水曜日, 9月 10, 2008

三増合戦の地を巡る そのⅡ:志田峠越え

武田の遊軍が進んだ志田峠、そして、北条方が陣を構えた半原の台地をぐるっと巡る

三増合戦の地を巡るお散歩の二回目。今回は志田峠を越えようと思う。相模と津久井をふさぐ志田山という小山脈の峠のひとつ。先回歩いた三増峠の西にある。『八王子南郊;史話と伝説(小泉輝三朗;有峰書店新社)』によれば、「道はよいが遠いのが本通りの志田峠、いちばん東にあり、いちばん低く、いちばん便利なのが三増峠」、とある。はてさて、どのような峠道であろう、か。
で、本日の大雑把なルーティングは、志田峠から菲尾根(にろうね)の台地に進み、そこから折り返して半原に戻る。武田の遊軍が進んだ志田峠、津久井城の押さえの軍が伏せた菲尾根の長竹ってどんなところか、また北条軍が陣を構えたとされる半原の台地、ってどのような地形であるのか、実際に歩いてみようと、の想い。



本日のルート;三増合戦みち>三増合戦の碑>信玄の旗立松>志田峠>清正光・朝日寺>韮尾根>半原日向>半原・日向橋>郷土資料館>辻の神仏>中津川

三増合戦みち
小田急線に乗り、本厚木で下車。半原行きのバスに乗れば、志田峠への道筋の近くまで行けるのだが、来たバスは先回乗った「上三増」行。終点の手前で下りて少し歩くことになるが、それもいいかと乗り込み、「三増」で下車。
三増の交差点から「三増合戦みち」という名前のついた道が半原方面に向かって東西に走っている。交差点から300m程度歩くと道は下る。沢がある。栗沢。結構深い。三増峠の少し西あたりから下っている。

三増合戦の碑
栗沢を越え台地に戻る。北は志田の山脈が連なり、南に開かれた台地となっている。ゆったりとした里を、のんびり歩く。再び沢。深堀沢。三増峠と志田峠の中間にある駒形山、これって、信玄が大将旗をたてた山とのことだが、その駒形山の直下に源を発する沢。誠に深い沢であった、とか。現在は駒形山あたりはゴルフ場となっており、地図でみても沢筋は途中で切れていた。
深堀沢を越えて300m程度歩くと「三増合戦の碑」。このあたりが三増合戦の主戦場であったようだ。
「三増合戦のあらまし(愛川町教育委員会)」を再掲する。:永禄十二年(1569年)十月、武田信玄は、二万の将兵をしたがえ、小田原城の北条氏康らを攻め、その帰路に三増峠越えを選ぶ。これを察した氏康は、息子の氏照、氏邦らを初めとする二万の将兵で三増峠で迎え討つことに。が、武田軍の近づくのをみた北条軍は、峠の尾根道を下り、峠の南西にある半原の台地上に移り体勢をととのえようとした。
信玄はその間に三増峠の麓の高地に進み、その左右に有力な将兵を配置、また、峠の北にある北条方の拠点・津久井城の押さえに、小幡信定を津久井の長竹へ進める。また、山県昌景の一隊を志田峠の北の台地・韮尾根(にろうね)に置き、遊軍としていつでも参戦できるようにした。
北条方からの攻撃によりたちまち激戦。勝敗を決めたのは山県昌景の一隊。志田峠を戻り、北条の後ろから挟み討ちをかけ、北条軍は総崩れとなる。北条氏康、氏政の援軍は厚木の荻野まで進んでいたが、味方の敗北を知り、小田原に引き上げた。
信玄は合戦の後、兵をまとめ、寸沢嵐・反畑(そりはた・相模湖町)まで引き揚げ、勝鬨をあげ、甲府へ引きあげたという。
とはいうものの、新田次郎氏の小説「武田信玄」によれば、北条方は三増峠の尾根道に布陣し、武田方の甲斐への帰路を防ぎ、小田原からの援軍を待ち、挟み撃ちにしようと、した。一方の武田軍がそれに向かって攻撃した、となっている。先回、三増峠を歩いた限りでは、尾根道に2万もの軍勢を布陣するのはちょっと厳しそう、とも思うのだが、とりあえず歩いたうえで考えてみよう、ということに。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


信玄の旗立松
「三増合戦の碑」のすぐ西隣に、北に進む道がある。志田峠に続く道である。「志田峠」とか「信玄旗立松」といった標識に従い道なりに進むと「東名厚木カントリー倶楽部」の入口脇に出る。「信玄旗立松」は現在、ゴルフ場の中にある。
案内標識に従い、ゴルフ場の中の道を進む。結構厳しい勾配である。駐車場を越えると、前方に小高い丘、というか山がある。更に急な山道を上ると尾根筋に。ここが信玄が本陣を構えた中峠とも、駒形山とも呼ばれたところ、である。
「信玄旗立松」の碑と松の木。元々あった松は枯れてしまったようだ。旗立松はともあれ、ここからの眺めはすばらしい。180度の大展望、といったところ。南西の山々は経ヶ岳、仏果山、高取山なのだろう、か。半原越え、といった、如何にも雰囲気のある峠道が宮ヶ瀬湖へと続いている。とのことである。
尾根道がどこまで続くのか東へと進む。が、道はすぐに切れる。この山はゴルフ場の中に、ぽつりと、取り残されている感じ。しばし休息の後、山道を降り、ゴルフ場の入口に戻る。

志田峠
ゴルフ場に沿って道を北に進む。田舎道といった雰囲気も次第に薄れ、峠道といった風情となる。道の西側には沢が続く。志田沢。足元はよくない。小石も多い。雨の後ということもあり、山肌から流れ出す水も多い。勾配はそれほどきつくはない。しばし山道を進むと志田峠に。ゴルフ場入口から2キロ弱、といったところだろう。
志田峠。標高310m 。展望はまったく、なし。峠に愛川町教育委員会の案内板;志田山塊の峰上を三分した西端にかかる峠で、愛川町田代から志田沢に沿ってのぼり、?津久井町韮尾根に抜ける道である。かつては切り通し越え、志田峠越の名があった。?武田方の山県三郎兵衛の率いる遊軍がこの道を韮尾根から下志田へひそかに駆け下り、?北条方の背後に出て武田方勝利の因をつくった由緒の地。?江戸中期以降は厚木・津久井を結ぶ道として三増峠をしのぐ大街道となった。」 と。

清正光・朝日寺
峠を越えると道はよくなる。1キロほどゆったり下ると道の脇にお寺様。志田山朝日寺。200段以上もある急な石段を上る。境内に入ろうとしたのだが、犬に吠えられ、断念。トットと石段を戻る。案内によれば、13世紀末に鎌倉で開山されたものだが、昭和9年、この地に移る。本尊は清正光大菩薩。現在は「清正光」という宗教法人となっている、と。
「清く、正しく、公正に」というのが、教えなのだろう、か。

韮尾根(にらおね>にろうね)
道なりにくだると、東京農工大学農学部付属津久井農場脇に。このあたりまで来ると、ちょっとした高原といった風情の地形、となる。北東に向かって開かれている。のどかな畑地の中をしばし進む。と国道412号線・韮尾橋の手前に出る。韮尾根沢に架かる橋。住所は津久井市長竹である。
長竹と言えば、武田方の遊軍・山県勢5千に先立ち、津久井城の押さえのため進軍した小幡尾張守信貞の部隊が伏せたところ。1200名の軍勢が、中峠から韮尾根に下り、串川を渡り、山王の瀬あたりの窪地に隠れ、津久井城の北条方に備えた、と。現在の串川橋のあたりに長竹三差路と呼ぶところがある。そこは三増峠に進むにも、韮尾根・志田峠に進むにも、必ず通らなければならない交通の要衝。小幡軍が布陣したのは、その長竹三差路のあたりでは、なかろう、か。
韮尾橋から長竹三差路までは2キロ程度。串川橋や長竹三差路まで行きたしと思えども、本日の予定地である半原とは逆方向。串川、長竹三差路は次回、武田軍の相模湖方面への進軍路歩きのときのお楽しみとし、本日は412号線を南へと進むことにする。

半原日向
韮尾橋から国道412号線を1キロ弱歩くと、峠の最高点に。もっとも、現在は大きな国道が山塊を切り通しており、峠道の風情は、ない。が、この国道412号線が開通したのは1982年頃。それ以前のことはよくわからないが、少なくとも、三増合戦の頃は切り立った山容が、韮尾根と半原を隔てていたのだろう。峠を越えると、真名倉坂と呼ばれる急勾配の坂道が北へと下る。どこかの資料で見かけた覚えもあるのだが、江戸以前は志田越えより、この真名倉越えのほうがポピュラーであった、とか。これが本当のことなら、三増合戦のいくつかの疑問が消えていく。
何故、北条方が半原の台地に陣を構えたか。その理由がいまひとつ理解できなかったのだが、武田軍がこの真名倉越えをすると予測した、とすれは納得できる。半原の南の田代まで進んだ武田軍は半原の台地に構える北条軍を発見し、真名倉越えをあきらめる
。そうして、駒形山方面の台地に進路を変える。志田峠、三増峠、中峠と進む武田軍を見た北
条軍は、半原の台地を下り、武田軍を追撃。そのことは織り込み済みの武田軍は踵を返し、両軍衝突。で、志田峠を引き返した山県軍が北条軍の背後から攻撃し、武田軍が勝利をおさめる。真名倉越えが峠道として当時も機能していたのであれば、自分としては三増合戦のストーリーが美しく描けるのだが。はてさて、真実は?

半原・日向橋
半原日向から中津川の谷筋を見下ろす。半原の町は川筋と台地に広がる。国道12号線は台地の上を南に進む。北条方が半原の台地に陣を構えた、というフレーズが実感できる。台地下を流れる中津川に沿って南から進む武田軍をこの台地上から見下ろしていたのだろう、か。
半原日向交差点から中津川筋に降りる。結構な勾配の坂である。中津川に架か
る橋に進む。日向橋。南詰めのところにあるバス停で時間をチェック。結構本数もあるようなので、町の中をしばし楽しむことに。鬼子母神とあった顕妙寺、半原神社へと進む。宮沢川を越え、県道54号線から離れ、台地に上る。愛川郷土資料館が半原小学校の校庭横にある、という。結構きつい勾配の坂道を上る。途中に、「磨墨(するすみ)沢の伝説」の碑。平家物語の宇治川の先陣に登場する名馬・磨墨(するすみ)は、この沢の近くに住んでいた小島某が育てた、との伝説。とはいうものの、源頼朝に献上されこの名馬にまつわる伝説は東京都大田区を含め日本各地に残るわけで、真偽のほど定かならず。

郷土資料館
坂を上り台地上の町中にある半原小学校に。野球を楽しむ地元の方の脇を郷土資料館に。残念ながら、閉まっていた。郷土館は小学校の校舎を残した建物。半原は日本を代表する撚糸の町であるわけで、撚糸機などが展示されているとのことではある。八丁式撚糸機が知られるが、これは文化文政の頃につくられた、もの。電気もない当時のこと、動力源は中津川の水流を利用した水車。盛時、300以上の水車があった、とか。

辻の神仏
郷土館を離れる。道端に辻の神仏。案内をメモ;辻=境界は、民間信仰において、季節ごとに訪れる神々を迎え・送る場所でもあり、村に入ろうとする邪気を追い払う場所でもあった。そのため、いつしか辻は祭りの場所として、さまざまな神様を祀るようになった、と。

中津川
台地端から急な崖道を下る。野尻沢のあたりだろう、か。川筋まで下り、中津川に。この川の水、道志川の水とともに、「赤道を越えても腐らない」水であった、とか。水質がよかったのだろう。ために日本海軍などが重宝し、この地の貯水池から横須賀の海軍基地に送られ、軍艦の飲料水として使われていた、と言う。水源は中津川上流の宮ケ瀬湖に設けられた取水口。現在も、そこから横須賀水道路下の水道管を通って横須賀市逸見(へみ)にある浄水場まで送られている。距離53キロ。高低差70m。自然の高低差を利用して送水している、と。中津川を日向橋に戻り、バスに乗り一路家路へと。

