木曜日, 9月 15, 2016

予土国境 坂本龍馬脱藩の道を歩く そのⅡ;土佐の梼原から予土の国境の峠を越えて伊予の大洲へと(韮ヶ峠・舟戸川筋色納集落・榎ヶ峠・河辺川筋神納集落)りゅ

龍馬脱藩の道を歩く、とはいながら、詳しい地図もない・バスもない・宿もない、といった四国山地の真ん中を辿るわけで、であればピストンで進むしかないだろうと、「えいや」で始めた龍馬脱藩の道の初日は、四万川支流の本モ谷川筋の茶屋谷からはじめ、松ヶ峠を越えて四万川筋・高階野集落に下り、韮ヶ峠まで、おおよそ8キロの山道を2時間半で歩いた。

龍馬脱藩の道;予土国境山越えルート(Google Earthで作成)
で、車のデポ地まで戻るに、同じルートのピストンではなく、一説には龍馬脱藩の道とも記される四万川筋に沿って県道を15キロ弱、おおよそ4時間弱で車のデポ地に戻った。心配していた道標もしっかり整備されており、往路はどうということはなかったが、復路はさすがに疲れた。
梼原のホテルに戻り、ゆっくり休んだ後、『坂本龍馬脱藩の道を探る;村上恒夫(新人物往来社)』を開く。いままでいくら読んでも頭に入らなかった説明が、現地の風景とともに「スッ」と頭に入るようになってきた。
本に記載の脱藩の道の地名と地図を照合しながら2日目のルートを想う。ルートは、梼原の町から韮ヶ峠まで車で走り、韮ヶ峠峠に車をデポ。峠から予土県境を越え、愛媛県西予市野村町の舟戸川の谷筋に下る。そこから韮ヶ峠に折り返し、車を舟戸川の谷筋まで運び適当な場所に車をデポし、榎ヶ峠に上る。 榎ヶ峠から山腹をトラバース気味に下り、大洲市河辺町の河辺川谷筋まで進み、谷筋から車のデポ地に戻り、本日の散歩終了とする。

谷筋から車のデポ地に戻る道は、脱藩の道を戻るのが最短ではあろうけれど、車で山越えするため、道の状況確認をすべく林道を戻ることにする。昨日の車デポ地までの復路は県道を延々と歩いたのだが、今回のデポ地戻りは林道とはいいながら、すべて上り。初回同様、結構きつい復路になろうと覚悟すべし、の心持ちであった。

本日のルート
梼原
一字一石の塔>三嶋神社御幸橋>維新の門群像

Part Ⅰ(往路;脱藩の道);韮ヶ峠から舟戸川の谷筋に下る
韮ヶ峠から舟戸川谷筋の大和集落の県道36号まで下る;1キロ強・30分 韮ヶ峠;7時8分>脱藩関所跡;7時10分>土径を等高線に垂直に谷に下る>わらじが駄馬;7時21分>馬頭観音;7時24分

Part Ⅰ(ピストン復路);韮ヶ峠の車デポ地に戻る
県道36号を韮ヶ峠に戻る>羅漢穴;8時7分>県道合流点>韮ヶ峠;9時4分

Part Ⅱ(移動・接続;脱藩の道);韮ヶ峠から舟戸川筋・大木戸の榎ヶ峠上り口まで
韮ヶ峠>(車移動・接続)>脱藩の道・県道合流点>(脱藩の道)>大和の茶堂;9時21分>小屋の札の辻>少し戻り土径に>男水;9時50分>大木戸バス停・車デポ地点;9時59分

Part Ⅲ(往路;脱藩の道);舟戸川筋・大木戸から榎ヶ峠を越え河辺川の谷筋に
デポ地出発;10時5分>榎集落が;10時30分>林道から土径に>土径を榎ヶ峠に>榎ヶ峠;10時58分>峠傍に舗装された林道>林道の案内板脇に土径>城の森;11時11分>笄岩;11時16分>お堂;11時21分>林道に出る;11時23分>夜明けの碑;11時45分>茶堂;11時52分>河辺川;12時3分>御幸橋;12時6分>封事ヶ峠への分岐点

Part Ⅲ(ピストン復路);河辺川谷筋・神納集落から舟戸川谷筋の車デポ地に戻る
デポ地への林道分岐;12時30分>舗装が切れる>脱藩の道分岐に戻る;14時8分>デポ地に戻る;14時39分(標高460m)



