木曜日, 5月 11, 2006

墨田区散歩 そのⅡ:本所へ

墨田区散歩2回目。先回の散歩は墨田区中央部、というか中世の海浜部を東から西に隅田川まで進み、そこからは隅田川沿いの微高地を南から北に登り、古代からの交通の要衝・「隅田宿」あたりから隅田川を渡った。今回は江戸時代に開拓され大名・旗本・御家人などの武家屋敷や町屋となった本所地区を巡る。





本日のルート: 両国駅;回向院;吉良邸跡; 両国公園に勝海舟生誕の地の碑;堅川・塩原橋; 旧安田庭園>北斎通り・「南割下水」;亀沢町 ;法恩寺;能勢妙見堂; 横川1丁目遺跡 ;本所>JR 総武線・錦糸町駅

総武線・両国駅
総武線両国駅で下車。両国とは武蔵と下総のふたつの国のこと。駅の北に江戸東京博物館。何度か足を運んだ。今回は、足は逆方向、両国駅西口から南に下り京葉道路方面に。西方向に進めば両国橋。
武蔵と下総の二つをつなぐことで両国橋、と。明暦の大火で逃げ場を失い十万人近くの人が犠牲に。その教訓から千住大橋以南、江戸に至近の位置にはじめてつくられた橋。時期は万治2年(1659年)。本所・深川地区を埋め立て・開発し、大名・旗本・御家人などの武家屋敷や町屋をつくり、発展させるためにも必要な架橋でもあった。大川(隅田川)にかけられたので当初「大橋」と。橋の両側は広小路。両国西広小路と東広小路。防火のための空きスペース・火除地。とはいうものの、空きスペース、いまどきのことばではオープンスペースには芝居小屋、見世物小屋、仮設飲食店が立ち並び、歓楽の地として賑わいをみせる。

京葉道路に面して回向院

両国橋西口からの道が京葉道路にあたる十字路に回向院。関東大震災などで破壊され、現在は鉄筋コンクリートのモダンなお寺さま。将軍家綱の命により、振袖火事とも呼ばれる明暦の大火の被害者・無縁仏をまつった「万年塚」がお寺の始まり。後に安政の大地震の被害者、水難犠牲者など幾多の無縁仏をおまつりするようになり、江戸市民の信仰を集める。江戸中期には両国橋広小路という歓楽地の近くという地の利もあり、全国のお寺の秘仏を公開する出開帳(でがいちょう)の寺院として大いに賑わう。幕末までの200年間に計160回の出開帳(でがいちょう)を実施。出開帳を主催する寺・「宿寺」として日本でナンバーワンの実績。あと、深川永代寺、浅草・浅草寺と宿寺ランキングが続く。ちなみに、江戸出開帳の中でも、圧倒的集客を誇ったお寺・秘仏は京都・嵯峨清涼寺の釈迦如来、善光寺の阿弥陀如来、身延山久遠寺の祖師像、成田山新勝寺の不動明王の四つと『観光都市江戸の誕生:安藤優一郎(新潮新書)』に書いていた。また、江戸後期には勧進相撲もはじまり、明治までの76年間、回向院相撲がとりおこなわれる。
境内には明暦大火の供養等。海難供養等、昭和11年に相撲協会がつくった「力塚」が残る。毛色の変わったものとしては、怪盗・鼠小僧次郎吉の墓も。回向院には牢死者も葬られた。が、刑死者は本所回向院の別院である小塚原の回向院に葬られるのが本筋。鼠小僧次郎吉は小塚原で刑死し無縁のものとして小塚原の回向院に葬られたのだが、やがてこの寺にもお墓ができた。ひとえにその人気ゆえのもの、と司馬遼太郎さん(『街道をゆく36 江戸本所深川』)。

吉良邸跡は両国3町目に

「吉良邸跡」を求めて両国3町目に。江戸切絵図によれば、回向院の道を隔てた東隣に土屋主税邸、本田孫太郎邸がある。吉良邸はその二つの屋敷の南にそって現在の馬車通りあたりまでの広大な邸宅であったよう。江戸切絵図には「松阪丁」とあるだけで、吉良邸の名前はない。
吉良邸跡・本所松坂町公園に。公園といっても吉良邸跡を残すだけ。石壁は江戸時代の高家の格式をあらわす「なまこ塀長屋門」を模したつくり。本所松坂町公園由来;吉良上野介義央の上屋敷跡。吉良邸は松坂町1丁目、2丁目(現在の両国2丁目、3丁目)のうち8400平方メートルを占める広大な屋敷であった」、と。映画やテレビで「本所松坂町の吉良邸」という言い方をされる。が、これはダブルフォールト。第一のフォールトは武家屋敷には町名は付けない。第二は、松坂町という町名は吉良邸が取り壊され町屋となったときの地名。吉良邸があったころには「松坂町」という名前は存在していなかった、ということ。

吉良邸跡の東・両国公園に勝海舟生誕の地の碑
吉良邸跡から少し東、両国小学校の東隣の両国公園に。勝海舟生誕の地の碑。咸臨丸で艦長として渡米、西郷隆盛との談判による江戸無血開城の立役者など、言うまでもない幕末の雄のひとり。
公園の少し南・馬車通りあたりに囲碁の「本因坊の屋敷跡」がある、とのことだが、見つけられなかった。江東区散歩のメモに書いたように、三ツ目通りとか四ツ目通り、一之橋、二之橋といった地名・橋名の基準となったところ。この本因坊の屋敷があったところから、3つ目の通りが三ツ目通り、といった風。

堅川
少し南に「堅川(たてかわ)」。江戸のお城から見て縦方向であり、堅川(たてかわ)。明和年間の本所開拓の時に開削された掘のひとつ。隅田川と中川を結ぶ。
隅田川から横十間川までは水面が残るが、その先は埋め立てられ「堅川河川敷公園」となっている。首都高速7号・小松川線が上を走る。清澄通り架かる二之橋、隅田川に向かって千歳橋、塩原橋、そして一之橋といった橋がある。塩原橋は亀戸天神でもメモした塩原太助に由来する。




旧安田庭園
隅田川の手前に架かる一の橋を渡り、一の橋通りを北に向かう。「両国国技館」の西を歩き「旧安田庭園」に。常陸笠間藩・本庄因幡守によりつくられる。隅田川の干満により水位を変化させる潮入り回遊式庭園。つまりは、水位の高低で見えたり見えなかったりする「小島」の景観を作り出す。明治期、安田財閥の創始者・安田善次郎の所有となり、のちに都に寄贈されて現在に至る。





北斎通りの元の名前は「南割下水」
旧安田庭園の北隣に横網町公園に。東京大空襲の犠牲者の慰霊塔が。清澄通りを南に下り、「江戸東京博交差点」に。T字路を東に向かう道筋は「北斎通り」。江戸東京博の近くには北斎生誕の地の碑がある、とか。北斎はこのあたりで生まれた江戸後期の浮世絵師。「富岳三十六景」などが有名。
で、この道筋、北斎通りと呼ばれているが、昔は「南割下水」と呼ばれる。下水とはいうものの、基本的には掘割のひとつ。道の真ん中に水はけをよくするための排水溝が掘られていたから、そう呼ばれた。3.6m程度の幅。「黙礼の中を流るる割下水」といった川柳も。このあたり武家地。割下水を隔てて挨拶を交わす武家の姿が浮かんでくる。俳人・小林一茶も割下水の住人。「葛飾や月さす家は下水端」「朝顔や下水の泥も朝のさま」「鶯が呑むぞ浴びるぞ割下水」といった句を読んでいる。

亀沢町には三遊亭円朝の旧居跡とか河竹黙阿弥の終焉の地が


北斎通りを亀沢1丁目、2丁目と歩き「野見宿禰神社」に。相撲の神と言われる野見宿禰を祀る神社。明治時代に陸奥弘前藩津軽越中守上屋敷跡につくられたもの。
少し進み区役所通りと交差。このあたりに三遊亭円朝の旧居跡とか河竹黙阿弥の終焉の地といったものがあるようだが、場所特定できず。亀沢町の由来は、この地に住んでいた旗本荒川助力郎の屋敷内に亀沢の池と呼ばれる池があったから、とか、単に縁起がいいからとか、亀のすんでいた池たあったからとか、例によっていろいろ。ちなみに、一説にはありふれた盗人、とも言われる鼠小僧次郎吉を一躍ヒーローに仕立てた仕掛け人が河竹黙阿弥。黙阿弥の書いた歌舞伎『 鼠小紋春着雛形 』が大ブレークしたためだ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

