木曜日, 4月 21, 2011

守谷散歩そのⅠ;平将門ゆかりの地を辿る

先日、旧水戸街道を取手宿から若柴宿へと辿ったとき、思いもかけず平将門ゆかりの事跡に出合い、そういえば、この辺り、板東市から守谷、取手市といった一帯が将門ゆかりの地であることを改めて想い起こした。また、散歩の途中、利根川や小貝川を眺めながら江戸の利根川東遷事業、なかんずく、利根川東遷事業の前段階として行われた小貝川と鬼怒川の分離工事が気になった。分離点は守谷市の北、と言う。
ということで、今回の散歩は将門と鬼怒川・小貝川分離の事跡を辿るべく守谷へと向かうことにした。成り行き任せの散歩が基本ではある、とは言いながら、それでも常は最低限WEBでのポイントチェックなど最低限の準備をするのだが、今回は、事前準備全くなしの出たこと勝負。守谷の駅に下りれば、将門ゆかりの事跡案内でもあろうかと、常にもましてお気楽に散歩に出かけることにした。

本日のルート;つくばエクスプレス守谷駅>長龍寺>中央図書館>天神交差点>鈴塚交差点>五反田川>鈴塚日枝神社>天満宮>成田山不動明王石碑>海禅寺>今城橋>石神神社>関東鉄道常総線>愛宕神社>西林寺>守谷城址>つくばエクスプレス守谷駅

つくばエクスプレス守谷駅
つくばエクスプレス守谷駅に。「守谷」の地名の由来は、日本武尊が東征のとき、鬱蒼とした森林が果てしなく広がるこの地を見て、「森なる哉(かな)」、と。そこから「森哉(もりや)」となったという説がある。また、平将門がこの地に城を築いたとき、丘高く谷深い地形故に「守るに易き谷」が転じて「守谷」となったという説の説などもある。とは言うものの、開発された駅周辺にその面影はまるで、ない。
近代的な駅の中に、何か散歩のきっかけ、将門ゆかりの事跡案内などないものかとあちこち探す。が、それらしきものは、何も無し。少々途方に暮れながら、駅構内の地図で駅周辺に郷土歴史館といった施設などないものかとチェックするも、特に何もない。iphoneで観光センターなど、あれこれ検索ワードを入れるも、それらしき情報が引っ掛かからない。
仕方なく、なんらかの将門の手掛かりを求めるべく図書館を訪ねることにした。iphoneで検索するに中央図書館があるにはあるが、駅から結構遠い。常磐自動車道の近くの大柏地区というから、おおよそ2キロ弱ほどあるようだ。が、仕方なし。

