(鞍瀬川の源流部)を走り、西は堂ケ森西の六部峠から坂瀬川右岸の山稜を下り、南は坂瀬川の谷筋から面河渓の関門・猿飛谷を結んだ外縁に囲まれた一帯のようである。

面河山岳博物館
散策図(面河山岳博物館)
石鎚スカイラインを見遣り、直進すると面河山岳博物館がある。建物の手前に面河渓の散策案内図があり、ここではじめ本日の散歩のルーティングをする。面河散策ルートは面河山岳博物館がスタート地点であった。このまずは面河山岳博物館から始まる「関門コース」の遊歩道を進み、次いで「面河本流コース」へ。面河本流コースを遊歩道終点まで歩いた後は折り返し、「パノラマ台亀腹展望台」へと上る山道を経由し「鉄砲石川コース」を歩くことにした。
行きあたりばったりで来た面河散策ルートも決まった。散歩の前に面河山岳博物館にちょっと立ち寄り。石鎚参詣の動植物や岩石・地質に関する資料が常設展示されている。
猿飛佐助の碑
博物館の前に石碑が立つ。何気なく見ると「猿飛佐助の碑」とある。猿飛佐助って、子供の頃から真田十勇士のひとりとして馴染みの忍者である。何故この地に猿飛佐助の碑が?チェックすると思わぬ話が現れた。
立川文庫は明治から大正にかけ、講談速記をもとに刊行された文庫シリーズ。猿飛佐助は200冊近いシリーズの中に登場する人物である。実在の人物をンベースにしたものか、想像上の人物か定かではないが、猿飛佐助を生み出したのが文庫本を企画した一族の池田真繭子さん。愛媛県今治の出身であり、超人的ヒーローの名前を考えたとき、この地の猿飛谷に架かる猿飛橋を想い起こし、「猿飛」の名が生まれたとする。
誕生譚としてはよくできていると思うし、実際に博物館の上流、関門遊歩道の途中に「錦木の滝」をなす猿飛谷の上流に橋はあるが、空船橋とある。猿飛橋は石鎚スカイラインが猿飛谷上流を跨ぐところに架かってはいるが、そもそも明治や大正の頃に橋があったのだろうか。




関門コース■ 

面河山岳博物館の建物下の駐車場を抜け関門コースを歩く。未だ紅葉の残る散策路を5分ほど歩くと渓谷の右手に滝が見える。錦木(にしき)の滝と呼ばれるようだ。この滝は上述の猿飛谷から落ちているように思える。 錦木の滝 このあたりの渓谷は板状の節理をもつ白い岩壁が、斧で削いたように渓谷の左右に屹立し、仁淀ブルーで名高い仁淀川源流の面河川の清流と相まって美しい渓相を呈する。岩質は石英閃緑岩と言う。
猿飛谷
猿飛佐助の誕生譚はともあれ、錦木の滝が落ちる猿飛谷は前述の石鎚スカイラインのところでメモしたように石鎚陥没カルデラの周縁部にあたる、と言う。そして『愛媛の地質;永井浩三(愛媛文化双書刊行会)』の陥没カルデラの円形周縁部の説明に「安山岩の円形分布図の周縁部のうち関門付近で安山岩とその外側の結晶片岩とが断層で接している」と記す。
関門の渓谷美を形成する岩石は石英閃緑岩。上述書籍では「関門付近で安山岩と結晶片岩が断層で接する」、との記述。地質の門外漢にはなにがなにらやわからないので『愛媛の地質』をもとにちょっと整理してみる。
石英閃緑岩は花崗岩と同じカテゴリーと考えていいだろう。花崗岩は火山活動にともなう火成岩のカテゴリーのひとつ深成岩の代表的なものであり、地下のマグマだまりから地表に貫入したもののようだ。
安山岩も火成岩のもうひとつのカテゴリーである噴出岩であり、火砕流の堆積によってできたもの(石鎚の火砕流堆積物は安山岩とも(溶結)凝灰岩とも記されている)。 一方、結晶片岩は火成岩とは異なる変成岩のグループに属する。変成岩とは海底に堆積した泥や海底火山の噴出物が、1億年前頃に起きた地殻変動によって地下で押し込まれ、高熱と圧力で変成したものと言う。
これらの岩石を石鎚のケースに即し古い順から年代順に並べると、結晶片岩(変成岩)>安山岩(火成岩の噴出岩カテゴリー)>花崗岩(火成岩の深成岩カテゴリー)となる。
これを1500万年前に起きた石鎚の火山活動とそれにともなう陥没カルデラの形成に即してまとめると;
第一フェーズ;もともと石鎚一帯には結晶片岩を主とする変成岩の地層が分布していた。地下深所にあったものが、隆起により地表に現れ、変成岩の上にかぶさっていた他の岩層が侵食作用により削られた結果、変成岩が地表に現れたのだろう。
第二フェーズ;1500万年前、石鎚で火山活動が起きその火砕流が堆積し一面が安山岩や凝灰岩などの火成岩・噴出岩の岩層で覆われた
第三フェーズ;火山活動にともない500mほどの成層火山が出現するが、その後環状の割れ目ができ陥没カルデラが形成される
第四フェーズ;陥没地塊に割れ目ができ、そこに地下からマグマが貫入し花崗岩層ができた
これからわかることは陥没カルデラ周縁部の外は結晶片岩からなる変成岩の岩層、周縁内部の陥没カルデラは安山岩・凝灰岩(火成岩・噴出岩カテゴリー)で覆われ、その中に地下より貫入した花崗岩(火成岩・深成岩カテゴリー)がある、
ということだろう。
上述関門における、安山岩・結晶片岩・花崗岩の混在は、この地が陥没カルデラの周縁部であり、かつこの地に地下からマグマが貫入し花崗岩層を残した結果ということだろう。
と、自分なりには美しく整理できたと思ったのだが、『愛媛の地質;永井浩三(愛媛文化双書刊行会)』の地質図にも、「岩石鉱物鉱床学会誌(第64巻第1号;1970年7月5日:吉田武義)「四国 石鎚陥没カルデラと天狗岳火砕流」に掲載の地質図にも、関門のあたりに花崗岩層は描かれていない。花崗岩層はもうほんの少々上流に記されている。これって誤差の範囲?と思い込む。

空船橋
昭和2年の空船橋(面河山岳博物館)
錦木の滝から先に進み、空船橋を渡り左岸に移る。渓谷の幅は6mから25mほど。底の小石が見えるような浅瀬もあれば、水深6mほどの深い淵もあり、仁淀ブルーにも濃淡のバリエーションがある。
ところでこの空船橋、「えひめの記憶」には、「当時は、道など全くなく、がけをよじ、岩から岩へ跳び渡っての観光であったが、新しい景観が眼前に開けるたびに空船橋や蓬莱渓と名をつけ、今にその名が残っている」とある。これは先回のメモで、明治43年(1910)に地元の教員であった石丸富太郎氏の熱意に応じた『海南新聞』が文人・写真家など9名のメンバーでおこなった面河探索の折の記述であるが、その当時から木橋か吊り橋かといった「橋」が架かっていた、ということだろうか。面河山岳博物館主催の講座パンフレットには。昭和2年(1927)に撮影された空船橋が掲載されている。木橋で現在より少し下流との説明があった。少なくとも昭和初期には橋が架かっていたことは間違いないようだ。それはともあれ、左岸を進み通天橋に。石門遊歩道はここで車道に出る。

通天橋
通天橋は車道に架かる。通天橋の下流は岩壁が屹立する狭い渓谷と空船橋、上流は開けた川床に大きめの岩石が転がる。下流と対照的な渓相を呈する橋の上流で鉄砲石川が面河川に合わさる。その合流点辺りは「想思渓」と呼ばれる。
因みにこの通天橋は昭和30(1955)年頃架けられたものと言う。「えひえの記憶」に拠れば、昭和30年に石鎚山が国定公園に指定されることを受け、観光客の増加を見越しその前から面河渓周辺の自動車道及び林道の整備が急速に進んだとのこと。昭和27年(1952)に関門から五色河原(後述する)に抜ける林道工事が始まり昭和30年に完成。関門の遊歩道もこのときに造られた、と。
また昭和43年(1968)から44年にかけ、増大する観光客に対応するため関門から五色河原までの一部区間は倍の幅に広げられ、現在の車道となっている。

三つの隧道
通天橋まで歩き、先に車道が続くのを確認。峠のピストン歩きの習性故か、土径から車道に出ると即車を停めている場所に折り返す。車道を戻ると途中三つの隧道が抜けていた。昭和30年(1955)頃の林道整備に合わせ通したものだろう。

●面河渓開勝の碑
三つの隧道を抜けた先、道の山側に石碑が立つ。面河渓開勝の碑とあり、明治43年(1910)の面河渓探勝団の事績が刻まれていた。『海南新聞(後の愛媛新聞)』の後援のもと、詩人・画家・登山家・写真家からなる9名の踏査団がこの地を訪れ、その後十数回に渡り海南新聞紙上で面河の魅力を伝えた。これにより面河が世に知られるようになったと言う。
松山から黒森街道を徒歩で進み、面河渓では道なき道を崖をよじ登り、岩から岩へと飛び渡っての探査団の事績を刻んでいた。
石碑を読み終え、崖下の渓谷、岩場を進む遊歩道を見遣りながら面河山岳博物館に戻り、その先の関門駐車場で車をピックアップし、車道を通天橋方面へと走らす


