月曜日, 6月 12, 2006

葛飾区散歩 そのⅡ:柴又


甲和里は現在の小岩、仲村里ははっきりしないが奥戸あたりとか。で、嶋俣。これって、柴又のはじまりの地名、とか。嶋は砂州・微高地、俣は分岐点。湿地帯の中に小高い砂州があり、そのあたりに幾く筋もの流れがあったのだろうか。柴又となったのは17世紀から。

金町からはじめ、柴又をぶらり、そして新宿地区に
今日は、柴又のあたりを歩く。古代、このあたりは「嶋俣里」と呼ばれていた。東大寺の正倉院に伝わる養老5年(721年)の「下総國葛飾郡大嶋郷戸籍」には当時の大嶋郷には甲和里、仲村里、嶋俣里の三つの里があると記されている。大嶋郷って、南は北十間川の川筋あたり、東は江戸川、北から西は中川から古隅田川に囲まれた沖積地帯。現在の葛飾区・江戸川区・隅田区の北半分である、と言われる。
大嶋郷に住んでいた人は1191名。甲和里には44戸・454名、仲村里には44戸・367名。そして、嶋俣里には42戸・370名の計130戸・1191名が住んでいた、とされる。で、ほとんどの人は孔王部(あなほべ)姓。「孔王部 (小さ)刀良」(あなほべ とら)が7名、「孔王部 佐久良売」(あなほべ さくらめ)が2名。『男はつらいよ』の寅とさくら、はここからきている、であれば面白いが、そんなことはないだろう。ともあれ、寅さんの舞台、柴又から散歩に出かける。



本日のコース: 常磐線・金町駅 ; 矢切りの渡し ; 柴又帝釈天 ; 柴又八幡神社 ; 小岩用水跡 ; 京成高砂駅 ; 青龍神社と怪無池 ; 極楽寺・青砥藤綱 ; 上下之割用水跡 ; 新宿・「水戸街道石橋供養道標」 ; 中川大橋・日枝神社 ; JR亀有駅


JR 常磐線金町駅
葛飾散歩2回目。先回は金町から上に。今回は金町から下に向かう。JR 常磐線金町駅で下車。南に進み、金町3丁目あたりを江戸川堤に向かう。堤の手前に金町浄水場。広い。それもそのはず、日本で最大の浄水場。江戸川から取り入れた水を処理し、東京で使われる水の20%を供給している。

矢切りの渡し
江戸川の堤に。堤に登る。堤をのんびり歩き広い金町浄水場を過ぎると柴又。歌謡曲や伊藤左千夫の小説『野菊の墓』で名の知られた矢切の渡しがある。対岸の千葉県・松戸市に「矢切」地区がある。後北条・小田原北条家と下総里見家の国府台合戦のおり、里見方の矢が尽きた=矢切れ>矢切、が由来。この渡しは、農民のみの往来が許されていた、とか。柴又矢切の渡し公園あたりで堤を離れ柴又帝釈天に向かう。

柴又帝釈天
柴又帝釈天。映画「寅さん」で一躍有名になった日蓮宗のお寺。寛永6年(1629年)開草。帝釈天はバラモン教・ヒンドゥー教の武神インドラの神。元々は阿修羅とも戦った武勇の神であったが、仏教に取り入れられてからは慈悲深い仏法守護十二天のひとつとなった、とか。七福神の中の毘沙門天とも言われる。わかったようでいまひとつわかってないのだが、ともあれこの帝釈天がこのお寺の本尊。しかも、板に描かれたもの。そのうえ、親鸞上人が自ら刻んだというもの。
が、このご本尊、一時行方不明に。その後、安永8年(1779年)荒廃した寺院の修復をしているとき、偶然梁から板の「ご本尊」が見つかる。その日が庚申の日。で、安永に続く天明年間の天明の飢饉のとき、帝釈天の日敬上人、この人って板本尊をみつけた人なのだが、板本尊を背負って江戸や下総の国を歩き、功徳・布施を施す。江戸を中心にした帝釈天信仰が高まったのはこういった地道な活動のたまもの。
帝釈天では庚申信仰も盛んにおこなわれた。板本尊が出現したのが庚申の日でもあり、江戸末期に盛んになった「庚申待ち」信仰とも相まって、帝釈天への「宵庚申」参詣が盛んにおこなわれるようになったのだろう。

帝釈天のHPに次のような庚申参詣の記事があった:「明冶初期の風俗誌には「庚申の信仰に関連して信ぜらるるものに、南葛飾郡柴又の帝釈天がある。 帝釈天はインドの婆羅門教の神で、後、仏法守護の神となったが、支那の風俗より出た庚申とは何の関係もない、此の御本尊は庚申の日に出現したもので、以来庚申の日を縁日として東京方面から小梅曳舟庚申を経て、暗い田圃路を三々五々連立って参り、知る人も知らない人も途中で遇えば、必ずお互いにお早う、お早う、と挨拶していく有様は昔の質朴な風情を見るようである。」と書いてある。
続けて:「見渡す限りの葛飾田圃には提灯が続き、これが小梅、曳舟から四ツ木、立石を経て曲金(高砂)の渡しから柴又への道を又千往、新宿を通って柴又へ至る二筋の道に灯が揺れて非常に賑やかだったと言う事である。茶屋の草だんご等は今に至っている。人々は帝釈天の本堂で一夜を明かし、一番開帳を受け、庭先に溢れ出る御神水を戴いて家路についたのであった。」と。陸続と続く信心の人たちの姿が目に浮かぶ。
今も人で賑わう参道を歩く。上に挙げた明治の風俗誌にもあった、草だんごの店でお土産を買い求め、昔、子供の咳止めに買った飴屋さんをひやかしながら参道を進み京成柴又駅に。手前で線路を右に折れ、八幡神社に向かう。

柴又八幡神社

柴又八幡神社。神社の縁起よりもなによりも、この神社は古墳の上につくられている。昔から、古墳っぽい、とは言われていたようだが、発掘調査されたのは1975年の社殿改築の時。そのとき埴輪とか馬具などが見つかり、その後本格調査がおこなわれ、八幡神社古墳は古墳時代(6世紀後半)のものであるとわかった。現在はすべて埋め戻され、神社裏手に古墳記念碑「島(嶋)俣塚」が残っている。
平成13年の学術調査のとき、三体の埴輪が見つかった。そのうち一体は「寅さん埴輪」としてニュースにもなった。写真を見ると、帽子がいかにも寅さん。あのトレードマークの帽子とそっくり、である。発見された日が、寅さんこと、渥美清さんの命日であった。


埴輪もさることながら、気になったのは、この古墳で見つかった石室の石材。房州石と呼ばれる、安房の鋸山周辺の石である。この房州石、武蔵の国の各地の古墳で使われている。散歩で訪れた、埼玉・さきたま古墳群の将軍山古墳、北区・赤羽台古墳群、千葉・市川の法王塚古墳、南千住の素盞雄神社に鎮座する「瑠璃石」も房州石であった。埼玉や東京の 6 世紀後半?7 世紀台の古墳の石室材としてこの房州石が使われている。ということは、そのころには既に、古い利根川筋をつかった河川舟運が行われていた、ということであろう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

小岩用水跡を越え高砂に
柴又八幡を離れ、先に進む。柴又1丁目と高砂8丁目の境あたりで小岩用水跡を越える。小岩用水は小合溜井を水源とする上下之割用水(かみしものわりようすい)が新宿(にいじゅく)地区で分水したもの。ちなみに上下之割用水は新宿からすこし下ったあたりで3つに分水し、東井掘、中井掘、西井掘として南に下った。
京成高砂駅に。高砂の地名の由来は、小高い砂州から、かな、と思ったのだが、昭和に町村合併のおり、縁起がいいということで、世阿弥元清の謡曲、婚礼の折の謡の代表局「高砂」から名づけたもの。「高砂や この浦舟に帆を上げて この浦舟に帆を上げて 月もろともに出汐の 波の淡路の島影や 遠く鳴尾の沖過ぎて 早、住之江に着きにけり 早、住之江に着きにけり」。いくつもの町村が合併するときによくあるパターン、であった。

青龍神社と怪無池
高砂駅あたりをぶらぶらし、とりあえず中川の堤まで出ることにする。地図を見ると、高砂6丁目の「水道管橋」あたりに青龍神社と怪無池。名前に惹かれて進む。青龍神社はささやかな祠。昭和56年に神社が全焼したそうだ。で、この神社は榛名山の分霊とか。由来はあまりよくわからない。神社の横に怪無池。多くの人が釣りを楽しんでいた。この池は横の中川が決壊してできた池。名前の由来はいくつかある。怪我なし、とか「け」 = 飢饉なし、とか毛がないとか。が、どれもいま一つ。
で、自分なりの推論というか、空想。青龍神社 = 榛名山。であれば榛名あたりに怪無山ってないだろうか。あった。怪無 = 木無し。頂上付近に木々の無い山ってこと。榛名山と怪無山の関係が = 青龍神社と怪無池、といったなんらかの関係があった、と自分勝手に納得する。
極楽寺は鎌倉幕府の名裁判官・青砥藤綱ゆかりの寺、と
中川の堤を少し南に。京成線を越え、堤下に極楽寺。高砂橋からの道筋を東に。直ぐの交差点で北に。極楽寺は鎌倉幕府の名裁判官・青砥藤綱によってつくられた。国府台合戦で焼失・荒廃するも江戸になり復興し、門前に市がたつほど賑わった、とか。
藤綱は北条時頼、時宗の二代につかえた鎌倉武士。この藤綱って鎌倉散歩の時、滑川に架かる青砥橋の碑文で出会った人物。川に落とした十文銭の話で有名。碑文:「太平記に拠(よ)れば 藤綱は北条時宗 貞時の二代に仕へて 引付衆(裁判官)に列りし人なるが 嘗(かって)て夜に入り出仕の際 誤って銭十文を滑川に 堕(落)し 五十文の続松(松明)を購(買)ひ 水中を照らして銭を捜し 竟(遂)に之を得たり 時に人々 小利大損哉と之を嘲(笑)る 藤綱は 十文は 小なりと雖(いえども) 之を失へば天下の貨を損ぜん 五十文は我に損なりと雖(いえども) 亦(また)人に益す 旨を訓せしといふ 即ち其の物語は 此 辺に於て 演ぜられしものならんと伝へらる」、と。要は、川に落とした十文銭を拾うため、五十文のお金を使って松明を買いついに探し出す。人皆、「それって大損」、と。が藤綱は、十文が無くなるのは天下のお金を無くすこと。50文を失った、といってもそれは人のためになったわけだから、と人を諭した。このお寺に藤綱の墓がある、と言う。
上下之割用水跡を新宿に 極楽寺の東に天祖神社。再び線路を越え北に戻る。線路脇に観蔵寺。葛飾七福神のひとつ寿老人が。北に進む。怪無池の線路・新金線貨物線を隔てた丁度東あたりにいかにも川筋跡といった通り。上下之割用水跡であった。用水跡を北に。新金線貨物線を斜めに越える。用水跡は新宿(にいじゅく)にむかって先に続く。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

