土曜日, 6月 24, 2006

江戸川区散歩  そのⅡ小岩・中央部地区・東部地区

「小岩市川の渡し」から元佐倉道を下り、中央部・東部を歩く

江戸川区散歩をはじめる。とはいうものの、今回が初めてではない。実のところ、江戸川は過去2回ほど歩いたことがある。塩の道に沿って小名木川から新川・古川、そして行徳まで歩いた。また、左近川に沿って江戸川区の南部を東西に歩いたこともある。
今回はどこから、とは思うのだが、いまひとつポイントが絞りきれない。葛飾であれば柴又帝釈天、足立であれば西新井大師、といった具合に、どうといった理由はないが、なんとなくランドマークがある。が、江戸川区にはフックがかかる、というか、ランドマークが思い浮かばない。は小岩てさて。ちょっと江戸川の歴史をおさらいし、どこから歩を進めるか決めることにしてみよう。
江戸川区の大昔は海の中。これって東京下町低地はすべて同じ。およそ3000年ほど前より江戸川(昔の太日川)が運ぶ土砂により、流路に沿って砂州・微高地ができはじめる。江戸川区で人が住み始めたのはおよそ1800年前。弥生時代後期の頃、現在の JR 総武線・小岩の北、上小岩遺跡のあたりに人が住みはじめたようだ。その後、江戸川に沿った篠崎の微高地、現在の旧中川に沿った東小松川のあたりに集落が増えていく。葛飾区、足立区といった東京下町低地のメモのとき何度も登場したが、正倉院の文書に下総国葛飾郡大嶋郷の戸籍にある「甲和里」は、確証はないが、どうも小岩らしい、とか。甲和里には454人の住民がいたようだ。
中世にはいると、この辺りは葛西御厨の一部。葛西三郎清重が葛西33郷(江戸川区、葛飾区など)を伊勢神宮に寄進したもの。神社に寄進することによって、国の収税システムから逃れたわけだ。体のいい節税対策。
それより少々前、寛仁四年(1020年)の頃、菅原孝標(たかすえ)の書いた、『更科日記』にも江戸川が登場する:「そのつとめて、そこをたちて、しもつさのくにと、むさしとのさかひにてある ふとゐがはといふがかみのせ、まつさとのわたりのつにとまりて、夜ひとよ、舟にてかつがつ物などわたす。 つとめて、舟に車かきすへてわたして、あなたのきしにくるまひきたてて、をくりにきつる人びと これよりみなかへりぬ。のぼるはとまりなどして、いきわかるゝほど、ゆくもとまるも、みななきなどす。おさな心地にもあはれに見ゆ」、と。任地・上総での任期が終わり、京に戻る途中、夜通しかかって下総と武蔵の国境の太日川(今の江戸川)をわたる姿が描かれている。もっとも場所は松里というから、松戸の渡しではある。
永正6年(1509年)には、連歌師・柴屋軒宗長は隅田川から川舟で行徳に近い今井に向かい、浄興寺を訪れ小岩市川の渡しから善養寺を訪ねた紀行文「東路のつと」を書いている:「隅田川の河舟にて葛西の府のうちを半日ばかり葭・蘆をしのぎ、今井といふ津(わたり)より下りて、浄土門の寺浄興寺に立ち寄りて、とあれば、はやくよりこの津のありしことしられたり」、と。
この小岩市川の渡しのあたりは、その後、小田原・北条氏と下総・里見氏の間でおこなわれた合戦の舞台。世に言う、国府台合戦。北条氏の勝利に終わり、以降北条氏が秀吉に滅ぼされるまではこのあたりは北条氏の領地となった。

江戸に入ると、盛んに新田開発がおこなわれる。宇喜新田を開拓した宇田川善兵衛。宇喜田村は新川の南。伊予新田を開いた篠原伊豫。この新田は小岩のあたり。一之江新田を開いた田島図書などが特筆すべき人物。江戸川区は二箇所の旗本の領地、一つの寺領があるほかはすべて幕府の直轄地。将軍の鷹場となっていた。八代将軍吉宗など、76回も鷹狩にこの地を訪れた、と。この鷹場があるためのいろいろな制約で農民は苦労したようだ。
河川の開削も進む。行徳の塩を運ぶため新川開削が代表的なもの。幕府の利根川東遷事業も相まって、江戸川の水運が活発化する。東北や北関東の物資は、銚子や利根川上流から関宿を経て江戸川を下り、新川・小名木川を経て江戸に運ばれることになるわけだ。
このあたりは江戸と房総を結ぶ交通の要衝でもあった。小岩市川の渡しは定船場。番所(関所)が設けられた。佐倉の掘田氏をはじめとする房総諸大名の参勤交代しかり、また庶民の成田詣でなどで街道が賑わった、とか。小岩市川の渡しのある御番所町や、逆井の渡しのある小松川新町あたりが賑わった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