一回目の三増峠、今回の志田峠、韮尾根の高原、半原台地と三増合戦の跡地は大体歩いた。次回は、ついでのことなので、合戦後の武田軍の甲斐への帰還路を相模湖あたりまで歩いてみよう、と思う。



三増合戦の地を巡る そのⅠ:三増峠越え

武田・北条が相争った三増合戦の地・三増峠を越える

何時だったか、何処だったか、古本屋で『八王子南郊;史話と伝説(小泉輝三朗;有峰書店新社)』を買ったのだが、その中で「三増合戦」という記事が目にとまった。津久井湖の南の三増峠の辺りで、武田軍と小田原北条軍が相争った合戦である、と。両軍合わせて5千名以上が討ち死にした、との記録もある。日本屈指の山岳戦であった、とか。
「三増合戦」って初めて知った。そもそも、散歩を始めるまで、江戸開幕以前の関東、つまりは小田原北条氏が覇を唱えた時代のことは、何にも知らなかった。お散歩をはじめ、あれこれ各地を歩くにつれ、関東各地に残る小田原北条氏の旧跡が次々にと、登場してきた。寄居の鉢形城、八王子の滝山城、八王子城、川越夜戦、国府台合戦、などなど。三増合戦もそのひとつである。
三増合戦についてあれこれ調べる。と、この地で激戦が繰り広げられたのは間違いないようだが、合戦の詳細については定説はないよう、だ。新田次郎氏の『武田信玄;文春文庫』の「三増合戦」の箇所によれば、峠で尾根道で待ち構えていたのが北条方とするが、上記書籍では、北条方が山麓の武田軍を追撃した、と。峠を背に攻守逆転している。峠信玄の本陣も、三増峠の西にある中峠という説もあれば、三増峠の東の山との言もある。よくわからない。これはう、実際に歩いて自分なりに「感触」を掴むべし、ということに。どう考えても一度では終わりそうにない。成り行きで、ということに。



本日のルート:小田急線・本厚木>金田>上三増>三増峠ハイキングコース>三増峠>小倉山林道>相模川>小倉橋と新小倉橋>久保沢・川尻>原宿?・二本松>橋本

小田急線・本厚木
三増への道順を調べる。小田急・本厚木駅からバスが出ている。北に進むこと40分程度。結構遠い。だいたいの散歩のルーティングは、三増峠を越え、津久井湖まで進み、そこからバスに乗り橋本に戻る、ということに。
小田急に乗り、本厚木駅に。北口に降り、線路に沿って少し東に戻り、バスセンターに向かう。バスの待ち時間にバスセンター横にあるシティセンター1階にあるパン屋に立ち寄る。奥はレストランになっている。店の名前は「マカロニ広場」。サツマイモを餡にしたくるみパンが誠に美味しかった。
厚木の名前の由来は、この地が木材の集散地であったため「あつめ木」から、といった説もある。が、例によって諸説あり。ともあれ、厚木が歴史書にはじめて登場したのは南北朝の頃。江戸の中期は、宿場、交易の場として繁盛した、と。

金田
バスに乗り、北に向かう。市街を出ると川を越える。小鮎川。すぐ再び川。中津川である。川に架かる第一鮎津橋を渡ると、妻田あたりで道は北に向かう。ちょうど、中津川と相模川の間を進むことに成る。
金田交差点で国道246号線を越えると、道は国道129号線となり、更に北に進む。下依知から中依知に。この辺りは昔の牛窪坂といったところ。三増合戦にも登場する地名である。
小田原勢の籠城策のため、攻略戦を一日で諦めた武田軍は小田原を引き上げる。どちらに進むのかが、小田原方の最大の関心事。武田方が陽動作戦として流布した鎌倉へと進むか、相模川を渡り八王子方面に進み甲斐路を目指すか、はたまた三増峠を経て甲斐に引き上げるのか、はてさて、と思案したことだろう。
で、結局のところ、平塚から岡田(現在の東名厚木インターあたり)、本厚木、妻田、そしてこの金田へと相模川の西を進んできた信玄の軍勢は、相模川を渡ること無く、牛窪坂の辺りで相模川の支流である中津川に沿って進むことになる。それを見届けた北条方の物見は、三増峠に進路をとると報告。中津川を上流に進めば、三増峠の麓へと続くことに、なるわけだ。

上三増
国道129号線を進み、山際交差点で県道65号線に折れる。この県道は、三増峠下をトンネルで貫き、津久井に至る。道は中津川に沿って進んでいる。三増に近づくにつれ、山容が迫る。『八王子南郊;史話と伝説(小泉輝三朗;有峰書店新社)』によれば、「三増は、丹沢・愛甲の山々が相模川まで押し出して、南相模と都留・津久井がつながる狭い咽首(のどくび)になっているところだから、昔も今も交通の生命線である。(中略)。その咽首の狭いところを志田山という小山脈がふさいでいて、越すにはどうしても小さいが峠を通らなければならない。東に三増峠、真ん中に中峠、西に志田峠の三カ所があった」、とある。北に見える尾根が三増峠のあたりなのだろう、か。
終点の上三増でバスを降りる。バス停は峠に上る坂道のはじまるあたり。近くには三増公園陸上競技場などもあった。バス停の近くにあった史跡マップなどをチェックし、三増峠へと進むことにする。

三増峠ハイキングコース
県道65号線を峠方面に進む。車も結構走っている。道の先に尾根が見える。標高は300m強といったところだろう。しばらく進み、三増トンネルのすぐ手間に旧峠への入り口がある。「三増峠ハイキングコース」とあった。スタート時点は簡易舗装。しばらく進むと木が埋め込まれた「階段」。上るにつれ古い峠道の趣となる。深い緑の中を進み、峠に到着。それほどきつくもない上りではあった。
三増合戦のとき、この三増峠を進んだ武田方は、馬場信房、真田昌幸、武田勝頼の率いる軍勢。新田次郎の『武田信玄』によれば、峠の尾根道で待ち構える北条方では「勝頼の首をとるべし」と待ち構えていた、とか。もっとも、先にメモしたように、陣立てには諸説あり、真偽のほど定かならず。愛川町教育委員会の「三増合戦のあらまし」を以下にまとめておく。

三増合戦のあらまし :
永禄十二年(1569年)十月、武田信玄は、二万の将兵をしたがえ、小田原城の北条氏康らを攻め、その帰路に三増峠越えを選ぶ。これを察した氏康は、息子の氏照、氏邦らを初めとする二万の将兵で三増峠で迎え討つことに。が、武田軍の近づくのをみた北条軍は、峠の尾根道を下り、峠の南西にある半原の台地上に移り体勢をととのえようとした。
信玄はその間に三増峠の麓の高地に進み、その左右に有力な将兵を配置、また、峠の北にある北条方の拠点・津久井城の押さえに、小幡信定を津久井の長竹へ進める。また、山県昌景の一隊を志田峠の北の台地・韮尾根(にろうね)に置き、遊軍としていつでも参戦できるようにした。
北条方からの攻撃によりたちまち激戦。勝敗を決めたのは山県昌景の一隊。志田峠を戻り、北条の後ろから挟み討ちをかけ、北条軍は総崩れとなる。北条氏康、氏政(うじまさ)の援軍は厚木の荻野まで進んでいたが、味方の敗北を知り、小田原に引き上げた。
信玄は合戦の後、兵をまとめ、寸沢嵐・反畑(そりはた・相模湖町)まで引き揚げ、勝鬨をあげ、甲府へ引きあげたという。「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


三増峠

峠に到着。2万とも言われる北条の軍勢がこの尾根道で待ち構えるとは、とても思えない。愛川町教育委員会の説明のように、尾根道を下り、半原の台地で待ち構えていたのでは、などと思える。足もとから車の走る音。峠を貫く三増トンネルの中から響くのだろう。
さて、峠を西に向かうか、東に向かうか。標識が倒れておりどちらに進めばいいのかわからない。
少々悩み、結局東に向かう。これが大失敗。当初の予定である津久井の根小屋への道は、西方向。そうすれば、峠を下り、トンネルの出口あたりに進めたのだが、後の祭り。あらぬ方向へ進むことになった。

小倉山林道
東へと進む。快適な尾根道。後でわかったのだが、この道は小倉山林道。歩いておれば、麓が見えるか、とも思うのだが、山が深く、どちらが里かさっぱりわからない。なんとか里に下りたいと思うのだが、道が下る気配もない。山腹を巻き道が続く。人が歩く気配もない。心細いこと限りない。分岐で成り行きで進み、行き止まりになりそうで引き返したりしながら、小走りで林道を進む。頃は春。山桜が美しい。
結局、4キロ程度歩いたただろうか。東へと東へと引っ張られ、気がついたら、小倉山の南の山腹を進んでいた。車の音も聞こえる。ここはどこだ。川らしきものも眼下にちょっと見える。どうも相模川のようだ。やっと、下りの道。結構な勾配。どんどん下る。車の往来が激しい道筋に。道路への出口は鉄の柵。車、というかバイク、などが入れないようにしているのだろう、か。

相模川


道のむこうに相模川。このあたりは城山町小倉。三増峠から、津久井の長竹・根小屋、津久井城の南麓を串川に沿って相模川に進み橋本へ、といったルートは大幅に狂ってしまったが、小倉から串川・相模川の合流点まで2キロ強。どうせのことなら、串川・相模川の合流点まで進み、橋本まで歩くことにする。橋本まで、7キロ強、といったところ、か。
橋を渡り、大きく曲がる上りの坂を進み、新小倉橋の東詰めに。谷は如何にも深い。

小倉橋と新小倉橋

相模川を眺めながら北に進む。串川を越えると小倉橋。趣のある橋ではあるが、幅は狭い。相互通行しかできなかったようで、結果大渋滞。ために、バイパスがつくられた。小倉橋の北に聳える巨大な橋がそれ。新小倉橋、という。2004年に開通した、と。   
久保沢・川尻
台地の道を久保沢、そして川尻へと進む。途中に川尻石器時代遺跡などもある。久保沢とか川尻と行った地名は少々懐かしい。はじめて津久井城跡を歩いたとき、橋本からバスにのり、城山への登山口のある津久井湖畔に行く途中で目にしたところ。江戸時代の津久井往還の道筋でもある。
津久井往還は江戸と津久井を結ぶ道。津久井の鮎を江戸に運んだため、「鮎道」とも。もちろんのこと、鮎だけというわけではなく、木材(青梅材)、炭(川崎市麻生区黒川)、柿(川崎市麻生区王禅寺)などを運んだ。道筋は、三軒茶屋>世田谷>大蔵>狛江>登戸>生田>百合ケ丘>柿生>鶴川>小野路>小山田>橋本>久保沢>城山>津久井>三ヶ木、と続く。

原宿?・二本松
川尻から城山町原宿南へと成り行きで進む。原宿近隣公園脇を進む。この原宿の地は江戸・明治の頃には市場が開かれていた、とか。原宿から川尻を通り、小倉で相模川を渡り厚木をへて大山へと続く大山道の道筋でもあり、津久井往還、大山道のクロスする交通の要衝の地であったのだろう。
二本松地区に入るとささやかな社。二本松八幡社。なんとなく気になりお参りに。由来を見ると、もとは津久井町太井の鎮守さま。その地が城山湖の湖底に沈んだためこの地に移る。二本松の由来は、津久井往還の道筋に二本の松があったから、とか。

橋本

車の往来の激しい道を進み、日本板硝子の工場前をへて橋本の駅に。橋本の名前の由来は境川に架かる両国橋から。現在の橋本駅の少し北、元橋本のあたりが、本来の「橋本」である。橋本が開けたのは黄金の運搬がきっかけとなった、と前述、『八王子南郊;史話と伝説(小泉輝三朗;有峰書店新社)』は言う。