新宿・「水戸街道石橋供養道標」

水戸街道と交差。昔、新宿橋があったよう。それよりもなによりも、昔はこのあたりは交通の要衝。江戸の地図を見ると、この新宿から西に水戸街道、佐倉街道、国分道、北に向かって原田道、小向道、それと新宿のちょっと中川寄りのところからは流山道が北へと分岐している。新宿は小田原後北条により、対岸の葛西城の町場として整備された。水戸街道をちょっと越えた用水跡に「水戸街道石橋供養道標」。
碑文をメモする。:「水戸・佐倉両街道の分岐点に立つ道標です。この地域の万人講、不動講、女中講の人々は、安永2年(1773年)から5か年を費やし27か所の石橋を架けま した。これはその供養のため、不動明王像と道標を、この町の石工中村左衛門に造らせたものです。当時27か所もの石橋を架ける事は、共同事業とはいえ大変 な大事業であったと思われます。また今は無くなってしまいましたが、この道標(竿石)のうえに不動像を安置していました。新宿町は水戸・佐倉街道の分岐にある宿場町で、千住から1里余り中川を渡りちょうどこの辺りで水戸街道は金町へ(水路に沿った道を左に)、そして佐倉街道は上小岩へと向かいます(現在の水戸街道を越えて右に入る)。
この佐倉街道は参勤交代に利用されただけでなく元禄(1688年)以降、民間の信仰が盛んに なると、成田山新勝寺や千葉寺参詣の道としても利用され、成田道、千葉寺道と呼ばれるようになりました 葛飾教育委員会」、と。

中川大橋
中川大橋手前に日枝神社。イチョウの大木で有名。元禄時代は山王大権現。元はもっと中川寄りの地にあったが、中川河川改修の折、この地に移る。中川大橋を渡る。川を渡れば昔の亀有村地区。金町・新宿地区散歩のメモはここまで。JR 亀有駅に向かい、家路へと。




土曜日, 6月 10, 2006

葛飾区散歩 そのⅠ :小合溜井から中川の堤へ

金町駅から水元公園・小合溜井と中川堤をぐるっと一周し、金町駅に戻る

葛飾を歩く。先回、曳舟川跡を歩いていたとき、地図で水元公園を見つけた。水路の湾曲の具合が面白い。なによりも、その溜が「小合溜井(こあいたるい)」などと呼ばれる。いかにもなんらかの歴史を感じるような名前に惹かれた。
水元公園は小合溜井を中心とした水郷地帯、である。この小合溜井は江戸時代・享保14年(1729年)につくられた旧古利根川というか中川の遊水地。江戸川の増水時、ここに水を引き入れ、江戸の町を洪水から護るためにつくられた。また、普段は東葛西領50余カ村の水田を潤すための上下之割用水の水源。「水元」と水元公園いう名前の由来でもある。小合は室町時代の地名「小鮎」から。
古利根川とか中川とか、川が入り組みややこしい。ちょっと、まとめ:本来、利根川は江戸湾に流れ込んでいた。流路は現在の中川・旧中川とか江戸川(太日川)の流れといったところか。江戸時代になり利根川の東遷事業、つまりは、茨城県の銚子に流すように瀬替工事・治水工事がおこなわれた。結果、残された川筋、つまりは江戸に流れ込んでいた川筋、これを古利根川と呼ぶ。
古利根川といっても、河川工事が行われているわけもなく、もちろんのこと一筋ではない。いくつもの細流がわかれている。となれば、それぞれの流路は水量が減ってくる。そのため農民は堰を設け水田用の水を確保することに。これが溜井。亀有溜井といったものもあったようだ。
堰を設け、南に流れる水路を止める。堰き止められた水は、低くきを求めて東に流れ現在の太日川、現在の江戸川筋に合流した。小合溜井を通る川筋・小合川筋は、このようにしてできた古利根川の川筋であった。
宝永元年(1704年)、この古利根川が溢れた。太日川・江戸川の大増水により、古利根川に逆流した暴れ水が、八潮市と葛飾区の境、現在の大場川と中川の合流点あたりの堰(猿ヶ俣・八潮市大瀬間の締め切り堰)に押し寄せ、堤防が決壊。葛西領と江戸下町一帯が大水害に見舞われた。
この大洪水に懲り、江戸を洪水の被害から防ぐため、将軍吉宗の命により、享保14年(1729年)井沢弥惣兵衛の手によって治水工事が開始された。井沢弥惣兵衛は見沼通船堀、見沼代用水などを差配した治水・利水工事のスペシャリストである。小合川筋の古利根川は江戸川合流点手前で堰を設け溜井をつくった。これが「小合溜井」。
一方、猿ヶ俣・八潮市大瀬の堰以南の川筋、古利根川の細路・流路を開削し広い川筋を設けた。これが中川。正確には、中川とはこのあたりより下流を指すのだが、現在ではこれより上流も中川と呼ばれている。ちなみに、江戸川だが、もとは渡良瀬川の下流。太日川とも呼ばれ、利根川とは別の流れで江戸湾に流れていた。1641年には上流部で人工水路が開削され、利根川の水も取り入れて流れている。
ということで、葛飾散歩一回目は、水元公園からスタートし、葛飾と埼玉、葛飾と足立の境を区切る川筋を、ぐるりと一周することにする。葛飾区は昭和7年に東京府南葛飾郡の水元村、金町、新宿町、亀青町、南綾瀬村、本田町、奥戸村の7つの町村が合併してできたわけだが、今回の散歩は大雑把に言って、昔の水元村と金町巡りといったところか
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本日のコース: JR常磐線・金町駅 ; 葛西神社 ; 金蓮院 ; 半田稲荷 ; 江戸川の堤・金町関所跡 ; 松浦の梵鐘 ; 南蔵院の「しばられ地蔵」 ; 香取神社・「上下之割用水跡(うえしたのわり)」 ; 閘門橋(こうもんばし) ; 遍照院 ; 葛西御厨神明宮 ; 猿が又水神様 ; 安福寺・飯塚の夕顔観音 ; 富士神社・富士塚 ; JR常磐線・金町

JR 常磐線・金町駅・葛西神社に

最寄の駅は JR 常磐線・金町駅。下車し線路に沿って東に進む。江戸川堤防近くに葛西神社。このあたり一帯の総鎮守。平安末期、葛西清重により香取神宮を分霊し創建された。江戸時代には徳川家康によりご朱印十石を受ける。葛西神社となったのは明治になってから。「江戸まつりばやし」のルーツといわれる「葛西ばやし」発祥の地でもある。ちなみに、葛西清重って、現在の隅田川と江戸川の間に広がる東京下町低地を開発し所領した葛西一族の重鎮。頼朝の覚え目出度く、後々奥州総奉行となる人物だ。

金蓮院

葛西神社を離れ西に進む。東金町3丁目に金蓮院。特段ここを目指していたわけではないのだが、鬱蒼とした森に惹かれてなんとなく訪れた。槙の大樹で有名。境内に愛染明王の像がある。愛染明王、って梵語で「ラーガ」。赤、とか愛欲って意味らしい。煩悩としての愛欲を、そのまま仏の悟りに変える力、愛欲煩悩即菩提をもつ明王である、と。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

半田稲荷
先に進む。次の目的地は東金町4丁目にある半田稲荷。和銅4年(710年)鎮座の古刹。先日購入した『江戸近郊ウォーク』(安倍孝嗣・田中優子:小学館)の中に「半田稲荷詣での記」という記事があった。尾張徳川家の藩士・村尾嘉陵の散歩の記録である。そこには「尾張・紀州両藩の士、その他諸侯の士、江戸の町々、品川あたりの者などが、ここまで月詣でする、という」と書いてある。どんなところなのか、なんとなく気になっていた。
村尾嘉陵の日記にあるように、江戸名所のひとつ。歌舞伎、芸能界、花柳界、魚河岸を主とする講中も多く、月詣が盛んにおこなわれたよう。疱瘡、はしか、安産の神様。境内に神泉遺構。昔は湧水井戸だったとは思うが、現在は水はなし、井戸跡を囲む石柵には寄進者として市川団十郎の名も。ちなみに、この神社、尾張徳川家の立願所。現在の社殿も尾張家の寄進、とか。
それにしても、それにしても、である、この神社が何故また歌舞伎、花柳界などの贔屓を得るようになったのか。ちょいと調べてみた:時は昔、明和・安永の頃(1764 - 81年)、体中赤ずくめで「葛西金町半田の稲荷、疱瘡も軽いな、発疹(はしか)運授 安産守りの神よ。。。」と囃し江戸を練り歩き、チラシを配る変な坊主がいた。この坊主は神田在の願人坊主。半田稲荷のキャンペーン要員。この販促企画が大ヒット。この坊主が来ると、景気がよくなるとまで言われた。
この噂は上方まで伝わった。で、その人気に目をつけた市川団蔵が天明4年(1784年)、大阪角座で歌舞伎芝居として上演。明和2年(1765年)、江戸市村座にて中村仲蔵も上演。文化10年(1813年)には坂東三津五郎も願人坊主を演じ、大人気を博する。歌舞伎だけでなく、川柳で「股引と羽織で半田行く所」と読まれたり、長唄で歌われたりと、江戸庶民に深く「刺さった」ようだ。で、神泉遺跡に市川団十郎の名があったり、歌舞伎、芸能界、花柳界の贔屓を得るようになった、のだろう。飯塚の夕顔観音、渋江の客人大権現とともに葛西の流行神でもあった。