街道も整備される。区内には佐倉道、元佐倉道、行徳道、岩槻道といった往来が走る。佐倉道は日本橋から足立区・千住、葛飾区・新宿(にいじゅく)から小岩を経て市川、船橋そして佐倉に続く道。元佐倉道は両国から堅川を東に進み、旧中川の逆井の渡しを越えて小岩に続き、そこで佐倉道に合流する。
行徳道は平井の渡しを渡り、東小松川・西一之江、東一之江、今井の渡しを経て下総・行徳に行く道。
岩槻道は埼玉・岩槻への道。行徳の塩を運ぶ道である、とか。現在の江戸川大橋のあたり、つまりは江戸川と旧江戸川が分岐するあたりから北に、小岩、柴又、金町、猿ケ又で中川を渡り古利根川沿いに岩槻に至る道。
幕末動乱期、この江戸川の地も幕府と官軍の戦いの場となる。場所は小岩市川の渡しのところ。江戸川の両岸に両軍対峙し戦端をひらいた、と。
なんとなくランドマークが浮かび上がった。小岩市川の渡し、つまりは現在の JR 総武線・小岩あたりが幾度となく登場する。それと、江戸川区って江戸と房総の交通の要衝。戦略上の見地から橋などない当時、「渡し」を起点に街道が整備されている。
ということで、江戸川散歩は、ランドマークの小岩を基点に、元佐倉道を下り、渡しと渡しをつなぐ街道に沿って歩くことにする。
江戸川区の大雑把な地区わけは小岩、鹿骨、東部、中央、葛西、平井・小松川の六地区。小岩から中央、東部地区、といったところである。



本日のコース: JR総武線・小岩駅 ; 上小岩遺跡 ; 上小岩親水緑道 ; 八幡神社・北原白秋の歌碑 ; 江戸川の堤 ; 真光院・遊女高尾の墓 ; 京成・江戸川駅 ; 御番所跡 ; 宝林寺 ; 千葉街道・旧佐倉道筋 ; 小松川境川親水公園 ; 江戸川区郷土資料室 ; 仲台院・将軍の御膳所 ; 善照寺 ; 白髭神社・浮洲浅間神社 ; 一之江境川 ; 都営新宿線・一之江駅

上小岩遺跡

小岩遺跡総武線・小岩駅で下車。北口から蔵前橋通りに進む。最初の目的地は「上小岩遺跡」。蔵前橋通りを東に進み、柴又街道と交差。柴又街道を北に進み京成小岩駅前交差点を東に折れる。京成小岩駅手前に「上小岩遺跡」の案内。弥生時代中期から、古墳時代前期の土器類が発見されている遺跡、とか。
最初に見つけたのは昭和27年、当時の小岩第三中学の生徒。以来30年に渡って同校の中村先生によって発掘調査がなされた。場所は現在の北小岩6,7丁目あたり。当時このあたりが、「上小岩村」と呼ばれていたのが、遺跡命名の由来。養老5年(721)の下総国葛飾郡大嶋郷の戸籍にある、甲和里は、どうも小岩らしい、とメモした。甲和里には454人の住民が住んでいた、と。このあたり川沿いの自然堤防・微高地であったのだろう。
photo by harashu


上小岩親水緑道

京成小岩駅を越え東に。北小岩6丁目交差点あたりに遊歩道。上小岩親水緑道。この地に住む石井善兵衛さんが、灌漑用の水の乏しかったこのあたりに、江戸川から用水を引くことを思い立ち、明治11年に完成した水路跡。緑道に沿って北に進む。この川筋が「遺跡の銀座通り」とか。左手に小岩三中を見ながら進み、緑道の最北端に「水神碑」。石井善兵衛さんの功績をたたえた碑。