久能山東照宮にあった黄金を、家康をまつる日光東照宮に移すことになった。久能山から夷参(座間市)までは東海道を。そこから八王子へと進むわけだが、座間宿から八王子宿までは八里ある。馬は三里荷を積み進み、三里戻るのが基本。途中には御殿峠などもあるわけで、座間と八王子の間にひとつ宿を設ける必要があった。で、どうせなら峠の手前で、ということで元橋本のあたりに宿が設けられた、と。社会的は必要性からつくられた、というより、黄金運搬という政治的目的にのためにつくられた「人工的」宿場町がそのはじまりであった、とか。
少々長かった本日の散歩、ルートも当初の予定から大幅に変更になった。次回は、三増合戦の舞台となった峠のひとつ志田峠、信玄が本陣の旗をたてたとも言われる駒形山などを歩いてみようと思う。

水曜日, 10月 31, 2007

多摩丘陵西端の川筋を歩く:奈良川・恩田川から境川へ

先日、鶴川からJR横浜線・中山に向かって下った。途中、奈良川、そして恩田川に出会った。奈良川源流あたりの谷戸ってどんな景観だろう。また、恩田川流域は鶴見川に負けず劣らず、宅地化が急激に進んだところ、という。これまた、どのような景観が開けるのだろうか。ということで、今回は多摩丘陵西端近くを開析するふたつの川筋、奈良川と恩田川を巡る。そして、そのあとは丘陵西端を越えて相模原台地に進むことに。(2007,210月のブログ修正)


本日のルート;小田急線・玉川学園前>南口>玉川学園7丁目>奈良町第三公園>奈良町第二公園>奈良川源流部>協和緑病院>奈良町第四公園>奈良保育園前>鶴川街道・こどもの国西口交差点>こどもの国駐車場南を西に>奈良川・こどもの国線交差>奈良1丁目・奈良山公園南端>T字路>尾根道に上る>尾根道を北に>奈良5丁目・成瀬台4丁目>成瀬台4丁目>東玉川学園2丁目>昭和薬科大学・町田キャンパス>キャンパス南端を西に>かしの木山自然公園>南大谷中学>恩田川>恩田川自転車歩行者専用道路>小田急線交差>桜橋>稲荷坂橋>恩田川分岐>日向山公園脇>本町田東小学校脇>親水公園>今井谷戸>鎌倉街道を南に>木曽団地東交差点を西に>恩田川分流の源流・湿地帯・調整池>本町田小学校脇>町田街道>境川橋>JR横浜線・古淵駅

小田急線・玉川学園前駅
少々の雨模様の中、奈良川の源流点に近い、小田急線・玉川学園前駅に。南口に下りる。駅前に台地が迫る。谷戸・丘陵の広がるこの地を開発したのは玉川学園の創設者。地価の安い「原野」を開発し、駅をつくり地価を上げ宅地を売り出し、学園建設資金にまわした、という。たしか、駅の建設費用も学園が負担したとか、しないとか。阪急電鉄の小林一三翁といった電鉄会社の経営手法が頭によぎった。
で、ふと何故「玉川学園」なのか気になった。創設者は小原さん、ということだし、玉川という言葉との関連は?小原さんって、世田谷の成城学園にも関係していた方である。世田谷には二子玉川など、「玉川」が多い。それが学園命名の由来だろう、か。
それにしても、そもそも何故「玉川」であり、「多摩川」でないのだろう?「玉川」と「多摩川」の違いは?気になりチェック。大きな思い込み・勘違いがわかった。大河・多摩川のその存在の大きさ故に、多摩川が「本家」で「玉川」が分家、と思っていたのだが、どうもそうではないらしい。「多摩川」は明治になるまで「玉川」と呼ばれていいたようだ。多摩川の羽村で取水され、江戸まで引かれた上水が「玉川上水」であり、「多摩川上水」でない理由がよくわからなかったのだが、江戸時代、「多摩川」はなく「玉川」が流れていた、とすれば、至極あたりまえのことである。
玉川が多摩川となった経緯は定かではない。が、思うに、明治26年、多摩三郡(北多摩、南多摩、西多摩)が神奈川から東京に移管されたことがきっかけ、ではなかろうか。そもそも三多摩の東京への移管は、東京の上水地の水源である、とも言われる。水源地である多摩郡に「敬意」を払い、玉川を多摩川としたのではないか、との説もある。玉川って、玉=清らかな・宝のような川、である。玉川学園、って、そういった清らかな大河、に由来するのだろうか。まったくの根拠なし。

奈良川の源流域
駅前の台地を上る。玉川学園7丁目あたりの台地上の道を進み、玉川学園の敷地方向に。敷地に沿った車道を台地から下り、奈良川の源流点に向かう。源流点とはいうもの、車道の周囲は住宅街である。前方は奈良北団地、学園奈良団地の高層マンションであろう。
坂を下り奈良町第三公園で左折、宅地に入る。先に進み奈良町第二公園。その先は深く落ち込んでいる。典型的な谷戸の景観。坂道を下る。細い水路が流れている。奈良川の源流域、であろう。水路は北に向い玉川学園のほうに続いているのだが、フェンスに囲まれよく見えない。少し北に進むが、学園にそって急な石段が続く。どうも、これ以上進めそうもない。源流点さがしはここでストップ。Uターンし、奈良川を下ることに。

土橋谷戸
奈良町第二公園あたりまで戻る。道は川筋から少し離れる。いい風景。里山、というか穏やかな谷戸の景色が広がる。「土橋谷戸」と呼ばれているようだ。しばらく歩くと「緑協和病院」。道は五差路となる。奈良町第四公園脇を奈良川にそって下る。東の台地上はTBS緑山スタジオ。奈良保育園前交差点を越え、奈良小学校を西に見ながら進み鶴川街道・こどもの国西側交差点に。奈良保育園前交差点を西に進めば、先ほど奈良川源流に向かって下ってきた玉川学園脇の坂道に続く。

国西側交差点・鶴川街道

こどもの国西側交差点からはしばらく鶴川街道を進む。歩道が整備されていないので、通過する車が怖い。こどもの国駐車場、こどもの国線・こどもの国駅を越える。西に奈良山公園の緑。西に向かって川を越えたいのだが、なかなか橋がない。また、橋があっても線路で行き止まり。結局、住吉神社手前まで、引っ張られることに。住吉神社前交差点を西に折れ奈良山公園の南端に沿って進む。少し歩くと、大きな道筋。先ほどの「こどもの国西側交差点」から南に下る道筋である。先に進むと、先日歩いた恩田町の「子之辺神社」の西に通じている。

奈良尾根緑地

宅地開発されたばかり、といった街並みの中を南に下る。西に台地が見える。なんとか台地に上りたい、とは思えども道がない。結局、奈良3熊ケ谷公園あたりまで歩くことになった。西に通じる車道が通る。交差点を折れ、台地方向へと向う。道は台地下のトンネルをくぐる。トンネル脇に台地に上る道。迷うことなく台地上に続く細路に進む。坂をのぼると尾根道に。いい感じの散歩コースになっている。尾根道を南に進めば「成瀬山吹緑地」、北に進めば「奈良尾根緑地」に続く、と。この尾根道は青葉区と町田市成瀬との境界線、南のあかね台から北の奈良町まで続いている。
北に上るか、南に下るか、どちらに進むか結構迷う。で、結局、北に向かう。あとからGoogle Mapの航空写真でチェックすると、南方向は先日歩いた「子之辺神社」の西を通り、あかね台の県道140号線あたりまで緑が続いている。少々惹かれる。そのうちに歩いてみたい。ともあれ、北に進む。しばらく歩くと、木立の中の散歩道はなくなり、東は台地端、西は住宅地の続きとなる。

奈良5丁目と成瀬台4丁目境・奈良尾根緑地の北端
どこだったか、一度台地を下り、車道を渡り再び台地に上る。もう、尾根道というよりも、台地端に迫る住宅街の道を歩く、といった状況となる。この車道は「こどもの国駅」あたりから西に通る車道ではないか、と思う。更に先に進む。大きな車道を跨ぐ陸橋に。すぐ先に奈良北団地交差点。このまま進めば、「スタート地点」に戻ることになりそう。北に進むのを止め西に向かうことに。奈良5丁目と成瀬台4丁目の境、こどもの国西側交差点の少し南から、西に向かって続く車道が大きく湾曲するあたりで陸橋を下り西に道をとる。次の目標は「かしの木山自然公園」。目印は東玉川学園3丁目にある昭和薬科大学、である。

昭和薬科大学

成瀬台から東玉川学園の住宅街を進み、薬科大学町田キャンパスに。構内を抜ける道もありそうだが、残念ながら構内通行不可。仕方なく、キャンパスの縁を南に進み、南端で西に折れる。塀にそって台地を上る。台地の頂上付近から雑木林。雑木林を下り、テニスコート脇の竹林を抜け、峠道に当たると、そこは「かしの木山自然公園」の入り口、となっていた。

かしの木山自然公園
かしの木山自然公園。東の成瀬台、西の南大谷、高ケ坂地区の境に位置する。緑豊かな5haほどの公園。園内にはわずかな距離ではあるが、鎌倉古道も残る。園内に入り、鎌倉古道を歩く。が、あっという間に終了。コナラやクヌギの林の中を進むと「シラカシの森」がある。かしの木山自然公園の名前の由来、である。
シラカシはシイやカシ、そしてツバキなどとともに(常緑)照葉樹と呼ばれる。太古武蔵野を覆っていた植物群である。その後、人が住むようになり、原野を切り開く。焼畑で焼き払われた後には3,4年たつと、一面のススキ。 それが15年くらいでススキの間からクヌギやコナラといった落葉広葉樹が伸びてくる。これがいわゆる雑木林というものである。江戸が大都市になるにつれ、燃料としてこういった落葉広葉樹が必要になるわけで、人工的にも「雑木林」が増える。これが武蔵野の雑木林。
武蔵野の雑木林・落葉広葉樹も、管理することなく放置しておくと、百年ほどで林床に芽生えた(常緑)照葉樹にとって替わられる。落葉広葉樹は日当たりのいい所ではよく育つのだが、(常緑)照葉樹が増えると日当たりが悪くなり、消え去る。そして最後には極相とよばれる、植物遷移の最終段階の「シラカシの林」となるわけである(『雑木林の四季;足田輝一(平凡社カラー選書)』)尾根道を進み公園の西端近くに。恩田川によって開かれた谷筋が下に見える。散策路を歩き、南口に。台地を下り、西に進むと恩田川にあたる。

恩田川

尾根道を進み公園の西端近くに。恩田川によって開かれた谷筋が下に見える。散策路を歩き、南口に。台地を下り、西に進むと恩田川にあたる。
恩田川。町田市の七国山、というか今井谷戸あたりが源流。長津田の北で奈良川と合流。横浜線・中山駅の西、中原街道・落合橋あたりで鶴見川に合流する。いつだったか、源流点・今井谷戸あたりを歩いた。谷戸とはいうものの、鎌倉街道などの主要車道が交差しており、とてものこと、谷戸とか里山の面影など感じられなかった。川を遡れば、それなりの開析谷の景観が見えるか、はたまた、新百合丘で見たような強烈な宅地化が待ち受けているのか、ともあれ、源流点・今井谷戸に向かって歩きはじめる。

今井谷戸交差点
恩田川の川筋には自転車歩行者専用道路が整備されている。南大谷中、南大谷小脇を進む。小田急線と交差。桜橋、大谷一号橋、本町田団地を過ぎると稲荷坂橋。その先で鶴川街道と交差する。鶴川街道を少し西に行けば菅原神社。少し進むと恩田川はふたつに分かれる。西に向かえば町田街道・滝の沢。このあたりも恩田川の源流のひとつ。北に進む。里山の景観もなければ、インパクトのある宅地が広がることもない。
少し歩くと、また恩田川がふたつに分かれる。西に進み川筋は、鎌倉街道のすぐ西にある町田木曽住宅あたりまで続いている。鎌倉街道に沿って北に進む。日向山公園、本町田小学校を越える。川筋は消え、親水公園といった人工水路になる。今井谷戸交差点の東を鎌倉街道のあたりまで川筋を探す。結局人工の水路しか見当たらなかった。で、源流点チェックはこのあたりで終わりとする。結局、里山の景観もなければ、インパクトのある宅地が広がることもなかった。