「新徴組屋敷の跡」は見つからず

北に進み蔵前橋通りの手前、石原2丁目あたりを右折し適当に道筋を東に進む。石原の地名の由来は、隅田川の流れの故か石が転がっていたから、とか。三ツ目通りを過ぎると、このあたりに「新徴組屋敷の跡」がある、と言う。
新徴組って、新撰組の江戸守護バージョン。清河八郎に率いられ、将軍守護の名目で京に上った浪士組が、もともと幕府など眼中になく尊王思想第一とする清河の企てにより、倒幕の戦闘集団にするという天皇の勅許を受ける。これで幕府の軍隊から天皇の軍隊に。この動きに異を唱えた近藤勇一派は京に残り新撰組を結成。江戸に戻った清河は幕府に睨まれ佐々木只三郎により暗殺される。江戸に残された浪士組は庄内藩預かりとなり「新徴組」として江戸市内警護に。初代組長は沖田総司の義兄・沖田林太郎。戊辰戦争時には庄内にて官軍と戦う。
「新徴組屋敷の跡」は見つけることができなかった。本所三笠町。錦糸堀の近くに庄内藩・江戸の下屋敷があった、という。錦糸堀、って南割下水の大横川より東側の呼称。新徴組屋敷の詳細は知らないけれど、庄内藩下屋敷内にあったと想像すれば、このあたりだろう、とは思う。ちなみに庄内藩上屋敷は飯田橋のあたり。飯田橋の駅の近くには「新徴組屯所跡」の碑がある。

蔵前通りと大横川が交差するあたりに法恩寺。道灌ゆかりの寺である

下町の街中をブラブラ。蔵前橋通りからひと筋、ふた筋はいったあたりにいかにも相撲部屋といった建物。九重部屋であった。東に進み「大横川親水公園」に。北に進み、蔵前橋通りに架かる法恩寺橋を渡り法恩寺に向かう。開基は太田道潅。道潅江戸城築城の折、丑寅の方向に城内鎮護のため本住院を立てる。平河山(法恩寺)と呼ばれるくらいだから、もともとは平河町あたりにあったのだろう。その後、家康江戸入府にともなう江戸城拡張のため神田柳原、次に谷中清水町へと移り、元禄8年この地に移った。
境内には例によって「七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)ひとつだになきぞかなしき」の歌。この逸話、道潅ゆかりの地で何箇所聞いたことだろう。鎌倉散歩のとき朝比奈の切通しのあたりにもあったし、荒川の町屋、豊島区高田、そのほか秩父の越生にも。道潅がそれほど親しみをもたれていた、ということだろう。法恩寺、現在は4つの堂宇だけのお寺ではあるが、江戸のころは20を越える堂宇からなる広い寺域からなっていた。ちなみにこのあたりの大平の地名の由来は、大田道潅の「大」+平河山の{平}=大平と。

法恩寺と大横川を隔てたところに能勢妙見堂

法恩寺を離れ、大横川の妙見橋を渡り本所4丁目の能勢妙見堂に。大阪で能勢の妙見山に行ったことがある。ここはその妙見さんの別院。江戸切絵図には能勢熊之助の敷地内に「妙見社」とある。ここは親子鷹、勝小吉・海舟親子の熱烈な信仰を受けた神社。勝海舟の父・小吉が海舟、当時の麟太郎の出世開運を願ってか、はたまた、犬に噛まれた怪我の回復を祈ってか、ともあれ水垢離をとったところ。境内には海舟の銅像もある。
少し話はそれるが、この能勢一族の歴史も面白い。明智光秀に与力したため、秀吉により一族滅亡の危機。が、能勢の地から一族落ち延び隠れ里に。時代は移り、家康の家臣に。関が原で戦功をたて、お家再興。法華経への信仰の故と、広大な家屋敷を有徳の僧に寄進。これが能勢妙見山のはじまり。能勢頼直のときに、この地に下屋敷を拝領。妙見大菩薩の分体をこの地にまつる。

横川1丁目遺跡

北にのぼり横川1丁目。地名は明暦年間開拓の横川に由来。堅川(たてかわ)に対する横川。横川1丁目遺跡が。弥生中期頃以前にはこのあたりは、浅海の砂泥底。弥生中期頃には潮間帯に変化しカキ礁が形成された。その後、浅海、河川、後背湿地と変化した(横川1丁目遺跡調査会)。案内をメモ;「このあたりは地史的には海域、干潟、および湿地的環境。生活に適した地ではなかった。この地が整備されたのは明暦の大火(振袖火事)の後、江戸市街を拡張する都市計画の実施以降。以来武家屋敷や寺院がこの地に移ってきた。法恩寺もそのひとつ。このあたりは旗本・太田家の抱屋敷跡」、と。

春日通りを西に本所に向かう

春日通りを西に向かう。横十間川から大横川までは東北割下水。大横川から本所2丁目あたりまでは北割下水が掘られていた。いずれも万治2年(1659年)に本所地区が市街地として開発されたとき、水はけのための排水用に掘られたもの。本所3丁目、2丁目の境、区役所通りあたりまでぶらぶら歩く。
本所の語義は、中心の地ということ。石原村、牛嶋村の中心で本村、中之郷、本所であるということだろうか。このあたりは大小の旗本屋敷がならんでいたところ。本所全体で旗本・御家人といった直参の屋敷が240ほどあった。市街地造成が完了した元禄元年(1688年)以降移ってきた、と司馬遼太郎さんの『街道をゆく36 本所深川散歩』に書いてあった。
本所2丁目、華厳寺えんま堂。江戸66えんま巡りの2番目のえんまさまのあたりを右折し北に進む。駒形3丁目あたりで適当に右折。道なりに再び東に向かう。要は、本所あたりをあてもなく散策しよう、というとこ。

錦糸町

道なりに本所をブラブラ歩き横十間川まで進み、錦糸町に。錦糸町の由来は、錦糸掘があったから。で、錦糸掘の由来は?岸掘がなまったから、とか、明治時代紡績産業で栄えたこの地、金糸銀糸が輝いていたから、だとか、運河の水面がきらきら輝いていたから、だとか。とはいうものの、錦糸町の地名ができたはじまりは、ひょっとして昭和になってからかも。
次回は墨田区北部エリア、旧中川から荒川堤防に歩を進める。

火曜日, 5月 09, 2006

墨田区散歩 そのⅠ:墨田区中央部

墨田区中央部・北十間川から隅田川沿いの微高地に 墨田区散歩の第一回は墨田区中央部・北十間川から隅田川沿いの微高地を歩くことにする。 墨田区の地形をかんたんにまとめておく;中世のころの臨海部は大体、北十間川のライン。隅田川のまわりは砂州というか微高地が南に延びている。向島あたりから下に「牛島」と呼ばれる大きな島、というか細長い砂洲が南に総武線あたりまで延びている。一大湿地帯であった墨田区が現在の姿のようになるには、江戸の明和年間の都市計画というか埋め立て・開発を待つことになる。明暦の大火を契機に本所地域の開発が計画され、本所築地奉行の指揮のもと、堅川(たて川)、横川、十間川、北十間川、また両国地区の六間掘、南割下水、石原町入掘などが開削される。その揚げ土による埋め立てがおこなわれ、現在の墨田区の中央部・南部である本所・深川地区が人の住む地域に生まれ変わる。 隅田?墨田区?どっちだ?隅田川が最初に文献に登場するのは承和2年の太政官符。「武蔵・下総両国境、住田(すだ)河」とある。また伊勢物語の東下りの一節に「武蔵と下総の中に有る角田(すみだ)川の堤におりいて、思い侍るに。。。」とある。また「すだ」とも読まれ「須田」「墨田」「州田」とも書かれた。江戸時代には元禄には「須田村」。天保時代には「隅田村」と表記されている。明治になると、隅田村そして隅田町に。
これほど広く使われた隅田が区の名前に使われず、墨田区となったのは、昭和22年(1947年)3月15日、北部区域の「向島区」と南部区域の「本所区」が合併して、新しい「区」が誕生することになったとき、隅田区とする計画が頓挫。隅が当用漢字になく「隅田」が使えなかったわけだ。また、墨田はもともと使われてきた墨田ではなく、合成語。隅田川堤の異称「墨堤」の「墨」と、「隅田川」の「田」から2字を選んだ、とか。わかったようでわからない
墨田区散歩に向かう。大体のルーティングは、墨田区中央部、というか中世の海浜部を東から西に隅田川まで進み、そこからは隅田川沿いの微高地を南から北に登り、古代からの交通の要衝・「隅田宿」あたりまで進む、といったところ。