長龍寺

中央図書館は駅から西に向かう、途中寺社など無いものかとチェックする。と、駅前に長龍寺。iphoneでチェックすると、将門が守谷に城、というか砦を築いた時に造営したお寺さま、と。また、将門の位牌を伝えている、とある。ということで、まずは長龍寺を訪ねることに。
駅前の国道294号線に沿って森が見える。そこが長龍寺の境内ではあろう。国道に沿って石塀と東門があった。杉の並ぶ参道を進み四天王が睨む山門をくぐり本堂へ。結構な構えである。本堂の前の黒い置物には、九曜星の紋。九曜星の紋と言えば、将門、と言うか下総平氏(平良文)の後裔である千葉宗家が信仰したことで知られる妙見信仰のシンボル。
本堂にお詣りし、境内になんらか将門ゆかりの案内でもないものかと彷徨うが、これといって案内はない。唯一の案内は、「禁制文書」;「天正(てんしょう)18年(1590年)3月、豊臣秀吉の大軍が小田原城の北条氏政、氏直父子を征伐するため大軍を関東に進めた。そのとき一方の大将となった浅野弾正少弼長政、木村常陸介重滋が長龍寺に滞在し、この辺りの治安につとめた。それにあたって、浅野・木村の両将は寺が軍兵らによって荒らされることを防ぐために出したのがこの文書である。この文書は現在では「きまり・規則」といわれるもので、内容は、軍兵が乱暴狼藉をしたり、みだりに放火をしたり、また、寺に対して無理難題を申し付けたり、畑の作物を理由なく刈り取ってはならない。もし、この禁制にそむく者があれば、厳重に処罰する)とあった。
秀吉の小田原征伐の折り、守谷に城を構える相馬氏は小田原北条氏の傘下で参陣。小田原北条氏の敗北とともに下総相馬氏は滅亡した。水戸街道散歩の時にメモしたように、下総相馬氏は中世下総国相馬郡を領した平良文の流れ(下総平氏)を継ぐ名家である。将門の勢力範囲であった下総と、上総の全域を領し、本拠を千葉に置いたが故に後世千葉氏を称した千葉宗家の第五代常胤、その常胤の二男・帥常が守谷に館を構え「相馬氏」を称した。その下総相馬家もここに絶え、下総相馬家第5代胤村の時、胤村の五男である帥胤が陸奥行方郡に領した地に土着した奥州相馬氏が下総平氏の流れを後世に伝えることになる。
また寺には「徳川家康寄進状」が残る、とか。徳川家康寄進状とは、天正19年(1591年)11月、関東8か国を領有する徳川家康が高10石の土地を長龍寺に領知として寄進すした朱印状。天正18年(1590)、豊臣秀吉の命により関東へ入国し、江戸城を本拠とた家康は、以後、関東の寺社に対して寺社領を寄進。その初見が天正19年11月日の寄進であり、同日付の寄進状が数多く発給されているようだが、本朱印状もその中のひとつ、とか。
境内に建ち並ぶ古い石造物を見やりながら鐘楼に。鐘楼は「守谷八景」の第一の名所、「長龍寺の晩鐘」として知られる。「守谷八景」は昭和30年の町村合併以前の旧守谷町が指定した景勝地。それほど古いものではないようではある。守谷八景とは① 長龍寺の晩鐘(本町地内)、② 守谷城城山台回顧(本町地内)、③ 守谷城大手門二本松(本町地内)、④ 守谷沼の朝霞(本町地内)、⑤ 河獺弁天の夕照(本町地内)、⑥ 西林寺の遺跡(本町地内)、⑦ 八坂神社の蝉時雨(本町地内)、⑧ 石神の松翠色(本町地内)からなる、とのこと。これも散歩の目安となりそうである

中央図書館

中央図書館へと成り行きで進む。中央公民館のある公園を抜け、県道46号に出る。そこからは県道に沿ってひたすら西へと進む。車の往来の多い、まったく風情のない景色。守谷の地名の由来ともなった、「森なる哉(かな)」の森もなければ、「守るに易き谷=守谷」たる所以の「丘高く谷深い地形」の片鱗も感じられない。本当に丘高く谷深い地形などあるのだろうかと、少々不安になりながら先に進み、市役所隣の中央図書館に。
館内に入り郷土資料を探す。2階に郷土史コーナーがあるも、将門ゆかりの地をまとめたような簡便な資料は見あたらなかった。ために、あれこれ資料を流し読みし、各地区毎に将門ゆかりの地を書き出し、大雑把なルーティングをおこなう。

■守谷の地区別の将門ゆかりの地と鬼怒川と小貝川の分離地点:
○鈴塚地区;鈴塚
○高野地区;、成田山不動明王石碑、海禅寺
○乙子地区;今城、石神神社

○本町地区;守谷城址、愛宕神社、西林寺、八坂神社
○松並地区;永泉寺、将門並木

○ひがし野地区;守谷池、川瀬弁天、妙見郭跡、本守谷城址
○赤法花地区;古城沼、赤法花

○寺畑;鬼怒川と小貝川の分離地点

○板井戸地区;板井戸
○大木地区;御霊山、須賀家
○野木崎地区;家康・水飲みの井戸、正安寺

以上が、央図書館から時計の逆回りに守谷を一周するようなルーティング。また取手にも桔梗塚など将門ゆかりの地があるようなので、守谷を一周した後、取手へと戻ることにする。これをすべてカバーするには、どう考えても4回ほど守谷に来ることになりそうである。ともあれ、ルーティングに従い、中央図書館から鈴塚地区へと向かう。