面河本流コースの始点となる五色河原へと向かう。途中、通天橋を越え鉄砲石川が面河川と合流するあたりを「想思渓」と称するが、車道からは樹木に阻まれその眺めは見えない。面河本流に沿って車を走らせると、川に水路施設がちらりと見えた。

面河第一承水堰
当日は砂防堰堤かな、などと思いながらもそのまま通り過ぎたのだが、メモの段階でその施設が先回メモした面河ダムに水を送る承水堰であることがわかった。面河ダムは水の少ない瀬戸内側に、分水嶺を越えて仁淀川水系の水を 送り利水・発電に供するダムであるが、そこに貯める水は仁淀川水系の三つの支流からも水を送る。面河第一承水堰もそのひとつである。
承水堰には面河第二承水堰もあるとする。場所を特定する資料は見付けることができなかったが、国土地理院の2万五千分の一の地図には鉄砲石川にそれらしきものが見える。確証はないが、面河と言う名称からすれば鉄砲石川にあっても不思議ではないだろう。


面河本流コース

五色河原
車を進め五色河原に。岩と水と林が織りなす五色の綾がその由来だろうか。五色の綾もさることながら、一枚岩とも見える滑状の白い花崗岩の河床が広がる五色河原と、その背景に屹立する亀腹の大岩壁の眺めは誠に印象的な景観である。
車は成り行きで花崗岩の河床を跨ぐ低い五色橋を渡り面河川の左岸に移る。そこには国民宿舎面河と記した建物があったが、どう見ても営業中のようには見えない。建物前の駐車場に車を停め、散歩を再開する。因みに同宿舎は平成28年(2016)3月末をもって閉館したとようだ。

亀腹
五色橋に戻り眼前に聳える亀腹の第岩壁をゆっくりと眺める。結構な迫力である。高さ110m、幅200mと言う。岩壁の中央部に垂直に走る凹面を境に左右に分かれる大岩壁は、各中央部がビール樽のように少し膨れる。亀腹の所以であろう。
このような巨大な岸壁がどのようなプロセスで造られ、その岩層は何からできているのだろう。当日はその疑問だけが残ったが、メモの段階でその岩層について、ある人は溶結凝灰岩(火山灰や軽石といった火山噴出物の岩片が高温故に溶結したもの)と言い、またある人は花崗岩と言う。
凝灰岩とか花崗岩と言われても何のことのことかさっぱりわからず、前述『愛媛の地質;永井浩三(愛媛文化双書刊行会)』などをスキミング・スキャニングした「成果」が、既にそれらしくメモした石鎚火山活動であり陥没カルデラであり、面河周辺の結晶片岩・凝灰岩・花崗岩云々である。これら石鎚・面河の地質に関するメモのすべてのはじまりは、この奇岩・亀腹を見たときに感じた疑問からはじまった。
陥没カルデラの地層(『愛媛の地質』)
それはともあれ、前述メモの如く凝灰岩か花崗岩かによってその生成プロセスは真逆となる。凝灰岩であれば陥没カルデラに堆積した岩層が削られそして残ったものであろうし、花崗岩であればカルデラに地下のマグマが貫入しできたものとなる。
どちらが正解か門外漢には分からないが、『愛媛の地質;永井浩三(愛媛文化双書刊行会)』には亀腹は「石鎚火山活動の最後にできたカコウ岩類である。このカコウ岩類は石鎚カルデラ火山の入り込んだものである」とある。
陥没カルデラには標高500mほどの成層火山ができたとも言うし、また上述『岩石鉱物鉱床学会誌(第64巻第1号;1970年7月5日:吉田武義)』の「四国 石鎚陥没カルデラと天狗岳火砕流」に掲載されていた陥没カルデラの岩層図を見ても、この辺りは花崗岩層となっている。なんとなく亀腹の岩層が花崗岩かな、とも思えてきた。




鶴ケ背橋
五色橋を渡り面河川右岸に戻り橋詰めから面河川左岸を上流に向かう。すぐに出合う面河第一駐車場から川に沿って進むと渓泉亭・面河茶屋がある。このあたりは亀腹の真正面。改めてその迫力に魅了される。
面河茶屋の前を抜け少し進むと「鶴ケ瀬橋」が架かる。橋を右岸に渡り遊歩道を進む。橋を渡った先にも散策案内図がある。
渓泉亭
現在は食堂のみが営業しているが、「えひめの記憶」に拠れば、かつてここには昭和5年(1930)に建てられたモダンな洋館風の旅館・渓泉亭があったようだ。車も入れない「秘境」にモダンな旅館を建てたのは、後に面河村の村長(当時は杣川村)の進取の精神によるところが大きいとする。
昭和36年(1961)に伊予鉄道に買収されるなどの経緯を経て、昭和50年(1975)代に観光客数のピークを迎えるも、その後客数の減少にともない、旅館の営業はなく、現在食堂のみが残っている。

蓬莱渓
鶴ケ瀬橋の上流は蓬莱渓と呼ばれる。広い滑状の花崗岩の河床には発達した板状節理が見える。その上を清流が流れ落ちる。この辺りは「第一キャンプ場」と呼ばれるキャンプサイトとなっている。






紅葉河原
蓬莱渓から遊歩道を少し進むと「パノラマ台へ」と書かれた木標が立つ。亀腹展望台からパノラマ台へと続くハイキングコースの入口のようだ。本流コースを歩き終えこのコースに入ることにして先に進むと「紅葉河原」の木標が立つ。
紅葉の頃は少し過ぎており、足元に落ち葉として道一面に敷かれている。ちょっと残念。 渓層も五色河原や蓬莱渓の一面の滑床といった風情から少し異なり、花崗岩の河床に礫や岩が転がるものとなっていた。

下熊淵
遊歩道を進む。道の左手の山塊には発達した節理を持つ大岩が続く。見飽きることがない。メモの段階であらためて写真を見ると、山塊の岩層は凝灰岩と言うより花崗岩のような気がしてきた。と言うことは亀腹もその岩層は花崗岩である、ということになりそうだ。
ほどなく「下熊淵」と書かれた木標。紅葉河原の開けた河床と異なり、下熊渕は狭い渓谷となりS字に曲がる河から滝が落ち深い淵を造っている。
熊が口を開けた姿に似た岸頭故の命名とするが、遊歩道からそれを実感することはできなかった。

上熊淵
下熊淵からおよそ30m歩くと上熊淵の木標。上熊淵は木標からの眺めより、下熊淵から上熊淵に向かう途中で左手が開けた箇所に現れる、左右が迫る渓谷と淵の景観、それが上熊淵だろうと思うのだが、その眺めのほうがいいように思う。

石鎚登山口
上熊淵からほどなく「石鎚登山口」の標識。信仰のお山故か、登山口には鳥居が建つ。登山ルートは標高1,525mの面河山の尾根道に上り、御来光の滝を下る面河川の源流域を右手に身ながら、稜線を進み標高1982mの石鎚山天狗岳に向かうようだ。 この辺りの標高は780mほどであるから、比高差およそ1,200m上ることになる。このルートは往昔、石鎚の裏参道と称されたようである。
ちなみに現在は、北からはロープウエイで石鎚中腹の成就社(標高およそ1400m)まで行きそこから上れるし、南は石鎚スカイラインの終点土小屋(標高1500mほど)から石鎚に登れる。
表参道
この地から石鎚に上る裏参道ルートに対し、表参道ルートは加茂川の谷筋の集落である河口から今宮道を成就社に上り、そこから石鎚天狗岳を目指すことになる。いつだったが、その今宮道を三十六王子社を辿りながら上ったことがある。標高200mほどの河口から標高1,400m上ることになるのでその比高差は、裏参道ルートと「ほぼ同じ1,200m。4時間半ほどかかっただろうか。結構きつかった。
成就社から石鎚天狗岳までは通常3時間ほどといったものだろうが、これもいつだったか真冬に雪の石鎚に上ったことがある。凍える寒さの記憶が残る。

熊淵橋
遊歩道は熊淵橋を渡る。橋へのアプローチ、橋の架かる渓谷の仁淀ブルーの美しい水、そして淵に水を落とす白い花崗岩の奇岩。亀腹とともに印象に残る景観であった。



水呑の獅子
左岸に渡ると「水呑の獅子」と書かれた木標。指す方向からすると、熊淵橋から見た淵に水を落とす箇所の、白く、また得も言われぬ形状を示す奇岩のようだ。獅子には見えないが誠にいい姿の岩であった。

虎ケ淵
遊歩道を進むと「虎ケ淵」と書かれた木標。少し離れた先に切り立った岸壁に挟まれた渓谷に、滝と淵が見える。そこが虎ケ淵だろう。少し遠くではあるが節理をもつ岩肌に樹木・草木が着生した大岩壁に惹かれた。




苔の桟道
遊歩道はその先のブルーシートが置かれたところで通行止め。と、右手に木が敷かれた道が崖を高巻きしている。ここが苔の桟道かと思う。桟道を少し進んだが、案内図には遊歩道としてはこの辺りが終点とあり、当日も道が荒れ気味となったところで引き返したのだが、その先もルートは続き、山肌に取り付いた桟道を経て九天の滝や霧ケ迫滝を経て御来光の滝へと向かうようだ。面河古道とも称されるよう。
今回は面河渓散策、ということで桟道を少し進んだところで「本流コース」散策を終え、「パノラマ台」への木標地点に引き返すことにした。




