月曜日, 11月 26, 2018

面河渓谷散歩 そのⅠ;晩秋の頃、石鎚北壁の深い谷、仁淀ブルーの源流・面河渓谷に遊ぶ

紅葉の見ごろは少し越えたであろうが、晩秋の11月13日、景勝面河渓谷を訪ねることにした。子供の頃、親父に連れられ家族で遊んで以来のことである。
田舎の新居浜から国道11号を走り、桜三里を抜けて松山へと下りはじめた川内辺りで国道を離れ、五十年も六十年も昔のうっすらとした記憶に残る鬱蒼とした山道を走り、記憶にはまったくなかった結構な峠(黒森峠)を越え走ること2時間強で面河渓へ。鬱蒼とした木々の中に続く滑床といった記憶の面河渓は、屹立する巨大な奇岩と仁淀ブルーの水、そして深い樹林といった渓谷の三大要素を兼ね備えた景勝ではあったが、記憶の中のそれとは少し違い、思いのほか空が開けた渓谷ではあった。

それはともあれ、左に右に斧で削られたような岸壁が対峙する景勝・関門の渓谷、巨大な一枚岩の大岸壁・亀腹やいくつもの奇岩、開けた河原に敷かれたような一枚岩とも見える白い河床。面河渓を形づくるこれら地形・地質を見るにつけ、渓谷形成のプロセスにフックがかかり、メモの段階でそれが石鎚火山活動に伴う陥没カルデラ形成時の「賜物」であることを知った。結果、散歩のメモも当初お気楽に紅見物でも、といったものから、少々付け焼刃ではあるが地質・地層面の視点を交えたものとなった。
また、面河散歩とは直接関係ないのだが、面河へのルート上で出合った黒森峠や面河ダムについてのメモも多くなってしまった。当日は何となく気になりながらも通り過ぎた黒森峠や面河ダムであるが、これもメモの段階で往昔の黒森峠越えの街道・黒森街道が登場したり、面河ダムが仁淀川水系の水を分嶺を超えて瀬戸内に水を流す利水計画の中心施設であったりと、「峠好き・水路好き」の身にはスルーできないものとなったからである。
結果、今回の面河散歩は面河への道すがらの「思いがけない出合い」と当初の目的であった面河渓散歩とふたつに分けてメモすることになった。最初は面河渓までのルート上で気になったことのメモからはじめる。

本日のルート;
■面河渓へ■
国道11号・河之内隧道>国道494号を黒森峠へ>黒森峠>面河ダム>妙谷川承水堰>割石川との合流点>県道12号に乗り換え>県道12号を進み面河渓へ

■面河渓へ■

国道11号・河之内隧道
田舎の新居浜市を出て国道11号を松山方面へと向かい西条市を越え、東温市に入る。中山川に沿って桜三里を進み、東流する中山川水系と西流する重信川水系を分ける根引峠の山稜を穿つ河之内隧道を抜ける。
昭和35年(1960)から昭和37年(1962)にかけて工事の行われた河之内隧道は付近に中央構造線が走っており、その破砕帯を避けるべくルート選定に注意を要したとのことである。
中央構造線
中央構造線とは九州から関東にかけ、日本列島を南北に分ける大断層のこと。その長さは1000キロにも及ぶ。断層とは「地下の地層もしくは岩盤に力が加わって割れ、割れた面に沿ってずれ動いて食い違いが生じた状態をいう(Wikipedia)」とある。
中央構造線ってよく聞く。専門的なことはよくわからないが、日本列島の形成のプロセスと併せて大雑把に説明すると;アジア大陸のプレート東端に日本列島の上部・北部ができる。そこに太平洋側のプレートに乗って日本列島の下部・南部が南から移動し始める。7000万年前頃、そのふたつがくっつき日本列島の原型ができた。この接合部を中央構造線と呼ぶ。
2500万年頃前にアジア大陸東端付近が割れ始め海溝部ができる。これが日本海の原型。1500万年前にその海溝部が拡大する。この日本海原型部の拡大に伴い、日本列島の西南部は時計方向、東北部は反時計方向に回転する。ためにその接合部は折れ曲がり大きく陥没した。これがフォッサマグナと称される大地溝帯である。フォッサマグナの西端は糸魚川・静岡構造線として知られる。
その後氷河期を経て、さらに氷河期の終了とともに海面が上がり日本海ができあがり、現在の日本列島が作られた。おおよそ18000年前のことという。
因みに糸魚川・静岡構造線のことをフォッサマグナと思い込んでおり、それがフォッサマグナ・大きな溝の西端であることを知ったのは、塩の道・千国越えのとき。散歩の記憶が蘇る。

河之内と川内
現在このあたりは東温市となっているが、それは平成の大合併(平成16年;2004)で重信町と合併しできたもの。我々愛媛の人間には温泉郡川内町のほうがなじみ深い。で、川内と河之内、これって結構似通っている。川内は河之内から?ちょっとした好奇心からチェックする。
河之内は、則之内(すのうち)、井内ともに三内村(みうちむら)の一部であった。三内はこの三地区がすべて「内」を記していたからである。その三内村が昭和30年(1955)、川上村と合併し温泉郡川内村となる。川上村の「川」と三内村の「内」を合わせ、「川内村」としたのだろう。自治体が合併する際によく見られる双方の地名の一部をとる命名法のように思える。
当初の類推は間違ってはいたが、行政地域名形成の典型的パターンが現れた。地名の由来は誠に面白い。因みに「東温」は温泉郡の東部から、とも言われる。

国道494号を黒森峠へ
河之内隧道を抜け、松山へと下りはじめてほどなく、国道11号から離れ国道494号に乗り換える。国道494号は表川が刻んだ谷筋の中を南に進む。道は昔の物資交易の名残を残すような地名・問屋の先、標高424m辺りで表川右岸に渡りヘアピン状に大きく曲がった後、等高線に抗うことなく緩やかな上りで山稜へと入る。
谷筋から山稜に入った道は、標高490m辺りで再び南に大きく曲がった後、幾つものヘアピンカーブを経て標高985mの黒森峠に至る。比高差560m程上ってきたことになる。思いもかけず結構上った。眼下に表川の谷筋、そしてその先に道後平野へと続く川内の平地が広がる。

黒森峠
上にもメモしたが、大昔に訪れた家族での面河車行の記憶からこの峠はすっぽり抜け落ちていた。こんな強烈な峠道を走った記憶は全く残っていない。
それはともあれ、峠フリークのわが身にフックが掛った。面河散歩から戻り、地図で見ると黒森峠から皿ケ嶺(標高1270m)へと続く稜線にはいくつもの峠が並ぶ。往昔、久万の山地と松山を隔てる、これら幾つもの山稜の峠を越える物資交易の道があったのだろう。それでは黒森峠は?とチェックする。
黒森街道
黒森街道(「えひめの記憶」)
黒森峠を越える交易路の歴史はそれほど古くない。この峠道は明治から昭和にかけて面河の木材を松山へと運ぶ交易路であったようだ。
「えひめの記憶:愛媛県生涯教育センター」によれば、「黒森峠は、久万高原町面河地区(旧面河村)と東温市川内地区(旧川内町)との境界にある標高985mの峠である。明治初年(1868年)ころ面河地区の渋草、笠方から黒森峠を越えて河之内、川上へ通じる黒森街道が開通した。
明治から大正、昭和初期まで、黒森街道は面河と松山方面を結ぶ重要なルートであり、面河から松山方面へ、松山方面から行商人や面河渓谷や石鎚登山に行く人々が行き来した。物資の流通でも重要なルートで、面河から木材や炭などの林産物が川上、横河原を経由して松山方面へ運ばれた。
昭和13年(1938年)に国道33号御三戸から関門の県道(面河線)開通により、次第に物資の輸送は国道33号を経由するように変わっていくが、人々の往来には黒森街道が利用された。しかし、昭和31年(1956年)県道黒森線(現国道494号)の開通によって黒森街道はその役目を終えた」とある。