梼原
昨日は早朝から車を走らせ、気が急き梼原の町を見る余裕もなかったのだが、今回は梼原泊まり。少し早起きし、昨日観光案内所で頂いたパンフレットにあった、「三嶋神社の御幸橋」と「維新の門群像」を車で廻ることにした、



一字一石の塔
朝霧に包まれた山間の町梼原から、三嶋神社のある国道440号を進む。国道440号は地芳峠を穿つ地芳トンネルを抜け愛媛県上浮穴郡久万高原町を経て松山に通じる。
町を離れ2車線の国道を走ると、道の左手に祠がある。車を停めると「一字一石の塔」の案内。「この付近一帯は、かつては断崖で樹木に囲まれた中に往還があり、難所と怪奇な場所で、人馬の事故が多く、恐れられていた。
吉祥寺の密巌和尚はこの不安をなくするため、大乗経を一石に一字ずつ写経して埋め、通行安泰を祈り地蔵菩薩像を安置した。天保9年(1838)のことである。昭和60年(1985)国道改修により、この地に移転された」とあった。 今でこそ車でサッと通れるわけだが、往昔の道無き険路を想う。想い浮かべる険路のイメージは奥多摩・数馬の切通しである。

三嶋神社御幸橋
「一字一石の塔」で地図をチェックすると、三嶋神社は少し行き過ぎている。少し戻ると梼原川に架かる屋根付き橋が見える。橋は三嶋神社の参道となっている。屋根付き橋をはじめて見たのは、伊予の金比羅街道を歩いたときだが、規模が断然大きい。橋の案内は特に見当たらなかった。橋を渡り三嶋神社にお参り。
◆「梼原町指定文化財・三嶋神社 
津野山郷の開祖・津野経高(つのつねたか)は、梼の木が多いこの地を梼原と名づけ、延喜19年(919年)竹の薮より移り、居城を築き梼原宮首に伊豆(静岡県)より三嶋神社を観請した。といわれている。
また、藤原純友の乱のとき、伊予(愛媛県)河野氏に協力して純友征伐に向かい、伊予三三嶋大明神に詣で、純友の乱平定後に帰国したとき、伊予三嶋大明神も勧請して祀ったと伝えられている。慶応4年(1868年)3月、三嶋大明神を三嶋神社と改称、明治40年(1907年)、明治44年(1911年)に梼原地区無格社21社が合祀された。現在の本殿は、享和3年(1803年)、拝殿は明治23年(1890年)に再建されている。拝殿の彫刻物は山口県の大工・中本喜作の作である。
境内には津野家代々を祀る「津野神社」、朝鮮松(ハリモミ)、桂月大町芳衛書の「鎮座千年碑」、木で作られた「神馬」もある、
梼原町指定文化財・ハリモミ
樹齢約400年、樹高約30メートル、周囲約3.7メートルで、通称「朝鮮松」ともいわれる。豊臣秀吉が諸国大名に朝鮮出兵を命じ、文禄元年(1592年)津野親忠と中平左京之亮光義は、長宗我部軍に加わって従軍し、帰還のときに持ち帰って植えたものと伝えられている。
大町桂月
いつだったか、東京・目白に大町桂月旧居跡を尋ねたことがある。詩人・随筆家・評論家として知られるが、終世酒と旅を愛し多くの紀行文を残す。大雪山系にはその名からとった桂月岳が残る。
与謝野晶子の「君死にたもうことなかれ」に対して、「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」などと非難し戦後は少々評価をさげてはいたようだ。
が、桂月の紀行文は誠に、いい。田山花袋の紀行文に『東京の近郊 一日の行楽』がある。これも、いいが、同じく桂月に明治40年に書かれた「東京の近郊」がある。これもまた、いい。「一日に千里の道を行くよりも 十日に千里行くぞ楽しき」は桂月の言。

梼原の由来
梼の木が多いために、梼原はわかる。が、そもそも「檮(梼)」は「ゆす」とは読めない。音読みは「トウ」、訓読みは「おろ、きりかぶ」である。それを「ゆす」と読むようになったのは、梼の木に寄生する虫が固い殻となって、その穴を吹くと「ヒョウ」と鳴る。そこから「ひょんの木」と呼ばれる「イスノキ」が正式名である。で、イスノキ>椅の木、と。「椅」が「檮」となったのは、「昔風の便筆として書いたもの、とする(『坂本龍馬脱藩の道を探る』)

