水曜日, 8月 05, 2015

狭山丘陵散歩 廃線とトトロの森 そのⅠ;軽便鉄道「羽村・山口」線跡の隧道を辿り、狭山湖堰堤から多摩湖堰堤を経て八国山、そして正福寺まで

いつだったか、奥多摩の水根貨物線跡を退任前の会社の仲間と辿ったとき、「廃線」歩きにフックが掛かったのか、どこか近場の廃線を歩きたい、との話になった。
結構な難題である。最初に行った廃線歩きが、廃線歩きの「切り札」といった水根貨物線跡を歩いたわけで、それ以上の「廃線」が都内近郊にあるわけもない。あれこれ考えた結果、軽便鉄道「羽村・山口」線跡に残る隧道を「廃線」歩きのコアとし、それだけでは到底物足らないであろうから、狭山湖、そして「隣のトトロ」のモデルともなった、トトロの森を歩き、最後は都下唯一の国宝建造物である東村山の正福寺で締める、といった「廃線+自然+文化」の合わせ技で難題を切り抜けることにした。
狭山湖や多摩湖、トトロの森や正福寺といった狭山丘陵やその周辺は幾度となく辿っているのだが、狭山丘陵を掘り抜き、通称「狭山湖」、正式には「山口貯水池」建設の土砂や資材を運んだ軽便鉄道「羽村・山口」線跡の隧道には行ったことがなく、一度は行って見たいと思っていたのも、このルートを選んだ主因でもある。
軽便鉄道「羽村・山口」線跡の狭山丘陵を穿つ隧道は6箇所、そのうち4箇所は「自転車道」として整備され通り抜けできるが、残りの二つは閉鎖されており、通り抜けできないようである。今回の散歩の私の興味関心は、この軽便鉄道「羽村・山口」線跡の隧道歩きだけであり、後のルートは同行者へのカスタマー・サティスファクション(顧客満足度)のためのもの。閉鎖隧道が、ひょっとして通り抜けれ得る?との想いも抱きつつ、待ち合わせ場所のJR立川駅に向かった。

本日のルート:立川駅>横田バス堤>野山北公園自転車道>1号隧道(横田トンネル)>2号隧道(赤堀トンネル)>3号隧道(御岳トンネル)>4号隧道(赤坂トンネル)>5号隧道>藪漕ぎ>谷津仙元神社>湧水箇所>多摩湖周遊道路>フェンスが周遊道路から離れる>周遊道路に戻る>県道55号線・所沢武蔵村山立川線>玉湖神社>6号隧道>西向釈迦堂>山口貯水池堰堤>狭山不動尊>西武遊園地駅>八国山緑地>将軍塚>正福寺>東村山駅

立川駅
立川駅で下車し、北口より立川バスで最寄りのバス停である「横田」に向かう。軽便鉄道「羽村・山口」線は多摩川の羽村から現在の米軍横田基地敷地を横切り「横田」バス堤付近へと繋がっていた。
自分ひとりであれば、羽村から歩いたではあろうが、現在ではこれといった遺構もない住宅地を同行者に9キロ弱歩いてもらう訳にもいかず、軽便鉄道が狭山丘陵に接近し、隧道が始まる地である「横田」バス停をスタート地点とした訳である。

横田バス堤
30分弱で横田バス堤に到着。バス停は青梅街道に沿ってある。バス停少し西に戻ると、青梅街道を斜めに横切る道がある。現在は「野山北公園自転車道」となっているが、そこが軽便鉄道「羽村・山口線」の跡地を利用したサイクリングロードである。

野山北公園自転車道
野山北公園自転車道は、現在、羽村で取水され、地下導管によって多摩湖(村山貯水池)に送られる羽村・村山線の送水ルート上を走る。自転車道は米軍横田基地の東から青梅街道を越え、都立野山北・六道山公園の東端辺り、狭山丘陵に開削された6つの隧道のうち、4つ目まで続く。
野山北・六道山公園は、いつだったか3度に分けて狭山湖周辺を散歩したときに出合った。六地蔵を越え、宮戸入谷戸の里山の景観を楽しみながら、箱根ヶ崎を経て狭山湖を一周したことが想い出される。

1号隧道(横田トンネル)
野山北公園自転車道を進み、都道55号とクロスする先にトンネルが見える。それが最初の隧道である1号隧道(横田トンネル)。夕刻にはシャッターが閉じられるようだ。
少し水漏れもする隧道の長さはおおよそ150mほど。照明設備も整ったトンネルを抜けると住宅地が目に入る。地形図で見ると、隧道は130m等高線が南に舌状に突き出た西から入り東へ出ている。出たところは谷戸状になっており、そこに宅地が建っているようだ。