木曽団地交差点
今井谷戸交差点を離れ、境川を越えて相模の国に進む。鎌倉街道に沿って南に下る。鎌倉街道、といっても車の多い幹線道路。先ほど恩田川に沿って上った道を戻る感じ。今井谷戸から西に進む道筋もあったのだが、なんとなく上りとなっていたので敬遠した、次第。この鎌倉街道は、南に道なりに進むと鶴川街道に合流。そこを鶴川街道に乗り換えれば町田の駅近くに達する。が、今回は町田ではなく、なんとなく、西に進みたい、と思った。
木曽団地交差点で鎌倉街道を離れ、西に折れる。少し歩くと町田木曽団地の前に調整池。人工の調整池、というよりも、湿地帯をそのまま残している雰囲気。地図をみれば、恩田川の支流水路が、このあたりまで続いている。昔は恩田川の水源のひとつ、だったのではないか、と。

境川
道は上りが続く。多摩丘陵を越え、境川に向かって「下る」というイメージとは真逆の地形。いつ、下りになるのだろう?しばらくすすむと「町田街道」に。交差点を越えると、心持ち下る道筋。しかし前方には丘の高まりが見える。あれ?一体どうなっているのか?少々混乱。少し進むと境川。武蔵と相模の境となる川筋。昔は相模川の一支流、であったよう。堺川を越えると、丘に向かっての上り坂。横浜線・古淵駅は、坂を上りきったところにあった。さっぱり訳がわからなくなってしまった。多摩丘陵をグンと下り、境川へと、と思っていたのが、今井谷戸、というか恩田川から先は、下りというより、ずっと上り、といった地形であった。
電車に乗る。窓から地形を見る。が、線路の東に台地の高まりは見えない。平坦な台地上を走る。多摩丘陵の高まりが遠くに見えたのは、相模原だったか、橋本だったか、ともあれ、結構北に走ってからであった。
家に帰って地形図でチェック。城山湖(本沢湖)付近を源流とする境川は多摩丘陵下に沿って下っている。おおよそ桜美林大学のあるあたりまで。その先で、堺川は丘陵下を離れ、南東に相模原台地を下っている。で、多摩丘陵の西端のラインだが、相原駅>多摩境駅>桜美林大学>恩田川流路、を結んだ線。当初恩田川は、多摩丘陵の中の開析谷を流れている、と思い込んでいたのだが、どうも、恩田川って、多摩丘陵の西端下を流れる川であった、ようだ。
思うに勘違いの主因は、本日歩いた成瀬台、であり、長津田のある台地にあったように思う。地形図を見ると、成瀬台は多摩丘陵が西に突き出た舌状台地。そして相模台地面を隔てて長津田の丘陵地が広がっていた。多摩丘陵散歩の仕上げとして、多摩丘陵を相模台地に下る、といったイメージを描いていたのだが、「かしの木山自然公園」を恩田川に向かって下った段階で、多摩丘陵を下り相模台地に入っていた、ということ、であった。ともあれ、一見落着、である。

火曜日, 10月 30, 2007

鶴見系水系散歩;後北条氏の防御ラインの城址を辿る

後北条氏の防御ライン:鶴川の沢山城址から中山の榎下城址に
(2008年10月2回に分けて掲載)

先日来、数回に渡って多摩丘陵の南端、というか東南端を歩いた。きっかけは川崎市麻生区にある新百合丘という小田急線の駅。なんとなく、この名前に惹かれ、「戯れに」はじめた多摩丘陵南部の散歩であった。が、これが思いのほか魅力的な散歩となった。丘陵や開析谷といった地形の面白さ、古墳から中世城址といった歴史的史跡、里山そして尾根道といった心地よい散歩道などにフックがかかり、結局、幾度か足を運ぶことになった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

この散歩でカバーしたところは、川崎市の宮前区・多摩区・中原区、そして横浜市の青葉区・都築区といった地域である。勢いに任せて多摩丘陵の南端を越え、下末吉台地・鶴見にまで足を運ぶことになった。で、気がつけば、あと「ひと山」、というか「ひと丘」を越えれば多摩丘陵の西端、である。ついでのこと、というわけでもないのだが、どうせのことなら、多摩丘陵の西部一帯を歩き、多摩丘陵を西に越えようと思う。丘の向こうは相模原台地。境川という、文字通り武蔵の国境を流れる川を越えれば相模の国、である。
多摩丘陵西部の地形図をつくりチェックする。奈良川とか恩田川によって開かれた谷地が見て取れる。そこには、かならずや美しい里山・谷戸が残っているのであろう。はてさて、どこからはじめるか。取り付く島として、『多摩丘陵の古城址;田中祥彦(有峰書店新社)』を眺める。と、小田急線・鶴川駅近くに沢山城跡がある。駅近くには鶴見川が流れる。南に下って、横浜線・中山駅近くに榎下城がある。その間は奈良川、そして恩田川で繋がる。更に恩田川下れば鶴見川に合流。少し下った新横浜駅近くには有名な小机城跡もある。いすれも小田原北条氏の出城である。ということでコース決定。鶴見川水系に並ぶ北条氏の城跡を訪ねることにした。


本日のルート;小田急線・鶴川駅>鶴見川交差>(岡上地区)>(三輪町)>高蔵寺>**古墳群>沢谷戸自然公園>熊野神社>沢山城址>三輪中央公園前交差点>鶴川緑山交差点>三輪さくら通り交差点>子どもの国西口交差点>(奈良町)>住吉神社前交差点>な奈良川交差>徳恩寺>子ノ辺神社>鍛冶谷公園(遊水地)>(あかね台)>東急車輛工場>恩田駅>中恩田橋交差点>田奈小交差点>恩田川・浅山橋交差点>(長津田2丁目)>長津田駅>国道246号線・下長津田交差点>いぶき野中央交差点>東名高速交差>環状4号・十日市場交差点>三保団地入口>榎下城址・奮城寺>JR横浜線交差>円光寺>恩田川>杉山神社>横浜商科大学キャンパス入口>東名高速交差>梅が丘交差点>藤が丘小下交差点>田園都市線・藤が丘駅

小田急線鶴川駅

鶴川駅で下車。駅前は予想に反して、のんびりとした雰囲気。とはいうものの、一日の乗降客は7万人程度いるようで、小田急線の駅の中でも、十位台。結構大きな駅である。で、いつものことながら、鶴川の由来が気になった。チェックする。明治の頃に付近の8つの村(大蔵、広袴、真光寺、能ケ谷、三輪、金井、野津田、小野路)が集まり旧鶴川村ができた、とある。が、もとの村には鶴川という村は、ない。はてさて、地図を見る。鶴川駅近くを鶴見川が流れている。ということで、鶴川は鶴見川の短縮形、とか。ちなみに

、鶴(つる)って、「水流(つる)」=水路、から。鶴見は、つる+み(廻)=水路のあるところ、ということ。ついでのことながら、鶴川駅のある町田市能ケ谷であるが、これは紀州の「尚ケ谷」から神蔵・夏目・鈴木・森氏がこの地に移りすんだ、から。「尚ケ谷」が、後に「直ケ谷」、そして「能ケ谷」となった、ということ、らしい。

鶴見川
駅の南口に出る。駅前は未だ再開発されておらず、素朴なる趣き。鶴川は鶴見川により開かれた谷地である。四方は丘陵によって囲まれている。駅を南に少し下ると鶴見川。町田市北部、多摩市に境を接する緑豊かな小山田地区に源をもち、真光寺川、麻生川、真福寺川、黒須田川、大場川、恩田川、鳥山川、早渕川、矢上川の水を集め、鶴見で東京湾に注ぐ。それぞれの川 については、じっくり歩いたり、ちょっとかすったりと、その濃淡はあれど、川沿いの風景が少々記憶に残る。水源の湧水の池もなかなかよかった。ともあれ、睦橋を渡り、南に進む。南前方に丘陵が見える。目指す沢山城跡は、その丘の上。

岡上神社
丘に上り、岡上地区に。地形通りの地名。岡の上を鶴川街道が走る。岡上駐在所前交差点を少し南に歩き、岡上神社に立ち寄る。剣神社、諏訪神社、日枝山王神社、宝殿稲荷社、開戸(開土)稲荷社の五社を集め、岡上神社とした。明治42年のことである。 まことに岡の上にある。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)








高蔵寺
岡上駐在所前交差点に戻り 東に進む。沢山城跡、といっても地図に載っているわけでもない。目印は高蔵寺。鶴川街道より一筋東の台地に進む。わりと大きい道路道に出る。道が丘を下る手前あたりに高蔵寺があった。

三輪の里
沢山城跡を求め、お寺の脇を高みに向かって東に進む。案内もなにもない。沢山城は荻野さんという個人の所有物、という。個人の好意で保存して頂いているわけで、案内などないのは、当たり前といえば当たり前。道を進むと荻野さんの表札。道の南にみえ

る緑の高地が城跡なのだろう。ちなみに、このあたりの地名・三輪の由来であるが、元応年間(14世紀初頭)大和国城上郡三輪の里より、斎藤・矢部・荻野氏がこの地に移り住んだことによる。沢山城跡を護ってくれている荻野さんは、その子孫なのだろう。
白坂横穴古墳群
道を進む。が、北に入る道は見当たらない。成行きで進む。道は下りとなる。崖面 に古墳跡。多摩丘陵でよく見た横穴古墳。白坂横穴古墳群、と。案内;「この土地は、むかし沢山城(後北条時代における重要な出城の一つ)のあったところで、白坂は「城坂」の意であるともいわれます。この白坂には古くから横穴古墳が十基ちかく開口しており、未開口のものを含めると十数基になります。昭和三十四年にそのうちの二基を発掘しましたが、内部には五センチから十センチぐらいの川原石が敷きつめられており、数体の遺骨、須恵器などが発見され、これらの横穴は七世紀ごろにつくられたものと推定されました。この地域は多摩丘陵のなかでも横穴群の集中しているところですが、白坂横穴群は最も充実しているものの一つであると考えられます」、と。

沢谷戸自然公園

道を進む。どんどん下ってゆく。谷は深い。峠道を下る、といった趣き。とりあえず先に進む。どこが城跡への道筋がさっぱりわからない。結局谷地まで下りてしまった。谷地は「沢谷戸自然公園」として整備されている。昔は鶴見川河畔に繋がる谷戸ではあったのだろうが、現在は古の面影は何も無い。調整池として使われているような運動場、というか多目的広場が目に入る。小さい池にかかる木造の散策路を進む。北の台地上が城跡なのだろうが、上りの道はなし。西端まで進む。昔は谷戸の最奥部だったのだろう。現在では台地に上る階段が整備されている。とりあえず台地に上る。

沢山城址
台地上は結構大きな車道。先ほど歩いた高蔵寺前を通る道筋である。道を北に戻ると熊野神社。少し先に東に入る細路がある。とりあえず入って見る。先に進むと畑地に当たる。畦道といった風情の踏み分け道を進むと杉林の中に。更に進むと神社の祠

。七面社。このあたりが城跡、櫓があったところと言われる。『新編武蔵風土記稿』;三輪村、「七面堂」の項:「今その地を見るにそこばくの平地あり、東より南へ廻りては険阻にして、
西北の方は塀平地続きたり、そこには掘りあととおぼしき所見ゆ、且此辺城山などと云う名あれば、かたがた古塁のあとなるべし」、と。七面社のあたりをぶらぶら歩く。空堀に囲まれた郭っぽい雰囲気が残る。
この沢山城は戦国盛期(16世紀中頃)、後北条氏により築城ないしは改修されたもののようだが、詳しいことは分かっていない。北条氏照印判状には、「馬を悉く三輪城(沢山城)に集めて、筑前(大石筑前守)の部下の指示に従い、御城米を小田原古城に輸送するよう」とある。氏照は八王子城の城主なのだから、この城が八王子城の支配下にあり、小机城・榎下城などとフォーメーションを組んだ後北条氏の防御ラインであったのではあろう。実際、東南小机城からの道は沢山城北端の白坂(城坂)に続いていた、とのことである。
城跡への道筋がわからず、結局台地を一巡したわけだが、なるほど結構攻め難い立地のように思える。台地の北側下は鶴見川が西から東へと流れており、往古は低湿地であったの、だろう。鶴見川は外堀の役割を果たしていたものでもあろう。城の両側には細長い支谷が食い込んでいる。特に東側の谷は城の南、現在の沢谷戸自然公園のところまで入り込んでおり、台地上との比高差40mもある。台地全体が城域であったのだろう
し、要害の地にある、城であったのだろう。ちなみに城址への道は、道路側からのアプローチだけでなく、高蔵寺側の道からのものもあった。荻野さん宅の西側から進むが、案内はないので、見過ごした。

