それにしても、清瀬にかかるフックはなにも、ない。どこから散歩を始めればいいものか、少々戸惑う。地図を眺める。と、駅近くに清瀬市郷土博物館がある。まずは清瀬市郷土博物館に出向き、あれこれ資料を眺め散歩のルートを決める。資料が手に入らなければ、清瀬の北端、所沢との境を成す柳瀬川を下るか、上るか、その場の成り行きで決めようと、例によっての、行き当たりばったりの散歩をはじめることにした。
本日のルート;西武池袋線・清瀬駅>志木街道・上清戸一丁目交差点>清瀬市郷土博物館>志木街道・日枝神社水天宮>全龍寺>長命寺>下清戸・長源寺>下宿・上宮稲荷神社>関越自動車道>松宮稲荷神社>武蔵野線>柳瀬川>円通寺>八幡神社>瀧の城址公園>城山神社>清瀬金山緑地公園>中里富士塚>小金井街道>西武池袋線・清瀬駅
西武池袋線・清瀬駅
清瀬駅で下車。誠に、誠に初めての清瀬ではある。駅前は再開発され、大きなショッピングセンターが建つ。現在の人口は32,726戸・72,984名(平成23年)。明治33年(1901)年の記録では家屋420戸・3,125名とある。大正13年(1924)の武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)清瀬駅の開業と、戦後のベッドタウン化故の発展ではあろう。清瀬の名称が公式に使われたのは明治22年(1889)。近隣の六つの村が合併してできた。六つの村は上清戸村・中清戸村・下清戸村の三清戸と、柳瀬川沿いの清戸下宿村・中里村・野塩村。名前の由来は、三清戸の「清」と柳瀬川の「瀬」を合わせた、との説がある。
清瀬市郷土博物館
駅から一直線に北に進む通りを進む。ほどなく上清戸一丁目交差点で志木街道とクロスする。志木街道をやり過ごし少し進み、左へと折れ清瀬市郷土博物館に。周辺の畑やけやき並木の道筋は、なかなか趣がある。館内を巡り、清瀬のあれこれをスキミング&スキャニング。「清瀬市ガイドマップ」と「清瀬の史跡散歩」を買い求め、散歩のコースのルーティングを行うに、見どころの基本はどうも、志木街道と柳瀬川のようだ。街道に沿って開かれた村と水に恵まれた川沿いの村に神社仏閣が点在する。道すがらの、田舎めいた稲荷の祠もちょっと気になる。ということで、本日の散歩のコースは、志木街道を東へと進み、成り行きで柳瀬川へと向かい、後は時間の許す限り川沿いを西へと進み、清瀬駅か秋津の駅に、と想い描く。
志木街道
清瀬市郷土博物館を離れ、志木街道に向かう。上清戸一丁目交差点あたりを成り行きで志木街道に。けやきの並木や屋敷林が目にとまる。屋敷林は立川・砂川新田あたりの五日市街道を歩いた時にはじめて意識するようになったのだが、なかなか、いい。
けやきの並木の美しい志木街道を進む。志木街道は秋津から志木を結ぶもの。秋津三丁目交差点の少し西、府中街道と所沢街道が合わさる秋津四ッ辻よりはじまり、江戸の頃、引又宿と呼ばれた志木に続く。引又宿は柳瀬川から新河岸川を経て江戸を結ぶ河岸があり、当時の船運の要衝であった。当初青梅街道を運んだ青梅・成木の石灰も、大量運搬の可能な水運故に、引又河岸経由で江戸に運ばれるようになった、と言う。
ちなみに、秋津四ッ辻で合わさる府中街道は川崎からこの地まで上り、合流点から先は志木街道と名前を変える。府中街道の道筋は古代の東山道であり、鎌倉期の鎌倉街道上ッ道に付かず離れず、といった案配で進む。一方の所沢街道は、田無散歩で出合った北原交差点から北西に進みこの地に至る。秋津三丁目交差点でクランク状になっているのは新道付け替え故。本来の所沢街道は交差点の少し西を弓状に進む小径とのことである。
日枝神社・水天宮
上清戸を東に進み水天宮交差点の北に日枝神社。日枝神社の境内には水天宮、御嶽神社、八雲神社、琴平神社が祀られる。社伝によれば、日枝神社の草創は古く、天正7年(1579)の頃。元は山王大権現と称されたが、明治の神仏分離令により日枝神社となった。上・中・下清戸および元町、松山、梅園、竹丘の総鎮守である。
