木曜日, 4月 21, 2011

旧水戸街道散歩;取手宿から藤代宿をかすめ若柴宿に


とある週末。さて、どこを歩こうか、と思えども、特に何処と言って彷徨いたいところが想い浮かばない。そんなときに開くのが『関東周辺 街道・古道を歩く;亀井千歩子(山と渓谷社)』。この本を見て、越後から上州への三国峠を越えたり、厚木の白山巡礼峠道を辿ったりと重宝している。
で、今回もページをめくっていると、旧水戸街道若柴宿の如何にも静かな佇まい、そして集落の先にある「牛めの坂」の写真についた「森に迷い込んだような錯覚に」と言うキャプションに惹かれた。で、少々遠くはあるのだが、この週末は利根川を越え若柴宿へと向かうことに。
ルートは『関東周辺 街道・古道を歩く』のコースを参考に、旧水戸街道の取手宿からはじめ、藤代宿をへて、若柴宿へと進む。結構距離があるようで、同書では、途中藤代宿へと歩くコースは省略され、中抜きをして若柴宿が案内されていたのだが、どうせのことなら一気通貫で取手宿から若柴宿まで旧水戸街道を辿ることにした。

水戸街道(以下、「旧」を省く)は徳川御三家のひとつ・水戸徳川家のある水戸と江戸を結ぶもの。江戸時代に東海道や日光街道など五街道が整備されたが、水戸街道はその五街道に次ぐ重要な街道として、三代将軍家光の頃から整備が始められた。江戸から水戸は、29里31丁約120km。その間に宿駅は19宿置かれ、参勤交代で水戸街道を利用する大名は23家にもなった、とか。もっとも、水戸徳川家は参勤交代の義務はなく、藩主は常府制のもと江戸に住んでおり、中には水戸に戻ったこともない藩主もいたとのことである。

水戸街道を辿るのは今回が初めてである。が、その道筋には散歩の折々に出合った。日本橋を出た水戸街道は一番目の宿である千住宿までは日光街道と同じ道筋を辿る。その「千住宿」を辿ったときは、荒川堤の手前に水戸街道への分岐点の道標があった。水戸街道はそこから東に進み、荒川放水路を越え綾瀬川に架かる水戸橋を渡る。此の辺りも旧中川散歩の折りに彷徨った。もとより荒川放水路は後世、人工的に開削された水路であり、江戸の頃にはその影もない。水戸橋を越えると道は北東へと向かい、現在の常磐線の綾瀬駅と亀有駅の中間点辺りまで進む。常磐線のラインに達した水戸街道は道を東へと向け現在の中川に架かる中川橋方面へと進み、中川を渡しで越えると道は水戸街道2番目の宿である「新宿宿」に入る。クランク形に直角に折れ曲がり、現在の国道6号・中川大橋東交差点の近くでは「水戸街道石橋供養道標」を見かけた。
「新宿宿」からは国道6号に沿って金町へと北東へと進み、常磐線を越える辺りで江戸川に沿って北上し、対岸に松戸を臨む東金町ポンプ所辺りの金町関所跡に向かう。金町関所跡には半田稲荷や小合溜井散歩の折りに出合った。
渡しの先の3番目の宿である「松戸宿」も、宿とも知らず彷徨った。松戸から先は新坂川に沿って馬橋まで進み、北松戸あたりで国道6号に合流。国道を北小金まで進むと、道は現在の北小金駅へと進路を大きく変える。このあたりは水戸街道4番目の宿である「小金宿」があったところである。宿近くの東漸寺には小金牧の野馬除け散歩や小金城趾散歩のときに訪れた。
北小金駅前で再び大きく東へと進路を変えた水戸街道は国道6号と根木内交差点でクロスするが、その交差するあたりは根木内城跡を訪ねた折に彷徨った。根木内から先は国道6号の南を国道に沿って南柏、柏と北東へと進み、手賀沼に注ぐ大堀川を越えた北柏で方向を大きく変え、南東へと水戸街道5番目の宿である「我孫子宿」に向かう。我孫子の町を通る水戸街道は手賀沼散歩の折り、思わず知らず辿ったことになる。
我孫子の町を離れると、水戸街道は再び北東へと方向を変え、利根川手前の国道6号・柴崎交差点で国道に合流し、利根川を渡しを越えて水戸街道6番目の宿である「取手宿」へと続く。思わず知らずではあるが、取手宿まで、結構水戸街道をかすっていたようである。さて、本日はこの取手宿から散歩を始めることにする。
本日のルート;取手駅>長禅寺>田中酒造>旧取手本陣>八坂神社>念仏院>阿夫利神社>本願寺>金門酒造>相谷野川>利根川>来應寺>相野谷川・道標>藤代宿>宮和田宿>八坂神社・熊野神社>小貝川>十一面観音堂>水戸街道合流点道標>江川>若柴宿>金龍寺>星宮神社>御手洗の池>牛めの坂>鬮神社>根柄道>佐貫駅

取手駅
常磐線取手駅に向かう。取手は利根川の東、茨城県になる。散歩で関東各地を結構彷徨ったが、利根川辺りまで足を運んだのはそれほど多くない。古河公方や平将門の旧跡を尋ねて古河市や岩井市・猿島郡猿島町(現在の板東市)など利根川の東を巡ったり、利根川と江戸川の分岐する関宿を訪ねたり、利根川と江戸川を結ぶ利根運河散歩()で運河の利根川口まで足を運んだり、手賀沼を辿った折り手賀川を辿って利根川の木下河岸を訪ねた、といったくらいである。利根川を越えれば何かがドラスティックに変わるわけでもないのだろうが、それでも「はるばる来たぜ」と小声で叫び利根を渡って取手駅に到着。取手の由来は、安政4年(1857)、赤松宗旦の著した『利根川図志』によれば、「地名は山の上に大鹿氏の砦有りしに因れるなるべし」とある。

■取手宿
長禅寺駅を降り、利根川方面へと少し戻り県道11号を左に曲がると、ほどなく丘の上に長禅寺。長禅寺は、大鹿山長禅寺と号し、臨済宗妙心寺派のお寺。縁起によると、承平元年(931年)に、平将門が勅願所として創建した、と。元は旧大鹿村(現在の取手競輪場近く)に建てられたが、江戸時代の初めに取手宿が出来ると共に現在地に移建された。慶安2年(1649)には徳川家光より朱印地を賜ったという古刹である。
境内には結構な本堂、そして山門正面に「三世堂」と呼ばれる観音堂。「過去現在未来之三千仏を安置して三世堂と号し候」、と。三世堂は、文暦元年(1234年)に平将門の弟御厨三郎平将頼を祖とする織部時平が、平将門の守り本尊である十一面観音菩薩像を安置するために建立したという。三世堂は「さざえ堂」形式でつくられている。外からは2層に見えるが、内部は3層で、入口から順路に沿って進むと途中交差することなく3層まで行って一巡できるという。三世堂は百観音堂ともいい、坂東三十三ヵ所、西国三十三ヵ所、秩父三十四個所の百観音を安置している。「さざえ堂」形式の建物は会津散歩の時、飯盛山で出合った。
三世堂の脇に一茶の句碑。「下総の四国廻りや閑古鳥」。長禅寺は、江戸時代に開かれた取手市・我孫子市・柏市にまたがる新四国相馬霊場八十八ヶ所の発願・結願寺である。大師巡礼する人が少なく「閑古鳥」が啼いているのだろうか、とも思ったのだが、「閑古鳥」って、「カッコウ」のことであるので、「カッコウ」が啼いている風情を描いたものであろう、か。ちなみに、流山散歩の折り、一茶はその地の醸造家・秋元双樹の知遇を得て、この地一帯に頻繁に訪れた、とメモした。この吟行もその折りのことではあろう。