本日のルート: 総武線・亀戸駅 ; 横十間川 ; 北十間川 ; 浅草通り・押上 ; 三つ目通りから「言問橋東詰め」に ; 牛嶋神社 ; すみだ郷土資料文化館 ; 三囲神社 ; 水戸街道・秋葉神社 ; 長命寺 ; 白髯神社 ; 隅田川神社 ; 木母寺 ; 北千住駅

総武線・亀戸駅から横十間川に

総武線・亀戸駅で下車。西に進み横十間川」を北に。「横十間川」のメモ;横十間川は北十間川から別れ堅川、小名木川とクロスし、仙台堀に合流する水路。仙台掘との合流点は二十間川とも呼ばれる。北十間川から小名木川までは水面が残るが、その南は「横十間川親水公園」となっている。川幅が十間(18m)であったことが名前の由来。本所・深川地区開発の万治2年(1659年)に開削された。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

北十間川
直ぐに「北十間川」と合流。合流点に柳島橋。ここからは北十間川に沿って「浅草通り」を西に進む。隅田川と中川をつなぐこの北十間川のラインが古代から中世にかけての海岸線、と言われている。つまりは、墨田区の大半は一大湿地帯ということ。左手に広がる一大湿地帯を想像しながらのんびり歩く。

浅草通り:業平橋・押上
北十間川にそって浅草通りを業平3丁目、4丁目と進む。地名の由来は江戸時代にこのあたりに業平天神社がまつられたことによる。とはいうものの、現在その名の神社は見当たらない。業平の名はいわずと知れた伊勢物語の在原業平(ありわらのなりひら)による。
先に進む。四ツ目通りとの交差が「押上」。「押し上げ」って、隅田川というか中川というか江戸川というか、流路を銚子方面に付け替える前の利根川河口に流れ込み堆積される土砂、その堆積するさまがよく表される地名である。

三つ目通りを北に折れ、言問橋東詰めに

業平1丁目を越え、大横川跡に。現在は大横川親水河川公園となっている。浅草通りと大横川のクロスするところに業平橋。更に進む。東駒形を越え三ツ目通りと交差。右折し北に進み言問橋東詰めにある牛嶋神社に向かう。

牛嶋神社
牛嶋神社は、隅田川の東、「牛嶋」と呼ばれた旧本所一帯の鎮守さま。牛嶋の由来は、天武天皇の時代、両国から向島にかけての地域・旧本所が牛馬を育てる国営の牧場(官牧)であったことから。浮嶋牛牧と称された。江戸切絵図によれば、昔はもう少し北、現在の桜橋の東詰めあたりに「牛御前」の名前が見える。縁起書によれば創建は貞観2年というから860年頃。結構古い。当時このあたりは既に小高い砂州となっていた。
由緒書によれば頼朝が下総から武蔵への渡河作戦に際して、折からの豪雨を鎮めるため神明の加護を願う。そして願いが叶ったことを慶び社殿を造営した、とか。後に天文6年(1538年)、御奈良院より「牛御前社」の勅号を賜る。江戸時代になっても鬼門守護の神社として将軍家の庇護を受ける。現在の地に移ったのは関東大震災後。隅田公園整備の一環として実施された。

牛嶋神社の隣に「すみだ郷土資料文化館」
神社を離れ、「すみだ郷土資料文化館」に。隅田公園を歩き、言問橋の東詰を進む。三ツ目通り、というか水戸街道から一筋隅田川に入ったあたりに「すみだ郷土資料文化館」。「すみだのあゆみ」をスキミング&スキャニング。有り難かったのは、常設展示目録。古代から現在に至るまでの地理と歴史がまとまっている。1冊1000円。そのほか、1階の図書資料コーナーで鈴木理生さんの『江戸の川 東京の川(井上書院;2700円)』の実物を目にしたことも嬉しかった。いろんなところで話題にはなるのだが、版元の連絡先が良くわからなかった。奥付で住所・電話を確認し後日手に入れた。『川がつくった江戸(林英夫;隅田川文庫;1850円)』も購入。

三囲神社
すみだ郷土資料文化館を離れ「三囲神社」に。すぐ北にある。対岸の浅草・山谷掘りからの「竹谷の渡し」の船着場も近くにある。歌川広重の「東都三十六景 隅田川三囲り堤」とか「江戸高名会亭尽 三囲之景」に描かれているように、江戸の行楽地。「三囲(ミメグリ)」の由来は、この地に弘法大師由縁の廃社・壊社があるのを聞き改築を。地中より白狐に跨る神像が。そのとき白狐が神像の周りを三度廻ったことから。雨乞いのために歌った宝井其角の歌碑もある。「ゆふだちや田をみめぐりの神ならば」、と。

水戸街道脇に秋葉神社

水戸街道を進み桜橋通りを越え、向島4丁目の「秋葉神社」に。正応2年(1289年)、この地にすむ与右衛門さんが屋敷内にお稲荷様をまつったのがその始まり。このあたりは五百崎・庵崎(イオサキ)の千代世(ちおや)の森とよばれていたので「千代世稲荷大明神」、とも。広重の『江戸名所百景』には紅葉の名所として描かれている。ちなみに五百崎とは五百もの砂州や浅瀬がある湿地帯のこと。このあたりは、干潮になれば砂や土砂の堆積による数多くの小島が遠浅の海面から浮かび上がる、そういった地帯だったのだろう。
秋葉神社の本家・本元は静岡県・秋葉山の秋葉神。秋葉三尺坊・秋葉山三尺坊大権現とも呼ばれる。秋葉信仰がブレークしたきっかけは、江戸前期、貞享2年(1685年)、江戸と京都に向かった秋葉山の神輿渡御。全国に名を知られるようになり、秋葉詣でも盛んになった、と。火の災厄を鎮める神さま。

隅田川堤防沿いに長命寺

秋葉神社を離れ、再び水戸街道を越え、隅田川堤防方向に向かう。堤防沿いの道から一筋入った墨堤通り・向島5丁目に「長命寺」。お寺よりなにより、「長命寺の桜もち」を買ってくるようにとのご下命あり。店は隅田川の堤に沿った道路脇。
桜餅といえば、先日古本屋で見つけた『考証 江戸を歩く:稲垣史生(河出書房新社)』に面白い話があった。ちょっとメモする:この桜餅屋の名前は「山本屋」。銚子より職を求め、長生寺に寺男として働く。土手の桜の落ち葉を醤油樽に漬けて餅に包むと、風味よく評判になった。評判になったといえば、この山本屋の娘さんは美しいことで評判でもあった。とか。19世紀の中頃の老中・阿部正弘がこの店の娘・お豊さんをその美しさ故に贔屓にした、と。また、明治維新のころ、オランダ公使もこの店の娘・お花さんを見そめた。またまた、かの正岡子規も山本屋のお陸さんに淡い恋心を抱いた、とか。 おみやげを買い求め、先を急ぐ。このあたりは江戸の昔は文人・墨客、江戸の市民が花見を楽しんだ一大行楽地。墨堤通りを進み、東向島1丁目と3丁目の境、地蔵坂通りとの交差に、「子育地蔵堂」。車の往来多い。
ちなみに川の堤に桜の多い理由は、土手を踏み固める戦略というか戦術のため。桜の名所をつくれば、桜見物に多くの人が来る。土手を歩き、結果的に土手が強化される、といった論法。事実かどうか定かではないが、事実だとすれば、なかなかスマートな手法である。