御来光の滝
落差100m、日本の滝100選にも選ばれている御来光の滝へは、面河渓谷を遡るルートのほかに、長尾根展望台傍のカーブミラーのところから、比高差300mの面河渓に下りるアプローチ、もある。この夏鮎釣りの知人を案内し下りたトラックログを参考のため掲載しておく。


パノラマ台亀腹遊歩道コース

「パノラマ台」の木標
紅葉河原辺りまで引き返し、「パノラマ台」の木標から山道に入る。紅葉の少し残る山道を上ると倒木が道を塞ぐ。お気楽にこのルートに入ったのだが、結構な山道。比高差200mほど上り、面河山から落ち面河川と鉄砲石川を分かつ山稜の尾根道まで引っ張られることになった。

天然ひのきの大木
15分歩き、尾根筋に。標高は920mほど。道を上り切り、下りになるところに天然のひのきの大木が立っていた。標識は何もなく、ルートはちょっとわかりにくいが、ひのきの大木辺りから成り行きで尾根に沿って道を下ると、左右に渓谷を見下ろす馬の背といった尾根筋に出る。
イメージでは展望台は山道を上り切ったところにあるだろうと思っていたので、展望台をやり過ごしたのか、ちょっと不安になる。また左右が切り立った崖となる馬の背は、高所恐怖症のわが身には少々きつい。

亀腹展望台
天然ひのきのから10分ほど尾根筋を下り、このまま山からおりてしまうのだろうかと、少し不安になった頃、道脇に「亀腹展望台」と書かれた木標が現れた。運よく見付けたものの、辿ってきたルート側からは見落としそうに思える。
標高886m辺りにある展望台からは面河山の稜線が見える。石鎚天狗岳はその稜線の向こうから顔を出しているはずなのだが、ちょっと分からなかった。
深い面河の谷も印象に残った。当日はその深い谷に御来光の滝があるのだよな、といった感慨ではあったが、メモの段階で石鎚陥没カルデラとしての面河の谷を知ることになり、同じ写真を見ても、少し違った「景色」が見えて来た。
展望台からは面河川を隔ててその先に冠山(標高1881m)らしき山、そして鉄砲石川谷筋の白い岩壁などの眺めが楽しめる。

パノラマ台
亀腹展望台の標識で、オンコースであることを確認。数分道を下ると鉄梯子が見える。特に案内はないのだが、パノラマ台へのアプローチだろうと鉄の梯子を上る。その先は岩場となり、パノラマ台はそこから左右が落ち込んだ狭い岩場の先にある。高所恐怖症の身には少々きつい。雨上がりで岩場が濡れているよな、危険だよな、と自分に言い聞かせ岩場で撤退。パノラマ台からは面河川と鉄砲石川の谷筋が見えるようである。

隧道入口に
パノラマ台を後にして道を下る。「パノラマ台」と書かれた標識も立っている。通常パノラマ台や亀腹展望台にはこちらのコースから上ってくるのだろう。
道を下ることおよそ5分で車道に下りる。下り口には「鉄砲石キャンプ場」の標識が立つ。標識の示す方向には隧道があった。
また、下り口には「パノラマ台亀腹遊歩道案内図」もあった。やはりこちらが展望台へのメーンルートだろう。
ここで「パノラマ台亀腹遊歩道コース」は終了。次は隧道を抜けて鉄砲石川コース」に向かう。

鉄砲石川コース

隧道を抜け鉄砲石川の谷筋に入る
「パノラマ台亀腹遊歩道コース」を下り、右手直ぐにある隧道を抜けて鉄砲石川の谷筋に入る。この隧道は昭和30年(1955)の石鎚山の国定公園指定に伴う観光客増加を見据え、昭和27年(1952)実施された関門から五色河原までの自動車道や林道整備の一環として行われた、と(「えひめの記憶」)。工事は昭和29年(1954)から始まり昭和36年(1961)に完成したというから隧道の開通もその間のことだろう。
なお、この工事が行われる以前、鉄砲石川筋に入るには、上述面河第一承水堰の辺りに吊り橋があり、そこを通っていたとのことである。

櫃の底
隧道を抜けると鉄砲石川筋に。隧道を抜けた辺りでは、ありふれた河原だな、などとも思ったのだが、進むにつれ岩と水が綾なす景観、その存在だけて印象的な奇岩が現れる。それとも知らず思わずシャッターを切ったのが「櫃の底」であったようだ。
鉄砲石川に落ちる小さな滝と澄んだ淵が美しい。その先も大岩壁が連なる。岩壁上に並ぶ針葉樹林との組み合わせも面白い。

紅葉石
紅葉石((株)NTOのWeb siteより)

林道を進み鉄砲石キャンプ場に。道脇に「千段滝」、木の根元に「紅葉石」の標識。標識はあるのだが、どこを指すのか分かりにくい。とりあえず林道からキャンプ場に下り、鉄砲石川の川沿いに出る。
どこが紅葉石か不明だが、取敢えず撮った写真が紅葉石のある辺りだったようだ。「えひめの記憶」に「このあたり一帯は白色の岩石でこれにカエデの葉のように集まった黒色電気石の結晶が明りょうに現れている。それぞれ一葉の長さが一〇センチ内外で数一〇〇個ずつ二か所にあり」とある楓の葉のような結晶らしき斑点が、岩壁に着生した草木の手前に見える。それが紅葉石だろうか。学術的には非常に貴重な岩と言う。
鉄砲石
当日は見落としたが、キャンプ場あたりから山に入る道があり、そこを上ると種子島銃のような形をした石があるとのこと。鉄砲石川の由来の石だ。

千段の滝
次いで千段の滝を探して川筋を歩く。と、鉄砲川に合わさる沢が目に入る。鉄砲石川の浅瀬を飛び石で対岸に渡り沢筋に入る。が、沢に転がる大岩、強烈な倒木群に気勢を削がれ途中撤退。再び林道に戻る。
メモの段階でチェックするとこの滝は、後述する布引の滝と同様に緩傾斜の岩盤を流れ落ちる、と。千段の由来は水平に通る幾多の節理の数をもって「千段」とみなしたのだろう。沢の出合いから10分程度で滝に出合うとのことであった。

お月石
林道を進むと鉄砲石川に架かる橋があり、そこに「お月石」の標識があり、右岸を指す。橋から見るとそう言われればお月さまとも見える奇岩がある。お月さまでなくても十分印象に残る節理を持つ大岩・大岩壁であった。


兜岩
橋を渡ると今度は橋の上流左岸をさす木標がある。お月岩と似た姿を持つ多くの節理を持つ大岩壁であるが、縦に交わる割れ目と合わさり「兜」と名付けたのだろう。その直ぐ上に鎧岩があるようだが、当日は案内も見当たらずそのまま通り過ぎた。





布引の滝

橋を渡り少し進むと左手に緩やかな傾斜の岩壁があり、水平の節理を切る二条の縦の割れ目をささやかに水が流れる。おおよそ40mの滝であった。






巨大な倒木箇所で撤退
さらに先に進み、案内にある赤石河原まで行こうと思ったのだが、ほどなく誠に巨大な倒木が道を塞ぐ。潜ることもできず跨ぐこともできず、通り抜けるには河原に下りて迂回するしかない。そこまでして「河原」に行くモチベーションもなく、ここで撤退し駐車場へと戻る。



駐車場へ
林道を戻り隧道を抜けると国民宿舎脇に出る。国民宿舎と隧道の間に面河渓第二駐車場と書かれた駐車場を抜け、車を停めた国民宿舎前の駐車場に戻り、本日の散歩を終える。

常の如く、下調べをすることもなく、成り行きでの面河渓散歩。当日は不思議、疑問を抱きつつもその答えだす術もなく、とりあえずのんびり・ゆったりの景勝散策であったが、メモの段階で面河渓の成り立ちをチェックすると石鎚火山活動、それに伴う陥没カルデラといった誠に興味深い出来事が現れた。面河渓への道すがらの黒森峠や面河ダムのあれこれと相まって、思いもかけないような面河渓散歩のメモ「となった。成り行き任せの散歩は、やはり楽しい。

月曜日, 11月 26, 2018

面河渓谷散歩 そのⅠ;晩秋の頃、石鎚北壁の深い谷、仁淀ブルーの源流・面河渓谷に遊ぶ

紅葉の見ごろは少し越えたであろうが、晩秋の11月13日、景勝面河渓谷を訪ねることにした。子供の頃、親父に連れられ家族で遊んで以来のことである。
田舎の新居浜から国道11号を走り、桜三里を抜けて松山へと下りはじめた川内辺りで国道を離れ、五十年も六十年も昔のうっすらとした記憶に残る鬱蒼とした山道を走り、記憶にはまったくなかった結構な峠(黒森峠)を越え走ること2時間強で面河渓へ。鬱蒼とした木々の中に続く滑床といった記憶の面河渓は、屹立する巨大な奇岩と仁淀ブルーの水、そして深い樹林といった渓谷の三大要素を兼ね備えた景勝ではあったが、記憶の中のそれとは少し違い、思いのほか空が開けた渓谷ではあった。