平将門
この長禅寺は平将門が祈願所として創建した、とメモした。この地と平将門の因縁をトレースすると、10数年に及ぶ京の都での御所の警備、禁裏滝口の衛士を終え、相馬の御厨の下司として下総に戻ってきたときに遡る。相馬の御厨は取手の北西、関東常磐線・稲戸井近く米ノ井・高井戸辺りにあり、将門は館を取手の東、守谷に構えた、と。
そもそも、この地は将門一門・遠祖のゆかりの地。平将門の祖である桓武天皇の第四子葛原親王は9世紀の中頃、常陸の大守に。遥任であり任地に赴くことはなかったが、その孫の高望王は上総介となり東下。朝敵を平らげる、ことより「平」姓を賜る。高望王は任地上総の四周を固めるべく長子の国香は下総国境の菊間(鎮守府将軍)、二男の良兼は上総の東北隅の横芝、三男の良将は下総の佐倉に、四男良?(よししげ)は上総東南隅の天羽に館を構える。
将門は三男の良将の子である。良将は下総国相馬郡の犬養春枝の娘と結ばれたが、犬養家は「防人部領士」、簡単に言えば防人のトレーニングセンターの長といったものである。トレーニングセンターは関東常総線・新取手近くの寺田、その館は関東常総線・戸頭近くの戸頭にあった、とか。この地は将門が下司となった相馬御厨の東隣り。利根川以北の相馬郡の東は犬養家の所領、西は御厨といったところである。ことほどさように、この取手と将門は因縁浅からぬ地であった。将門と言えば、その本拠は豊田郡鎌輪(下妻市)であり、猿島郡岩井(板東市)との印象が強いが、それは伯父達との争いに端を発する天慶の乱の展開により、本拠を移したことによる(天慶の乱のあれこれのメモはこちら)。

奈良漬けの「新六」・田中酒店

長禅寺参道の入口に「奈良漬の新六」、その横に田中酒店。奈良漬けは取手の名産と言う。奈良漬けと言うくらいであり、元は奈良時代に奈良の都に遡る。「奈良漬の新六」のHPによれば、長屋王の邸宅跡から発見された木片には粕漬の記載が残るとあるが、白瓜などを酒粕でつけた粕漬は当時は貴族階級が好む高級食品であった、とか。その後庶民にも広まり、また江戸の将軍家も奈良漬けを大層好み、奈良から奈良漬けの御用商人を呼び寄せた、とある。
取手の奈良漬が名産地である由縁は、関東平野を流れる利根川水系と夏野菜を育む豊かな土壌。特に茨城県南部は奈良漬の原料である瓜や胡瓜などを栽培するのに適した地域であり、また銘醸地としても知られている石岡や水戸など関東地方屈指の酒どころがあり、これらの県産酒から産出される酒粕が芳醇な奈良漬を生み出す元となっている、とのことである。「奈良漬の新六」の奈良漬けは先々代田中新六が明治元年(1868)に発売を開始。屋号はその名前による。

そのお隣に明暦元年(1655)操業という「田中酒店」。軒先の杉玉が酒屋の証し。利根川の砂礫層を通ってきた豊富な伏流水と後背地の相馬、谷和原の穀倉地帯が「君萬代」という世に知られる銘柄を生む、と。「君萬代」の名前の由来は明治17年(1884)、明治天皇の牛久での陸軍近衛砲兵連隊の演習の時に遡る。行幸途上に飲んだこの造り酒屋の井戸水がことのほかお気に召され、演習滞在中ずっと愛飲することとなり、この名が下賜されたとのことである。

旧取手宿本陣跡
田中酒店から5,6分ほど街道を進むと旧取手宿本陣の染野家がある。街道から少し奥まってとことにあり、細い路地を入ると寄棟総茅葺きの建物がある。寛政7年(1795)建築とのことである。
取手宿は宿駅に指定されたこの本陣を備え(脇本陣はなかったよう)、公用の人馬として人馬25人、25匹を常備しその役を果たすと共に、利根川舟運の河港として栄え、水戸藩と諸藩の御穀宿(ごこくやど)、回船問屋が立ち並び、利根川に並行するように形成された街並みには江戸の後期二百近くの商店が軒を連ねていた、とのことである。

江戸・水戸を結ぶ水戸街道は距離にして、29里19町(116キロ)、宿場は19駅。飛脚は2日、二十数家と言われる参勤交代の大名行列は2泊3日で水戸街道を抜けた、と言う。水戸藩は江戸常府であり参勤交代の必要はなかったが、家臣の往来は激しく、江戸勤番は土浦宿と小金宿が指定の宿泊所。そのほか取手・藤代・牛久・府中(石岡市)宿にも指定宿泊所があった、とのことである。水戸街道は三代将軍家光の頃から整備が始まったが、当初の水戸街道はこの取手を通っていない。17世紀前半の取手は一面の湿地帯であったため、水戸街道は我孫子宿から利根川(当時は利根川の遷事業が完成していないので、正確には鬼怒川)右岸を下流に向かい、布佐で渡河して龍ヶ崎を経由し、若柴宿へと進んだと言う。
取手宿が宿駅に指定されたのは天和年間から貞享年間にかけての時期(1681年~1688年)のことである。承応3年(1654)には利根川東遷事業も終え、小貝川が合わさり暴れ川であった鬼怒川も利根川に注ぐようにその流路を変えており、取手辺りも氾濫原から解放されたのであろう、か。とは言うものの、取手宿と次の藤代宿の間は依然として利根川や小貝川が氾濫し、街道の道筋は4本あった、とのことである。因みに、水戸藩主として最初に取手を通行したのは徳川光圀。天和2年(1682)のこと、と言う。

八坂神社
旧本陣から3~4分歩いた先に八坂神社。旧取手市の上町、中町、片町の鎮守であったこの社の創建は寛永3年(1626)。拝殿は天保3年(1832)の建築。本殿は明治39年(1906)の建築。本殿も拝殿も名工として知られる笠間の後藤縫殿之助・保之助親子の手になるものである。
因みに、片町と言う旧地名であるが、この地名は洪水や山崩れなどの危険が大きいため、街道の片側にしか町並みが作れなかったところが多い。取手宿の片町も右手に利根川の土手が迫り、その洪水被害の故に片側だけに街並みが造られたのであろう、か。土手には利根川を渡る小堀(おおほり)の渡しがあった、とか。

念仏院急な石段脇の庚申塔を見やりながら境内に。本堂と大師堂にお詣り。参道に句碑が一基。「駒形茂兵衛 とほりし路次の 朧かな 遊子」。長谷川伸の『一本刀土俵入り』はこの取手が舞台となっている。主人公・茂兵衛は取手宿の酌婦お蔦に声を掛けられ、施しを受けて力士になるべく江戸へ。が、結局力士になりきれず、それでもお蔦への御礼言上のため、渡世人崩れの若い衆として再び取手宿へ。と、地回り(やくざ)と諍いを起こす、いかさま賭博師登場。その賭博師がお蔦さんの亭主と知り、地回りからお蔦を助ける。