維新の門群像
国道440号を梼原の町に戻り、先回、本モ谷川筋に向かった川西路方面への道を取り、梼原川を渡る。川を渡ると直ぐ、南に折れ坂道を上ると出雲神社の脇に維新の門の群像があった。高台から見下ろす梼原の町、町を囲む山塊、まさしく山間、谷間の町である。

龍馬脱藩の道;韮ヶ峠から河辺川筋・神納集落まで
志士の群像は西に向かって右手に吉村虎太郎、前田繁馬、那須信吾、中平龍之介。中央には掛橋和泉。左手に坂本龍馬、澤村惣之丞、那須俊平の像が建つ。 維新の門群像の碑文には「幕末の風雲急を告げる文久2年(1862)春、坂本龍馬は、勤王郷梼原から那須俊平、信吾父子の案内で盟友澤村惣之丞とともに、回転の偉業を夢見て脱藩した。
この地からも吉村虎太郎、前田繁馬、中平龍之介が国境を越え維新動乱の渦中に身を投じた。また、これらの志士を身を賭して支える掛橋和泉があった。それから年を経ること6年、明治維新は成り、近代国家が誕生するが、そのとき既に8人の志士は壮絶な死を遂げていた。いま山中に残る脱藩の道を行くとき、新しい時代の到来を信じ、大きな夢を抱いて峻険を駆け抜けた男たちの決意が偲ばれる。


ここに志士の足跡が残る地を選び、八志士の群像を建て「維新の門」と名づけ、その功績と英姿を永遠に伝える。
近代日本の黎明は、この梼原の地より輝いた。その郷土を誇りとする青年たちの情熱と維新の里の発展を希求する町内外の数多くの有志の熱き思いが、この群像を建立した。
平成7年11月11日建立   撰文 梼原町維新の門群像建立委員会」とあった。

龍馬脱藩の道;韮ヶ峠から河辺川筋・神納集落までの標高図
平成7年というからそれほど古いものではない。傍にあった「維新の門群像建立趣旨」には製作者は濱田浩造氏とある。吉村虎太郎像(津野町)、ジョン万群像(土佐清水市)、岩崎弥太郎(安芸市)など銅像を数多く作り上げた銅像作家である。

また、案内には群像として建立された8名の志士の略歴が記載されていた。特に龍馬フリークと言うわけでなく、「脱藩の道」という響きに惹かれたわが身には、頭の整理に大いに助かる。

坂本龍馬:さかもとりょうま(1835~1867)
高知の郷士坂本八平(坂本直足)、妻幸の次男として産まれる。実名は直陰(なおかげ)、直柔(なおなり)、変名は才谷屋(さいたにや)梅太郎。江戸の千葉定吉の門に入り、北辰一刀流を修めた。武市端山(武市半平太)と交わり勤王党に血盟加入、文久2年春、同志澤村惣之丞とともに脱藩、勝海舟らに啓発される。薩長同盟の締結、大政奉還の推進など、維新の指導者として活躍したが、慶応3年11月15日、盟友中岡慎太郎とともに、京都近江屋で討たれた。

澤村惣之丞:さわむらそうのじょう(1843~1868)
高知潮江村地下浪人の家に生まれる。文久2年春、坂本龍馬とともに土佐藩脱藩、勝海舟の神戸海軍塾に学び、亀山社中に加わって、坂本龍馬の片腕として活躍した。慶応4年1月、幕府軍の敗退を知って長崎奉行は退廃した。その奉行所を占領して市中の治安維持に当たっているとき薩摩藩士を誤殺、「この大事な時に薩摩と土佐の間に溝を生じてはならない」と、従容として自決した。

那須俊平:なすしゅんぺい(1807~1864)

梼原村に産まれ、同村郷士那須忠篤の養子となった。武芸を好み、特に槍術に長じ、「土佐一の槍の達人」と称された。文久2年4月、養子の信吾は藩佐幕派に吉田東洋を切って脱藩した。俊平も元治元年脱藩。長州の忠勇隊に入った同年、58歳の身で禁門の変に参加し、奮戦の末戦死した。

那須信吾:なすしんご(1829~1863)
佐川村浜田宅左衛門、妻悦の二男として産まれる。梼原村郷士那須俊平の養子となり、その娘為代と結婚した。文久2年3月、坂本龍馬、澤村惣之丞を韮ヶ峠まで案内し、4月には土佐藩佐幕派の巨頭吉田東洋を斬り、その足で土佐藩を脱藩し京都に潜伏した。翌3月、吉村虎太郎らと天誅組を挙兵したが幕軍に阻まれ破滅、鷲家口(奈良県)で戦死した