境内には三猿の石灯籠一対が残る。案内によれば;「二基の石燈籠は参道の両側に向い合って建てられ、竿は六角柱でそれぞれに「見ざる」「聞かざる」「物言わざる」の三猿が彫刻されている。日枝神社は山王様と呼ばれて人々に親しまれ、猿は山王様のお使いと信じられていた。燈籠の竿部に「山王開闢天正七天(1579年)中嶋筑後守信尚開之」と彫られ、さらに寛文四年造立の燈籠には山崎傳七良以下、下清戸村11名が、又宝永七年造立のものには中清戸村小寺宇佐衛門尉重政の名が刻まれており、中世末から近世にかけて、清戸の開発を知る貴重な手がかりとなっている」、とある。現在は並んで建って射るが、元々は境内参道に向かい合って建っていたのだろう。中嶋筑後守信尚はどのような武将か不明ではあるが、年代からみて小田原北条の武将だろう、か。江戸が開幕前に、このあたりは既に街道に沿って鍬が入れられていたのだろう。
境内にある水天宮は明治の頃に建てられたもの。元は九州・久留米にあったものが、久留米藩有馬公の屋敷神(慶応大学三田キャンパスの近く)として江戸で有名になり、明治になり藩がなくなった時に、現在の日本橋蛎殻町に移った。子育て・安産の神様として信仰を集める。
日枝神社は、明治に日吉山王権現が日枝神社となったものが多い。「**神社」って呼び方はすべて明治になってから。それ以前は「日吉山王権現の社(やしろ)」のように呼ばれていた(『東京の街は骨だらけ』鈴木理生:筑摩文庫)。この日枝神社も同様である。日吉山王権現という名称は、神+仏+神仏習合の合作といった命名法。日吉は、もともと比叡山(日枝山)にあった山岳信仰の神々のこと。日枝(日吉)の神々がいた、ということ。次いで、伝教大師・最澄が比叡山に天台宗を開いき、法華護持の神祇として山王祠をつくる。山王祠は最澄が留学修行した中国天台山・山王祠を模したもの。ここで、日吉の神々と山王(仏)が合体。権現は仏が神という仮(権)の姿で現れている、という意味。つまりは、仏さまが日吉の神々という仮の姿で現れ、衆生済度するということ。本地垂迹というか神仏習合というか、仏教普及の日本的やり方、とも。
全龍寺
日枝神社を離れ、志木街道を少し東に進むと道脇に地蔵の祠。安産子育守護地蔵尊とある。お参りを済ませ祠の脇の道を下ると全龍寺。真新しい檀徒会館前を過ごし本堂に。開基は慶長元年(1596)の頃。江戸時代には15石の朱印寺であった、と言うから格を誇っていたのであろう。実際戦前には中清戸の三分の一はこの全龍寺の所有地。戦後農地解放により20町あまりの土地を失うも、現在でも3000坪の境内地をもつ。
この寺は武蔵野三十三観音の札所六番であり、一葉観音が祀られる。通常一葉観音さまって、木(蓮)の葉の舟に乗る。中国に渡航した道元上人を海上の嵐より救ったという伝説故のフォルムだろう、か。道元はこの観音さまを念持仏とした、とのことでもあり、どうも、曹洞宗のオリジナルの観音さまのようだ。曹洞宗の本山永平寺の池にも浮かんでいる、と言う。道中の安全を祈る人々の信仰を集めた。
ちなみに武蔵野三十三観音。昭和15年開創の観音霊場であり比較的新しい。一部西武新宿線沿線などもあるものの、ほとんどが西武池袋線沿線であり、西武鉄道の商業戦略などかと思ったのだが、実際は大きく異なっていた。戦中の殺伐とした世相のなか、観音様の大慈悲により人々の救済を願った郷土史家の柴田常恵氏の発願、呼びかけにより実現された、とのことである。
長命寺
道を更に東に進み、下清戸に長命寺。北条家の家紋である「三鱗(うろこ)」をもつこのお寺さまは、小田原北条家の武将・川越城主大道寺駿河守政繁の係累であるお坊様の手により天正18年(1550)に建てられる。いい構えの山門を入ると本堂、薬師堂、鐘楼がある。薬師堂におさめられる薬師如来は室町次代の作。もとは、志木街道の向かいにあり清瀬薬師と呼ばれていたものを、境内に移したもの。
