木曜日, 3月 08, 2007

伊豆 天城峠越え

伊豆の国散歩の二日目。天城峠を越え、河津七滝まで歩く。とはいうものの、どこから歩き始めるか、あれこれチェック。結局のところ、旧天城トンネルの2,3キロ程度手前、旧道が国道414号線から分岐する「水生地下」あたりからスタートすることにした。大雑把に10キロ強といったところだろう。予約してある電車・踊り子号の出発時間もさることながら、車の通行量の多い国道を峠に向かって歩くのって、今ひとつ興が乗らない。それが、水生地下からスタートと、決めた最大の理由。(木曜日, 3月 08, 2007のブログを修正)
本日のルート;湯ヶ島温泉>バスで「浄蓮の滝」>浄蓮の滝>バスで水生地下>下田街道>旧天城トンネル>河津七滝(釜滝・エビ滝・蛇滝・初景滝・カニ滝・出会滝・大滝)>大滝温泉>バスで河津駅>河津川沿い・河津桜>姫宮神社>伊豆急行線・河津駅>帰路


天城湯ヶ島

宿で朝食をとり出発。宿をとった天城湯ヶ島って、作家井上靖の育った町。自伝的小説『しろばんば』を読んでみたくなった。とはいうものの、文庫本でも結構のボリュームがあったような記憶が。また、『猟銃』もこの地が舞台、とか。そのほか湯ヶ島、といえば若山牧水の『山桜の歌』が有名。
「三月末より四月初めにかけ天城山の北麓なる湯ヶ島温泉に遊ぶ、附近の溪より山に山櫻甚だ多し、日毎に詠みいでたるを此處にまとめつ」といった詞書ではじまる23首の歌。牧水の代表作でもある。大正11年のこと。23首の歌をメモしておく;

うすべにに葉はいちはやく萠えいでて咲かむとすなり山櫻花
うらうらと照れる光にけぶりあひて咲きしづもれる山ざくら花
花も葉も光りしめらひわれの上に笑みかたむける山ざくら花
かき坐る道ばたの芝は枯れたれや坐りて仰ぐ山ざくら花
おほみ空光りけぶらひ降る雨のかそけき雨ぞ山ざくらの花に
瀬々走るやまめうぐひのうろくづの美しき頃の山ざくら花
山ざくら散りしくところ真白くぞ小石かたまれる岩のくぼみに
つめたきは山ざくらの性(さが)にあるやらむながめつめたき山ざくら花
岩かげに立ちてわが釣る淵のうへに櫻ひまなく散りてをるなり
朝づく日うるほひ照れる木(こ)がくれに水漬(みづ)けるごとき山ざくら花
峰かけてきほひ茂れる杉山のふもとの原の山ざくら花
吊橋のゆるるちさきを渡りつつおぼつかなくも見し山ざくら
椎の木の木(こ)むらに風の吹きこもりひと本咲ける山ざくら花
椎の木のしげみが下のそば道に散りこぼれたる山ざくら花
とほ山の峰越(をごし)の雲のかがやくや峰のこなたの山ざくら花
ひともとや春の日かげをふくみもちて野づらに咲ける山ざくら花
刈りならす枯萱山の山はらに咲きかがよへる山ざくら花
萱山にとびとびに咲ける山ざくら若木にしあれやその葉かがやく
日は雲にかげを浮かせつ山なみの曇れる峰の山ざくら花
つばくらめひるがへりとぶ溪あひの山ざくらの花は褪(あ)せにけるかも
今朝の晴青あらしめきて溪間より吹きあぐる風に櫻散るなり
散りのこる山ざくらの花葉がくれにかそけき雪と見えてさびしき
山ざくら散りのこりゐてうす色にくれなゐふふむ葉のいろぞよき

牧水の紀行文『追憶と眼前の風景』もこのときの作品、とか。『みなかみ紀行(中公文庫)』におさめられている、ようだ。どこかで手にはいるものであれば、詠んでみたい。

浄蓮の滝
バスに乗る。「水生地下」に行く前にちょっと寄り道。天城、といえば、「浄蓮の滝」でしょう、と、言うことである、らしい。同行者の中で、私だけ知らなかったのだが、この滝、石川さゆりの歌う「天城越え」で有名、とか。レコード大賞を受賞した大ヒット曲、と;

浄蓮の滝に下りる。高さ25m、幅7m、滝壷の深さ15m。天城山中に源を発する本谷川にかかる滝。狩野川の上流部にあたる。名前の由来は、近くに浄蓮寺があった、から。今は,無い。滝の近辺にはワサビ田が作られている。狩野川、といえば、というくらいワサビが有名。
ワサビ栽培発祥の地は静岡・安倍川沿いの山間の集落・有東木(ウトウギ)、とか。江戸期・慶長年間、有東木源流の山地に自生していたものを持ち帰った有東木の村人が、集落の遊水地で栽培したのがはじまり、と。慶長12年(1607年)駿府城の家康が食し、その味を愛で名が高まる。その故もあって、集落より持 ち出し不可、ということであった。が、この地に椎茸栽培の技術指導に赴いた天城の住人が故郷に持ち帰った、と。椎茸栽培の指導のお礼に、持ち出し不可のワサビの苗を、荷物の中にそっと忍ばせてくれた、ということらしい。

水生地下(すいちょうちした)

滝壷から戻り、バスを待つ。あまりバスの回数もないのでしばらく待つことに。乗ってわかったことなのだが、このあたりのバスは一部区間を除いて乗り降り自由。そんなことがわかっておれば、適当に歩いておけば、とも思ったがあとの祭り。ともあれ、バスに乗り、「水生地下(すいちょうちした)」で下車。「すいせい・ちか」ってなんだろう、と思っていたのだが、「水生地」の下、ってこと、であった。
バスを降り、旧道を旧天城トンネルに向かう。舗装はされていない。が、きれいに整地されている。整地されているのはいいのだが、そのためもあり車も入ってくる。土埃が少々興ざめ。少し歩くと川端康成の文学碑。川端康成のレリーフと直筆の『伊豆の踊子』の書き出しが彫られている;「道はつづら折になって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追ってきた」、と。
10分程度歩くと水生地。地名の由来は、水が生まれる地、ということだろう。この近辺にもワサビ田跡、といったものが残っているし、なにより、この沢、本谷川だろう、と思うのだが、この沢の上流には「水源の森」がある。天城山のほぼ中央、天然のブナ林が残る自然豊か な森がある。北斜面は狩野川源流に、南斜面は河津川の源流となっている。特に良質の水が得られる、ようだ。水生地(水生地)という地名は、豊かな森ではぐくまれた良質の水がこんこんと湧くところ、ということであろう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



松本清張の『天城越え』の舞台・氷室園地
水生地から旧道を少し外れたところに氷室園地。大正から昭和にかけ、厳しい寒さを活用し天然の氷をつくった人工の池とその保存庫。この氷室って、松本清張の『天城越え』の舞台でもある。丁度いい機会でもあるので、読み直した。新潮文庫『黒い画集』に収められた短編。文庫サイズで42ページ程度。犯人である少年が一夜を明かし、それゆえに犯行におよぶことになるのが、ここにある氷室。
あらすじはさて置いて、読後、なんとなく、しっくり、こない。違和感が残る。多分、一人称の視点で、しかも、それが犯人の少年の回想、といったもの、であり、最後になって、というか、途中から想像はできるのだが、結局「僕が犯人でした」、って展開が、なんとなく??、と感じるのだろう。
一人称が探偵であり、犯人探し、であれば違和感はないのだろうが、一人称で語る書き手が犯人であるなら、最初から自分が犯人とわかってるわけで、いかにも事件に無関係といった風情で話が進み、最後に老刑事によって、「あんたが犯人だってことはわかってるよ」と暗示される、ってことが、それってないよな、と感じた次第。小説の作法はよくわからないのだけれども、こういった手法って有り?といったのが読後の正直な感想でありまし、た。

旧天城トンネル
旧道に戻りトンネルに進む。旧天城トンネル。1904年(明治37年)完成、全長450m・幅4.1m・高さ3.15m程度。日本でもっとも長い石造りのトンネル。2001年(平成13)4月20日、国の重要文化財に指定されている。1970年(昭和45年)に国道414号線の新天城トンネルが開通するまでは、天城越えの主要交通路、であった。
この国道414号って昔の下田街道。東海道、三島宿の三島大社を基点に、韮山・大仁・湯ヶ島を経て天城峠に。峠を越えると河津町梨本まで下り、そこから小鍋峠を越えて下田に至る。
天城越えの道はトンネルができるまでは、当然のこと急峻な峠越え。峠道も時代とともに変遷し, 新山峠, 古峠, 中間業, 二本杉峠,天城峠と変わった、よう。 このうち, 二本杉峠は幕末アメリカ領事館の初代総領事ハリスが通商条約締結のため,下田より江戸に上ったときに通った峠である。
ハリス一行の日記には, 「路は狭く,鋭角で馬の蹄を置く場所もなく. ようやく峠を越えて湯ヶ島に着く, 今日の路は道路ではなく通路とも言うべきものだ.」と記されている。結構な難所であった、よう。このトンネルの開通により、陸の孤島・南伊豆と北伊豆が結ばれることになった、とか。
旧天城トンネルを進む。トンネル内部はカンテラっぽい照明だけで、結構暗い。車も対向はできそうもない。旧天城トンネルは、川端康成著『伊豆の踊子』で有名。作品中で雨宿りをした茶屋はこの近くにあった。
「そのうち大粒の雨が私を打ちはじめた。ようやく峠の北口の茶屋にたどり着いてほっとすると同時に、私はその入り口で立ちすくんでしまった。あまりに期待が見事に的中したからである。そこに旅人の一行が休んでいたのだ。・・・私はそれまでにこの踊り子たちを二度見ているのだった。最初は私が湯ヶ島へ来ると途中だった。そのときは若い女が三人だったが、踊り子は太鼓を下げていた。私は振り返り振り返り眺めて、旅情が自分の身に付いたと思った。・・・暗いトンネルに入ると冷たいしずくがぽたぽた落ちていた。南伊豆の出口が前方に小さく明るんでいた。トンネルの出口から白塗りの柵に片側を縫われた峠道がいなずまのように流れていた。この模型のような展望のすそのほうに芸人たちの姿が見えた。六町と行かないうちに私は彼らの一行に追いついた・・・(『伊豆の踊子;川端康成』)」。
この散歩に出る前の日のことである。娘に、「明日、伊豆の天城峠、伊豆の踊子の道を歩く」、と話した。と、丁度、学校の宿題で、川端康成の『伊豆の踊子』のレポートを書く、とか。レポート提出の前日、あれこれ質問がくるであろうからと、丁度いい機会でもあるので、本棚にあった『川端康成―その美と愛と死;長谷川泉』を読み返した。

伊豆の踊り子

抜粋する;『伊豆の踊子』は、川端康成が伊藤初代との恋愛に敗れた傷心のうち、湯ヶ島に滞在して書かれた『湯ヶ島での思いで』がもとになる。この未定稿から『伊豆の踊り子』と『少年』が生まれた。大雑把に言って、『湯ヶ島での思いで』の前半が『伊豆の踊子』、後半が『少年』となる。『伊豆の踊子』は伊藤初代との恋愛に敗れた「傷心」を踊り子・薫によって純一無垢に洗い流し、『少年』はモデル小笠原義人との同姓愛の思い出を、清野少年という存在をとおして康成の心を浄化し純一にする、と。
『伊豆の踊子』の素材は伊豆の旅情のゆきずりの感傷で、ひとときの邂逅である、という。天城峠越えから、湯ケ野温泉をへて下田にいたる一高生の一人旅は、踊り子薫とその兄栄吉、栄吉の妻千代子、千代子のおふく、雇の百合子という旅芸人一行の誘いによって、旅情がなまめき潤うことになる。主人公にとっての救いは、孤児根性のひがみと、かたくなな歪みが、素朴で人間味溢れた一行によって浄化されたことにある。一行の中でも、不思議な色気を持ちながら、まだ十四歳の少女である踊り子の薫の対応が、とくに主人公の心を洗った。踊り子が一高生に言った「いい人」は「明かり」となって高校生を浄化した、とある。
川端康成にとって「いい子」は決め言葉、であった、よう。そのことは、孤児根性、と切っても切れない関係をもっている、とか。孤児根性は、両親をはじめ、肉親の死屍累々の中に投げ出された康成の感慨が根底にある。『伊豆の踊子』の中に;二十歳の私は自分の性質が孤児根性で歪んでいると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂鬱に耐え切れないで伊豆の旅に出てきているのだ」と記されている。踊り子の薫たちは、一高生の川端康成、孤児根性にいじけた康成を「いい人」とすなおに描くことによって、かたくなに歪んだ心を純一無垢に洗い流す、と書かれてあった。(『川端康成―その美と愛と死;長谷川泉』より)
後日談。伊豆の旅から戻り、天城越えの実体験も交えて、娘に、さて、『伊豆の踊子』についてのレポートはどうなっている?などと聞いたところ、「お父さん、レポートは『雪国』だよ」、だって。がっくり。

八丁池への分岐

旧天城トンネルを過ぎると緩やかな下り。30分程度で寒天橋に。八丁池への道が分岐する。八丁池は標高1200m、天城原生林の中に佇む火口湖。「伊豆の瞳」とも。1時間ちょっとで行けたよう。後の祭りではあるが、歩いてみたいかった。

二階滝(にかいだる)
寒天橋あたりからは舗装。道なりに下ると寒天橋のそばに二階滝(にかいだる)。落差20m。河津川一番目の滝。八丁池からの水が二段にわけで落ちている。二階、という名前の由来でもある。滝を「たる」と呼ぶのは、「垂水」から、と。二階滝園地を過ぎさらに下る。新道への分岐案内。踊子歩道から離れ、杉などの茂る細道に。

平滑の滝
国道を横切る。小さな橋を二つ渡り、わさび田にぶつかる。コースは鉄橋を渡る。「平滑の滝」はコースからちょっとそれる。滝は幅20m・高さ4mの一枚岩。

宗太郎園地

橋を渡り、さらに下ると宗太郎園地。この先から宗太郎杉並木の林道がしばらくつづく。宗太郎園地には、太い幹の杉が立ち並ぶ。江戸時代に幕府の直轄地となっていたこの地の杉を伐採する際に、伐採の御礼にと植えた杉の苗が育ってできた森。「園地」とはいうものの、遊園地があるわけではない。美しい杉林と休憩用の東屋と水汲み場があるだけである。

河津七滝

しばし歩き河津七滝の入口に。河津七滝とは、河津川にかかる7つの滝(釜滝、エビ滝、蛇滝、初景滝、カニ滝、出合滝、大滝)の総称。河津川は、天城山を源とする河津川と天城峠の南斜面から流れる荻ノ入川が出合滝で合流し、河津平野を通り相模灘に注ぐ長さ 9.5キロの二級河川。
七滝散歩に向かう。滝方面への分岐を右に。石段は260段。まさか、また、戻るわけじゃないよね、などと少々の怖れ。小さな橋を渡ると河津七滝の第一「釜滝(かまだる)」。高さ約22m、幅約2mで、河津七滝中、大滝に次いで、2番目に高い滝。滝の周りは岩・玄武岩が柱状に規則正しく割れている。「柱状節理」。直ぐ下に「エビ滝」「蛇滝」と続く。川に沿って道があり、来た道を戻ることがない、とわかって少々安堵。蛇滝の先、階段を下りると「初景滝」。このあたりから舗装された道に。「カニ滝」。「出会滝」。ふたつの渓流が出会うこと、から。最後に「大滝」。七滝中最大の大滝。幅 7m、高さ30m。周囲には釜滝と同じく柱状節理が見える。