八幡神社・北原白秋の歌碑
堤防脇の道を北に進む。八幡神社。北原白秋の歌碑がある。大正5年から1年間、小岩村三谷に住む。その住居を「紫烟(しえん)草舎」と呼ぶ。紫えん草舎は現在は市川にある。が、小岩を愛した白秋を偲んで、地元の人が八幡さまの境内にこの歌碑を作った。「いつしかに 夏のあわれとなりにけり 乾草小屋の桃色の月」。北原白秋もいろんなところに顔をだす。生涯に何度引越ししたのだろう、か。

江戸川の堤
神社を離れ江戸川の土手道を歩く。川向こうには国府台(こうのだい)の丘陵地。小田原北条氏綱・氏康親子が下総の小弓義明氏、安房の里見義堯氏と争った天文7年(1538年)の第一次国府台合戦、また、小弓氏が斃れた後、房総最大の勢力となった里見義弘氏(義堯の子)と北条氏康が戦った第二次国府台合戦に思いを馳せる。この合戦に北条氏が勝利を収めたことにより、関東一円が北条氏の勢力下に入った。江戸川以西が下総から武蔵になったきっかけでもあった、とか。
また、この地は幕末の小岩市川戦争の舞台でもある。江戸無血開城を潔し、としない旧幕臣が江戸を脱出。大鳥圭介の率いる2500名が市川国府台に集結。新撰組の土方歳三や幕府、会津、桑名の兵と軍議。結局日光方面へと転進する。一方、江戸を去り木更津に集結した福田八郎衛門の率いる幕府撤兵隊(さんぺいたい)1500名が大鳥軍に合流すべく市川に集結。が、既に大鳥軍は日光転戦。後に残されたこの幕府撤兵隊と官軍の津、福岡、佐土原、岡山藩との間で戦端が開かれる。市川市内での激しい市街戦、江戸川を越えての激しい砲弾の応酬があったこと、今は昔。

真光院・遊女高尾の墓
堤道を下り、天祖神社前の通りを京成江戸川駅方面に道を進む。北小岩4丁目に真光院。遊女・高尾の墓がある。この高尾太夫も散歩のあちこちに顔をだす。が、よくよく調べると、高尾太夫って一人ではない。吉原の妓楼・三浦屋お抱えの歴代遊女の総称。7人とも11人とも14人とも言われる。ここの高尾太夫は三代目。このお寺の閻魔様の坐像は高尾太夫が寄進した、とか。境内を歩いたが、どこにあるのやら。お参りはできず。ちなみに、中央区散歩のとき、豊海橋の近くで出会った高尾太夫は二代目であった。

京成・江戸川駅近くに小岩市川の渡し・関所跡
お寺を離れ京成・江戸川駅に向かう。季節柄、駅近くの小岩菖蒲園帰りの人たちが手に菖蒲を抱えて駅に入ってゆく。京成線の少し南の河川敷に関所跡。この地、小岩市川の渡しは江戸と房総を結ぶ佐倉道が江戸川を渡るところ。元和2年(1616年)に定船場となり番所が置かれる。後に関所となり往来する人や物資の出入りをチェックした。

御番所跡
駅前の通りに御番所跡。関所付近のこの界隈は旅籠や掛茶屋で賑わった、とか。この辺りはいくつかの街道が合流。日本橋からはじまり、足立区・千住、葛飾区・新宿(にいじゅく)から小岩に至る佐倉道、両国から堅川を東に進み、旧中川の逆井の渡しを越えて小岩に続く元佐倉道、江戸川と旧江戸川が分岐するあたりから北に進み、小岩をへて柴又、金町、猿ケ又で中川を渡り古利根川沿いに岩槻に至る岩槻道などがこの地で合流する。

宝林寺
道に沿って宝林寺。この地を開拓した篠原伊豫の墓。伊豫はもと里見義弘の家臣。安西伊豫守実元と名乗る武士。が、国府台合戦で里見氏が敗れたのち、この地に移り篠原と改名。農業に従事する。慶長15年(1610年)には新田開発を行い「伊豫新田」と名づける。これが伊豫田村の前身。少し先に本蔵寺。関所役人の中根平左衛門代々の墓がある。先に進むと蔵前橋通りと交差。いかにも旧道といった赴きはここで無くなり車の多い往来となる。