明治に黒森峠を通る黒森街道が開ける以前の藩政時代(江戸時代)の交易路は黒森峠から皿ケ嶺へと続く稜線を少し南に進んだ割石峠を越えであったようだ。「えひめの記憶」には、割石峠を越えて河内村の問屋へと物資を運んだとある。そのルートは見つからなかったが、地図で見る限り面河側(平成16年;2004年に面河村は上浮穴郡久万高原町になる)の小網地区から割石峠に上り、峠から表川の源流部の谷筋へと下り問屋に向かったように思える。小網から峠までは等高線の間隔が比較的広く、そこを曲がり道で峠まで上り、そこから等高線の密な下りを一直線に、険しい下りを表川源流部へと向かったように思える(妄想)。
それでは明治に開かれた黒森街道のルートは?「えひめの記憶」によれば、小網から黒森峠までは、現在の国道494号のジグザグルートの上になり下になりと、比較的直線ルートで上る。峠から北は現在の国道筋とは異なり、北に延びる尾根筋を進み、ヘアピンカーブのあった標高490m付近で現在の国道494号の道筋をかすめた後、表川の谷筋に下りることなく、山稜をそのまま川内の音田にある金毘羅さん(松尾山金毘羅寺)の門前へと進んだようである(「えひめの記憶」)。車のことを考えなければ、自然に抗わぬルートとしてこのコースが最適ではあったのだろう。
現在の国道494号はそのベースは昭和31年(1956年)に開かれた県道黒森線(現国道494号)にある。平成5年(1993年)に国道に昇格し、国道494号となった当時は、国道にトンネルを抜くといった計画もあったようだが、現在のくねくね道をみる限り、その計画は頓挫したようである。

面河ダム
黒森峠を越えると道は割石川の谷筋に沿って小網、市口へと下る。小網は割石峠道と黒森街道が左右に分かれる地でもある。黒森峠から標高を200mほど下げた市口で眼前に面河ダム湖が広がる。
当日は、どこかで聞いたことがある名前だなあ、と思いながら通り過ぎたダム湖ではあるが、メモの段階でいつだったか歩いた金毘羅街道歩き丹原の利水散歩で出合った、分水嶺を跨いだ愛媛の利水計画の現場と繋がった。太平洋に注ぐ仁淀川水系の水を面河ダムに貯め、そこから分水嶺を跨ぎ(といっても導水トンネルを山塊に抜くわけだが)、瀬戸内に注ぐ中山川水系に落とし発電と共に、道前平野(西条市方面)・道後平野(松山市方面)に水を供給する利水計画がそれである。
分水嶺を跨いだ利水計画
道前道後利水計画(「西条市 水の歴史館」)
面河ダムで貯めた水は石鎚山塊下を抜いた導水路で滑川にある道前道後第二発電所に水を落とした後、さらに導水路で中山川にある道前道後第三発電所に水を落とし中山逆調整池に貯める。発電所や中山逆調整池は金毘羅街道散歩の折、源太桜を訪ねた時に出合った。
中山逆調整池に貯めた水はそこで道前平野側と道後平野側に分水されるわけだが、道前平野側は中山逆調整池で中山川に放水される。中山川を流下した水は、中山川取水堰で取水された後、両岸分水工で右岸幹線水路と左岸幹線水路に分水される。丹原利水散歩の折にであった中山川取水堰、両岸分水工が思い起こされる。
一方、道後平野側では逆調整池に設置されている千原取水塔より取水し、隧道(トンネル)を抜け、南北分水工で北部幹線水路と南部幹線水路にそれぞれ分水される。 中山川で出合ったこの分水嶺を跨いだ利水計画の核となるのがこの面河ダム。案内図で見たときは、四国山地のもっと山深きところにあるのだろうと思っていたのだが、思いもかけず面河渓への道すがら国道脇で出合った。結構嬉しい。

面河ダムの水
面河ダムの承水堰(「水土の礎 道前道後平野水利事業の紹介」)
昭和42年(1967)に仁淀川水系割石川建設された面河ダムの水は、割石川だけでなく仁淀川上流域にあるいくつかの支流に設けられた取水堰から地下を抜いた導水トンネルを通して供給される。支流に設けられる取水堰は11あるというが、代表的なものは坂瀬川の坂瀬川承水堰、妙谷川の妙谷川承水堰、そして面河川に設けられた面河第一、面河第二承水堰という。
面河渓を訪ねた下り、面河川にちらっと堰を見かけたのだが、当日はこのようなドラマの一端を担う堰とも知らず、お気楽に走り過ぎた。因みに、面河川で見かけた施設は面河第一承水堰のようだ。第二承水堰ははっきりしないが、国土地理院の2万五千分の一の地図を見ると面河渓で面河川に合流する鉄砲石川に堰らしきものが窺える。それが面河第二承水堰かもしれない。

妙谷川承水堰
道494号は市口からダム湖を離れダム湖左岸(北側)の山稜へと上る。山稜を越えた国道は妙谷川の谷筋に入る。因みに、往昔の黒森街道はダム湖右岸(南側)のほうを進んでいたようである。
山稜を越え妙谷河筋を走ると水路施設、水路橋らしきものがあった。当日は特に気にも留めず取りあえず写真を撮っただけではあったが、メモの段階で妙谷川承水堰のことを知り、国土地理院の2万五千分の一の地図に記された水路線と合わすと、なんとなく妙谷川承水堰の施設およびその水路橋のように思える(推定ではあるが)。

割石川との合流点
妙谷川の谷筋を下り、面河ダムから下る割石川本流との合流点に至る。往昔の黒森街道はここからダム湖左岸方面を進んだようであり、ダムの手前には、黒森街道建設に情熱を注いだ重見丈太郎(後の面河村長)氏が陸軍を動かし、大正9年(1920)、陸軍工兵隊がダイナマイトで開削した掘割跡があるようだが、当日は知る由もなく通り過ぎた。

県道12号に乗り換え
更に割石川を下る。土泥という面白い地名を経て渋草に。渋草は面河村役場のあったところ。さらに割石川に沿って下ると川口という如何にも河川が合わさる地名で割石川は面河川本流に合流する。国道は面河川に沿って西に下るが、面河渓への道はこの地で国道と分かれ東に向かう県道12号に乗り換えることになる。

県道12号を進み面河渓へ
国道から県道に乗り換える、とはいうものの、正確に言えば河口で西に向かう国道は県道12号との重複区間であり、県道12号は七鳥(仕七川)で国道494号を分けた後、面河川本流に沿って下り御三戸で国道33号にあたる。
それはそれとして、面河渓には河口から県道12号を東へと進み、河の子川が面河川に合流する栃原あたりで北東へと向きを変え、草原川が本流に合わさる若山を経て面河渓の入口である関門に到着する。