椙山神社
お を離れ台地東端に。鶴見川の低地を見ながら坂をくだる。途中に結構大きな社。椙山神社。神社のある山、というか岡が、奈良の三輪山に似ているため勧請された、との説もある。創建877年のことである。椙山神社って、19世紀のはじめ頃、武相に70余社ほどあった、とか。鶴見川、帷子川、大岡川水系で、多摩川の西の地域だけ、とはいうものの、現在の旭区にはなにもない、といった誠にローカルな神様。杉山神社が歴史に
登場するのは平安の頃、9世紀中頃。『続日本後記』に「武蔵国都筑郡の枌(杉)山神社が霊
験あるをもって官弊に預かった」、とか、「これまで位の無かった武蔵国の枌(杉)山名神が従五位下を授かった」とある。また10世紀の始めの『延喜式』に、都筑郡唯一の式内社とある、当時最も有力な神社であったのだろう。が、本社はどこ?御祭神は誰、といったことはなにもわかっていない。ちなみにほとんどが杉山で、椙山と表記するのはこの社、だけ。

西谷戸
椙山神社を離れ、台地下の低地を歩く。谷戸の風景が美しい。谷地を隔てて南に立つ丘陵地をまっすぐ進めば「寺家ふるさと村」に出る。のどかな里山の風情が思い出される。そのまま真っすぐ進みたい、といった気持ちを押さえ、鶴川街道方面に。途中に広慶寺。車道から続く参道の両側に羅漢さまが並ぶ。その先、台地に上る坂の手前に西谷戸横穴墓群。古墳時代後期の古墳。坂を上り切ると一転し、新興住宅街。瀟洒な住宅地が開発されている。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


こどもの国

鶴見川グリーンセンターに沿って進むと、道は「こどもの国」の北端に当たる。突き当りを西に折れ、三輪さくら通り公園をぐるっと迂回し南に折れる。「こどもの国」の敷地に沿って進む。あまり人も通ることが少ないのか、少々ごみっぽい。「こどもの国」の外周道路としては、少々興ざめである。道を下ると鶴川街道・こどもの国西側交差点に合流する。
こどもの国、って昔は子供を連れて幾度か来た。少々懐かしい。東京都町田市と横浜市青葉区が境を接するこの丘陵地は戦前・戦中には弾薬庫があった。田奈弾薬庫。正式には「東京陸軍兵器補給廠田奈部隊」という。薬莢に火薬を装填した弾丸を製造・保管していた、と。散歩の都度、陸軍の施設跡に出会うことが多い。大体は公共機関・施設となっている。逆に言えば、病院・大学などが密集しているところは大体陸軍施設・ 

用地跡と考えてもいいかもしれない。典型的な場所は、世田谷の三軒茶屋の南一帯、北区の赤羽台、松戸の駅前台地上、といったところが思い浮かぶ。ともあれ、軍事施設が現在では公共施設・こどもの国となった、ということだ。

奈良町
鶴川街道を南に下る。このあたりの住所は横浜市青葉区奈良町。由来はよくわからないが、鶴川の三輪町が、大和の国・三輪の里から移り住んだ人たちが、この地の景観が三輪山に似ている、ということに由来する。とすれば、この奈良町も、大和の奈良に由来するのか。はたまたは、『吾妻鏡』にこのあたりの御家人として登場する奈良氏に由来するのか、はてさて、どちらでありましょう。道に沿って流れる川は奈良川。TBS緑山スタジオ裏手、玉川学園裏手あたりを源とする鶴見川の支流。水源のひとつでもある、本山池(奈良池)といった源流域には「土橋谷戸」「西谷戸」といった緑地が残る、という。いつだたか奈良川の源流域を歩いたことがある。それなりの風景ではありました。

住吉神社

道を進む。「こどもの国線・こどもの国駅」を越えると住吉神社前交差点。住吉神社は交差点東、多摩丘陵南端の上にある。標高はおよそ60m。豊かな緑に惹かれて台地をのぼる。神社は、徳川三代将軍家光の時代に、領主・石丸石見守が大阪の住吉神社から勧請したもの。石丸石見守は大阪の東町奉行を歴任。名奉行であった、げな。
住吉神社は全国に2000余りある、という。住吉三神は「底筒之男神、中筒之男神、上筒之男神。で、「筒」とは星のこと。航海の守り神。ちなみに、読みは、古くは「墨江・住吉」と書いて「すみのえ」と読んだ、と(『神社の由来がわかる小事典;三橋健(PHP新書)』)

中恩田橋交差点

交差点を越え南に進む。恩田地区に「子の辺神社」。名前に惹かれてちょっと寄ることに。奈良川を徳恩寺あたりで西に折れ、台地の際を少し進むと、台地の中ほどに小さい祠。由来などは書いていない。神社でUターン。台地南に鍛冶谷公園。調整池といった雰囲気。このあたりは昔、谷戸であったのだろう。東に進み、こどもの国線・恩田駅に。駅の南には東急の車両工場。付近に橋はない。もと来たところに戻り、奈良川を渡る。南に下ると成瀬街道・中恩田橋交差点。成瀬街道って町田市の本町田から川崎市川崎区南町まで走る県道・140号線。この地の西の台地が成瀬台。その地名に由来するのだろう。ちなみに、成瀬の名前は、町田あたりを治めた横山党の武将・鳴瀬某に由来するとか、恩田川の流れの音=鳴る瀬>成瀬となったとか、例によってあれこれ。

恩田川

この交差点で鶴川街道を離れ、奈良川に沿って南に下る。樋の口橋を過ぎ、日影橋のところで恩田川に合流する。恩田川の源流を地図でチェック。町田市本町田の今井谷戸交差点付近のようだ。いつだったか、鎌倉古道を辿り、町田の七国山とか薬師池公園などを歩いたとき、今井谷戸交差点付近に足を運んだことがある。そのときは東に進み、台地に上り、鶴川街道から玉川学園へと進んだわけだが、南に鎌倉街道を進むと恩田川の源流点あたりに出会えた、ということだろう。恩田とは日陰の田圃という意味であるようだ。
長津田駅
鶴見川と恩田川の合流点から南の台地に上る。恩田川段丘崖。どうも長津田駅って、台地上にあるようだ。長津田3丁目、4丁目と進み長津田駅に。田園都市線・JR横浜線、こどもの国線が集まる。昔より、矢倉沢往還=大山街道、と横浜道が交差する交通の要衝。大山街道の宿場町でもあり、道脇に大山街道の常夜灯が残る。長津田はまた、横浜開港後は、八王子で集められた上州・信州・甲州の絹を輸送する中継地として発展。JR横浜線も、もともとは生糸を横浜に運ぶため明治41年につくられた、とか。ちなみに、長津田の地名の由来は、長い谷津田が続く地形から来た、とされる。谷津田とは谷津にある田=湿原。長津田を通る大山街道に沿って延々と湿原=田が続いていたのであろう。


十日市場

長津田駅を北口から南口に抜ける。JR横浜線に沿って成行きで進む。下長津田交差点で国道246号線・厚木街道を渡る。横浜線に沿って大きな道ができている。いぶき野中央交差点を越え、東名高速下をくぐり、十日市場交差点で環状4号線と交差。十日市場って名前は古そうだが、道の周辺は宅地開発され、宝袋交差点あたりで、横浜線と最接近。台地下の眺めが美しい。恩田川が開いた谷と、そこにひろがる水田、そしてその向こうに見える台地の高まり。なかなかの眺めである。

榎下城跡

新治小入口交差点を越え、恩田川の支流を跨ぎ、三保団地入口交差点に。交差点を西に折れ、道の南にある台地に向かう。榎下城跡は、この台地の上・舊城寺の敷地内。田圃だったか、畑だったか、いづれにしても農地の中の道を進み台地を上ると境内に着く。山門のあたりが虎口。本堂裏手の少し小高くなっているあたりに主郭があった、とか。
この城は室町初期、上杉憲清によってつくられた。その子憲直は鎌倉公方・足利持氏に仕える。で、永享の乱の勃発。室町幕府と鎌倉公方の軋轢。鎌倉公方・持氏と管領・上杉憲実の対立、である。持氏敗れる。榎下城主・上杉憲直は持氏と運命を共にする。その後この城は山内上杉家の所領となった、とか。その後、廃城となるも、戦国時代となり、小田原北条氏が小机城、沢山城とともに江戸城の太田道潅への押さえとして修築。現在の遺

構はその当時のものである。城は、それほど高い台地でもない。南から北へとゆるやかに下る台地の端である。要害性には欠けるが、荏田城をへて府中に至る鎌倉道中の渡河地点を押える役割を果たしたのではないか、といわれている。

田園都市線・藤が丘駅
城跡を離れる。予定ではここから恩田川を5キロ弱下り、小机城へ、と考えていた。が、日が暮れてきた。小机城自体は一度歩いたこともある、ということで予定変更。最寄りの駅に戻ることに。恩田川の向こうに見える台地の上に田園都市線・藤が丘駅がある。先ほど眺めた美しい風景の方向である。即ルート決定。


台地を下り、鶴川街道・恩田川支流との交差点まで戻る。横浜線のガード下をくぐるとすぐに円光寺。畑の中の道を進む。恩田川に交差。橋を渡り、再び畑の中を進み台地下の車道に。道を北にとり極楽寺、杉山神社前を少し進むと横浜商大みどりキャンパスへの入口。台地の上り道を進み、大学脇の道を進むと東名高速にあたる。丁度港北パーキングエリアのところ。台地を一度下り、東名高速のガード下をくぐり、再び台地に向かって上る。梅ヶ丘交差点、藤が丘小交差点を越え、しばらく進むと田園都市線・藤が丘駅に到着。本日の予定はこれで終了。
散歩の後から気がついたのだが、今日歩いた道筋って、昔の鎌倉街道。鎌倉街道中ツ道と上ツ道をつなぐ。中ツ道の通る中山と上ツ道の道筋である鶴川方面を結んでいるわけだ。鶴川に城があった理由も、ちょっとわかった。「いざ鎌倉」の早馬がこの道筋を駆け巡ったのであろう。





小机城から篠原城に
前回の散歩では鶴川からはじめ、中山にある榎下城跡まで下った。今回は、中山からスタートし、恩田川・鶴見川筋を下り小机城を経て、新横浜駅近くにある篠原城へと進む。おおよそ8キロ程度の散歩である。縄文海進期の地形をで言えば、多摩丘陵が海と接する海岸線を小机まで進み、そこからは「海・小机湾」の中にある新横浜へ「泳いでいく」、といったもの。戦国期に想いをはせると、中山の東に広がる恩田川・鶴見川流域は一面の低湿地帯。中山の榎下城も、小机の小机城も低湿地に突き出した舌状台地の先端に位置する。小田原北条の前線基地として、東からの敵に備えていたのではあろう。さてと、往古の地形を思い浮かべながら散歩に出かける。


本日のルート:横浜線・中山駅>大蔵寺・長泉寺>落合川・鶴見川合流点>鴨居>小机城>多目的遊水池>亀甲橋>新横浜駅>篠原城跡

横浜線・中山駅
渋谷から田園都市線で長津田。そこで横浜線に乗り換え中山駅に。先日の散歩で、この中山にある榎下城を訪ねた。この城は、鶴川の沢山城、小机の小机城とともに小田原北条の前線基地。東の地、江戸城から攻め寄せる太田道灌に備えた。とはいうものの、中山はどうみたところで、それほどの要害の地といった風情は、ない。なにゆえ中山の地、かと少々気になりチェックした。で、結論としては、この地が交通の要衝であった、ということ。