天神交差点守谷市役所前の道を南東へと進み、水道事務所前交差点を右に折れ、南に下りつくばエクスプレスを交差。天神北とか天神という交差点が続くので天満宮でもあるのだろうが、よくわからない。また、道路に沿って延々と「天満宮 逆方向」との案内があるのだが、いまひとつ指示がはっきりせず、Google Mapで探すも、そこに表示されることもなく、結局天満宮には出合えなかった。将門と天満宮に祀られる菅原道真の一族とは浅からぬ因縁があるだけに、ちょっと残念である。

鈴塚交差点

大型ショッピングセンターとか宅地開発された道沿いを進む。未だ、守谷の地名の由来ともなった、「守りに適した高い丘と深い谷」の風情はなにも、ない。ほどなく「鈴塚交差点」に。この鈴塚の地は将門の東国での挙兵に呼応し、西国・四国伊予で挙兵した藤原純友がその挙兵に先立ち東国下り、将門と戦勝祈願を行ったと伝わる場所である。鈴塚は戦勝祈願を願った大鈴を埋めるために築いた塚に由来する、と。






室町期に記された「将門純友東西軍記」に、将門と純友が、承平6年(936年)、比叡山へ登り平安城を見下ろしながら、「将門は王孫なれば帝王となるべし、純友は藤原氏なれば関白にならん」と約束し、双方が国に帰って反乱を起こした、とある。が、実際はその事実もないようではあるし、鈴塚由来のように純友が此の地に下ったこともないようではある。
この比叡山の両雄語らいの部分は、14世紀前半に北畠親房が表した「神皇正統記」の「藤原の純友といふ者、彼の将門に同意し、西国にて反乱せしをば」、「むかしの将門は、比叡山に登りて、大内を遠望し謀反を思ひ企てける」、といった記述に、また、「将門は帝王」「純友は関白」のくだりは、「大鏡(おおかがみ)」の第四巻にある、将門は「帝をうちとり奉(たてまつ)らん」と言い、純友は「関白にならん」といった記述を足して二で割った、もののよう。

とは言うものの、東西で乱が起きた当時、天慶2年(939年)の京の貴族たちの記録に、「純友・将門 謀(はかりごと)を合わせ、心を通わせ、此の事を行うに似たり」の記載があり、当時の貴族らが、平将門と藤原純友の二人は連絡を取り合って東西で同時反乱を起こしたのではないか?と考えていた、ようではある。また、将門も純友も関白・藤原忠平の家人として仕えていた経歴があり、お互いが既知の仲であったという可能性はないわけではない。こういったことも、共同謀議の物語の素地にはあったのだろう。
因みに、松ケ丘(旧鈴塚)の松ケ丘公園付近に五十塚古墳群と呼ばれる古代遺跡があり、それが鈴塚の由来とも言われる。五十塚の五十とは、多くある数の形容詞で、塚が多くあるということを意味しており、その塚があたかも鈴なりのように連なっていることから名付けられた、とか。将門・純友の逸話より、こちらの話のほうがリアリティが高い。

五反田川
鈴塚交差点から次の目的地である高野地区の海禅寺へと向かう。交差点を右に折れると道の周辺は、今までのショッピングセンターとか開発宅地といった風情から一転し、農地の拡がる低湿地に小高い台地が点在する趣き深い一帯と変わる。iphoneのgoogle mapでチェックすると、道の前方に水路がありその両側に日枝神社と天満宮が見える。先ほど天満宮に出合えなかったこともあり、水路に下り二つの社を訪ねることにする。
成り行きで道を進み、如何にも坂道へと導くような道へと左に折れ、結構急な坂道を下る。ささやかな水路は五反田川、そこに架かる橋は天神橋とあった。
散歩の折々に五反田といった地名に出合う。東京の五反田は平地が目黒川流域だけであり、耕作地に恵まれず、その耕地が五反(5000平米)しかなかったのがその由来。一反から一人辺り年間消費量である150キロのコメが収穫できるというから5反とは、大人5人分程度の収穫高、と言うことであろう。昔は狭隘な五反の田しかない一帯ではあったのだろうが、現在は田圃が一面に広がる。その両側、そして前方には丘陵が控え、やっと「守谷」の地名の由来である、「守りに適した丘高く深い谷」の地形が現れてきた。