大道寺駿河守政繁は、北条家の「御由緒家」と呼ばれる北条家累代の宿老の家柄として川越の城を預かる。秀吉の北条攻めの折りには、前田・上杉勢と碓氷峠で激しく戦うも、戦いに敗れるや降伏し、一転、前田・上杉勢の先鋒を勤め北条方の行田の忍城や八王子城を攻める。小田原降伏後には、秀吉から、その不忠故に死を賜った、とか。
本堂の前には誠に立派な一対の宝塔が並ぶ。徳川将軍家の正室の墓碑である。また、境内には15基の石灯籠もある。徳川将軍家の法名や正室、側室の法名が記されている、とのことである。はてさて、何故に清瀬のこの地に徳川将軍家ゆかりの宝塔(墓碑)や石灯籠があるのだろう。清戸に尾張徳川家の鷹狩御殿があった、からなのだろうか。はたまた、北条家ゆかりの寺故に、なんらかの縁があるのだろうか、などと、あれこれ妄想を巡らす。で、気になったのでチェックすると、なかなか面白い歴史が現れてきた。
ことのはじめは昭和20年の東京大空襲。徳川将軍家の霊廟(墓所)がある増上寺の大半が灰燼に帰した。廃墟となった霊廟跡は昭和33年(1958)に西武鉄道に売却され、東京プリンスホテルや東京プリンスホテルパークタワーとなる。そして廃墟に散在していた将軍家ゆかりの宝塔や石灯籠は、西武鉄道の手により狭山の不動寺に集められる。一部は狭山不動寺に再建されるも大半は野ざらし。その敷地も西武球場とするにあたり、宝塔や石灯籠の引き受け手を求めたようである。清瀬の長命寺はその時に狭山不動寺から移したものではないだろう、か。何気なく抱いた疑問をちょっと深掘りすると、あれこれと歴史が現れてくる。まことに散歩は面白い。 寺の前の清瀬薬師跡に。いくつかの石材が散在するが、これって徳川家ゆかりの宝塔や石灯籠の一部だろうか。ばらばらの古石材となった宝塔や石灯籠を狭山不動寺より引き取り、組み立て直し復元した、と聞く。
志木街道を更に東へ進み下清戸交差点に。清戸って、日本武尊が東征のみぎり、この地を訪れ、「清き土なり」と言ったのが、地名の由来とか。また、東隣・新座の菅沢村への入り口故の地名、とも。「清」は「すが>菅」との訓読み故に、菅(すが)への戸口、とのことである。地名の由来は諸説、定まること成し。
日枝神社の石灯籠の銘にあったように、清戸の村は小田原北条の支配の頃には、既に畑に鍬が入れられていたようである。文政9年(1826)の『武蔵風土記稿』には上清戸村38戸、中清戸村56戸、下清戸村62戸となっていた(『多摩の歴史2;武蔵野郷土史研究会(有峰書店)』)。
上宮稲荷神社
慶長年代に創建の長源寺を越えたところで北に折れ、清戸を離れ下宿地区に向かう。下宿は柳瀬川に近く水に恵まれており、清戸の畑作と異なり水田が開けていた、という。地名の由来は清戸の台地の下など諸説ある。畑と宅地が混在する道筋を進む。道脇には稲荷の小祠が佇む。清瀬にある21の社のうち11の社がお稲荷さま。個人の屋敷神である一家稲荷や、一族が講をつくり稲荷をまつるものとがある、と言う。この小祠はさて、どちらのものであろう。
先に進み、道の右手に雑木林が見える。林の中の建物は大林組の技術研究所とあった。下清戸を離れ、旭が丘地区に入り旭が丘交番交差点に。道はこのあたりから柳瀬川に向かって下り気味、となる。交差点右手の緑の中に上宮稲荷神社。下宿地区では上組と下組にわかれ稲荷講が組織されたとのこと。この社は上組の稲荷講によって寛永元年(1624)に創建された。 お参りを済ませ、次は下組の稲荷講がつくった松宮稲荷神社へ向かう。このあたりの地区・旭が丘は、往古、下宿とともに清戸下宿と呼ばれていたが、松が丘団地建設を契機として下宿から分かれ旭が丘となった。大規模団地で人口が一挙に増えたことが「分離」の一因だろう、か。
松宮稲荷神社