鎌倉街道中ノ道。鎌倉街道上ノ道、山ノ道などとともに「いざ鎌倉」への道。鎌倉から二子玉川、板橋、川口、栗橋、古河、小山を経て宇都宮から白河の関へと進むのが「中ノ道」。この中ノ道が中山を通る。北鎌倉の勢揃橋(水堰橋)を出た道筋は、柏尾川と並走し、東戸塚を越え相鉄線・鶴ケ峯駅あたりで二俣川を渡り、この中山に。中山からは恩田川を渡り川和、江田、宮前平、溝口をへて二子玉川を渡り、板橋へと上っていく。鎌倉武士の鏡・畠山重忠が討ち死にしたのは中山から鎌倉街道中ツ道を4キロ弱南に下った二俣川。源頼朝の奥州征伐の道筋も、この中山を通り川和、江田を経て二子ノ渡しに進んだとされる。幾多の武将がこの中山の地を駆け抜けたことであろう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

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大蔵寺・長泉寺
中山駅の近くには由緒ある寺も点在する。駅を挟んで東には大蔵寺。鎌倉武士・相原一族の菩提寺。頼朝の菩提をとむらう。相模原には「相原」の地名が残る。西には長泉寺。木食僧・観正が開く。木食僧とは米穀を断って木の実を食べて修業する僧のこと。江戸期の文化・文政のころ流行した。観正の他、木食僧としては徳本などのが知られる。ちなみに、木喰像で知られる木喰五行上人とは別人。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
長泉寺の隣、というか同じ敷地には杉山神社。神仏習合の名残であろう。それにしても、この近辺には杉山神社が多い。杉山神社もそうだが、散歩をしていると「地域限定」の神様に時に出合う。元荒川流域の久伊豆神社、古利根川流域の鷲宮神社など。もう少し広い地域でみると、荒川の西を祭祀圏とする氷川神社、東の香取神社なども、ある。
杉山神社は武蔵国総社に勧請された六所宮のひとつ。社格の高い神社ではあったのだろうが、実態はよくわかっていない。本社の場所も特定されていない。ともあれ、7、8世紀の頃、この神様を「氏神」とする集団が鶴見川などを伝ってこの地域に進出。しかし、なんらかの理由でその先に進む歩みを止め、この地域にとどまった、ということではあろう。ちなみに、このあたり、少し小高い丘となっているのだが、そのことが地名「中山」の由来、とか。

落合川・鶴見川合流点

長泉寺を離れ、中原街道・宮の下交差点を北に折れる。横浜線を越えると鶴見川にかかる落合橋に。橋の少し上流が恩田川と鶴見川の「落ち合う」ところ。鶴見川は多摩丘陵、小山田の里の湧水を水源とし、鶴見で東京湾に注ぐ43キロ弱の川。恩田川は町田市本町田の今井谷戸の北あたりを水源とする13キロ程度の川、である。
いつだったか、それぞれの水源を訪ねたことがある。鶴見川の水源は小田急線・唐木田駅の南、尾根道幹線の通る尾根道を南に下った美しい里山の中。豊かな湧水池があった。一方恩田川の水源である今井谷戸は、なるほど「谷戸」といった地形の名残は留めるものの、交通量の多い交差点となっていた。特段の水源は見あたらなかった。
『都市と水;高橋裕(岩波書店)』によれば、落合川を含めた鶴見川水系って、戦後の宅地化が最も激しかったところ、と言う。実際、麻生川にそった新百合ケ丘あたりを歩いたとき、その宅地開発の激しさには少々驚いた。耕して天に至る、ではないけれど、全山すべて住宅といった有様。事情は恩田川上流域もまったく同じであった。鶴見川全流域では55年までに流域の10%しか宅地化していなかったが、75年には60%、85年には75%が市街地化された、と(『都市と水;高橋裕(岩波書店)』より)。
鶴見川って言えば、一昔前まで、「洪水氾濫」の代名詞と行った印象がある。鶴見川は昔は海であった沖積低地を蛇行して流れているわけで、ただでさえ洪水に見舞われやすい。そのうえ、上流の激しい宅地開発。本来ならば土地に吸い込まれていた水が、舗装され、行き場をなくし、すべて川に合わされ下流に流れ込む。で、自然環境、社会環境が相まって、鶴見川は治水の難しい川の一つになっていた、と(『都市と水;高橋裕(岩波書店)』より)。鶴見川は、75年から実施された全国14河川の総合治水対策の先駆的役割を果たしたとのことである。下流に進むにつれ、治水事業の有様など散見できるであろう。
鴨居

落合橋より、鶴見川に沿って堤を歩く。川の東側には近代的な工場群が続く。横浜線が川筋に近づく。2キロ強進むと鴨居駅。この駅の鶴見川東岸も近代的工場群が見える。鴨居の地名の由来は、カムイ=神が居る、とか、文字通り近くに鴨場があった、とか例によって諸説あり。そういえば、障子などの上部の横木を「鴨居」と言う。対する物として、足下の横木を「敷居」と言う。「鳥居」などの表現もある。鴨居も敷居も、鳥居の横木からのアナロジー、とも言われる。で、鳥が居たので「鳥居」、ということで、鴨がいたので鴨居、鴫(シギ)がいたのでシギイ>敷居、ということにした、との説も。
新川向橋手前で、JR横浜線が川筋に急接近する。台地の崖と川の間を走り抜ける。このあたりは洪水で水位が警戒水位に達するたびに、運転見合わせとなっていた、とか。新横浜近くにある日産スタジアム周辺での多目的遊水が整備される、状況は大幅に改善された。
小机城
川 向橋より先は川沿いの道が切れる。前方に第三京浜の高架。その道筋により南北に分断された山が小机城の城山。川沿いの道を離れ、高架下を進み小机の町に。東にはUFOっぽい形をしたサッカー競技場・日産スタジアムが聳える。台地の緑を眺めながら山裾を道なりに歩く。なかなか城山への上り道が見つからない。局台地をぐるっと廻り、台地の南側、JR横浜線が城山トンネルから出てくる辺りまで歩く。民家の脇に「市民の森」への案内。民家の間の細路を上ると、城 山への入口。
竹林の道を上る。ほどなく本丸広場。野球場となっている。深さ10mほどの空堀が本丸の廻りに残る。二の丸曲輪に進む。井楼櫓には土塁が残る。有名な城の割には、それほど大きくない。第三京浜によって分断されてしまったためだろう、か。つい最近旧東海道を歩き箱根越えをしたとき、箱根峠から三島に下る途中の山中に山中城を訪ねた。その規模の壮大さを思うにつけ、小机は少々つつましい。
この城、有名な城ではあるが、はじまりはよくわかっていない。15世紀中頃の永享の乱の頃、関東管領上杉氏によって造られた、ともされる。永享の乱って、鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉家が相争った戦乱のことである。小机城が歴史に登場してくるのは15世紀も後半の頃。関東管領山内上杉氏の家宰職の相続を巡り、長尾景春が寄居・鉢形城で挙兵。武蔵五十子城の上杉の居城を攻める。関東を戦乱・混乱の巷に陥れた長尾景春の乱のはじまりだ。石神井城主・豊島泰経が長尾景春に呼応。扇谷上杉氏の家宰・太田道灌と江古田・沼袋で戦う。道灌の勝利。豊島泰経は武蔵平塚城(JR山手線上中里近く)を経て、小机城に敗走。道灌追撃。で、この地で豊島一族を助ける小机弾正、矢野兵庫らとともに、2ヶ月におよぶ合戦。道灌の勝利。その後、小田原北条氏の城となる。猛将で有名な北条氏綱の重臣である笠原信為などの城として、秀吉の小田原征伐による北条氏の滅亡まで続く。江戸期は廃城。

多目的遊水池

小机城を離れ、鶴見川へと向かう。横浜線の小机駅の南にはお寺が点在。雲松寺は俳優内野聖陽さんの実家、とか。今回はパス。畑越しに小机の城山をみやりながら交通量の多い車道へと。新矢之根の交差点あたりで鶴見川の傍に。川幅が異様に広く、川床には野球場や運動広場が見える。いかにも遊水池、といった雰囲気。鶴見川に面した堤防の一部が低いのは越流堤。洪水時にここから鶴見川の水を遊水池に流入させる。で、洪水がされば排水門から鶴見川に水を戻す。実際2004年の台風22号のとききは、この湧水池が一面の湖となった、とか。
多目的遊水池は鶴見川方面だけではない。車道の南に広がる新横浜公園、日産スタジアム、病院などの敷地全体が遊水池。洪水時のため、スタジアムや病院の床は高床式となっており、また、平時には駐車場となっている1階も、増水時には遊水池に変身す

る、という。

亀甲橋

道を進み、新横浜公園交差点に。鶴見川にかかる橋は亀ノ甲橋。橋の向こうに
見える小高い山、というか台地が亀ノ甲山であろう。亀ノ甲山は豊島泰経を追撃し、この地に攻め寄せた太田道灌が陣を張ったところ、という。道灌が部下を勇気づけるために詠った「小机はまづ手習ひのはじめにて いろはにほへと ちりぢりになる」は有名。小さな机で習字をはじめるこどもは、いろはにほへと、あたりまではちゃんと書けるが、その後はむちゃくちゃになる。子供相手の戦くらい簡単に勝てる、といった意味、か。

新横浜駅
少し道を進み、労災病院交差点に。ここで道を南に折れ新横浜駅方面に向かう。すぐ鳥山大橋。鳥山川にかかる。地図で源流を辿ると保土ヶ谷の横浜国立大学、羽沢農地あたりまで続いている。橋を道に沿って真っすぐ進めば新横浜駅につく。いまでこそビルが建ち並ぶ一帯となっているが、縄文時代まで遡れば、このあたりは海の中。もう少し上流にある川和町あたりが鶴見川の河口とする入り江。先ほど歩いた小机や新横浜駅の南の篠原地区の台地がかろうじて陸地。入り江を挟んで北の日吉、東の末吉が小高い台地として存在していた、とか。
時代が下って、江戸の頃でも、湿地と田畑が点在する一帯。勾配の緩やかな低地であるため、川の流れが蛇行し頻繁に流路を帰る。洪水時の水はけが悪い。そのうえ、満潮時には新羽橋あたりまで潮が上ってきた、言う。この状況が改善されたのはそれほど昔のことではないようだ。昭和の頃も一面の田畑。その地を買い占めたのが西武グループの堤次郎。で、新幹線の路線地として国鉄に転売し巨大な利益を得る。ちなみに、新大阪駅前一帯も西武グループが買い占めていた、と。やれやれ、といったことを想いながらビル街を抜け、駅をと降り抜け次の目的地・篠原城跡に進む。山道といった風情の坂道を台地上に。
篠原城跡
新横浜駅の南に出る。駅のすぐ近くまで台地が迫る。それにしても、北側の再開発と比較して、民家が軒を連ねる南側のコントラストは激しい。道路も狭く、対向できないところも見受けられた。いかなる事情によるものなのだろう。チェックすると、市と住民や地権者との対立があるようだ。とはいものの、北の再開発にまつわる、土地買収の歴史などを思うと、事情はわからないが、対立があったとしても、それほど違和感は感じない。


篠原城跡を探す。正覚院の裏山あたり。寺の南側の坂を上る。台地上まで進も、裏山には辿り着けない。
元の道に坂を下り、今度は寺の北にある細路を台地に上る。城跡への入口を探しながら台地上の道を進む。民家が軒を連ねる。案内も何もないのだが、なんとなく台地最上部の緑に向かう細路に折れる。民家の間の細路を上る。民家と畑の間に上部に進む道が続く。民家の敷地のような雰囲気で、なんとなく気後れするのだが、ともあれ先に。右手のブッシュは市有地の案内があり、フェンスで囲われている。空堀跡っぽい気がする。先に進む。最上部で行き止まり。城跡といえば城跡なのだろうが、素人には郭がどれかなどわかるはずも、ない。
篠原城。別名、金子城。小机城の支城としてつくられた、とか。戦国期は小田原北条氏の家臣である金子出雲守の居城。金子氏って、武蔵七党・村山党の流れ。埼玉の入間に本拠地があった。金子十郎の旧跡を訪ねて金子丘陵を歩いた事が思い出される。北条滅亡後、金子一族は菊名一帯に土着した、とか。
鶴川からはじめた鶴見川水系・小田原北条の出城巡りもこれにておしまい。新横浜から一路家路に。

