月曜日, 6月 12, 2006

葛飾区散歩 そのⅡ:柴又


甲和里は現在の小岩、仲村里ははっきりしないが奥戸あたりとか。で、嶋俣。これって、柴又のはじまりの地名、とか。嶋は砂州・微高地、俣は分岐点。湿地帯の中に小高い砂州があり、そのあたりに幾く筋もの流れがあったのだろうか。柴又となったのは17世紀から。

金町からはじめ、柴又をぶらり、そして新宿地区に
今日は、柴又のあたりを歩く。古代、このあたりは「嶋俣里」と呼ばれていた。東大寺の正倉院に伝わる養老5年(721年)の「下総國葛飾郡大嶋郷戸籍」には当時の大嶋郷には甲和里、仲村里、嶋俣里の三つの里があると記されている。大嶋郷って、南は北十間川の川筋あたり、東は江戸川、北から西は中川から古隅田川に囲まれた沖積地帯。現在の葛飾区・江戸川区・隅田区の北半分である、と言われる。
大嶋郷に住んでいた人は1191名。甲和里には44戸・454名、仲村里には44戸・367名。そして、嶋俣里には42戸・370名の計130戸・1191名が住んでいた、とされる。で、ほとんどの人は孔王部(あなほべ)姓。「孔王部 (小さ)刀良」(あなほべ とら)が7名、「孔王部 佐久良売」(あなほべ さくらめ)が2名。『男はつらいよ』の寅とさくら、はここからきている、であれば面白いが、そんなことはないだろう。ともあれ、寅さんの舞台、柴又から散歩に出かける。



本日のコース: 常磐線・金町駅 ; 矢切りの渡し ; 柴又帝釈天 ; 柴又八幡神社 ; 小岩用水跡 ; 京成高砂駅 ; 青龍神社と怪無池 ; 極楽寺・青砥藤綱 ; 上下之割用水跡 ; 新宿・「水戸街道石橋供養道標」 ; 中川大橋・日枝神社 ; JR亀有駅


JR 常磐線金町駅
葛飾散歩2回目。先回は金町から上に。今回は金町から下に向かう。JR 常磐線金町駅で下車。南に進み、金町3丁目あたりを江戸川堤に向かう。堤の手前に金町浄水場。広い。それもそのはず、日本で最大の浄水場。江戸川から取り入れた水を処理し、東京で使われる水の20%を供給している。

矢切りの渡し
江戸川の堤に。堤に登る。堤をのんびり歩き広い金町浄水場を過ぎると柴又。歌謡曲や伊藤左千夫の小説『野菊の墓』で名の知られた矢切の渡しがある。対岸の千葉県・松戸市に「矢切」地区がある。後北条・小田原北条家と下総里見家の国府台合戦のおり、里見方の矢が尽きた=矢切れ>矢切、が由来。この渡しは、農民のみの往来が許されていた、とか。柴又矢切の渡し公園あたりで堤を離れ柴又帝釈天に向かう。

柴又帝釈天
柴又帝釈天。映画「寅さん」で一躍有名になった日蓮宗のお寺。寛永6年(1629年)開草。帝釈天はバラモン教・ヒンドゥー教の武神インドラの神。元々は阿修羅とも戦った武勇の神であったが、仏教に取り入れられてからは慈悲深い仏法守護十二天のひとつとなった、とか。七福神の中の毘沙門天とも言われる。わかったようでいまひとつわかってないのだが、ともあれこの帝釈天がこのお寺の本尊。しかも、板に描かれたもの。そのうえ、親鸞上人が自ら刻んだというもの。
が、このご本尊、一時行方不明に。その後、安永8年(1779年)荒廃した寺院の修復をしているとき、偶然梁から板の「ご本尊」が見つかる。その日が庚申の日。で、安永に続く天明年間の天明の飢饉のとき、帝釈天の日敬上人、この人って板本尊をみつけた人なのだが、板本尊を背負って江戸や下総の国を歩き、功徳・布施を施す。江戸を中心にした帝釈天信仰が高まったのはこういった地道な活動のたまもの。
帝釈天では庚申信仰も盛んにおこなわれた。板本尊が出現したのが庚申の日でもあり、江戸末期に盛んになった「庚申待ち」信仰とも相まって、帝釈天への「宵庚申」参詣が盛んにおこなわれるようになったのだろう。