はじめは茂兵衛を思い出すことのなかったお蔦ではあるが、地回りに応戦の「構え」をとった茂兵衛の姿に。「あの時の」と思い出す。去り際の決め台詞がこれ。「10年前、櫛・簪、巾着ぐるみ意見を貰った姐さんに、せめて見て貰う駒形の、しがねえ姿の土俵入りでござんす」、と。
茂兵衛が利根を渡ったのは、八坂神社裏の小堀の渡し、とか。また、取手を舞台としたのは、長谷川伸の父が土木業であり小貝川の工事に従事しており、長谷川伸も子供の頃、この辺りによく遊びに来ていたため、戯曲の舞台とした、と言う。

阿夫利神社
念仏院を離れ、県道11号を進む。駅前から南東へと下ってきた県道が、北東へと方向を変える一筋手前の道が旧水戸街道。道標があるようだが見落とした。道を左に折れて先に進むと高台にささやかな社。それが「阿夫利神社」。神奈川県伊勢原市の大山・阿夫利神社の分神で昭和13年(1938)の建立だとか。




水戸街道・本通り

阿夫利神社の先の水戸街道は再び方向を南東に変え、利根川の堤防近くの吉田八幡神社へと向かい、そこで方向を北東へと変えて一直線で藤代宿へと向かう。昔の長兵衛新田→吉田村→小泉村→酒詰村→米田村→谷中村→藤代宿へと向かうこの道筋は取手宿から藤代宿へと向かう4つの道筋のうち「本通り」と呼ばれていた。



本願寺
旧水戸街道と県道11号が交差する辺りの北、青柳の地に本願寺がある。境内には簡潔明瞭な日本一短い手紙として知られる「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の碑がある。何故にこの地に、との好奇心から、水戸街道を離れ寄り道することに。
山門をくぐり、鐘楼を見やり、開山堂、本堂にお詣り。境内に楕円形の手紙を刻んだ石碑があった。手紙の主は鬼作左として怖れられた家康股肱の臣である本多作左こと重次。手紙は天正3年(1575年)の長篠の戦いの陣中から妻にあてて書いた手紙である。この「お仙」は当時幼子であった嫡子仙千代(成重・後の丸岡藩主)のことである。意味は詠んでの通り。
で、その家康股肱の臣の手紙が何故この地に、ということであるが、家康が関東の地に移封された後、秀吉の命により鬼作左は、最初は上総国古井戸(小糸とも。現在の千葉県君津市)に、その後、この地下総国相馬郡井野(現在の茨城県取手市井野)に蟄居を余儀なくされた。その理由は度重なる秀吉への反抗。家康上洛の人質として預かった秀吉の母を一旦事あれば火をかけるべしと、薪で囲んだ部屋に泊めたり、北条征伐の帰途、岡崎城に立ち寄った秀吉の再三におよぶ呼び出しにも応じず接待を断ったりと、家康の家臣として秀吉への「矜持」を示した。
本多重次が蟄居先でむなしくなったのは文禄5年(1596年)。家康が江戸に幕府を開き征夷大将軍となったのは慶長6年(1603)のこと。もう少し長生き、といっても68歳でなくなっているので、70歳を過ぎるが、それであれば蟄居先での、といった状況はなくなっていただろう。この本願寺は本多重次の菩提寺で、重次着用の甲冑、徳川家康から拝領した黄金の扇子、団扇など遺品が展示されている。

金門酒造

本願寺脇の道を成り行きで進む。道が県道229号に合流する手前に金門酒造。古き建物が残る。天保五年(1834)、取手宿の東、名水で知られる小文間村、現在東京芸大があり小貝川が利根川に合流する辺りにて創業。一時中断した時期もあるが、昭和7年(1932)、この地青柳に移り酒造りを続けている。金門の銘は、当主が代々襲名してきた「金左衛門」の、「金」と「門」の字に由来する。






相野谷川
金門酒造から旧水戸街道に戻る。県道229号を横切り、田圃の農道を南東へと一直線で進む。用水路を越え昔の長兵衛新田→吉田村→小泉村と進む旧水戸街道本通りに。ここを一直線に北東へと上れば藤代宿ではあるのだが、何を思ったか利根川を東側から眺めたくなった。
で、旧日光街道本通りを通り越し、更に南東へと一直線で進むと相野谷川に。取手市寺田に源を発し、取手市小文間の排水機場で利根川に合流する全長5キロ強の小河川である。流路には川戸沼とか成沖とか、新田沼といった如何にも湿地であった往昔のこの地の名残を留める地名が残る。相野谷川は元は源流は湧水であったようではあるが、現在は都市型排水路の流末といったものになっている。





利根川の堤

相野谷川に沿って利根川へと向かう。利根川浄水場、相野谷川排水機場を越え利根川の堤に。利根川は新潟と群馬の県境に広がる三国山脈の大水上山にその源を発し、水上、高崎へと南下。高崎辺りでその流路を東に変え、群馬と埼玉の県境を流れ、関宿で江戸川を分流。その後は、おおむね茨城と千葉の県境を下り、茨城県神栖市と千葉県銚子市の境で太平洋に注ぐ、全長約322キロ。信濃川に次ぐ日本第二の大河川である。

■利根川東遷事業
現在の利根川の流路は以上の通りであるが、この流路は江戸時代に行われた利根川の東遷事業によって造られたもの。それ以前の利根川筋は栗橋より下流は現在の大落古利根川、中川の流路を南に下り、途中で昔の荒川筋(現在の綾瀬川。荒川は西遷事業により西の入間川筋に移された)と合流し江戸湾へと注いでいた。
利根川の東遷事業とは、江戸湾に注いでいた利根川の流路を東へと変え、銚子へと流す河川改修事業のことである。大雑把に言えば、南へと下る流路を締め切り、その替わりに、東へと下り銚子方面へと注ぐ川筋に繋ぐという工事である。締め切り工事のあれこれは利根川東遷事業の散歩メモに任せるとして、東流する流れとして利用された常陸川の川筋についてメモする。
常陸川は近世になってからの名称であり、将門の時代には上流部は広川(河)とも呼ばれ、現在の利根川・江戸川分派付近を北端に、途中長大な藺沼(いぬま)を経て毛野川(鬼怒川)を合わせ、霞ヶ浦・印旛沼・手賀沼を合わせた広大な内海である香取の海に注いでいた。
広川は川とは言うものの、狭長な谷地田の流末に発達する大山沼・釈迦沼・長井戸沼などの沼沢の水を集めて流れる小河川であり,その流れは現在の菅生沼・田中・稲戸井遊水池付近にあった藺沼という浅い沼沢地に注ぐわけであり、川と言うより沼沢地の連なり、と言った方が正確かもしれない。ともあれ、南流を締め切った利根川の流れと、この常陸川(広川)を繋ぐ水路を新たに開削し、利根川の流れを江戸ではなく銚子方面へと向けたわけである。
利根川東遷事業の目的は諸説ある。従来、江戸を水害から守るため、といった説が唱えられているが、それと同じく銚子から江戸への船運の開発、そして香取の海を干拓し新田開発を行うため、といった説もある。実際、利根川と常陸川を結ぶ水路開削の前に、鬼怒川と小貝川の分流工事を行っているが、その目的は治水・利水事業でもあり、船運開発のためでもある、とする。
下妻から水海道へと下ってきた小貝川を合わせた鬼怒川は大木丘陵にぶつかってからは南東に流れ、竜ヶ崎の南方で常陸川に合流していた。その鬼怒川を寺畑(現在谷和原村)で小貝川と分け、大木丘陵の開削を開削することによって鬼怒川は南流し常陸川に合流。この工事によって鬼怒川の常陸川への合流点は約30Km上流に付け替えられた。この目的は細流であり小舟がやっと通れる程度で船運に適しない常陸川の上流の水量を増やす試み、とか。
また、新田開発説であるが、古来より「香取の海」と呼ばれ、霞ヶ浦・印旛沼・手賀沼などが一帯となった広大な内海が利根川の東遷事業によって、上流から運ばれた土砂の堆積が進み、多くは低湿地の沖積平野と化し、その地に江戸の頃から本格的な新田開発がはじまる。潮来市(茨城県)や旧佐原市(現香取市、千葉県)が陸地化されたのは江戸時代になってからと言われるが、それは利根川の流れを堤防で固定化し、周辺の低湿地の水を抜き干拓・陸化していった苦難の新田開発の賜とのことである。
江戸防衛説、舟運説、そして新田開発説と、あれこれ説はあるも、元より門外漢のお散歩人が説の是非を論ずる力はない。が、利根運河散歩で感じた銚子と江戸を結ぶ船運の繁栄、広大な香取の海が陸化する過程を示す地図(絵図)や流域に残る多くの「新田」を見るにつけ、洪水から江戸を護る、といった説よりなんとなく上記2説のほうが、納得感がより高い。