日曜日, 9月 16, 2007

秩父 秩父往還を辿る ; 釜伏峠越え

寄居から釜伏峠を越え、日本水源流点に
釜伏峠を越えた。過日、秩父往還を実感しようと川越道・粥新田峠を歩いたのだが、釜伏峠も秩父往還・熊谷道。そのうち歩いてみようと思っていた。

で、先日、寄居散歩のとき、県道294号線脇に「釜伏峠」そして「名水日本水源流点」の案内を見つけた。秩父往還への強き思いもさることながら、川とか源流点とか清水、というだけで嬉しくなる我が身としては、はやる気持ちを抑えがたし、といった按配であった。



本日のルート;東武東上線・寄居駅>関所跡>釜山神社>奥の院から日本水源流地点>日本水源流点>日本(やまと)の里>秩父鉄道・波久礼(はぐれ)の駅>少林寺

東武東上線・寄居駅

土曜日。9時起床。ちょっと遅いかとも思いながら釜伏峠行きを決める。池袋より東部東上線小川町行き急行に乗る。急行とはいいながら、川越から各駅停車。小川町で寄居行きに乗り換え。到着したのがお昼過ぎ、であった。 秋山・釜伏峠への分岐点 駅前の観光案内所でパンフレットを手に入れる。が、釜伏峠方面の地図はしっかりしたものがない。仕方なし。駅前から県道294号線・登山口への分岐までタクシーを利用。3キロ以上もあるし、先回歩いた道筋でもあるので、カットしようと思った次第。タクシーで鉢形城公園脇を走り、秋山の釜伏峠への分岐点に。ここから峠に向かって上ることになる。登山道、とはいいながら、この道は車道。峠に上る車も結構走っている。
中間平
曲がりくねった道を上っていく。およそ2.5キロ程度進むと「中間平」。別方向から中間平に登ってくる道がある。これって、本来の熊谷道かもしれない。あれこれ調べてみると、熊谷道って、現在の八高線が荒川を渡るあたりに「渡し」があり、そのあたりからこの中間平に向かっていたようだ。
中間平には緑地公園もある。公園には行かず、展望台で小休止。車やバイクで登ってきた人達も幾人かいた。寄居の町が眼下に。車山、荒川にかかる正喜橋などが見える。素晴らしい展望である。 少し休み、釜伏峠へと進む。およそ2.7キロ、と。「中間平」とはよく言ったものである。勾配も心持ちきつくなった、よう。峠から降りてくる車も結構多い。途中、「ポピーの花、咲いてました?」などとドライバーに聞かれたりする。まったくもって、花を愛でる情感が少々乏しい我が身には、何のことやらさっぱりわからず。

関所跡
少々汗をかきかき峠へと進む。途中「関所跡」。説明によれば、この関所は他の関所とは役割が違ったようだ。通常関所って、「入り鉄砲 出女」の監視といったものである。が、ここは険路であるこの釜伏峠を上る旅人・巡礼者を助けるためのものであった、よう。関所を越えてしばらく進むと釜伏峠に。
釜伏峠
峠道には車が多い。粥新田峠近くから、「ふれあい牧場・秩父高原牧場」、二本木峠を経て尾根道を進む県道361号線が釜伏峠に続いている。また、国道140号線のバイバス・皆野長瀞ICあたりから三沢川を上り、芳ノ入からこの峠に登る車道、それと、秩父鉄道・波久礼方面から風布地区を通りこの峠に上る道、この三つの車道がこの釜伏峠で合流している。
道路が交差するところにある道案内をチェック。大雑把な道案内であり、はてさて、日本水(やまとみず)へのルートがよくわからない。釜山神社が近くにあるようで、その近くに日本水源流点があるようで、といった、心もとない案内図。EZナビで「日本水 寄居」で検索。ヒット。ナビをたよりに歩を進める。

釜山神社
歩き始めると、すぐそばにいかにも神社らしき雰囲気の空間。釜山神社って、もっと道からはなれた山に入らなければ、と思っていたので、予想外の展開。ナビを切り、神社参道に。
釜山神社の起こりは不明。伝説によると、紀元504年、第九代開花天皇の皇子が武蔵を巡幸したとき、この地で国家安康を祈った、とか、紀元770年頃、日本武尊がこの地に立ち寄り、神に供する粥を釜でたき、その釜を伏せて祈った。ために、釜伏山であり、釜山神社である、と。別の説もある。この山の形が釜を伏せたように見えるから、とも。
神社の狛犬はここでは山犬というか狼。これって、秩父の三峰神社の流れ、か。火災除け・盗難除けに効能あり、とするのも三峰神社に同じ。
それにしても秩父には日本武尊の話が多い。先般の粥新田もしかり。また粥新田峠からこの釜伏峠の途中にある二本木峠は、日本武尊が地面に突き刺した箸が木になったから、と。秩父と日本武尊の関係をそのうちに調べてみよう、と思う。

奥の院から日本水源流地点
お参りを済ませ本殿脇を見ると「奥の院から日本水源流地点」への案内図。車道を通る道ではなく、山道コースのよう。本殿のペンキ塗りをしていた地元の方に道を尋ねる。「先に進みT字路を右に行けばいい」、と。途中に、「ハイキングスタイル必須」といった案内。軽く考えたのが大間違い。
山頂に向かってどんどん登る。結構な岩場。予想外の展開。グングン、上に上にと引っ張られる。痛めた膝にこれでもか、といった負荷がかかる。結局奥の院って、山頂に鎮座していた。石の祠、であった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

急峻な下り道

奥の院・山頂から先はまさしく急降下、といった急峻な下り道。岩場に鎖やロープがある。とんでもないところに来たものだ、と少々弱気に。釜山神社に寄り道せず、車道を下っておれば、などと考えながら、とりあえず直滑降で下る。しばらく悪戦苦闘の後、「日本水源流点へ40m」の案内。ほっと一安心。

日本水源流点へ40m
案内板をチェック。岩盤崩落の危険あり、と、立ち入り禁止のお知らせ。釜山神社の日本水への案内板に、それらしきことが書いてあった。が、それは、日本水へ向かうルートに通行禁止のところがある、といった程度にしか読めなかった。ここに来て「不可」とは殺生。それも40m先に目的地がある、という。

日本水源流点
少し悩んだ。が、結局どういう状態かちょっと入ってみよう、ということにした。危険であれば即引き返す、といことで進む。日本水の源流点はすぐ着いた。百畳敷岩とよばれる垂直に切り立った巨大な岸壁。その間から流れ出している水をペットボトルに入れ、即撤収。

尾根道ルートを下ることに
元に戻る。案内板をチェック。道は2ルート。日本水源流点を経て下に下る。これが、逆に言えば車道から入ってくるルートなのだろう。それと、尾根道を下るルート。どちらにしようか、と少々悩む。結局尾根道ルートにしたわけだが、これがなんともはや、といったルートであった。

道に迷う
尾根道ルートには途中、風布だったか、どこだったか、ともあれ里まで750mといった案内があった。それを目安に道を下る。次第に道がわかりにくくなる。が、なんとか先に道は続く。しばらく進むと道筋が全くわからなくなった。ここで引き返すか、もっとよく道筋を調べればよかったのだが、なんとかなるだろう、と力まかせで下に進む。
杉の木立に赤いリボンが結ばれている。どう見ても、道などないのだが、リボンを目安に下ればなんとかなるかと思い、とりあえず進む。次第に状況は悪くなる。リボンも見当たらなくなった。勾配もきつくなる。斜度45度以上と思えるほどの急峻な山肌をころびつつ、まろびつつ「落ちる」。少々パニック。
状況はますます悪くなる。先に進もうにも木立、ブッシュが前を遮る。木立を折り、ブッシュを掻き分け進む。どうなることやら。気持ちは焦る。ひょっとしたら、にっちもさっちも、いかなくなる、との怖れ。が、先に進むしか術はなし。 直滑降で真下に進む。先は谷地。行き止まり。谷があれば川があろうと、谷筋に沿って川下に向かう。木立を掻き分け、ブッシュをなぎ倒し、とりあえず先に進む。気持ちが焦る。何度転んだかわからない。秩父で遭難って洒落にならん、と思えども、携帯も繋がらないし、こんなところで人が迷っているなど、誰も思わないだろうし、家族にはどこに行くとも言っていないし、どうしたもんだ、と、頭の中はパニック状態。
里が見えた
と、下のほう、木立の間に、すこし屋根のようなものが見えた。実際は屋根でもなんでもなかったのだが、力任せにそこに向かう。突然、里が見えた。木立を折り、なんとか里に出る。汗びっしょり。言葉が出ないほど消耗。畑のむこうに車道が見える。あとからわかったのだが、国道140号線バイパス寄居・風布IC入口付近。寄居で一度トンネルに入ったバイパスは、この地で一度開け、再びトンネルに入る。バイパスのトンネルの上で悪戦苦闘をしていたのであろう、か。


里に下りる
それにしても、ほんとうにこの尾根道って、登山ルートであったのだろう、か。案内にはそのように書いてはあったと思うのだが、この道は絶対道に迷う。実際、HPなどでルートをチェックしてみると、「地図をもっていなければ迷う」といったコメントもあった。そんなところを案内するのは如何なものであろうか。ともあれ、自然に手を合わせる。神仏にマジ感謝。
ほとんど呆けた状態でフラフラ歩く。しばらく歩くと少し大きな車道。この道は、釜伏峠から下る道。本来であればこの道を下ってきたのだろう。釜山神社に寄り道しなければ、この道を楽しく下ってきた、はず。が、今となってはあとの祭り。

日本(やまと)の里

このあたりは「日本(やまと)の里」、と。日本武尊との由来があるのだろう。が、当面、何を見る気力もなし。しばらく進むと休憩所。食事ができる。実も世もないといった状態でお店に。うどんを注文。人心地ついた。うどんがおいしかった。腰がある。秩父うどん、って、あなどれない。
また、ここに田舎饅頭があった。ゆっくり、じっくり休み、気持ちを鎮め、お土産に饅頭を買い求め店を出る。お店で茶飲み話をしていた地元のおばあさんに、遭難するところでしたよ、などと笑いながらも少々の同感を求め訴えるも、一笑に付される、のみ。なにが嬉しくて、また、なにが悲しくて、薮の中を歩き廻るのか、私達にはわからない、といった顔つきでありました。

釜伏川を下り、秩父鉄道・波久礼(はぐれ)の駅
休憩を終え、川に沿って下る。風布川かと思っていたのだが、釜伏川であった、よう。2キロ弱歩き荒川にかかる寄居橋に。川の流れはない。玉淀ダムの貯水池となっている。秩父鉄道・波久礼(はぐれ)の駅は近い。よっぽどこのまま電車に飛び乗り家に帰ろうか、とも思ったのだが、最後の締めは、五百羅漢の少林寺としようと、もうひと頑張り。橋の袂から2キロ弱、といったところ。








少林寺
国道140号線を進む。車の通行量すこぶる多し。歩道がはっきり分かれているといったところが、あったり、なかったり。その都度、少々怖い思いをする。しばらく進むと、国道から離れる。一安心。末野地区を進む。

山間に進むと少林寺。本堂自体はそれほど大きくはない。このお寺に来たのは、五百羅漢さまに会いたいため。境内のどこに、と探す。本堂脇から裏手も山にのぼる道が。
山道を進むと道脇に石つくりの仏様。荒削りの小さな羅漢、道にそって絶えることなく続く。九十九折れの山道を羅漢様のお顔を見ながら進む。夕暮れとなり、日蔭の道は薄暗く、どうとも、思わず手を合わせてしまう。本日の遭難寸前といった状況に対し、思わず知らずご加護を感謝する、といった思い。それほど信心深いわけではないのだけれども、まかり間違えば、といった状況から運良く、ほんとうに運がよかったということであるのだが、その幸運に対して大いに感謝する。

