火曜日, 8月 30, 2005

狭山丘陵散歩 Ⅱ;狭山丘陵の東・八国山周遊

セカンドラウンド。八国山に代表される狭山丘陵の東を歩く。当初このあたりを歩く予定はなかった。が、会社の同僚が、「八国山いいですよ。トトロの森もあるし。。。」と推薦。トトロで盛り上がる歳ではないのだが、八国山という「響き」に惹かれ歩くことになった。(2月 30, 2009年にブログを修正)



本日のルート;西武園駅>八国山・将軍塚>鳩峰八幡神社>久米水天宮>荒幡富士>山口城址>柳瀬川>堀口天神社>西武球場前駅

西武園駅
西武園線西武園駅で下車。いかにも西武園への入口といったエントランスの脇を下り、八国山緑地の入口に。芝生の丘のむこうに森が見える。案内版によれば八国山の散歩道は何通りかある。尾根道を進むこととした。いやはや、いい香り。先回もメモしたとは思うが、森の香り・フィトンチッドに感激したのはこの森での経験から。適度の湿気もあったのだろうが、芳香剤では出すことのできない、自然でありかつ強烈な香り。胸いっぱい吸い込む。


八国山緑地・将軍塚
この森のことをトトロの森3号地と呼ぶ。尾根道を進み将軍塚に。将軍塚のあたりが八国山の東の端。八国山の名前の由来によれば、「駿河・甲斐・伊豆・相模・常陸・上野・下野・信濃の八か国の山々が望められる」わけだが、木が生い茂り遠望不可。
将軍塚とは新田義貞が鎌倉幕府軍に相対して布陣し、源氏の白旗を建てたことが名前の由来。この地域で新田の軍勢と鎌倉幕府軍が闘ったことなど全然知らなかった。府中の分倍河原で新田軍が鎌倉幕府軍を破ったことは知っていたのだが、この地はその分倍河原の合戦に至る前哨戦であったのか。散歩をしていると思いがけなく「歴史イベント」の地に遭遇する。準備もなにもしない徒手空拳・無手勝流の散歩の楽しみのひとつだ。戦いの軌跡をまとめておく。

西暦1333年(元弘三年)新田義貞、鎌倉幕府を倒すべく上州で挙兵。5月10日、入間川北岸に到達。鎌倉幕府軍は新田軍を迎え撃つべく鎌倉街道を北進。5月 11日に両軍、小手指原(埼玉県所沢市)で会戦。勝敗はつかず、新田軍は入間川へ、鎌倉軍は久米川(埼玉県東村山市)へ後退。翌5月12日新田軍は久米川の鎌倉幕府軍を攻める。鎌倉幕府軍、府中の分倍河原に後退。5月15日、新田軍、府中に攻め込むが、援軍で補強された幕府軍の反撃を受け堀兼(埼玉県狭山市)に後退。新田軍は陣を立て直し翌日5月16日、再度分倍河原を攻撃。鎌倉軍総崩れ。新田軍、鎌倉まで攻め上り5月22日、北条高時を攻め滅ぼす。鎌倉時代が幕を閉じるまで、旗挙げから僅か14日間の出来事であった、と。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

鳩峰八幡神社
将軍塚を後にし、尾根道を元に戻る。道の中間地点から、北に階段を下りる。松ヶ丘団地を抜け、トロロの森2号地に。目安は鳩峰八幡神社と水天宮。神社の横の小道がトロロの森へのアプローチ。鳩峰八幡神社は西暦921年(延喜21年)、京都の男山鳩峰に鎮座する石清水八幡宮を分祀したものといわれる。新田義貞は八国山に陣を置いた時、源氏の守り神であるこの八幡宮に参拝し戦勝を祈願。鎧を置いた所に稲荷神社をまつり「鎧稲荷」、兜を掛けたと伝わる松が拝殿の左側に。




久米水天宮
八幡神社のすぐ隣に久米水天宮。水天宮って、安産の神様。私も子供が生まれるとき東京の水天宮さんに腹帯を頂きにいったのだが、いったいどんな神様なのか、調べてみた
水天宮の御祭神は天御中主神 (あめのみなかぬしのかみ) 、安徳天皇 (あんとくてんのう) 、高倉平中宮(たかくらたいらのちゅうぐう。建礼門院?)、二位の尼 (にいのあま) 。天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)がどんな神様か知らないが、それ以外は壇ノ浦で滅亡した平家の貴種。1185