上宮稲荷前の道を東に進み、関越自動車道を潜り、武蔵野線の手前にある下宿三交差点で南に折れ松宮稲荷神社に向かう。緑豊かな小高い丘に鎮座する。下宿の下組の稲荷講がつくった稲荷の社である。なかなか、いい趣の社。松宮の由来ははっきりしない。が、往昔、この社には十間四方(約18m)に根を張った「円座の松」と呼ばれる松の大木があったようで、それが松宮の名前の由来だろう。新編武蔵風土記にも記されるこの松の大木は、立ち枯れのため大正時代に伐採された。
柳瀬川
松宮稲荷神社を離れ、柳瀬川へと向かう。武蔵野線の高架下を抜け、先に進むと清瀬水再生センター。東村山市・東大和市・清瀬市・東久留米市・西東京市の大部分、武蔵野市・小金井市・小平市・武蔵村山市の一部区域の雨水と汚水を別々の下水道管で集め、雨水は川へ放流し、汚水を処理する。関越道の近くは運動場となっており、運動場に沿ってぐるっと迂回し、柳瀬川の河岸に出る。
柳瀬川の対岸は比高差10m程度の崖線となっている。発達した河岸段丘である。柳瀬川により開削された、というより、太古の多摩川の流れが開いた河岸段丘とのことである。柳瀬川の崖線の向こうの台地は所沢台地。カシミール3Dで地形をチェックすると、このあたりの武蔵野台地は黒目川、柳瀬川、その北の東川(あずまかわ)によって開析された櫛形の開析谷が、平地に合わさる台地端ともなっている。段丘崖の雑木林、河畔林はなかなか、いい。 柳瀬川を西に向かう。柳瀬川の源流は狭山湖の西岸。金沢堀や大沢のあたりである。往昔は狭山丘陵を深く浸食し谷をつくっていたのではろうが、現在は狭山湖建設で上流部は断ち切られ、源頭部は現在ででは、狭山湖堰堤より始まる。丘陵に挟まれた傾斜の緩やかな谷地形を抜けると、清瀬あたりで発達した河岸段丘の地形となる。柳瀬川は清瀬で空堀川を合わせ、その先で所沢台地を刻む東川が合わさるが、東川が合流するまでは北に所沢台地の下末吉面、南に一段低い武蔵野面があり、これらを削り込んだ面のさらに一段低い侵食面を河川が流れている。繰り返しになるが、発達した河岸段丘はなかなか、いい。柳瀬川は志木で新河岸川に合流する。
関越道を潜り先に進む。対岸には滝の城址があるのだが、如何せん橋がない。武蔵野線を越え更に西に進み城前橋に。地図を見ると橋のそばに古い歴史をもつ円通寺や八幡様がある。滝の城を訪れる前にちょっと立ち寄り。
円通寺
このお寺様は暦応3年(1340)、というから南北朝の頃の草創と伝わる古刹。寺伝によれば、新田義貞の弟である義助が鎌倉幕府滅亡後、鎌倉より観世音菩薩立像をこの地に奉持した、と。念持仏としたのだろう、か。お堂を前に下馬させざる者、必ず落馬したため、「馬(駒)止めの観音」と称された、とのことである。山門、庫裡、鐘楼といった構えもいいのだが、中でも長屋門が印象に残る。寄棟瓦葺き(元はかや葺き)、白の大壁、板腰羽目の姿はなかなか、いい。ここは専門道場であった、とか。寺脇の天満天神宮、そのそばにある中世草創の下宿・八幡神社にお参りし、柳瀬川を渡り滝の城に向かう。
滝の城
城前橋を渡る。こちらは所沢市域。橋の北詰めから右に分岐する土の側道に入り、武蔵野線の高架下をくぐり坂道を進む。小さな城山神社の鳥居をくぐり急な階段を上り神社の本殿に。本殿前の平坦地が滝の城本丸跡。本丸の南側は崖面となっており、柳瀬川を挟んで清瀬が見渡せる。比高差20mといったところだろう。
滝の城は室町から戦国時代にかけて、木曾義仲の後裔と称した大石氏の築城と伝わる。加住丘陵の滝山城を本城とした大石定重がこの地に築いた支城である、とも。大石氏は、関東管領上杉家の重臣として小田原北条に備えるも、定重の次の定久の頃、上杉管領勢は川越夜戦に完敗。主家上杉家も上野に逃れるにおよび、大石定久は小田原北条と和を結ぶ。北条氏康の次男氏照を女婿に迎え、滝山城を譲り自らは五日市の戸倉城に隠棲した。上杉管領家滅亡後も岩槻城を拠点に北条と抗う太田資正に対しては、最前線の境の城として重要な拠点となったようだが、その太田氏も北条に下るにおよび、滝の城は川越(河越)城、岩槻城、江戸城との継ぎの城として機能した。滝の城は北条家の関東北進策を進める拠点、清戸の番所として整備された。城に残る遺構はこの時代につくられたようである。