七滝のメモはしごく簡単になった。生来の情感の乏しさゆえか、はたまた、田舎の出身であり、美しい自然があたりまえ、故郷の自然が一番と思っている我が身には、どうしても、自然描写に気合が入らない。そのかわり、というわけもないのだが、河津の七滝にまつわる伝説をメモしておく。
その昔、この地、万三郎岳・八丁池のあたりに天狗が棲んでいた。八丁池で洗濯する天狗の美しい妻に、七つの頭をもつ大蛇が懸想。天狗は、大蛇を退治すべく策をめぐらす。八丁池のあたりに強い酒をなみなみと満たした七つの樽を置く。女性を求めてき た大蛇、酒の魅力に負け泥酔。頃もよし、と蛇を切り刻む。で、このとき使った七つのタルは河津川に捨てられ、流れ流れてそれぞれ谷に引っかかり、七滝の滝壷になった、とか。

河津駅
河津七滝散歩を終え、河津七滝バス停から河津駅までバスに乗る。30分弱。少し時間があったので、早咲き桜で名高い、河津桜が並ぶ河津川沿いを歩く。桜祭りが近々はじまるらしく、屋台の準備が大規模に行われていた。川堤を少しのぼり、姫宮神社で大きな楠を堪能。踊子号にて一路家路を急ぐ。

火曜日, 2月 27, 2007

伊豆 韮山散歩:頼朝配流の地・蛭ヶ小島を辿る

2月のはじめ、伊豆を歩くことになった。きっかけは倶利伽羅峠と同じく、源氏だったか平家だったか、ともあれやんごとなき公達を主人公にした恋愛シミュレーションに嵌った同僚のお誘い、から。
韮山にある頼朝配流の地・蛭が小島、北条家の館跡、修善寺に移り実朝、範頼終焉の地を巡るとのこと。韮山といえば、蛭が小島もさることながら、江川太郎左衛門ゆかりの地でもあり、一度は行ってみたい、と思っていた。また、1泊2日の行程の中には「伊豆の踊り子」の歩いた下田街道を登り、天城峠を越え、河津七滝を歩く、という、少々のコンプリメントというか、散歩フリークへのご配慮もある。行かずばなるまい、ということである。(火曜日, 2月 27, 2007のブログ修正)




本日のルート;伊豆箱根鉄道・韮山駅>韮山・イチゴ狩りセンター>代官屋敷>蓮華寺>山木判官屋敷跡>蛭ケ小島>伊豆箱根鉄道と交差>成福寺>伝堀越公方跡>政子産湯の井戸>狩野川>守山自然公園遊歩道>守山山頂展望台>古川>真珠院>願成就院>伊豆箱根鉄道・韮山駅>修善寺駅>修禅寺>指月院>実朝の墓>範頼の墓>湯ヶ島温泉

伊豆箱根鉄道・韮山駅

品川駅から「踊子号」に乗り、三島に。伊豆箱根鉄道に乗り換え韮山駅で下車。このあたり伊豆の国市韮山と言う。2005年、伊豆長岡町・韮山町・大仁町が合併してできたもの。駅から東に進み最初の目的地は「韮山・イチゴ狩りセンター」。ビニールハウスの中を、後ろから迫るグループに追い立てられる如く、とはいいながら、もとを取らずば帰れまい、といった落ち着かない心持で畦道を進むわけで、情緒のないことこの上なし。とっとと切り上げ、イチゴ狩りセンターから南に少し歩き、次の目的地「江川邸」に。

江川邸
江川邸。代官屋敷を今に伝える重要文化財指定の建物。高い天井裏の構造、立ち木をそのまま利用した生き柱などの説明をボランティアガイドの方より説明を受ける。このお屋敷の主人はご存知「江川太郎左衛門」。ご存知、とは思ったのだが、同行の、それほど若くもない同僚諸氏にはあまり馴染みがないようでもあった。
江川太郎左衛門、といえば幕末・洋学・韮山代官・反射炉・お台場・海防・西洋砲術、といったキーワードが思い浮かぶ。が、江川太郎左衛門って、代々世襲の名前であった。祖始は清和源氏・源経基からはじまる名家。もとは宇野を名乗った。宇野治長が頼朝の挙兵を助けた功により、江川荘を安堵。鎌倉幕府・後北条と仕え、室町になって「江川」姓に改める。秀吉の小田原攻めの際、北条から離反し家康に与力。その功により代官に。明治維新まで駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵の天領(5万4千石。後に26万石)の民政官として活躍した、と。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

江川太郎左衛門
キーワードで代表される江川太郎左衛門、って36代の英龍のこと。号は担庵(たんなん)。若くして江戸に遊学。斉藤弥九郎に剣を学ぶ。二宮尊徳を招き農地改良をおこなったり、領民への種痘 接収など仁政を行い、「江川大明神」などと慕われる。そうそう、日本で最初のパンをつくった人でもある。
が、江川太郎左衛門といえば、なんといっても、反射炉であり、西洋砲術であり、お台場である。実のところ、この代官屋敷でボランティアガイドさんから説明を聞くまで、何ゆえ「韮山代官」が海防に尽力しなければならないのか、不思議に思っていた。伊豆の一地方・韮山の代官がどうして、相模湾・江戸の海防に腐心する必要があるのかわからなかった。説明によれば、韮山代官ってその行政範囲は駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵の天領といった広大なもの。外国船が出没しはじめた相模灘・相模湾、江戸湾の入口は行政管轄内であり、幕府の施策として「外国船打ち払い令」が制定されている以上、代官としては、その職務を全うするために海防施策にこれ勤める必要があったわけだ。「韮山代官」って如何にも「局所」っぽい名称に少々惑わされていた。
江川太郎左衛門と海防:職務上の必要から海防への強い問題意識。川路聖謨・羽倉簡堂の紹介で渡辺崋山・高野長英ら尚歯会の人物と交流。尚歯会は古色蒼然たる砲術の近代化のため、洋学知識の積極的な導入を図る。崋山は、長崎で洋式砲術を学んだ高島秋帆の登用を図る。蘭学を嫌う鳥居耀蔵ら保守勢力による妨害。天保10年(1839年)の蛮社の獄。鳥居の仕組んだ冤罪(えんざい)により崋山・長英ら逮捕され、尚歯会が壊滅。江川は老中・水野に評価されており、罪に問われることはなかった。
坦庵は崋山らの遺志を継ぎ高島秋帆に弟子入り。近代砲術を学ぶ。幕府に高島流砲術を取り入れ、江戸で演習を行う。高島流砲術をさらに改良した西洋砲術の普及に努め、全国の藩士にこれを教育。佐久間象山・大鳥圭介・橋本左内・桂小五郎(のちの木戸孝允)などが彼の門下生。水野忠邦失脚後の老中・阿部正弘にも評価され、彼の命によりお台場を築く。反射炉も作り、銃砲製作も行う。韮山に残る反射炉跡がこれ。また、造船技術の向上にも力を注いだり、近代的装備による農兵軍の組織を企図。その途上病に倒れる。

日本ではじめてつくった「パン」

江川邸を離れる。代官屋敷前のお店で坦庵が日本ではじめてつくった「パン」を買い求める。乾パン、といったテースト。

山木判官屋敷跡
道路脇の観光案内標示に「山木判官屋敷跡」の案内。山木判官って、治承4年(1180年)、源頼朝の軍勢による夜襲によって討ち取られた伊豆国の目代。源氏再興のはじまりとなった奇襲攻撃、である。この山木判官、正式名・平兼隆。京で検非違使をしていたが、その乱暴狼藉ゆえに勘当され伊豆国山木郷に配流。1179年のこと。翌年、以仁王の乱で伊豆知行国主・源頼政が死亡。平時忠が伊豆知行国主となる。で、兼隆は、国司・平時兼の目代として伊豆国を支配することに。目代とは現地に赴くことのない国司(遙任国司)が派遣した代理人のこと。
山木判官、って北条時政が、娘の北条政子を嫁がせようとした男であると言われる。で、婚礼前夜、政子は館から抜け出して源頼朝の待つ伊豆山権現へ遁れた、と。話としては面白いのだが、頼朝と北条政子の祝言は1177年。兼隆が伊豆に来たのが1179年であり、もう頼朝・政子は夫婦になっているわけで、兼隆・政子の祝言ってことはありえない話、といった節もある。山木判官屋敷跡を探して歩く。結局見つからず。どうも民家の庭先にあるようだ。

香山寺
道成りに進んで香山寺に。山木判官・平兼隆の墓がある、という。韮山駅から2.3キロといったところ。

蛭が小島
香山寺を離れ、次の目的地・蛭が小島に向かう。頼朝配流の地。蛭って、あまりにも、ぞっとしない名前。が、語源はノビル(野蒜)のことではないか、とも。蒜(ひる)とは、ネギやラッキョウなどを総称する古名。 川の堤防などに生える。つまり、蛭が小島って、ノビル(野蒜)が生い茂る川の中州、ってこと。往時、このあたりに狩野川の川筋があったのだろう。ちなみに、韮山の「韮」もノビル(野蒜)。韮山って、ノビル(野蒜)が生い茂る山といった意味、との説もあり。

頼朝がこの地に流されるまでの経緯
1156年、後白河天皇と崇徳上皇の争い。後白河側には源義朝・平清盛。崇徳サイドには源為義。これが保元の乱。後白河天皇側の勝利。戦後、平家を厚遇・源氏冷遇。1159年、清盛の熊野詣。この機を逃すべからずと、義朝挙兵。後白河が藤原信頼と図った謀略にうまく乗せられた結果、とか。これが平治の乱。
熊野より引き返した清盛に義朝は敗れ、東国に逃れる。が、尾張で殺される。一行に加わっていた頼朝も捕らえられ、殺されるところを、清盛の継母・池禅尼の嘆願により助命され、蛭が小島に流される。
何故、蛭が小島か、ということだが、この地が平時忠の知行地であった、ため。上でメモした、山木判官の目代屋敷のある地であり、監視下に置くのに都合が良かった、ということだろう。ちなみに、平時忠って、あの有名な「平家にあらずんば、人にあらず」というフレーズを言い放った人物。壇ノ浦で捕虜となる。娘を義経の側室にするなど、保身を図るが結局は能登に流され、一門は時国家として続くことになる。
14歳でこの地に流された頼朝は1160年ころから20年この地で暮らすことになる。流人とはいいながら、謀反の企てさえしなければ結構自由な暮らしではあったよう。熱海にある伊豆山権現や箱根権現の学僧に学問を学んだり、地方豪族の若者と狩りに興じたりもしている。で、恋愛も自由。蛭が小島のすくそばに館のあった北条家の政子にかぎらず、結構な恋愛模様が繰りひろげられた、よう。

条政子産湯の井戸跡

蛭が小島を離れ、次の目的地は北条政子産湯の井戸跡。西に進み伊豆箱根鉄道を越え国道136号線に。国道に沿って少し南に。道案内の標識を目安に西に折れ、小高い台地・「守山」方面に向かう。伝堀越御所跡の案内。「伝堀越」って何だ?と、疑問を残しながらも、標識に従い少し南。個人の住宅の玄関先といったところに「北条政子産湯の井戸跡」が。このあたりに北条一族の館があった、と か。もっとも、西手に聳える守山の西に館があった、との説もあり、よくわからない。付近には時政が頼朝のために宿館、つまりは別荘として建て、頼朝の死後に寺とした光照寺、8代執権北条時宗の子が父の遺志をついで創建したとされる成福寺など、北条氏ゆかりの寺が集う。
北条氏は桓武平氏の流れといわれる。伊豆の国北条庄にて代々在庁官人をつとめていた。とはいうものの、伊豆のほんの小豪族であり、頼朝の監視役であり、にもかかわらず娘が頼朝と割れな い仲に。立場上、当初反対するも、最後にはその仲を許し、上でメモした山木判官館襲撃をきっかけとして頼朝挙兵に与力。熱海・石橋山合戦での大敗北、その後安房への逃亡から再起、源平争乱をともに戦い、「大」北条となったことは、言うまでもない。

堀越御所跡

「伝堀越」御所跡に戻る。案内板を読む。あれ?これって、伝「堀越公方」、つまりは、「堀越御所跡」と、伝えられる、って、こと。堀越御所がこの地にあるとは思っても見なかったので、当初、伝堀越、と呼ばれる御所があったところ、と読み違えていた。ともあれ、思いがけない堀越御所の登場。本日の最大のサプライズ、となった。
堀越御所は堀越公方・足利政知が開いた御所。韮山の西方、狩野川に近い北条、というか守山の麓にある。一万坪にちかい敷地に、寝殿つくりの建物が並び平安文化を感じさせる館があった、とか。堀越公方、とは言うものの、もともとは、兄でもある将軍・足利義政の命を受け、東国に威を示すために下向したもの。しかしながら、東国平定、具体的には古河公方・足利成氏を平定するどころか、鎌倉に入ることもできず、この地に留まらざるを得なくなる始末。とはいうものの、鎌倉は今川の鎌倉攻撃により焼け野原。入ったところで心休まる場所もなかったではあろう。
古河公方とか、堀越公方とか、関東管領・上杉とか、この時代は、あれこれややこしい。ちょっと整理しておく。ちなみに堀越は「ほりごえ」と読む。
京都の将軍家は東国支配のため鎌倉公方を設ける。これって幕府が東西にふたつできる、ってこと。しかし、あくまでも鎌倉は京都の下にあるべきものと、されていた。が、時がたつにつれ、下風に立つことを潔よしとしない鎌倉幕府・公方と京都が対立。京都と鎌倉の全面戦争が勃発。それが、永享の乱。京都方が勝利し、鎌倉公方足利持氏の自殺で幕を閉じる。
この騒乱をとおして力をつけたのが上杉一族。京都の足利将軍家に与力し、鎌倉公方を攻撃。その功により、関東管領として関東を支配することになる。が、上杉一族、とはいうものの、なかなか一枚岩になることはなく、山内上杉とか扇谷上杉とかいった一族・身内での内紛もあり、関東の豪族の京都=上杉に対する反発も強く、鎌倉方は持氏の遺児を擁して京都=上杉と再び争いが勃発。それが結城合戦。
1449年、京都=上杉サイドは妥協の産物として持氏の遺児足利成氏を鎌倉公方に擁立。が、これにて上杉と鎌倉公方サイドの遺恨が消えることもなく、父を殺され恨み骨髄の成氏は関東管領・上杉憲実(持氏討伐の首謀者)の息子憲忠を暗殺。これを機に勃発したのが享徳の乱。上杉管領家と成氏の騒乱がおきる。当初は成氏 有利な局面あるも、駿河守護・今川範忠の鎌倉攻撃により、成氏は鎌倉を落ち、下総古河に後退。京都に反発する武将が集結。これが古河公方。
局面打開のため、京都派の武将は堀越「公方」成氏に対抗できる「権威」の下向を要請。京都の足利義政は天龍寺に出家していた足利政知を還俗させ、関東に派遣を決定。1457年、政知は成氏討伐のため下向。が、副将・斯波義敏が義政の命令に従わず出陣しないなど、陣容整わず、政知は成氏軍に大敗。成氏の勢威強く、鎌倉入府さえ叶わず、鎌倉手前の伊豆領に留まる。当初、山内上杉領であった伊豆の守護府のある韮山・国清寺に居を構える。後に旧北条の館跡といわれるこの地に御所を。それが堀越御所であり、堀越公方と呼ばれるにいたった所以である。
関東統一を目指し下向したものの、自前の武力もなく、賞罰の決定権もない。軍事権も政治権も京都の傀儡、家臣団も官僚も京都からの派遣。関東の豪族の支持を得られることもなく、京都=上杉派の名目的棟梁。とはいうものの、京都と成氏に和議が成立するなど、パワーポリティックには全くの蚊帳の外。無力な落下傘公方として鬱々たる日々をこの地で送ることになった、とか。
とにもかくにも、思いがけなく堀越公方ゆかりの地に出会った。韮山って、ここに来るまでは、韮山代官とか、反射炉、程度しか知らなかったのだが、伊豆の守護府があったり、西関東全域を行政区域とする韮山代官所があったりと、この地は戦略的に重要な位置を占めていたのであろう。箱根峠にも近く、伊豆の府中である三島にも近く、東海道の喉元にあたり、西方は駿河、遠江を、東方は相模、武蔵を押さえる要地であった、ということであろう。