年、平清盛の血をひく安徳天皇は壇ノ浦(山口県下関市)の合戦で、祖母の二位の尼に抱かれ、母の建礼門院と共に入水。安徳天皇8歳のこと。高倉平中宮に使えていた官女の按察使局(あぜちのつぼね)も壇ノ浦で共に入水しようとする。が、二位の尼に、「生きのびて、菩提をとむらうべし」、との命を受け遁れ、筑紫・久留米の千歳川(現筑後川)の辺りに、辿り着く。そして水辺に小さな祠を建て安徳天皇とその一族の霊を慰める日々を送る。これが今に続く水天宮の起源。
その後、久留米藩主有馬忠頼公の庇護を受け、広大な社殿が造られた。東京日本橋の水天宮は、参勤交代で領地を離れた有馬公が、江戸の地でもお参りをしたいということで江戸屋敷の中に屋敷神としてつくられたのが、その始まり。屋敷は慶応大学三田キャンパスのあたり。その後、この屋敷神が人々の評判になり、明治になって藩屋敷がなくなった後、日本橋に移った。この久米水天宮は武蔵国の中で日本橋にある水天宮についで由緒あるお宮さんとのこと。ちなみに、入水自殺を図った建礼門院(高倉平中宮?)、源氏に助けられ我が子の菩提をとむらうべく剃髪、隠棲生活されたのが京都大原の寂光院である。

荒幡富士


水天宮脇の道を進みトトロの森2号地に。雑木の森の中を進み、南部浄水場に。鳩峰公園をちょっと北に歩きはじめたが、どこに進んでいるのかわからなくなり、元の浄水場にもどり、わき道を下る。荒幡地区を歩き、ゴルフ場脇の丘を進むと荒幡富士。荒幡富士講を信仰する村内の氏子・信者はもとより、近隣の人々も協力し造りあげた、こんもりとした人工の塚。富士塚と言う。
富士山は古来神の宿る霊山として信仰の対象となっていた。富士山参詣による民間の信仰組織がつくられていたのだが、それが富士講。とは言うものの、誰もが富士に上れる訳でもない。で、近場に富士山をつくり、それをお参りする。それが富士塚である。
散歩の折々で富士塚に出会う。葛飾(南水元)の富士神社にある「飯塚の富士塚」や、埼玉・川口にある木曾呂の富士塚など、結構規模が大きかった。富士講は江戸時代に急に拡大した。「江戸は広くて八百八町 江戸は多くて八百八講」とか、「江戸にゃ 旗本八万騎 江戸にゃ 講中八万人」といった言葉もあるようだ。新田次郎さんの『富士に死す;新潮文庫』に、富士講中興の祖である身禄もことが詳しい。

山口城址
荒幡富士市民の森を抜け、柳瀬川を越え、柳瀬川から西武狭山選下山口駅に。駅前の交通量の多い道を左折し、山口城址前に。山口城址は武蔵七党の村山氏からでた山口氏の館跡、とはいうものの、今となってはスーパーマーケットの脇に、案内が残る、だけ。

柳瀬川
柳瀬川は狭山丘陵から流れ出し、志木で新河岸川に合流する全長20キロ程度の川。新河岸川で最大の支流。武蔵野台地を刻む最大の川筋でもある。本流と支流の北川は狭山丘陵の中から、支流の東川は丘陵の北側・早稲田大学所沢キャンパスの東から、空堀川は丘陵の南・野山北公園から流れ出す。とは言っても、本流と北川は源流点は狭山湖の西にある金堀沢。現在は狭山湖・多摩湖の工事によって堰止められている。余水が流されているのだろう、か。

堀口天満神社

高橋を越え、トトロの森1号地に向かう。丘のように聳える貯水池の堰堤防の手前、清照寺方面に右折。堀口天満神社あたりから森に入る。トトロの森1号地。結構森が深い。案内板に従い森を楽しみ、尾根を先に進み藤森稲荷神社に廻りお参りする。

西武球場前駅
森の道を下り貯水池の堰堤防に向かう。結構な登り坂。運動場になっている。堤防上に上がり、景色を楽しみ、堤防を南に。狭山自然公園に沿って歩く、狭山不動脇を下り、西武球場前駅に。山口線に乗り、一路家路に。

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