千葉街道・旧佐倉道筋
蔵前橋通りとの交差から先は千葉街道。この道は、おおむね昔の旧佐倉道筋。南西に一直線に下る街道を中川堤まで歩くことにする。一里塚交差点、東小岩4丁目交差点、小岩郵便局前交差点、二枚橋交差点を越え、新中川にかかる小岩大橋を渡り、鹿本中学交差点を過ぎ菅原橋交差点に。菅原橋交差点のところから小松川境川親水公園に入る。

小松川境川親水公園
川筋はほぼ千葉街道に沿って進む。整備された遊歩道が続く。さすがに親水公園発祥の区。中央森林公園を越えたあたりで北から下ってきたもう一筋の川筋と合流。この流れも小松川境川。総武線と環七の交差するあたりまで流路っぽい川筋跡が地図に見える。名前の由来は、上・下だったか、南・北だったか、ともあれふたつの小松川村の境を流れていたため。
本一色地区を進み中央1丁目と新小岩3丁目の境を進む。平和橋通りと千葉街道が交差するところが八蔵橋。八蔵の由来は、このあたりに住んでいた無頼漢の名前。江戸から来るヤクザ者を青竹で追い返すのが役目であった、とか。

江戸川区郷土資料室
少し進むと「グリーンパレス」。江戸川区の郷土資料室がある。例によって『江戸川区の史跡と名所』『江戸川区の文化財』『古文書に見る江戸時代の村と暮らし (2):街道と水運』といった資料を購入。本一色の由来は不明。本来「一色」とは免税田のこと。が、この地に免税田の記録はない、と。

仲台院・将軍の御膳所
先に進む。京葉通りにかかる境川橋の下をくぐり、今井街道、首都高速7号・小松川線を越える。左手に仲台院。将軍の鷹狩の折、食事をとったり休憩したりする御膳所。吉宗など江戸川区だけでも76回も鷹狩に訪れている。幕府直轄地である江戸川区一体は鷹場として指定されていたわけだが、鷹狩の度に農作業を止めなければならない農民にとっては迷惑なことであったの、かも。
境内に加納甚内の墓。元は牧戸甚内。代々紀州侯お抱えの綱差役。綱差役とは、鷹狩のターゲットとなる鶴の餌付けをする人。早い話が、将軍が放つ鷹は必ず獲物を取れるように段取りを組む人、ということ。吉宗が将軍になるにおよんで、紀州より召しだされ、西小松川に居えを構える。で、この甚内さん、単に綱差役だけでなく、新田開発にもつとめる。その新田は「綱差新田」と呼ばれた。



善照寺
親水公園に沿って寿光院、源法寺、永福寺、宝積院と、お寺が続く。永福寺など、結構品のいいお寺さま。親水公園が中川に合流するあたりに善照寺。威風堂々のお寺。将軍家光より六石の御朱印地を受けている。六石って多いのか少ないのか、その有り難味はわからない。が、一石というと、大人ひとりが1年間食べられるお米ということではある。このお寺、江戸川区で最初の公立学校「葛西学校」が開校された。


白髭神社・浮洲浅間神社
寺の直ぐ近くに白髭神社。もとは浮洲浅間神社。神社の古鏡に天平11年(739年)の銘もある、江戸川区最古の神社のひとつ、と言われる。昔々、漁師が潮待ち。浅間さまの札が流れてくる。その札を埋め置いたところにだんだん砂がたまってくる。で、そこにお宮を建てた、とか。中川・荒川放水路開削の折、白髭神社に合祀され、今に至る。

一之江境川から都営新宿線・一之江駅
これから先は、今井街道進み、行徳に出る予定、ではあった。今井街道は昔の行徳道。小松川3丁目を越え、船堀街道と交差し松江、一之江と進み、今井橋で旧江戸川を渡るり行徳にでる。松江の由来は小松川の「松」と一之江の「江」を足したもの。一之江ははっきりしない。が、江の意味からして「入り江」といった地形を表す一体であったのだろう。
が、成り行きで進んでいると、突然、一之江境川に交差。そして直ぐに新大橋通りに出でしまった。東に進んで行徳道に当たるはずが、どうも南東に進んでいたよう。結局、行徳道を下るのをあきらめ、新大橋通りを東に進み、春江町にある葛西工業高校前で環七を北に折れ、都営新宿線・一之江駅に。一路家路へと。

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