狩野川の堤
堀越御所跡を離れ、守山の脇を抜け、狩野川の堤に向かう。守山と狩野川の間の微高地に北条館があった、との説もあり、その近くに願成就院がある、と思った。大雑把な地図であり、願成就院は守山の東麓、というから、川堤に沿って迂回する必要はなかったのだが、それは後の祭り。ともあれ狩野川方面に向かう。
狩野川は伊豆半島最高峰の天城山の源流を発し、修善寺川などの支流を集め、下田街道に沿って北流。田方平野を潤し、沼津で西に向きを変え大場川、黄瀬川と合流し駿河湾に注ぐ。全長46キロほどの一級河川。水源地・天城連山は年間雨量の多い地帯でもあり、標高差も高く水害が多発した。なかでも1958年の台風22号による狩野川流域の被害は甚大。世に言われる「狩野川台風」である。

守山自然遊歩道

狩野川の堤を歩く。守山の自然・緑に惹かれる。と、守山自然遊歩道の案内。よく調べることもせず、成行きで進めば目的の願成就院、そして守山八幡に進めるのでは、などと御気楽に考え山に入る。 これが大きな誤算。はじめこそ、遊歩道っぽいゆったりとした登り道。が、途中から厳しい登り。
木の階段が延々と続く。麓を巡る遊歩道、といった思惑はもろくも崩れ、これって登山道の赴き。グングン高みに進む。で、頂上の展望台に。いやはや苦労しただけあって、眺めは素晴らしい。
眼下に韮山が一望のもと。狩野川の流れ、ここまで歩いてきた道筋が手に取るように見える。往時の見張り台としては理想的なロケーションであろう。事実、ここには「守山砦」があった、とか。平城というか、平安風館の堀越御所は防戦には使えず、御所の背後のこの地に砦を築き敵を迎え討った、と。事実、この守山砦を巡る合戦が後の北条早雲・伊勢新九郎と堀越公方・茶々丸の間で戦われた。
先日読んだ小説、南原幹夫『謀将 北条早雲』に、この守山砦の合戦の記述があった。どこまでが事実で、どこからがフィクションか不明ではある。が、ちょっとまとめておく
堀越公方・足利政知のことは先にメモした。この政知には先妻の子である嫡子・茶々丸、がいた。が、政知は次男・京都天竜寺香厳院に出家の清晃を将軍後継者に、と企てる。それに怒り心頭の茶々丸は乱暴狼藉。座敷牢に押し込まれる。が、改心のふり。解き放たれた茶々丸は政知、一族を殺戮。山内上杉顕定(関東管領兼伊豆守護)が茶々丸に与力し威を示す。
この茶々丸討伐の企てをおこなったのが、伊勢新九郎。当時、今川家守護代として沼津・興国寺城主であった。関東制圧の野望をもつ新九郎は、暴政・圧政を敷く茶々丸誅殺を決心。茶々丸に与力する山内上杉顕定(関東管領兼伊豆守護)に敵対する扇谷上杉定正(相模守護)と結び、茶々丸勢力の分散を図る。で、扇谷上杉定正が山内上杉顕定をひきつけ、援軍不可の状況を作り出し堀越御所を奇襲攻撃。支えきれない茶々丸は、この守山砦に退き防戦に努めた、とか。
茶々丸はこの地で討ち死にしたとか、茶々丸に与力する狩野道一の城・狩野城にこもり、長く伊勢新九郎こと北条早雲を悩ました、とか説はあれこれ。ともあれ、この新九郎による茶々丸攻撃は、室町幕府の御所に対する今川家守護代の襲撃であり、考えようによっては日本最初の下克上、とも言われている。
守山で北条早雲まで現れるとは思ってもみなかった。そういえば、今回訪れなかった韮山城も堀越御所攻撃の後、新九郎が籠もった城である。いやはや、韮山って、あなどりがたし。

真珠院

展望台を離れ自然遊歩道を山麓東に下る。降り切ったところを南に進み古川の手前に真珠院。曹洞宗のこの寺には、頼朝との悲恋のヒロイン・八重姫の供養等がある。
頼朝は流人とはいいながら、結構自由に行動し、恋愛もした、と上にメモした。八重姫もその一人。東伊豆の豪族・伊東裕親(すけちか)の娘。頼朝は裕親の館に1167年から1175年まで招かれていたのだが、その間に恋に落ち、一子・千鶴丸をも設ける。頼朝監視役の裕親は怒り心頭。千鶴丸をなきものとし、頼朝を殺さんと、する。頼朝は北条館に逃げ込み難を避ける。
その後、頼朝をこの地に訪ねた八重姫は、頼朝に会うこともできず、というのは、すでに政子と祝言をあげていた、といった説もあるが、ともあれその身を嘆き、古川に身を投げた、と。八重姫を哀れんだ里人は古川の傍らにお墓を建てる。後にこのお墓がこの真珠院に移され、今に至る、と。
この八重姫には別のストーリーも伝えられる。江間小四郎に嫁いだ、という説だ。この江間小四郎って、北条政子の弟。後の北条義時。実際、義時の妻のことは謎に包まれているとも言われているし、まんざらありえないことでもないよう。
ちなみに千鶴丸も甲斐源氏の辺見氏に預けられ、後の島津になった、とも。ということは、この千鶴丸って三代執権・泰時ってことになるわけで、こうなってくると、わけがわからない。ここでは古川に身を投げた悲劇のヒロインということで止めておく。
伊東祐親(すけちか)のメモ;東国における平家方武将として平清盛から信頼を得る。頼朝の監視役でもあったことは先に述べた。頼朝挙兵後の動きであるが、熱海・石橋山の合戦では大庭景親とともに、頼朝軍を撃破。が、安房に逃れ、その後勢力を盛り返した頼朝軍と富士川の合戦で戦うが、それに破れ捕らえられる。一命は赦されたが、そのことを深く恥じ自刃した、と。

願成就院

真珠院を離れ韮山最後の目的地・願成就院に。鎌倉時代に頼朝の奥州征伐の成功を祈って北条時政が「願いが成就するように」という意味で創建。その後北条氏の氏寺として伊豆屈指の大寺院となる。が、先にメモした伊勢新九郎の茶々丸襲撃の時であろうか、願成就院は全焼。僅かに再建された堂宇も、秀吉の小田原征伐の時に再び全焼。現在の堂宇は江戸期に建てられたもの、である。

はてさて、これで韮山散歩もほぼ終了。時間の関係で伊勢新九郎が伊豆への橋頭堡として住まいした、韮山城、そして江川太郎左衛門の建設した反射炉跡はパスした。少々残念。反射炉も、実のところ、どうせ模型程度であろう、と思っていたのだが実物が残っている、ということだ。そうであれば、少々無理をしてでも歩いてみたかった、とは思うが後の祭り。国道136号線を伊豆長岡駅までに向かい、次の目的地・修善寺に。

修善寺

修善寺駅を降り、はてさて、どうするか。日も暮れてきた。どうしたところで時間がない。当初、最寄のところまでタクシーで行き、それから駅に歩いて戻りながら源氏ゆかりの 地を巡る、って段取りであった。が、乗ったタクシーの運転手さんの、「名所まとめてご案内、その後は本日宿泊予定の湯ヶ島までまとめて6000円で」との魅力的なる提案に負け、修禅寺、指月殿、源頼家の墓、源範頼の墓を一巡。散歩のメモという以上、歩きもしないところをメモするのも、なんだかなあ、ということで、修善寺のメモはパスすること、に。湯ヶ島の結構立派な宿に泊まり、明日の天城越えへの英気を養う。

水曜日, 1月 31, 2007

新河岸川散歩 Ⅲ ; 和光を歩く

先回の散歩では、黒目川合流点で行き止まり。気持ちの張りも失せ、当初の計画であった和光市・新倉河岸行きを、あきらめた。もっとも、散歩続行を諦め、朝霞台の駅に向かう頃は日もとっぷり暮れ、とてものこと、あれ以上進むことはできなかった、とも思う。
予定未完となった距離はごくわずか。黒目川合流点から終点・新倉河岸までは3キロ弱、といったところ。電車に乗ってわざわざ行く距離としては、少々物足りない。はてさて。で、如何なる思考回路のなせる業か、自転車で行ってみよう、と「発心」した。
片道30キロ弱。行って行けない、ことはない。川崎市鶴見まで自転車で、饅頭を買いに行った、こともある。その時も片道30キロ程度。お江戸日本橋の歌にでてくる、「六郷渡れば川崎の、萬年屋 鶴と亀とのよね饅頭」と歌われる、そのお饅頭を買い求めるためである。が、祝日というのに、お店は休み。暗い多摩川の堤防を、心の中で泣きながら、帰ってきた。その、苦行再び、となることは、日を見るよりも明らかだったのだが。。。(水曜日, 1月 31,2007のブログを修正)


本日のルート;杉並区・和泉>方南通り・大宮八幡>青梅街道・阿佐ヶ谷> 早稲田通り・本天沼2丁目>西武新宿線・下井草>新青梅街道>千川通り・環八>旧早稲田通り>石神井公園駅>西武池袋線・石神井公園駅>目白通り・三軒寺>笹目通り・土支田交差点>笹目通り>和光陸橋・川越街道>白子・吹上観音>妙典寺>金泉倉新河岸川>外環道交差>越戸川>(朝霞市)>台・黒目川合流点>田島・花の木>岡・城山公園>朝霞市博物館>浜崎3丁目・武蔵野線交差>朝霞浄水場>宮戸・宮戸橋>柳瀬川合流・志木市役所>いろは橋>中宗岡・志木市郷土資料館>逆コースを家路に

自転車で成増・白子を目指す
大体のルーティングは、ともかくひたすら北に向かい、まずは成増・白子を目 指す。最初のランドマークは、先日の白子宿散歩のとき行きそびれた吹上観音。素白先生こと、岩本素白氏の「白子の宿」に、それらしき観音さまの記述があり、行かずば成るまい、と思っていたところ。その後は、新河岸川に沿って、黒目川との合流点を目指す。そして、ついで、といっては何だが、朝霞市岡にある朝霞市博物館と、志木市中宗岡にある志木市郷土資料館を訪ねることに、する。
杉並区和泉の自宅を午前10時過ぎに出発。ひたすら北に進む。最初のランドマークは土支田。光が丘団地の西、笹目通りと交差するあたり。土支田は土師田、つまりは、土師(はじ)器をつくる人達が住んでいたところである、と。白子川流域には土師(はじ)器を焼いていた遺跡が多いとか。どのようなところがちょっと見ておきたかった。
杉並区・和泉を出発。方南通り・大宮八幡を北に青梅街道・阿佐ヶ谷に。成行きに北に進み早稲田通り・本天沼2丁目を経て西武新宿線・下井草、新青梅街道を越え、千川通り・環八に交差。環八を越え旧早稲田通りから石神井公園を経て西武池袋線・石神井公園駅に。成り行きで北に進み目白通り・三軒寺をへて、土支田地区を進み最初のランドマーク笹目通り・土支田交差点あたりに。当然のこと、「土師器」をつくっていた場所、といった趣きがあるわけもない。笹目通りを更に北に進み、和光陸橋で川越街道を越え、最初の目的地、吹上観音に着く。
おおよそ2時間程度、ひたすらに自転車のペダルをこぐ。カシミール3Dでつくった地形図でもわかるように、結構なアップダウン。特に最終地点、川越街道を越え、白子川に向かって下る道筋は急勾配。武蔵野台地の端、洪積台地から沖積低地に下る坂道である。

吹上観音
坂道を下り終えたあたりに吹上観音交差点。台地上の寺域の下を東に進み、吹上観音に。正式には東明禅寺。臨済宗の古刹である。東明寺の創立は室町期。観音堂は、天平年間(729~49)に、行基菩薩が東北巡行のおり、ここに立ち寄って観音様の像を刻んだ、とか。江戸時代から、秩父観音霊場などにもひけをとらない観音霊場として盛んに信仰された、と。
どこだったか、古本屋でみつけた江戸時代の散歩エッセー、『江戸近郊ウォーク(原題;江戸近郊道しるべ;村尾嘉陵);小学館)』にも「吹上観音道くさ」という記述があった。今からおよそ200年前、暇をみては江戸近郊を歩いて廻ることを唯一の楽しみにしていた、という清水徳川家老臣・村尾嘉陵の日帰り散歩のエッセーである。
が、「吹上観音道くさ」もさることながら、この観音様が気になっていたのは、岩本素白さんの散歩エッセー『素白先生の散歩』にある、「白子の宿 独り行く(2)」での白子の観音堂のくだり。いかにも吹上観音と思える観音堂の記述に惹かれていら。
『素白先生の散歩』での「白子の宿 独り行く(2)」;「この丘陵一帯の景色は面白い。はじめてこの観音堂に登った時には、丁度前の青田に白鷺の一群が降りたところであった。田圃を隔ててこの北の丘と相対している南の丘陵を眺める景色は更に面白い。その南の丘陵というものは実に複雑な高低起伏を持っているところで、上赤塚から下赤塚に連なり、仔細に歩いて見ると、地図や案内図に無い浅い谷間、狭い坂道、まるで隠れ里にでも行くような細い村道、木曽路でも歩くような眺めの所があり、山里めいた家々も残っている」。この描写に惹かれ、この観音さまに着てみたいと想っていた。当時ほど見晴らしはよくない、にしても、台地からの眺めはなかなかのものでありました。
本堂裏手の小高い場所に並ぶ百庚申、134基の庚申塚の間をゆったり歩き、吹上観音を離れ、妙典寺に向かう。