鈴塚の日枝神社

天神橋を渡れば天満宮の佇む丘へと向かうが、まずは五反田川を少し下った右岸の丘にある日枝神社へと向かう。広々とした田圃を見やりながら、先に進み急な階段を上り日枝神社に。ささやかな社ではあるが、社殿の裏手が将門と純友が大鈴を埋めた鈴塚との説もある。古地図にはこの社は「妙見宮」と記されているので、将門、と言うか、下総平氏一門とは無縁ではないかとも思う。しばし、丘から周囲に広がる田圃を眺め、少し引き返すことにはなるが、五反田川を戻り、天神橋を渡り天満宮へと向かう

天満宮
五反田川から眺める天満宮の台地は誠に大きく、菅公一門故の広大な社殿を想像したのだが、辿った先にあった天満宮は、誠にささやかな社であった。それはさておき、上に将門など下総平氏一門と天満宮に祀られる菅原道真の一門とは浅からぬ因縁がある、とメモした。菅原道真と平将門一門の因縁をまとめる。

■菅原道真と平将門一門歴史に名高い両者の因縁とは、共に怨霊として天変地異を起こし、よって怨霊を鎮めるべく社に篤く祀られた、ということではない。道真流罪の後に起こった天変地異に怖れを抱いた朝廷は道真一族を遇することに。この下総の地には菅原道真の三男である景行が延喜9年(909)に下総守として下向。これを契機に当時実質上の下総介であったである良門(将門の父)を筆頭にした下総平氏一門との交誼がはじまる。そこには、下総平氏の都での良き理解者であった関白・藤原忠平が同じく菅原道真の良き理解者であったことも縁無きことではないだろう。


下総平氏一門との友好な関係のもと、延長4年(926)、常陸介となった景行は常陸大掾の源護、将門の叔父である平良兼とともに常陸国羽鳥庄に道真を祀る社を建てている。景行はこの下総平氏一門との友好関係を基盤に、飯沼の南岸の農地開拓や飯沼を活用した水運、また飯沼北岸の大草原を活用した牧場経営につとめるなど、下総・常陸に在任した24年の間に、此の地に多くの業績を残している。因みに平将門が生まれたのは菅原道真が太宰府に流された3年前であり、また道真の三男・景行が下総・常陸を離れたのが将門が都での宮廷警護の任を終え下総に戻った延長8年のことであり、将門とが菅公一門との直接コンタクトはなかったようである。

成田山不動明王石碑
天満宮のある丘から石段を下り、丘陵の南裾に沿って進み、南に進む農道を右に折れ田圃の先にある丘陵へと向かう。丘陵に上ると多くの民家が見えてくる。この辺りを高野地区と呼ぶ。
高野は、「北相馬郡誌」によれば、「天慶元年(1194)、平将門は興世王の分城を築き今城村と称したが、慶長年間(16世紀末から17世紀初頭)高野村と改めた」、と。高野の地名は、平将門が紀州高野山金剛峰寺にまねてここに海禅寺を創建したのがその所以、とか。
道を成り行きで進むと、道脇に「成田山不動明王石碑」の案内。将門調伏のために建立されたとも言われる成田山新勝寺が、将門ゆかりの地にあるのは一体?などと好奇心に惹かれ立ち寄ることに。
民家の脇を入ると、風雪に耐えた風情の社とその手前に石碑。社は「日光大権現の御堂」とあった。その手前の「成田山不動明王石碑」には、特に由来などの案内はなかったが、明治の頃、成田不動への信者の互助団体といった「成田講」の人々によって建てられた、とのことである。
上に、成田山新勝寺は将門調伏の為に造られたとメモした。関八州を制圧し新皇を称した将門を討つため、藤原秀郷を将門討伐に命ずるわけだが、将門の武威を怖れる朝廷は「神頼み」をすべく、高尾山の不動明王と宝剣を成田の地へと捧持し護摩を焚き、将門調伏の修法を行った。その「神意」もあってか、将門は討伐軍に討たれる。成田山新勝寺は、調伏の修法をおこなった護摩壇の上に建立された、とか。
このような経緯もあってのことか、将門ファンの民衆には「成田憎し」といった多くのエピソードが語り継がれている。曰く、将門を祀る神田明神を信仰する人は成田山新勝寺詣でを避ける、とか、手賀沼付近、北西の地にある将門神社は成田詣での道筋にあり、地元の民と成田詣での人々との間で諍いが絶えなかった、とか、例を挙げればきりがない。
といった、コンテキストの中での、この石碑ではある。エピソードは事実と離れ、大袈裟に伝わるのではあろうし、明治ともなれば「将門も遠く昔の事になりにけり」と言ったことでもあろうし、また、成田詣は当時の民衆の娯楽のひとつとして、日々の生活の中に組み込まれていた、ということであろう、か。