城を歩いて気になったことがある。南面は崖線であり、天然の要害ではあろうが、北面は所沢台地が続くわけで、北からの備えは今ひとつ、といった感がある。もとより、同時の台地上は原野が続いたのではあろうが、それにしても所沢から引又(志木)へ続く道はあったろうし、人が通れないわけでもなさそうである。東川の谷筋から所沢台地に上り、北よりこの城を攻めれば攻略間違いなし、などと思い、あれこれ資料を見ていると、秀吉の小田原征伐の折には浅野長政率いる軍勢は北から攻め入り城を落とした、と。
新編武蔵国風土記稿には、「不慮に北の方、大手の前より襲い来たりしかば、按に相違して暫時に落城せり」とあった。それはそうだろう、と思う。
本丸の社殿を抜け、裏手にまわり二の丸や三の丸の曲輪や土塁、堀、見晴台とおぼしき高みなどを眺めながら堀割、といっても車の通る坂道ではあるのだが、その坂道を下り柳瀬川に戻る。
中里の富士塚
柳瀬川の土手道を西に向かう。発達した河岸段丘の景観はいつまでも見飽きることは、ない。進行方向右手の崖の林、河畔林、進むに連れ左手にも柳瀬川崖線緑地といった崖線も現れる。右手に清瀬金山緑地公園をみながら、金山橋あたりで川筋から離れ中里の富士塚に向かう。金山公園入口から舌状に突き出た低地上の崖道を直進するに、崖下の発達した段丘面の景観は誠に、いい。台地下、柳瀬川沿いの低地に立ち並ぶ宅地を見やりながら先に進み、道を成り行きで南に折れる。先に進むと住宅に囲まれた富士塚があった。文化2年(1805)、中里に冨士講が結成され、文政8年(1825)にこの富士塚が造られた。
富士講は霊峰富士への信仰のための団体。御師のガイドで富士への参拝の旅にでかける。富士塚は富士に似せた塚をつくり、富士に見なしてお参りをする。富士信仰のはじまりは江戸の初期、長谷川角行による。その60年後、享保年間(17世紀全般)になって富士講は、角行の後継者ふたりによって発展する。ひとりは直系・村上光清。組織を強化し浅間神社新築などをおこなう。もうひとりは直系・旺心(がんしん)の弟子である食行身禄。食行身禄は村上光清と異なり孤高の修行を続け、富士に入定(即身成仏)。この入定が契機となり富士講が飛躍的に発展することになる。
食行身禄の入定の3年後、弟子の高田藤四郎は江戸に「身禄同行」という講社をつくる。これが富士講のはじめ。安永8年(1779)には富士塚を発願し高田富士(新宿区西早稲田の水稲荷神社境内)を完成。これが身禄富士塚のはじまり、と伝わる。その後も講は拡大し、文化・文政の頃には「江戸八百八講」と呼ばれるほどの繁栄を迎える。食行身禄の話は『富士に死す:新田次郎著』に詳しい。
清瀬駅
日も暮れた。本日の散歩はこれで終了。富士塚を離れて清瀬駅に向う。地図を見るに、駅に向かって小金井街道が南北に進む。小金井街道は小金井から田無・清瀬を抜け、柳瀬川を清瀬橋で渡り所沢に至る。江戸道とも呼ばれる。上でメモしたように、所沢街道も江戸道と呼ばれる。江戸に向かう道はすべからず江戸道、ということだろう、か。
家康の江戸入府にともない、徳川恩顧の家臣がこの地を知行地とした。清戸村は代官・松木市右衛門、下宿村は石川播磨守、中里村は武蔵八郎右衛門、野塩村は向坂与八郎といった旗本である。江戸初期の頃、未だ江戸の町が整備されていない頃、これら旗本は知行地から江戸へと通勤した、とも言う。通勤路として江戸道が整備されていったのだろう、か。また、青梅の石灰を江戸へ運ぶ道としても「江戸道」が整備されていったのだろう、か。と、あれこれ想い、妄想を巡らせながら清瀬駅に向かい一路家路へと。
道を更に東に進み、下清戸に長命寺。北条家の家紋である「三鱗(うろこ)」をもつこのお寺さまは、小田原北条家の武将・川越城主大道寺駿河守政繁の係累であるお坊様の手により天正18年(1550)に建てられる。いい構えの山門を入ると本堂、薬師堂、鐘楼がある。薬師堂におさめられる薬師如来は室町次代の作。もとは、志木街道の向かいにあり清瀬薬師と呼ばれていたものを、境内に移したもの。