それはともあれ、左に右に斧で削られたような岸壁が対峙する景勝・関門の渓谷、巨大な一枚岩の大岸壁・亀腹やいくつもの奇岩、開けた河原に敷かれたような一枚岩とも見える白い河床。面河渓を形づくるこれら地形・地質を見るにつけ、渓谷形成のプロセスにフックがかかり、メモの段階でそれが石鎚火山活動に伴う陥没カルデラ形成時の「賜物」であることを知った。結果、散歩のメモも当初お気楽に紅見物でも、といったものから、少々付け焼刃ではあるが地質・地層面の視点を交えたものとなった。
また、面河散歩とは直接関係ないのだが、面河へのルート上で出合った黒森峠や面河ダムについてのメモも多くなってしまった。当日は何となく気になりながらも通り過ぎた黒森峠や面河ダムであるが、これもメモの段階で往昔の黒森峠越えの街道・黒森街道が登場したり、面河ダムが仁淀川水系の水を分嶺を超えて瀬戸内に水を流す利水計画の中心施設であったりと、「峠好き・水路好き」の身にはスルーできないものとなったからである。
結果、今回の面河散歩は面河への道すがらの「思いがけない出合い」と当初の目的であった面河渓散歩とふたつに分けてメモすることになった。最初は面河渓までのルート上で気になったことのメモからはじめる。

本日のルート;
■面河渓へ■
国道11号・河之内隧道>国道494号を黒森峠へ>黒森峠>面河ダム>妙谷川承水堰>割石川との合流点>県道12号に乗り換え>県道12号を進み面河渓へ

■面河渓へ■

国道11号・河之内隧道
田舎の新居浜市を出て国道11号を松山方面へと向かい西条市を越え、東温市に入る。中山川に沿って桜三里を進み、東流する中山川水系と西流する重信川水系を分ける根引峠の山稜を穿つ河之内隧道を抜ける。
昭和35年(1960)から昭和37年(1962)にかけて工事の行われた河之内隧道は付近に中央構造線が走っており、その破砕帯を避けるべくルート選定に注意を要したとのことである。
中央構造線
中央構造線とは九州から関東にかけ、日本列島を南北に分ける大断層のこと。その長さは1000キロにも及ぶ。断層とは「地下の地層もしくは岩盤に力が加わって割れ、割れた面に沿ってずれ動いて食い違いが生じた状態をいう(Wikipedia)」とある。
中央構造線ってよく聞く。専門的なことはよくわからないが、日本列島の形成のプロセスと併せて大雑把に説明すると;アジア大陸のプレート東端に日本列島の上部・北部ができる。そこに太平洋側のプレートに乗って日本列島の下部・南部が南から移動し始める。7000万年前頃、そのふたつがくっつき日本列島の原型ができた。この接合部を中央構造線と呼ぶ。
2500万年頃前にアジア大陸東端付近が割れ始め海溝部ができる。これが日本海の原型。1500万年前にその海溝部が拡大する。この日本海原型部の拡大に伴い、日本列島の西南部は時計方向、東北部は反時計方向に回転する。ためにその接合部は折れ曲がり大きく陥没した。これがフォッサマグナと称される大地溝帯である。フォッサマグナの西端は糸魚川・静岡構造線として知られる。
その後氷河期を経て、さらに氷河期の終了とともに海面が上がり日本海ができあがり、現在の日本列島が作られた。おおよそ18000年前のことという。
因みに糸魚川・静岡構造線のことをフォッサマグナと思い込んでおり、それがフォッサマグナ・大きな溝の西端であることを知ったのは、塩の道・千国越えのとき。散歩の記憶が蘇る。

河之内と川内
現在このあたりは東温市となっているが、それは平成の大合併(平成16年;2004)で重信町と合併しできたもの。我々愛媛の人間には温泉郡川内町のほうがなじみ深い。で、川内と河之内、これって結構似通っている。川内は河之内から?ちょっとした好奇心からチェックする。
河之内は、則之内(すのうち)、井内ともに三内村(みうちむら)の一部であった。三内はこの三地区がすべて「内」を記していたからである。その三内村が昭和30年(1955)、川上村と合併し温泉郡川内村となる。川上村の「川」と三内村の「内」を合わせ、「川内村」としたのだろう。自治体が合併する際によく見られる双方の地名の一部をとる命名法のように思える。
当初の類推は間違ってはいたが、行政地域名形成の典型的パターンが現れた。地名の由来は誠に面白い。因みに「東温」は温泉郡の東部から、とも言われる。

国道494号を黒森峠へ
河之内隧道を抜け、松山へと下りはじめてほどなく、国道11号から離れ国道494号に乗り換える。国道494号は表川が刻んだ谷筋の中を南に進む。道は昔の物資交易の名残を残すような地名・問屋の先、標高424m辺りで表川右岸に渡りヘアピン状に大きく曲がった後、等高線に抗うことなく緩やかな上りで山稜へと入る。
谷筋から山稜に入った道は、標高490m辺りで再び南に大きく曲がった後、幾つものヘアピンカーブを経て標高985mの黒森峠に至る。比高差560m程上ってきたことになる。思いもかけず結構上った。眼下に表川の谷筋、そしてその先に道後平野へと続く川内の平地が広がる。

黒森峠
上にもメモしたが、大昔に訪れた家族での面河車行の記憶からこの峠はすっぽり抜け落ちていた。こんな強烈な峠道を走った記憶は全く残っていない。
それはともあれ、峠フリークのわが身にフックが掛った。面河散歩から戻り、地図で見ると黒森峠から皿ケ嶺(標高1270m)へと続く稜線にはいくつもの峠が並ぶ。往昔、久万の山地と松山を隔てる、これら幾つもの山稜の峠を越える物資交易の道があったのだろう。それでは黒森峠は?とチェックする。
黒森街道
黒森街道(「えひめの記憶」)
黒森峠を越える交易路の歴史はそれほど古くない。この峠道は明治から昭和にかけて面河の木材を松山へと運ぶ交易路であったようだ。
「えひめの記憶:愛媛県生涯教育センター」によれば、「黒森峠は、久万高原町面河地区(旧面河村)と東温市川内地区(旧川内町)との境界にある標高985mの峠である。明治初年(1868年)ころ面河地区の渋草、笠方から黒森峠を越えて河之内、川上へ通じる黒森街道が開通した。
明治から大正、昭和初期まで、黒森街道は面河と松山方面を結ぶ重要なルートであり、面河から松山方面へ、松山方面から行商人や面河渓谷や石鎚登山に行く人々が行き来した。物資の流通でも重要なルートで、面河から木材や炭などの林産物が川上、横河原を経由して松山方面へ運ばれた。
昭和13年(1938年)に国道33号御三戸から関門の県道(面河線)開通により、次第に物資の輸送は国道33号を経由するように変わっていくが、人々の往来には黒森街道が利用された。しかし、昭和31年(1956年)県道黒森線(現国道494号)の開通によって黒森街道はその役目を終えた」とある。

明治に黒森峠を通る黒森街道が開ける以前の藩政時代(江戸時代)の交易路は黒森峠から皿ケ嶺へと続く稜線を少し南に進んだ割石峠を越えであったようだ。「えひめの記憶」には、割石峠を越えて河内村の問屋へと物資を運んだとある。そのルートは見つからなかったが、地図で見る限り面河側(平成16年;2004年に面河村は上浮穴郡久万高原町になる)の小網地区から割石峠に上り、峠から表川の源流部の谷筋へと下り問屋に向かったように思える。小網から峠までは等高線の間隔が比較的広く、そこを曲がり道で峠まで上り、そこから等高線の密な下りを一直線に、険しい下りを表川源流部へと向かったように思える(妄想)。
それでは明治に開かれた黒森街道のルートは?「えひめの記憶」によれば、小網から黒森峠までは、現在の国道494号のジグザグルートの上になり下になりと、比較的直線ルートで上る。峠から北は現在の国道筋とは異なり、北に延びる尾根筋を進み、ヘアピンカーブのあった標高490m付近で現在の国道494号の道筋をかすめた後、表川の谷筋に下りることなく、山稜をそのまま川内の音田にある金毘羅さん(松尾山金毘羅寺)の門前へと進んだようである(「えひめの記憶」)。車のことを考えなければ、自然に抗わぬルートとしてこのコースが最適ではあったのだろう。
現在の国道494号はそのベースは昭和31年(1956年)に開かれた県道黒森線(現国道494号)にある。平成5年(1993年)に国道に昇格し、国道494号となった当時は、国道にトンネルを抜くといった計画もあったようだが、現在のくねくね道をみる限り、その計画は頓挫したようである。