吉村虎太郎:よしむらとらたろう(1837~1863)
芳生野村庄屋吉村太平、妻雪の長男として産まれる。間崎滄浪の門に学び、肝胆相照らす間となる。安政6年梼原村番人大庄屋として赴任した。武市端山らと勤王党を結成、文久2年に土佐藩を脱藩して京に上がった。一時捕らわれて牢舎に呷吟する身となったが、出所後再び京に上がり、天誅組を組織し、大和に兵を挙げた。しかし、八・一八の政変で孤立無縁となり、鷲家谷(奈良県)にて幕軍に阻まれ天誅組は崩壊、虎太郎も壮絶な死を遂げた。

中平龍之介:なかひらりゅうのすけ(1842~1864)
梼原村地下浪人中平佐平、妻登根の長男として産まれる。那須俊平に剣を学び、同志と気脈を通じ、勤王の志を篤くする。文久3年土佐藩脱藩、長州の忠勇隊に入り禁門の変に参戦した。激闘の末重傷を負い自決した。

掛橋和泉:かけはしいずみ(1835~1862)
梼原村那須常吉、妻歌の二男として生まれ、同村神職掛橋家に養子として入った。すぐ隣の庄屋吉村虎太郎と親交を重ね、勤王の志を重ねた。文久2年、同志が相次いで土佐藩を脱藩。家が裕福であった和泉は、家財を費やして彼らを援助した。これが養母の知るところとなり、この詰責を受け、同志に累の及ぶことを恐れ、自決した。

前田繁馬:まえだしげま(1835~1863)
松原村庄屋前田広作、妻きくえの長男として生まれる。那須俊平に剣を学び、文久3年一族の前田要蔵に従って上京。吉村虎太郎、那須信吾らと交わって勤王の志を固めた。吉村虎太郎の挙兵に加わり、天誅組に入って大和に進撃したが、政変によって隊は崩壊、初瀬(奈良県)で戦死した。



Part Ⅰ(往路;脱藩の道);韮ヶ峠から舟戸川の谷筋に下る

韮ヶ峠から舟戸川谷筋の大和集落の県道36号まで下る;1キロ強・30分

韮ヶ峠;7時8分(標高958m)
駆け足で梼原の町を廻り、急ぎ足で韮ヶ峠に向かう。維新の門群像の立つ高台から下り、昨日と同じく川西路地区を川西路地区から真西に向かい、大越峠を維新トンネルで抜け県道2号に。
県道2号を進み、六丁の集落を越え、文丸で県道379号に乗り換える。県道379号韮ヶ峠文丸線は昨日延々と歩き、道路事情はわかっているので安心して車を進め、7時過ぎに韮ヶ峠に到着。峠の広場にデポし本日の「龍馬脱藩の道」散歩を始める。

木標から土径に
予土国境(高知・愛媛県境)を越え、昨日確認した伊予側の「坂本龍馬脱藩の道」に向かう。道は県道から左に分かれる。県道はそのまま北に進み愛媛県道36号と繋がるが、県道から脇にそれた「坂本龍馬脱藩の道」の案内のある道も、北に下り県道36号に繋がっている。