大道寺駿河守政繁は、北条家の「御由緒家」と呼ばれる北条家累代の宿老の家柄として川越の城を預かる。秀吉の北条攻めの折りには、前田・上杉勢と碓氷峠で激しく戦うも、戦いに敗れるや降伏し、一転、前田・上杉勢の先鋒を勤め北条方の行田の忍城や八王子城を攻める。小田原降伏後には、秀吉から、その不忠故に死を賜った、とか。
本堂の前には誠に立派な一対の宝塔が並ぶ。徳川将軍家の正室の墓碑である。また、境内には15基の石灯籠もある。徳川将軍家の法名や正室、側室の法名が記されている、とのことである。はてさて、何故に清瀬のこの地に徳川将軍家ゆかりの宝塔(墓碑)や石灯籠があるのだろう。清戸に尾張徳川家の鷹狩御殿があった、からなのだろうか。はたまた、北条家ゆかりの寺故に、なんらかの縁があるのだろうか、などと、あれこれ妄想を巡らす。で、気になったのでチェックすると、なかなか面白い歴史が現れてきた。
ことのはじめは昭和20年の東京大空襲。徳川将軍家の霊廟(墓所)がある増上寺の大半が灰燼に帰した。廃墟となった霊廟跡は昭和33年(1958)に西武鉄道に売却され、東京プリンスホテルや東京プリンスホテルパークタワーとなる。そして廃墟に散在していた将軍家ゆかりの宝塔や石灯籠は、西武鉄道の手により狭山の不動寺に集められる。一部は狭山不動寺に再建されるも大半は野ざらし。その敷地も西武球場とするにあたり、宝塔や石灯籠の引き受け手を求めたようである。清瀬の長命寺はその時に狭山不動寺から移したものではないだろう、か。何気なく抱いた疑問をちょっと深掘りすると、あれこれと歴史が現れてくる。まことに散歩は面白い。 寺の前の清瀬薬師跡に。いくつかの石材が散在するが、これって徳川家ゆかりの宝塔や石灯籠の一部だろうか。ばらばらの古石材となった宝塔や石灯籠を狭山不動寺より引き取り、組み立て直し復元した、と聞く。
志木街道を更に東へ進み下清戸交差点に。清戸って、日本武尊が東征のみぎり、この地を訪れ、「清き土なり」と言ったのが、地名の由来とか。また、東隣・新座の菅沢村への入り口故の地名、とも。「清」は「すが>菅」との訓読み故に、菅(すが)への戸口、とのことである。地名の由来は諸説、定まること成し。
日枝神社の石灯籠の銘にあったように、清戸の村は小田原北条の支配の頃には、既に畑に鍬が入れられていたようである。文政9年(1826)の『武蔵風土記稿』には上清戸村38戸、中清戸村56戸、下清戸村62戸となっていた(『多摩の歴史2;武蔵野郷土史研究会(有峰書店)』)。
上宮稲荷神社
慶長年代に創建の長源寺を越えたところで北に折れ、清戸を離れ下宿地区に向かう。下宿は柳瀬川に近く水に恵まれており、清戸の畑作と異なり水田が開けていた、という。地名の由来は清戸の台地の下など諸説ある。畑と宅地が混在する道筋を進む。道脇には稲荷の小祠が佇む。清瀬にある21の社のうち11の社がお稲荷さま。個人の屋敷神である一家稲荷や、一族が講をつくり稲荷をまつるものとがある、と言う。この小祠はさて、どちらのものであろう。
先に進み、道の右手に雑木林が見える。林の中の建物は大林組の技術研究所とあった。下清戸を離れ、旭が丘地区に入り旭が丘交番交差点に。道はこのあたりから柳瀬川に向かって下り気味、となる。交差点右手の緑の中に上宮稲荷神社。下宿地区では上組と下組にわかれ稲荷講が組織されたとのこと。この社は上組の稲荷講によって寛永元年(1624)に創建された。 お参りを済ませ、次は下組の稲荷講がつくった松宮稲荷神社へ向かう。このあたりの地区・旭が丘は、往古、下宿とともに清戸下宿と呼ばれていたが、松が丘団地建設を契機として下宿から分かれ旭が丘となった。大規模団地で人口が一挙に増えたことが「分離」の一因だろう、か。
松宮稲荷神社
