木曜日, 6月 22, 2006

江戸川区散歩 そのⅠ;葛飾地区と江戸川区全体のメモ

江戸川;葛西地区と江戸川区全体の時空散歩:

東京下町低地の散歩もとうとう江戸川区まで来てしまった。江戸川区散歩をはじめる。とはいうものの、今回が初めてではない。実のところ、江戸川は過去2回ほど歩いたことがある。少し昔になるが、ちょっとまとめておく。
江戸川区散歩のはじめは、塩の道を行徳まで歩いたとき。途中、気がつけば江戸川区に入っていた。日本橋川からはじめ、江東区の小名木川と進み、船堀橋を渡り江戸川区に入る。そこからは新川を東に進み、途中から古川親水公園に折れ、瑞穂大橋、今井橋を渡り行徳河岸に行く。2月7日あたりの散歩ブログにメモしている。
二度目は娘の陸上競技会の応援、というか、ビデオ撮影をご下命頂き、江東区・新木場・夢の島陸上競技場に行ったとき。競技種目の空き時間が2時間、3時間と2回もあるので、さて、どこを歩こうかとなった。
最初の空き時間は新木場駅から葛西臨海公園まで電車に乗り、葛西臨海公園をブラブラした。このあたりは江戸川区。二度目の空き時間は少々時間もあるので、と地図を眺める。「新左近川」。なんとなくありがたそうな名前。親水公園となっているようだし、距離もなんとなく適当そう、ということでルート決定。左近川をメモしておく。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

本日のルート;夢の島陸上競技場(江東区)>湾岸通り>荒川河口橋>水再生センター>左近川水門>マリーナ>つばさ橋>葛西かもめ橋、新左近橋・新長島川親水公園と合流>葛西中央通り・中左近橋>中葛西7丁目・海岸水門>掘江橋・海岸小水門>環七通りと交差>南葛西通り・左近橋>なぎさ公園>旧江戸川・左近川水門>葛西臨海公園に戻る>夢の島陸上競技場


左近川散歩

荒川河口橋
陸上競技場を離れ、湾岸道路を東に進み、荒川河口橋を渡る。いやはや、長い。さすが荒川河口だけのことはある。それに高い。少々の高所恐怖症の我が身としては、足がすくむ高さである。橋を渡りきる。東詰め、水再生センターのあたりの堤防沿いの道で、和太鼓の練習をしている。これって橋の中腹あたりから聞こえていた。結構な響きがあるものだ。再生センターにそって少し北に。新左近水門。美しく整備されている。先日の古川親水公園を歩いたとき、親水公園のコンセプトを最初につくったのが江戸川区。古川親水公園がその第一号である、といったことをメモした。なんとかに蓋ではなく、美しく再生する、ってやはり、衣食足って礼節を知る、って時代になったのだろうか。

葛西臨海公園
水門近くにマリーナ。つばさ橋を越え、といっても正確には「くぐる」わけだが、親水公園を進む。葛西かもめ橋、というか新左近橋で新長島川親水公園と合流。ボート乗り場などもある広場となる。葛西中央通り・中左近橋を越え中葛西7丁目あたりで、広場空間はお終いとなる。少し先に海岸水門がある。水位調節しているのだろうか。その先、掘江橋近くに海岸小水門。東に進むと環七通りと交差。少し東に進むと南葛西通り。左近橋が架かる。後はひたすら東に進み、なぎさ公園の北端をかすめ旧江戸川にあたる。左近川水門。近くに水上バスの乗り場などもある。娘の最終競技の時間も迫る。あとは、ひたすらに葛西臨海公園まで進み、電車に飛び乗り競技場に。

左近川の由来
左近川の由来。どうもはっきりわからない。区史第一巻末尾の地名の項に「葛西において河港のつとめを果たした川に左近川がある。江戸川の、かっての分流で、左近は人名であろう。近くの堀江に将監の地名があるが、これは向井将監の屋敷跡であった」と。幕府の御船奉行、向井将監に関係ありそう、とも思うがはっきりしない。向井将監って、中央区散歩のとき、霊岸島で出あった。将監が何故、左近と関係あるか、というと、将監とは近衛府の内部官職のひとつ。右近将監とか、左近将監とか、「右近・左近+将監」とペアとなっている、ため。