墨堤通りを北に。東向島に「白鬚神社」

地蔵堂脇の道をすすむと東向島2丁目に「白鬚神社」。白鬚神社って昨年歩いた埼玉県日高市・高麗郷の高麗神社もそう呼ばれていた。高麗からの帰化人・王若光が晩年白髭を垂れ、白髭さまと呼ばれていたことに由来する。日高・高麗の郷の白髭神社を高麗総社とした白髭神社は武蔵の国に55社ある。この地の白鬚様もそのひとつ。武蔵の各地に分住した高麗人の子孫が王の遺徳を偲び分祀したわけだ。「白髯」は「新羅」からの転化である、といった説もあるほど、だ。
白鬚神社の縁起によれば、この地には古代帰化人が馬の放牧のために相当数移住した、とも。鈴木理生さんの『江戸の川 東京の川』にも「渡来人の基地としての浅草湊」という一項目が設けられている。大和政権は東国経営の一環として武蔵の国には、百済・新羅・高麗などからの渡来人を配置。夷を制する精鋭部隊でもあり、高い技術力をもつ開発者集団でもあったのであろう。海を渡り、上陸地を求めて浅草湊まで進み、ここを根拠地に武蔵野の台地へと踏み入ったのであろう。ともあれ、武蔵の地に帰化人の影響は大きい。荒川も渡来人「安羅」の川という説も。
ちなみに、「しろひげ」神社であるが、全国には「白鬚」「白髭」「白髯」「白髪」と名のついた神社が三百社以上ある、という。特に多いのは静岡や岐阜。東京では墨田区に目に付く。ここ白髯はアゴヒゲ、であるが、口ヒゲである白髭神社は平井や東墨田でも見かけた。

隅田川の堤そばに隅田川神社
墨堤通りを更に北に。明治通りと交差。左折し白鬚橋東詰めに。堤に沿って北に歩くと「隅田川神社」。治承4年というから1180年、頼朝がこの地に来たとき水神をあがめて建てた神社であり水神社とも呼ばれる。江戸切絵図にも「水神」という名前が見える。水運業者から深く信仰されていた。このあたりは、水神の森と呼ばれた微高地。隅田川の洪水にも沈むことがなく、ゆえに「浮島の宮」とも呼ばれた。狛犬ならぬ亀が鎮座している。水神様ならでは、というべきか。
このあたりは、奈良から平安にかけて、隅田川西岸の微高地を走る東海道が市川にあった下総の国府に至る道筋。墨田区西岸の橋場からの渡しもあり、河川交通の要衝。承和2年(835年)、隅田川に渡船の記録がある。伊勢物語の都鳥の舞台もこのあたりと伝えられている。天明年間(1781?1789)に狂歌師・元の木網の「けふよりも衣は染つ墨田川 流れわたりて世をわたらばや」を刻んだ碑がある。

隅田川神社の隣には木母寺
水神社の直ぐ先に木母寺。能「隅田川」など日本の芸能に大きな影響を与えた梅若伝説の地。平安の昔、人買いにさらわれた梅若丸は隅田川のほとりで重い病を患い、隅田川東岸・関屋の里で置き去りにされる。里人の看病もむなしく「たづね来て問はばこたえよ都鳥墨田川原の露と消えぬと」という一首を残して12歳の生涯を閉じる。一年後、里人が梅若丸の塚で供養していると梅若を捜し求める母の花御前が。はじめてわが子がなくなったことを知る。花御前は嘆き悲しみ、吾が子のためにいのる。すると、塚の中から梅若の亡霊が現れ一時の親子の対面。しかし、梅若は再び姿を消す。花御前は悲しみのあまり、池に身を投げる。この木母寺は梅若を供養してつくった庵が起源。いまは鉄筋のお寺様。
本日はこれでお終い。あとは隅田川にかかる水神大橋を渡り台東区というか荒川区に入り、千住大橋経由で足立区北千住に進み一路帰途に。

水曜日, 4月 19, 2006

江東区散歩 そのⅦ:江東区(亀戸エリア)へ

江東区散歩も最後のエリア。区内では最も古い地帯。とはいっても、江戸以前は江東区はここ以外の地帯は湿地帯。この亀戸のあたりが臨海部、というわけで、砂洲状の微高地や入り江が入り組んだ地帯であった。亀戸の名前はこの島が、小さな亀の形をしていたとか、海浜に面した港(津)であったとか、飲料用の井戸があったとか諸説、あり。ともあれ、「亀島」「亀津」「亀津島」「亀井戸」などと呼ばれたことに由来する。室町時代の地図に「亀島」「亀井戸」といった地名が見える。中世にまで遡る寺社も多い、幕府の直轄領に歩を進める。

埋め立ての歴史(江東区発行の『江東区のあゆみ』より);
正保年間(1644年から);柳島・小梅・押上(亀戸1・2・3丁目)



本日のルート: 総武線・亀戸駅 ; 横十間川 ; 亀戸水神通り・水神社 ; 香取神社 ; 神明宮跡 ; 北十間川・天祖神社 ; 横十間川・龍眼寺 ; 亀戸天神

総武線・亀戸駅から横十間川に
総武線・亀戸駅で下車。総武線に沿って西に横十間川まで戻る。川に沿ってすこし北に。道脇に亀戸銭座跡。江戸時代の通貨鋳造場のあったところ。寛永通宝をつくっていた。そのすぐ北に日清紡績創業の地の碑。陸軍被服工廠などを経て、現在はスポーツ施設とかマンションに様変わりしている。
蔵前通りまで進み天神橋東詰めを右折。明治通の交差点まで進み右折。すこし南に下り、左折。亀戸水神通りを東に進む。

亀戸水神通り・水神社

亀戸水神通りを進み、東部亀戸線・亀戸水神駅の手前に「亀戸水神社」。道の脇にこじんまりした神社。このあたり海に近く低湿地帯。その開墾に際し、水害からこの地をまもるため作られた。神社の案内書によれば、堤防の突端に、まわりの地面より高く石垣をつくり石祠が祭られた。ついでながら、水神さんと祇園さんは関係あるらしい。
それにしても神社の構えの割には神社の名前のついた通りや小学校があったりと、なんとなく気になる神社。室町時代の古地図にも「水神社」って記述があるし、昔はもっと大きな構えだったのだろうか。チェックする。創建は16世紀の享保年間、というから室町幕府12代将軍・足利義晴の頃。結構古い。奈良県吉野の丹生川上神社を勧請したもの。祭神は弥都波能売神(ミズハノメノカミ)という水を司る女神さま。朝廷からの信仰も篤く、社格高い「明神」号をもつ社であった。社殿は昭和20年の東京大空襲で焼失した。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

蔵前通りの北を明治通りに戻る
少し北に進み蔵前通りを越えると常光寺。亀戸の七福神のひとつ寿老人が祀られている。西に進むと石井神社。石神社と呼ばれたとも。民家の間に挟まれて少々窮屈な感じ。油断すると見過ごしてしまいそう。おしゃもじ様と言われ、咳の病を治す神社として信仰を集めた。おしゃもじを神社から借り、効果あればふたつにして返すのがルール。境内にいくつかのしゃもじがあった。この神社の神体は石棒。石の神様=しゃくじん>しゃくし>杓子=おしゃもじに繋がる。ついでに、「しゃくじん」、を「せきじん」とよぶこともあり、せきじん>咳き>咳の病に効く、といあいなる次第。ちなみに、都内で石を神体とするのは、いつか散歩したちきにであった石神井神社、葛飾区立石の熊野神社、豊島区西巣鴨の正法院の石神、板橋区仲宿の文殊院の石神などがある。西に進み、明治通りの手前に東覚寺。亀戸の七福神の弁財天が祀ってある。通りを隔てた西に香取神社がある。