帝釈天のHPに次のような庚申参詣の記事があった:「明冶初期の風俗誌には「庚申の信仰に関連して信ぜらるるものに、南葛飾郡柴又の帝釈天がある。 帝釈天はインドの婆羅門教の神で、後、仏法守護の神となったが、支那の風俗より出た庚申とは何の関係もない、此の御本尊は庚申の日に出現したもので、以来庚申の日を縁日として東京方面から小梅曳舟庚申を経て、暗い田圃路を三々五々連立って参り、知る人も知らない人も途中で遇えば、必ずお互いにお早う、お早う、と挨拶していく有様は昔の質朴な風情を見るようである。」と書いてある。
続けて:「見渡す限りの葛飾田圃には提灯が続き、これが小梅、曳舟から四ツ木、立石を経て曲金(高砂)の渡しから柴又への道を又千往、新宿を通って柴又へ至る二筋の道に灯が揺れて非常に賑やかだったと言う事である。茶屋の草だんご等は今に至っている。人々は帝釈天の本堂で一夜を明かし、一番開帳を受け、庭先に溢れ出る御神水を戴いて家路についたのであった。」と。陸続と続く信心の人たちの姿が目に浮かぶ。
今も人で賑わう参道を歩く。上に挙げた明治の風俗誌にもあった、草だんごの店でお土産を買い求め、昔、子供の咳止めに買った飴屋さんをひやかしながら参道を進み京成柴又駅に。手前で線路を右に折れ、八幡神社に向かう。

柴又八幡神社

柴又八幡神社。神社の縁起よりもなによりも、この神社は古墳の上につくられている。昔から、古墳っぽい、とは言われていたようだが、発掘調査されたのは1975年の社殿改築の時。そのとき埴輪とか馬具などが見つかり、その後本格調査がおこなわれ、八幡神社古墳は古墳時代(6世紀後半)のものであるとわかった。現在はすべて埋め戻され、神社裏手に古墳記念碑「島(嶋)俣塚」が残っている。
平成13年の学術調査のとき、三体の埴輪が見つかった。そのうち一体は「寅さん埴輪」としてニュースにもなった。写真を見ると、帽子がいかにも寅さん。あのトレードマークの帽子とそっくり、である。発見された日が、寅さんこと、渥美清さんの命日であった。


埴輪もさることながら、気になったのは、この古墳で見つかった石室の石材。房州石と呼ばれる、安房の鋸山周辺の石である。この房州石、武蔵の国の各地の古墳で使われている。散歩で訪れた、埼玉・さきたま古墳群の将軍山古墳、北区・赤羽台古墳群、千葉・市川の法王塚古墳、南千住の素盞雄神社に鎮座する「瑠璃石」も房州石であった。埼玉や東京の 6 世紀後半?7 世紀台の古墳の石室材としてこの房州石が使われている。ということは、そのころには既に、古い利根川筋をつかった河川舟運が行われていた、ということであろう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

小岩用水跡を越え高砂に
柴又八幡を離れ、先に進む。柴又1丁目と高砂8丁目の境あたりで小岩用水跡を越える。小岩用水は小合溜井を水源とする上下之割用水(かみしものわりようすい)が新宿(にいじゅく)地区で分水したもの。ちなみに上下之割用水は新宿からすこし下ったあたりで3つに分水し、東井掘、中井掘、西井掘として南に下った。
京成高砂駅に。高砂の地名の由来は、小高い砂州から、かな、と思ったのだが、昭和に町村合併のおり、縁起がいいということで、世阿弥元清の謡曲、婚礼の折の謡の代表局「高砂」から名づけたもの。「高砂や この浦舟に帆を上げて この浦舟に帆を上げて 月もろともに出汐の 波の淡路の島影や 遠く鳴尾の沖過ぎて 早、住之江に着きにけり 早、住之江に着きにけり」。いくつもの町村が合併するときによくあるパターン、であった。