上宮稲荷前の道を東に進み、関越自動車道を潜り、武蔵野線の手前にある下宿三交差点で南に折れ松宮稲荷神社に向かう。緑豊かな小高い丘に鎮座する。下宿の下組の稲荷講がつくった稲荷の社である。なかなか、いい趣の社。松宮の由来ははっきりしない。が、往昔、この社には十間四方(約18m)に根を張った「円座の松」と呼ばれる松の大木があったようで、それが松宮の名前の由来だろう。新編武蔵風土記にも記されるこの松の大木は、立ち枯れのため大正時代に伐採された。
柳瀬川
松宮稲荷神社を離れ、柳瀬川へと向かう。武蔵野線の高架下を抜け、先に進むと清瀬水再生センター。東村山市・東大和市・清瀬市・東久留米市・西東京市の大部分、武蔵野市・小金井市・小平市・武蔵村山市の一部区域の雨水と汚水を別々の下水道管で集め、雨水は川へ放流し、汚水を処理する。関越道の近くは運動場となっており、運動場に沿ってぐるっと迂回し、柳瀬川の河岸に出る。
柳瀬川の対岸は比高差10m程度の崖線となっている。発達した河岸段丘である。柳瀬川により開削された、というより、太古の多摩川の流れが開いた河岸段丘とのことである。柳瀬川の崖線の向こうの台地は所沢台地。カシミール3Dで地形をチェックすると、このあたりの武蔵野台地は黒目川、柳瀬川、その北の東川(あずまかわ)によって開析された櫛形の開析谷が、平地に合わさる台地端ともなっている。段丘崖の雑木林、河畔林はなかなか、いい。 柳瀬川を西に向かう。柳瀬川の源流は狭山湖の西岸。金沢堀や大沢のあたりである。往昔は狭山丘陵を深く浸食し谷をつくっていたのではろうが、現在は狭山湖建設で上流部は断ち切られ、源頭部は現在ででは、狭山湖堰堤より始まる。丘陵に挟まれた傾斜の緩やかな谷地形を抜けると、清瀬あたりで発達した河岸段丘の地形となる。柳瀬川は清瀬で空堀川を合わせ、その先で所沢台地を刻む東川が合わさるが、東川が合流するまでは北に所沢台地の下末吉面、南に一段低い武蔵野面があり、これらを削り込んだ面のさらに一段低い侵食面を河川が流れている。繰り返しになるが、発達した河岸段丘はなかなか、いい。柳瀬川は志木で新河岸川に合流する。
関越道を潜り先に進む。対岸には滝の城址があるのだが、如何せん橋がない。武蔵野線を越え更に西に進み城前橋に。地図を見ると橋のそばに古い歴史をもつ円通寺や八幡様がある。滝の城を訪れる前にちょっと立ち寄り。
円通寺
このお寺様は暦応3年(1340)、というから南北朝の頃の草創と伝わる古刹。寺伝によれば、新田義貞の弟である義助が鎌倉幕府滅亡後、鎌倉より観世音菩薩立像をこの地に奉持した、と。念持仏としたのだろう、か。お堂を前に下馬させざる者、必ず落馬したため、「馬(駒)止めの観音」と称された、とのことである。山門、庫裡、鐘楼といった構えもいいのだが、中でも長屋門が印象に残る。寄棟瓦葺き(元はかや葺き)、白の大壁、板腰羽目の姿はなかなか、いい。ここは専門道場であった、とか。寺脇の天満天神宮、そのそばにある中世草創の下宿・八幡神社にお参りし、柳瀬川を渡り滝の城に向かう。
滝の城
城前橋を渡る。こちらは所沢市域。橋の北詰めから右に分岐する土の側道に入り、武蔵野線の高架下をくぐり坂道を進む。小さな城山神社の鳥居をくぐり急な階段を上り神社の本殿に。本殿前の平坦地が滝の城本丸跡。本丸の南側は崖面となっており、柳瀬川を挟んで清瀬が見渡せる。比高差20mといったところだろう。
滝の城は室町から戦国時代にかけて、木曾義仲の後裔と称した大石氏の築城と伝わる。加住丘陵の滝山城を本城とした大石定重がこの地に築いた支城である、とも。大石氏は、関東管領上杉家の重臣として小田原北条に備えるも、定重の次の定久の頃、上杉管領勢は川越夜戦に完敗。主家上杉家も上野に逃れるにおよび、大石定久は小田原北条と和を結ぶ。北条氏康の次男氏照を女婿に迎え、滝山城を譲り自らは五日市の戸倉城に隠棲した。上杉管領家滅亡後も岩槻城を拠点に北条と抗う太田資正に対しては、最前線の境の城として重要な拠点となったようだが、その太田氏も北条に下るにおよび、滝の城は川越(河越)城、岩槻城、江戸城との継ぎの城として機能した。滝の城は北条家の関東北進策を進める拠点、清戸の番所として整備された。城に残る遺構はこの時代につくられたようである。