江戸川の堤・金町関所跡
半田稲荷を離れ、江戸川に沿って進む。葛西大橋、葛西橋への道筋とクロスし江戸川の堤近くに。堤の手前、下水道局東金町ポンプ所脇に金町関所跡。水戸街道が江戸川を渡るところに位置する江戸の東の関門。4名の関所番が常駐していたと。対岸の松戸との間は渡船が常備。将軍の小金原への鷹狩のときは川に高瀬舟を並べて臨時の橋とした、とか。

水元公園・「松浦の鐘」
金町関所跡から暗渠の上を水元公園に向かう。この暗渠は水元公園から江戸川への水路だろう。東乃橋、西乃橋、天王橋と進み水元公園に。水元公園は小合溜井(こあいたるい)を中心とした水郷風景が楽しめる都内唯一の公園。20万本の花菖蒲、都指定天然記念物オニバスがある。江戸前金魚展示場などを右手に見ながら公園に沿った道筋を進む。「松浦の鐘」。鐘だけが遊歩道というか道のど真ん中に。お寺がなくなり、危急時の早鐘として使われた、と。

南蔵院の「しばられ地蔵」
しばられ地蔵道路を少し離れて南蔵院に。八代将軍吉宗の頃、南町奉行大岡越前守の「大岡裁き」で有名な「しばられ地蔵」がある。たしかに荒縄でぐるぐる巻きに縛られていた。もとは本所にあったが、関東大震災のあと、この地に移ってきた。
縛られ地蔵のお裁き、とは:昔々呉服問屋の店員さんがお地蔵さんの前で、うとうと居眠り。大切な反物を置き引きされる。で、越前守曰く「面前での盗人を見逃すとは、不埒千万。即刻地蔵を召し取れ」と。お地蔵さんに縄を打つ。前代未聞の地蔵のお裁き。大挙集まった人々が奉行所・お白州にもなだれ込む。越前守曰く「お白州に踏み込むとはなんたる所業。罰金として反物を納めるべし」と。その反物の中に盗まれたものが。かくして、盗人を召し捕らえた、って話。わかたような、わからないようなお話。
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香取神社・「上下之割用水跡(うえしたのわり)」
香取神社道に戻り、先に進む。香取神社が。下小合村の鎮守。神社の前に南に下る川筋というか掘筋がある。「こあゆの小路」。小合溜井の外堀と内掘をつなぐ水路。勝海舟の書の「香取社」という扁額も。このあたりからなんとなく南西に掘っぽい筋が感じられる。これって「上下之割用水跡(うえしたのわり)」だろう、か。
上下之割用水は享保14年(1729年)、幕府勘定方井沢弥惣兵衛の手によりつくられ、現在の葛飾・江戸川区の中川より東側の耕地を灌漑した。橋を渡り、公園に沿って更に進む。桜並木が続く。「水元さくら堤」。八代将軍吉宗の江戸川治水工事の一つとして、小合溜の整備とともにつくられた江戸川の外堤防(二次堤)。堤の全長は約4キロ弱。ソメイヨシノ、山桜、八重桜などの桜が植えられている。
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閘門橋(こうもんばし)
東水元地区を進む。日枝神社。山王神社としてあったが、水元公園の工事にときに場所も移り、名前も変えた、と。熊野神社。境内にタブノキがある。先に進み東水元6丁目の閘門橋(こうもん)に。このあたりが水元公園の最西端。都内唯一のレンガ造りのアーチ橋。閘門とは、水位・水流・水量等調節用の堰のこと。江戸時代この辺りは古利根川(現在の中川)や小合川筋(現在の大場川、小合溜井)が入り組み、水はけの悪い、古利根川の氾濫地域。古利根川と小合川の逆流を防ぐためにこの閘門が設けられた。橋は、明治43年「弐郷半領猿又閘門」としてレンガ造りアーチ橋が造られる。後に、新大場川水門の完成により閘門としての役割を終えた。

大場川に沿って中川に

大場・中川合流閘門を離れ、大場川に沿って中川に向かう。大場川は現在の中川と水元公園をつなぐ3キロ弱の川。大場川も、もとはといえば中川。中川も、もとはといえば古利根川、ってことは上でメモしたとおり。
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遍照院
水元5丁目三叉路交差点で岩槻街道と交差。しばし川堤の道を離れる。南西に下る。遍照院。和銅元年に開かれたという区内最古の歴史をもつ。天文7年(1538年)の小田原北条氏と安房・里見氏の「国府台合戦」の際,伽藍焼失。以降、再建されたり、火災に遭ったり、水害に遭ったりと、いうのは諸寺院・神社の世の習い。少し南にくだり、水元神社を眺め再び大場川筋に戻る。

葛西御厨神明宮

西水元4丁目に葛西御厨神明宮。葛飾の名所・旧跡の指定地。とはいうものの、手入れの跡はない。由来書も案内もなにもない。葛西御厨の名前に惹かれてきたのだが、知らなければなんの抵抗もなく通り過ぎるだけのお宮、というか小さな祠。
葛西御厨って、葛西にある伊勢神宮の領地ってこと。平安時代末期から現在の隅田川と江戸川に挟まれた下町低地一帯を開発・所領した葛西一族の葛西清重が、領地のうち下葛西と上葛西の33郷、現在の葛飾区を中心とする地域一体を伊勢神宮に寄進した。それが葛西御厨。
神明社は伊勢信仰に由来するお宮。伊勢の内宮(天照皇大神)または外宮(豊受大神)を分霊したもの。もともとは皇室以外が伊勢の神様をおまつりすることなどできなかったようだが、財政難には抗しがたく全国各地に布教活動を始めた。で、各地の武将が神領を寄進し、その地に神明社とか神明宮とか神明神社とは太神宮といった名前でお祀りされた。
近世になって、庶民にも伊勢信仰が広まると、新田開発に際して、農業神である豊受神や天照大神を祀る神明宮が盛んに創建され、村の鎮守として機能していた、ということ、か。日本各地にある天祖神社は明治の神仏分離令のとき、神明社が改名したとことがほとんど、だ。

猿ケ又水神様
水神様神明宮を離れ、大場川と中川の合流点に。新大場川水門脇を通り中川に至る。西水元3丁目の土手道に猿ケ又水神様。小さな祠。なにも案内はなかったが、素朴ないい雰囲気ではあった。猿ケ又の由来は不明。川筋が3方向に分岐していていた、「三ケ又」から転化された、という説もある。
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安福寺・飯塚の夕顔観音

少し南に進み安福寺。飯塚村の名主・関口治左衛門が自宅近くの老松の根元から夢のお告げにより観音像と仏具を掘り出す。鎌倉時代の作とか。お堂をつくり夕顔観音としてお祀り。飯塚の夕顔観音として江戸の元禄年間は賑わったとか。安福寺におかれるようになったのは明治になってから。
何故「夕顔観音」か、よくわからない。が、どうもこのあたりとか、千葉に「夕顔観音」にまつわる話が多い。千葉介の祖である平良文も法名・夕顔観音大士。良文にまつわる夕顔観音塚もある、という。足立の瑞応寺に夕顔観音。千葉介の千葉常胤の娘、夕顔姫の菩提をとむらうお寺。
そもそもこの千葉常胤にも夕顔観音にまつわる「羽衣伝説」がある。天女の羽衣を見つけた武将、幾年か天女とともに暮らす。数年たち、天女は天上に戻る。が、武将がなくなったとき、天女地上に現れ、ともに天上の国に。そのとき、一粒の「夕顔」の種を落としていく。その種を拾った子供が種をまくと、すくすく育ち、中から観音さまが。「夕顔観音」と名付ける。この夕顔観音を護り本尊とした子供は大きくなり、立派な武将に成長。それが千葉常胤である、という。

富士神社・富士塚
富士塚先に進み、飯塚橋を越え富士神社に。立派な富士塚がある。明治12年に浅間山に土を持って作られたもの。飯塚の富士塚と呼ばれる。散歩をはじめて富士塚を結構沢山見てきた。が、ここの富士塚が今まででは最も立派。
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JR 金町駅
富士神社を離れ、中川を下る。三菱ガス化学の工場脇を進み、常磐線と交差。南側には線路に沿って道はない。少し南に下る必要がありそう。で、ガードの北に戻る。線路に沿って細い道が通る。北はまったくの更地。工場跡だろうか。本当に道が続くのかどうか少々不安。が、なんとなく大きな通りに出て一安心。道なりに進み金町駅北口に。本日の予定終了。
水元村と金町はほぼ歩いた。先日の曳舟川散歩は亀青町・本田町といったことろ。次回は金町から新宿町・奥戸町を歩いてみよう。

木曜日, 6月 08, 2006

荒川区散歩 そのⅢ:荒川地区より隅田川に沿って町屋・尾久へと

荒川地区よりはじめ、隅田川に沿って町屋地区から西の尾久地区へと進む

荒川散歩も3回目。日暮里、南千住地区を歩き、今回は中央部の荒川地区よりはじめ、隅田川に沿って町屋地区から西の尾久地区へと進む。
荒川地区はもとは三河島と呼ばれていたところ。歴史は古く、戦国期にはその名が登場する。三流の川があったとか、三河守がいたからとか、名前の由来はさまざま。この歴史のある三河島という名前が荒川に変わったのは、昭和36年になって、から。
町屋地区は地元で発見された板碑などから、室町期には既にこの地は開墾されていたとされる。町屋という名前が登場するのは江戸時代になって、から。