面河ダム
黒森峠を越えると道は割石川の谷筋に沿って小網、市口へと下る。小網は割石峠道と黒森街道が左右に分かれる地でもある。黒森峠から標高を200mほど下げた市口で眼前に面河ダム湖が広がる。
当日は、どこかで聞いたことがある名前だなあ、と思いながら通り過ぎたダム湖ではあるが、メモの段階でいつだったか歩いた金毘羅街道歩き丹原の利水散歩で出合った、分水嶺を跨いだ愛媛の利水計画の現場と繋がった。太平洋に注ぐ仁淀川水系の水を面河ダムに貯め、そこから分水嶺を跨ぎ(といっても導水トンネルを山塊に抜くわけだが)、瀬戸内に注ぐ中山川水系に落とし発電と共に、道前平野(西条市方面)・道後平野(松山市方面)に水を供給する利水計画がそれである。
分水嶺を跨いだ利水計画
道前道後利水計画(「西条市 水の歴史館」)
面河ダムで貯めた水は石鎚山塊下を抜いた導水路で滑川にある道前道後第二発電所に水を落とした後、さらに導水路で中山川にある道前道後第三発電所に水を落とし中山逆調整池に貯める。発電所や中山逆調整池は金毘羅街道散歩の折、源太桜を訪ねた時に出合った。
中山逆調整池に貯めた水はそこで道前平野側と道後平野側に分水されるわけだが、道前平野側は中山逆調整池で中山川に放水される。中山川を流下した水は、中山川取水堰で取水された後、両岸分水工で右岸幹線水路と左岸幹線水路に分水される。丹原利水散歩の折にであった中山川取水堰、両岸分水工が思い起こされる。
一方、道後平野側では逆調整池に設置されている千原取水塔より取水し、隧道(トンネル)を抜け、南北分水工で北部幹線水路と南部幹線水路にそれぞれ分水される。 中山川で出合ったこの分水嶺を跨いだ利水計画の核となるのがこの面河ダム。案内図で見たときは、四国山地のもっと山深きところにあるのだろうと思っていたのだが、思いもかけず面河渓への道すがら国道脇で出合った。結構嬉しい。

面河ダムの水
面河ダムの承水堰(「水土の礎 道前道後平野水利事業の紹介」)
昭和42年(1967)に仁淀川水系割石川建設された面河ダムの水は、割石川だけでなく仁淀川上流域にあるいくつかの支流に設けられた取水堰から地下を抜いた導水トンネルを通して供給される。支流に設けられる取水堰は11あるというが、代表的なものは坂瀬川の坂瀬川承水堰、妙谷川の妙谷川承水堰、そして面河川に設けられた面河第一、面河第二承水堰という。
面河渓を訪ねた下り、面河川にちらっと堰を見かけたのだが、当日はこのようなドラマの一端を担う堰とも知らず、お気楽に走り過ぎた。因みに、面河川で見かけた施設は面河第一承水堰のようだ。第二承水堰ははっきりしないが、国土地理院の2万五千分の一の地図を見ると面河渓で面河川に合流する鉄砲石川に堰らしきものが窺える。それが面河第二承水堰かもしれない。

妙谷川承水堰
道494号は市口からダム湖を離れダム湖左岸(北側)の山稜へと上る。山稜を越えた国道は妙谷川の谷筋に入る。因みに、往昔の黒森街道はダム湖右岸(南側)のほうを進んでいたようである。
山稜を越え妙谷河筋を走ると水路施設、水路橋らしきものがあった。当日は特に気にも留めず取りあえず写真を撮っただけではあったが、メモの段階で妙谷川承水堰のことを知り、国土地理院の2万五千分の一の地図に記された水路線と合わすと、なんとなく妙谷川承水堰の施設およびその水路橋のように思える(推定ではあるが)。

割石川との合流点
妙谷川の谷筋を下り、面河ダムから下る割石川本流との合流点に至る。往昔の黒森街道はここからダム湖左岸方面を進んだようであり、ダムの手前には、黒森街道建設に情熱を注いだ重見丈太郎(後の面河村長)氏が陸軍を動かし、大正9年(1920)、陸軍工兵隊がダイナマイトで開削した掘割跡があるようだが、当日は知る由もなく通り過ぎた。

県道12号に乗り換え
更に割石川を下る。土泥という面白い地名を経て渋草に。渋草は面河村役場のあったところ。さらに割石川に沿って下ると川口という如何にも河川が合わさる地名で割石川は面河川本流に合流する。国道は面河川に沿って西に下るが、面河渓への道はこの地で国道と分かれ東に向かう県道12号に乗り換えることになる。

県道12号を進み面河渓へ
国道から県道に乗り換える、とはいうものの、正確に言えば河口で西に向かう国道は県道12号との重複区間であり、県道12号は七鳥(仕七川)で国道494号を分けた後、面河川本流に沿って下り御三戸で国道33号にあたる。
それはそれとして、面河渓には河口から県道12号を東へと進み、河の子川が面河川に合流する栃原あたりで北東へと向きを変え、草原川が本流に合わさる若山を経て面河渓の入口である関門に到着する。

観光地としての面河渓の歴史と道路整備
今回、面河渓へのアプローチは、少々跡付けの感は否めないものの、往昔の面河村(正確には当時は杣川村。面河村が誕生したのは昭和9年;1934。それ以前は明治23年;1890に杣野村と大味川村が合併し杣川村が誕生した)への往還である、黒森峠を越える黒森街道方面からの車行であった。この場合の面河村への往還は生活路としてのものであり、観光としての面河渓谷への道ではない。面河が観光地として知られるようになり、観光に訪れるようになるのは大正も末のころであり、それも限られた一部の富裕層のものであったようだ。また面河渓を訪ねる道は、黒森峠ルートではなく運輸・道路整備が進んだ久万方面からのアプローチが主流となっていたように思える。
「えひめの記憶」に拠れば、大正8年(1919)には松山―久万間の定期バス(乗合自動車)の運行が始まり、大正13年(1924)頃には面河行き乗合自動車として七鳥(仕七川;現在の国道33号から県道12号に少し入った辺り)まで延び、昭和4年(1929年)には栃原までバスが入った、とある。
また道路の整備も昭和13年(1938)には県道が上述国道33号との合流点である御三戸から若山まで開通し、その直後には面河渓の玄関口である関門までバスの定期便も走った、とのことである。
景勝面河渓へのアプローチの主たるルートとなった久万側からの運輸・道路の整備は進むが、当時の面河は依然として一般観光客が気楽に訪ねることのできる観光地であったわけではないようだが、その状況が変わるのは昭和30年(1955)石鎚山が国定公園に指定されてから、とのこと。観光客の増加を見越し道路の整備が行われ、更に昭和45年、県道12号の延長ルートとして石鎚スカイライン開通に伴い道路が拡張整備され、多くの観光客が面河渓に訪れるようになった、と言う。

奥面河渓探勝略図(「面河山岳博物館」)
探索チームはその記事を新聞紙上に掲載し、結果徐々に面河が知られるようになった、と言う。とはいうものの、当時は面河への「足」の便がなく、上述大正後半になっても一部富裕層のみのではあったようだ。
面河山岳博物館主催の「これからの面河渓観光を考える講座」のパンフレットには、昭和2年制作の「奥面河渓探勝略図」 が掲載されていた。昭和2年大阪毎日新聞社と東京日日新聞社が鉄道省の後援を受け企画された「日本八景」への登録を目指し結成された「大面河宣伝会」により制作されたもの、と言う。昭和の新時代を代表するものとし て、全国の新聞読者からの投票により選定するという同企画への登録を目指し絵葉書セットとともに面河渓の宣伝告知を意図している。上述のごとく未だバス路線も開通していない面河渓の観光地としてのキャンペーン活動が昭和初期に既に始められれいるということだ。
これら先人の努力と上述の道路の整備やバス路線の開設など社会インフラ整備が相まって「景勝面河」のブランディングがつくられていったのだろう。

当日はそれとは知らず車で走り抜けた面河への道筋であるが、メモの段階であれこれ気になることが現れ、面河渓散歩のメモではありながら、面河到着までのメモが少々長くなった。面河渓散歩のメモは次回に廻す。

土曜日, 10月 13, 2018

見沼散歩 そのⅡ;見沼通船堀から赤山代官屋敷跡へ

見沼散歩の二回目。今回は見沼通船堀・八丁堤の西端からスタート。見沼代用水西縁を起点に芝川経由で見沼代用水東縁に。そこから上流・見沼公園に向かう。見沼田圃を先回とは逆方向から見れば、なんらか新たな発見が、といった心持ち。その後北向きの歩みを、どこかで適当に切り上げ、南に折り返す。歩くなり、または成り行き次第で電車に乗るなりして、最後の目的地伊奈氏の赤山代官跡に進もう、と。
赤山代官跡って、外環道路のすぐそば。一体全体、どういった雰囲気のところにあるのか、興味津々。伊奈氏は見沼溜井を作り上げた治水のスペシャリスト。玉川上水工事をはじめ、散歩の折々で顔を出す名代官の家系。先日たまたま読んだ新田二郎著『怒る富士』にも関東郡代・伊奈半左衛門が登場。宝永の大噴火で田畑を埋め尽くされた農民を救済すべく奮闘する姿が凛として美しかった。見沼散歩の仕上げとしては、伊奈氏でクロージングのが「美しかろう」とルートを決めた。
伊奈氏について、ちょっとまとめる。堀と堤は時代が異なる。先日の散歩メモの繰り返しにはなるのだが、頭の整理を再びしておく。