香取神社
明治通りに。北に向かってすこし進む。香取神社。天智天皇4年(665年)創立。藤原鎌足が「亀の島」に船を寄せ、香取大神を勧請し旅の安全を願った。以来、亀戸の総鎮守。平将門の乱を平定した藤原秀郷が戦勝の返礼として弓矢を奉納。その故事にちなみ勝矢祭りがおこなわれるといった由来書。祭神は経津主(フツヌシ)。アマテラスの命を受け、まつろわぬ民を平定した、ということで武門の神様として信仰されてきた。
本宮は千葉県佐原市にある上総一ノ宮の香取神宮。経津主(フツヌシ)神を祭神とするこの神社は「古利根川東岸」、つまりは埼玉県東部、東武日光線沿線東側、もっと具体的には、埼玉県東部の春日部市、越谷市、三郷市、千葉県野田市、柏市、東葛飾郡に数多く分布している。ついでのことなので、鈴木理生さんの『幻の江戸百年』に書いてあった祭祀圏、平たく言えば神様の勢力圏について概略をまとめておく。 香取神社は上にメモしたように、上総の国、つまりは隅田川の東、川筋で言えば古利根川に沿って数多く分布している。隅田川の西、つまりは武蔵野国にはまったく無いといってもいいほど。一方、武蔵の国、つまりは隅田川の西、埼玉県や東京を中心におよそ230社も分布しているのが氷川神社。本社は大宮にある武蔵一ノ宮の氷川神社。川筋でいえば少々大雑把ではあるが荒川・多摩川水系といってもいいだろう。
これほどきっちりと分かれているということは、それぞれの地域はまったく別系統の人々によって開拓されたといってもいい、かと思う。香取神宮の神様は経津主(フツヌシ)。『日本書紀』によるとフツヌシとはアマテラスの命を受け天孫降臨の尖兵として、タケミカヅチ神とともに出雲の国へ行き、大国主命に国譲りをさせた神様。沼を隔てて鎮座する茨城県鹿島市の鹿島神宮の祭神・タケミカズチの神と同神とされる。アマテラスの尖兵といったことであるから、大和朝廷系・有力氏族とかかわりの深い神さまの系統であるのだろう。本来は物部系の氏神。物部氏の勢力が衰えて以降は中臣・藤原氏が氏神とする。ちなみに、由来書の藤原鎌足が勧請した、とのくだりは、香取=中臣・藤原氏の深い関係を示唆するもので、実際にこの地にきたかどうか、とは関係ない、かも。
一方の氷川神社。祭神はスサノオノ命。考昭天皇の代に出雲大社から勧請された。「氷川」とは出雲の「簸川(ひのかわ)」に由来するとも言われる。大和朝廷に征服された部族の総称=出雲族系統の神様である。ついでのことながら、東西にくっきり分かれる氷川神社と香取神社の祭祀圏の間に分布する神様がいる。つまりは、そういった神様を祭る部族がいる、ということ。その神様は「久伊豆神社」。元荒川と古利根川の間に100社近くが分布している。祭神はスサノ須佐之男直系の「大己貴命」というから氷川系に近い部族であるのだろう。この「久伊豆神社」の祭祀圏はほとんどが河川の氾濫によりできた沖積地帯。台地上の立地は既に氷川さんとか、香取さんに占拠されている、ということであろから比較的新しい時代の開拓民の集団であったのだろう。本社は不明である。

香取神社の近くに普門院・神明宮跡
香取神社を離れ南西方向のすぐのところに普門院。亀戸の七福神のひとつ毘沙門天が。そうそう、香取神社にも亀戸の七福神のうち恵比寿神と大黒神があった。北に進み入神明宮跡を探す。なかなか見つからない。あきらめかけた頃、ひょいと顕れる。民家に囲まれた駐車場の脇に碑文があるだけ。由来書によれば、昔この地は海上に浮かぶ小島。往来する船の安全を祈ってこの宮を勧請。明治40年に土錘(魚網のおもり)が出土。昭和62年に、香取神社に合祀された、と。近くに梅屋敷跡があるはず。が、見つからなかった。

北十間川・天祖社
北十間川に沿って北西方向に。すぐ天祖神社。推古天皇の頃(593?628年)の創建と伝えられる。亀戸の七福神の福禄寿が。天祖神社は、もともとは伊勢信仰の社であった、神明宮が明治の神仏分離令の折に、天祖神社と改名したところがほとんどである。

横十間川・龍眼寺
横十間川を南に下る。龍眼寺。品のいいお寺さん。亀戸の七福神のひとつ布袋尊が祭られている。このお寺、元禄の頃から萩を全国から集め幾千株にしたことから、別名萩寺とも呼ばれる。文人墨客多数訪れたのだろう。平岩弓枝さんの『御宿かわせみ』にも登場していた。

亀戸天神
南に下って亀戸天神に。寛文2年(1662年)大鳥居信祐が天満宮を勧請。梅と藤の名所。言わずと知れた学問の神様。中江兆民の碑をはじめ多くの筆塚もある。なかでも気になったのが塩原太助奉納の灯篭。灯篭に興味があるわけでなく塩原太助のこと。どこで覚えたのか定かではない。が、子供のころに読んだ本に出ていたのだろう。愛馬との別れの話だったのか、親孝行の、といったコンテキストだったのか、それもで覚えていない。で、調べてみた。
江戸で生まれたが故あって育てられる。16歳になって、江戸にでて独立の決心。愛馬「あお」との別れ。一時は大川に身を投げよう、ともした。が、通りかかった薪炭商山口善右衛門に助けられる。一念発起。努力をかさね「本所に過ぎたるものが二つあり、津軽大名、炭屋塩原」と言われるまでの豪商となった、とか。 今回で江東区散歩はおしまい。下町低地・埋め立ての歴史散歩は、次は隅田区に。

火曜日, 4月 18, 2006

江東区散歩 そのⅥ:木場・東陽エリアへ

木場一帯が埋立てられたのは、明暦3年(1657年)以降。同年、江戸を焼きつくした、いわゆる明暦の大火の後、幕府は防火を主眼とした都市計画をおこなう。市街地の再開発、拡張、寺町の移転などを実施。当初永代島にあった貯木場をこの地に移す。元禄14年(1701年)の頃である。 木場の東、千田から扇町にかけての「十万坪」、仙台堀川の南の東陽町が埋立てられたのは、18世紀の初頭から中頃のことである。

埋め立ての歴史(江東区発行の『江東区のあゆみ』より);
元禄11年(1698年);築地町・十五万坪(木場・平野)/ 六万坪・石小田新田(東陽4・5・6・7丁目)
享保年間(1716年);十万坪(千田・千石・扇橋)
明和2年(1765年);平井新田(東陽3・5丁目)



本日のルート;地下鉄東西線・東陽町 ; 江東区役所 ; 横十間親水公園 ; 平井新田跡 ; 洲崎神社 ; 大横川 ; 宇迦八幡宮・「十万坪」 ; 木場公園

地下鉄東西線・東陽町;永代通り・四ツ目通りの交差点からスタート

地下鉄東西線・東陽町で下車。永代通りと四ツ目と通りの交差点を北に。前々から気になっていたのだが、この四ツ目って何だ?三ツ目もあるし、ということで調べてみた。昔、堅川の北、現在の両国2,4丁目あたりに本所相生町というところがあった。この地に本因坊さんが住む。本因坊って囲碁の名家。この相生って名前も、本因坊に由来する。囲碁の真髄は相手とともに成長する>ともに暮らし、老いる=相老>相生となった、とか。
それはさておき、相生町1丁目,2丁目は碁盤の目に因んで一ツ目、相生町3町目・4丁目・5丁目は二ツ目。その道にかかる橋を一ツ目の橋>一の橋、二ツ目通りにかかる橋を二つ目の橋>ニノ橋と呼ばれた。三ツ目通り、四ツ目通りも同じ理屈でつけられたのだろう。現在、一ツ目通りは一ノ橋通り、二ツ目通りは清澄通り、三ツ目通り、四ツ目通りはそのまんま。五ツ目通りは明治通りになっている。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

江東区役所
四ツ目通りを少し北に。江東区役所。広報課公聴課に行き、『江東区のあゆみ』『江東文化財マップ』などが購入できる。『江東区のあゆみ』は江戸から平成までの江東区をまとめた小冊子。100円で手に入れる。125ページ。江東区の埋め立ての歴史がよくわかる。『こうとう文化財マップ』は500円。江東区の全体像をまとめるには便利そう。
話は少々それるが、広報資料として、戦前の江東区の写真集もあった。1000円だったと思う。ぱらっと眺める。埃っぽい道、汚染の進んだ河川などなど、今の江東区の姿からは想像するのが難しい風景。実のところ、散歩を始めて江東区を歩くまでは、こんなに美しく整備された川筋など想像もしていなかった。団塊世代の我が身としては、江東区=ゼロメートル地帯、荒れた・少々美しくない川筋を想像していた。10年かけたのか、20年かけたのか、ともあれ豊かな川筋・町並みに様変わりしていた。

江東区役所のすぐ北に横十間親水公園
直ぐ北に横十間親水公園・井住橋が架かっている。南北に貫く横十間川が、東西に走る小名木川、仙台堀川を越え、更に葛西橋通りを過ぎたところで進路変更。西へと進み大横川に合流している。