五百羅漢さま

道端の羅漢像は山頂まで続く。円良田湖とか、鐘撞堂山へのルートもあるが、時間もないので本日はこのあたりで散歩を終える。それでも、先回の寄居散歩のとき少林寺の羅漢様を見ようと途中まで歩いたのだが、日没のため中止。少々心残りでもあったが、これで十分満足。本日の予定はこれで終了。
寄居の駅に向かって歩き、一路家路へと急ぐ。ともあれ、本日は結構危なかった。気をつけなければ、と。そして、せめては、どちら方面に行く、といったことは家族に伝えて出なければ、と反省しきり。





土曜日, 9月 15, 2007

秩父 秩父往還を辿る ; 粥新田峠を越え

秩父観音霊場34札所もすべて歩き終えた。最後の締め、というわけでもないのだが、秩父往還・川越道を歩き、一番札所に至る道筋を辿ろうと思った。江戸の人達が、どういう道筋、峠道を通り観音霊場を訪れるのか、実際に体験してみたい、と思ったわけだ。
 秩父往還には大きく分けて3つのルートがある。ひとつは吾野道。飯能から吾野、そして芦ヶ久保へと続く、現在の正丸峠を通る道。次いで、熊谷道。荒川が秩父盆地を離れ、武蔵の平野に入る辺りの寄居から、釜伏峠を経て秩父に入る道。
そして、今回歩いた川越道。小川町から山間の道を進み、粥新田峠を越えて秩父に入る。 川越道は江戸時代に最も多くの人が往還した道、と言う。また、この道がポピュラーになったため、川越道を下った栃谷の四萬部寺が一番札所となった、とか。それ以前は何番札所だったか忘れたが、江戸からはるばる歩いてきてくれたお客様に、どうせのことなら、一番札所から秩父観音霊場巡りを始めてもらおう、といった心配りであろう。江戸の人達と同じ風景を眺めながら、秩父観音霊場・一番札所へと歩を進めることにする。



本日のルート;東武東上線小川町>橋場バス停>粥新田峠>秩父高原牧場・彩の国ふれあい牧場>榛名神社>秩父往還・釜伏道に合流>曽根坂一里塚の阿弥陀塔>秩父観音霊場1番札所・四萬部寺


東武東上線小川町
東武東上線小川町に。駅前から白石車庫行・イーグルバスに乗る。川越に本社をもつこのバス会社は、もともとは企業や学校の送迎とか観光バスを中心に事業をおこなっていたが、路線バス事業に乗り出した、ということらしい。1時間に1本のサービス。電車が到着したのは、発車10分程度前。乗り遅れたら大変、ということで、街を見物することもなくバスに飛び乗る。 小川町をバスは進む。古い家並みがところどころに見え隠れする。県道11号線を進む。この県道は熊谷市から小川町をへて、定峰峠方面へと登る。峠からは栃谷の四萬部寺近くに下り秩父市に至る、およそ48キロの道。

橋場バス停
バスは進む。下古寺というか腰越地区のあたりで槻川が接近。この川は武蔵嵐山で嵐山渓谷に流れ込んでいた川筋である。山間の道を北西に進み、東秩父村役場を越え、落合橋で大内沢川を渡ると県道は南に下る。落合橋から1キロ弱進むと橋場バス停。峠道に最短のバス停はここであろう、と当たりをつけて下車。

峠道を進み栗和田集落に
バス停から西に上る車道がある。これが峠へと続く道であろう。峠道を進む。もっとも、峠道とはいっても完全舗装。車の往来も多い。走り屋には有難い道の、よう。しばらく進むと道脇にハイキング道の案内。これが旧道。車道を離れ森の中を進む。 杉林の山道を上る。林を抜け景色が開ける。大霧山であろうか、奥秩父というか外秩父というのか、ともあれ秩父の山並みが眼前に開ける。山並みを楽しみながらブッシュを進むと車道に出る。このあたりは栗和田集落。ハイキング道はおよそ500m程度であった。ワインディングロードを避けた直登ルートといったものであろう、か。

杉林の中を粥新田峠に
しばらく車道を進む。比較的農家が集まる栗和田地区のメーンストリートのあたり、左に入る道筋。「関東ふれあいの道」の案内。「粥新田峠」「皇鈴山CP」といった案内。CPって何だ?チェックポイントのことであった。 旧道を進む。農家が途切れるあたりから舗装もなくなる。杉林の中を進む。見晴らしはよろしくない。が、こういった道を昔の人々も歩いたのか、と思うだけで結構嬉しい。しばらく進むと舗装された林道に合流。粥新田峠に到着する。バス停からおよそ1時間で到着した。予想よりはやい展開であった。

粥新田峠
粥新田峠。「粥仁田峠」とも書かれる。坂上田村麻呂が蝦夷征伐の途中、この地でお粥を食べたとか、日本武尊が粥を食べたとか、名前の由来はあれこれ。標高は540mほど。秩父困民党が東京の鎮台軍と戦い敗れたところでもある。 峠の「あずま屋」でちょっと休憩。あずま屋脇には、大霧山への登山道。標高767mの山頂まで1時間程度、とか。大霧山から定峰峠へと抜けるルートが定番のようだ。少々惹かれはするのだが、本日は巡礼道巡り。奥秩父の山登りは別の機会とすべしと、はやる心を静める。

尾根道散歩
休憩のあと、尾根道をちょっと歩こう、と思った。当初、粥新田峠からは秩父、また小川方面・外秩父の眺望が楽しめる、と思っていたのだが、まったくもって見晴らしが利かない。南へのルートは大霧山への登山ルートであり、尾根道散歩といった雰囲気ではない。地図をチェックすると、北に「秩父高原牧場・彩の国ふれあい牧場」のマーク。北に向かって展望のいいところまで進むことにした。 峠からもと来た道を少しくだり、「二本木峠」「皇鈴山CP」の案内方向に進む。舗装道。ドライブを楽しむ人もときに見かける。しばらくは見晴らしよくない。が、少し歩き、牧場が近づくあたりから眺望が開ける。西は秩父の山並み、東は外秩父の山並み。山が深い。豊かな眺めである。

秩父高原牧場・彩の国ふれあい牧場
牧場のあたりから、三沢方面に下る道がある。その道を越え、500mほど北に進むと「秩父高原牧場・彩の国ふれあい牧場」。売店もある。実のところ、喉がカラカラであった。駅で買い求めた水をどこかで落とした。なんとか水を補給したいと少々焦っていたので一安心。 売店で水を買い、新鮮な牛乳を飲み、さらに食堂で「うどん」を食べる。これが、結構「こし」があり美味であった。お勧めである。眺望を楽しむ。大霧山の山麓、だと思うのだが、山肌がゴルフ場のように下刈りされているのは、牧場敷地であろう、か。 秩父高原牧場の敷地は広い。山稜の西の秩父郡皆野町三沢地区、東の東秩父郡坂本および皆谷地区にまたがり、二本木峠の北にある愛宕山から粥新田峠の南の大霧山稜線上に位置する。標高は270mから767m、広さは270ヘクタール、というから西武ドームの270倍にもなりという。

峠道を下る

少し休憩し、粥新田峠に戻り峠道を下ることにする。峠から100mほどはちょっとした登り。その後は、牧場脇の道をグングン下る。結構膝にくる。牧場用に保存している牧草地が美しい。それにしても秩父は山が深い。秩父市街まで幾重にも尾根が見える。秩父市街の眺望を遮るのは、蓑山であろう。標高587m。先日黒谷の和銅遺跡を訪ねたとき途中まで登った山地である。ちょっとした丘陵地程度と思っていたのだが、蓑山は結構な山容であった。

榛名神社
坂を下ると次第に人家が見えてくる。広町の家並み、か。南にいかにも武甲山といった山容の山。霞みがかかって見づらいのではあるが、武甲に間違いないだろう。途中に榛名神社。案内;室町時代の昔からこの粥新田峠は、秩父と関東平野を結ぶ主要な峠であった。この榛名神社はその中腹に祀られ、上州(群馬)榛名神社の本家とも、または姉君の宮ともいわれている。

秩父往還・釜伏道に合流
峯地区をとおり里に下りる。広町。川越道と熊谷道が分岐するこの地は、宿場町として賑わったようだ。県道82号線に合流。長瀞玉淀自然公園線と呼ばれるこの道は、昔の秩父往還・釜伏道。長瀞から、蓑山と外秩父の山々の間の谷筋、三沢川の谷筋を進み、栃谷を越えると西に折れ、大野原で国道140号線に合流する。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

曽根坂一里塚の阿弥陀塔
県道を南に進む。道の脇に「曽根坂一里塚の阿弥陀塔」。碑の中央に「南無阿弥陀仏」と刻んである。塔の左右に「みキハ大ミや」、「ひだり志まんぶ」と。右へ行くのが大宮(秩父市)道で、左が、四万部(札所一番)道、ということ。この阿弥陀塔は「道しるべ」でもありる。塔の建てられた年号は「元禄一五年」(1702)とある。江戸からの秩父巡礼の始まったのは、このころだった、とか。 道を進むと峠に差しかかる。蓑山からの稜線と外秩父の稜線が再接近するところ。湾曲した峠道を下ると秩父観音霊場1番札所・四萬部寺に到着。


秩父観音霊場1番札所・四萬部寺

山門をくぐり中へ入ると、正面奥に観音堂。元禄の頃の建築。いい雰囲気。寺伝によれば、昔、性空上人が弟子の幻通に、「秩父の里へ仏恩を施して人々を教化すべし」と。幻通はこの地で四萬部の佛典を読誦して経塚を建てた。四萬部寺の名前はこれに由来する。本尊の釈迦如来像が明治の末に、行方不明になったことがある。その後、70年をへて都内で発見され、現在この寺に収まっている、と。 本堂の右手に施食殿の額のかかったお堂。お施食とは、父母、水子等があの世で受けている苦しみを救うための法会。毎年、8月24日に、この堂で行われる四万部の施餓鬼は、関東三大施餓鬼のひとつと。大いに賑わう。ちなみにあとふたつは「さいたま市浦和の玉蔵院の施餓鬼」、「葛飾・永福寺のどじょう施餓鬼」。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


この四萬部寺、現在は一番札所である。が、昔は24番札所。札所番号が変わったのは時代状況の変化に即応した、というとことだろう。初期の札所1番は定林寺(現在17番)、2番松林寺(現在15番)、3番は今宮坊(現在14番)といった秩父市街からはじまっている。
その理由は、設立当初の秩父札所は秩父ローカルなものであったから、だろう。秩父在住の修験者を中心に、現在の秩父市・当時の大宮郷の人々のために作られたものであり、西国観音霊場巡礼や坂東観音霊場巡礼に、行けそうもない秩父の人々のためにできたから、であろう。
その後、江戸時代に、札所の番号は20番を除いてすべて変わってしまった。その理由は、秩父ローカルなものであった秩父観音霊場が、江戸の人をその主要な「お客様」に迎えることになったため、であろう。
豊かになった江戸の人たちがどんどん秩父にやってくるようになった。信仰と行楽をかねた距離としては、1週間もあれば十分なこの秩父は手ごろな宗教・観光エリアであったのだろう。秩父札所の水源は江戸百万に市民であった、とも言われる。
秩父にしっかりした檀家組織をもたない秩父観音霊場のお寺さまとしては、江戸からのお客様に頼ることになる。お客様第一主義としては、江戸からの往還に合わせて、その札番号を変えるのが、マーケティングとして意味有り、と考えたのであろう。
この栃谷の四萬部寺が1番となった理由を推論。江戸時代は「熊谷通り」と「川越通り(小川>東秩父>粥新田峠)」を通るルートが秩父往還の主流。で、このふたつの往還の交差するところがこの栃谷であったから。江戸からはるばる来たお客様に、どうせのことなら、1番札所から始めるほうが、気分がすっきりする、と考えたのではなかろうか。
栃谷からはじまり、2番真福寺を通り、山田>横瀬>大宮郷>寺尾>別所>久那>影森>荒川>小鹿野>吉田と巡る現在の札番となった理由はこういった、マーケティング戦略によるのではなかろう、か。我流類推のため、真偽の程定かならず。 粥新田峠を越え、秩父往還・川越道を秩父観音霊場一番札所に歩き、江戸の人たちの巡礼と言うか、行楽気分をちょっとシェアし、本日の散歩を終える。