県道から分かれたその脇道を少し進むと「坂本龍馬脱藩の道」の木標があり、舗装された道から土径に入る。

脱藩関所跡;7時10分(標高932m)
土径に入るとすぐに、「脱藩関所跡」の案内。手書きで、「まだ明けやらぬこの峠は、雲海から浮かび上った島のように見えた「おはようさんです。どうか通していただきたい。」あまり大きな店のようではないが老舗の番頭らしい身なりの一人が通行手形をさし出し腰をかがめ軽く頭を下げた。早起きして夜の明けぬ間に伊予のどこかに行くのであろう。
「その方達はどこへ参るのか」役人の一人が差又のついた棒を片手に手形を取ってたしかめた。手形と顔を交互に見つめて「ふんふん」とうなずき通ってよいと促がした。他の旅人数人も同じように手形を見ながら通るよう役人は命じた。その中には商人をはじめ職人、旅芸人等の一行数人であった。朝早く関を越すためにこの時刻は通行人が多くなるだろう。一行の中に武士らしい者はいなかった。
龍馬が脱藩したとの報は土佐藩より国境に附する四国中の藩に早飛脚(今の郵便)でふれ(厳戒令)が出されたのは言うまでもない。京を目指す龍馬を見つけ次第討ち取れの命はこの関所でも例外ではなかった。
しかし土佐の宮野々の関を逃がれ同志の力を借りて脱藩の道を進む龍馬はこの関で捕まるわけにはゆかない。この数人の中に龍馬が居たかどうかは定かでないが、もし居たとしたらどんな姿であったろうか真相はようとして解明出来ない。(こんな場面があったかも)
時に文久2年(1862年)3月26日、龍馬がこの関を逃がれたとされる未明の時刻であった。以後、龍馬らしい人物を見た者はいない。33年と云う短い生涯を閉じたのであるが、何とはかない人だったのか。いたるところに立ちふさがる難関を通りぬける男を支えたものは、もちろん同志の力と天の声をきき、一命を賭けた信念と炎のような身体であった。正に火の玉そのものであったにちがいない。
ここの関所を逃がれ龍馬は維新の道をまっしぐらに進むことになるのだが、今は石組だけが残る史跡です。この石の上に立ち住時を偲ぶ時、袴のすそがちぎれた龍馬が今の時代に何を語りかけてくるのか皆さんもとくと聞いてやってください」とあった。

ふりむき坂」の案内(7時12分(標高924m)
脱藩関跡から数分、道を下ると道脇に「ふりむき坂」の案内(7時12分;標高924m)がある。案内の下に「身を変じ逃れた関を振り返る」と書かれた句がある。







土径を等高線に垂直に谷に下る:(標高887m)
その先で、土径と分かれた舗装道に出る。「坂本龍馬脱藩の道」は舗装道をクロスし、そのまま土径にはいるが、また直ぐに舗装道とクロスし、土径となる。 クロスした舗装道は等高線に抗うことなく進み、先で県道36号に合わさるが、土径は等高線に垂直に尾根筋を谷へと下る。


わらじが駄馬;7時21分(標高869m)
舗装道から土径に入った辺りは等高線の間隔も広く平坦地となっているが、そこに「わらじが駄馬」の木標。案内は特にないが、ここにも「わらじ替え道の遠きに出る吐息」と書かれた句があった。句は龍馬に事よせているが、「わらじが駄馬」という以上、駄馬とわらじの「関係」は?
わらじと駄馬
日本在来種の馬は蹄が固く、蹄鉄が普及したのは明治以降と言う。それ以前は、馬専用の草鞋(わらじ)を履いていたわけで、駄馬は主に荷を運ぶ馬であるから、この先の急坂に備えて草鞋を履き替え、足元を整え、急坂を上り切りすり減った草鞋を履き替える場であったのだろうか。地形図で見える平坦地故の妄想ではある。

馬頭観音;7時24分(標高863m)
さらに、「わらじが駄馬」のすぐ下に馬頭観音を祀る小さな石祠がある。急坂を上り下りする馬の安全を願って祀られたものだろう。祠とは言うものの、石を立てかけて観音様を雨風から守っているような素朴な「祠」ではあった。






県道36号に出る;7時44分(標高671m)
馬頭観音から先は、等高線に垂直に急坂を下る。標高750m辺りまで下ると、等高線の間隔も広くなり、少し緩やかな坂となる。道のポイントには「坂本龍馬脱藩の道」の木標があり、道に迷うことなない。
馬頭観音から20分、標高を200mほど下げた辺りで県道36号に出る。この辺りが『坂本龍馬脱藩の道を探る』にあった「小屋」地区ではあろうと思う。

注;以降、往路に続き、(ピストン復路)のメモが続くが、この部分は「龍馬脱藩の道」には関係のない、自分の散歩メモ。脱藩ルートだけをトレースなさるかたは、「往路」のみを参考にしてください。


Part Ⅰ(ピストン復路);韮ヶ峠の車デポ地に戻る

舟戸川の谷筋・大和集落から県道36号を韮ヶ峠まで;4キロ強・1時間強

県道36号を韮ヶ峠に戻る;7時46分(標高671m)
県道36号に出て、先に進むか車デポ地に戻るか少々悩む。地形図から読み取る地形からして、龍馬脱藩の道は県道からそれほど逸れることはないだろう、逸れるとしたら、適当な処に車をデポしそこをピストンすればいいか、などと考え、韮ヶ峠のデポ地にここから引き返すことにする。少しでも歩く距離を縮めたい思いではある。