海禅寺

「成田山不動明王石碑」から300mほど民家と畑地の中を歩く。深い緑の社叢の中に海禅寺があった。どっしりとした境内と鐘楼の他はこれといった堂宇は見えないが、落ち着いた良い感じのお寺さまである。
境内に入る道脇にあった案内によると、延長8年(930)、相馬の御厨の下司に任ぜられ京より戻った将門が、承平元年(931)、父である良将の菩提をとむらうべく、高野山金剛峯寺を模して当寺を建立。中世は下総平氏の一党であり、将門のよき理解者でもあった叔父良文の流れを継ぐ下総相馬氏の菩提寺として隆盛するも、戦国末期、小田原北条に与した下総相馬氏の衰退とともに当寺も寺運衰え、江戸に入り守谷城主となった掘田氏により再興された、とか。
本堂には将門や下総相馬家歴代、また下総相馬家が消滅した後、徳川治世下で旗本として存続した下総相馬家の後裔の位牌が安置される、とか。境内には七騎塚・将門供養塔が残る、と言う。本堂左手に8基の石の供養塔。案内も何もないので、googleでチェックすると、将門と7名の影武者合わせて8名の供養塔、とのこと。7名の影武者とは承平7年(937年)、将門が京への召還から帰国の途中、良兼・貞盛軍の待ち伏せに遭い、身代わりとなった武者、と寺伝にある(寺伝は守谷藩主である後の大老・掘田正俊が寛文4年(1664)に作成・寄贈した『海禅寺縁起』に拠る)。
京からの帰国とは、野本合戦後に京に召還された将門の帰国を指す。京より戻り相馬御厨の下司となり、また、北総の地の開拓をおこない国土経営につとめる将門に対し、荘園拡張を計画する常陸大掾・源護の息子との利害が対立。将門を待ち伏せて行われた野本合戦で、逆に返り討ちに遭い、三人の息子と助力した常陸大掾・平国香を失った源護が、将門に反乱の意図ありと朝廷に訴える。為に、将門が京に召還されるも、結果その事実無し、と京より戻る将門を小飼の渡しで将門を良兼・貞盛軍が待ち伏せ。高望王や将門の父である良将の御影を掲げるといった奇策を弄し、戦意放棄した将門を破ったときのことを指すのだろう。

将門には7人の影武者があるという伝説は、室町期に成立した『俵藤太物語』にあるほど有名ではあるが、その人数については、将門が信仰していた妙見信仰、北極星と北斗七星の関係を、将門と7人の影武者というアナロジーとの説もあるようだ。因みに、「俵藤太」とは将門討伐軍の主将である藤原秀郷の別名。我々世代は「俵藤太」と言えば、「ムカデ退治」と刷り込まれているのだが、周辺の若者に振っても、「俵藤太のムカデ退治」を知るものは皆無であった。

まさかど橋
寺を離れ次の目的地である乙子地区へと向かう。寺の前を歩きながら右手の利根川方面を眺めるに、この海禅寺の建つ台地は利根川を望む舌状台地となっているようである。先に進み、台地を下ったところに水路がある。「羽中川」とある。目的地の今城は、この水路に架かる今城橋辺りのようであり、道を離れて水路に沿って進むことにする。