観光地としての面河渓の歴史と道路整備
今回、面河渓へのアプローチは、少々跡付けの感は否めないものの、往昔の面河村(正確には当時は杣川村。面河村が誕生したのは昭和9年;1934。それ以前は明治23年;1890に杣野村と大味川村が合併し杣川村が誕生した)への往還である、黒森峠を越える黒森街道方面からの車行であった。この場合の面河村への往還は生活路としてのものであり、観光としての面河渓谷への道ではない。面河が観光地として知られるようになり、観光に訪れるようになるのは大正も末のころであり、それも限られた一部の富裕層のものであったようだ。また面河渓を訪ねる道は、黒森峠ルートではなく運輸・道路整備が進んだ久万方面からのアプローチが主流となっていたように思える。
「えひめの記憶」に拠れば、大正8年(1919)には松山―久万間の定期バス(乗合自動車)の運行が始まり、大正13年(1924)頃には面河行き乗合自動車として七鳥(仕七川;現在の国道33号から県道12号に少し入った辺り)まで延び、昭和4年(1929年)には栃原までバスが入った、とある。
また道路の整備も昭和13年(1938)には県道が上述国道33号との合流点である御三戸から若山まで開通し、その直後には面河渓の玄関口である関門までバスの定期便も走った、とのことである。
景勝面河渓へのアプローチの主たるルートとなった久万側からの運輸・道路の整備は進むが、当時の面河は依然として一般観光客が気楽に訪ねることのできる観光地であったわけではないようだが、その状況が変わるのは昭和30年(1955)石鎚山が国定公園に指定されてから、とのこと。観光客の増加を見越し道路の整備が行われ、更に昭和45年、県道12号の延長ルートとして石鎚スカイライン開通に伴い道路が拡張整備され、多くの観光客が面河渓に訪れるようになった、と言う。

奥面河渓探勝略図(「面河山岳博物館」)
探索チームはその記事を新聞紙上に掲載し、結果徐々に面河が知られるようになった、と言う。とはいうものの、当時は面河への「足」の便がなく、上述大正後半になっても一部富裕層のみのではあったようだ。
面河山岳博物館主催の「これからの面河渓観光を考える講座」のパンフレットには、昭和2年制作の「奥面河渓探勝略図」 が掲載されていた。昭和2年大阪毎日新聞社と東京日日新聞社が鉄道省の後援を受け企画された「日本八景」への登録を目指し結成された「大面河宣伝会」により制作されたもの、と言う。昭和の新時代を代表するものとし て、全国の新聞読者からの投票により選定するという同企画への登録を目指し絵葉書セットとともに面河渓の宣伝告知を意図している。上述のごとく未だバス路線も開通していない面河渓の観光地としてのキャンペーン活動が昭和初期に既に始められれいるということだ。
これら先人の努力と上述の道路の整備やバス路線の開設など社会インフラ整備が相まって「景勝面河」のブランディングがつくられていったのだろう。

当日はそれとは知らず車で走り抜けた面河への道筋であるが、メモの段階であれこれ気になることが現れ、面河渓散歩のメモではありながら、面河到着までのメモが少々長くなった。面河渓散歩のメモは次回に廻す。

土曜日, 10月 13, 2018

見沼散歩 そのⅡ;見沼通船堀から赤山代官屋敷跡へ

見沼散歩の二回目。今回は見沼通船堀・八丁堤の西端からスタート。見沼代用水西縁を起点に芝川経由で見沼代用水東縁に。そこから上流・見沼公園に向かう。見沼田圃を先回とは逆方向から見れば、なんらか新たな発見が、といった心持ち。その後北向きの歩みを、どこかで適当に切り上げ、南に折り返す。歩くなり、または成り行き次第で電車に乗るなりして、最後の目的地伊奈氏の赤山代官跡に進もう、と。
赤山代官跡って、外環道路のすぐそば。一体全体、どういった雰囲気のところにあるのか、興味津々。伊奈氏は見沼溜井を作り上げた治水のスペシャリスト。玉川上水工事をはじめ、散歩の折々で顔を出す名代官の家系。先日たまたま読んだ新田二郎著『怒る富士』にも関東郡代・伊奈半左衛門が登場。宝永の大噴火で田畑を埋め尽くされた農民を救済すべく奮闘する姿が凛として美しかった。見沼散歩の仕上げとしては、伊奈氏でクロージングのが「美しかろう」とルートを決めた。
伊奈氏について、ちょっとまとめる。堀と堤は時代が異なる。先日の散歩メモの繰り返しにはなるのだが、頭の整理を再びしておく。

見沼のあたり一帯は、芝川の流れによってできた一面の沼というか低湿地。これを水田の灌漑用水として活用しようとつくったのが八丁堤。大宮台地と岩槻台地が最も接近するこの地、浦和の大間木と川口の木曽呂木の間、八丁というから、870mにわたって土手を築く。流れを堰き止め、灌漑用の溜井(たるい)としたわけだ。この工事責任者が伊奈氏。しかしながら、この溜井、灌漑用の池としては十分に機能しなかった、よう。全体に水量が乏しかったこと。また、溜井の北の地区には農業用水が供給されなかった。にもかかわらず、雨期にはそのあたりは洪水の被害に見舞われた、といった有様。見沼はこういった問題を抱えていた。
見沼溜井を干拓し水田に変える試みがはじまる。上でメモした諸問題があったこともさることながら、それ以上に、当時水田開発が幕府の大いなる政策課題となっていた。幕府財政逼迫のためである。で、米将軍とも呼ばれた八代将軍・吉宗の命により、水田開発の切り札として吉宗の故郷・紀州から呼び出されたのが、伊沢弥惣兵衛為永。見沼溜井の干拓に着手。まず、芝川の流路を復活させる。溜井の水を抜き溜井を干拓する。ついで、灌漑用水を確保するため、用水路を建設。はるか上流、利根川から水を導く。これが見沼代用水。見沼の「代わり」とするという意味で、「見沼代」用水、と。で、代用水を西と東に分流。新田の灌漑用水路とするため、である。これが見沼代用水西縁と見沼代用水東縁。この西縁と東縁を下流で結んだ運河のことを見沼通船堀、という。目的は、代用水路を活用した船運の整備。代用水路近辺の村々と江戸を結んだ、ということだ。



本日のルート:
武蔵野線・東浦和駅 > 見沼通船堀公園 > 見沼通船堀西縁 > 八丁堤 > 附島氷川女体神社 > 芝川 > 見沼通船掘東縁 > 木曽呂富士塚 > 見沼代用水東縁 > 武蔵野線 > 浦和くらしの博物館 > 大崎公園東 > 見沼代用水縁 > 国道46号線交差 > 東沼神社 > 川口自然公園 > 武蔵野線にそって東に > 東北道 > 北川口陸橋 > 石神配水場 > 妙延寺地蔵堂 > 外環交差 > 赤山陣屋跡 > 山王社 > 源長寺 > 新井宿

武蔵野線・東浦和駅

武蔵野線・東浦和駅下車。駅前の道を南に附島橋の方向に進む。すぐ東浦和駅前交差点。東に折れ、ゆるやかな坂道をほんの少しくだると水路にあたる。見沼代用水西縁。見沼通船堀公園の西縁でもある。公園の南縁は八丁堤の土手。土手の上には赤山街道が走る


見沼通船堀
通船堀を進む。土手道・八丁堤は堀の南に「聳える」。竹林が美しい。土手の向こうはどういった景色がひろがるのか、附島氷川女体神社に続く道筋をのぼる。赤山街道に。赤山街道、って関東郡代伊那氏が陣屋を構えた川口の赤山に向かう街道。年貢米を運んだ道筋、ってこと、か。赤山街道、とはいうものの、現在では車の行きかう普通の道路。道の南とは比高差あり。土手を築いたわけだから、あたりまえ、か。附島氷川女体神社におまいり。道路わきに、つつましく鎮座する。このあたり附島の地は先回歩いた氷川女体神社の社領があったところ。その関連で、この地に氷川女体神社が鎮座しているので、あろう。