来應寺
利根の堤を離れて日光街道へと戻る。相野谷川に沿って進むと来應寺。浄土真宗大谷派のこのお寺さまの創建は寛永元年(1624)。江戸時代中期に建てられた本堂は入母屋、銅板葺。江戸時代の寺院建築として取手市指定有形文化財に指定されている。また、阿弥陀如来画像、光明本尊像、高僧坐像、聖徳太子画像、阿弥陀如来木像、方便法身尊号(3点)などといった寺宝を多数所有することで知られているようだ。

道標

先に進み水戸街道の道筋にあたる。相野谷川に架かる"どばし(土橋)"の袂には道標があり、「来應寺七丁(約760m)江戸十一里(約43Km)水戸十八里(約71Km)」と記されている。
また、橋には「旧陸前浜街道」のプレートが架かる。「陸前国」とは現在の宮城県と岩手県の一部。「浜街道」は海岸沿いの道のこと。明治5年(1872)に水戸街道とその先の岩城相馬街道を合せて「陸前浜街道」とする通達により、この街道名ができたが、明治18年(1885)に「国道6号」と名称変更が行われたため、「旧」陸前浜街道となっている。

橋を渡り、一面田圃の中を一直線に旧陸前浜街道こと、水戸街道「本通り」は進む。上で取手宿と藤代宿の間は小貝川や利根川の氾濫も多く、ルートが4本あったとメモしたが、ひとつはこの本通り、第二は「中通り」と呼ばれ、取手宿→井野村→酒詰村→谷中村→藤代宿と進んだ。このルートは現在のJR常磐線に沿った道筋である。第三のルートは「水戸往還椚木廻り道」と呼ばれ、取手宿→桑原村→毛有村→椚木村→藤代宿と進む。中通りより500m程北側、国道6号線にやや近いルートである。そして第四のルートは「大廻り道」。取手宿→寺田村→和田村→小貝川堤防沿→藤代宿と進む。取手から小貝川に沿って藤代宿へと向かうルートである。

清水の五叉路
先に進むと道脇に用水堀や水門が見える。此の地に限らず、取手宿からの水戸街道本通りには幾つもの用水路が交差している。少し気になりチェックすると、利根川堤から相谷野川の間には「利根水支線」、相谷野川から小貝川の間には「西郷用水幹線(戸井田排水機場で小貝川に合流)、「西浦川」、「五箇村用水(北浦川から分流し西浦川を越えて小貝川に合流)」、「北浦川」、「裏郷用水幹線」といった用水路が北から南に通っており、その北端はどれも小貝川の「岡堰」辺りとなっている。

岡堰とは小貝川に設けられた治水・利水用の堰。江戸幕府の利根川東遷事業の一環として行われた鬼怒川と小貝川の完全分離と新河道掘削による鬼怒川の常陸川(後の利根川)への付け替え工事により、従来、鬼怒・小貝両川の氾濫源であった谷原領、大生領(常総市辺り)一帯は両川合流の水勢から解き放たれ、水量の安定した一帯の新田開発が可能となった。その小貝川には、関東郡代伊奈氏によって、福岡堰、岡堰、豊田堰が設けられた。関東流とも溜井方式とも称される伊奈氏の治水・利水工法によって造られたこれらの堰はその規模もあり、関東の三大堰とも称されるが、その堰の力もあってか新田の開発が進み、「谷原領三万石」「相馬領二万石」などと呼ばれる新田地が誕生した、と言う。現在豊かな田圃が広がるこの一帯も、元の相馬領の一部。二万石の一端ではあろう。
とはいうものの、小貝川は勾配が緩やかで、河川氾濫の継続時間が長く、かつまた利根川からの逆流現象も多かった、とか。昭和になっても昭和56年や61年には利根川からの逆流や小川川自体の破堤により洪水被害に見舞われている。街道筋家の塀と敷地が道筋より、心持ち高いのは洪水対策ではあろう、か。





藤代宿

相馬神社北浦川とおぼしき用水路を越え、先に進むと常磐線と交差。踏切にある「旧陸前浜街道」の案内を見やり、谷中本田交差点を先に進むと藤代宿に入る。宿とは言うものの、昔日の宿の面影を伝える民家はあまり、ない。先に進み、やっと出合った旧家(坂本呉服店)のところで街道は直角に曲がる。この呉服店は『橋のない川』で知られる小説家・住井すゑお気に入りのお店であったようで、住まいのある牛久から通っていた、とのことである。その角の手前で、取手宿から藤代宿を結ぶ4つの旧水戸街道のうちの大廻り道と椚木廻り道が本通りに合流する。

直角に曲がる水戸街道の西脇に相馬神社が佇む。元相馬領の相馬神社と言うことで、それなりの構えを想像していたのだが、こじんまりとした社であった。案内によれば「建立は元亨元年(1321)」と極めて古い。「安政2(1855)年に火災で焼失し、應応3(1867)年に再建された。社殿の材質は総けやき造り、屋根は銅板葺流れ造り、向拝(こうはい)柱に見事な龍の彫刻があり、大床下や三方の壁面脇障子全体が豊麗な彫刻で飾られている。明治40年、八坂神社・富士神社を合祀して相馬神社と称した。元八坂神社は、藤代・宮和田両宿の総鎮守であった」、と。見事な彫刻を見るべく拝殿裏の本殿に廻る。周囲を囲われた隙間から彫刻を眺める、のみ。