青龍神社と怪無池
高砂駅あたりをぶらぶらし、とりあえず中川の堤まで出ることにする。地図を見ると、高砂6丁目の「水道管橋」あたりに青龍神社と怪無池。名前に惹かれて進む。青龍神社はささやかな祠。昭和56年に神社が全焼したそうだ。で、この神社は榛名山の分霊とか。由来はあまりよくわからない。神社の横に怪無池。多くの人が釣りを楽しんでいた。この池は横の中川が決壊してできた池。名前の由来はいくつかある。怪我なし、とか「け」 = 飢饉なし、とか毛がないとか。が、どれもいま一つ。
で、自分なりの推論というか、空想。青龍神社 = 榛名山。であれば榛名あたりに怪無山ってないだろうか。あった。怪無 = 木無し。頂上付近に木々の無い山ってこと。榛名山と怪無山の関係が = 青龍神社と怪無池、といったなんらかの関係があった、と自分勝手に納得する。
極楽寺は鎌倉幕府の名裁判官・青砥藤綱ゆかりの寺、と
中川の堤を少し南に。京成線を越え、堤下に極楽寺。高砂橋からの道筋を東に。直ぐの交差点で北に。極楽寺は鎌倉幕府の名裁判官・青砥藤綱によってつくられた。国府台合戦で焼失・荒廃するも江戸になり復興し、門前に市がたつほど賑わった、とか。
藤綱は北条時頼、時宗の二代につかえた鎌倉武士。この藤綱って鎌倉散歩の時、滑川に架かる青砥橋の碑文で出会った人物。川に落とした十文銭の話で有名。碑文:「太平記に拠(よ)れば 藤綱は北条時宗 貞時の二代に仕へて 引付衆(裁判官)に列りし人なるが 嘗(かって)て夜に入り出仕の際 誤って銭十文を滑川に 堕(落)し 五十文の続松(松明)を購(買)ひ 水中を照らして銭を捜し 竟(遂)に之を得たり 時に人々 小利大損哉と之を嘲(笑)る 藤綱は 十文は 小なりと雖(いえども) 之を失へば天下の貨を損ぜん 五十文は我に損なりと雖(いえども) 亦(また)人に益す 旨を訓せしといふ 即ち其の物語は 此 辺に於て 演ぜられしものならんと伝へらる」、と。要は、川に落とした十文銭を拾うため、五十文のお金を使って松明を買いついに探し出す。人皆、「それって大損」、と。が藤綱は、十文が無くなるのは天下のお金を無くすこと。50文を失った、といってもそれは人のためになったわけだから、と人を諭した。このお寺に藤綱の墓がある、と言う。
上下之割用水跡を新宿に 極楽寺の東に天祖神社。再び線路を越え北に戻る。線路脇に観蔵寺。葛飾七福神のひとつ寿老人が。北に進む。怪無池の線路・新金線貨物線を隔てた丁度東あたりにいかにも川筋跡といった通り。上下之割用水跡であった。用水跡を北に。新金線貨物線を斜めに越える。用水跡は新宿(にいじゅく)にむかって先に続く。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

新宿・「水戸街道石橋供養道標」

水戸街道と交差。昔、新宿橋があったよう。それよりもなによりも、昔はこのあたりは交通の要衝。江戸の地図を見ると、この新宿から西に水戸街道、佐倉街道、国分道、北に向かって原田道、小向道、それと新宿のちょっと中川寄りのところからは流山道が北へと分岐している。新宿は小田原後北条により、対岸の葛西城の町場として整備された。水戸街道をちょっと越えた用水跡に「水戸街道石橋供養道標」。
碑文をメモする。:「水戸・佐倉両街道の分岐点に立つ道標です。この地域の万人講、不動講、女中講の人々は、安永2年(1773年)から5か年を費やし27か所の石橋を架けま した。これはその供養のため、不動明王像と道標を、この町の石工中村左衛門に造らせたものです。当時27か所もの石橋を架ける事は、共同事業とはいえ大変 な大事業であったと思われます。また今は無くなってしまいましたが、この道標(竿石)のうえに不動像を安置していました。新宿町は水戸・佐倉街道の分岐にある宿場町で、千住から1里余り中川を渡りちょうどこの辺りで水戸街道は金町へ(水路に沿った道を左に)、そして佐倉街道は上小岩へと向かいます(現在の水戸街道を越えて右に入る)。
この佐倉街道は参勤交代に利用されただけでなく元禄(1688年)以降、民間の信仰が盛んに なると、成田山新勝寺や千葉寺参詣の道としても利用され、成田道、千葉寺道と呼ばれるようになりました 葛飾教育委員会」、と。

中川大橋
中川大橋手前に日枝神社。イチョウの大木で有名。元禄時代は山王大権現。元はもっと中川寄りの地にあったが、中川河川改修の折、この地に移る。中川大橋を渡る。川を渡れば昔の亀有村地区。金町・新宿地区散歩のメモはここまで。JR 亀有駅に向かい、家路へと。




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