再び通船堀に戻る。しばらく進むと、関がある。これって水位を調節し船を進めるためのもの。東西を走る代用水と中央を流れる芝川には3mもの水位差があった、ため。船が関に入る。前後を締め切る。水位を調節し、先に進む、といった段取り。ありていに言えば、パナマ運後の小型版。パナマ運河より2世紀も早くつくられた。日本最古の閘門式運河の面目躍如。こういった関が芝川に合流するまで二箇所あった。見沼代用水西縁から芝川まで654mほど。見沼通線堀西縁と呼ばれる。
芝川合流点。橋がない。一度赤山街道まで南に下り、といっても、どうという距離ではないのだが、芝川にかかる八丁橋を渡り、芝川の東側に。道に沿って進む。見沼代用水東縁まで390mほど。見沼通船堀東縁、と呼ばれる。その間に2箇所の関があった。西縁は竹林であったが、こちらは桜並木。あっという間に見沼代用水東縁に。

見沼用水東縁・富士塚

突き当たり正面に台地が聳える。なんとなく気になり、たまたま近くに佇む地元の方に尋ねる。富士塚とのこと。どんなものだろう、とちょっと寄り道。赤山街道に戻り、台地南を迂回して富士塚方面に。途中ありがたそうな蕎麦屋さん。あまり食に興味はなにのだが、なんとなく気になり立ち寄ることに。それにしても、このあたりの「木曽呂」って面白い地名。アイヌ語かなにかで、「一面の茅地」といった意味がある、とも言われる。が、定説なし。ちなみに。西縁の大間木の由来は、「牧」から。近くに大牧って地名もある。馬の放牧場があったのだろう、か。
しばし休息し富士塚に。蕎麦屋さんのすく横にあった。高さ5.4m、直径20m。「木曽呂の富士塚」と呼ばれ、国指定の重要有形民族文化財となっている。結構な高さのお山にのぼり、成り行きで見沼代用水への坂道を下る。

浦和くらしの博物館民家園


見沼用水東縁を北に。水路に沿ってしばらく進むと武蔵野線と交差。遠路を越えたあたりで水路からはなれ、「浦和くらしの博物館民家園」に寄り道。芝川と国道463号線が交差するところにある。道筋はなんとなく昔の見沼田圃の真ん中を進むといった感じ。とはいっても田圃があるわけでもなく、一面の草地。調整池をかねているようで、敷地内には入れない。フェンスにそって進む。下山口新田とか行衛(ぎょえ)といったところを進む。行衛って面白い地名。ところによっ ては、「いくえ」って読むところもあるが、ここでは「ぎょえ」。由来定かならず・
「浦和くらしの博物館民家園」に。なんらかこの地域に関する資料があるか、と訪ねたのだが、民家が保存されている公園といったものであった。先に進む。国道の北にある「グリーンセンター大崎」の東側にそって進む。園芸植物園を超えると水路にあたる。見沼代用水東縁。ここからは用水路に沿って南に戻る。 東沼神社
公園があった。大崎公園。先に進む。ちょっと大きな道を越え、どんどん進む。右手には広々とした風景。見沼田圃の風景である。どんどん進む。お寺を眺めながら湾曲する水路に沿って歩く。大きな神社。太鼓の音が聞こえる。その音に誘われ境内に。太鼓や神楽のイベントがおこなわれていた。この神社は東沼神社。結構大きなお宮様。もともとは浅間社。明治期にいくつかの神社を合祀して、東沼神社と。「とうしょう」神社と読む。

武蔵野線から女郎仏に

しばらく神楽の舞を楽しみ散歩に出発。先に進むと左手に公園。川口自然公園。その先に線路が見える。武蔵野線。赤山陣屋への道筋は、大雑把に言えば、武蔵野線に沿って東北道まで進み、その先は南に東京外環道まで下ればいけそう。武蔵野線に沿って残間の地を歩く。電車は台地の切り通しといった地形の中を進む。しばらく進む。東北道と交差する手前で南に折れる。高速道路に沿って下る。西通り橋を過ぎ、大通り橋を越え、北川口陸橋に。陸橋を渡り道路東側に。すぐ南に川筋が。見沼代用水からの水路のようだ。水路の南にはいかにも給水塔、といった建物。石神配水場であった。水路に沿って東に進み配水場を越える。南に下る車道。その道筋を進み、新町交差点に。交差点を東に折れる。少し進むと妙延寺。「女郎仏」がまつられている。昔、いきだおれになった美しい女性をこの地で供養したという。
女郎仏のそばで少々休憩。少し東に進み、すぐ南に折れる。道なりに南に進み、神根中学、神根東小学校脇に。今まで平坦だった地形がこのあたりちょっと、うねっている。学校の南には外環道の高架が見える。赤山陣屋はすぐ近く。外環道の下を南に渡り、落ち着いた住宅街を進む。新興住宅地といったものではなく、洗練された農村地帯の住宅街といった雰囲気。のんびり進むと森というか林がみえきた。地形も心持ち盛り上がっているように思える。微高台地というべきか。道筋から適当に緑地に向かう。赤山城跡に到着した。