さてと、新川・古川、そして左近川と江戸川区の南部を東西に歩いた。今回はどこから、とは思うのだが、いまひとつポイントが絞りきれない。葛飾であれば柴又帝釈天、足立であれば西新井大師、といった具合に、どうといった理由はないが、なんとなくランドマークがある。が、江戸川区にはフックがかかる、というか、ランドマークが思い浮かばない。はてさて。ちょっと江戸川の歴史をおさらいし、どこから歩を進めるか決めることにしてみよう。
江戸川区のまとめ;江戸川区の大昔は海の中。これって東京下町低地はすべて同じ。およそ3000年ほど前より江戸川(昔の太日川)が運ぶ土砂により、流路に沿って砂州・微高地ができはじめる。江戸川区で人が住み始めたのはおよそ1800年前。弥生時代後期の頃。現在のJR総武線・小岩の北、上小岩遺跡のあたりに人が住みはじめたようだ。その後、江戸川に沿った篠崎の微高地、現在の旧中川に沿った東小松川のあたりに集落が増えていく。葛飾区、足立区といった東京下町低地のメモのとき何度も登場したが、正倉院の文書に下総国葛飾郡大嶋郷の戸籍にある「甲和里」は、確証はないが、どうも小岩らしい、とか。甲和里には454人の住民がいたようだ。
中世にはいると、この辺りは葛西御厨の一部。これも何度かメモしたように、葛西三郎清重が葛西33郷(江戸川区、葛飾区など)を伊勢神宮に寄進したもの。神社に寄進することによって、国の収税システムから逃れたわけだ。体のいい節税対策。それより少々前、寛仁四年(1020年)の頃、菅原孝標(たかすえ)の書いた、『更科日記』にも江戸川が登場する;「そのつとめて、そこをたちて、しもつさのくにと、むさしとのさかひにてある ふとゐがはといふがかみのせ、まつさとのわたりのつにとまりて、夜ひとよ、舟にてかつがつ物などわたす。 つとめて、舟に車かきすへてわたして、あなたのきしにくるまひきたてて、をくりにきつる人びと これよりみなかへりぬ。のぼるはとまりなどして、いきわかるゝほど、ゆくもとまるも、みななきなどす。おさな心地にもあはれに見ゆ」、と。任地・上総での任期が終わり、京に戻る途中、夜通しかかって下総と武蔵の国境の太日川(今の江戸川)をわたる姿が描かれている。もっとも場所は松里というから、松戸の渡しではある。
永正6年(1509年)には、連歌師・柴屋軒宗長は隅田川から川舟で行徳に近い今井に向かい、浄興寺を訪れ小岩市川の渡しから善養寺を訪ねた紀行文「東路のつと」を書いている:「隅田川の河舟にて葛西の府のうちを半日ばかり葭・蘆をしのぎ、今井といふ津(わたり)より下りて、浄土門の寺浄興寺に立ち寄りて、とあれば、はやくよりこの津のありしことしられたり」、と。この小岩市川の渡しのあたりは、その後、小田原・北条氏と下総・里見氏の間でおこなわれた合戦の舞台。世に言う、国府台合戦。北条氏の勝利に終わり、以降北条氏が秀吉に滅ぼされるまではこのあたりは北条氏の領地となった。
江戸に入ると、盛んに新田開発がおこなわれる。宇喜新田を開拓した宇田川善兵衛。宇喜田村は新川の南。伊予新田を開いた篠原伊豫。この新田は小岩のあたり。一之江新田を開いた田島図書などが特筆すべき人物。江戸川区は二箇所の旗本の領地、一つの寺領があるほかはすべて幕府の直轄地。将軍の鷹場となっていた。八代将軍吉宗など、76回も鷹狩にこの地を訪れた、と。この鷹場があるためのいろいろな制約で農民は苦労したようだ。
河川の開削も進む。行徳の塩を運ぶため新川開削が代表的なもの。幕府の利根川東遷事業も相まって、江戸川の水運が活発化する。東北や北関東の物資は、銚子や利根川上流から関宿を経て江戸川を下り、新川・小名木川を経て江戸に運ばれることになるわけだ。
街道も整備される。このあたりは江戸と房総を結ぶ交通の要衝でもあり、小岩市川の渡しは定船場。番所(関所)が設けられた。佐倉の掘田氏をはじめとする房総諸大名の参勤交代しかり、また庶民の成田詣でなどで街道が賑わった、とか。小岩市川の渡しのある御番所町や、逆井の渡しのある小松川新町あたりが賑わった町。区内には佐倉道、元佐倉道、行徳道、岩槻道といった往来が走る。佐倉道は日本橋から足立区・千住、葛飾区・新宿(にいじゅく)から小岩を経て市川、船橋そいて佐倉に続く道。元佐倉道は両国から堅川を東に進み、旧中川の逆井の渡しを越えて小岩に続き、そこで佐倉道に合流する。行徳道は平井の渡しを渡り、東小松川・西一之江、東一之江、今井の渡しを経て下総・行徳に行く道。岩槻道は埼玉・岩槻への道。行徳の塩を運ぶ道である、とか。現在の江戸川大橋のあたり、つまりは江戸川と旧江戸川が分岐するあたりから北に、小岩、柴又、金町、猿ケ又で中川を渡り古利根川沿いに岩槻に至る道。
幕末動乱期、この江戸川の地も幕府と官軍の戦いの場となる。場所は小岩市川の渡しのところ。江戸川の両岸に両軍対峙し戦端をひらいた、と。
なんとなくランドマークが浮かび上がった。小岩市川の渡し、つまりは現在のJR総武線・小岩あたりが幾度となく登場する。それと、江戸川区って江戸と房総の交通の要衝。戦略上の見地から橋などない当時、「渡し」を起点に街道が整備されている。ということで、江戸川散歩は、ランドマークの小岩を基点に、渡しと渡しをつなぐ街道に沿って歩くことにする。
江戸川区の大雑把な地区わけは小岩、鹿骨、東部、中央、葛西、平井・小松川の六地区。いままでの新川・古川、左近川散歩は葛西地区。次回は小岩から元佐倉道を進み、中央、そして時間があれば東部まで進もうと思う。

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