町屋の名前も諸説あり。文字通り、町屋があったから、との説がある。とはいっても、街道筋があるわけでもなく、?? 真土谷に由来する、って説もある。本当の土 = 洪積世の土が取れる谷 = 沢があったところ、と。屋 = 野、であり、真土野、とも言われるが、ともあれ、これは、待乳山( = 真土山)聖天さまの由来と同じである。入間川沿いの微高地に、川の流れによって堆積した土ではない、真の土=粘り気のある土があった、ということか。実際、この地の荒木田の土は、壁土や焼き物に重宝された良質の土であったという。この説に結構納得。
尾久も古い。室町期には既に「小具」として登場する。「越具」とも書かれる。「奥」とも書かれたので、江戸の奥、から来る、というのが地名の由来とも。それはないだろう、と。どうもよくわかっていない。
荒川区の名前の由来は荒川、から。現在荒川区の北を西から東に隅田川が流れるが、この川が「荒川」。隅田川となったのは昭和40年から。上流の岩淵水門より南東に下る人工の放水路が正式に「荒川」と命名されたため、もとももの「荒川」であった川筋が「隅田川」となったわけだ。荒川区が誕生したのは昭和7年。そのときは確かに荒川に沿った区であったわけで、至極普通な命名であったのだろうが、その荒川が「手元から抜け落ちる」などとは想像もしなかったのであろう。ともあれ、往時の名前を残す、「荒川地区」より散歩にでかける。


本日のコース: 都電荒川線・三ノ輪駅 ; 隅田川堤 ; ハンノキ山 ; 荒木田の原 ; 尾竹橋 ; 尾久の原公園 ; 小台橋 ; あらかわ遊園 ; 船方神社 ; JR田端駅

都電荒川線・三ノ輪駅

地下鉄三ノ輪駅より、日光街道を越え、都電荒川線・三ノ輪駅に。近くの公春院横を北に進む。南千住警察署前に出る。少し広い道路。千住間道と呼ばれる。交差点を左折し西に進む。線路と交差。


隅田川の堤に
都電荒川線である。線路に沿って進むと、荒川自然公園に。線路から離れ、外周部を北に進み隅田川の堤に向かう。公園に続く三河島水再生センター外周部を廻りきったあたりから堤に出る。




ハンノキ山
隅田川を見ながら少し進む。京成線のガード。荒川五中前に。校門前に「ハンノキ山」の説明文。このあたり、隅田川が大きく湾曲する通称「マキノヤ」の下手、この中学校から先般の三河島水再生センターあたり一帯に、ハンノキが群生していた、と。
ハンノキは元々、湿原にある落葉喬木。ハンノキ山といっても山ではなく、平地の雑木林のことではある。が、歌川広重の描く、名所江戸百景「日暮里諏訪の台」にハンノキ山らしいとされる高木が描かれている。諏訪台といえば日暮里駅裏の台地。そこから見えるというのだから、結構の群生であり、「山」と言ってもいいくらいのボリューム感であったのであろう。


荒木田の原

先に進む。適当に左折。尾竹橋通り・荒木田交差点。江戸の昔は荒木田の原。一面の草原。『江戸遊覧花暦』に、「遊客酒肴をもたらしきたって興ずること、日の西山に傾くを知らず」と書かれるほどの行楽の地。荒木田近辺の畑の土は壁土、焼き物の土として珍重されたという。

尾竹橋
尾竹橋通りを北に進み尾竹橋に。この橋の名前を冠する尾竹橋通りは、足立区東伊興2丁目から荒川区をへて台東区根岸2丁目まで続く。尾竹の由来はこの橋の少し下流にあった、町屋と千住・西新井を結ぶ渡し、から。三軒茶屋(富士見屋・柳屋・大黒屋)があったので、「お茶屋の渡し」、と。また、茶店の看板娘にお竹さんがいたので、「お竹の渡し」とも。お竹>尾竹となったとか。

尾久の原公
川端には道がない。少し引き返し川より一筋南の道を進む。町屋6丁目、5丁目と進み「尾久の原公園」に。旭電化跡地にできた公園。企業撤退の後、跡地利用の決定に時間がかかっているうちに自然体系が回復し、結局その自然を活かす公園とすることになった、とか。「とんぼ」の生息地として広く知られるまでになる。川の堤防は工事用のフェンスで囲われ無粋ではある。が、道から「尾久の原公園」方面に目をやると、素晴らしい景観。地形のうねりを感じる。遠くに見えるのは上中里方面の高台だろう。

小台橋
先に進み「尾久橋通り」に。西日暮里と足立区舎人のあたりをつないでいる。尾久橋通りを越えて堤から一筋南の道筋を進む。尾久8丁目。華蔵院。寺子屋が開かれ、このあたりの教育の中心として機能した、と。先に進む。道の正面に宝蔵院。ぐるりと迂回し「小台橋」の通る道筋に出る。小台の由来は文字通り、「ちょっとした台地」。隅田川でもメモした「微高地」といったところか。昔、このあたりに「小台の渡し」とか「尾久の渡し」と呼ばれる渡しがあった。

あらかわ遊園
川に沿って歩く。少し進むと「あらかわ遊園」。名前はよく聞くのだが、どこにあるのか知らなかった。あらかわ遊園を越えると、荒川から離れ、北区になる。本日最後の目的地、船方神社に。

船方神社
船方神社。質素なお宮様。神亀2年(725年)にはじめてつくられた、とか。本殿右脇に「十二天塚」があることから、「十二社」と呼ばれていた。船方神社となったのは明治12年。言い伝えによれば、この地域の荘園主 豊島清元(清光)が、熊野権現に祈願してひとりの娘を授かる。その娘、足立少輔に嫁ぐことに。が、 心ない仕打ちを受け、荒川に身を投げる。姫に仕えていた十二人の侍女たちも 姫に殉じる。
で、十二天とは、この十二人の侍女のこと。と同時に帝釈天をはじめとする十二の神々とされる。密教では非業の死をとげた人を鎮魂するため塚など祭壇におまつりした。本殿右手の十二天塚がそれ。民間伝承と密教が合体したわけだ。
密教と強くむすびついた熊野信仰もまた、この民間伝承を神様へと昇華するスキームに合流する。熊野信仰では熊野三社とよばれる本宮・那智・速玉の三社は、それぞれの祭神を相互にお祀りし、併せて天照大神はすべての神社が祀りしたので、一社4神 × 3 = 12神>十二所権現、十二社、と呼ばれていた。熊野信仰が盛んだった荒川流域の村々では、悲しい次女たちの地域伝承と密教の十二天、そして熊野信仰の十二社が結びつき、船方村の十二天としてまつられた、ということだろう。
この伝承は江戸時代の中頃に流行した、六阿弥陀札所参詣の縁起の「ネタ」となる。侍女の数が変わったり、苛めた悪役が地域によって正反対になったりと(実際、川を隔てた足立区では、敵役が足立氏ではなく豊島氏になっていたように思う)、少々のあらすじは換わって入るものの、ストーリーはこの神社に伝わる伝承とほぼ同じ。「六阿弥陀嫁の噂の捨て所」と言われるように、江戸の庶民のリクリエーションとして六阿弥陀詣でが広まっていった。ちなみに、江戸六阿弥陀とは、一番・西福寺(北区豊島)、二番・延命寺(足立区江北)、三番・無量寺(北区西ヶ原)、四番・与楽寺(北区田端)、五番・常楽院(調布市西つつじケ丘)、六番・常光寺(江東区亀戸)、木余りの弥陀・性翁寺(足立区扇)、木余りの観音・昌林寺(北区西が丘)。木余り、木残りのなんたるかは、足立:中央部散歩でメモしたとおり。

JR 田端駅
船方神社を離れ、どこか最寄の駅を目指す。南に向かう道筋、あらかわ遊園からの帰りの客と一緒に。都電荒川線まで結構賑わう。西尾久5丁目と西尾久7丁目の境あたりを南に下る。明治通りにあたる。当初尾久の駅、へと思っていたのだが、これって東北本線。田端駅にむかうことに。尾久操車場、田端操車場を右に眺めながら明治通りに沿って南東に下る。田端新町3丁目交差点右折し、道なりにすすみ線路を跨ぐ新田端大橋をこえて JR 田端駅に到着。予定やっと終了。荒川もこれで一通り歩いたことになる。

木曜日, 5月 25, 2006

荒川区散歩 そのⅡ:南千住から汐入地区をぐるりと辿り、三ノ輪へと

南千住から汐入地区を辿り、三ノ輪に戻る
荒川散歩の2回目は千住、そして汐入地区。荒川区の東部一帯である。千住って地名は折に触れてよく聞く。メモをはじめわかったのだが、千住は隅田川を隔てて北と南に分かれる。北千住、もっとも北千住って地名はないようだが、隅田川の北の千住は足立区。隅田川南の南千住が荒川区、であった。
往古、南千住は交通の要衝であった。とは言うものの、この場合の南千住は、現在の千住大橋近辺というより、先般の浅草散歩でメモした白髯橋近辺、橋場の渡し・白髯の渡しのあたりではなかろうか。
鎌倉から戦国期の地図を見ると、鳥越から砂州に沿って石浜のあたりまで東海道が通り、この渡しを超え市川の下総国府につながっている。武蔵野台地と下総台地のもっとも接近したところであり、交通の要衝であったのもごく自然なことである。すぐ近くには古代の海運の一大拠点・浅草湊もあるわけで、交通だけでなく商業・宗教。軍事拠点であったわけだ。
戦国期の南千住のあたりの地図を眺めてみると、浅草から橋場・石浜に隅田川(当時は、入間川)に沿って砂州・微高地がある。同様に、現在の千住大橋・素盞雄(スサノオ)神社近辺にも砂州が認められる。が、その内側は千住大橋から三ノ輪を結ぶ線より東は入り江状態。その線より西は三河島のあたりまでは泥湿地帯となっている。源頼朝が浅草・石場から王子へと平家討伐軍を進めるに際し、小船数千を並べて浮橋とした、というのも大いにうなずける。江戸以前、南千住の一帯は、入間川(隅田川)沿いに堆積した砂州を除き、ほとんどが水の中・湿地帯であった、ということだ。