■相馬
相馬神社には関係ないのだが、相馬って、福島県相馬市の相馬の野馬追いのイメージが強く、この地と相馬が今ひとつ結びつかない。チェックする。相馬の元となった相馬郡(そうまぐん)とは律令制による行政区分で、下総国に存在した郡である。その本家本元の相馬郡は明治8年(1875)に茨城県と千葉県に分割され、明治11年(1878)には茨城県北相馬郡と千葉県南相馬郡となる。茨城県北相馬郡は現在の北相馬郡利根町、守谷市の全域、取手市のほぼ全域、常総市の一部、つくばみらい市の一部、龍ケ崎市の一部からなる一帯であったが、現在相馬の名前を残すのは北相馬郡利根町のみ、である。また、千葉県南相馬郡は我孫子市と柏市の一部からなっていたが、現在は相馬の名は消滅した。
一方の福島県の相馬市であるが、これは中世下総国相馬郡を領した平良文の流れ(下総平氏)を継ぎ、将門の勢力範囲であった下総と、上総の全域を領し、本拠を千葉に置いたが故に後世千葉氏を称した千葉宗家まで遡る。この千葉宗家の第五代常胤、常胤は頼朝の挙兵に協力したことで知られるが、その常胤の二男帥常をもって守谷に館を構え「相馬家」を継がせた。この帥常は頼朝の奥州征伐に従い、その軍功により陸奥国行方郡(現在の福島県相馬市)を賜るも、以降数代は守谷に館を構えたままであったが、相馬家第五代胤村の時にその領地を子に分け与え、胤村の五男である帥胤が陸奥国を領することになり、奥州に下り土着した。これが奥州相馬家の始まりである。
奥州相馬氏の支配はこの鎌倉期から明治維新まで連綿と続く。このように長期間に渡り同じ領地を統治したのは鹿児島の島津、熊本の相良氏を除き極めて稀なケースと言われる。相馬の野馬追いも、平将門を遠祖とする奥州相馬氏が、下総相馬郡での将門が行った軍事訓練をそのはじまりとする、とか。ともあれ、元地の相馬を離れた奥州相馬氏が、下総平氏=千葉氏宗家=相馬氏=奥州相馬氏と連綿と続く「相馬」のアイデンティティを福島の地に強く伝え続けているのだろう。
一方の下総の相馬郡であるが、その地を領した千葉氏は秀吉の小田原攻めでその居城である相馬城が陥落。その後、家康が江戸に入府すると、甲斐の菅沼氏が守谷に守谷藩を立藩。その後、幕府の直轄領となったり、土岐氏(菅沼氏が改称)が戻ってきたり、また、天領に戻ったり、佐倉城に入った掘田氏、酒井氏の領地となったり、関宿藩久世氏の領地となったりと、めまぐるしく支配者が変わっている。一流が支配を続けた福島の相馬とは大変な違いである。こんなこともあって、相馬=福島といったイメージが強いのか、とも思う。

小貝川
相馬神社を離れ、休憩を兼ねて神社の裏手、小貝川の堤防下にある藤代図書館に。取手や藤代、茨城に関する郷土資料が揃った近代的な建物で、あれこれと資料を読み、メモをとる。図書館内には喫茶もあり、食事をとり終え、小川の堤防に上りしばし風景を楽しむ。

小貝川は、栃木県那須烏山市曲畑の小貝ヶ池に源を発し南へ流れる。五行川、大谷川等の支流を合わせ、茨城県水海道地先で流向を南東に変えて茨城県取手市、北相馬郡利根町と千葉県我孫子市の境で利根川へ合流する全長112kmの川。

既にメモしたようの、かつては鬼怒川に合流し、暴れ川として下流に氾濫原をつくっていたが、利根川東遷事業の一環で、鬼怒川と小貝川を常磐自動車道・谷和原インターの北にある寺畑辺りで分離し、鬼怒川は大木丘陵を開削した水路によって利根川に注ぐようになり、水量・流路の安定した小川川流域に新田開発が盛んにおこなわれることになった。因みに「小貝川」の由来は、流域に貝塚が多く見られるため、とか。

藤代宿本陣跡
小貝川の堤防から相馬神社に戻り、取手宿から来た道筋が直角に曲がる旧水戸街道を少し東に進むと中央公民館がある。その昔、此の地に藤代宿の本陣があり名主の飯田家が代々その努めを果たしていたが、1950年の昭和の町村合併で誕生した旧北相馬郡藤代町の庁舎建設のため取り壊され、現在は当時の「本陣松」の他に名残は何もなく中庭に案内があるだけであった。
藤代宿が水戸街道の宿場町に指定されたのは、天和年間から貞享年間(1681年~1688年)の頃。既にメモしたように、それ以前の水戸街道は我孫子宿から利根川(当時鬼怒川)右岸を下流に向かい、布佐で渡河して龍ヶ崎を経由し、若柴宿付近で合流していた。そのため、藤代宿が正規の宿場町に指定されたのは、水戸街道の他の宿場町より、多少遅れた、ということである。
また、藤代宿は、江戸側の藤代宿と水戸側の宮和田宿のふたつの宿からなり、本陣などの宿場町としての役務も持ち回りとなっていた。なお宮和田宿の本陣についての記録が残されておらず詳細は不明、とのことである。

宮和田宿
道を進み国道6号・片町交差点に。片町って、取手宿のところでメモしたように、洪水や山崩れなどの危険が大きいため、街道の片側にしか町並みが作れなかったところに名付けられることの多い地名。往昔暴れ川であった小貝川が北に、それも「大曲」しており、洪水の時には最も危険な地形である。それはともあれ、片町交差点を越えてまっすぐに進むと道は東へと曲がる。曲がり角には愛宕神社。寛永年間に京都愛宕神社より鎮座し、享保2年に社殿を建てた、と。現在の社殿・拝殿は昭和59年に改修。覆屋でおおわれた社殿にお詣りし、宮和田宿を進む。
数軒ばかりの宿場の名残を残す宮和田宿を進み、小貝川の手前の八坂神社で左に折れ、熊野神社脇を通り文巻橋西詰に。八坂神社と熊野神社はほとんど同じ敷地にあり、宮和田の渡し跡に近く、往還する多くの旅人がお詣りしていったのではあろう。熊野神社本殿は嘉永4年(1851年)の再建であるが、創建は室町期、この地を領した千葉常胤とも、その子孫である戦国期の千葉俊胤とも伝わる。本殿は囲われ、中は伺い知れない。

文巻橋
当時小貝川は下総国と常陸国の国境で、その国境越えのための宮和田の渡し場は、文巻橋の100m程下流、先ほどの八坂・熊野神社と小貝川対岸の若柴宿側の慈眼院観音堂辺りを結んでいた、とか。

小通十一面観音堂

小貝川を挟んで宮和田宿の八坂・熊野神社の反対側に小通十一面観音堂。恵心阿闍梨の作とされる十一面観音像(小通観世音)を本尊とする。市の案内をまとめると;「寺伝によると、天慶年間(938~947)に平貞盛が父・国香の菩提を弔い、寺領の民心を安定させるために、龍ヶ崎市の川原代に安楽寺を、この地小通の川岸に観音堂を建立したのが、小通幸谷の十一面観音の始まり、と。
天正の初め(1753~)、若柴の金龍寺の開祖である新田義貞の後裔、と言うか、新田家を乗っ取ったとも言える由良国繁は、牛久城主である岡見家一族の供養のために七観音八薬師を建立。その後、観音堂は清水山慈眼院とあらためられた。
十一面観音は眼病に霊験があると信じられ、多くの参詣者で賑わうも、明治初年の神仏分離令に際し、廃寺になり、その後、明治8年(1875)村中の総意により七観音八薬師の由緒をもって若柴の金龍寺の末寺として曹洞宗のお寺さまとして再興された。現在の堂宇は貞享2年(1685)に再興されたもので、修復を重ねて今日に至っている、と。
この観音堂、慈眼院と、お寺さまとはいうものの、境内入口には鳥居があり、本殿も如何にも神社風。明治の神仏分離令までは神仏習合のお寺というか神社であったわけで、その名残ではあろう。