羅漢穴;8時7分(標高698m)
尾根筋を垂直に下った往路・龍馬脱藩の道と異なり、県道は等高線に沿って緩やかに標高を揚げ、尾根の突端を迂回するため西へ東へと、大きくスイングしながら上ってゆく。
途中、羅漢穴の木標に誘われ、寄り道し羅漢穴の入口まで歩いたのだが、羅漢穴はそこからまだ谷筋に下りるようであり、中止し県道に戻る。

県道合流点;8時49分(標高848m)
東西に延々とスイングする県道に飽き、山道を這い上がりショートカットしようかとも思いながらも、車が走れる道かどうか確認するのが第一義と思い聞かせ、県道を進み、引き返し地点からおおよそ40分ほどで、四国カルスト方面と韮ヶ峠方面との分岐点に到着。

韮ヶ峠;9時4分(標高958m)
分岐点から先は、韮ヶ峠の県道36号(接続線?)から脇にそれた舗装道。往路で脱藩の道を歩いたときにクロスした道である。分岐点から先に進むと「ふりむき坂」下で脱藩の道とクロスした舗装道に戻る(8時53分;標高912m) そこから10分弱歩き、韮ヶ峠に到着。蛇行する県道を4キロ強、おおよそ1時間強でデポ地に戻る。



Part Ⅱ(往路:車移動・接続と龍馬脱藩の道);韮ヶ峠から舟戸川筋の榎ヶ峠上り口まで

韮ヶ峠から県道36号を車で下り、
舟戸川の谷筋・大木戸バス停脇に車デポ


韮ヶ峠から下り、県道に出た脱藩の道に繋げる
韮ヶ峠から県道36号を車で下り、往路に脱藩の道から県道36号に出た地点に。これで脱藩の道に接続した。ここからが、坂本龍馬脱藩の道の続きとなる。

 大和の茶堂;9時21分(標高622m)
土径が県道に出る場所を越え先に下ると、県道脇に3方吹き抜けの赤く塗られた建物がある。茅葺屋根ではないが、これも茶堂ではあろうか。

小屋の札の辻;9時23分(標高602M )
茶堂から少し下ると県道36号から分岐する舗装道がある。『坂本龍馬脱藩の道を探る』には、韮ヶ峠から小屋村に折れ、榎ヶ峠に向かったとあるが、その小屋村に伊予街道の拠点・小屋の札の辻があった、とある。その四ツ辻からは小屋日浦の小屋庄屋前に向かう伊予街道の表街道、小屋の色納から榎ヶ峠に向かう伊予街道の裏街道、そして昭和・伊予の地を経て高知に向かう道が分岐する、と説明される。
表街道の小屋庄屋は地図では確認できないが、同書にはこの辺りから真西に記される。表街道は三ヶ峠を越えて大洲に向かうと言う。三ヶ峠は舟戸川を都集落の下流で北に越えたところにある。道も都集落の西、舟戸川筋の港の森神社へと続いている。とすれば、小屋庄屋は都集落の南辺りということだろうか。 また、高知へと向かうとされる「昭和」は地図に確認できないが、「伊予の地」は分岐から南西に記されている。
分岐は四つ辻ではなく、3方向にしか分岐していない。この分岐が小屋の札の辻との確証はないが、裏街道である色納に分かれる箇所からしで、この分岐が小屋の札ノ辻ではなかろうか。
因みに、小屋であるが、『坂本龍馬脱藩の道を探る』には「この小屋ほど、多くの行政区画の変更があったところも珍しい。藩政時代には上浮穴郡小屋村で、大洲藩領であったが、明治時代に同郡浮穴村大字小屋となる。昭和18年には東宇和郡惣川村大字小屋となり、さらに昭和20年、同郡野村町大字小屋となり、そして現在は、野村町大字小松という」とある。
小屋集落と宮本常一
小屋という地名は宮本常一さんの『忘れられた日本人』の「土佐源氏」という項で目にしたことがあった。生涯歩いた距離は16万キロにもおよぶという民俗学者である。その宮本さんが昭和16年、伊予の内子から河辺村、そして惣川村の小屋を経て雪を掻き分け韮ヶ峠を越え、昨日訪れた茶屋谷に下り、その地で出合った老人の虚実織り交ぜた話をまとめたものが「土佐源氏」である。
龍馬脱藩の道を辿りながら、偶然とはいえ、宮本常一さんが足跡を残した地を歩けたことが結構嬉しい。ピストンが大変とはいうものの、宮本常一さんの苦労を想えば、なんということも、なし。