2号隧道(赤堀トンネル)
宅地の間の道を先に進むと、ほどなく二番目の2号隧道(赤堀トンネル)が見える。少々水漏れがする90m強の隧道を抜けると宅地になっている。
2号隧道も1号隧道と同じく、130m等高線が南に舌状に突き出た西から入り東へ出ており、ここも同じく谷戸状となっており、そこに宅地が建っている。

3号隧道(御岳トンネル)
2号隧道を抜けるとほどなく3号隧道に。入口付近は狭山丘陵の森が茂る。このまま丘陵地帯に入るのかと思い、120mほどの隧道を抜けると、なるほどフェンスに仕切られた舗装道の左右は木々が茂る。
そのまま森林に、と葉思えども、緩やかにカーブする道を進むと、車道にあたり、周辺に宅地が見える。隧道には車道にあたる箇所で直角に曲がり進むことになる。

4号隧道(赤坂トンネル)
100mほどの隧道を抜けるとその先に車止めがあり、自転車道はここで終わる。車止めの先で道は左右、そして直進と3方向に分かれる。5号隧道は、道を直進することになる。ここから先は丘陵地の緑に包まれる。




5号隧道
舗装も切れ、左右を草木に覆われた道を進むと5号隧道が現れる。隧道は完全に閉鎖されている。この先は東京都水道局の管理下となっている。ひょっとして、立ち入り可能?などと思ってはいたのだが、ここで行き止まり。内部は泥濘となっており、入れたとしても靴はグズグズとなるだろう。軽便鉄道「羽村・山口」線の廃線歩きは、あっけなく終了した。

軽便鉄道「羽村・山口線」敷設までの経緯
ところで、いままでの廃線を軽便鉄道「羽村・山口線」とメモした。確かに横田トンネルから先は軽便鉄道「羽村・山口線」ではあるのだが、この軽便鉄道「羽村・山口線」の敷設ルートはふたつのレイヤーが関係している。ひとつは村山貯水池建設(多摩湖)にともなう水路渠建設の土砂・資材を運んだ軽便鉄道「羽村・村山線」であり、もうひとつは、その軽便鉄道「羽村・村山線」の路線を活用し、山口貯水池(狭山湖)建設に必要な箇所まで路線を延長し土砂や資材を運んだ軽便鉄道「羽村・山口線」である。ダム建設とそれにともなう二つの軽便鉄道を簡単にまとめておく。

村山貯水池建設と軽便鉄道「羽村・村山線」
明治の御一新により都となった東京は水問題に直面する。ひとつは人口増大に伴う水不足、そしてもうひとつは水質汚染である。折しも明治19年(1886)コレラが大流行。玉川上水を水源とし、市内(明治22年(1889)には現在の23区が東京市となった)に張り巡らされた木樋の腐朽や下水流入による水質汚染を防ぐべく、明治23年(1899)には現在の新宿西都心に淀橋浄水場の建設が計画され、明治31年(1898)、鉄管による近代的水道建設が竣工する。
この計画により水質汚染問題は改善されるも、急増する人口の水需要に対応できず、明治45年(1912)には玉川上水の他に水源を求め、検討の結果、村山貯水池の建設が決定され、大正2年から8年(1913~1919)の継続事業として施行され、大正13年(1924)に村山上貯水池が完成。昭和2年(1927)には村山下貯水地地が完成。昭和4年(1929)には、村山貯水池の水を水道水として東京市民に送る境浄水場施設補強、和田堀浄水場、境浄水場間の送水管整備などが完成した。
因みに、何故に村山貯水池を上と下のふたつに分けて建設したのか気になった。粘土を核に盛り土する当時の建設技術では、二つ合わせた巨大な貯水池の水圧に耐えうる堰堤建設が困難だったからかな?などと思いながらあれこれチェックすると、その要因は丘陵地の高低差を調整する必要があったため、とのようである。