妙典寺
妙典寺行きのきっかけは、吹上観音の入口にあった和光市の名所案内。「子安の池」がある寺として紹介されていた。名前に惹かれ、行かずばなるまい、と。で、笹目通りに戻り、少し川越街道方面に進み、北に入ると妙典寺。
「子安の池」は本堂裏手にある湧水池。鎌倉期、佐渡に向かう途中の日蓮上人が、新倉の領主であった墨田氏の妻の安産祈願をおこない、無事男子を出産。その霊力ゆえに、この湧水池を「子安の池」と呼ぶようになった、とか。

午王山(ごぼうやま)遺跡
妙典寺を離れ、道なりに進み「午王山(ごぼうやま)遺跡」に。これも、妙典寺と同じく、吹上観音前の和光市名所案内に紹介されていた。新羅からの渡来人が都から移り来て、居住したところ、とか。畠というか、住宅街というか、ともあれ平地に取り残されたような20m程度の台地。弥生から室町にかけての各時代の遺跡が発掘されている。かつての、新座(にいくら)郡志木郷の中心地、郡役所があったところではなかったか、という説もある。新羅王が居を構えたといった伝説も残る。

志木(しき)は新羅(しらぎ)が転化したものでる、ということは何度かメモした。シラギを志楽・志羅木・志楽木などと音写し、それが転じて志木になった、とか。この志木郷があったのが、和光市白子・新倉あたりではなかろうか、というわけだ。白子も新倉も、シラコはシラギの訛りであるとされるし、新倉(にいくら)はかつての新座(にいくら)の音を残している。ちなみに和光のお隣に志木市がある。が、この志木市は明治になってできた名前。舘村と引又町が合併して志木宿としたことがはじまりであり、歴史上の志木郷とは関係がない。
新座(にいくら)郡のメモ;武蔵国には新座(にいくら)郡を含めて21の郡があった。郡の厳密な設置年代は不明だが、およそのところ、天武天皇(在位673-686)のころではなかろうか、と推測されている。ここ新座郡は、はじめ新羅(しらぎ)郡として、758年に置かれた、と。 帰化した新羅(しらぎ)僧32人・尼2人・男19人・女21人を武蔵国の閑地に移住させ、新羅(しらぎ)郡としたわけだ。これがのちに名を改められて、新座(にいくら)郡となった。「午王山(ごぼうやま)遺跡」のある台地の裾に金泉禅寺。臨済宗建長寺派。入口から山門まで100mもあるような結構な構えのお寺である。

新河岸川
金泉禅寺を離れ、新河岸川に向かう。和光高校の東を北に進むと和光市清掃センターと特養老人歩ホーム和光苑。和光苑の西のちょっとした公園を抜けると新河岸川。ここからが、本来の新河岸川散歩のクロージングのはじまり。

新倉河岸
川 に沿って上流に向かって進む。逆風がきつい。新河岸川の北の堤防の向こうは荒川が流れている。荒川河川敷公園の川向こう、「彩湖」が荒川に合流するあたりに「新倉河岸」があった、よう。明治43年の大洪水被害への対策として大正期に荒川下流、新河岸川の河川改修工事が行われたため、往古の川筋は変わってしまっている。彩湖は荒川下流部の洪水予防と荒川が水不足の時に首都圏に水道用水を供給するためにつくられた貯水池・遊水地。
新倉河岸。新座郡上新倉村(現和光市)にあった。成立の年代ははっきりしない。新河岸川が荒川に注ぐ河岸場であり、曳き船の開始点でもあった、とか。荷船の上流に向かって曳くわけだが、その曳き子「のっつけ」が泊まる船宿「のっつけ宿」に駄賃稼ぎの「のっつけ」が集まっていた、と。
油槽所と川筋の間の「踏み分け道」を少し進む。が、水路が合流し行き止まり。少しもどり、下水処理施設・新河岸川水循環センター脇を進むと外環道と交差。生コン工場などがある、ひどく殺風景なところ。ダンプカーを気にしながら北に折れ、再び新河岸川堤防に。いよいよの、「踏み分け道」。なんとなく嫌な予感におびえながら、逆風に抗ってペダルをこぐ。さすがに少々きつい。で、案の定、行き止まり。越戸川が合流する。

井口河岸(江口河岸)・越戸川

新河岸川と越戸川の合流点にあったのが井口河岸(江口河岸)。河川改修によりふたつの川の合流点が変わっているので、実際の場所は不明。成立の年代も不明。周囲は砂利や廃材などの置き場、下水処理場など、これといった情緒なし。越戸川は本町3丁目の和光市市立図書館ちかくの池(広沢の池)から湧水から発し、和光市と朝霞市の境を下る5キロ弱の一級河川。

黒目川

越戸川との合流点から引き返し、新河岸川水循環センターに沿って南に下り、東和橋で越戸川をわたる。朝霞九小前を通り、しばらく行くと東橋。黒目川と交差する。先回、行き止まりとなった黒目川と新河岸川の合流点あたりを眺める。

台河岸
で、合流点の少々下流にあったのが、「台河岸」。新座郡台村(現朝霞市)。別名「大河岸」とも。ここは東橋の少し上流にある笹橋近くにあった根岸河岸への荷の積み替えをおこなった河岸。根岸河岸へ通じる黒目川が浅いため、ここで小船に荷を移し変えた、とか。根岸河岸(黒目河岸)は笹橋より少し下流の黒目川右岸、現在の積水化学の運動場のあたりにあった、のではなかろうか。新座郡根岸村(現朝霞市)。成立の時期は不詳。が、宝暦(1750年から)当時すでに盛んに利用されていた、とか。根岸河岸へは、田無、保谷あたりから「河岸街道」と呼ばれる道が通じていた。


はてさて、先回の散歩断念のところまでやってきた。自転車で、3時間弱かかった。が、なんとなく、襷がつながった。少々の達成感あり。後は、朝霞市岡の朝霞博物館と、志木市中宗岡の志木市郷土資料館を訪れ、その後、一路自宅に向かって南に下る。帰り道の辛さは、語るも涙、となってしまいそう。本当にきつかった、とだけのコメントに留める
新河岸川散歩のメモもこれで終わりとする。メモしながら気がついたことは、新河岸川って、武蔵野台地の「崖線」に沿って下っている、ということ。カシミール3Dで地形図をつくって、あらためて気づかされた。

散歩するまでは川越市は平地のど真ん中、と思っていた。が、武蔵野台地の東北端にあり、周囲を荒川・入間川・不老川といった川に、囲まれている。川を越えなければ辿りつけない、とか、川で豊か(肥)になった土質、といった地名の由来も大いに納得できる。
新河岸川舟運についてきづいたこと;はじまりは川越藩御用ではあったが、次第に商人の手に移っていった。舟運が盛んになるにつれてあれこれトラブルも起きたようだ。ひとつには舟問屋と川越商人とのトラブル。舟問屋・運送業者と商人のトラブルであり、説明するまでもないだろう。もうひとつは、舟運と川越街道・江戸街道の旅籠・運送業者との争い。これは舟運業者と陸運業者のお客の取り合い。江戸街道の旅籠・運送業者があれこれ新河岸舟運にクレームを入れている。が、安全・便利でしかも安い舟運に利があったようだ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


舟には、並舟・早舟・急舟・飛切といったタイプがあったようだが、人を乗せるのは早舟。1日1回、夕方に新河岸を船出し、翌朝8時頃千住に到着。お昼には終点の浅草・花川戸に着いた、という。こんなに便利なら、舟を利用するだろう。ちなみに、並舟は不定期の貨物舟。河岸を巡りながらすすむので、7日から、20日もかかることもあった、とか。急舟は急ぎの荷物舟。2,3日での運行。飛切舟は今日下って明日戻る、といった超特急便。鮮魚の運搬に使われた、と。
新河岸川の終焉;江戸期をとおして、物流の幹線として機能した新河岸川舟運も明治になって、かげりがでてくる。鉄道輸送の開始がそのはじまり。明治23年には川越鉄道敷設運動が開始される。が、発起人には川越の商人は誰も入っていない。新河岸川舟運による利益を手放すことへの恐れが、あったのであろう。結局、明治28年川越・国分寺間の鉄道開通。翌29年には川越・大宮間に乗合馬車、39年には電車開通。明治17年に開設していた上野から高崎間の鉄道路線、明治22年に開通していた甲武鉄道開通(八王子>新宿)、と、いったように、鉄道による物流ネットワークが生まれる。大正3年には川越・池袋間に東武線が開通。これにより舟運から鉄道輸送の本格シフトがはじまることになる。

新河岸川舟運終焉の決定的要因は、新河岸川そのものの変化。明治43年の大洪水被害対策のため、九十九曲がりといった川筋をまっすぐにし排水をよくする河川改修工事。大正7年荒川の下流、大正9年には新河岸川の改修工事がスタート。通舟が難しくなる。大正12年に関東大震災。舟を失った東京湾沿岸の舟運業者の求めに応じ、新河岸川の舟主はほと
んどの舟を手放す。新河岸川舟運に見切りをつけていたのだろう。で、昭和6年には改修工事のため全流域にわたり通舟不可能となり、300年近く続いた新河岸川舟運が終わりを告げた。

日曜日, 1月 28, 2007

新河岸川散歩 Ⅱ;新河岸から朝霞に下る


先回は「新河岸」跡で日が暮れた、今回は「新河岸」跡からはじめ、和光まで下ろう、と思う。(日曜日, 1月 28, 2007のブログを修正)


本日のルート;新河岸駅>(牛子河岸)>(寺尾河岸)>白山神社>福岡河岸>大杉神社>56号・川崎橋>蓮光寺>古市場河岸>富士見川越有料道路>ふじみ野市運動公園>福岡高校>新伊佐島橋>砂川堀>南畑橋>富士見川越有料道路>富士見川合流>富士見サイクリングコース>254号・川越街道交差・岡坂橋>袋橋>志木市役所>柳瀬川合流>いろは河岸>引又河岸>宮戸橋>宮戸河岸>朝霞浄水場>朝霞第五中>武蔵野線>内間木>田島>田島公園>黒目川合流>東武東上線・朝霞台駅

東武東上線・新河岸川駅
東武東上線・新河岸川駅で下車。舟問屋・伊勢安のお屋敷に向かって進む。どっしりとした構えの屋敷に往時を偲び、川傍の日枝神社に。少々の高みから川筋を眺める。川筋から、この台地上の問屋まで運びあげるのは、少々難儀なことではなかったか、などと勝手な想像を巡らし、旭橋に。

牛子河岸

旭橋の対岸は牛子地区。「牛子河岸」があったところ。寛文4年(1664)に川越城主松平伊豆守輝綱によって開設。輝綱は信綱の子。旭橋南詰めを下ると寺尾地区。ここが新河岸川舟運のはじまりとなった「寺尾河岸」がつくられたところ。きっかけは寛永15年(1638年)の川越大火。焼失した川越の町や喜多院、東照宮再建のため建築資材を、川越・仙波に運ぶことになった。家康をまつる東照宮が燃え落ちたわけでもあるので、川越藩主・堀田正盛や天海僧正など江戸からの復旧資材を心待ちにしたこと、であろう。

当時の川越への舟運は荒川の平方河岸が使われていた。が、時期は春。渇水の時期。舟で運ぶことができない。で、外川・荒川の内を流れる「内川」に着目し、この地に河岸場を設けることにした。これが「寺尾河岸」。「寺尾河岸」をつくるに際し、荒川へ合流するまでに三箇所ほどあった古い土橋を板橋に架け替えるなどして、舟が通れるように整備した、と。ちなみにこの三箇所は川越市の古市場、富士見市の難畑(南畑)、志木市引又であった、という。板橋に反りをつけて舟が通りやすいようにしたわけだ。が、この「寺尾河岸」は所詮急場しのぎが目的。建築資材の搬入などが一段落すると、引き払われることになる。本格的に新河岸川の舟運がはじまるのは、先にメモした「新河岸」がつくられてから、である。

九十川
今は何の面影もとどめない寺尾地区を下る。川筋が蛇行するあたりに北から川筋が合流。この川は九十川。伊佐沼から下ってくる。江戸時代は九十川からの川筋が内川の本流。これより北の新河岸川の川筋って、川越台地の細流・遊女川、台地崖下から湧き出る湧水、不老川などの流れがあつまって、川筋をつくっていたのだろう。
遊女川、って少々艶かしい。が、由来は「およね」さん。姑による嫁苛めのため川に身を投げる。それを悲しんだ夫も同様に身を投げ、およねさんのもと、に。以来地元の人はこの川を「およね川」と。が、いつの間にか「夜奈川」とか「遊女川」と書くようになった、とか。

古市場河岸
川崎橋を越え、蛇行した流れに沿ってしばし南に下ると養老橋と交差。このあたりの東岸にあったのが「古市場河岸」。川越市古市場地区にある。橋のあたりが荷揚げ場であった、とか。成立時期は詳しくはわからない。が、寛延元年(1748年)以前にはできていた、よう。ここの河岸は舟問屋・橋本屋が、家業の醤油の出荷だけに使っていた、と。

福岡河岸
養老橋を渡った対岸にあったのが「福岡河岸」。入間郡福岡村、現在のふじみ野市。河岸場の成立は、天保8年(1837)に編まれた、『福岡名所図会』によれば、「古へは比地藪なりしが、享保の頃、当村民、冨田紋右衛門といふ者此処二住、始めて此河岸を始めけるより紋右衛門河岸と称しけるが、後に福岡河岸と云ふ。船多くありて、山方三ヶ嶋、勝楽寺其外飯能辺より薪炭其外木材等、並に諸荷物附出して此河岸より江戸へ積送り、入船出船日々には賑はしくぞなりにける」とある。享保というから、1716年頃には開かれていたのだろう。
福岡河岸には、3軒の船問屋があった。『武藏國郡村誌』福岡村の頃には、 「荷船廿九艘百石積四艘九十石積二十五艘」とあり、舟運が盛んであった様子が偲ばれる。現在も、このあたりは福岡河岸記念館など、屋敷や土蔵が残されている。

百目木(どめき)河岸
福 岡河岸跡から少し下り、川の西側に大日本印刷の工場があるあたりの対岸に蓮光寺。ここは川越市。立派な構えの総門をもつ曹洞宗の古刹である。しばしゆったりとした時を過ごす。蓮光寺を離れ、少し歩くと「川越富士見有料道路」と交差。このあたり、ふじみ野市中福岡に「百目木(どめき)河岸」があった。成立は明治期に入ってから。
「川越富士見有料道路」を越えると川筋はふたつに分かれる。一方は新河岸川放水路。東に進み「びん沼自然公園」、びん沼川をへて荒川に合流する。一方、新河岸川は南東に下る。





川筋を下ると、橋の手前に大杉神社。茨城県稲敷市に本社が鎮座。嵐にあった船を水難から護るという言い伝えから、船頭・船問屋に信仰されていた。関東・東北地方に分布する。名前の由来は、大杉を神体としていた、から。大杉の巨木が航海の目印となっていたの、かも。

伊佐島河岸
川筋を進む。遠くに富士山が見える。ふじみ見野市と呼ばれる所以である。カシミールDで、このあたりから眺めた富士の姿をつくってみた。まさか富士が見えるとは思っていなかったので、少々うれしい。川筋西側に富士見野市運動公園、東側に福岡高校。先に進み「新伊佐島橋」と交差。この橋の北詰にあったのが「伊佐島河岸」。入間郡勝瀬村伊佐島にあったため、「勝瀬河岸」とも呼ばれた。天保10年(1839)以前に成立したものと、考えられている。河岸場は宅地と竹林になっていて、その一角に水神祠が今も祀られている。