東陽3丁目のあたりには「平井新田」があった

横十間親水公園は、その雰囲気だけ感じ、もとの永代通りまで戻る。西に進み、東陽3丁目から5丁目を。このあたりは平井新田。

明和2年というから1765年、平井満右衛門、虎五郎が江戸城の掘り浚いの土で埋め立てる。明和3年(17766年)には塩浜も開かれた。先に進み木場5丁目に。大横川にかかる沢海橋に。東詰めに関東大震災殉難者供養碑。

横川・沢海橋のすぐ南に「洲崎神社」
沢海橋のすぐ南、弁天橋の近くに洲崎神社。元禄13年(1700年)、将軍綱吉時代、護持院隆光が、江戸城中より弁天像を安置したのが州崎弁天社の始まり。その後州崎弁天への沿道には料理茶屋などができ、賑わった。
深川洲崎十万坪と呼ばれ、浜の真砂が続くこの景勝の地も寛政3年(1791年)暴風雨・大津波で壊滅的打撃を受ける。以降埋め立てが進むことになる。州崎神社となったのは明治になってから。
洲崎神社の西に波除碑。寛政3年の高波・津波の被害の経験から、洲崎神社から平久橋まで一帯を空き地にして家屋建築を禁止。洲崎神社の前・木場6丁目と平久橋の西の2箇所に波除碑を建てて目印とした。

平久橋は大横川が西に進み、平久川と交差するところにある。平久川(へいきゅうがわ)。旧町名・平富町と久右衛門町の間にあったのが名前の由来。ちなみに、平久橋のすぐ南には、古石場川親水公園。江東区散歩のスタート地点。ぐるっと一周して元に戻ってきた。

横川を北に
沢海橋から大横川を北に木場4丁目方向に進む。大横橋、横十間川親水公園との分岐をそのまま直進。豊木橋、茂森橋・葛西橋通り、仙台掘を越え、大栄橋、福寿橋と進む。東が千石、西が平野地区。更に北に三石橋、亥之掘橋へ。東が石島、西が三好地区。


千田地区・宇迦八幡宮のあたりは「十万坪」とよばれる埋立地

清洲橋通り手前を右折。石島地区を越え千田地区に宇迦八幡宮。当地の開発者千田庄兵衛が建立。千田稲荷神社と呼ばれる。このあたり、千石・石島・海辺・扇橋一帯はその昔、十万坪と呼ばれる埋め立て地。享保8年というから1723年、近江屋千田庄兵衛と井籠屋万蔵の両名により開発。江戸の塵芥をつかい、2年の歳月をかけて完成。庄兵衛の名字をとり千田新田と。寛政8年(1796年)には一橋家の領地となり、一橋家十万石と呼ばれる。
また、十万石の南、現在の東陽6,7丁目あたりは宝永7年(1710年)より、開発が進み、六万坪町・石小田新田ができる。江戸の塵芥で埋め立てる。石小田新田は、石川・小柴・豊田という3名の開拓者の名前から。歌川広重の描く『名所江戸百景 深川洲崎十万坪』にその広大な景観が感じられる。

木場公園
このエリアを代表するのは木場公園。もとの貯木場。寛政18年(1641年)、江戸の大火で日本橋の材木置き場が焼失したことがきっかけで、深川(佐賀・福住あたり)に材木置場を移す(元木場)。のちに一時猿江に移るが、元禄14年(1701年)にこの地木場に。それ以来300年に渡り、この地が木材流通の中心となる。が、昭和49年、新木場への移転がはじまり、この地は平成4年に木場公園に。

江東区散歩も残すところ、亀戸地区だけに。

月曜日, 4月 17, 2006

江東区散歩 そのⅤ:(砂町中南部エリア)へ

砂町も、江戸初期に開かれた砂村新田に由来する土地である。それ以前のこの地は、利根川・入間川・隅田川の三水系の間に自然形成されたデルタ地帯。陸とも海ともつかぬ場所だった。

家康の江戸入府の半世紀以上前、連歌師・柴屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)がまとめた旅行記がある。『東路のつと』といい、今の小名木川筋に当る水路をつたって現在の浦安辺りまで行ったときの「半日ばかり蘆荻(ろてき)を分けつつ、かくれ住みし里々を見て」と記す。ところどころに小村落があった、そういった一帯であった。
江戸時代に入ると、点在する村々に開拓農民たちがやって来た。砂村新田を開発した砂村新左衛門もそのひとり。浮島と干潟であったこの辺りの開拓をおこなう。以降、この周辺には次々と新田が開拓された。その多くは同様に開発者の名前が付けられた。v 砂村地区は深川などとともに野菜つくりが盛んにおこなわれた。江戸の人口が膨らむと、米は年貢米として市中に出回ったが生鮮野菜は圧倒的に不足。つくればつくるほど売れるという噂も広まるほど。年貢免除といった幕府の振興策もあり関西からネギ、ニンジン、ナス、キュウリなどの野菜の種がこの地にもたらされ、江戸近郊農村として、江戸の食料の供給地として野菜類の促成栽培が行われた。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

埋め立ての歴史(江東区発行の『江東区のあゆみ』より);
正保年間(1624年);亀高村(北砂4・7丁目;亀戸新田と高橋新田をあわせ亀高村に)
寛文年間(1661年);太郎兵衛新田(東砂)
万治2年(1659年);砂村新田(南砂1-7丁目、東砂8丁目)
万治年間(1658年);八郎右衛門新田(東砂4-8丁目)
寛文年間(1661年);太郎兵衛新田(東砂1・3・4丁目)
元禄年間(1688年):大塚新田(北砂4・7丁目)/久左衛門新田(北砂2・3・4町目)/中田新田(東砂5丁目)/



本日のルート;仙台堀川公園>東砂4丁目>北砂7丁目>清洲橋通り・境川橋>旧大石家住宅>葛西橋通り>南砂6丁目>南砂7丁目・富賀岡八幡宮>元八幡通り>南砂3丁目・南砂3丁目公園>「砂村新田跡」の碑>南砂4丁目>明治通り>南砂緑道公園・長州藩大砲鋳造場跡>永代通り>東陽町

仙台堀川公園
小名木川から南に延びる仙台堀川公園を下る。仙台堀川の水路跡につくられた親水公園といった風情。東砂4丁目から先は砂町中南部エリア。北砂7丁目を進み清洲橋通りに架かる境川橋に。少し進むと、南砂5丁目と東砂7丁目の境で仙台堀川公園遊歩道は西に折れる。








旧大石家住宅
曲がり角に旧大石家住宅。江東区最古の茅葺き民家。この地域は半農半漁の農家も多く、この家も水害に対する工夫が見られる、とか。仙台堀川の由来。昭和40年の河川法改正で仙台掘と砂町運河をあわせて、「仙台堀川」となった。仙台掘って、隅田川河口の「上之橋」北詰に仙台藩の下屋敷・蔵屋敷があったから。




南砂7丁目には富賀岡八幡宮
仙台堀川を離れ、少し南を東西に走る葛西橋通りをすこし東に。南砂6丁目の境で南に下り、南砂7丁目にある富賀岡八幡宮に向かう。名所江戸百景『砂むら元八まん』に描かれる桜並木に惹かれたため。

現在に富賀岡八幡宮は少々殺風景。通称元八幡、富岡八幡宮の元宮と言われるとはいうものの、といった雰囲気。江戸時代は松が生い茂り、海浜に面した参堂の桜並木が有名で善男善女が数多く訪れた、とか。が、明治43年の大水害で松も桜も壊滅的損害を蒙った。




南砂3丁目公園の砂村新田跡。17世紀中ごろに埋め立てられた
神社を離れ元八幡通りを西に進む。昔の参道だったのだろう。南砂3丁目に南砂3丁目公園。「砂村新田跡」の碑。海に浮かぶ島だった砂町地区は江戸時代に埋め立てられてできたもの。

摂津の国の砂村新左衛門が一族を引き連れ関東に下り、横浜桜木町の野毛新田、横須賀の内川新田を埋め立て・開拓したあと、この地にくる。そして浮島と干潟であったこのあたりの埋め立てをおこなう。砂村新田の由来である。万治2年(1659)の頃である。延宝9年(1681年)にはこの砂村新田と永代島新田がごみ捨て場として定められた。