本日の散歩をはじめる千住大橋近辺も古くから開けたところである。戦国期の地図を見ると、入間川沿いの砂州・微高地に飛鳥社が見て取れる。飛鳥天王社、現在の素盞雄(スサノオ)神社であろう。この神社は古墳跡とも言われる。
周囲を川と湿地・汐入の入り江で囲まれた「浮島」のようなこの千住大橋近辺が、橋場・白髯地区にとって替わり、交通の要衝となったのは、まさしく千住大橋が作られて以降であろう。文禄3年(1594年)のことである。この橋ができて以降、従来は橋場・石浜から下総へと延びていた佐倉街道、奥州街道・日光街道、水戸街道は、この千住大橋経由にシフトした。以降、宿場町として賑わいをみせることになる。ちなみに千住の名前の由来は、川の中から「千手」観音が出てきた、とか、千寿姫にある、とか、「千」葉氏が「住」んでいたから、とか、例によってあれこれ。ともあれ、散歩にでかける。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)




本日のコース: 三ノ輪 ; 百観音・円通寺 ; 素盞雄(スサノオ)神社 ; 荒川ふるさと文化館 ; 誓願寺 ; 熊野神社 ; 千住大橋 ; 日枝神社 ; 胡録神社 ; 水神大橋 ; 回向院 ; 小塚原刑場跡 ; 日光街道

百観音・円通寺
三ノ輪橋跡より日光街道を北に、千住大橋に向かって進む。道の左手に百観音・円通寺。延暦10年(791年)、坂上田村麻呂の開創とか。また、源義家が奥州平定の際、討ち取った首を境内に埋めて塚を築く。これが小塚原の由来、とも。江戸時代、下谷の広徳寺、入谷の鬼子母神、簔輪の円通寺、この三つのお寺を下谷の三寺と呼ぶ。秩父・坂東・西国霊場の観音様を百体安置した観音堂があったため、「百観音」とも。
境内に上野寛永寺の黒門が。上野のお山でなくなった彰義隊の隊士をこのお寺の和尚さんが打ち首覚悟で供養した。官軍に拘束されるも、結局埋葬・供養を許される。そうえいえば、京都散歩のとき、黒谷金戒光明寺にあった会津小鉄のお墓。鳥羽伏見の戦いでなくなった会津の侍を命がけで埋葬。坊さんと侠客と、少々キャラクターは異なるが、その話とダブって見える。

素盞雄(スサノオ)神社

少し先に、素盞雄(スサノオ)神社。「てんのうさま」とも。スサノオのことを牛頭天王(ごずてんのう)とも呼ばれるからだろう。朝鮮半島の牛頭山に素盞雄(スサノオ)が祀られていることに由来する。日本神話の神様・素盞雄(スサノオ)って、朝鮮半島の神様である、ということ。
この神社、石神信仰に基づく縁起をもつ。延暦14年(795年)、石が光を放ち、その光の中から素盞雄命と事代主命(ことしろぬしのみこと)が現れて神託を告げる。その石を瑞光石と呼ぶ。光の中から出現した二神が祭神。
散歩の折々、石を神として祀る神社も時々出会う。石神井神社、江東区亀戸の石井神社、それと先日歩いた葛飾立石の立石様、といったもの。石といえば、この素盞雄(スサノオ)神社の石は、千葉県鋸山近辺の「房州石」であり、この石材は古墳の石室に使われる。よって、素盞雄(スサノオ)神社って古墳跡では、とも言われている。

荒川ふるさと文化館
神社の裏手に「荒川ふるさと文化館」。例によって、常設展示目録、企画展資料・「川と川」、「ひぐらしの里」といった資料を購入。

誓願寺
文化館を離れ千住大橋の袂に。誓願寺。奈良時代末期、恵心僧都源信の開基と伝えられる。源信といえば、『往生要集』(985年)。地獄・極楽を描き出し、ゆえに極楽浄土への往生をすすめる浄土教基礎を確立した人物。恵心は叡山で学んでいたときの道場名である。
境内には親の仇討ちをした子狸の「狸塚」。お寺の隣にあった魚屋の魚が無くなる。不審に思った近所の人たちがウォッチ。古狸の仕業。で、打ち殺す。その夜から、魚屋の魚が宙に浮く。祈祷師に見てもらうと、子狸が親の敵討をしていた、といった按配。ちなみに先日の隅田散歩での多門寺にも狸塚が、あった。狸塚って、結構多い。

熊野神社
誓願寺の近く、民家に囲まれたところに熊野神社。入口に門があり鍵がかかっているような、いないような、ということで中に入るのは遠慮し、外からちょいと眺める。創建は永承5年(1050年)。源義家の勧請によると伝えられる。千住大橋を隅田川にかけるにあたり、関東郡代・伊奈忠次は成就祈願。橋の完成にあたり、その残材で社殿の修理を行う。以後、大橋のかけかえ時に社殿修理をおこなうことが慣例となった。
神社のあたりは材木、雑穀などの問屋が立ち並ぶ川岸。奥州道中と交差して川越夜舟、高瀬舟がゆきかい、秩父・川越などからの物資の集散地としてにぎわった。秩父の材木は筏に組んで流され、千住大橋南詰めの三王社前で組み替え、深川方面に運ばれた。ために、このあたりは材木屋が立ち並んでいた、とか。

千住大橋
千住大橋。荒川ふるさと館で仕入れた「常設展示目録」をもとに、メモする:文禄3年(1594年)、家康の命により、伊奈忠次が総指揮。万治3年(1660年)に両国橋が架けられるまでは「大橋」と。奥州・日光方面への入口として交通・運輸上の要衝。橋を渡ると足立区。



ともあれ、千住大橋の南北に広がる千住宿は、江戸四宿のひとつ。日光道中の最初の宿駅。参勤交代や将軍の日光参詣など公用往来の重要な継立地。橋の南の小塚原町、中村町は「千住下宿」として諸役人の通行や荷物搬送のため人馬を提供。奥州方面への玄関口として街道筋がにぎわい、荒川を上下する川舟の航行が盛んになると、さまざまな職業の店が立ち並ぶ宿場町を形成」、と。i

日枝神社・旧砂尾堤土手の北端

千住大橋を少し東に。日枝神社。入口に歯神・清兵衛をまつる祠。千住の歯神、とも。どこかの藩の清兵衛が歯の痛みに耐えかねてこの地で切腹、といったエピソード。が、それよりもなによりも興味があるのは、このあたりが旧砂尾堤土手の北端である、ということ。



砂尾堤土手とは、荒川の氾濫に備えて築かれた堤。昔の地図を見ると、この神社あたりから東に伸び、現在の隅田川貨物駅あたりの東端を南に下る。よくわからないが、南端は明治通りのあたりだろうか。氾濫する隅田川の水をこの堤で防ぐ。この堤を越えた水はその南、東西に続く日本堤で防ぎ、ふたつの堤で増水した水を絞り込んで隅田川に再び流し込んでいた、のだろう。ちなみに、「汐入堤」とも呼ばれるこの堤は石浜の土豪・砂尾長者が築いたとか。

胡録神社
日枝神社から東に進む。常磐線・つくばエクスプレスのガードを越え、東京地下鉄千住車庫に沿って進む。その先は汐入地区と呼ばれる。このあたりまで満潮時には海水が隅田川を上ってきていたのだろう。「川の手新都心構想」のもと、都市整備が進んでいる。次の目的地、「胡録神社」もそのど真ん中にあった。都市開発に際して、元の地から50mほど、境内全体を移設、というか「曳き家」をおこなった、と。
この神社に来たのは、名前に惹かれたから。荒川とか足立に多く見られるローカルな神社ではあるらしい。千葉の野田にも三社あると言う。胡録の由来はよくわからない。「胡」粉+第「六」天、の合成といった説もある。胡粉はかきがらを石臼で粉にした装飾材料。このあたりは汐入の入り江であり、カキガラも多くあっただろうし、それはそれなりに納得感はある。が、それに第「六」天の「六」が転化、といった論の展開の瞬間に??、と相成る。また、胡録神社はここだけでない。ために、この地特有であるカキガラを根拠とした推論が、どの程度一般化できるものか、少々心もとない。また、胡録は弓の武具の呼称である、という説もある。ともあれ、よくわからない。
ちょっと見方をかえて推論、というか空想。胡録神社、って「神社」という名前になったのは、明治になってから。それ以前の名前は、とチェックする。第六天の社、と呼ばれていた。どこの胡録神社もそのようである。この第六天、新編武蔵風土記稿によれば武蔵には各村に1社ある、といったほどの多かった、とか。その多くは江戸初期に土地を切り開いていった農民が祀ったもの。神社が隅田川から江戸川の間に多いのもうなずける。
その開墾農民であるが、指導者には帰農した元武士も多かったよう。で、第六天であるが、織田信長が自らを第六天魔王、と称していたほどである。当然のこととして、武士の間で信仰されていたと考えてもそれほど不思議ではないだろう。ということは、帰農武士とともに、第六天魔王信仰が広がっていたのであろう。事実、この胡録神社もはじまりは、川中島の合戦の後、この地に逃れてきた上杉の家臣高田、杉本、竹内氏が其の守護神をまつる祠をつくったことはじまると、いう。
で、この守護神、第六天魔王であれば、これで推論はおしまいであるのだが、その守護神は面足尊(おもだるのみこと)と惶根尊(かしこねのみこと)の両神、とのこと。「体の整いたる神、国の整いたる神」である面足尊(おもだるのみこと)と惶根尊(かしこねのみこと)は、天地開闢の7代の神様のうちの6代目の神様。初代国常立尊(くにのとこたちのみこと)からはじまり、七代伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)で終わる 神代七代と言われる神々の六代目、つまりは第六天神、ということになる。それはそれなりに理屈に合うのだが、第六天魔王との関係が気になる。
これまた根拠のない空想ではあるのだが、神様の第六天神と仏様の第六天魔王が、なんとなく字面、語感が近く、江戸期には「理論武装」され神仏習合していたのか、はたまた、明治の神仏分離に際し、それまで「第六天魔王」で通してきたものが、急に神様を必要とし、第六の天神である上記神々を引っ張り出したのが、さてどちらであろう。なんとなく後者、といった感じもするのだが、根拠なし。寄り道が過ぎた。先に進む。