砂川堀
少し下ると「砂川堀」が合流する。狭山湖の北、埼玉県所沢市の早稲田大学所沢キャンパスの演習林を水源とする都市下水路。上流部は狭山丘陵北側の湿地であり自然河川。途中、調節池があったり、地下の導水管へ入ったり、人工的なせせらぎ水路を設けたり、暗渠になったり、あれこれ姿を変えながら、新河岸川に流れ込む。砂川堀と新河岸川の合流点には蛇島遊水地(西・東池)がある。

上南畑河岸
川筋の富士見サイクリングコースを下ると南畑橋。このあたりは上南畑地区。昔の入間郡上南畑村(現富士見市)。「上南畑河岸」のあったところ。上南畑河岸は、蛇木(はびき)河岸、とも呼ばれていた。

鶴馬本河岸
しばらく歩くと再び、「富士見川越有料道路」と交差。このあたりにあったのが「鶴馬本河岸」。入間郡鶴馬村(現富士見市)。成立は天明元年(1781)とされる。

富士見江川

道路を越えると「富士見江川」が合流。三芳町藤久保あたりからはじまる荒川水系の準用河川。準用河川って、市町村長の管轄。ちなみに一級河川は建設大臣。二級河川は都道府県知事の管轄。で、このあたりのあったのが「鶉(うずら)河岸」。入間郡鶴馬村鶉町(現富士見市)、現在の市立本郷中学校の東側あたり、と言われている。成立は、天明 元年の頃、と。

山下河岸
更に進み水染橋に。このあたりに「山下河岸」があった。水染橋の下流右岸、入間郡水子町(現富士見市)。河岸場の成立は、延享3年(1746)以前、と。河岸場のあったあたりは、竹やぶに変わっている。歩を進め、川越街道・岡坂橋と交差。岡坂橋の先、袋橋のあたりに旧新河岸川跡が残っている。このあたり、入間郡水子町(現富士見市)にあったのが「前河岸」。成立年代は、元禄11年(1698)、とも言われている。河岸場は新河岸川が蛇行した屈折部の先端にあり、現在の川筋とはかなり離れている。周辺には旧流路が残っているが、河岸場のあったところは埋め立てられ、宅地と道路になっている、とか。

柳瀬川と合流
袋橋を過ぎ、いろは橋を越えると柳瀬川と合流。ふたつの川がつくる三角州の突端部分から志木市となる。この突端部分に志木市役所があった。柳瀬川は所沢市の狭山湖を源流とし、ほぼ都県境を東北方向へ流れ、この地で新河岸川に合流する。

引又河岸
柳瀬川にかかる栄橋を経由し新河岸川に戻る。「引又河岸」があったのはこのあたり。新座郡志木宿。引又河岸は、明治7年(1874)引又町が志木宿と改名され志木河岸と呼ばれる。寛永年間(1624―1643)頃開業、と。新河岸川はかつて、現在の志木市役所周辺で大きく蛇行していて、柳瀬川との合流点は河岸場の上流にあった、とか。

宗岡河岸
この付近にはもう一箇所河岸があった。「宗岡河岸」が、それ。現在の「いろは橋」の上流、新河岸川左岸。入間郡宗岡村(現志木市)。「宗岡河岸」の成立は元禄期後半から享保期、と言うから、17世紀後半。「宗岡河岸」のあったところは、河川改修後に埋めたてられ、住宅地となっている。

いろは樋(とい)

栄橋を渡り、黒目川の堤防にそって新河岸川の合流点まで進む。途中に「いろは樋(とい)」の案内。昔、この地に、野火止用水宗岡地区に送る樋(かけひ)が架かっていた。新河岸川の北、上・下宗岡村を知行していた旗本岡部忠直の家臣・白井武左衛門は、灌漑水の乏しかった宗岡地区に、新河岸川に落ちていた野火止用水を送水しようと試みる。寛文2年(1662)、舟の運航を妨げないようにと、水面からの高さ約4mに、長さ約260mの木樋を設ける。 掛樋(かけひ)は48個の樋でつながれていたため、「いろは樋」と呼ばれた。

宮戸河岸
先に進むと宮戸橋。この橋の近くに「宮戸河岸」があった。新座郡宮戸村(現朝霞市)。成立は安永期(1773年)よりも古い、といわれる。現在、河岸場のあったところは埋め建てられ、全くその跡を留めていない。

朝霞浄水場
川脇に「朝霞浄水場」。埼玉県朝霞市にあるが、東京都水道局の施設。東日本最大。また、大阪府枚方市・村野浄水場に次ぎ、日本第二の処理能力をもつ。利根川・荒川の水を、荒川の秋ヶ瀬取水堰から取水。ここから杉並区上井草、および文京区本郷給水所に送水している。村山浄水場のとことでメモしたが、利根川・荒川の水と多摩川の水を相互に利用できるように東村山浄水場と朝霞浄水場の間には、原水連絡管を設置。利根川・荒川の水と多摩川の水を「やり取り」できるようにしている。ちなみに利根川と荒川との間は武蔵水路と呼ばれる連絡水路で結ばれている。

浜崎河岸(お台場河岸)

武蔵野線を越えると新盛橋。この橋の上流にあったのが「浜崎河岸(お台場河岸)」。新座郡浜崎村(現朝霞市)。成立時期は不明。この河岸場は、荷出しはなく、 田畑の肥料類を降ろすだけ。品川の台場の倉庫から肥料を運んだので、お台場河岸と呼ばれた。




黒目川と合流
新盛橋を越え、先に進む。日が落ちてきた。外環道の「ハープ橋」が遠くに見えてきた。外環道を越えれば和光。なんとか日が暮れる前に、和光へと、の思い。

川筋を進む。黒目川と合流。あれ?道がない。黒目川を合流点の突端部から上流に。が、道がない。愕然。戻るしかない。気力が失せる。完全に日も暮れた。残念ながら本日はここまで。最後の気力を振り絞り、新堀橋まで戻る。既に歩く気力もなく、丁度走ってきたタクシーに乗り、最寄りの駅へ、と。東武東上線・朝霞台に戻り、一路家路に。和光までの残り少々は次回のお楽しみ、とする。

土曜日, 1月 27, 2007

新河岸川散歩 Ⅰ: 川越から新河岸へ

1月の連休を利用して新河岸川を歩いた。以前荒川区を散歩したとき、岩淵水門のあたりで新河岸川に出合った。江戸と川越をつなぐ舟運路であった、とか。川筋散歩フリークとしては大いに気になる川ではあった。が、如何せん、川越は遠い。川筋も結構距離がある。
川越から岩淵水門まで34キロ弱ほどあるだろう。歩きたし、と思えども、少々腰が引けていた。
今年に入り白子から平林寺まで歩いた。昨年末にも野火止用水を歩いた。そのいずれも、知恵伊豆こと、川越藩主・松平伊豆守信綱ゆかりの地。新河岸川もこの信綱が整備し舟運を発展させた川、である。知恵伊豆つながり、というわけでもないのだが、この機を逃すべからず、と一気呵成に新河岸川散歩に進むことにした。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



本 日のルート;川越駅>埼玉医科大行バス(連雀町>松江町>大手町>市役所前>裁判所前>川越氷川神社>川越街道・氷川前>51号>伊佐沼入口)>伊佐沼>九十川>小仙波>川越街道・小仙交差点>新河岸川>(仙波河岸)>大仙波>16号交差>川越線交差>不老川合流>(扇河岸)>(上新河岸)>(下新河岸)>日枝神社>

新河岸川のメモ
新河岸川のこと、そして新河岸川の舟運のメモ;江戸の頃、新河岸川は川越・伊佐沼に源を発し、武蔵野台地の東端に沿って志木、朝霞を下り、和光市新倉のあたりで荒川に合流していた。現在の新河岸川は狭山から流れる赤間川とつながり、和光市から都内に入り、板橋区を流れ、荒川区の岩淵水門で隅田川に合流する。
新河岸川の舟運のはじまりは、寛永15年(1638年)。川越大火による街の復興のため、特に家康をまつる仙波・東照宮再興のためであろうが、当時の川越藩主・堀田正盛や天海僧正が中心になって建築資材の荷揚げ場をつくったこと、による。この河岸の名前は寺尾河岸。川越市街から4キロほど下ったところにある。当時「内川」と呼ばれたこの川筋は、現在とは異なり、伊佐沼からこの寺尾方面に下っていた。
この寺尾河岸は、あくまでも街の復興のためのもの。舟運による物流整備のために計画されたものではなかった。で、街の復旧の目処がたつと、お役御免となる。半年ほどしか使われなかった、とも言われている。
新河岸川の舟運を本格的にはじめたのは川越藩主となった松平信綱。川越と江戸を結ぶ舟運を整備するため寺尾河岸の少し上流に河岸を開いた。その河岸は「新河 岸」と呼ばれた。名前の由来は、寺尾河岸に対して新しい河岸、という意味。内川と呼ばれた川筋もこれを契機に「新河岸川」と呼ばれるようになる。
新河岸舟運は、もともとは、川越藩の公用として開かれた。が、新河岸の近くに扇河岸が開かれる頃から、川越藩にかわり、商人が中心となって新しい河岸建設、舟運をつかった商業活動がはじまる。川越近郊だけでなく、遠く信州・甲州からの荷の物流幹線として機能した。
明治になると、鉄道による影響などにより舟運にかげりが見え、昭和6年に新河岸舟運の終焉を迎える。河川改修により通船不可能になった、ため。この間300年近くこの新河岸川は物流の幹線として地域発展に大きな役割を果たした、と。(土曜日, 1月 27, 2007のブログを修正)

東武東上線
さて、本日の散歩の一応のルーティング。新河岸川の源流点である伊佐沼からはじめ和光市・新倉あたりまで下ることに。新河岸川は現在でも、ゆるやかな蛇行を繰り返しながら流れている。が、往時は九十九曲がり、といわれるほど蛇行を繰り返していた、とか。もともと曲がりくねった川ではあったようだが、舟運の便宜を図るため、信綱がより一層の「曲がり」を加えた、わけだ。水位を高め、水流をゆるやかにするため、である。もっとも、現在の川筋は明治に洪水対策のため河川改修工事が行われ、極力直線で流れるようになっている。そのため距離も当時より10キロ程度短縮されている。ということは、本日の散歩は20キロ程度の散歩となりそう、である。
東武東上線で川越駅に。この街には一度来た事がある。小江戸、などと呼ばれ江戸の雰囲気を今に留める街並みを楽しむため、などと言いたいところだが、きっかけは映画「ウォーターボーイ」。川越高校の水泳部がモデルと言われている。どんな高校か、と、足を運んだ次第。さすがに構内に入るわけにもいかず、高校の南隣にある小高い丘に登り雰囲気を楽しんだ。この丘は川越城・富士見櫓跡、であった。御岳神社、浅間神社も祀られていた。で、ついでに、といては何だが、駄菓子横丁、蔵造りの町並み、川越城の本丸御殿、天海僧正ゆかりの喜多院、その南にある家康を祀る仙波東照宮なども訪れた。
川越には蓮馨寺、三芳野神社、氷川神社、それから川越市の西・入間川を越えたところにある河越氏の館跡・常楽寺など、訪れたいところは数多い。三芳野神社のあたりって、大田道潅なのか、その父の大田道真なのか、どちらが築いたのか不明だが、川越城のあったところ。わらべ歌「とおりゃんせ」の舞台でもある。「とおりゃんせ とおりゃんせ ここはどこの細道じゃ 天神さまの細道じゃ」といった路地もゆっくり歩いてみたい。が、とてもではないが、今回は時間がない。ということで、川越巡りは次のお楽しみとして、今回は、とっとと伊佐沼に向かうことにする。

伊佐沼
駅から伊佐沼に歩こう、とは思ってはいた。が、なにせ川越についたのが午後2時頃。毎度のことながら、時間がない。駅前からバスを利用する。埼玉医大行きのバスで伊佐沼入口下車。畠というか水田のど真ん中に降ろされる。どうも、別ルートで伊佐沼の近くに行くバスがあった、よう。ともあれ、コンパスで方角を調べ、バス停から南に下る。
用水路が南北に続いている。地図でチェックすると、入間川から分水し、伊佐沼に流れ込んでいる。あたり一帯の灌漑用水として使われているのだろう。用水路に沿って下る。昔はこのあたり一面、沼沢地。弥生時代から水田が開かれ「美田地帯」になったためであろうか、伊佐沼から川越の市内北側にかけての一帯は、三芳野と呼ばれていた。意味は「すぐれた良い土地」ということ。
遮るものの何も無い水田地帯を1キロ弱歩き伊佐沼に。結構大きい沼。南北1.3キロ。東西300mといった、ところ。関東では印旛沼につぐ沼。昔はもっと大きく、南北2キロ弱、東西330m余りもあった、とか。第二次大戦時、食料増産のため北半分が干拓された。沼の案内板によれば、この沼が新河岸川の源流。この沼から九十川(くじゅう)という細流、と いうか泥川が水田を蛇行しながら流れ、寺尾地区で往時「内川」と呼ばれていた新河岸川に合流していた。
この沼がどのようにしてできたのかは不明ではある。が、入間川の流路が変更になり、取り残されたのではないか、と言われている。名前の由来も諸説。村人の名前から、とか、漁(いさり)する沼>漁り沼、が転化した、とか。往時、このあたりは雁の渡ってくる名所でもあった。川越城が別名「初雁城」と呼ばれる所以である。ちなみに、「ウォーターボーイ」のモデルとなった川越高校の徽章は「三羽の雁」である、と。

九十川
沼に沿って下る。桜並木が続く。西隣にある「伊佐沼公園 冒険の森」が切れるあたりから九十川が流れ出す。流れに沿って進むと16号線と交差。これって、あの横浜とか八王子を走る国道?チェックすると、その通り。国道16号は横浜を始点に、東京を環状にとおり埼玉から千葉の富津まで続く。
交差地点でどちらに進むか少々迷う。九十川筋に沿って4キロ程度南に歩き寺尾地区・寺尾河岸跡あたりまで下るか、はたまた16号に沿って川越市街方向に向かい、新河岸川・仙波河岸あたりに進むか、はてさて。地図をチェック。 新河岸は寺尾河岸より結構上流にある。九十川を下れば、上流に戻らなければならない。どうせのことなら、上流から下流に進もう。
ということで16号に沿って歩き、仙波地区に進むことに。小仙波交差点で川越街道を越えると「新河岸川」。これからが新河岸川散歩の始まり、となる。

小仙波
小仙波の歩道橋を渡り新河岸川脇に立つ。川筋は北から続いている。このあたりの川筋は正確には「赤間川」、と呼ぶべき、か。源流点は狭山市笹井と入間市鍵山に境を接する入間川の笹井堰。この堰より入間川の水を取り入れ、しばらくは入間川に沿って、その後は国道16号線に沿って北東に進み、舌状台地上にある川越の街をぐるっと廻り、この地・小仙波に続いている。
赤間川は昔は伊佐沼に流れ込んでいた。昭和9年になって、赤間川の瀬替え工事をおこない、新河岸川とつなげられた。1キロほど下ったところに新河岸川最上流箇所の河岸・「仙波河岸」がある。そのあたりまで掘り進み、繋いだのであろう。