今城橋
田圃の真ん中を通る水路の堤を進むと、大きな通りに架かる今城橋の手前に「まさかど橋」と刻まれた小橋があった。如何にも将門ゆかりの地域である。「まさかど橋」を渡り、といっても飛び越えれそうな小橋ではあるが、ともあれ、橋を渡り台地へと上る坂を進み「今城橋」の袂に出る。「いまんじょう」橋と読む。
言い伝えによると、天慶元年(938)、将門が此の地に興世王の為に分城を築いたため、一帯を今城村と称した、と。今城とは「今造られた新しい城」との意で、城跡がどこにあるのかはっきりしない、とのことである。もっとも、この今城は興世王ではなく、南北朝の頃、南朝に与した相馬忠重が北畠顕国を迎えるために築いた城との説もある。その場所は、今城橋の北詰めを少し左に折れた、けやき台3丁目の「うららか公園」の辺り、とか。現在は一面の田圃ではあるが、往昔は利根川の低湿地に突き出た台地上に位置する。公園は「うららか」といった形容詞には似つかわしくない起伏のある地形で、3つほどの郭が残る、とか。高野城とも、高野要害とも称された、とある。

ところで、将門が此の地に分城を築いたとの説もある興世王(おきよ王)であるが、この人物が将門の東国大乱、朝廷反逆、新皇僭称のフィクサーかとも思える。常陸の豪族藤原玄明と常陸介藤原維幾の対立に、豪族藤原玄明を助け、常陸国府を占領した将門は印璽を奪い、維幾を京へ追い返す。このとき、興世王(おきよ王)は「案内ヲ検スルニ、一國ヲ討テリト雖モ公ノ責メ輕カラジ。同ジク坂東ヲ虜掠シテ、暫ク氣色ヲ聞カム」と、「一国を奪った以上、その責を咎めれられるのだから、どうせのことなら、東国すべてを奪うべし」と将門に東国制覇を勧め、将門はこの言に乗り下野国・上野国の国府を占領。世に言う平将門の乱を起こすことになる。

■興世王
承平8年(938年)、武蔵権守として赴任。武蔵介源経基と共に赴任早々に検注を実施。足立郡郡司武蔵武芝は武蔵においては、正官の国司赴任以前には検注が行われない慣例になっていたことから、検注を拒否。興世王と経基は兵を繰り出して武芝の郡家を襲い、略奪を行う。
平将門は武芝の求めに応じ、興世王と武芝を会見させて和解させるも、経基の営所が武芝の兵に囲まれるという事態が発生。生命の危険を感じた経基は京へ逃げ帰る。経基は興世王と武芝と将門が共謀して謀反を謀っていると訴え。将門の主人の太政大臣藤原忠平が事の実否を調べるべく、使者を東国へ送る。興世王、将門、武芝は承平9年(939年)5月2日付けで常陸・下総・下野・武蔵・上野5カ国の国府の「謀反は事実無根」と主張。朝廷は疑いを解き、逆に経基は誣告罪で左衛門府に拘禁される。
承平9年(939年)5月に正任国司百済王貞連が赴任。興世王は貞連と不仲。国庁の会議に列席を許されない興世王は任地を離れて下総の将門のもとに身を寄せる。そしてその翌年に起きたのが、常陸の豪族藤原玄明と常陸介藤原維幾が対立であり、平将門の乱へと発展する。上野国府で新皇を僭称した将門の下、時の主宰者となった興世王は藤原玄茂と共に独自に除目を発令し、自らは上総介に任命される。
この将門らの謀反により翌天慶3年(940年)に以前の訴えが事実になって経基は放免、将門追討が開始される。同年2月14日に平貞盛・藤原秀郷らとの合戦で将門が討ち死にすると、将門の勢力は一気に瓦解して首謀者は次々と討たれ、興世王も2月19日上総で藤原公雅に討たれた(wikipedia,より抜粋)

石神神社
今城橋を離れ、次の目的地である石上神社へと向かう。南東へ進む道を辿ると県道56号・石上神社西交差点。この辺りを「乙子」地区と呼ぶが、その由来は「落口」が転訛したもの。承平年間、平将門が守谷に城を築いたとき、万一の場合の脱出用に掘った抜け穴の出口・落口がここにあったから、と。城は此の地から北東に直線距離で2キロ以上もあるわけで、はてさて。

石上神社西交差点を左に折れ、少し進むと石神神社。境内に入ると小高い塚があり、ご神体である石棒が埋められている、とか。塚の前には拝殿があり、また、塚の上には本殿がある。本殿の周りには「金精さま」が奉納されているとのことだが、見逃した。石神さまは耳の病、安産、良縁、子育てなどに霊験があり、明治の頃は花柳界の信仰を集めた、とか。「金精さま」故のことであろう、か。
散歩の折々で石をご神体とした社によく出合う。石上神社と称される社もある。人々の原初的な信仰は巨石・奇岩より起こったとも言われる。古代の遺跡からは石棒が発掘されるとも聞く。石には神が宿り、それが豊饒=子孫繁栄の願いと相まってハンディな「金精さま」へと形を変えて伝わってきたのだろう、か。