少し戻り土径に;(標高672m)
分岐点から榎ヶ峠に向かう色納集落へと車で下る。舟戸川の沿った集落で見かけた方に、榎ヶ峠の取り付き口を訪ねると、先に下り大木戸バス停から右に向かう、とのこと。
で、あれこれお話ししていると、龍馬脱藩の道が県道の上に、少しだけ残る、とのこと。車を船戸川沿いの少し広い場所に停め、県道を引き返す。 舟戸川に注ぐ支流に沿って進み、少し舟戸川筋から離れた辺りに倉庫のような建物があり、その脇に「龍馬脱藩の道」の木標があった。車で下るとき見逃したようだ。
土径に入り、木標に従い進む。右手の谷筋が開け、いまから進むであろう榎ヶ峠方面が一望できる。山肌に立つ農家の脇を抜け、土径を下ると、意図せず車を停めた場所に出た。

男水;9時50分(標高511m)
舟戸川に沿って大木戸バス停に向かう途中、県道右手に「男水」の案内。人造の岩から水が噴水の如く吹きあがっている。案内によれば、「名水 男水 龍馬が飲んだと言い伝えられる白滝の水
文久二年(1862年)三月二十四日、土佐の郷士・坂本龍馬は、風雲急を告げる時局を洞察し、自らの使命を自覚するや決然として、土佐脱藩を決意した。(龍馬誌より)
二十五日、高知県梼原村に泊まり、二十六日未明雲悔に浮び上る韮ヶ峠に立ち脱藩の第一歩を踏み出したのである。人通りの少ない時刻にここまで駆け降りこの清水でのどの渇きをうるおした。その時ふと脳裏によぎるものは、捨てた家族ふる里の事等、万感の思いが去来し胸中はいかばかりであったろう。
大志を前に、さまざまな思いを断ちきり、りん然と立つ龍馬の姿がそこにあった。再び韮ヶ峠へと維新の道はつづくのである。正に男の中の男、風雲児、快男子と呼ぶにふさわしい人物であった。
目的は変われども、この意気、度胸、信念を受け継ぎたい。以来、百二十年経た今でもこの水を男水と呼び地域内外で親しまれている。 この水の水源は向こう山の谷間にあり、四国山脈、カルスト高原から発した水を集め、石灰岩の地下洞穴と思われるところを通り、突然に噴出している男性的な清水である。現場立ち入りは、困難なためここまで引水したものである。 惣川自治振興会 惣川公民館」とあった。
横に並ぶ案山子風の人形に、少々の違和感を抱きながらも、冷たい水で顔を洗い渇きを潤す。気分爽快。

大木戸バス停・車デポ地点;9時59分(標高460m)
川沿いを少し進むと県道右手にバス停がある。地図にはバス停など表示されていないよなあ、と思いながらバス停案内を見ると、「西予市生活交通バス」とあり、不定期運行とか予約といった記載があった。コミュニティバスのようであった。
バス停の辺りは県道の幅は広くなっており、県道脇にデポとも思ったのだが、右折し榎ヶ峠に向かう道筋に舟戸川に架かる橋があり、その手前が少し広くなっていたので、そこに車をデポし、榎ヶ峠から河辺川の谷筋に向かう龍馬脱藩の道を歩くことにする。

Part Ⅲ(往路;脱藩の道);舟戸川筋・色納集落から榎ヶ峠を越え河辺川筋・神納集落に

舟戸川の谷筋・大木戸バス停近くに車をデポし、榎ヶ峠に上り、
尾根筋を等高線に垂直に河辺川谷筋・神納集落へと龍馬脱藩の道を下る
6キロ強・1時間半強

デポ地出発;10時5分(標高460m)
車のデポ地から榎ヶ峠に向かう。沢に沿って進む道は舗装されており、車も走れそう。が、いつ道が切れるか不明であり、むしろ、早く土径に入ってほしいと願いながらすすむが、一向に舗装道が切れる気配なし。この道でいいのか少々心配になってくる。