回向院
汐入地区をブラブラ歩き、隅田川が湾曲し南に下るあたりまで進む。水神大橋の西詰あたりで折り返し、汐入公園あたりを通り JR 常磐線・南千住駅に向かう。次の目的地は回向院と小塚原刑場跡。吉野通りと常磐線が交差する手前に回向院。鉄筋のお寺。イメージとは大いに異なる。このお寺は本所回向院の住職が行き倒れの人や刑死者の供養のために開いたお寺。安政の大獄で刑死した橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎ら多くの幕末の志士が眠る。毒婦・高橋お伝も。明和8年(1771年)、蘭学者杉田玄白・中川淳庵・前野良沢らが、小塚原の刑死者の解剖に立会ったところ。
小塚原刑場跡 小塚原刑場は、はてさて。地図でみると、線路のど真ん中。どうなっているのやら、と、とりあえず常磐線を越え、日比谷線のガードをくぐり、隅田川貨物線の線路を跨ぐ陸橋に上ろう、としたときに、右手にささやかな入口。そこが小塚原刑場跡(延命寺)。正面には大きな首切り地蔵が。刑死者をとむらうため寛保1年(1741年)につくられた、と。ともあれ、刑場跡は常磐線と隅田川貨物線の線路群に囲まれた「三角州」に、かろうじて残っていた、という状態であった。

日光街道
刑場跡を離れ、回向院脇の道を常磐線に沿って西に進む。途中、とほうもない行列のつづく店が。あまり食べ物に興味がないのではあるが、さてなんのお店であったのだろう、とは思いながらも先に進み日光街道に戻る。あとで調べてみると、「尾花」さんという鰻屋さんであった、よう。今回の散歩はここで終了。

火曜日, 5月 23, 2006

荒川区散歩 そのⅠ:音無川跡を西日暮里から根岸の里を巡り、三ノ輪へと

台東区の散歩の折、浅草から石浜神社に足をのばした。このあたりは台東区ではなく荒川区。荒川区って、大雑把に言って、北と東は隅田川、南は台東区と京浜東北線、西は京浜東北線の尾久辺り、というラインで囲まれた地域。
荒川区は散歩をはじめるきっかけとなったところでもある。田端とか西日暮里のあたり、京浜東北線にそって聳える崖線が気になり、「崖線のその先にあるものは」、といった好奇心から散歩が始まった。そのとき最初に訪れた田端の駅あたりは北区ではある。が、西日暮里駅東の道潅山台地一帯、「ひぐらしの里」と呼ばれる高台は荒川区だった。花見寺と呼ばれる妙隆寺・修性院、青雲寺、月見寺の本行寺、雪見寺として名高い浄光寺など、1年前の記憶がちょっと蘇る。
「ひぐらしの里」はさておき、今回は、荒川をどのコースから歩こうか、地図を眺めあれこれ考える。で、結論は、台東区散歩の折、時々顔を現した「音無川」の川筋を歩くことにした。名前がいかにも、いい。音無川の名前の由来は熊野の本宮大社前を流れる川の名前から。そもそも音無川の水源点とされる北区・王子が、熊野権現信仰の若王子(にゃくおうじ)権現の社(現在の王子神社)があったところであり、熊野信仰の社の前を流れる川 = 音無川、といったアナロジーでつけられた名前だろう。ともあれ、音無川を辿る。



本日のコース: 西日暮里駅 ; 日暮里駅前 ; 善性寺・「将軍橋と芋坂」跡 ; 御隠殿橋 ; 御行の松 ; 根岸の里 ; 三ノ輪

地下鉄千代田線・西日暮里駅
スタートは音無川が荒川区に入り込むあたり、西日暮里から始める。地下鉄千代田線・西日暮里駅下車。JR 西日暮里の東口に。音無川の川筋跡を探す。山手線に沿って、いかにも川筋跡といった雰囲気の道。確証はないのだが、道筋の揺れ具合、というかうねり具合が川の流れをイメージできる。音無川の水源は王子駅あたり。石神井川からの分水とのこと。
『新編武蔵風土記稿』によると、「王子村石堰より十間許上流にて分派し、飛鳥山下を流れ、西ヶ原、梶原、堀ノ内、田端、新堀、三河島、金杉、竜泉寺、山谷、橋場数村を経て浅草川に達す。其近郷二十三村に引注ぐ故、直に二十三ケ村用水と名づく」とある。
JR 王子駅南端辺りで京浜東北本線を横切り、次いで尾久に向かってカーブする東北本線を横切る。その後は、京浜東北線に沿って南に向かい、尾久操車場と田端操車場の間を流れ、西日暮里の駅前に出る、ってのが大体の流路、である。

日暮里駅前
川筋跡を南に進む。京成線のガードをくぐり常磐線の踏み切りを越える。道なりに進むと直ぐに日暮里駅前。次の目安は善性寺。このお寺の前に音無川に架かっていた「将軍橋」跡が残っている、と。例によって駅前の案内図で場所を確認。はっきりした案内図ではなかったので、結構道に迷う。駅前をぐるぐる廻り、結局駅の中にある案内図で再度確認し、再び善性寺に向かう。結局は京浜東北線に沿った商店街の道筋を進めばよかった。日暮里の由来は、新しい堀を穿った地、と言うことではあったが、後に、高台からの日暮れの眺めが如何にも素晴らしい、ということから日暮の里、とした、と言われる。

善性寺
門前に「将軍橋と芋坂」跡の碑が。このお寺は六代将軍家宣の生母がまつられて、将軍ゆかりの寺となる。後に家宣の弟がここに隠棲。ために将軍の御成りがしばしばあり、門前の橋を将軍橋と名づけた、と。
善性寺の向かいに羽二重団子の看板を掲げた和菓子屋。文政2年(1819年)上野寛永寺出入りの植木職人庄五郎が芋坂下と呼ばれたこのあたりで団子屋を開く。羽二重のようにきめの細かい団子が評判となる。屋号「羽二重団子」として今に続いている。
明治には泉鏡花とか正岡子規もこの店に出入りしたよう。子規の呼んだ句:「芋坂も団子も月のゆかりかな」「名月や月の根岸の串団子」。漱石の『我輩は猫である』にも、芋坂と団子屋が登場する:「行きましょう。上野にしますか。芋坂(いもざか)へ行って団子を食いましょうか。先生あすこの団子を食った事がありますか。奥さん一返行って食って御覧。柔らかくて安いです。酒も飲ませます」と例によって秩序のない駄弁を揮(ふる)ってるうちに主人はもう帽子を被って沓脱(くつぬぎ)へ下りる。吾輩はまた少々休養を要する。主人と多々良君が上野公園でどんな真似をして、芋坂で団子を幾皿食ったかその辺の逸事は探偵の必要もなし、また尾行(びこう)する勇気もないからずっと略してその間(あいだ)休養せんければならん。」、と。
江戸切絵図を見ると、芋坂を下りたところに「植木屋」の文字がある。また、善性寺ではなく「善光寺」と書かれていた。ちなみに、この場合の「芋」は自然薯、のこと。昔はこの辺りで、山芋が採れたのであろう。

御隠殿橋
おみやげの団子を買い求め先に進む。尾久橋通りとの交差する手前に「御隠殿橋」の説明文。台地上にあった上野寛永寺門主・輪王寺宮の隠居所から坂道を下ったところにあった橋。昭和8年頃に音無川が埋められ暗渠となった、とのことである。輪王寺宮とは江戸時代の門跡のひとつ。皇族が門主をつとめる寺院のこと。天海僧正開山のこの上野寛永寺も三代目から代々、皇族がその門主となり、13代に渡り、比叡山延暦寺、東叡山寛永寺、日光輪王寺の3山を統轄した。

御行の松
次の目標は「御行の松」。川筋は荒川区と台東区の境に沿って進んでいたよう。川が行政単位の区切りとなることはよくあること。区境の町名、台東区の根岸・荒川区の東日暮里を跨ぐつもりで歩を進める。
尾久橋通りを少し南に。竹台高校前交差点あたりから、いかにも川筋跡っぽい道が西に。左折し進む。尾竹橋通りと交差。東日暮里4丁目南交差点。細い道が西に続く。東日暮里4丁目22の辺りで北に。実際は、直進し完全に根岸、つまりは台東区に入ってしまったため、慌てて引き返した次第。少し進むと西方向に曲がる。突き当たりにお寺っぽいものが。お不動さん。そこが「御行の松」跡。
江戸名所図会に描かれている松は、大層立派。大正年間も天然記念物の指定を受けたほど。樹齢350年。高さ13m、幹の周り4.6mの堂々とした松であったよう。その松は枯れ現在は3代目である、とか。江戸名所図会に見る音無川はそれほど大きくはない。幅は2mから3mといったところ。小川といった風情ではある。江戸名所図会で見ても、江戸切絵図を見ても、周囲はまったくの田地である。