見沼のあたり一帯は、芝川の流れによってできた一面の沼というか低湿地。これを水田の灌漑用水として活用しようとつくったのが八丁堤。大宮台地と岩槻台地が最も接近するこの地、浦和の大間木と川口の木曽呂木の間、八丁というから、870mにわたって土手を築く。流れを堰き止め、灌漑用の溜井(たるい)としたわけだ。この工事責任者が伊奈氏。しかしながら、この溜井、灌漑用の池としては十分に機能しなかった、よう。全体に水量が乏しかったこと。また、溜井の北の地区には農業用水が供給されなかった。にもかかわらず、雨期にはそのあたりは洪水の被害に見舞われた、といった有様。見沼はこういった問題を抱えていた。
見沼溜井を干拓し水田に変える試みがはじまる。上でメモした諸問題があったこともさることながら、それ以上に、当時水田開発が幕府の大いなる政策課題となっていた。幕府財政逼迫のためである。で、米将軍とも呼ばれた八代将軍・吉宗の命により、水田開発の切り札として吉宗の故郷・紀州から呼び出されたのが、伊沢弥惣兵衛為永。見沼溜井の干拓に着手。まず、芝川の流路を復活させる。溜井の水を抜き溜井を干拓する。ついで、灌漑用水を確保するため、用水路を建設。はるか上流、利根川から水を導く。これが見沼代用水。見沼の「代わり」とするという意味で、「見沼代」用水、と。で、代用水を西と東に分流。新田の灌漑用水路とするため、である。これが見沼代用水西縁と見沼代用水東縁。この西縁と東縁を下流で結んだ運河のことを見沼通船堀、という。目的は、代用水路を活用した船運の整備。代用水路近辺の村々と江戸を結んだ、ということだ。



本日のルート:
武蔵野線・東浦和駅 > 見沼通船堀公園 > 見沼通船堀西縁 > 八丁堤 > 附島氷川女体神社 > 芝川 > 見沼通船掘東縁 > 木曽呂富士塚 > 見沼代用水東縁 > 武蔵野線 > 浦和くらしの博物館 > 大崎公園東 > 見沼代用水縁 > 国道46号線交差 > 東沼神社 > 川口自然公園 > 武蔵野線にそって東に > 東北道 > 北川口陸橋 > 石神配水場 > 妙延寺地蔵堂 > 外環交差 > 赤山陣屋跡 > 山王社 > 源長寺 > 新井宿

武蔵野線・東浦和駅

武蔵野線・東浦和駅下車。駅前の道を南に附島橋の方向に進む。すぐ東浦和駅前交差点。東に折れ、ゆるやかな坂道をほんの少しくだると水路にあたる。見沼代用水西縁。見沼通船堀公園の西縁でもある。公園の南縁は八丁堤の土手。土手の上には赤山街道が走る


見沼通船堀
通船堀を進む。土手道・八丁堤は堀の南に「聳える」。竹林が美しい。土手の向こうはどういった景色がひろがるのか、附島氷川女体神社に続く道筋をのぼる。赤山街道に。赤山街道、って関東郡代伊那氏が陣屋を構えた川口の赤山に向かう街道。年貢米を運んだ道筋、ってこと、か。赤山街道、とはいうものの、現在では車の行きかう普通の道路。道の南とは比高差あり。土手を築いたわけだから、あたりまえ、か。附島氷川女体神社におまいり。道路わきに、つつましく鎮座する。このあたり附島の地は先回歩いた氷川女体神社の社領があったところ。その関連で、この地に氷川女体神社が鎮座しているので、あろう。

再び通船堀に戻る。しばらく進むと、関がある。これって水位を調節し船を進めるためのもの。東西を走る代用水と中央を流れる芝川には3mもの水位差があった、ため。船が関に入る。前後を締め切る。水位を調節し、先に進む、といった段取り。ありていに言えば、パナマ運後の小型版。パナマ運河より2世紀も早くつくられた。日本最古の閘門式運河の面目躍如。こういった関が芝川に合流するまで二箇所あった。見沼代用水西縁から芝川まで654mほど。見沼通線堀西縁と呼ばれる。
芝川合流点。橋がない。一度赤山街道まで南に下り、といっても、どうという距離ではないのだが、芝川にかかる八丁橋を渡り、芝川の東側に。道に沿って進む。見沼代用水東縁まで390mほど。見沼通船堀東縁、と呼ばれる。その間に2箇所の関があった。西縁は竹林であったが、こちらは桜並木。あっという間に見沼代用水東縁に。

見沼用水東縁・富士塚

突き当たり正面に台地が聳える。なんとなく気になり、たまたま近くに佇む地元の方に尋ねる。富士塚とのこと。どんなものだろう、とちょっと寄り道。赤山街道に戻り、台地南を迂回して富士塚方面に。途中ありがたそうな蕎麦屋さん。あまり食に興味はなにのだが、なんとなく気になり立ち寄ることに。それにしても、このあたりの「木曽呂」って面白い地名。アイヌ語かなにかで、「一面の茅地」といった意味がある、とも言われる。が、定説なし。ちなみに。西縁の大間木の由来は、「牧」から。近くに大牧って地名もある。馬の放牧場があったのだろう、か。
しばし休息し富士塚に。蕎麦屋さんのすく横にあった。高さ5.4m、直径20m。「木曽呂の富士塚」と呼ばれ、国指定の重要有形民族文化財となっている。結構な高さのお山にのぼり、成り行きで見沼代用水への坂道を下る。

浦和くらしの博物館民家園


見沼用水東縁を北に。水路に沿ってしばらく進むと武蔵野線と交差。遠路を越えたあたりで水路からはなれ、「浦和くらしの博物館民家園」に寄り道。芝川と国道463号線が交差するところにある。道筋はなんとなく昔の見沼田圃の真ん中を進むといった感じ。とはいっても田圃があるわけでもなく、一面の草地。調整池をかねているようで、敷地内には入れない。フェンスにそって進む。下山口新田とか行衛(ぎょえ)といったところを進む。行衛って面白い地名。ところによっ ては、「いくえ」って読むところもあるが、ここでは「ぎょえ」。由来定かならず・
「浦和くらしの博物館民家園」に。なんらかこの地域に関する資料があるか、と訪ねたのだが、民家が保存されている公園といったものであった。先に進む。国道の北にある「グリーンセンター大崎」の東側にそって進む。園芸植物園を超えると水路にあたる。見沼代用水東縁。ここからは用水路に沿って南に戻る。 東沼神社
公園があった。大崎公園。先に進む。ちょっと大きな道を越え、どんどん進む。右手には広々とした風景。見沼田圃の風景である。どんどん進む。お寺を眺めながら湾曲する水路に沿って歩く。大きな神社。太鼓の音が聞こえる。その音に誘われ境内に。太鼓や神楽のイベントがおこなわれていた。この神社は東沼神社。結構大きなお宮様。もともとは浅間社。明治期にいくつかの神社を合祀して、東沼神社と。「とうしょう」神社と読む。

武蔵野線から女郎仏に

しばらく神楽の舞を楽しみ散歩に出発。先に進むと左手に公園。川口自然公園。その先に線路が見える。武蔵野線。赤山陣屋への道筋は、大雑把に言えば、武蔵野線に沿って東北道まで進み、その先は南に東京外環道まで下ればいけそう。武蔵野線に沿って残間の地を歩く。電車は台地の切り通しといった地形の中を進む。しばらく進む。東北道と交差する手前で南に折れる。高速道路に沿って下る。西通り橋を過ぎ、大通り橋を越え、北川口陸橋に。陸橋を渡り道路東側に。すぐ南に川筋が。見沼代用水からの水路のようだ。水路の南にはいかにも給水塔、といった建物。石神配水場であった。水路に沿って東に進み配水場を越える。南に下る車道。その道筋を進み、新町交差点に。交差点を東に折れる。少し進むと妙延寺。「女郎仏」がまつられている。昔、いきだおれになった美しい女性をこの地で供養したという。
女郎仏のそばで少々休憩。少し東に進み、すぐ南に折れる。道なりに南に進み、神根中学、神根東小学校脇に。今まで平坦だった地形がこのあたりちょっと、うねっている。学校の南には外環道の高架が見える。赤山陣屋はすぐ近く。外環道の下を南に渡り、落ち着いた住宅街を進む。新興住宅地といったものではなく、洗練された農村地帯の住宅街といった雰囲気。のんびり進むと森というか林がみえきた。地形も心持ち盛り上がっているように思える。微高台地というべきか。道筋から適当に緑地に向かう。赤山城跡に到着した。