仙波
川筋に沿って「仙波」地区を進む。川沿いの武蔵野台地のうえに、いくつもの貝塚がある。縄文時代の頃は、このあたりまで海が入りこんでいた、ということ。いわゆる「古東京湾」と呼ばれるもの、である。仙波の地名の由来ともなった、仙芳仙人の伝説の中にも、一面の海であったこの地を陸地にした、といった話が残る。仙(芳)+海原(波)=仙波、ということ、か。古墳時代から平安時代にかけてかなりの規模の集落があった、というし、台地上にある長徳寺は仙波氏の館があった、とも言うし、この仙波の地は、川越でも古くから開けたところの、ようだ。
ちなみに、仙波氏とは東村山から多摩丘陵一帯に勢力をふるっていた村山党の一党。平安末期に、頼朝の父・義朝の関与する保元の乱に、仙波党の仙波七郎が参陣との記述があるが、川越の歴史に登場することは、あまりない。

仙波河岸史跡公園
16号線と交差。仙波町と富士見町の境目あたりに、「仙波河岸史跡公園」がある。川筋から木の橋、というか、ちょっとした木の遊歩道を進み、仙波河岸跡に。いかにも荷揚げ場といった雰囲気の舟着場跡が残されている。この河岸は新河岸川で最も新しく、明治12年から13年頃つくられたもの。新河岸川で最も上流部にあった河岸、でもある。公園内には「仙波の滝」の碑。昭和の中ごろまで、台地上にある愛宕神社の崖下から流れ出る豊かな湧水が滝となって流れ落ちてい た、と。愛宕神社って、防火・火伏せの神様。京都の愛宕山に鎮座する愛宕神社は全国に900ほどある、とか。

不老川(としとらずかわ)
新河岸川に戻る。対岸に「新河岸川上流水循環センター」。すこし下ったところで、「不老川(としとらずかわ)」が合流する。不老川の水源は、都下西多摩郡瑞穂町にある狭山池からの伏水流とされる。入間市、狭山市をへて新河岸川に合流。全長17キロ。霞川、残堀川、野川などとともに往古の多摩川の名残である川、と。
で、この川、1983年の頃、日本一汚染された川、などと、あまりありがたくないタグ付け、を。生活排水が「水源」ともなった時期もある。現在は、浄化も進み、平成10年からは、新河岸川上流水循環センターで処理した下水をポンプで12キロほど上流に圧送。不老川放流幹線を通し、一日39000立方メートルの水を還流している。
都内では、呑川しかり、目黒川しかり、落合の「落合水再生センター」で高度処理された下水を還流するのは見慣れた光景ではあった。埼玉のこの地でも、急速な都市化の中で同じ状況が生まれた、ということか。

扇河岸
不老川との合流点あたりにあったのが「扇河岸」。天和3年(1683年)につくられた。川越五河岸のひとつ。扇河岸の名前の由来は、扇形の河岸屋敷があったから、とか。開設のきっかけは天和2年(1682年)、火事で焼け落ちた江戸の松平家・江戸屋敷復興のため。建築資材を運ぶためにこの地に河岸がつくられることになったわけだ。
が、この河岸の歴史的意義は、河岸建設が川越藩ではなく、商人の手によってつくられた、こと。内川につくられた寺尾河岸にしても、新河岸にしても川越藩の公用が主眼。一方、この扇河岸は、川越の大商人など17名が加わり資金を出し合ってつくられた。この地は、台地のはたで湧水があり、その丸池の周囲に河岸場をつくるには大量の土盛りが必要となる。ということは、多くの資金が必要。ために、商人の力が必要となった、ということだろう。
初めの頃は川越藩の公用として、藩の援助を受けてはじまった新河岸川舟運ではあるが、この扇河岸以降、次第に藩の手を離れて川越の商人を中心として運営されるようになってきた。要するに、この頃には、この新河岸川をつかっての江戸と川越の舟運が大きな利益を生むようになっていたのであろう。この河岸は明治に仙波河岸が開設されるとともに、衰えていった、と。

新河岸
扇河岸から少し下り旭橋のあたりが「新河岸」のあったところ。正保4年(1647年)、川越藩主・松平信綱によって開かれたもの。川越発展のためには、川越と江戸をつなぐ舟運路の整備が必要と考えたのであろう。ここから1キロほど下流の寺尾には、寛永15年の川越大火による町の復興のため既に「寺尾河岸」つくられていた。半年ほどで使われなくなってはいたが、、河岸を開くに際し、下流の河川整備は済んでいた。江戸から建築資材を運ぶための舟が通りやすいよう、橋の改修、具体的には、土橋を板橋に変えるなどの河川整備が行われていたわけだ。


で、信綱はこの地に注目し、新しく河岸を開き、「新河岸」と名付けた。「寺尾河岸」に対して新しく開いた河岸、といった意味である。「内川」と呼ばれていた流れも、この河岸の成立の後は、「新河岸川」と呼ばれるようになった。
「新河岸」と呼ばれていた河岸場は、元禄6年(1693)年の頃には旭橋を隔てて北が「上新河岸」、南が「下新河岸」と分かれていたようだ。ともに川越五河岸のひとつ。旭橋のそばに如何にも由緒ありげな商家。舟問屋伊勢安のお屋敷。現在は米穀業をおこなっているように見えた。実際に問屋跡など目にすると、リアリティが大きくなってきた。
伊佐沼から下った新河岸川散歩も、新河岸で日没となった。本日はここまで。東武線・新河岸駅まで歩き、残りは明日に、ということで家路を急ぐ。

(牛子河岸)>(寺尾河岸)>白山神社>福岡河岸>大杉神社>56号・川崎橋>蓮光寺>古市場河岸>富士見川越有料道路>ふじみ野市運動公園>福岡高校>新伊佐島橋>砂川堀>南畑橋>富士見川越有料道路>富士見川合流>富士見サイクリングコース>254号・川越街道交 差・岡坂橋>袋橋>志木市役所>柳瀬川合流>いろは河岸>引又河岸>宮戸橋>宮戸河岸>朝霞浄水場>朝霞第五中>武蔵野線>内間木>田島>田島公園>黒目 川合流>
黒目(根岸)河岸>

水曜日, 1月 10, 2007

白子の宿から平林寺へ

「川はみな曲がりくねって流れている。道も本来は曲がりくねっていたものであった。それを近年、広いまっすぐな新国道とか改正道路とかいうものができて、或いは旧い道の一部を削り、或いはまたその全部さえ消し去ってしまった。走るのには便利であるが、歩いての面白みは全く無くなってしまったのである。
埼玉県白子の町は、昔は白子の宿と云った。私が初めて武蔵野の中の禅林、野火止の平林寺を訪ねたのは、実に久しい以前のことで、まだ開けない全くの田舎であった成増の方から歩いて行った。その少し先が白子なのである。。。」。
素白先生こと、岩本素白の「独り行く(二)白子の宿」の書き出しである。新年、何処から歩き始めるか、少々迷ったとき、素白先生のこの書き出し部分を思い出した。そもそも、素白先生のことを知ったのは、昨年、成増・赤塚台辺りを散歩していたときのこと。一瞬白子の町をかすめ、その名前の面白さに惹かれ、あれこれ「白子」を調べているときに、偶然素白先生の「白子の宿」の文章を見つけた。散歩の達人、散歩随筆の達人ということである。で、著書はなどと探していると、みすず書房から『素白先生の散歩(岩本素白)』が出版されており、上の随筆も収められている。早速に入手。散歩の随筆といえば永井荷風の『日和下 駄』が知られているが、私はこの素白先生の文章に大いに惹かれた。同書の帯に曰く;「愛用のステッキを友に、さびれた宿駅をめぐり、横丁の路地裏に遊ぶ素白先生。沁みるような哀感、えもいわれぬ豊かさ、ひそやかな華やぎが匂う遊行随筆の名品」。そのとおり、である。素白先生の話になると、どこまで続くか分からなくなる。このあたりで本筋に戻る。素白先生の書き出しにあるように、白子の宿から平林寺まで歩こう、ということ。素白先生の歩いた道筋を辿るって、新年の歩きはじめには慶き事なり、と思った次第。(水曜日, 1月 10, 2007のブログを修正)


本日のルート;有楽町線・成増駅>254号線・川越街道>八坂神社>旧川越街道>旧新田宿>白子川>熊野神社>県道・109号線・旧川越街道>笹目通り交差>東京外環自動車道>和光市駅入口交差点>陸上自衛隊朝霞駐屯地前>朝霞警察署前>254号線・川越街道>黒目川交差>水道道路交差点>新座警察所前交差点>新座市役所>平林寺


有楽町線・成増駅
有楽町線・成増で下車。川越街道に沿って西に進む。板橋散歩の折に歩いたところでもあり、見慣れた風景。川越街道が白子川に向かって大きく下る手前にある八坂神社まで進む。素白先生の白子の宿の一説に、「丘の上に幾筋も道の在るのは遥かに見える南の丘と同じことで、この丘陵の上には高原のように打ち開けて秋は薄の野になるところ、如何に神とはいえ淋しかろうと思われる一宇の社があり。。。」とある。勿論原文とは場所も違うだろう。薄もあるわけではなく、車の往来の激しい川越街道沿いにひっそり佇むこの小祠、なんとなく、「如何に神とはいえ淋しかろうと」、思った次第。

新田坂の石仏群

八坂神社の手前に「新田坂の石仏群」の碑。先回訪れたときは、先客があり、じっくりとなにかメモをしておられたので、気にはなっていたのだが、先を急いだ。碑文に曰く:石仏群4基。新田坂(しんでんさか)周辺から集められたもの。道祖神は、区内唯一のもので、文久三年(1869年)の建立。もともとは八坂神社の入口にあった。
常夜灯は文政13年(1830年)の建立。成増2丁目34番の角に立っていたよう。「大山」と刻まれいることから、道標も兼ねていた。川越街道と分れて南に向かう道は、土支田方面に通じる。稲荷の石祠と丸彫の地蔵の造立年代は不明。昭和59年に区の有形文化財に」、と。土支田は白子川を南に進み、笹目通りと交差するあたり。光が丘の西にある。土支田(どしだ)は土師田、つまりは、土師(はじ)器をつくる人達が昔々住んでいた。白子川流域には土師器を焼いていた遺跡が多い。貫井には土師器を焼いた窯場跡が発見されている。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


八坂神社

向いの八坂神社にちょっとおまいり。「新田宿と八坂神社」の由来書;板橋宿の平尾(板橋3丁目)で中仙道と別れた江戸時代の川越街道は上板橋宿、下練馬宿をへて白子宿へ向かう。八坂神社右手の道が当時の川越街道で、この付近、白子川へ下るための大きく曲がった急坂(新田坂という)となっていた。新田坂から白子川の間は新田宿と呼ばれた集落で、対岸の白子宿から続いて街道沿いに発達した。昭和初期には小間物屋や魚屋、造酒屋などが軒を連ねていた。八坂神社は京都の八坂神社を勧請したものといわれ、「天王さま」とも呼ばれている。御祭神は素戔嗚尊とイナダヒメノミコト。元々は現在地よりやや南にあったが、昭和8年の川越街道新道工事の際に移された」、と。
ちょっと寄り道、というか、素白先生によれば「話は少し横へ逸れるが」という表現だが、この八坂神社ってよくわからない。祇園社、とも天王社とも呼ばれる。ちょっと調べてみた。そもそも八坂神社とは京都の八坂神社を勧請したもの。正確に言えば、八坂神社という名になったのは明治の神仏分離令以降。それまで「天王さま」とか「祇園さん」と呼ばれていた。明治になって本家本元・京都の「天王さま」・「祇園さん」が八坂神社に改名したため、全国3000とも言われる末社が右へ倣え、ということになったのだろう。八坂という名前にしたのは、京都の「天王さま」・「祇園さん」のある地が、八坂の郷、といわれていた、から。ちなみに、明治に八坂と名前を変えた最大の理由は、「(牛頭)天王」という音・読みが「天皇」と同一視され、少々の不敬にあたる、といった自主規制の結果、とも言われている。
で、なにゆえ「天王さま」・「祇園さん」と呼ばれていたか、ということだが、この八坂の郷に移り住んだ新羅からの渡来人・八坂の造(みやつこ)が信仰していたのが仏教の守護神でもある「牛頭天王」であったから。また、この「牛頭天王さま」は祇園精舎のガードマンでもあったので、「祇園さん」とも呼ばれるようになった。上に、御祭神は素戔嗚尊とイナダヒメノミコトと書いた。どうも、牛頭天王=素戔嗚尊、と同一視していたようだ。神仏習合である。
ちょっとややこしいがメモする;牛頭天王の父母は、道教の神であるトウオウフ(東王父)とセイオウボ(西王母)とも考えられるようになった。ために、牛頭天王はのちには道教において冥界を司る最高神・タイザンフクン(泰山府君)とも同体視される。そこからさらにタイザンオウ(泰山王)(えんま)とも同体視されるに至った。泰山府君の本地仏は地蔵菩薩ではあるが、泰山王・閻魔様の本地仏は薬師如来。素戔嗚尊の本地仏は薬師如来。ということで、牛頭天王=素戔嗚尊、という神仏習合関係が出来上がったのだろう。閻魔様=冥界=黄泉の国といえは素戔嗚尊、といったアナジーもあったのだろう。
また、素戔嗚尊は、新羅の曽尸茂利(ソシモリ)という地に居たとする所伝も『日本書紀』に記されている。「ソシモリ」は「ソシマリ」「ソモリ」ともいう韓国語。牛頭または牛首を意味する。素戔嗚尊と新羅との繋がりを意味するのか、素戔嗚尊と牛頭天王とのつながりを強めるためのものなのかよくわからない。が、素戔嗚尊と牛頭天王はどうあろうと同一視しておこうと、ということなのであろう。寄り道が過ぎた。先に進む。

新田宿
素白先生曰く;「僅かばかりしか家並みの無い淋しい町が、中程のところで急に直角に曲がり、更にまた元の方向に曲がっている。いわゆる鍵の手になっているのである。それと、狭い道の小溝を勢いよく水の走っているのとが永く記憶に残った。
新しく出来た平坦な川越街道を自動車で走ると、白子の町は知らずに通り越してしまう。静かに徒歩でゆく人達だけが、幅の広い新道の右に僅かに残っている狭い昔の道の入口を見出すのである。道はだらだら下りになって、昔広重の描いた間の宿にでもありそうな、別に何の風情もない樹々の向こうに寂しい家並みが見える(白子の宿・独り行く2)」、と
川越街道から一筋離れた坂をのんびり下る。素白先生の言うとおり、まっこと、車で走ると知らずに通り越すことだろう。心持ち落ち着いた家並み。このあたりは新田宿であったところ。板橋散歩のときのメモをコピーする;
白子川の手前、道の左手に細井金物店。この向いに童謡作家、清水かつらが住んでいた。かつらの代表的な歌詞は「靴がなる」。当時としては「靴」は高級品であったわけで、わらじではなく、靴に「はれやか」な思いを託していたのかも。
「靴がなる」
1.お手々つないで野道を行けば
  みんなかわいい小鳥になって
  歌をうたえば靴が鳴る
  晴れたみ空に靴がなる
2.花をつんではお頭(つむ)にさせば
  みんなかわいい兎になって
  はねて踊れば靴が鳴る
  晴れたみ空に靴が鳴る