根岸の里

「根岸の里の侘び住まい」、というフレーズを良く聞く。根岸の里って、この御行の松のあたり一帯のことだろう、とは思う。根岸の名前の由来は、上野のお山の「根もと」にあり、沼地・田圃の水際だった、ということ。江戸名所図会によれば、「呉竹の根岸の里は、上野の山陰にして幽趣ある故にや、都下の遊人多くは、ここに隠棲す、花になく鶯、水にすむ蛙も、ともにこの地に産するもの其声ひとふしありて、世に賞愛せられはべり」と。根岸は、上野の高台を控え、(音無川の)豊かな流水に恵まれた閑静な地で、だから鶯や蛙の声もよそとは違うと、いった意味。
この風光明媚な地をめでて文人墨客が根岸の里に「別荘」をもつ。文人墨客だけでなく大店の寮(別荘)も。浅草の橋場とともに江戸の二大別荘リゾートであった。とはいうものの、文化文政の頃の戸数はわずか230戸。確かに「侘び住まい」の雰囲気であろう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

三ノ輪
東日暮里4丁目と根岸4丁目、つまりは荒川区と台東区の境を進む。くねくねと小刻みに蛇行を繰り返す。日暮里駅前から昭和通に続く結構広い道路にでる。このあたり、東日暮里2丁目と根岸5丁目の境道あたりまで来ると、道幅も広くなる。昭和通と平行に北に東日暮里1丁目を進み明治通りと交差。明治通りを越え、常磐線のガードの手前を東に進むと、日光街道と交差。
道の東側に三ノ輪橋の碑。「石神井川の支流として分流した音無川にかけられていて、長さ10m程、幅6m程あった」と。音無川はこのすぐ裏にある浄閑寺、吉原の遊女の投げ込み寺からから二手に分かれ、ひとつは思川として明治通りから橋場そして隅田川、もう一方は山谷掘として日本堤に沿って下り、今戸のあたりで隅田川に注ぐことになる。三ノ輪は「水の輪」に由来する、とか。地下鉄の三ノ輪駅に向かい、本日の散歩終了

金曜日, 5月 19, 2006

台東区散歩 そのⅢ:浅草橋から鳥越川・新堀川・三ノ輪まで

鳥越川・新堀川跡へ




本日のルート: 浅草橋駅 ; 浅草見附跡 ; 柳原通り ; 銀杏丘八幡 ; 須賀神社 ; 榊神社 ; 浅草御蔵跡 ; 須賀橋派出所交差点・鳥越川 ; 鳥越川跡を遡るt; 鳥越神社 ; 三味線掘 ; 佐竹通り商店街 ; 小島・三筋から新堀川通りに ; 新堀川跡 ; 春日通りの北は寺町跡 ; かっぱ橋道具街通 ; 矢先稲荷神社 ; 海禅寺・「梅田雲浜(うんびん)」の墓 ; 曹源寺。別名「かっぱ寺」 ; 秋葉神社 ; 生涯学習センター ; 竜泉寺 > 三ノ輪駅

総武本線浅草橋・浅草見附跡
総武本線浅草橋下車。江戸通りを少し南に戻り、神田川にかかる浅草橋に。北詰に「浅草見附跡」の碑。浅草橋は江戸三十六門のひとつ。浅草御門・見附門。幕府は交通の要衝に櫓とか橋とか門を築き、江戸のお城を警護。警護は五千石以上一万石以下の諸藩が三年勤番でことにあたった、とか。江戸通りは昔の奥州街道・日光街道。浅草に通じる道筋でもあることから、浅草御門と呼ばれる。警護役人を配置したため浅草見附とも呼ばれた。両国にありながら「浅草橋」と呼ばれる所以である。
明暦の大火の後、浅草に吉原ができると、観音様詣でだけでなく吉原通いの遊び人でこの往還は大いに賑わった。浅草橋から柳橋にかけては多くの船宿ができ、ここから猪牙舟に乗り組み山谷掘まで舟道中、というのが結構格好のいい吉原通いであった、よう。
明暦の大火の際、伝馬町の牢にも火の手が迫ったため、伝馬町牢奉行・石田帯刀により解き放たれた囚人がこの橋に群れる。が、見付役人は囚人の逃亡と思い込み門を閉ざす。ために、多くの一般市民も犠牲となった。ちなみに、浅草橋以外の見付門としては、筋違橋門、小石川門、牛込門、市ヶ谷門、四谷門、赤坂門、虎ノ門などがある。

柳原通り
浅草橋南詰に。このあたりは中央区。神田川の南側を柳原通りに沿って歩く。ここは千代田区。3つの区が境を接する。ともあれ、このあたり、江戸の昔は筋違御門から浅草御門までを柳原と呼ばれていた。もともと柳はなかったようだが、享保年間の将軍の御成りをきっかけに、この土手に柳が植えられ名実ともに「柳原」となった、とか。

銀杏丘八幡
左衛門橋を渡り、総武線を越え駅前に戻る。浅草橋1丁目に「銀杏丘八幡」。名前に惹かれる。社伝によれば、中世のころ、このあたりは小高い丘であり、隅田川が近くに眺められた、とか。11世紀のはじめ、康平5年(1062年)、頼義・義家が奥州平定のとき、隅田川で銀杏の枝を拾い上げた。で、それを丘に刺し、「朝敵征伐のみぎりは、枝葉栄うべし」と。奥州平定後、ふたたびこの地立ち寄る。銀杏が生い茂る。太刀を一振り奉納。八幡宮を勧請した、と。
元和4年(1618)この地を福井藩の松平氏が拝領。神社は邸内社となる。享和10年(1725)屋敷は公収され、町奉行・大岡越前守により福井町と命名され町屋に。銀杏は文化3年 (1806)の江戸大火で焼失。

須賀神社
江戸通りを北に。道筋に須賀神社。祭神は素盞嗚尊(すさのおのみこと)。古い歴史をもつ古社。江戸十社に入った神社でもある。素戔嗚尊の別称は牛頭天王。故に、社名も牛頭天王社と。また、祇園社、蔵前天王社、団子天王社とも呼ばれる。地元の町名も天王町と呼ばれた。橋名も天王橋と呼ばれた。須賀神社となったのは明治。神仏分離令によって須賀神社と改名。地名も須賀町となり、橋名も須賀橋となった。
牛頭天王がなぜ「須賀」、ということだが、素盞嗚尊(すさのおのみこと)がヤマタノオロチを退治し、出雲の国須賀に至り「吾、吾此地に来て、我が御心すがすがし」と言い、そこに社を作ったことに由来する。また、牛頭天王と素盞嗚尊(すさのおのみこと)の関係だが、朝鮮半島の牛頭山にいた偉い神様、日本でいうところの天照大神等言った神様が素盞嗚尊であった、と言う。スサノオノミコトって朝鮮から来た神様であった、ということ。

須賀橋派出所交差点・鳥越川
須賀橋派出所交差点。鳥越川が江戸通りと交差するところ。鳥越川は関東大震災の後、次第に埋め立てられ、もちろんのこと、須賀橋というか天王橋は、今はない。唯一、交差点にある交番が蔵前警察署「須賀橋」派出所として名前を留めている。鳥越川はこの交差点から東に、江戸の浅草御蔵跡の南端を流れ隅田川に注いでいた。「江戸切絵図」によれば、鳥越川は浅草御蔵のあたりで南に鍵の手状に曲がり、また東に曲がり御蔵の外側を廻るようにして隅田川に注ぐ。

浅草御蔵跡
浅草御蔵跡。このあたりから厩橋にかけての一帯は江戸幕府の米倉・浅草御蔵。幕府天領から船で運ばれてくる年貢米を貯蔵する一大米蔵コンプレックス。元和6年(1620)、隅田河岸を整地して造られた。明暦の大火(1657)後には、隅田川に沿って櫛の歯のように一番?八番の堀を設けられたという。奥州街道、今の江戸通り沿いは石垣や土手で囲まれ、下・中・上と三つの御門があり厳重な警備体勢であった、とか。浅草橋駅並びの御蔵前通りには大きな米問屋や、札差(幕臣等のための米受取代理業者、金貸し業者)、両替商等の豪商が居を構えていた。蔵前橋は昭和2年にできる。場所は三番堀と四番堀の間のあたり。厩橋も明治7年に架橋。今の橋は昭和4年のもの。

榊神社
雨水排水用の暗渠の跡を隅田川に向かう。途中に榊神社。境内に浅草文庫碑と蔵前興業学園の碑。浅草文庫は明治7年、御蔵8番米倉に湯島聖堂から図書を移し閲覧・書庫を設けた。明治10年に上野図書館に移管されるまで開業。蔵前工業学園は東京工業大学の前身。関東大震災の後、この地から目黒区大岡山に移転した。
米蔵があり、学校がこの地にあった、とすれば、この神社って、どこにあったのか?まさか、キャンパス内でもなかろうし。ということで調べると、榊神社がこの地に移ったのは震災後の昭和3年ということ。榊神社という名前になったのも明治6年。それ以前は「第六天神宮」、「浅草御蔵の第六天」と呼ばれていたよう。もともとは蔵前3丁目あたりにあったものが、享保4年(1719年)からは現在の柳橋1丁目あたりにあった、という。
第六天は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)を救ったとの古事から道陸神(どうろくしん)の名がある。道陸神は村の境を守り悪魔を払う神。道祖神と同じであろう。見たら駄目、といわれたにもかかわらず妻の「姿」を見てしまった伊弉諾尊。妻は怒り、黄泉国の軍隊を引きつれ追ってくる。伊弉諾尊は追っ手を遮るため、黄泉国とこの世の境に大きな石でバリケードを作り、杖を投げる。この石は塞神。杖は岐神(ふなどのかみ)、道陸神(どうろくじん)などと呼ばれたもの。要は伊弉諾尊を救ったありがたい杖というか神様ということ。第六天って、仏の世界では欲界という天上にいる天魔王のことらしい。明治の廃仏毀釈のとき、仏さんのイメージも強い「第六天」をいう名前を避けて、榊神社とした、とか。ちなみに、織田信長は自分のことを第六天魔王と称した、とか。