駒形神社
石神神社を離れ乙子地区を進み、途中道から少し入ったところにある常楽院にお参りし、乙子南交差点に。この交差点は県道47号と合わさり三叉路となっている。その昔、追分とも呼ばれた、とか。その三叉路脇にある駒形神社にお詣りし、次は本日の最終目的地である本町地区の守谷城址へと向かう。県道47号を北に向かい、かつての旧銚子街道の道筋である国道294号、そしてその先の関東常総線を越える。



関東常総線

関東常総線は正式には関東鉄道常総線。茨城県の取手市から同じ茨城県の筑西市の下館駅を結ぶ51キロ強の路線。沿線が旧常陸国と旧下総国に跨り、鬼怒川にほぼ平行に進む。
関東常総線を越えた辺りを「小山」地区と呼ぶ。元は古山村。天慶年間に行われた将門の乱の折り、老臣増田藍物が当地に城を構えて古山と称したことが地名の由来。台地上の「小山公民館」の辺りに「城」があった、とも。 その後、小山村へと改称された。

守谷駅に松並地区がある。守谷から旧谷和原村へと北上する松並木の街道がその地名の由来と言うが、小山地区を通る銚子街道の松並木はあれこれ「難儀」な目に遭ったようである。江戸の頃は、松並木により日陰となり作物の生育によろしくないと、伐採を幕府に願い出ている。また、昭和38年(1963)には老朽化した守谷町の小学校の修繕材料として使われ松並木は現存しない。

○本町地区
関東常総線を越えると、成り行きで左に折れ、関東常総線・南守谷駅前の窪みに一旦折り、道なりに本町地区の愛宕神社を目指す。本町の通りは、少し旧市街の名残を残す。かつての城下町の醸し出す街の雰囲気であろう、か。







愛宕神社

通りを右に折れ、愛宕中学校前に愛宕神社。天慶年間(938-946)に将門が創建した、とのこと。鳥居からの長い参道。拝殿や本殿も立派な構えである。将門が東国に「新王国」を樹立するに際し、京の都に負けないようにと都の愛宕の社に模して創建した、とか。その後荒廃していた神社は江戸時代となった17世紀のはじめ、守谷城主であった土岐内膳介頼行により再建された。
土岐氏は天正18年(1590)の小田原の役で北条氏に与し没落した下総相馬氏に替わり、家康の命によりこの地に一万石で入城した土岐(菅沼)山城介定政の後裔。元和3年(1617)、その子の定義が摂津高槻に移封となるも、元和5年(1619)定義の子である頼行の代に再び下総相馬一万石を与えられ、この地に戻った。この神社に残る青銅製の鰐口は、元和7年(1621)11月、守谷の領主土岐内膳介頼行が社殿を再建したとき、その家臣井上九左衛門、加藤久太夫が寄贈した、とあった。

西林寺

愛宕神社から北に向かうと西林寺。この寺は将門が創建したと伝わる。かつては境内には、守谷城にあった将門の守り本尊を祀る妙見八幡社があった、とも。さらに、この寺には「七騎塚」があり、将門の影武者七騎の墓といわれている。このお寺さまは相馬家と深い繋がりがあった大寺であり、天保元年(1830)の書状によると寺域3万坪、朱印地20石で門末48ヶ寺を有したと言われている。また、上野寛永寺の末でもあった故か、徳川家康の画像が残る、とか。



境内には、また小林一茶の句碑があり「行く歳や空の名残りを守谷まで」と刻む。流山散歩の折りメモしたように、流山の醸造家・秋元本家五代目当主である三佐衛門は俳号「双樹」をもつ俳人であり、一茶のよき理解者であった。ために一茶は双樹の元に足繁く通った、と。その数五十四度に及ぶ、と言う。その際には流山だけでなく下総の地を数多く辿っている。このお寺さまでは住職鶴老の時代、文人墨客を交えた句会が盛んに催された、とのことである。上の一茶の句は文化7年(1810)、一茶がはじめてこの寺を訪れたときに詠んだもの。一茶48歳のときである。一茶は以来9回に渡りこのお寺さまを訪ねた、と。