羽村・村山線(導水渠)」の建設
村山貯水池に送る原水は羽村で取水し村山貯水池に導水する。「羽村・村山線(導水渠)」と呼ばれるこの導水路は全長8.6キロ。3つの隧道と二つの暗渠で工事現場と結ばれる。路線は羽村取水堰から第三水門まで開渠(300m)>4.4キロの隧道(青梅線・八高線・横田基地・グリーンタウン)>第一暗渠(2.4キロ)が横田の空堀川まで(現在の野山北公園自転車道路、横田トンネル手前まで)>第二隧道(647m)>第二暗渠(73m)>第三隧道(564m)と進み村山上浄水池引入導水路に接続する。
軽便鉄道「葉村・村山線」
この導水渠工事に必要な資材運搬のため建設されたのが軽便鉄道「葉村・村山線」である。大正8年(1919)起工、9年(1920)完成のこの軽便鉄道は大雑把に言えば、羽村から横田トンネル手前までがその路線であるが、正確には小作で砂利を採取>多摩川を横断橋で渡る>1キロの専用線>青梅線で福生駅まで>東京市専用軌道で「東京市材料置場」へ運ばれた、ということではあるので、軽便鉄道「葉村・村山線」の起点は福生の「東京市材料置場」とされる。
そのルートは「東京市材料置場」>第一隧道の羽ヶ下斜坑(現在の羽村市水木公園・駐車場)>その先は葉村・村山線(導水渠)に沿って第一暗渠の終わる横田トンネル手前まで続いていた。
丘陵手前で終点となる軽便鉄道「羽村・村山線」は、その先の村山上浄水池引入導水路まで続く第二隧道(647m)>第二暗渠(73m)>第三隧道(564m)> 村山上浄水池引入導水路の建設に必要な砂利・資材は、馬などを利用し運んでいた、と言う。
軽便鉄道「葉村・村山線」は、軽便鉄道とは言うものの、写真で見る限りではトラックが線路軌道に乗った木製のトロッコ数台を曳いている。そのどう見てもトラックのような形の駆動車を機関車と呼んでいたようである。
なお、この軽便鉄道「葉村・村山線」は導水路渠の敷設資材運搬のために建設されたもので、村山貯水池本体の砂利・資材の運搬は(砂利)>青梅鉄道>中央線>川越鉄道(現、西武鉄道)>(砂利・資材)>東村山で東村山軽便鉄道(東京市軽便鉄道)のルートで貯水池堰堤へと運ばれたとのことである。

山口貯水池建設と軽便鉄道「羽村・山口線」
昭和4年(1929)に完成した村山貯水池であるが、その建設中には既に人口増大に伴う水不足が予見され、大正14年(1936)には対策が検討され、結果、村山貯水池の北側に隣接する、三方を丘陵に囲まれた袋地の口元の上山口に堰堤を築く山口貯水池建設が計画される。
建設は昭和2年(1927)から昭和8年(1933)の継続事業とされ、昭和3年(1928)着工、昭和4年(1929)堰堤敷掘削、盛土工事は昭和5年(1930)に着工し堰堤工事は昭和7年(1932)に竣工し通水、昭和9年(1934)貯水池工事が完了する。
山口貯水池の原水は村山貯水池の導水渠「羽村・山口」線の終端の開渠部分(引入導水路)に引入口を設け、山口貯水池の堰堤付近まで延長し導水した。全長10.4キロ。村山貯水池の導水渠「羽村・山口」線と共用したためだろうか、多摩川の水量豊富な時期に導水・貯水することにした、とのことである。昭和5年(1930)7月着工、昭和7年(1932)に竣工。なお、現在は昭和55年(1980)に完成した小作取水堰(羽村取水堰の2キロ上流)より多摩川の道を取り入れ、地下導水管で山口貯水池まで水を送っている。
軽便鉄道「羽村・山口」線
で、やっと今回歩く軽便鉄道「羽村・山口」線のまとめ。この軽便鉄道「羽村・山口」線と前述の軽便鉄道「羽村・村山」線の最大の相違点は、「羽村・村山」線が村山貯水池への導水渠の工事に関係した砂利・資材の運搬であったのと事なり、「羽村・山口」線は山口湖建設に必要なすべての砂利・資材の運搬に使用されたということである。
ルートは羽村取水堰から横田までの8.7キロは羽村・村山線導水渠上に軌道を敷設、その先、横田より山口貯水池堰堤南端までの3.9キロは羽村・村山線(導水渠)沿いに進み、村山上貯水池を抜け、山口貯水池堰堤まで続いた。工事は昭和3年(1928))起工、昭和4年(1929)中頃完成した。
村山貯水池の本体工事の砂利・資材は前述の通り、幾つもの路線、いくつもの民間業者を経て村山から東村山軽便鉄道で工事現場に運ばれたが、効率が悪かったようで、敷設工事は東京市の直轄事業としたとのことである。