南砂緑道公園に長州藩大砲鋳造場
南砂4丁目を越え明治通りに。南砂3丁目交差点のあたりに「南砂緑道公園」。南砂中学校とか南砂住宅の周囲ををぐるっと囲む遊歩道。全長1キロ程度。川筋かと思ったのだが、都電の線路跡地、とのことである。緑道を少し西に。すぐ南に下ると長州藩大砲鋳造場跡。白御影石の台座の上に、パリのアンヴァリッド(廃兵院)に保存されている大砲(実物は長さ3メートル)のモデルが置かれている。

「江戸切絵図」をよれば、このあたりに長州藩主松平大膳太夫の屋敷。長州藩では、三浦半島の砲台に置く大砲を鋳造するため、同藩の鋳物師郡司右平次(喜平次)が、佐久間象山の指導のもと、この砂村の屋敷内で36門の大砲を鋳造。アンヴァリッドに保存されている長州藩毛利家の紋章の入った大砲は、攘夷戦で破れ、下関の砲台を占領され、その戦利品としてパリに持ち帰られたもの。
永代通り先に進むと永代通りに合流。西にすこし進めば東陽町。ここから先は木場・東陽エリア。

日曜日, 4月 16, 2006

江東区散歩 そのⅣ:(大島・砂町北部エリア)へ

大島・砂町北部エリアを歩く。大島の地は江戸の比較的早い時期に埋め立てが行われている。大島と呼ばれるくらいであるので、小名木川のラインを渚とする低湿地ではあったものの、ちょっと大きな島、というか、砂洲があったのだろう。近くに旧中川が流れるので、その砂洲でつくられた微高地を「取り付く島」として埋め立てが進んだのだろう、か。まったくの想像。根拠なし。
砂村の地の埋め立ての歴史も早い。17世紀のはじめ。寛政の頃である。砂村の名前はこの地を埋め立て、砂村新田開発をおこなった砂村新左衛門一族の名前から。北砂の旧地名をチェックすると、八右衛門新田、治兵衛新田、久左衛門新田、大塚新田など、「新田」が並ぶ。

大島と砂町の境にあるのが小名木川。塩の道も近代に入ると鉄工所などの工場が立ち並んだ。釜屋跡、化学肥料創業記念碑。そのほか北砂5丁目の精製糖工業発祥の地。日本で初めて白砂糖の精製に成功した鈴木藤三郎が明治21年に建設した工場の跡地である。日本の近代工業を支えた地帯でもある。昭和30年代になると、多くの工場が転出。その跡地に集合住宅が建設される。東砂2丁目の小名木川沿いに、並ぶアパートがそれであろう、か。

埋め立ての歴史(江東区発行の『江東区のあゆみ』より);
天正年間(1573年);小名木川村(大島3・5・6.7.8丁目)
慶長年間(1596年);枚方村(大島5・6・7・8丁目;大坂・枚方の人が開発した)
寛永年間(1624年);八右衛門新田(北砂1・2丁目・扇橋あたり)
正保年間(1644年);荻新田(東砂1・2丁目、北砂6丁目)/ 又兵衛新田(東砂2丁目)
明暦年間(1655年);深川上大島・下大島(大島1・4丁目)



本日のルート: 大島橋東詰め ; 横十間川親水公園 ; 中浜万次郎宅跡 ; 釜屋の渡し跡 ; 新大橋通り・五百羅漢跡 ; 中川船番所資料館 ; 中川船番所跡 ; 小名木川 ; 仙台堀川公園

大島橋東詰めに釜屋跡・化学肥料創業記念碑。


都営新宿線・住吉駅を降り、新大橋通りを東に進む。横十間川に架かる本村橋を渡ると大島1丁目。東詰めを右折。南に下り横十間川・大島橋東詰めに。釜屋跡。化学肥料創業記念碑。釜屋跡は江戸初期、近江の国の太田氏釜屋右衛門(釜六)と田中氏釜屋七右衛門がこの地に工場を構え、明治・大正まで鋳物(いもの)業を営む。「東京深川釜屋堀釜七鋳造場」には、小名木川にそって拡がる広大な工場が描かれている。明治時代だろう。同じところに「尊農・化学肥料創業記念碑」。明治21年、タカジアスターゼで有名な高峰譲吉博士が工場長となり、日本最初の科学肥料工場がこの地にできた。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

横十間川親水公園
南に進み、横十間川と小名木川と交差するところにクローバー橋。クロスにかかる橋を渡り、横十間川親水公園を少し南に下る。北砂1丁目にあった、土佐藩下屋敷跡に中浜万次郎宅跡がある、とのこと。探したがみつけることができなかった。ジョン万次郎。土佐の漁師。船が遭難。アメリカの捕鯨船に救助される。アメリカで教育を受け、帰国後、土佐藩に登用されこの地に住み、開成学校(東大の前身)で教授として働く。で、後からわかったのだが、旧居跡は北砂小学校の敷地内にあったようだ。




小名木川に戻り「釜屋の渡し跡」に
再び北に登り、小名木川沿い・釜屋の渡し跡に。碑文の概略;釜屋の渡しは, 上大島村(大島1)と八右衛門新田(北砂1)を結び, 小名木川を往復。 名称は, この対岸に 江戸時代から続く鋳物師, 釜屋六右衛門・釜屋七右衛門の鋳造所があったから。 写真には釜屋、というか鋳物工場と, そこで働く人びと や製品の大釜が写っている。明治時代の利用状況は, 平均して 1日大人200人, 自転車5台, 荷車1台で, 料金は1人1銭, 小 車1銭, 自転車1銭, 荷車2銭, 牛馬1頭2銭、と。
近くにJR貨物専用線が走る。越中島貨物線と呼ぶらしい。新小岩から亀戸、そして小名木川駅を経て越中島貨物駅に続く。昔は、その先、晴海方面にまで続いていた、と。現在は貨物輸送は廃止されているようである。

進開橋から新大橋通り・五百羅漢跡

>小名木川を東に進む。進開橋を渡り明治通りを北に。新大橋通り交差点あたりに五百羅漢跡が。とはいうものの、どうもあたりは工事中。碑文を見ることはできなかった。五百羅漢とは、500人の優秀な仏弟子、とでもいったものか。
江戸時代初期、開山松雲元慶が10年の歳月をかけ江戸の町を托鉢して集めた浄財で等身大の五百の羅漢像をつくりあげた。五代将軍綱吉、七代将軍吉宗の庇護を得て「本所のらかんさま」として人気を集める。「名所江戸百景」にも描かれているが、現在はこの地にはない。明治20年に本所に、同42年に下目黒に移った。目黒不動の傍である。ちなみにこのあたりは本所五つ目と呼ばれていた。道を隔てた向かい側に羅漢寺があるが、これは別のお寺さん。

旧中川脇に中川船番所資料館
新大橋通りを東に進む。大島の町並み。旧中川にかかる船越橋の手前を右折。小高く盛り上がった「大島小松川わんさか広場」の南に中川船番所資料館。中川番所を中心に関東の河川海運と江東区の郷土史の資料を展示している。中川のコーナーには番所中川番所の再現ジオラマを中心に出土遺物、番所に関する資料。

江戸をめぐる水運のコーナーには、江戸を巡る河川水運について、海辺大工町や川さらいに関する資料。江戸から東京へのコーナーには、蒸気船の登場などによる水運の近代化を通運丸や小名木川の古写真を中心に紹介してある。『江東区中川船番所資料館・常設展示目録(700円)』『江東地域の400年(100円)』を購入し、資料館を離れる。

中川船番所跡
資料館前道を旧中川に沿ってすこし南に。中川船番所跡。資料館の番所略史の抜粋:中川番所は、寛文元年(1661)に小名木川の隅田川口にあった幕府の「深川口人改之御番所」が、中川口に移転したもの。番所の役人には、寄合の旗本3?5名が任命され「中川番」と呼ばれ、5日交代で勤めていた。普段は、旗本の家臣が派遣されていた。小名木川縁には番小屋が建てられ、小名木川を通行する船を見張る。おもに夜間の通船、女性の通行、鉄砲などの武器や武具の通関を取り締まり、また船で運ばれる荷物と人を改めていた。