守谷城址
西林寺を離れ、本町の通りの風情を楽しみながら先に進み、本日の最終目的地である守谷城址へと向かう。途中、此の地の鎮守とも称される八坂神社も訪ねたかったのだが、google mapで見つけることができず今回はパスし、一路守谷小学校の南にある、と言う守谷城址へと。
小学校手前の守谷城址には、土塁跡といった一隅が残っていた。案内によると;「守谷城の概観:守谷城は守谷市(城内地区)と、平台山と称する島状の台地とを 併せて呼ばれている。鎌倉時代の初期に平台山に始めて城館が構築 されたが、戦国時代になると戦闘様式等の進展に伴って城は現在の守谷小学校(本郭のあった所)周辺に増築、移転した。
平台山に最初に構造された城の事を守谷本城とも呼ばれている。この守谷本城は鎌倉時代になって、平将門の叔父に当る平良文の子孫、 相馬師常によって築城されたもので、素朴な鎌倉様式を残した名城である。師常は源頼朝の旗上げに最先かけて参陣し頼朝の重臣として幕政に 参画し、その功によって相馬郡の他に結城・猿島・豊田(一部)の諸郡を 拝領し、更には奥州相馬の地をも賜ったのであるが、守谷本城は それらの領地を統轄する本城としての役割を演じたものである。
本城の面積約21,254㎡で、それを三郭に分割し、各郭は大規模な土塁、堀等によって 区画され、その堀には満々たる水が入り込み舟着場も残されている。 なおその三郭には妙見社も建てられ、相馬野馬追いの行事はその社前で 実施されたといわれている。 なお、本城は戦国期になって本拠を現在の城内の地に遷したが、 その後は守谷城の出城として使用されていたようである。

本城は戦国時代を迎えると城内の地にその拠点を移動したが、そのことは城内第六郭の発掘調査によって判明した。この調査によってこの城は15世紀より16世紀全般に亘って その機能を発揮した城で、ここから戦国期の建造物(宿舎・事務所・倉庫・馬舎) 26棟が発掘され、それに付属して井戸・堀・食糧貯蔵庫・墓拡・製鉄加工所等 が検出され、多くの貴重な遺物が出土した。なお、図面(下の地図)によってみると、小貝川より入る一大水系は満々たる水を 湛えて城域を囲み、更にはその城域の極めて広大な事、築城技術の入念な事、 それは天下の名城としての様相が偲ばれるのである。永禄9年(1566)城主相馬治胤がこの城を古河公方に提供し関東の拠点と なすべく計画を進めたのもこの城であった。この城は北条氏の 勢力下にあったので、小田原落城後豊臣秀吉軍の進攻により廃城となった」、とある。

守谷城趾の碑の真後ろ、守谷小学校の敷地内に、「平将門城跡」の石碑がある。昔から、この守谷城が東国の新皇となった将門の皇城との説があるようだ。「将門記」には上野国府を攻撃占領した後、新皇を称して、皇城を築いたとあり、その場所は「下総の国亭南」とのこと。皇城そのものの真偽及び位置は不明とされるが、「相馬日記」など、古くからこの守谷城址が将門の皇城との説もあるが、「案内板」の記述にあるように、中世以来相馬氏の居城と比定されており、将門皇城説は現在ではほぼ否定されている。
相馬氏が衰退した後は、後土岐氏、堀田氏、酒井氏などが館を構えたとされるが、守谷城址の土塁の残る辺りは、住宅街で古城跡の雰囲気は無く、台地を下って小貝川の低湿地を含んだ守谷城跡の全容は伺いしれない。ぐるりとひと廻りするとか、せめては台地端から小貝川でも臨めば、古き城跡の風情も、とは想いながら、本日は日没、時間切れ。次回の守谷散歩は守谷城址の全容把握からはじめることつぃて、本日の散歩はこれでお終い。本町の台地を下り、つくばエクスプレス守谷駅に向かい、一路家路へと。

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