赤山陣屋跡

赤山城跡、または赤山陣屋は代々関東郡代をつとめた伊奈氏が三代忠治から十代・忠尊までの163年間、館をかまえたところ。初代忠次は家康入府とともに伊奈町に伊奈陣屋を構えていた。当時は関東郡代という名称はなく、代官頭と呼ばれていた。関八州の天領(幕府直轄地)を治め、検地の実施、中山道その他の宿場の整備、加納備前堤といった築堤など、治水・土木・開墾等の事業に大きな功績を挙げる。常に民衆の立場にたった政治をおこない、治水はいうまでもなく、河川の改修、水田開発や産業発展に貢献。財政向上に貢献した。関東郡代と呼ばれたのは三代忠治から。関東の代官統括と河川修築などの民政に専管することとなる。治水や新田開発のほか、富士山噴火被災地の復旧などに力を尽くす。が、寛政年間、忠治から10代目にあたる忠尊の代に失脚。家臣団の内紛や相続争いなどが原因とか。
散歩のいたるところで、伊奈氏に出会った。川筋歩きが多いということもあり、ほとんどか治水、新田開発のスペシャリストとして登場する。玉川上水、利根川東遷事業、荒川の西遷事業、八丁堤・見沼溜井など枚挙にいとまなし。が、見沼散歩でちょっと混乱した。井沢弥惣兵衛である。はじめは、井沢氏って伊奈氏の配下かと思っていた。が、どうもそうではないようである。互いに治水のスペシャリスト。チェックする。
伊奈氏と伊沢氏はその自然へのアプローチに違いがあるようだ。伊奈氏は自然河川や湖沼を活用した灌漑様式をとる。伊奈流とか関東流と呼ばれる。自然に逆らわないといった手法。一方、見沼代用水をつくりあげた伊沢為永は自然をコントロールしようとする手法。堤防を築き、用水を組み上げる。紀州流と呼ばれた。
伊奈流の新田開発の典型例としては、葛西用水がある。流路から切り離された古利根川筋を用排水路として復活させる。上流の排水を下流の用水に使う「溜井」という循環システムは関東流(備前流)のモデルである。また、洪水処理も霞堤とか乗越堤、遊水地といった、河川を溢れさすことで洪水の勢いを制御するといった思想でおこなっている。こういった「自然に優しい工法」が関東流の特徴。しかし、それゆえに問題も。なかでも洪水の被害、そして乱流地帯が多くなり、新田開発には限界があった、と。
こういった関東流の手法に対し登場したのが、井沢弥惣兵衛為永を祖とする紀州流。八代将軍吉宗は地元の紀州から井沢弥惣兵衛為を呼び出し、新田開発を下命。関東平野の開発は紀州流に取って代わる。為永は乗越提や霞提を取り払う。それまで蛇行河川を堤防などで固定し、直線化する。ために、遊水池や河川の乱流地帯はなくなり、広大な新田が生まれることに。また、見沼代用水のケースのように、溜井を干拓し、用水を通すことにより新たな水田を増やしていく。用水と排水の分離方式を採用し、見沼代用水と葛西用水をつなぎ、巨大な水のネットワークを形成している。こうした水路はまた、舟運としても利用された。
とはいえ、伊奈氏の業績・評価が揺るぐことはないだろう。大水のたびに乱流する利根川と荒川を、三代六十年におよぶ大工事で現在の流路に瀬替。氾濫地帯だった広大な土地が開拓可能になる。1598年(慶長三年)に約六十六万石だった武蔵国の総石高は、百年ほどたった元禄年間には約百十六万石に増えた、と言う。民衆の信頼も厚く、ききんや一揆の解決に尽力。その姿は上でメモした『怒る富士』に詳しい。最後には、ねたみもあったのか、幕閣の反発も生み、1792年(寛政四年)、お家騒動を理由に取りつぶされた、と。とはいえ、素敵な一族であります。
赤山城は微高台地に築かれている。周囲は低湿地であった、とか。本丸、二の丸、出丸が設けられ自然低湿地を外堀としている。陣屋全体は広大。本丸と二の丸だけで東京ドームと後楽園遊園地を合わせたほどの規模となる。郡代とはいうものの、8千石を領する大名格。家臣も300名とか400名と言うわけで、むべなるかな。城跡を歩く、北のほうは林、中ほどはちょっとした庭園風。南は畑といった雰囲気。あてもなくブラブラ歩き、東に進み山王神社に。そこから赤山陣屋を離れ源長寺に向かう。
源長寺
源長寺。城跡で案内を見ていると、伊奈氏の菩提寺となっている、と。きちんとおまいりするに、しくはなし、と歩を進める。南に下る道を進み首都高速川口線と交差。赤山交差点。東に折れ、江川運動広場を越え、東に折れ、微高地に建つ源長寺に。いまでこそ、ちょっとした堂宇ではあるが、お寺の資料を見ると、明治のころには祠があっただけ、といったもの。伊奈氏の業績を考えれば少々寂しき思い。
新井宿
台地を下り、埼玉高速鉄道・新井宿に。このあたりは日光御成道が通っていた、と。日光御成道、って鎌倉街道中道がその原型。江戸時代に日光街道の脇往還として整備された、文字通り、将軍が日光参詣のときに利用された街道である。道筋は、東大近くの本郷追分で日光街道から離れ、幸手宿(埼玉県幸手市)で再び日光街道と合流する。宿場は、岩淵宿(東京都北区) 、川口宿(埼玉県川口市) 、鳩ヶ谷宿(埼玉県鳩ヶ谷市)、大門宿(埼玉県さいたま市緑区) 、岩槻宿(埼玉県さいたま市岩槻区) 、幸手宿(埼玉県幸手市)。新井宿とは、いかにもの名前。ではあるが、日光御成道に新井宿という宿場名は見当たらない。そのうちに調べてみよう、ということで、地下鉄に乗り家路へ と。

金曜日, 10月 12, 2018

見沼散歩 そのⅠ;大宮から見沼通船堀まで

見沼田圃を通船堀に
(2009年8月を移す)

見沼田圃 見沼田圃を歩こうと、思った。大宮台地の下に広がる、という。大都市さいたま市のすぐ横に、それほど大きな「田圃」があるのだろうか。ちょっと想像できない。が、先日の岩槻散歩の途中、大宮から乗り換えて東部野田線で岩槻に向かう途中、緑豊かな田園風景に接したような気もする。たぶんそのあたりだろう、と、あたりをつけて大宮に向かう。 
見沼と見沼田圃。沼と田圃?相反するものである。これって、どういうこと。それと見沼代用水。代用水って何だ?沼や田圃との関係は? 見沼というのは文字通り、沼である。昔、大宮台地の下には湿地が広がっていた。芝川の流れが水源であろう。その低湿地の下流に堤を築き、灌漑用の池というか沼にした。関東郡代・伊奈氏の事績である。
堤は八丁堤という。武蔵野線・東浦和駅あたりから西に八丁というから870m程度の堤を築いた。周囲は市街地なのか、畑地なのか、堤はどの程度の規模なのだろう、など気になる。その堤によって堰き止められた灌漑用の池・沼、溜井は広大なもので、南北14キロ、周囲42キロ、面積は12平方キロ。山中湖が6平方キロだから、その倍ほどもあった、と。 
見沼田圃とは水田である。見沼の水を抜き水田としたものである。伊奈氏がつくった「見沼」ではあるが、水量が十分でなく灌漑用水としては、いまひとつ使い勝手がよくなかった。また、雨期に水があふれるなどの問題もあった。そんな折、米将軍と呼ばれる吉宗の登場。新田開発に燃える吉宗はおのれが故郷・紀州から治水スペシャリスト・伊沢弥惣兵衛為永を呼び寄せる。為永は見沼の水を抜き、用水路をつくり、沼を水田とした。方法論は古河・狭島散歩のときに出合った飯沼の干拓と同じ。まずは中央に水抜きの水路をつくる。これはもともとここを流れていた芝川の流路を復活させることにより実現。つぎに上流からの流路を沼地の左右に分け、灌漑用水路とする。この水路を見沼代用水という。見沼の「代わり」の灌漑用水、ということだ。見沼代用水は上流、行田市・利根大橋で利根川から取水し、この地まで導水する。で、左右に分けた水路のことを、見沼代用水西縁であり、見沼代用水東縁、という。上尾市瓦葺あたりで東西に分岐する。


本日のルート:
JR 大宮駅 > けやき通り > (高鼻町) > 市立郷土資料館 > 氷川神社 > 県立博物館 > 盆栽町 > 見沼代用水西縁 > (土呂町・見沼町) > 市民の森 > 芝川 > 東武野田線 > 土呂町 > 見沼代用水西縁 > 寿能公園 > 大和田公園 > 大宮第二公園 > 鹿島橋 > 大宮第三公園 > 堀の内橋 > 稲荷橋 > 自治医大付属大宮医療センター > 大日堂 > 中川橋・芝川 > (中川) > 中山神社・中氷川神社 > 県道65号線 > 芝川 > 見沼代用水西縁 > 氷川女体神社 > 見沼氷川公園 > 見沼代用水西縁 > 新見沼大橋有料道路 > (見沼) > 芝川 > 念仏橋 > 武蔵野線 > 小松原学園運動公園 > 見沼通船掘 > JR 東浦和駅

大宮駅

散歩に出かける。埼京線で大宮下車。大宮といえば武蔵一之宮・氷川神社でしょう、ということで最初の目的地は氷川神社とする。とはいうものの、見沼関連でよく聞くキーワードに氷川女体神社がある。また八丁堤って名前は知ってはいるが、どこにあるのか、よくわかっていない。観光案内所を探す。駅の構内にあった。地図を手に入れ、それぞれの場所を確認。駅の近くに郷土資料館とか県立の博物館もあるようだ。見沼に関する資料もあろうかと、とりあえず郷土館に向かう。コースはそこで決めよう、ということにした。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)