軽便鉄道「羽村・山口線」のルート
砂利採取場>砂利運搬路>砂利運搬桟橋>インクライン>川崎詰替所>石畑交換所(横田基地内)>岸交換所>残堀砕石場>(山王森公園あたりで引き込み線から本線に)桃ノ木交換所>横田交換所(村山市第一中学校北)>横田車庫(横田児童公園)>(材料運搬軌道)>交換所>車庫

その後の東京の水道事業
この村山貯水池、山口貯水池の建設を「第一次水道拡張事業」と称するが、この事業が完成する前より、水不足が予見され、「第二次水道拡張事業」が計画される。目玉は奥多摩の小河内ダムと東村山浄水場の建設。昭和11年(1936)着工するも、戦時で中断。昭和23年(1948)再開し昭和32年(1957)の竣工式。昭和35年(1960)には東村山浄水場への通水が開始された。
続いて、「第三次水道拡張計画」。昭和15年(1940)、利根川を水源とする第三次水道拡張計画答申されるも、戦争のため延期され、昭和39年(1964)起工。同年、荒川の水が東村山浄水場に導水、昭和40年(1965)、利根川と荒川を結ぶ武蔵水路も完成した。
この武蔵水路の完成により、利根川・荒川の水と多摩川の水を相互に利用できるようになった。現在、東村山浄水場と朝霞浄水場の間には、原水連絡管が設置され、利根川・荒川の水と多摩川の水を「やり取り」できるようにもなっている。東京の水のネットワークは時代と共に拡大しているわけである。

藪漕ぎ
5号隧道前で行き止まり。左右は木々に覆われている。道を戻るのも「うざったい」。地図を見ると、隧道上には多摩湖周遊道路が通っており、その手前、右手の丘陵を登った辺りに谷津仙元神社が見える。特段の道はないけれど、藪漕ぎし谷津仙元神社を目安に丘陵を登れば多摩湖周遊道路に行けそうに思う。
ということで、適当な所から成り行きで藪漕ぎ開始。パーティの皆さんは、木々を踏みしだき、道なき道を力任せで進む藪漕ぎは初体験。ちょっと戸惑ったようだが、谷津仙元神社までそれほど距離もなく、木を掴みながら何とか上ってきた。

谷津仙元神社
谷津仙元神社は誠にささやかな社であった。社殿は文化3年(1806)の再建、と言う。社の石段下に案内。案内には、「谷津仙元神社富士講 武蔵村山市指定無形民族文化財 指定十八号 平成13年12月10日指定
谷津仙元神社は、富士講を信仰行事とする都内でも数少ない団体です。武蔵村山の谷津地区に富士講を伝えたのは星行で、谷津の農民の山行星命(俗名藤七)が直接教えを受けました。谷津富士講が興ったのは、寛政から文化期であったようです。社の裏の小高い富士塚は、登山できない人達がここに登り富士山を遥拝しました。谷津富士講の主な行事は、1月1日の「初読み」、5月5日の「本祭り」、冬至の日の「星祭り」があります」とあった。
社裏の小高い塚は富士塚であった。富士塚の上には「浅間神社」の小祠があるようで、浅間>仙元と変わったのだろう。同じようなケースが、いつだったか、東日原から秩父に抜けた峠にあった。峠の名は仙元峠。そこには「浅間神社」の小祠が祀られ、富士に行けない村人がそこから富士を遙拝した、という。また、その峠の「仙元」の意味は「水の源」とあった。「谷津」も丘陵に挟まれた地で、その最奥部には崖下から湧水が涌くことが普通である。「谷津」との関連で浅間が仙元へと転化したのだろうか。単なる妄想。根拠なし。

富士講
散歩の折々で富士塚に出会う。散歩をはじめて最初に出合ったのが、狭山散歩での「荒幡富士」と称される富士塚であった。また、葛飾(南水元)の富士神社にある「飯塚の富士塚」や、埼玉・川口にある木曾呂の富士塚など、結構規模が大きかった。
富士講は江戸時代に急に拡大した。「江戸は広くて八百八町 江戸は多くて八百八講」とか、「江戸にゃ 旗本八万騎 江戸にゃ 講中八万人」といった言葉もあるようだ。
富士塚は富士に似せた塚をつくり、富士に見なしてお参りをする。富士信仰のはじまりは江戸の初期、長谷川角行による。その60年後、享保年間(17世紀全般)になって富士講は、角行の後継者ふたりによって発展する。ひとりは直系・村上光清。組織を強化し浅間神社新築などをおこなう。もうひとりは直系・旺心(がんしん)の弟子である食行身禄。食行身禄は村上光清と異なり孤高の修行を続け、富士に入定(即身成仏)。この入定が契機となり富士講が飛躍的に発展することになる。
食行身禄の入定の3年後、弟子の高田藤四郎は江戸に「身禄同行」という講社をつくる。これが富士講のはじめ。安永8年(1779)には富士塚を発願し高田富士(新宿区西早稲田の水稲荷神社境内)を完成。これが身禄富士塚のはじまり、と伝わる。その後も講は拡大し、文化・文政の頃には「江戸八百八講」と呼ばれるほどの繁栄を迎える。食行身禄の話は『富士に死す:新田次郎著』に詳しい。