赤山陣屋跡

赤山城跡、または赤山陣屋は代々関東郡代をつとめた伊奈氏が三代忠治から十代・忠尊までの163年間、館をかまえたところ。初代忠次は家康入府とともに伊奈町に伊奈陣屋を構えていた。当時は関東郡代という名称はなく、代官頭と呼ばれていた。関八州の天領(幕府直轄地)を治め、検地の実施、中山道その他の宿場の整備、加納備前堤といった築堤など、治水・土木・開墾等の事業に大きな功績を挙げる。常に民衆の立場にたった政治をおこない、治水はいうまでもなく、河川の改修、水田開発や産業発展に貢献。財政向上に貢献した。関東郡代と呼ばれたのは三代忠治から。関東の代官統括と河川修築などの民政に専管することとなる。治水や新田開発のほか、富士山噴火被災地の復旧などに力を尽くす。が、寛政年間、忠治から10代目にあたる忠尊の代に失脚。家臣団の内紛や相続争いなどが原因とか。
散歩のいたるところで、伊奈氏に出会った。川筋歩きが多いということもあり、ほとんどか治水、新田開発のスペシャリストとして登場する。玉川上水、利根川東遷事業、荒川の西遷事業、八丁堤・見沼溜井など枚挙にいとまなし。が、見沼散歩でちょっと混乱した。井沢弥惣兵衛である。はじめは、井沢氏って伊奈氏の配下かと思っていた。が、どうもそうではないようである。互いに治水のスペシャリスト。チェックする。
伊奈氏と伊沢氏はその自然へのアプローチに違いがあるようだ。伊奈氏は自然河川や湖沼を活用した灌漑様式をとる。伊奈流とか関東流と呼ばれる。自然に逆らわないといった手法。一方、見沼代用水をつくりあげた伊沢為永は自然をコントロールしようとする手法。堤防を築き、用水を組み上げる。紀州流と呼ばれた。
伊奈流の新田開発の典型例としては、葛西用水がある。流路から切り離された古利根川筋を用排水路として復活させる。上流の排水を下流の用水に使う「溜井」という循環システムは関東流(備前流)のモデルである。また、洪水処理も霞堤とか乗越堤、遊水地といった、河川を溢れさすことで洪水の勢いを制御するといった思想でおこなっている。こういった「自然に優しい工法」が関東流の特徴。しかし、それゆえに問題も。なかでも洪水の被害、そして乱流地帯が多くなり、新田開発には限界があった、と。
こういった関東流の手法に対し登場したのが、井沢弥惣兵衛為永を祖とする紀州流。八代将軍吉宗は地元の紀州から井沢弥惣兵衛為を呼び出し、新田開発を下命。関東平野の開発は紀州流に取って代わる。為永は乗越提や霞提を取り払う。それまで蛇行河川を堤防などで固定し、直線化する。ために、遊水池や河川の乱流地帯はなくなり、広大な新田が生まれることに。また、見沼代用水のケースのように、溜井を干拓し、用水を通すことにより新たな水田を増やしていく。用水と排水の分離方式を採用し、見沼代用水と葛西用水をつなぎ、巨大な水のネットワークを形成している。こうした水路はまた、舟運としても利用された。
とはいえ、伊奈氏の業績・評価が揺るぐことはないだろう。大水のたびに乱流する利根川と荒川を、三代六十年におよぶ大工事で現在の流路に瀬替。氾濫地帯だった広大な土地が開拓可能になる。1598年(慶長三年)に約六十六万石だった武蔵国の総石高は、百年ほどたった元禄年間には約百十六万石に増えた、と言う。民衆の信頼も厚く、ききんや一揆の解決に尽力。その姿は上でメモした『怒る富士』に詳しい。最後には、ねたみもあったのか、幕閣の反発も生み、1792年(寛政四年)、お家騒動を理由に取りつぶされた、と。とはいえ、素敵な一族であります。
赤山城は微高台地に築かれている。周囲は低湿地であった、とか。本丸、二の丸、出丸が設けられ自然低湿地を外堀としている。陣屋全体は広大。本丸と二の丸だけで東京ドームと後楽園遊園地を合わせたほどの規模となる。郡代とはいうものの、8千石を領する大名格。家臣も300名とか400名と言うわけで、むべなるかな。城跡を歩く、北のほうは林、中ほどはちょっとした庭園風。南は畑といった雰囲気。あてもなくブラブラ歩き、東に進み山王神社に。そこから赤山陣屋を離れ源長寺に向かう。
源長寺
源長寺。城跡で案内を見ていると、伊奈氏の菩提寺となっている、と。きちんとおまいりするに、しくはなし、と歩を進める。南に下る道を進み首都高速川口線と交差。赤山交差点。東に折れ、江川運動広場を越え、東に折れ、微高地に建つ源長寺に。いまでこそ、ちょっとした堂宇ではあるが、お寺の資料を見ると、明治のころには祠があっただけ、といったもの。伊奈氏の業績を考えれば少々寂しき思い。
新井宿
台地を下り、埼玉高速鉄道・新井宿に。このあたりは日光御成道が通っていた、と。日光御成道、って鎌倉街道中道がその原型。江戸時代に日光街道の脇往還として整備された、文字通り、将軍が日光参詣のときに利用された街道である。道筋は、東大近くの本郷追分で日光街道から離れ、幸手宿(埼玉県幸手市)で再び日光街道と合流する。宿場は、岩淵宿(東京都北区) 、川口宿(埼玉県川口市) 、鳩ヶ谷宿(埼玉県鳩ヶ谷市)、大門宿(埼玉県さいたま市緑区) 、岩槻宿(埼玉県さいたま市岩槻区) 、幸手宿(埼玉県幸手市)。新井宿とは、いかにもの名前。ではあるが、日光御成道に新井宿という宿場名は見当たらない。そのうちに調べてみよう、ということで、地下鉄に乗り家路へ と。

金曜日, 10月 12, 2018

見沼散歩 そのⅠ;大宮から見沼通船堀まで

見沼田圃を通船堀に
(2009年8月を移す)

見沼田圃 見沼田圃を歩こうと、思った。大宮台地の下に広がる、という。大都市さいたま市のすぐ横に、それほど大きな「田圃」があるのだろうか。ちょっと想像できない。が、先日の岩槻散歩の途中、大宮から乗り換えて東部野田線で岩槻に向かう途中、緑豊かな田園風景に接したような気もする。たぶんそのあたりだろう、と、あたりをつけて大宮に向かう。 
見沼と見沼田圃。沼と田圃?相反するものである。これって、どういうこと。それと見沼代用水。代用水って何だ?沼や田圃との関係は? 見沼というのは文字通り、沼である。昔、大宮台地の下には湿地が広がっていた。芝川の流れが水源であろう。その低湿地の下流に堤を築き、灌漑用の池というか沼にした。関東郡代・伊奈氏の事績である。
堤は八丁堤という。武蔵野線・東浦和駅あたりから西に八丁というから870m程度の堤を築いた。周囲は市街地なのか、畑地なのか、堤はどの程度の規模なのだろう、など気になる。その堤によって堰き止められた灌漑用の池・沼、溜井は広大なもので、南北14キロ、周囲42キロ、面積は12平方キロ。山中湖が6平方キロだから、その倍ほどもあった、と。 
見沼田圃とは水田である。見沼の水を抜き水田としたものである。伊奈氏がつくった「見沼」ではあるが、水量が十分でなく灌漑用水としては、いまひとつ使い勝手がよくなかった。また、雨期に水があふれるなどの問題もあった。そんな折、米将軍と呼ばれる吉宗の登場。新田開発に燃える吉宗はおのれが故郷・紀州から治水スペシャリスト・伊沢弥惣兵衛為永を呼び寄せる。為永は見沼の水を抜き、用水路をつくり、沼を水田とした。方法論は古河・狭島散歩のときに出合った飯沼の干拓と同じ。まずは中央に水抜きの水路をつくる。これはもともとここを流れていた芝川の流路を復活させることにより実現。つぎに上流からの流路を沼地の左右に分け、灌漑用水路とする。この水路を見沼代用水という。見沼の「代わり」の灌漑用水、ということだ。見沼代用水は上流、行田市・利根大橋で利根川から取水し、この地まで導水する。で、左右に分けた水路のことを、見沼代用水西縁であり、見沼代用水東縁、という。上尾市瓦葺あたりで東西に分岐する。


本日のルート:
JR 大宮駅 > けやき通り > (高鼻町) > 市立郷土資料館 > 氷川神社 > 県立博物館 > 盆栽町 > 見沼代用水西縁 > (土呂町・見沼町) > 市民の森 > 芝川 > 東武野田線 > 土呂町 > 見沼代用水西縁 > 寿能公園 > 大和田公園 > 大宮第二公園 > 鹿島橋 > 大宮第三公園 > 堀の内橋 > 稲荷橋 > 自治医大付属大宮医療センター > 大日堂 > 中川橋・芝川 > (中川) > 中山神社・中氷川神社 > 県道65号線 > 芝川 > 見沼代用水西縁 > 氷川女体神社 > 見沼氷川公園 > 見沼代用水西縁 > 新見沼大橋有料道路 > (見沼) > 芝川 > 念仏橋 > 武蔵野線 > 小松原学園運動公園 > 見沼通船掘 > JR 東浦和駅

大宮駅

散歩に出かける。埼京線で大宮下車。大宮といえば武蔵一之宮・氷川神社でしょう、ということで最初の目的地は氷川神社とする。とはいうものの、見沼関連でよく聞くキーワードに氷川女体神社がある。また八丁堤って名前は知ってはいるが、どこにあるのか、よくわかっていない。観光案内所を探す。駅の構内にあった。地図を手に入れ、それぞれの場所を確認。駅の近くに郷土資料館とか県立の博物館もあるようだ。見沼に関する資料もあろうかと、とりあえず郷土館に向かう。コースはそこで決めよう、ということにした。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)