郷土資料館
駅の東口に出る。道を東にすすみ「けやき通り」に。そこを北に折れる。この道筋は氷川神社の参道。中央の歩道を囲み左右に車道が走る。参道の長さも結構ある。一の鳥居からは2キロ程度ある、とか。参道をしばらく進むと道の脇、東側に図書館。市立郷土資料館はその隣にある。地下にある常設展示で見沼に関する情報を探す。見沼溜井というか、見沼たんぼの概要をまとめたコーナーがあった。さっと眺め、見沼代水路西縁とか、芝川とか、見沼代水路東縁、氷川女体神社、八丁堤・見沼通船堀、といったキーワードと場所を頭に入れる。また、展示してあった見沼の地図で、見沼の範囲を確認。形は「ウサギの顔と耳」といった形状。八丁堤のあたりでせき止められた溜井が「ウサギの顔」。西の大宮台地と東の岩槻台地、そしてその間に岩槻台地から樹皮状に伸びた台地によって左右に分けられた溜井の端が「ウサギの耳」。西は新幹線の少し北まで、東は東部野田線の北あたりまで延びている。
郷土資料館であたらしい情報入手。見沼を左右にわける大和田の台地にある「中川神社」がそれ。氷川神社と氷川女体神社とともに「氷川トリオ」を形成している。氷川神社が上氷川、中川神社が中氷川、氷川女体神社が下氷川。一直線に並んでいる、ということである。見沼に面して、氷川神社が「男体宮」、氷川女体が「女体宮」、そして中間の中川神社が「簸王子(ひのおうじ)宮」として、三社で一体となって氷川神社を形つくっていた、とか。簸王子社は大己貴命(大国主神)、男体社はその父の素戔鳴命、女体社には母の稲田姫命を祀る、って按配だ。で、いつだったか、狭山を散歩しているとき、所沢・下山口の地で、中氷川神社に出会った。その時チェックした限りでは、奥多摩の地に奥氷川神社があり、これもトリオとして、一直線に並び、奥多摩は「奥つ神」、所沢は「中つ神」、そして大宮は「前つ神」として氷川神社フォーメーションを形つくっていた、と。

 氷川神社
氷川神社
郷土資料館を後に、氷川神社に。武蔵一之宮にふさわしい堂々とした構え。氷川神社については折にふれてメモしているのだが簡単におさらい;氷川神社は出雲族の神様。出雲の斐川が名前の由来。武蔵の地に勢を張った出雲族の心の支えだったのだろう。昔、といっても大化の改新以前、この武蔵の地の豪族・国造(くにのみやつこ)の大半が出雲系であった、とか。うろ覚えだが、22の国のうち9カ国が出雲系であった、と。
その出雲族も、大化の改新を経て、大和朝廷がこの武蔵の地にも覇権を及ぼすに至り、次第にその勢力下に組み入れられて、いく。行田の散歩で出会った「さきたま古墳群」の主、中央朝廷の意を汲む笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が、先住の豪族小杵と小熊を抑えたのがその典型例であろう。小杵は朝廷から使わされた暗殺者によって「誅」された、と。
ともあれ、政治的にはその勢力を奪い取った大和朝廷ではあるが、さすがに出雲族の宗教心まで奪うことはできなかったようだ。利根川以西に広がる出雲系神社の数の多さをみてもそのことがわかる。 氷川神社は武蔵一之宮、と。が、多摩の聖蹟桜ヶ丘にある小野神社も武蔵一之宮と称する。武蔵国に二つも一之宮があるって、どういうことであろう。チェックした。
一之宮って正式なものではない。好き勝手に、「われこそ一ノ宮」と、称してもいい、ということ。もちろん、おのずと納得感が必要なわけで、いまはやりの、それらしき「説明責任」がなければならない。氷川神社は大宮の地に覇を唱えた出雲系氏族が、「ここが一番」と称したのだろう。また小野神社は府中に設けられた国府につとめる役人たちによって、「ここが一番」と主張されたのかも知れない。小野神社は武蔵守として赴任した小野氏の関係した神社であるので、当然といえば当然。また、先住の出雲系なにするものぞ、といった気持もあったのかしれない。


県立博物館
次の目的地は県立博物館。境内を北に進む。それにしても池が多い。湧水なのだろう、か。台地の上にあるだけに、水源が気になる。池に沿って進むと県立歴史と民俗の博物館。見沼の情報をさっと眺め休憩をとりながら、先の計画を練る。いままで得た情報から、出来る限り見沼の上流からスタートする。さすがに最上端・上尾まで行くわけにはいかない。新幹線ならぬ、JR宇都宮線近くの市民の森・見沼グリーンセンターに向かう。そこから芝川に沿って下り、岩槻台地の樹枝台地先端にある中山神社に。そのあと見沼に下り、今度は大宮台地の先端にある氷川女体神社に。そのあとは見沼田圃を南にくだり、八丁堤に進む、という段取りとした。


盆栽町
県立博物館を離れる。すぐ北に東武野田線・大宮公園駅。北に抜けると盆栽町。西には植竹町。盆栽との関連は、とチェック。大正末期、当時土呂村であったこの地に盆栽業者が移り住んだ。昭和15年に旧大宮市に編入される際、「盆栽町」とした。盆栽町から土呂町に進む。台地をくだる。土呂町というか見沼地区にある市民の森に。すぐ手前に水路。チェックすると「見沼代用水西縁」。水路に沿って下りたい、とは思えども、とりあえず当初の予定どおり、芝川に進むことにする。市民の森を過ぎるとすぐに芝川。

芝川
芝川の土手を南に下る。周りは水田、というより畑。西にちょっとした台地。東に大宮の台地。その間を芝川は流れる。博物館で見た資料によれば、八丁堤で堰き止められた溜井の水は、このあたりの少し上流、JR宇都宮線の少し上あたりまできていたようだ。芝川に沿って下る。東武野田線と交差。あら?道がない。川の西側の道は車道であり、交差している。が、こちらは行き止まり。線路に沿って西に戻る。結構長い。が、仕方なし。少し進むと見沼代用水西縁。その先に踏み切りがあった。

見沼代用水西縁
見沼代用水西縁

踏み切りを渡り、東に戻ると見沼代用水西縁。芝川まで戻るのをやめ、この水路を下ることにする。水路脇は遊歩道として整備されている。少し下ると水路東に大和田公園、市営球場、調整池、大宮第二公園が広がる。水路西は寿能町。西に坂をのぼった大宮北中学のあたりに寿能城。そして見沼を隔てた大和田の台地には伊達城(大和田陣屋)があった。これらの城は、川越夜戦により北条方に落ちた川越城への押さえとして築かれたもの。寿能城には潮田出羽守資忠。軍事的天才と称された太田三楽斉資正(道潅の子孫)の四男。伊達城主は太田家家老、伊達与兵衛房が守る。これらの城は、岩槻の太田三楽斉資正、とともに、軍事拠点をつくっていた、と。

中山神社・中氷川神社

鹿島橋に。ここからは水路の東は大宮第三公園となる。白山橋、堀の内橋、稲荷橋と進む。水路東に自治医大・大宮医療センター。芝川小学校を超え朝日橋に。水路を離れる。見沼を隔てた東の台地にある中川神社に向かう。東に折れ芝川にかかる中川橋に。中川橋で芝川を渡り、中川地区を進み中山神社に。中氷川神社と呼ばれた中川の鎮守。中山神社となったのは明治になってから。中氷川の由来は、先にメモしたように、見沼に面した高鼻(大宮氷川神社)、三室(氷川女体神社;浦和:現在の緑区)、そしてこの中川の地に氷川社があり、各々、男体宮、女体宮、簸王子宮を祀っていた。で、この神社が大宮氷川神社、氷川女体神社の中間に位置したところから中氷川、と。 この神社の祭礼である鎮火祭りは良く知られている。この地区の中川の名前は、この鎮火祭りの火によって、中氷川の「氷」が溶けて「中川」になった、とか。本当であれば、洒落ている。

さきほどのメモで見沼の格好が「うさぎの頭:顔と耳」と書いたが、正確には、この中山神社あたりまで延びている沼がある。大きい耳の間に、ちょっとおおきな角が生えてる、って格好。こうなれば兎ではないし、どちらかといえば、鹿の角というべきであろうが、ともあれ、沼が三つにわかれている格好。三つの沼があったので「みぬま>見沼」って説もある。真偽の程定かならず。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


氷川女体神社
氷川女体神社
次の目的地、氷川女体神社に向かう。県道65号線を下る。西には第二産業道路が走る。芝川の手前に首都高埼玉新都新線の入口があるよう、だ。芝川にかかる大道橋を渡るとすぐ見沼用水西縁にあたる。ここからは見沼用水西縁に沿って進む。北宿橋を越え、ここまで東に向かっていた水路が、大きく湾曲し、南に向かうところに氷川女体神社がある。 氷川女体神社。神社のある台地に登る。あれこれの資料や書籍に、「見沼を見下ろす台地先端にある」と表現されているこの神社の雰囲気を実感する。確かに前に一面に広がる沼に乗り出す先端部って雰囲気。しばし休息し、先に進む。これから先が見沼田圃の中心地(?)。敢えて兎というか、鹿で例えれば、「顔」の部分、ということか。
photo by Stanislaus


見沼田圃

氷川女体神社の前にある見沼氷川公園をぶらっと歩き、その後は見沼用水西縁を離れて、芝川に向かう。本日は予定に反してほとんど芝川脇を歩いていないので、なんとなく締めは芝川にしよう、と思った次第。成行きで東に進み芝川に。それほどきちんと整地されてはいない。土手を進む。周囲を眺める。「田圃」というより、畑地。低湿地であった雰囲気は残っている。見沼田圃を思い描きながら、しばらく下ると新見沼大橋有料道路と交差。下をくぐり進む。見沼地区を経て念仏橋を越え、大牧、蓮見新田、大間木を過ぎると武蔵野線と交差。



武蔵野線・東浦和駅

線路を過ぎると芝川を離れて西に向かう。小松原学園運動場の脇を南に下ると見沼通船堀公園。結構高い堤が前方に「聳える」。じっくりと歩いてみたい。が、残念ながら日が暮れてきた。通船のための水路もぼんやりと見える、といった按配。次回再度歩くことにして本日はこれで終了。公園近くの武蔵野線・東浦和に向い、一路家路を急ぐ。