■平国香と貞盛
ここに登場する平国香と貞盛について。国香は既に述べたように、高望王の長男。将門の叔父にあたる。貞盛は国香の嫡子である。国香と貞盛は将門にとっては敵役。特に貞盛は徹頭徹尾、将門と争い藤原秀郷とともに将門を討ち取ることになる敵役である。
ことの発端は野本合戦。京より戻った将門は相馬御厨の下司として、また、北総の地の開拓をおこない国土経営につとめるが、荘園拡張を計画する常陸大掾・源護の息子が将門を待ち伏せ。殺すつもりはなく、単に脅しのためだけであった、とも言われるが、結果的に将門の反撃により源護の息子3人戦死。源護を助けた国香も傷がもとでなくなる。場所は明野町赤浜、と。国香の館は明野町東石田。赤浜の直ぐ近くにあり、源護は息子貞盛の義理の親でもあり、国香自身も源護の後を継ぎ常陸大掾(大掾とは国司の位階といったもの)となっていたり、といった関係もあり、援軍に出向いたのであろう。
平良正(扶らの姉・妹婿)が将門への復讐戦をはじめる。が、力不足のため良兼に助け求める。戦は将門有利。下野国分寺(栃木県下野市;小金井駅の近く)まで良兼を追い詰めるも、最後は見逃す。ここからが一族が相い争う「天慶の乱」のはじまりとなる。
国香の嫡子である貞盛は叔父の良兼や良正と共に将門と対立。将門と抗争を繰り返し、途中経過のあれこれは省くが、結局は天慶3年(940)、藤原秀郷とともに将門を討つ。人物評は将門贔屓の書籍では狷介な人物として描かれるが、本当のことはよくわからない。それはともあれ、平清盛に繋がる伊勢平氏はこの貞盛の四男である維衡からはじまる。歴史にIFは無意味とも思うが、もし貞盛が。。。、とすれば、今年の大河ドラマの主人公である平清盛は。。。、といった妄想を禁じ得ない。

八間掘
道なりに進むと常磐線の踏み切り。龍ヶ崎街道とある。上でメモしたように、取手宿から藤代宿を経由する道筋ができる以前は、我孫子から利根川を下り布佐から竜ヶ崎を経て若柴に続く道がメーンルートであったとのこと。その故の「竜ヶ崎街道」であろう、か。
右手に牛久沼排水機場を見て道なりに左折して行き、小貝川と牛久沼を結ぶ水路(八間掘)に架かる往還橋を渡る。橋の東詰には治水碑。利根・小貝の逆流による洪水被害に苦しむ、この地区の人々が八間掘に逆水を遮る堰を造った暦祖が刻まれる。牛久排水機場はその現在の姿、ということであろう。

平国香の慰霊塔

車道(県道5号竜ヶ崎潮来線)と合流する。角にささやかな地蔵が立つ。結構新しいようであり、交通安全を祈るものだろう。県道を少し南に下り、訓柴小交差点脇に、誠に小造りの屋根付きの石碑。中にはお地蔵様とその後ろに道標が立っている、とか。「右 りゅうがさき なりた 左 わかしば」と刻む、とのことだが、摩耗され全く読めなかった。






この馴芝小入口交差点から少し下った、城西中学校の辺りに平国香の慰霊碑があるとのことで、街道を離れてちょっと寄り道。道を辿ると、城西中学校近くの雑草に覆われた一角に、それらしき宝塔の上部のみが置かれている。案内も何もないので、はっきりしないが、近くにあった安楽寺にお詣りすると、飛び地に平国香の宝塔が建つ、と案内あったので、間違いはないだろう。それにしても、平国香って、将門に比して人気がない。





訓柴小の道標
馴芝小入口交差点まで戻り、道標の前の道を進み、関東鉄道の踏切を越える。右側に訓柴小学校を見ながら進み突き当たりの三叉路角、学校の中に道標。案内板によると、「文政9年に建立され、三面に水戸16里 江戸13里 布川3里と彫られている」。
ここが取手宿を通ることなく、我孫子宿から利根川(当時は利根川の遷事業が完成していないので、正確には鬼怒川)右岸を下流に向かい、布佐で渡河して龍ヶ崎を経由し、若柴宿へと進んだ初期の水戸街道と、その後、取手宿を経由し藤代宿から若柴宿へ通ることになった水戸街道が合流した地点、ということであろう。
「江戸時代に江戸と水戸を結ぶ交通路は水戸街道と称され、五街道に次ぐ重要な脇街道であった。初期の水戸街道は、我孫子から利根川に沿って布佐まで下り、利根川を渡って布川、須藤堀、紅葉内の一里塚をたどって若柴宿に至る街道(布川道)と、取手宿、藤代宿を経て小貝川を渡り小通幸谷若柴宿に入る道があった。この二つの合流点、現在の市立馴柴小の北東隅の三叉路にこの道標(里程標)がたてられ、三面に水戸十六里、江戸十三里、布川三里と通ずる方角とそれぞれへと里程が刻まれている。
裏面には「この若柴駅街道の碑は、文政九年(1826)十二月に建立した。三叉路で旅人が迷い易いので若柴駅の老人が相謀り、普門品一巻を読誦する毎に一文ずつ供えて積み立てた」とあり、十五名の村民の姓名が記されている。
明治5年(1872)に水戸街道は陸前浜街道と改称され、明治15年(1882)11月には牛久沼淵の道路が開通した。そのため台地を通る街道はさびれ、若柴駅(宿)も宿駅としての機能を失った。この道標は若柴駅(宿)街道の碑として往昔の陸上交通の盛んであった面影を偲ばせるものである」、と案内にあった。

■若柴宿

常磐線・佐貫駅前から通る県道271号を越えると一面の田圃。その先に高台が見える。若柴宿は小貝川や牛久沼流域の低湿地を開いた田圃の先にみえるその台地上にある。
江川など牛久沼より流れる割と大きな用水路をふたつほど越えると坂道。台地に上るこの坂道は大阪と呼ばれる。台地上にある若柴宿へは、この大阪の他、南から延命寺坂、会所坂、足袋屋坂、鍛冶屋坂といった坂が並ぶ。




八坂神社
上がりきると街道は又定石どおり直角に曲がっているが,角に八坂神社がある。鳥居をくぐり、石段を数段駆け上ると社殿がある。社殿は新しいもので、右手に慶応年間の年号のある庚申塔群、裏手は竹林となっている。この社は旧若柴村(下町、仲町、上町、横町、向原)の鎮守八坂神社であり、若柴宿はここからはじまる。境内には三峯社も祀られていた。

まずそれにしても、今回の散歩では八坂神社によく出合う。まず取手宿での八坂神社、次いで藤代宿の相馬神社。この神社は八坂神社を合祀したものであった。また、宮和田宿の渡しの辺りにも八坂神社、そして若柴宿のこの八坂神社。八坂神社は全国に3000ほどもある、とのことであるから、それだけのことかとも思うが、それでもこの地方と八坂神社がなんらかの関係があるのでは、と妄想を逞しくする。