郷土資料館
駅の東口に出る。道を東にすすみ「けやき通り」に。そこを北に折れる。この道筋は氷川神社の参道。中央の歩道を囲み左右に車道が走る。参道の長さも結構ある。一の鳥居からは2キロ程度ある、とか。参道をしばらく進むと道の脇、東側に図書館。市立郷土資料館はその隣にある。地下にある常設展示で見沼に関する情報を探す。見沼溜井というか、見沼たんぼの概要をまとめたコーナーがあった。さっと眺め、見沼代水路西縁とか、芝川とか、見沼代水路東縁、氷川女体神社、八丁堤・見沼通船堀、といったキーワードと場所を頭に入れる。また、展示してあった見沼の地図で、見沼の範囲を確認。形は「ウサギの顔と耳」といった形状。八丁堤のあたりでせき止められた溜井が「ウサギの顔」。西の大宮台地と東の岩槻台地、そしてその間に岩槻台地から樹皮状に伸びた台地によって左右に分けられた溜井の端が「ウサギの耳」。西は新幹線の少し北まで、東は東部野田線の北あたりまで延びている。
郷土資料館であたらしい情報入手。見沼を左右にわける大和田の台地にある「中川神社」がそれ。氷川神社と氷川女体神社とともに「氷川トリオ」を形成している。氷川神社が上氷川、中川神社が中氷川、氷川女体神社が下氷川。一直線に並んでいる、ということである。見沼に面して、氷川神社が「男体宮」、氷川女体が「女体宮」、そして中間の中川神社が「簸王子(ひのおうじ)宮」として、三社で一体となって氷川神社を形つくっていた、とか。簸王子社は大己貴命(大国主神)、男体社はその父の素戔鳴命、女体社には母の稲田姫命を祀る、って按配だ。で、いつだったか、狭山を散歩しているとき、所沢・下山口の地で、中氷川神社に出会った。その時チェックした限りでは、奥多摩の地に奥氷川神社があり、これもトリオとして、一直線に並び、奥多摩は「奥つ神」、所沢は「中つ神」、そして大宮は「前つ神」として氷川神社フォーメーションを形つくっていた、と。

 氷川神社
氷川神社
郷土資料館を後に、氷川神社に。武蔵一之宮にふさわしい堂々とした構え。氷川神社については折にふれてメモしているのだが簡単におさらい;氷川神社は出雲族の神様。出雲の斐川が名前の由来。武蔵の地に勢を張った出雲族の心の支えだったのだろう。昔、といっても大化の改新以前、この武蔵の地の豪族・国造(くにのみやつこ)の大半が出雲系であった、とか。うろ覚えだが、22の国のうち9カ国が出雲系であった、と。
その出雲族も、大化の改新を経て、大和朝廷がこの武蔵の地にも覇権を及ぼすに至り、次第にその勢力下に組み入れられて、いく。行田の散歩で出会った「さきたま古墳群」の主、中央朝廷の意を汲む笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が、先住の豪族小杵と小熊を抑えたのがその典型例であろう。小杵は朝廷から使わされた暗殺者によって「誅」された、と。
ともあれ、政治的にはその勢力を奪い取った大和朝廷ではあるが、さすがに出雲族の宗教心まで奪うことはできなかったようだ。利根川以西に広がる出雲系神社の数の多さをみてもそのことがわかる。 氷川神社は武蔵一之宮、と。が、多摩の聖蹟桜ヶ丘にある小野神社も武蔵一之宮と称する。武蔵国に二つも一之宮があるって、どういうことであろう。チェックした。
一之宮って正式なものではない。好き勝手に、「われこそ一ノ宮」と、称してもいい、ということ。もちろん、おのずと納得感が必要なわけで、いまはやりの、それらしき「説明責任」がなければならない。氷川神社は大宮の地に覇を唱えた出雲系氏族が、「ここが一番」と称したのだろう。また小野神社は府中に設けられた国府につとめる役人たちによって、「ここが一番」と主張されたのかも知れない。小野神社は武蔵守として赴任した小野氏の関係した神社であるので、当然といえば当然。また、先住の出雲系なにするものぞ、といった気持もあったのかしれない。


県立博物館
次の目的地は県立博物館。境内を北に進む。それにしても池が多い。湧水なのだろう、か。台地の上にあるだけに、水源が気になる。池に沿って進むと県立歴史と民俗の博物館。見沼の情報をさっと眺め休憩をとりながら、先の計画を練る。いままで得た情報から、出来る限り見沼の上流からスタートする。さすがに最上端・上尾まで行くわけにはいかない。新幹線ならぬ、JR宇都宮線近くの市民の森・見沼グリーンセンターに向かう。そこから芝川に沿って下り、岩槻台地の樹枝台地先端にある中山神社に。そのあと見沼に下り、今度は大宮台地の先端にある氷川女体神社に。そのあとは見沼田圃を南にくだり、八丁堤に進む、という段取りとした。


盆栽町
県立博物館を離れる。すぐ北に東武野田線・大宮公園駅。北に抜けると盆栽町。西には植竹町。盆栽との関連は、とチェック。大正末期、当時土呂村であったこの地に盆栽業者が移り住んだ。昭和15年に旧大宮市に編入される際、「盆栽町」とした。盆栽町から土呂町に進む。台地をくだる。土呂町というか見沼地区にある市民の森に。すぐ手前に水路。チェックすると「見沼代用水西縁」。水路に沿って下りたい、とは思えども、とりあえず当初の予定どおり、芝川に進むことにする。市民の森を過ぎるとすぐに芝川。

芝川
芝川の土手を南に下る。周りは水田、というより畑。西にちょっとした台地。東に大宮の台地。その間を芝川は流れる。博物館で見た資料によれば、八丁堤で堰き止められた溜井の水は、このあたりの少し上流、JR宇都宮線の少し上あたりまできていたようだ。芝川に沿って下る。東武野田線と交差。あら?道がない。川の西側の道は車道であり、交差している。が、こちらは行き止まり。線路に沿って西に戻る。結構長い。が、仕方なし。少し進むと見沼代用水西縁。その先に踏み切りがあった。

見沼代用水西縁
見沼代用水西縁

踏み切りを渡り、東に戻ると見沼代用水西縁。芝川まで戻るのをやめ、この水路を下ることにする。水路脇は遊歩道として整備されている。少し下ると水路東に大和田公園、市営球場、調整池、大宮第二公園が広がる。水路西は寿能町。西に坂をのぼった大宮北中学のあたりに寿能城。そして見沼を隔てた大和田の台地には伊達城(大和田陣屋)があった。これらの城は、川越夜戦により北条方に落ちた川越城への押さえとして築かれたもの。寿能城には潮田出羽守資忠。軍事的天才と称された太田三楽斉資正(道潅の子孫)の四男。伊達城主は太田家家老、伊達与兵衛房が守る。これらの城は、岩槻の太田三楽斉資正、とともに、軍事拠点をつくっていた、と。

中山神社・中氷川神社

鹿島橋に。ここからは水路の東は大宮第三公園となる。白山橋、堀の内橋、稲荷橋と進む。水路東に自治医大・大宮医療センター。芝川小学校を超え朝日橋に。水路を離れる。見沼を隔てた東の台地にある中川神社に向かう。東に折れ芝川にかかる中川橋に。中川橋で芝川を渡り、中川地区を進み中山神社に。中氷川神社と呼ばれた中川の鎮守。中山神社となったのは明治になってから。中氷川の由来は、先にメモしたように、見沼に面した高鼻(大宮氷川神社)、三室(氷川女体神社;浦和:現在の緑区)、そしてこの中川の地に氷川社があり、各々、男体宮、女体宮、簸王子宮を祀っていた。で、この神社が大宮氷川神社、氷川女体神社の中間に位置したところから中氷川、と。 この神社の祭礼である鎮火祭りは良く知られている。この地区の中川の名前は、この鎮火祭りの火によって、中氷川の「氷」が溶けて「中川」になった、とか。本当であれば、洒落ている。