「通ります通れ葛西のあふむ石」と川柳に詠まれたように、通船の増加により通関手続きは形式化(あふむ=鸚鵡返し)していったようだが、幕府の流通統制策に基づき、江戸に入る物資の改めを厳しく行っていた。

仙台堀川公園
番所橋を渡り小名木川の南を西に戻る。東砂2丁目を越え東砂1丁目。左手に遊歩道。仙台堀川公園である。大島・砂町北部エリアもここまで。仙台堀川水路跡の仙台堀川公園を南に進めば砂町中南部エリアに入ることになる。

土曜日, 4月 15, 2006

江東区散歩 そのⅢ:(森下・住吉)へ

江東区(森下・住吉)は、小名木川の北になる。昔、どこかで江戸初期の地図を見たのだが、小名木川あたりが海岸線のようであった。小名木川の南は海。といって、北が「ちゃんとした」陸地、というわけでもないだろう。葦の生い茂る低湿地であったかと思う。
小名木川。隅田川から荒川、正確には荒川の手前の旧中川まで江東区を東西に横断する長さ5キロ弱の一級河川。川、といっても自然の川ではない。家康が江戸開幕の折に開削した運河である。千葉の行徳の塩を江戸に運ぶためつくったもの。
江戸城の和田倉門から道三堀、日本橋川を経て隅田川、隅田川から荒川まで小名木川、荒川を越え新川(船堀川)から旧江戸川を経て行徳まで連なる「塩の道」の一部ではある。
小名木川の開削は家康の最重要事業であった、という。塩は生活の必需品であるから、だろう。運河が掘られる。で、その残土を埋め立てに使う。小名木川以北が埋め立て事業の最初に行われたのは、こういった事情もあったのではないか、と思う。
小名木川の名前の由来は、家康の命によりがこの運河を開削したのが小名木四郎兵衛の名前から。もっとも、これも諸説あり、うなぎがよく採れたのでうなぎ川、それがなまったという説などいろいろ。
小名木川は、後に、関西地方から江戸に塩がもたらされるようになり、「塩の道」の役割が少なくなってからも、東北や北関東からの生活物資を江戸に運ぶ重要河川としてその役割を担った。房総、浦賀といった太平洋の海の難所を避け、茨城あたりで内陸に入り、利根川・江戸川経由で小名木川、そして江戸に続く、いわゆる奥川廻し、この内陸水路をつかった水運ネットワークの一環として機能したのだろう。ともあれ、歩をすすめることにする。


埋め立ての歴史
(江東区発行の『江東区のあゆみ』より);
慶長年間(1596?1615);深川村(森下・常盤・新大橋・猿江・住吉)
享保年間(1716年);毛利新田(毛利)



本日のルート:万年橋北詰・船番所跡  芭蕉記念館 ; 新大橋東詰め・御船蔵跡 ; 猿江神社 ; 猿江船改番書跡・扇橋閘門 ; 小名木川橋北詰め ; 猿江恩賜公園・猿江御材木蔵跡

小名木川・万年橋北詰に船番所跡
小名木川・万年橋北詰。常盤町。昔、松代町と呼ばれていたが、町名を変える際、「松」にちなんで縁起よく、常盤(松)、としたとか。船番所跡の案内。川舟の通行を改める「深川船改番所」のあったところ。寛文元年(1661)に中川に移るまでこの地にあった。

芭蕉稲荷神社・芭蕉記念館
同じく北詰をすこし隅田川に入ったところに芭蕉稲荷神社。大正6年の大津波の後、この地から芭蕉愛顧の石の蛙が見つかり、それを記念し神社がつくられた、と。芭蕉は17世紀後半、この地に芭蕉庵を営み、「蕉風」と呼ばれる俳諧を確立した。江戸切絵図によれば、紀伊殿屋敷に「芭蕉庵の古跡、庭中ニアリ」と書いてある。芭蕉没後、尼崎藩・松平紀伊守の屋敷。北に進む。芭蕉記念館。芭蕉の肖像画や手紙などの資料が展示されている。更に北に進み新大橋通りにあたる。


新大橋東詰めに御船蔵跡
新大橋東詰めの御船蔵跡。幕府御用船の格納庫跡。寛永9年幕府軍艦安宅丸(あたけぶね)を伊豆より回航繋留。のちに天和2年解体した地であることを記した碑。橋詰より東に進む。

深川神明宮は深川の開発者の屋敷神から

清澄通りを少し下り、森下1丁目に深川神明宮。深川村の総鎮守。このあたりは深川発祥の地。葦の生い茂るこのあたり一帯の埋め立て・開発をおこなった摂津の人、深川八郎右衛門の名前にちなみ深川という名前が生まれる。慶長期(1596?1615)であるので、江東区埋め立ての始まりの時期でもある。 八郎右衛門の屋敷内に祀られたお伊勢さんの祠が深川神明宮の起こり。森下の地名は、江戸初期、この地にあった酒井左衛門尉の下屋敷の樹林が深く、周囲の町屋は森の下のようであったからだ、と。
神明さま、とは伊勢信仰の「天照大神」のこと。明治期におおくの神明社は、伊勢神宮=天皇家、を憚って改名。天祖神社などという名前にしたが、ここはママ、残った、ということか。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

大横川に架かる猿江橋を渡り猿江神社に
墨田区との境を森下3丁目、4丁目と進む。新大橋通りと小名木川の間を道なりに進み、三つ目通りを越え、大横川に架かる猿江橋に。大横川よりは東住吉エリア。住吉の名前は昭和になって、いくつかの町が一緒になった際、縁起がいいという理由で名づけられたもの。由来は特に無い。
住吉は昔からのこの地域の地名、猿江で呼ばれることが多い。猿江1丁目に猿江神社。由来書によれば、11世紀はじめ源義家の奥州征伐のころ、この地で果てた源氏の家臣・猿藤太に由来する、とか。猿+(入り)江=猿江、となったとの説明。猿江神社の少し北に、摩利支天祠跡・日先神社。今は、なんとなくこじんまりした構えではあるが、江戸名所図会では結構なる造作。江戸屈指の規模をもつ神社であった、とか。摩利支はサンスクリット語で「マリシ=太陽や月の光」。摩利支天は陽炎を神格化したもの。陽炎は実体がないので、捉えられず・傷つくこともない、ということで武士の間で信仰されていた。楠正成など兜の中に摩利支天の小さい像を入れていた、と言う。また、だまされず、財をとられることもないということがら江戸後期には民衆の信仰を集めた。

小名木川筋に戻り、猿江船改番書跡・扇橋閘門へ
近くに小名木川。ちょっと寄ってみようと「猿江船改番書跡」に。元禄から享保期(1688?1736)頃、川船行政を担当する川船改役(かわふねあらためやく)の出先機関として設置。船稼ぎの統制と年貢・役銀の徴収と極印(証明)等の検査をしていた。
直ぐ東に扇橋閘門(こうもん)。江東区の東と西では水位が異なる。で、東の小名木川と西の隅田川の水位を調整するためにつくられた。大潮のときなど2m近い水位差がある、とか。船が入った後、後ろの門が閉じられ、水位調整のあと前の門を開けて船が出ていく、というもの。

小名木川橋北詰めに五本跡と五百羅漢道標
四ツ目通りと小名木川が交差するところに小名木川橋。橋の北詰に五本松跡と五百羅漢道標。歌川広重の「名所江戸百景」での「小奈木川五本まつ」、とか「江戸名所図会」の「小名木川五本松」に描かれた名所跡。少々寂しい松が数本生えていた。五百羅漢道標は大島の五百羅漢寺と亀戸天神への道を示したもの。

新大橋通りに戻り猿江恩賜公園・猿江御材木蔵跡に
四ツ目通りを北に。新大橋通り。都営新宿線・住吉の駅を右折。毛利2丁目に猿江恩賜公園・猿江御材木蔵跡;幕府の材木蔵の後。享保19年(1734年)墨田区本所横網にあった材木蔵がここに移る。明治になり政府宮内省の材木蔵となるが、昭和7年に南部、昭和51年には北部の営林署貯木場が新木場に移転し、57年北部も公園となる。毛利の地名は、麹町の毛利藤左衛門が、私財を投じてこの地にあった入掘を埋めて新田・毛利新田をつくったことに由来する。森下・住吉エリアはここまで。次は大島・砂町北部エリア。