城を歩いて気になったことがある。南面は崖線であり、天然の要害ではあろうが、北面は所沢台地が続くわけで、北からの備えは今ひとつ、といった感がある。もとより、同時の台地上は原野が続いたのではあろうが、それにしても所沢から引又(志木)へ続く道はあったろうし、人が通れないわけでもなさそうである。東川の谷筋から所沢台地に上り、北よりこの城を攻めれば攻略間違いなし、などと思い、あれこれ資料を見ていると、秀吉の小田原征伐の折には浅野長政率いる軍勢は北から攻め入り城を落とした、と。
新編武蔵国風土記稿には、「不慮に北の方、大手の前より襲い来たりしかば、按に相違して暫時に落城せり」とあった。それはそうだろう、と思う。
本丸の社殿を抜け、裏手にまわり二の丸や三の丸の曲輪や土塁、堀、見晴台とおぼしき高みなどを眺めながら堀割、といっても車の通る坂道ではあるのだが、その坂道を下り柳瀬川に戻る。
中里の富士塚
柳瀬川の土手道を西に向かう。発達した河岸段丘の景観はいつまでも見飽きることは、ない。進行方向右手の崖の林、河畔林、進むに連れ左手にも柳瀬川崖線緑地といった崖線も現れる。右手に清瀬金山緑地公園をみながら、金山橋あたりで川筋から離れ中里の富士塚に向かう。金山公園入口から舌状に突き出た低地上の崖道を直進するに、崖下の発達した段丘面の景観は誠に、いい。台地下、柳瀬川沿いの低地に立ち並ぶ宅地を見やりながら先に進み、道を成り行きで南に折れる。先に進むと住宅に囲まれた富士塚があった。文化2年(1805)、中里に冨士講が結成され、文政8年(1825)にこの富士塚が造られた。
富士講は霊峰富士への信仰のための団体。御師のガイドで富士への参拝の旅にでかける。富士塚は富士に似せた塚をつくり、富士に見なしてお参りをする。富士信仰のはじまりは江戸の初期、長谷川角行による。その60年後、享保年間(17世紀全般)になって富士講は、角行の後継者ふたりによって発展する。ひとりは直系・村上光清。組織を強化し浅間神社新築などをおこなう。もうひとりは直系・旺心(がんしん)の弟子である食行身禄。食行身禄は村上光清と異なり孤高の修行を続け、富士に入定(即身成仏)。この入定が契機となり富士講が飛躍的に発展することになる。
食行身禄の入定の3年後、弟子の高田藤四郎は江戸に「身禄同行」という講社をつくる。これが富士講のはじめ。安永8年(1779)には富士塚を発願し高田富士(新宿区西早稲田の水稲荷神社境内)を完成。これが身禄富士塚のはじまり、と伝わる。その後も講は拡大し、文化・文政の頃には「江戸八百八講」と呼ばれるほどの繁栄を迎える。食行身禄の話は『富士に死す:新田次郎著』に詳しい。
清瀬駅
日も暮れた。本日の散歩はこれで終了。富士塚を離れて清瀬駅に向う。地図を見るに、駅に向かって小金井街道が南北に進む。小金井街道は小金井から田無・清瀬を抜け、柳瀬川を清瀬橋で渡り所沢に至る。江戸道とも呼ばれる。上でメモしたように、所沢街道も江戸道と呼ばれる。江戸に向かう道はすべからず江戸道、ということだろう、か。
家康の江戸入府にともない、徳川恩顧の家臣がこの地を知行地とした。清戸村は代官・松木市右衛門、下宿村は石川播磨守、中里村は武蔵八郎右衛門、野塩村は向坂与八郎といった旗本である。江戸初期の頃、未だ江戸の町が整備されていない頃、これら旗本は知行地から江戸へと通勤した、とも言う。通勤路として江戸道が整備されていったのだろう、か。また、青梅の石灰を江戸へ運ぶ道としても「江戸道」が整備されていったのだろう、か。と、あれこれ想い、妄想を巡らせながら清瀬駅に向かい一路家路へと。
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