さきほどのメモで見沼の格好が「うさぎの頭:顔と耳」と書いたが、正確には、この中山神社あたりまで延びている沼がある。大きい耳の間に、ちょっとおおきな角が生えてる、って格好。こうなれば兎ではないし、どちらかといえば、鹿の角というべきであろうが、ともあれ、沼が三つにわかれている格好。三つの沼があったので「みぬま>見沼」って説もある。真偽の程定かならず。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


氷川女体神社
氷川女体神社
次の目的地、氷川女体神社に向かう。県道65号線を下る。西には第二産業道路が走る。芝川の手前に首都高埼玉新都新線の入口があるよう、だ。芝川にかかる大道橋を渡るとすぐ見沼用水西縁にあたる。ここからは見沼用水西縁に沿って進む。北宿橋を越え、ここまで東に向かっていた水路が、大きく湾曲し、南に向かうところに氷川女体神社がある。 氷川女体神社。神社のある台地に登る。あれこれの資料や書籍に、「見沼を見下ろす台地先端にある」と表現されているこの神社の雰囲気を実感する。確かに前に一面に広がる沼に乗り出す先端部って雰囲気。しばし休息し、先に進む。これから先が見沼田圃の中心地(?)。敢えて兎というか、鹿で例えれば、「顔」の部分、ということか。
photo by Stanislaus


見沼田圃

氷川女体神社の前にある見沼氷川公園をぶらっと歩き、その後は見沼用水西縁を離れて、芝川に向かう。本日は予定に反してほとんど芝川脇を歩いていないので、なんとなく締めは芝川にしよう、と思った次第。成行きで東に進み芝川に。それほどきちんと整地されてはいない。土手を進む。周囲を眺める。「田圃」というより、畑地。低湿地であった雰囲気は残っている。見沼田圃を思い描きながら、しばらく下ると新見沼大橋有料道路と交差。下をくぐり進む。見沼地区を経て念仏橋を越え、大牧、蓮見新田、大間木を過ぎると武蔵野線と交差。



武蔵野線・東浦和駅

線路を過ぎると芝川を離れて西に向かう。小松原学園運動場の脇を南に下ると見沼通船堀公園。結構高い堤が前方に「聳える」。じっくりと歩いてみたい。が、残念ながら日が暮れてきた。通船のための水路もぼんやりと見える、といった按配。次回再度歩くことにして本日はこれで終了。公園近くの武蔵野線・東浦和に向い、一路家路を急ぐ。

土曜日, 9月 22, 2018

秋川水系 沢登り:熊倉沢左俣東沢を上り、そして下る

昨年に沢登りデビューした娘の旦那に、崖を降りるテクニックである8環を使った懸垂下降や、基本的なロープの結び方のトレーニングでもをしようかと適当な沢を探す。10mクラスの滝があり、きりのいい所に滝があり、そこまでの遡行時間が短い沢はないものかと、あれこれチェック。
で、選んだのが秋川水系・熊倉沢左俣東沢。通常であれば、源頭部まで登り、熊倉山へと這い上がり、笹尾根・浅間峠をたどり上川乗バス停まで下るか、笹尾根の途中から熊倉沢左俣西沢に降りて沢を下降して東沢合流点付近に戻るようだが、今回は懸垂下降・崖下りのトレーニング。尾根に這い上がる奥の二股手前で沢を引き返すことにした。
トレーニングにお付き合い願うのもなんだかなあ、とは思いながら沢仲間に連絡するとベテランのTさんと、8環を使った懸垂下降をこの夏にマスターしたいとのS嬢も参加してくれるとのこと。数年前、その名に惹かれ娘と沢上りを楽しんだ月夜見川以来の秋川筋の沢に4人のパーティで出かけることにした。



本日のルート;五日市線・武蔵五日市駅>南郷バス停>矢沢林道>落合橋>熊倉沢林道>>熊倉沢右俣・左俣分岐点>作業道>入渓点(作業道3番目の木橋)
往路
東沢・西沢出合い>4m滝>2段2m滝>2段?m滝>5m滝
復路
5m滝>2段?m滝>東沢・西沢出合い>西沢・作業道4番目の木橋>作業道>熊倉沢林道>落合橋>矢沢林道>南郷バス停


武蔵五日市駅発;9時

集合場所はJR五日市線の終点・武蔵五日市駅。熊倉沢左俣東沢の最寄りのバス停・南郷は数馬行のバスに乗る。時刻標をチェックすると8時代はなく、午前9時、その次は10時35分。9時発のバスに乗る予定とし、8時50分バス停集合とする。 ホリデー快速が8時48分に着く(2018年9月休日時刻表)

南郷バス停;9時32分着
武蔵五日市駅から30分強走り、南秋川筋の南郷バス停に到着。乗客は数馬行が大半のよう。この駅で降りたのは我々のパーティだけであった。

矢沢林道
バス停から南に下る坂道があり、そこを下り切ると、南郷バス停手前で都道33号から分かれ南秋川に沿って進む矢沢林道に当たる。林道は直ぐに南秋川に架かる橋を渡り、南秋川に注ぐ矢沢に沿って南に進む。

落合橋で熊倉沢林道に入る;9時40分
矢沢林道を10分強歩くと落合橋がある。その名の通り、この地が矢沢と熊倉沢の落ち合うところ。矢沢林道は落合橋を渡り道なりに進むが、熊倉沢林道は橋の手前で右に折れる。
矢沢林道方面も「工事用作業出入口」「作業中」の立て看板と車止めのA型バリケード、また熊倉沢林道も「民有地林道」であるとの案内とともに、A型バリケードで車止めとなっている。A型バリケードの脇を熊倉沢林道に入る。




熊倉沢林道の熊倉沢右俣・左俣分岐点;10時10分
熊倉沢に沿って大よそ30分ほど歩くと熊倉沢右俣と左俣の分岐点に。道の左手に作業道に入る踏み跡がある。立ち木にも赤いリボンが括られている。またその先、熊倉沢の右岸に渡る木橋も見える。この踏み跡から作業道に入る。

作業道3番目の木橋:10時20分
作業道を沢に下りるとすぐに最初の木橋がある。熊倉沢右俣からの流れを跨ぎ熊倉沢左俣の右岸に渡る。橋を渡るとほどなく熊倉沢左俣に架かる木橋があり右岸渡る。熊倉沢林道から見えて木橋がこれだろう。木橋は雨の翌日でもあり滑りやすく、慎重に歩を進める。

右岸に渡った仕事道を10分弱歩くと3番目の木橋が現れ、熊倉沢左俣の左岸に渡ることになる。木橋を渡った先は山に向かって少し上り坂となっている。沢から離れる?ガイドブックには四番目の橋が入渓の目安として記されているのだが、この3番目の橋は中程にある岩を境に二つに分かれている。そこが4番目の橋?少々混乱。結局この3番目の橋から入渓することにした。
補足;復路、熊倉沢左俣西沢に少し入ってみたが、そこに4番目の橋があった。3番目の橋を渡り坂道を少し登ったところである。 入渓は3番目でも4番目でも構わない。3番目から入れば熊倉沢左俣東沢に直接入り、4番目から入れば熊倉沢左俣西沢に入り西沢・東沢出合いに少し下り熊倉沢左俣東沢に入ることになる。

入渓;10時40分
3番目の橋から沢に入り、スペースを見付けて入渓準備。スペースがあまりなく、入渓準備は、熊倉沢林道の熊倉沢右俣・左俣分岐点から作業道に入る辺りでするのがいいかと思う。特に雨の後など、木橋が滑り結構危ない。復路は作業道から熊倉沢林道に戻り終えて着替えをしたのだが、沢靴は木橋で滑ることもなく安全に渡れた。 のんびりと準備し10時40分頃入渓する。