ちなみにおなじところに「浜千鳥」や「おうちわすれて」の作者・鹿島鳴秋も住んでいた。

青い月夜の 浜辺には
親を探して 鳴く鳥が
波の国から 生まれでる
濡(ぬ)れたつばさの 銀の色

夜鳴く鳥の 悲しさは
親を尋ねて 海こえてn

月夜の国へ 消えてゆく
銀のつばさの 浜千鳥

白子川
坂を下りきったところに白子川。南大泉4丁目の大泉井頭公園を源流点とし、和光市、板橋区を流れ、板橋区三園で新河岸川に合流する全長10キロの川。かつては武蔵野台地の湧水を集めて流れる川。大泉の名前も、白子川に流れる湧水の、その豊さ故につけられた、とか。一時は汚染ワースト一位といった、あまり自慢にならないタグ付けをされたりしたが、先日白子川を源流から下ったときの印象では、川越街道あたりまでは美しい流れに戻っていた。白子川の清流を守る市民運動の賜物であろう、か。
白子の由来は、新羅(しらぎ)が変化した、と言われる。奈良時代、武蔵国には高麗郡、新羅郡が置かれた、ってことは以前メモした。新羅や高句麗、百済からの渡来人が移住したわけだが、新羅郡は平安時代の頃には新座郡と記され、大和言葉で爾比久良郡(にいくらこおり)と読まれるようになる。で、新座郡の中で、この成増の辺りは志楽木(しらき)郷と称し、のちに志未(志木)郷となる。志未は志楽の草書体からきたもの、とか。 「白子」も「しらぎ」が変化した地名と云われている。

熊野神社
以上が昨年7月にこの地を歩いたときのメモ。先に進むことにする。新田宿を越え、白子川を渡りT字路。素白先生の描く、「鍵の手」といったところか。右に折れ熊野神社に。素白先生曰く;「小家の並んだ道の右に、後ろに森を背負った社域の広い熊野の社がある。そこには、いささかの滝が落ちている。夏も冬も絶えず落ちていて、本来は信仰の上の垢離場であったのだろう(白子の宿・独り行く2)」、と。
熊野神社は白子の鎮守さま。由来書によれば、「中世、熊野信仰は全国的に武士や民衆の間に広まった。熊野那智大社に伝わる「米良文書」の中の「武蔵国檀那書立写」には多くの武蔵武士とともに「しらこ庄賀物助、庄中務*」の名があり、和光市域の武士にも熊野信仰が伝わっていたことがわかる」と。
この「庄」さんって、平安末期、練馬から和光市にかけて勢力をもっていた武蔵七党のひとつ・児玉党の流れをくむ「庄(荘)」一族であろう、か。境内には大きな富士塚があった。今まで見た富士塚の中でも最大級のもののように思える。神社脇に水が流れ落ちる。いささかの滝、といった表現がぴったり。神社の横に不動院。これって昔の記録にある白子不動さん、だろう。
素白先生の「白子の宿」への思い入れが少々強く、白子で長引いてしまった。先を急ぐ。

川越街道
白子宿の熊野神社を離れ、新座・平林寺に向かって進む。県道109号線。これって、旧川越街道。15世紀、途切れ途切れにあった古道をもとに、大田道潅が江戸と川越をつないだもの。江戸、川越、そして岩槻の城が古河公方に対する上杉管領陣営の攻撃・防御の戦略的拠点であったため、この往還を確保せんとしたのだろう。近世に入り、松平信綱が川越藩主となった寛永16年(1639)以後整備され、川越往還と呼ばれた。幅4、5間(7-9メートル)あった、というから結構広い。
川越往還は板橋宿(板橋3丁目)で中山道と分かれ、上板橋、下練馬、白子(和光市)、膝折(朝霞市)、大和田(新座市)、大井(大井町)の6宿を経て川越まで続く。その先は、道幅は半分以下になるものの、北へ進み川島、松山、大里を通って中山道・熊谷宿へと続いていた。松山から小川、寄居を通って 秩父へも行けるため、秩父参詣に行く者で往還は大いに賑わった、とか。
また、この川 越街道は公儀御用としても重要な往還であった。公儀御用の場合は、先触(人馬通知書)を出しておくことにより、宿場間に必要な人馬の数、駕籠(かご)などは無償で提供されることになる。白子宿には馬7頭、人足3人が常時用意されていた、とか。が、川越往還は川越御用、公儀鷹方御用、大名の江戸参府などの公儀往来が多く、常備だけでは間に合わず、周辺の村からの助っ人・助郷役が必要であった、とか。助郷負担って結構大変であったよう。ために、その代償として茶屋の営業権や、公儀御用の馬であっても、宿からの戻りの時には一般庶民を乗せて駄賃を稼げる、といったあれこれの便宜を受けていた、とか。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


東京外環自動車道路
東京外環自動車道路と交差し先に進む。東武東上線・和光市駅入口交差点。和光の名前の由来だが、町制施行時に「大いに和する」ということで大和町と。これって、東大和市の由来と同じ。で、市制施行時には本来なら「大和市」、ということになるわけだが、既に東大和市などがあったため、「大和(町)に光を」ってことで、和光市となった、と。

陸上自衛隊朝霞駐屯地
109号線を進む。もちろんのこと、街道沿いの町並みに昔の面影などあるわけもなく、素白先生であっても、情景描写に難儀するのでは、などと思いながら歩を進める。陸上自衛隊朝霞駐屯地あたりで、和光市から朝霞市に入る。少し進むと膝折地区。昔は新座群膝折村と呼ばれた一帯。地名の由来は、馬が骨折したから、と。本来なら膝折町であり、膝折市となるところだが、あまりに縁起もよろしからず。ということで、昭和7年東京ゴルフ倶楽部がこの地に移るとき、その倶楽部の名誉総裁であった宮様の名を頂こう、となったわけ。その宮様が朝香宮殿下。が、そのままではあまりに畏れ多い、ということで、朝霞、となった、とか。いやはや地名の由来って、これといったルールもなく、あれこれあって興味が尽きない。

黒目川
旧川越街道を進む。朝霞警察署のあたりで旧・新川越街道が一瞬合流。このあたりから道は黒目川の川筋に向かっ て大きく台地を下る。黒目川によって開析された台地はその先で再び盛り上がっている。その台地の緑の先に平林寺があるのだろう、あってほしい、との思いが強い。年末に痛めた膝が完治しているわけでもないので、少々弱気。黒目って、先日の野火止用水散歩のときにメモしたように、黒目(くろめ)>久留米(くるめ)、と、東久留米市の名前の由来となったもの。
黒目川は水源を小平市・小平霊園内の雑木林に源を発し、東久留米市>新座市>朝霞市>新河岸川> 荒川へと続く全長15キロ弱の荒川水系・一級河川。カシミール3Dでつくった地形図を見ると、黒目川に沿って台地が大きく開析されている。正直、これほど大きく台地を切り開く川とは思ってもみなかった。そのうち源流点から一度歩いてみよう。

平林寺
台地をのぼり、水道道路の交差点を越え、新座警察署交差点に。ここを南に下ると平林寺まで、あと少し。歩を進める。新座市役所のあたりから平林寺境内林がはじまる。この雑木林は武蔵野の面影を残すものとして、国の天然記念物に指定されている。
フェ ンスに囲まれた雑木林を眺めながら進むと平林寺。昨年野火止用水を平林寺まで歩いたのだが、このお寺さまに着いたときは4時過ぎ。残念ながらお寺は閉門していた。なんとなく気になっていたので、年明け初めの歩きとしてここまで来た次第。拝観料300円を払い境内に。茅葺の山門が美しい。二層の楼門。その後ろに仏殿。山門の南手には半僧坊。半僧坊のことは秩父散歩でメモしたのでここではパス。
全体に落ち着いた、いいお寺。本堂の裏手に進む。雑木林の中をのんびり歩く。野火止用水の支流・平林寺堀の跡が残る。水は流れてはいなかった。武蔵野の林を堪能し、松平伊豆守信綱の墓所に向かう。平林寺は大河内・松平家の菩提寺でもある。

松平信綱
平林寺はもともと、元和元年(1375年)、岩槻に大田氏により創建。この大田氏って、岩槻城主であった太田道潅の父・道心という説、別人という説、あれこ れ。よくわからない。寛文3年(1663年)、川越藩主・松平伊豆守信綱の遺志を受け、子の輝綱がこの地に移す。松平信綱は家康の代官・勘定奉行をつとめた大河内久綱の子。伯父である松平正綱の養子となり松平を称する。島原の乱の鎮圧や「明暦の大火」の後の江戸の復興に尽力。「知恵伊豆」とも呼ばれ、家光・家綱の二代にわたり名老中としてその職務を果たす。松平信綱の墓所のあたりは重厚な墓所が広がる。大河内家の墓所であろう。少々圧倒される。

安松金右衛門
松平家の墓所の手前に安松金右衛門、小畠助佐衛門の墓が並ぶ。安松金右衛門は野火止用水開削の功労者。もともとは新宿にあったお墓を昭和になってこの地に移した
、とか。杉本苑子さんの小説『玉川兄弟』で、伊豆守の主命を受け玉川上水への取水口を羽村にするように玉川兄弟に協力する安松金右衛門の「姿」が思い 出される。
野火止用水を構想する伊豆守としては、高低差の関係より羽村からでなければ自分の領地・野火止台地に導水できない。技術的にも、羽村からでしか分水できなかったわけだが、玉川兄弟は当初、日野あたりからの分水を試みる。が、通水に失敗。結果的に羽村からの分水に落ち着く。
信綱は、玉川上水完成の功により、玉川上水の三分の一を野火止用水に導く許しを得る。野火止用水のことは既にメモしたので、このあたりで止めておく。で、小畠助佐衛門。信綱が川越城主となったとき、原野開墾・藩財政の安定に尽力。最後には家老にまで上り詰めた人物。野火止用水もその事業の一環。

増田長盛

増田長盛の墓もあった。豊臣政権・五奉行のひとり。武人というより文官。上杉景勝との交渉や太閤検地に力を発揮。関が原の合戦時は西軍に属し大阪城の留守居役をつとめる。が、石田三成の挙兵を家康に内通するなどしたため、所領は没収されるものの命は助けられ、身柄は岩槻城主・高力清長に預けられる。その後、息子が大阪の陣で西軍に属したため自害を命ぜられる。平林寺が岩槻にあったためこのお寺にお墓があるのだろう。

見性院殿
見性院殿の墓とい うか宝篋印塔もある。見性院とはいっても、山内一豊の妻・千代とは別人。武田信玄の息女であり、信玄の武将穴山梅雪の妻。ちょっと横道にそれるが、この穴山梅雪って、なんとなく面白い人物。信玄の重臣ではあったが、信玄の息子・勝頼とは反目。諏訪氏の血を受け継ぐ勝頼より、梅雪と見性院との間に生まれた息子が信玄の正当なる後継者であると信じていたから、といった説もある。
ともあれ、武田勝頼と織田信長・家康の連合軍が戦った長篠の合戦で梅雪は無 断で戦線離脱。その後、徳川家康に降伏した。重臣・梅雪にも見限られた勝頼は天目山で自害。名門武田家は滅ぶ。家康と梅雪は安土で信長にお目見え。その後、ふたりで堺見物と洒落込む。その時起こったのが、光秀の反乱・本能寺の変。池宮彰一郎さんの小説『遁げろ家康』にあるように、伊賀の山中をさ迷いながらも家康は窮地を脱する。が、梅雪は落ち武者狩りに遭い無念にも落命。梅雪の死後、見性院は家康の庇護を受け江戸城内で暮らすことになる。
やっと見性院に戻る。見性院といえば、名君・保科正之の養い親であった、ということで有名。この保科正之は二代将軍秀忠と奥女中との間に生まれた子。正室・小督の方に隠れ、見性院が育てることになる。で、この子は信州高遠藩・保科家の養子となり元服し保科正之と名乗る。三代将軍・家光とは異母弟。側近として家光をよく補佐し、その功により会津23万石の藩主に。家光没後はその遺言により、四代将軍家綱の後見役として、その補佐役に徹する。中村彰彦さんの書いた 『名君の碑―保科正之の生涯』は面白かった。見
性院はさいたま市の清泰寺に葬られたが、平林寺の住職とも懇意であったので、ここに宝篋印塔がおかれることになった、とか。

島原の乱供養塔
大河内・松平家の墓所から本堂に戻る途中に「島原の乱供養塔」がある。島原の乱については、昨年中野区散歩のときメモした。中野の宝泉寺に島原の乱鎮圧軍の上使であった板倉重昌がねむっていた、から。が、そのときのメモの記憶もそろそろ、あやしくなってきた。おさらいをする。島原の乱:寛永14年、というから1637年、九州・島原で起こった農民を中心とした反乱。信綱が幕府鎮圧軍の上使として派遣され、知恵伊豆の名をいやがうえにも高めることになる。そもそものはじまりは、大阪の陣の功績により島原の領主となった松倉重政、その子・重家の圧政そしてキリシタン弾圧。また、関が原合戦の功により天草を加増された唐津城主・寺沢堅高の、松倉氏ほどではないにしても、圧政とキリシタンへの厳しい取締り。農民による島原の代官所襲撃をきっかけに、浪人・民衆も加わり3万名弱の勢力となる。
総大将は天草四郎。原城に立て籠もる。反乱勢力に対し、幕府は13の藩からなる鎮圧軍を派遣。そのときの総大将・上使となったのが板倉重昌。が、上使とはいうものの、重昌は三河国・深津藩1万5千石の小大名。黒田藩、細川藩といった何十万石といった雄藩・大大名の軍は重昌を軽視。軍の統制とれるはずもなく、戦線は膠着状態。業を煮やした幕閣は松平信綱を上使として派遣することに。重昌は武士の面目なしと総攻撃を下知。鎮圧軍は指揮に従うわけもなく、重昌は単騎、死を覚悟して攻撃。あえなく討ち死に。