八坂神社と言えば祇園祭。「祇園御霊会」とも称され疫病を防ぎ、怨霊退散をそのはじまりとする。八坂神社の祭神は素戔嗚尊(スサノオノミコト)。素戔嗚尊は朝廷への反逆児のイメージが強い。それ故に朝廷への反逆児である将門を同一視し、その怨霊を鎮め無病息災を祈ったのであろう、か。また、八坂神社は明治の神仏分離例により名付けられたもの。それ以前は「牛頭天王社」と称されていた。独立国をつくり「新皇」と称した将門と「天王」を同一視したものであろう、か。それとも、野田のいくつかの八坂神社の縁起にあるように、将門が尊崇した神社というだけのことであろう、か。とは言うものの、八坂神社の中には将門に仇なす藤原秀郷ゆかりの社もある、と言う。あれこれの理屈は関係なく、単に疫病を防いでくれる有り難い神として祀られただけであろうか。根拠の無い妄想は拡がるばかりであるが、よくわからない。この辺りで、妄想を終えることにする。

ついでのことで、八坂神社について;八坂神社はもとは「天王さま」とも「祇園さん」とも称された。それが八坂神社となったのは明治の神仏分離令以降。本家本元・京都の「天王さま」・「祇園さん」が八坂神社と改名したため、全国3,000とも言われる末社が右へ倣え、ということになったのだろう。八坂という名前にしたのは、京都の「天王さま」・「祇園さん」のある地が、八坂の郷、といわれていたから。明治に八坂と名前を変えた最大の理由は、「(牛頭)天王」という音・読みが「天皇」と同一視され、少々の 不敬にあたる、といった自主規制の結果、とも言われている。
で、なにゆえ「天王さま」・「祇園さん」と呼ばれていたか、ということだが、この八坂の郷に移り住んだ新羅からの渡来人・八坂の造(みやつこ)が信仰していたのが仏教の守護神でもある「牛頭天王」であったから。また、この「牛頭天王さま」 は祇園精舎のガードマンでもあったので、「祇園さん」とも呼ばれるようになった。
祭神は素戔嗚尊とイナダヒメノミコトとする。これは神仏習合の結果、牛頭天王=素戔嗚尊、と同一視していた、ため。牛頭天王の父母は、道教の神であるトウオウフ(東王父) と セイオウボ(西王母)とも見なされたため、牛頭天王はのちには道教において冥界を司る最高神・タイザンフクン(泰山府君)とも同体視される。また、さらにタイザンオウ(泰山王)(えんま) とも同体視されるに至った。泰山府君の本地仏は地蔵菩薩ではあるが、泰山王・閻魔様の本地仏は薬師如来であり、素戔嗚尊の本地仏も薬師如来。ということで、牛頭天王=素戔嗚尊、という神仏習合関係が出来上がったのだろう。閻魔様=冥界=黄泉の国といえは素戔嗚尊、といったアナロジーもあったのだろう、か。
また、素戔嗚尊は、新羅の曽尸茂利(ソシモリ)という地に居たとする所伝も『日本書紀』に記されている。「ソシモリ」は「ソシマリ」「ソモリ」ともいう韓国語。牛頭または牛首を意味する。素戔嗚尊と新羅との繋がりを意味するのか、素戔嗚尊と牛頭天王とのつながりを強めるためのものなのかよくわからない。が、 素戔嗚尊と牛頭天王はどうあろうと同一視しておこうと、ということなのであろう(『江戸の町は骨だらけ;鈴木理生(ちくま学術文庫)』)。

若柴宿仲町・上町

若柴宿を仲町、上町と進む。『関東周辺 街道・古道を歩く;亀井千歩子(山と渓谷社)』の写真で見た、落ち着いた、豊かな構えの集落を進む。いわゆる、宿場といった風情ではないが、長屋門を構えた旧家などが並び、豊かな農家といった雰囲気の、誠に得難い、気持ちのいい集落である。

金龍寺
上町が終わり、横町へと直角に曲がる突き当たりに金龍寺がある。数段の石段を上ると観音寺跡とか不動明王の社。右手に畑地の残る境内を進み本堂にお詣り。本堂の裏手には新田義貞の墓がある、と。元は上州太田に会ったものを、先の小通十一面観音堂のところで、新田義貞の後裔、と言うか、新田家を乗っ取ったとも言える由良国繁が太田から移した、と。由良氏と新田氏、それに太田から若柴の地に移った所以など、さっぱりわからない。チェックする。

元々金龍寺は応永24年(1417)、太田の地において金山城主・岩松氏の重臣横瀬氏(後の由良氏)によって創建された、とされる。あれこれの経緯は省くとして、岩松氏は新田宗家を継承した武将である。その後、横瀬氏(由良氏)は岩松氏を退け金山城主となるが、己が正当性を示すべく義貞戦没の地に近い越前称念寺に祀られていた義貞の遺骨を持ち帰り、義貞の法名の一部を(金龍院)用いた金龍寺を創建し、一族の菩提寺として新田義貞の墓を奉った、と。その後天正13年(1585)、由良氏と称した横瀬一族の国繁は小田原北条に与し、小田原落城とともに窮地に陥る。それを救ったのが、その母。新田義貞の末裔である由良一族の滅亡を救い給えと前田利家に訴え、秀吉より存続が認められる。
安堵された由良氏は常陸国、岡見氏没落後の牛久城主となる。由良氏の牛久移封に伴い、金龍寺も太田から牛久に移された。当初は現在の牛久新地町にある東林寺。東林寺は牛久城主岡見氏の菩提寺であったが、廃寺となっており由良氏の菩提寺として再興された。が、由良氏の牛久城主の座は一代限りで終わり、領地は没収。主を失った金龍寺は寛文6年(1666)、幕府の庇護を受け、この若柴にあった古寺を改修し、この地に移された、とのことである。これが、由良氏と新田、太田と若柴を巡る一連の流れではあった。

本堂の裏に「新田家代々の墓」がある。左側の五輪塔が新田義貞、中が横瀬貞氏、右が由良國繁の墓とのことである。とはいうものの、由良氏が新田氏の係累というのはなんとなく収まりが良くないし、新田義貞と若柴って何らの関係も無い地であり、なんとなくしっくりこない、新田義貞ゆかりのお寺さまであった。

星宮神社

金龍寺から横町を進み、途中立派な門構えの民家などを見ながら進むと星宮神社。鳥居の注連縄が酒樽の形に編まれているのが面白い。酒屋衆の奉納の名残であろうか。奥に進み社殿にお詣り、現在の社殿は江戸時代の再建で、平成元年に修理されている、とか。
社殿の左手には平貞盛ゆかりの「駒止の石」がある。天慶の乱の折、平貞盛の乗った馬がこの石のまえで動きを止めた。不思議に思った貞盛が辺りを見廻すと星大明神の祠があり、懇ろに参詣すると馬は動きだした、との話が残る。それもあってか、縁起によると、星宮神社は延長2年(924)、肥後国の八代神社から分霊勧請して祀ったと云われ、天慶2年(939)には平貞盛が社殿を建立寄進したと伝えられている。肥後の八代神社は能勢の妙見さん、相馬の妙見さんとともに日本三大妙見宮とも称される妙見信仰の社。北極星とか北斗七星を崇める妙見信仰は常陸・下総・上総を領した平氏、またその下総平氏の後裔である千葉宗家の守り神。かつて星大明神と称されたこの星宮神社も妙見信仰の社ではあろう。
星宮神社の分布を見るに、星宮神社と称する社は、福島、千葉、茨城、岐阜(郡上)に各1社、栃木には33ほどの社がある。郡上八幡は別にしてそれ以外は、下総・常陸平氏、千葉宗家の領する一帯ではある。
因みに、八代神社は平貞盛の流れをくむ伊勢平氏の郎党であり肥後守となった平貞能が上宮・中宮・下宮からなる社の中宮を建立しているわけで、貞盛と因縁浅からぬものがある。故に、この社の貞盛ゆかりの話はあまりに出来すぎであり、肥後からの勧請も含めて後付けの物語のようにも思えるが、根拠があるわけでもなく、縁起は縁起として思い込むべし、か。