湧水箇所
谷津仙元神社を離れて多摩湖周回道路へと向かう。その出合い箇所にふたつの石柱が建ち、その前に涸れてはいるが湧水箇所が目に入る。石柱には「金命水」、「銀命水」と刻まれる。







多摩湖周遊道路
多摩湖周遊道路に出る。両側は高いフェンスで囲まれており、5号隧道の出口方面へと入り込める箇所は見あたらない。残念ながら5号隧道出口確認は諦め、 道に沿って整備されたサイクリングロードを見遣りながら先に進む。






フェンスが周遊道路から離れる
しばらく進むと多摩湖を囲む、というか東京都水道局の管理地域を囲むフェンスが周遊道路から離れ、右に向かう。フェンスに沿って道があるかどうか不明だが、大きく弧を描く周遊道路と合わさっており、うまくいけばショートカットになる。後から地図で見ると、このフェンス沿いの道が東京都と埼玉県の境となっていた。





周遊道路に戻る
フェンスに沿って進むと周遊道路に出合った。出合ったのはいいのだが、結構高い石垣に阻まれる。フェンス横の石垣に木が立て掛けられている。誰かが、この石垣を登るため置いたものだろう。取り敢えず木に取り付いてみるが、微妙に石垣上端へと取り付きが足りず、さて、と思っていると、その隙に木登りなど勘弁と思ったパーティ諸氏が石垣下を進み、周遊道路に簡単に登れる箇所を見付け、さっさと周遊道路に登っていった。私も後を追う。



県道55号線・所沢武蔵村山立川線
周遊道路を進む。この道も東京都と埼玉県の境を画する。しばらく進むと周遊道路は県道55号線・所沢武蔵村山立川線と併走する。これから山口貯水池(狭山湖)堰堤まで、山口貯水池と村山貯水池を隔てる丘陵地の尾根道を進むことになる。

途中、水道局管理地に入るゲートと、導水管が村山上貯水池に注ぐ辺りに続く巡視路といった道が見える。中に入りたい、歩きたいとは思えども致し方なし。
勝楽寺
道を境に、東京都側の地名は「多摩湖」、一方、埼玉県側は「勝楽寺」とある。山口貯水池の引入水路、引出水路の用地は埼玉県の山口、宮寺、元狭山、吾妻、東京都西多摩郡の石畑、北多摩郡の村山、東村山の7ヶ村がその対象となったとのことだが、貯水池中心部は山口村。勝楽寺は上山口とともに山口村の大字の地名であった。
湖底に沈む前は狭山丘陵の谷奥の山口村は所沢から青梅、八王子へと抜ける道筋で、村民は農業や所沢絣・飛白(かすり)の生産に従事していた、とのことである。

玉湖神社
東京都水道局の管理ゲートを過ぎ、村山上貯水池と山口貯水池を隔てる丘陵が最も狭まった辺りに玉湖神社。「たまのうみ」と詠むようだ。コンクリート造りの社は昭和9年(1934)竣工したもの。東京都水道局の職員が、貯水池には水神様が必要でしょう、ということで昭和10年(1935)に府中の大国魂神社の宮司により遷宮式が執り行われた、と言う。




6号隧道
玉湖神社を少し村山貯水池に向かって下る。5号隧道を抜けた軽便鉄道「羽村・山口線」の路線が、玉湖神社の少し南を進み6号隧道に続く、と言う。 成り行きに下ると、如何にも路線敷地跡といった風情を残す道筋がある。5号隧道方面は直ぐ閉鎖され行き止まり、と言う。山口貯水池へと向かう6号隧道方面に進むが、こちらも直ぐにフェンスで行く手を遮られる。県道55号を潜る線路跡の先に6号隧道が見えるが、ここで行き止まり。
5号隧道から先は線路跡に沿っては進めないだろうとは思っていたので、予定通りといえばそれまでだが、少し残念ではある。

予想通りとはいいながら、廃線歩きはあっけなく終えた。今回のメモはここまで。残りのフォローアップ、というか「顧客満足度向上」のルートメモは次回に廻す。

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