上使として到着した信綱は攻撃を止め、兵糧攻め。さら大砲による威嚇攻撃をおこなう。で、反乱軍の士気が落ちた頃を見計らい、総攻撃。食料もなく士気の衰えの激しい反乱軍は鎮圧され、場内にいたものは婦女子を含め1名を除いて死罪となる。その数2万7000名。うち婦女子は1万2千名にのぼった、という。助命された1名は、原城内の状況を内報していた、絵師だった、とか。
知恵伊豆のイメージとはほど遠い、厳しい処置ではある。が、反乱軍側だけでなく、圧政者にも厳しい処分を下す。松沢重家は打ち首。大名であれば通常切腹であろうが、それも許さぬ厳しい処置。また、寺沢堅高は領地没収。後に自刃した、と。この「島原の乱供養塔」は、3万名にもおよぶ人々を供養するため文久元年(1861年)に大河内・松平家の家臣により平林寺に立てられたもの、とか。
先回の野火止散歩で日没のため参詣できなかった平林寺もやっとカバーし終える。素白先生へのオマージュ故に、白子の宿からはじめた今回の散歩。締めも素白先生の「白子の宿―独り行く2」の最後のパラグラフを引用する。素白先生曰く;「私は何時もこういう何の奇もない所を独りで歩く。人を誘ったところで、到底一緒に来そうもないところである。独りで勝手に歩いているから、時々人と違ったことも考える。先頃この辺りを歩きながら考えたこと、それは昔私はよく、この世間に所謂聡明な人は極めて多いが、善良な人は甚だ稀だと思っていたが、このごろ考えてみると、善良な人は案外多くして、本当に聡明な人というものは殆ど無いということである。
こんな考え方は、私の歩くつまらない道と共に、大方の人はこれ笑うであろう。(昭和三十二年)」。
なんということのないところを、ひたすらに、ぶらぶら歩く。ために、独りで歩く。こんな散歩を2年近く続けてきた。3年目の1月、次回はどこを歩こうか。

水曜日, 12月 20, 2006

秩父 秩父観音霊場散歩 Ⅴ;第二回秩父札所巡り(2)

宿でのんびりしながら、翌日の予定をどうしたものかと、少々真面目に話し合う。当初の予定では、最初に長瀞に向かい、それから西武秩父へ成行きで戻り旅、などと考えていた。地図を見る。宿は語歌橋の近く。5番札所・語歌堂も直ぐ近い。ということは千体仏の4番札所金昌寺もその先に。ということは、先回の札所散歩のとき、時間切れで行けなかった1番、2番札所は、そのもう少々先にある。宿から西武秩父まで歩くのであれば、とっとと、1,2番札所に進むべし。 で、黒谷の和同開珎の露天掘り跡を経て長瀞へというコースに、急遽というか、計画しておけば当たり前というか、の段取りですんなり決定。(水曜日, 12月 20, 2006のブログを修正)



本日のルート;語歌橋>5番札所・語歌堂・長興寺>4番札所・金昌寺>2番札所・真福寺>1番札所・四萬部寺瑞岩寺>和同開珎>秩父鉄道・黒谷駅>上長瀞駅>長瀞>宝登山神社>西武秩父

朝、宿を出立。交通量の多い県道・11号を避け、一筋東に入った道を歩く。5番札所語歌堂前を通り、先回パスした5番札所の納所・長興寺にちょっと立ち寄り、先に進む。織姫神社。昔、このあたりに織物工場があり、織物にちなんだものではあろう。が、秩父夜祭、って秩父神社の織姫さまと武甲山の龍神さまの年に一度の逢瀬のとき。こちらのコンテキストで考えるほうが、なんとなく落ち着きがいい。

織姫神社のところを東に入り、4番札所・金昌寺の門前をかすめ、先に進む。山の端をしばらく歩き二番札所の納経所・光明寺に立ち寄り、2番札所真福寺に向かう。大棚地区の山道を進み、九十九折れ・急勾配の峠道を越えると木立に囲まれた真福寺に着く。4番札所・金昌寺から、50分程度の歩き。途中の峠あたりか らの武甲山など、山々が美しい。

2番札所・真福寺
観音堂は、屋根・向拝や彫刻も美しく、風格ある趣き。本尊の聖観音立像は一木造りで室町時代の作。長享の頃というから15世紀の末、水害に遭い札所からはずされていたようだが、信者からの復活要望も強く34番目の札所として再登場。現在の場所に移ったのは江戸時代初期のこと。当時はもっと大きな規模であったようだが、万延元年(1860)火災により焼失した、と。本堂の左手に注連縄を張った社というか小祠。春日神社、諏訪神社などがまつられている。ちなみの、長享頃って、どんな時代だったか、ということだが、室町幕府、将軍・足利義尚の子治世。加賀の一向一揆の門徒が、守護・富樫氏を攻め自刃においやった、といった時代である。
ご詠歌;「巡りきて願いをかけし大棚の誓いもふかき谷川の水」

真福寺を離れ山道を下る。結構急勾配。この道を上るのは大変であろう、と思いながら歩いていると、サイクリング自転車に乗った御仁が急勾配をものともせず上がり来る。脱帽。坂道を30分程度下ると四萬部寺に。

1番札所・四萬部寺
山門をくぐり中へ入ると、正面奥に観音堂。元禄の頃の建築。紅葉が素晴らしい。いい雰囲気。寺伝によれば、昔、性空上人が弟子の幻通に、「秩父の里へ仏恩を施して人々を教化すべし」と。幻通はこの地で四萬部の佛典を読誦して経塚を建てた。四萬部寺の名前はこれに由来する。本尊の釈迦如来像が明治の末に、行方不明になったことがある。その後、70年をへて都内で発見され、現在この寺に収まっている、と。本堂の右手に施食殿の額のかかったお堂。お施食とは、父母、水子等があの世で受けている苦しみを救うための法会。毎年、8月24日に、この堂で行われる四万部の施餓鬼は、関東三大施餓鬼のひとつと。大いに賑わう。ちなみにあとふたつは「さいたま市浦和の玉蔵院の施餓鬼」、「葛飾・永福寺のどじょう施餓鬼」。
四萬部寺が札所一番になったいきさつは、上でメモしたように、江戸からのお客様対策。繰り返しになるが、江戸からの巡礼道としてもっともよく使われていた「川越通り(川越から小川、東秩父を経て粥新田峠(かゆにたとうげ)>三沢>曽根坂峠>秩父大宮)」にしても、熊谷方面からの「熊谷通り(中仙道>熊谷>寄居>釜伏峠>皆野>秩父大宮)」にしても、秩父へのゲートウエイとしては、結局はこの四萬部寺がベストロケーション。粥新田峠から皆野町三沢地区に下ると、四萬部寺までは県道82号(長瀞・玉淀自然公園線)の一本道。釜伏峠から下って来ても三沢地区で同じ県道に出る。ということは、川越通り、熊谷通りのどちらを歩いても、この寺が一番近い秩父札所ということ。
ご詠歌;「有難や一巻ならぬ法(のり)の花 数は四萬部の寺のいにしえ」

瑞岩寺
四萬部寺を離れ次の目的地・黒谷の和同開珎露天掘跡に向かう。野道を20分程度進み、国道140号線の手前あたりに瑞岩寺。秩父十三仏霊場のひとつ。裏山は岩肌の露な魅力的な風情。ツツジの名所とか。ツツジの季節に来てみたい。この岩山、戦国時代大田道潅と戦った長尾景春の居城跡と伝えられる。
長尾景春って結構面白い。室町から戦国時代初期にかけ、関東を戦乱・混乱に巻き込んだ立役者。ことの発端は、関東管領・山内上杉憲実の家宰・長尾景信の跡継ぎ騒動。景信は景春の父。景春はてっきり自分に家宰の跡目が廻ってくる、と思っていた。が、管領・上杉憲法は跡目を景信の弟・忠景に継がせた。怒り狂った景春は寄居の鉢形城に立てこもり上杉家に戦いを挑む。これが「長尾景春の乱」のはじまり。一時は上杉軍を破り、上杉・管領家は上野に退却。ここで扇谷上杉家の家宰・大田道潅の登場。道潅は景春に復帰を呼びかけるが不調。で、合い争い、結局景春は破れ再び鉢形城に籠城。上杉軍が鉢形城を包囲。景春は上杉と争う古河公方・足利成氏に支援要請。なぜ古河公方か。簡単に言えば、といっても、簡単には説明できないのだが、関東管領・上杉氏と犬猿の仲であった、ということ。もとは鎌倉において鎌倉公方であったのだが、公方の補佐役・管領上杉家と争い、結局は鎌倉から追い出され、古河に本拠地を構える。古河公方と呼ばれる所以。で、鎌倉の公方(堀越公方)・上杉管領家と関東を二分した争いが続く。
本題に戻る。成氏動く、との報に接し、上杉軍は包囲を解き足利軍に備える。結局、上杉と足利は停戦成立。取り残された景春に対し、大田道潅は鉢形城を攻め景春を秩父へと追放した。瑞岩寺の景春の居城跡、って、このとき拠点としたところだろう、か。 その後のこと:道潅死後は再び秩父から出兵し、群馬・渋川市にある白井城を拠点に上杉家と戦い続け、最後は小田原・北条早雲と同盟を結ぶことになるが、あくまでも上杉家と戦い続けた。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

和銅露天掘跡
瑞岩寺から30分程度の歩きで秩父鉄道黒谷駅。駅を越え、再び山地に向かう。30分程度登り、ちょっと沢に下ると「和銅露天掘跡」。秩父市と皆野町にまたがる蓑山(587m)につくられた「美の山公園」の麓。蓑山って、秩父唯一の独立 峰、ってことをどこかで見たような気がする。ともあれ、ここは秩父古生層と第三紀層の大きな断層崖が形成された地。この露頭壁に走る自然銅の鉱脈を、露天掘りによって採掘したのであろう。この地で採掘された「にぎあかがね」・自然銅は精錬銅に対して熟銅とも言われる極めて純度の高いものであった、とか。慶雲5年(708年)、秩父から自然銅が元明天皇に献上される。天皇大いに喜び、詔を発布し年号を「和銅」と改元した。で、その銅をもとに日本での最初の流通貨幣「和同開珎」がつくられた。銅は秩父の広い範囲から産出されたが、和銅にちなむ名前が多いこの黒谷をもって昭和61年「和同開珎の碑」が建てられた。
秩父の歴史は古い。縄文遺跡は市内に五十ヶ所、弥生式文化も数ヶ所から出土している。「チチブ」という名が現れたのは旧事記、国造本紀の中で「崇神(すじん)天皇の時代、知知父国造(ちちぶくにのみやつこ)が任命された」がはじめて。この「知知父」が「秩父」に改まったのは元明天皇の和銅六年、国、郡等の名を二字の好字に定めたことによる。で、古い歴史をもつこの秩父が歴史上有名になったのは、なんといってもこの黒谷の和銅を天皇に献上したときであろう。なにせ、改元したほどであるわけだから。大赦もするわ、臣下や百官を昇進させたり、老いた人にはモミを配ったり、徳の有る人を表彰したり、武蔵国にはその年の庸(よう)、秩父郡は庸・調(ちょう)等の租税を免除した、というし、いやはや、国を挙げての一大行事であったのだろう。
和銅露天掘跡に登る道すがら、「聖神社」という趣のある社があった。時間がなくなり、気になりながらもパスしたのだが、この神社って採掘された自然銅を御神体にした神社。神社創建の式典には天皇からの勅旨が派遣され、その際「銅のムカデ」が授けられ、神社の宝物となっている、とか。「ムカデ」の意味合いは、渡来人との関連で考えるのがわかりやすい。渡来人の王・若光王をまつる「白髭神社」の神のつかいはムカデ。フイゴ祭りには藁でつくったムカデをまつる風習もあるし、ムカデの油漬けは火傷の薬としても効果ある。精錬・鍛冶・金工といった、一連の作業に関係するムカデの霊力をまつる行為は渡来人の間でおこなわれていた祭祀のひとつ。和銅の採掘には金上金上无(こんじょうむ)等、渡来人のもつ技術なくしては不可能であり、渡来人の信仰の対象であった「ムカデ」を天皇が記念に贈ったのであろう。この神社をパスしたのは少々残念。散歩の鉄則として、「とりあえず行く」の精神を再確認。

「和同開珎の碑」を離れ、秩父鉄道・黒谷に向かう。次の目的地は長瀞であるのだが、膝のガタもさることながら、時間が少々タイト。電車を利用し、上長瀞駅に。昨年紅葉の季節の見た、上長瀞駅近くの県立自然博物館付近の紅葉の美しさを再び、と思った次第。紅葉の中を長瀞駅までのんびり歩き、これも昨年食べた「田舎饅頭」の味を再び、と。なんとなく子供の頃、なくなった祖母がつくってくれた「饅頭」の味を思い出す。お土産に、「田舎饅頭」を買い求め、最後の目的地・宝登山神社に向かう。

宝登山(ほどさん)神社

秩父鉄道・長瀞駅から一直線に参道が。白大鳥居が目に付く。結構歩いた。山麓に宝登山(ほどさん)神社。秩父神社、三峯神社とともに秩父三社のひとつ。ここにも日本武尊が登場する。寺伝によれば、三峯とおなじく景行天皇の御世、その皇子である日本武尊がこの山に登る。突然の山火事。一面火の海。いずことのなく現れた「お犬さま」が奮闘し鎮火。危機一髪の難を逃れる。お犬さまは日本武尊を山頂に案内し、再び何処とも無く立ち去る。「お犬さまは、神のお使い」と感謝。この山を「火止山(ほどやま)」と命。山頂からの美しい眺めに神の山にふさわしい、と「神日本磐余彦尊(かみやまといわれひこのみこと;神武天皇のこと)」「大山祇神(おおやまづみじんしゃ;山の御神霊)」「火産霊神(ほむすびのかみ;火の御神霊)」の三柱をまつる。その後、火止山は霊場として続き、弘仁年中に宝珠が光り輝き山上に飛翔する神変。ために「宝登山」と称し、仏教、特に修験場として栄える。山麓には玉泉寺(真言宗)も開基され、神仏習合の宮として明治の神仏分離令まで続く。日本武尊伝説にちなみ防火、災難消除の神として信仰厚い神社となっている。

この神社の御眷属は三峰神社と同じく「お犬さま」、というか狼。御眷属、というか、神様のボディガードと言うか、神様の使いもバリエーション豊富。伊勢神宮はニワトリ。天岩戸の長鳴鳥より。お稲荷様は狐。「稲成=いなり」より、稲の成長を蝕む害虫を食べてくれるのがキツネ、だから。八幡様はハト。船の舳先にとまった金鳩より。春日大社はシカ。鹿島神宮から神鹿にのって遷座したから。北野天満宮はウシ。菅原道真の牛車?熊野はカラス。神武東征の際三本足の大烏が先導した、から。日枝神社はサル。比叡に生息するサルから。松尾大社はカメ。近くにある亀尾山から。といった按配。それぞれに御眷属としての「登用」に意味はあるわけだが、その決定要因はさまざま。いかにも面白い。

石神井川散歩の東伏見稲荷のところでメモしたのだが、それぞれの神社が祭祀圏を広げるに際し、キャンペーンガールならぬマスコットをつくりあげ、市井の民にわかりやすい形を組み上げたうえで勢力拡大・販路拡大を図ったのであろう。巧みなマーケティング戦略ではありましょう。

予定では、ケーブルに乗り、奥宮へと考えていた。が、残念ながら、時間切れ。ケーブルもほぼ最終便といったところで、宝登山への登りはあきらめる。後から、宝登山から眺める武甲山の美しい姿などをおさめた写真を見るにつけ、あと一歩、先に進んでいたら、などとの思いもあり。が、今回は、時間が時間だけに景色もほとんど見えなかったはず、と思い込み、次回のお楽しみとする。
2回にわけて歩いた秩父札所。まだ半分ほど残っている。はじめた以上は全部クリアを、ということで、年明け、厳冬の秩父を歩こうと、同僚諸氏と話す。それより、個人的には、川越通りにそって、峠越えにて秩父へと歩いてみたい。春には決行、と。