東沢・西沢出合い;10時43分
滑っぽい沢を少し進むと右手から熊倉沢左俣西沢が合流する。東沢・西沢出合いを少し西沢に入ったところに2mの小滝も垣間見える。
今回は熊倉沢左俣東沢を登ったが、直前まで熊倉沢左俣西沢にしようか、熊倉沢左俣東沢にしようか少々迷っていた。東沢には2段?mや5m滝があり、懸垂下降の練習にはいいと思うのだが、支柱になる適当な木があるかな?そもそも、初回から10m級崖の下降トレーニングって如何なものか?などとあれこれ思い、小滝の多い熊倉沢左俣西沢からはじめ、適当なところで折り返し熊倉沢左俣東沢に入るのはどうかな?などと思った次第。 結局は、その場の成り行きで困難度の高そうな熊倉沢左俣東沢に決め、出合いを熊倉沢左俣東沢へとルートをとる。

4m滝;10時46分
出合いのすぐ先に4m滝がある。傾斜もそれほど急でもなく、また岩場に適当なホールドがあり、水線直登もできそうだが、当日は少し気温が低かったこともあり左岸側の滝端を這い上がった。


2段2m滝;10時55分
10分ほど歩くと滑状の小滝に出合う。長さは4mほどはあるだろう。ガイドブックにある2段2mの滝かもしれない。この辺りの渓相は美しい。ガイドブックでチェックする段階では渓相は倒木の多い、ちょっと荒れたイメージであったのだが、予想に反して美しい沢であった。

2段15滝;11時5分
2段2m滝から10分、今回の核心部である2段?m滝が現れる。娘の旦那が水線中央突破を試みるが、途中で適当なホールドがなくフリーズ。下ることは危険のためそのまま待機指示。





Tさんが滝の右側端に取り付き1段目の滝をクリア。セルフビレイで自身の安全を確保した後、ロープを下し娘の旦那のハーネス・カラビナと結び、娘の旦那は滝を上り切った。 私は雨の翌日で、ズブズブの右岸を高巻きし滝上に。S嬢にはロープを下し安全確保しズブズブの右岸を上ってもらった。
ここで結構時間をとり全員が滝上に揃ったのは10時35分を過ぎていた。

5m滝;11時45分
ついで本日の最終ポイントとした5mの滝。滝の左手の岩場は急ではあるが、適当なホールドがあり、岩場を這い上がることができた。S嬢には安全確保のロープを結び、岩場を上ってもらった。
上りはここまで。少し休憩し、懸垂下降の練習をしながら、今来たルートを下降することにする。



下降

5m滝を懸垂下降;12時10分‐12時30分
5m滝を懸垂下降で下りる。全員がハーネス、8環、カラビナを装備済み。ロープはTさんの8㎜ x 30mを使うことに。理由は娘の旦那のガタイがよく、私の6㎜ x 10m 二本繋ぎでは少々こころもとないことと、崖の長さ。





滝自体は5mなのだが、滝上に支柱になる立木がなく、滝の左手上にある立木にロープを回すと、滝の右岸に屹立する崖下まで?mのロープで丁度くらいの長さになった。 立木に結んだスリングとハーネスをカラビナで結び、セルフビレイで自身の安全確保をし、8環にロープを通し、崖下に落としたロープを右手で軽く握り、セルフビレイのスリングを外すように指示。
右手のロープは絶対離さないこと、ロープを引っ張っておればテンション・フリクションがかかり止まり、緩めると下降する、という基本を教え即本番に。
最初に私が下り、懸垂下降はじめてのふたりが続き、最後にTさんが下りた。はじめてのふたりは、最初体を崖から離すときは少し不安そうな腰つきが下から見て取れたが、特に怖がることもなく、軽々と下りてきた。






2段15m滝の懸垂下降;12時45分‐12時55分
こちらの滝も同じく滝上に適当な立木がない。唯一滝の落ち口に大きめの岩があり、その岩の底部にロープを回せば滝の水線を下りることはできそうだが、それもなんとなく心もとない。


結局滝の左岸を高巻した、雨水を含みズブズブの急斜面の上に適当な立木があり、そこを支柱に懸垂下降で下りることにした。ロープの長さが心配だったが、?mでギリギリ崖下まで届き、2段階に分けることなく一回で下り切ることができた。 5m滝の懸垂下降が10m以上の垂直な崖を下りることになったため、急斜面ではあるが所詮斜面ということで、懸垂下降はじめてのふたりも軽く舞い降りた。



東沢・西沢出合い;13時40分
2段?m滝を下り、1時頃遅めの昼食。武蔵五日市行のバスは南郷バス停を15時11分に出る。時間はゆったりある。
のんびり休憩し、足元に気をつけながら小滝を下りて東沢・西沢出合いに。西沢に2m滝が見える。結構美しい。滑状に流れる小滝を上る。



作業道の4番目の木橋;13時45分
西沢の小滝を登った先に木橋が見える。これがガイドブックにあった前述4番目の木橋であろう。先には3段の小滝もあるようで、少々惹かれるが、先回の川乗水系逆川の沢登りで私が足を引っ張りバスに乗り遅れるという為体(ていたらく)であったこともあり、木橋から作業道を熊倉沢林道に戻ることにした。

熊倉沢林道;14時
作業道を戻り熊倉沢林道の熊倉沢右俣・左俣分岐点に戻る。右俣に沿って続く林道を少し上り、適当な場所をみつけ着替えを済ませ熊倉沢林道を戻る。

落合橋;14時34分
矢沢との合流点である落合橋に。往路は気づかなかったのだが、沢は落合橋の下流でも結構美しい渓相をしていた。

南郷バス停;14時45分
15時前に南郷バス停に到着。15時11分発のバスを、余裕をもって迎え武蔵五日市駅に戻り本日の散歩を終える。

熊倉沢左俣東沢の所感

●標準的なルートは、源流まで登り、熊倉山へと這い上がり、笹尾根・浅間峠をたどり上川乗バス停まで下る。
●バリエーションルートとして、笹尾根の途中から熊倉沢左俣西沢に降りて沢を下降して東沢合流点付近に戻る。
●今回は懸垂下降の練習ということで、尾根に這い上がることなく奥の二俣手前の5m滝をピストンで上り・下りした。
●入渓から5m滝までの遡行時間が1時間ほど。適当な距離・時間である。 ●5m滝は適当な立木がなく滝の水線を下りることはできず、10m級の崖を懸垂下降することになる。懸垂下降の練習には丁度いいかもしれない。
●また2段?m滝も滝上に適当な立木がなく、これは崖ではないが急な斜面を懸垂下降で下りることになる。上記5m滝の垂直な崖の懸垂下降が負担に感じる人には、こちらの斜面で懸垂下降の練習ができる。
●只、斜面の長さが10m ほどあり、今回は仲間が30mのロープを持っていたので一気に下りることができたが、その長さのロープを持たない場合は、中間点の「踊り場」に下り、次いで川床へといった2段階で下りることになるだろう。
●懸垂下降や滝上りのトレーニングの沢としては時間もちょうどいい。
●2段?mも5m滝も滝を上れなければ巻くことができる。
●渓相は予想ではあまり期待していなかったのだが、結構美しい沢であった(奥の二俣より先は少し荒れているようではある)。
●今回は懸垂下降の練習が目的であったので途中で引き返したが、いつか源流まで登り、熊倉山へと這い上がり、笹尾根の途中から熊倉沢左俣西沢に降りて沢を下降して東沢合流点付近に戻る、という標準&バリエーション組み合わせルートを辿ってみたいと思う。