鳥越川跡を遡る

さてさて、鳥越川を水源まで登る。といっても先にメモしたように、小島地区までなので、ほんの少しの距離。鳥越川は小島地区にあった三味線堀を水源とする、とメモしたが、その三味線掘りには不忍池から忍川の水が注いでいた、とか。ともあれ、三味線堀に向かう。須賀橋派出所交差点からいかにもな川筋跡を辿り浅草橋3丁目あたりを歩く。この川筋跡は蔵前橋通りと、ほぼ平行に進む。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



鳥越神社
蔵前橋通りの浅草橋3丁目交差点あたりに鳥越神社。ちょっと寄り道。鳥越2丁目にあるこの神社の創建は白雉(はくち)2年(651)。結構古い。日本武尊が東征の折、この地に滞在。その遺徳を偲びこの地の白鳥山に白鳥大明神をおまつりしたのがはじまり。永承(1050)の頃、奥州征伐に向かう八幡太郎義家は、白鳥に浅瀬を教えられ、軍勢を安全に渡す事が出来た。ために、白鳥大明神の御加護と感謝した義家は鳥越の社号を贈る。以後、鳥越神社と改称。付近一帯の地名も鳥越と呼ばれる様になった。鳥越川の由来でもある。ちなみに、白鳥山というか小山は正保2年(1645)ころ削られ、隅田川河岸埋め立て用の土砂採取場となり、跡地は町屋となった、とか。

三味線掘
先に進み清洲橋通りあたる。通りを進み鳥越1丁目から小島1丁目に。佐竹通り南口交差点。このあたりが三味線掘のあったところ。三味線掘は東西50m、南北30mのふたつの船溜りとそれをつなぐ長さ190m、幅10mの掘割からなっていた。そのかたちが三味線に似ていたのが名前の由来。船溜りには農産物、生活物資、それに少々尾籠ではあるが、「おわい船」なともあつまっていた。もちろん消火用水でもあった。この掘りは寛永7年というから1630年ころ、この一帯、姫が池などからなる沼地を埋め立てるために掘られた。大正6年ころまでにはすべて埋め立てられた、とか。
三味線堀に注いでいた川・忍川とちょっと辿ってみる。大体の流路は、不忍池南東端から上野公園入口をへて、アメ横を線路に沿って南下。昭和通・台東4丁目交差点あたりで東に振れ、東上野1丁目と2丁目の境あたりを東に進む。で、清洲通り・御徒町交差点あたりで南に下り、小島1丁目の三味線掘に注いでいた。
江戸切絵図を見ると、上野公園入り口あたりに「三橋(みはし)」、三つの橋が架かっている。真ん中の橋は幅6間(約10m)。将軍が寛永寺におまいりするときだけ使われた。ふだんは両側にある幅2間(3.6m)の橋しか渡れなかった。東上野1丁目と2丁目のあたりで忍川は筑後柳川藩立花家の構え掘りにつながる。その南隣には出羽久保田藩佐竹家の大名屋敷の構え掘りに繋がっている。つまりは大名屋敷の溝掘を通って三味線堀に流れ込んでいた、というのが正確なようだ。三橋あたりの名所百景の図を見ていると、三橋前が大きく開かれている。江戸切絵図で見ると、下谷広小路であった。納得。

昔懐かしい趣の佐竹通り商店街
清洲橋通りを渡り、佐竹通り商店街に。いやはや、結構レトロな雰囲気の商店街。日本で二番目にできた商店街である、と、どこかで聞いた事がある。商店街を進み北端・春日通りに。東上野1丁目とか2丁目あたりをぶらぶらし、再び佐竹通り商店街あたりに戻り、商店街のひとすじ西にある秋葉神社におまいりし、次の目的地というか散歩ルート・新堀川筋に戻ることに。

小島・三筋から新堀川通りに進む
小島1丁目と2丁目の境をブラブラと東に進む。小島町の由来は、この地の名主・小島さんから。三味線掘りというか鳥越川河川工事で掘り起こした土をつかって、このあたりの湿地を埋め立て町屋とした功労者。佐衛門橋通りと交差。佐衛門橋は神田川に架かる。江戸切絵図を見ると、近くに庄内藩酒井左衛門尉の屋敷がある。通りの由来はこのお殿様の名前からであろう。
通りを越え、三筋1丁目と2丁目のあたりを更に東にブラブラと。三筋のあたりは江戸期、書院番組屋敷、大番組屋敷、武家屋敷地があったところ。三筋町という町名ができたのは明治になってから。「三筋」の道筋があったから、とか。

新堀川
新堀通りに。新堀川の水源は本当のところ、どうもはっきりしない。江戸切絵図を見ると、東本願寺脇を海禅寺そして幸龍寺(このお寺、今は無い;どうも先日歩いた烏山寺町にあったように思う。移転したのであろうか)あたりまでは結構大きい川筋。その先は畑地の中を細い川筋が三ノ輪近く、竜泉町の竜泉寺あたりまで続く。
三ノ輪って、音無川、というか石神井川が王子から流れ、思川と山谷掘に分かるれあたり。結局は、石神井川というか音無川の落ち水を集めた入谷田圃が水源。ということは、結局石神井川が水源ということか。「御府内備考」にも、「今は石神井川の余水をも中田圃の辺りにて此掘に落とせり」と書いてある。流れは新堀通りに沿って南下し、蔵前橋通りを越えたあたりで東に向かう。で、江戸通りの手前で再び南下し鳥越川と合流する。今回は逆に水源に向かって歩くことにする。

春日通りの北は寺町跡
新堀通りに沿って北上。春日通を越える。道の両側に数多くのお寺。江戸切絵図でみると、お寺でびっしり。明暦の大火の後、都市計画によって江戸各地の寺院がこの地に集められたのであろう。浅草通りとの交差点は菊屋橋、と。新掘川にかかっていた橋の名残。近くに菊屋というお菓子屋さんがあったことが、名前の由来とか。名残といえば、春日通りの手前にある台東中学校の前に、「新掘小学校之碑」。新堀川の名前を冠したものである、との説明があった。

かっぱ橋道具街通り
菊屋橋交差点を越えると道の東に東本願寺。先に進むと合羽橋南交差点。このあたりからは通称、かっぱ橋道具街通り。道の両側に食器とかの「道具」を商う店が連なる。プラスティックフーズなどとも呼ばれる、料理のサンプルなど外国人観光客に人気がある、とか。

矢先稲荷神社
少し西に入ると、矢先稲荷神社。三代将軍・家光が尚武の意味を込め、京の三十三間堂にならって「浅草三十三間堂」をつくる。で、京と同じく、通し矢、つまりは決められた時間にいくつ矢を射るかを競ったわけだ。お稲荷さんはこの矢の的のあたりにあったので、「矢先」稲荷、と。三十三間堂は元禄11年(1698年)に焼失し、深川で再建。神社だけは地元の要望強く、この地に残った、とか。

海禅寺には「梅田雲浜(うんびん)」の墓v かっぱ橋道具街通りに戻る。少し進むと「合羽橋本通り」と交差。この道は江戸の昔の御成道。将軍が寛永寺から浅草寺にお参りするときに通った道筋。左折し、江戸切絵図にあった海禅寺に。質素なこのお寺には「梅田雲浜(うんびん)」の墓がある。幕末尊王攘夷を求める志士の精神的リーダー。安政の大獄で獄死。




曹源寺。別名「かっぱ寺
海禅寺の直ぐ近くに、曹源寺。別名「かっぱ寺」。説明文によれば、「かつて合羽橋は現在の通称合羽橋道具街を流れていた新堀川に架けられていた橋のひとつであり、雨合羽屋喜八の徳をしのんで名づけられたと考えられる。新堀川は昭和の初めころまでに暗渠となった」と。

秋葉神社
曹源寺から少し北、入谷南公園近くに秋葉神社。この神社はもともと、秋葉原にあったもの。秋葉原の名前の由来ともなったもの。明治のころ、火災頻発。火を鎮める神の秋葉神社を秋葉原の火除け地に。明治21年、JR秋葉原建設のため、境内地を払い下げこの地に移る。静岡県浜松の秋葉神社を勧請。秋葉信仰は、江戸期修験者によって秋葉講として全国に広まった。

生涯学習センター
かっぱ橋道具街通りを北に進む。合羽橋北交差点を越え、言問通りとの交差点手前に「生涯学習センター」。中央図書館もあり郷土資料もある。裏手に本念寺。江戸切絵図によれば、このあたり、現在の金竜小学校のあたりかとも思うが、西寄りのところに「立花左近将監」屋敷がある。これって、先回の散歩でメモした「太郎稲荷」のお屋敷。川筋は立花左近将監の屋敷前の田圃で切れている。が、この屋敷を囲む構堀が見える。その先は真っ直ぐに竜泉2丁目の竜泉寺あたりまで続く川というか堀筋と、途中で国際通り方面に分岐し鷲神社、長国寺あたりまで進み、西に振れて再び合流し竜泉寺に進む川筋が見える。

竜泉寺
金竜小学校の先を東に折れ、ふたたび北に進み国際通りと合流し、鷲神社手前あたりを左折。先回、朝日弁財天へと歩いた道筋の直ぐ近く。先回は西に、今回は北に。国際通りの一筋西を北に向かって進み、三ノ輪手前、昭和通と国際通りが交差する手前にある竜泉寺に。地名の由来ともなった古刹。鷲神社の「酉の市」のところでメモしたように、元々のお酉様であった足立の鷲神社、そこが少々遠いがゆえに、江戸のこの地・竜泉寺を「初とり」とした、という、御酉様繁栄のきっかけになったお寺、かとも思う。ともあれ、新堀川の水源あたり、昔の入谷田圃のあたりをイメージし、本日の予定終了。 3回に分けた台東区散歩も一応終了。後上野のお山、不忍池あたりが残っている。このあたりは結構歩いている。文京区の根津の谷を流れる藍染川・谷戸川・谷田川・境川、と呼び名はいろいろの川筋を歩くときに一緒にまとめて歩きたい。