御手洗乃池

星宮神社を離れ「牛めの坂」に向かう。今回の散歩であれこれ彷徨ったが、きっかけとなったのは『関東周辺 街道・古道を歩く;亀井千歩子(山と渓谷社)』の「牛めの坂」についていたキャプション「森に迷い込んだような錯覚に」に惹かれたからである。はてさて如何なるものかと、民家と畑の間の小径を抜け、その先に見える鬱蒼とした森というか林を目指す。
森に入ると緩やかな坂となり、坂を降りきった三叉路脇に御手洗乃池の案内。現在は大きな欅の根っこあたりが少し湿っぽくなっている、といった程度。かつて御手洗乃池があった、とか。そこには淵があったようで、次の言伝えが残る;御手洗乃池の淵には大きな欅が聳えていていが、この欅を伐ってはいけない、また枝を落とすのも、落ちている枝を拾うのもいけない。触ると運が悪くなる、と。また、この池には多くの鰻がいたが、鰻を食べると目がつぶれると云われていた。それは、星宮神社のご祭神には首に鰻が巻きついていたから、とか。
星宮神社と鰻(うなぎ)の関わりはよくわからないが、鰻は虚空蔵菩薩の眷属。また、虚空のように広大無辺の福徳をもつ虚空蔵菩薩信仰は「金星」への信仰と深い関係がある。星宮神社の妙見信仰は北極星とか北斗七星への信仰。星つながり故の「鰻伝説」であろう、か。

牛めの坂
三叉路を左に折れると森が一瞬切れ、左手に畑地などが見える。先を進み、再び森に入る手前に左に上る緩やかな坂があり、『関東周辺 街道・古道を歩く』には「牛めの坂」とあったがここには「牛女坂」と表示されていた。坂の左手は十分に開けており、「牛めの坂」についていたキャプション「森に迷い込んだような錯覚に」にはほど遠い。先に進めばキャプションのような坂があるのかと、ゆるやかな坂をのぼり先に進む。高い杉に覆われた道を進み、宅地として開かれた辺りまで進むも、鬱蒼とした杉の建ち並ぶ小径ではあるけれど、書籍で見た坂の姿はなく、坂の上り口まで戻る。思うに、キャプションにあった写真は、御手洗乃池へと下る坂道ではなかろう、か。『関東周辺 街道・古道を歩く』には場所もそのように記している。場所は違ったにしても、民家のすぐ隣りに「森に迷い込んだような錯覚に」といった森があったわけで、森の散歩は十分楽しめた。
ところで、「牛女坂」の由来であるが、この牛め!」と鞭を打ったと伝えられている。星座で言えば「牛女」とは、牽牛星(けんぎゅうせい)と織女星(しょくじょせい)、とのことだが、この地に住んだ住井すゑ著『野づらは星あかり』に、「牛めにしてみりや、人間なんてどいつもこいつもみなちくしょうに見えるにきまってる。牛めは何も人間のために生れて来たわけじゃねえのに、むりやり鼻輪を通されて、それ、車を引っ張れの、田畑を耕えのとこき使われ、揚句の果に、この肉は硬いとか、あんまりうまかねえとか、つまらぬ文句といっしょに食われてしまうだかんなア。だからたまたま夜中に厩栓棒を外して、そのまま車もつけずに連れて行ってくれるのが居たら、″こりやア、ありがてえ。〟とのどを鳴らしてついて行っても不思議はあんめで。」「それはもっともだ。牛めにすれば、。。。」と、如何にも「牛」そのものを「牛め」と呼んでいるようにも思える。このあたりがなんとなく納得感が高い。




鬮(くじ)神社

牛女坂の三叉路を真っ直ぐ進み、高々と伸びた杉の木に覆われた森の中を進むと2本の巨木の間の奥にささやかな祠が見える。道から奥に上る石段を進むと祠には千羽鶴と杓文字が奉納されている。若柴宿では多くの屋敷神が祀られていたとのことだが、この祠も屋敷神のひとつで鬮(クジ)神社と称し、クジ(運)の神であった、とのことである。また、この社には絵馬ならぬ杓文字(しゃもじ)が願掛けとして奉られる。
杓文字は、その昔、この祠には江戸の義民として知られる佐倉惣五郎が隠れた、とか。そこに杓文字があり、その杓文字で飯をよそると風邪が治った、とか。風邪を「めしとる」ということらしい。これでは義民が召し捕られる、ということで、なにを伝えたいのかよくわからないが、ともあれ、今は願を召し捕る、ということなのか、願掛けとなっている。

根柄道鬮(くじ)神社を離れ、森の道を進むとほどなく宅地の道に。道を左に折れると若柴宿の大阪を上ったところの八坂神社脇にでた。
坂を下り常磐線佐貫へと戻るが、同じ水戸街道を戻るのも味気ないので、大阪を下ったとことろで、若柴宿の台地と台地下の低湿地帯の境、根柄の道を台地に沿って北に進む。途中、ブッシュで通行できない会所坂は除き、台地に上る延命寺坂や足袋屋坂を行ったり来たり。また、台地と湿地の間だの水源は種池と呼ばれ、農具の泥よけなどに使われた。水戸街道を進んで若柴宿に入った時はありふれた田圃が広がる、といった景観であったが、この根柄道脇は葦が生い茂る湿地が残る。新田開発される前のこの辺り一帯の低湿地の原風景を見れた気がし、これだけで本日の散歩のリターンは十分である。

佐貫駅
足袋屋坂まで進み、その先の鍛冶屋坂はパスし、足袋屋坂脇の水源・種池を眺めながら根柄道を左に折れ、常磐線佐貫駅へと向かう。この佐貫駅は関東龍ヶ崎線の駅でもある。関東龍ヶ崎線は、現存する茨城の私鉄では最も歴史が古く、1900年に今のJR佐貫駅開業と同時に開業した。当時は762mmの軌道で、1915年に標準の狭軌1067mmになったとのこと。当初は竜崎鉄道という名前であったが、鹿島参宮鉄道から関東鉄道になり、今の龍ヶ崎線となった。距離はわずか3,5kmで中間に駅がひとつ(入地)あるだけと言うもの。因みに「佐貫」は細長い土地の特徴を表す「狭貫」が転訛したという。

今回の散歩は、若柴宿の「牛めの坂」の森に迷い込むののいいか、などど常の如く、誠にお気楽に歩き始めたのだが、終わってみると、将門が登場するし利根川東遷事業の新田開発に果たした役割が実感として感じるといった、誠に楽しい散歩となった。後の祭りとなった、見逃しもいくつか合ったが、やはり成り行き任せのお気楽散歩は、いい。因みに、「後の祭り」とは今回の散歩で登場した八坂神社の祭りに由来する言葉。豪華な山鉾巡幸を「前の祭り」、その後の行事を「あとの祭り」と称した。後の祭りには山鉾もなく、見物に行っても甲斐がない=手遅れ、となった、との説もあるようだ。

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