榎集落が;10時30分(標高650m)
沢の右岸を上る道を、左岸に渡り、また右岸に渡り返した先に集落が見てきた。デポ地からおおよそ30分かかっている。
脇で農作業をしている方に、榎ヶ峠はこの道でいいでしょうか?と尋ねると、帰ってきた言葉が、「この先のドミチを進めばいい。藪になっているからわかりにくいぞ」と。道はオンコース。
どみち
既にメモした「ドミチ」云々は、ここではじめて聞いたこと。「ドミチ」という響きが気に入り、今回のメモで多用することになった。


林道から土径に;10時42分(標高732m)
集落の先で道が左右に分岐する。分岐点(12時35分)には「坂本龍馬脱藩の道 右」の木標がある。道は舗装されていたが、分岐点から歩くこと10分弱、舗装道が切れ土径となった。
デポ地からおおよそ40分。舗装された道を歩いてきたが、車はこの土径になるあたりまで入れることができる。後の祭りではある。

榎ヶ峠;10時58分(標高795m)
土径から等高線に抗うことなく、山腹をトラバース気味に、緩やかに標高をあげてゆく。土径に入ってすぐは雑草、そして教えてもらった通りの藪。藪を抜けると杉の林となり、緩やかな道を進むと韮ヶ峠に着く。
土径を10分ほど歩き、標高を50m上げたところに榎ヶ峠。「榎ヶ峠 横通りまで4.1km」「坂本龍馬脱藩の道 河辺保存会」とある。行政区域が大洲市河辺町に移る。
峠に「坂本竜馬の通りし道」と刻まれた石碑がある。よく見ると「俳優 武田鉄矢」とあった。

峠傍に舗装された林道;(標高757m)
鞍部となっている榎ヶ峠から等高線を20mほど下ると、舗装された道に出る。地図には実線が引かれている道筋である。衛星写真で見る限り、河辺川の谷筋に繋がるこの林道は舗装されているように見える。舗装は河辺町域を越えた榎ヶ峠の東の西予市小松町域は、舗装はされていないように見える。山道を示す実線も破線となっている。




林道の案内板脇に土径;(標高748m)
その道を更に標高10mほど下げると「坂本龍馬脱藩の道」の大きな案内がある。 その案内にはそこに榎ヶ峠から先のポイントまでの距離と時間が、それと河辺町の脱藩の道の説明があった。
距離と所要時間は「榎ヶ峠>(約4キロ;徒歩1時間)<横通り>(約1キロ;徒歩30分)<封事ヶ峠>(約2キロ;徒歩1時間)<三杯谷:休憩所・お手洗い>(約2キロ;徒歩1時間)<日除>(約2キロ;徒歩30分)<水ヶ峠>(約4キロ;徒歩1時間<泉ヶ峠>・・・>大洲へ」、と。大枠での行程がわかり結構助かる。

また、「河辺の町を1日で駆け抜けた」との説明には「坂本龍馬は澤村惣之丞とともに、文久2年(1862)3月24日高知を出奔し梼原に到着。その夜梼原の那須俊平、信吾父子の道案内により伊予(愛媛)に脱藩しました。信吾は引き返したが、俊平は同行し大洲市(旧河辺村)を経て泉ヶ峠に宿泊。27日、内子町(旧五十崎町)に着きました。俊平はここで引き返し、龍馬と惣之丞は長浜町へ。28日船で2日を要して山口県へ到着しました」とあった。
その横に「飛翔の像 新しい日本に向かって脱藩の道を突き進む坂本龍馬はと澤村惣之丞、那須俊平の姿を描いている」との説明と3名の銅像の写真があった。平成10年、愛媛県大洲市河辺にある坂本龍馬脱藩之日記念館の近くに建てられた銅像、とのこと。同じく案内にあった「夜明けの碑」は後程メモする。 案内脇に「龍馬脱藩の道」の木標があり、舗装された林道から土径に入る。

城の森;11時11分(標高677m)



等高線の間隔が比較的広く、それほどきびしくない尾根筋の道を垂直に70mほど下ると「城の森」の案内があり、「城の森(山の神城)のこと 天正三年(1575年)土佐一国を平定した長宗我部元親は翌四年四国併呑を企て、その軍団は南予一帯に進入を開始した。
その一軍団は予土国境の韮ヶ峠を越えて小屋村に進入し、一挙に笠形城を攻略、奪取した。同城生き残りの城士は、その枝城であるこの城の森城(地元・国木部落では山の神城と呼んでいる)に轉進(てんしん)・防戦を策したが、急迫して来た軍団を防ぎきれず各個逃散したものの逃げきること叶わず全員国木部落の諸所で殺戮された。
部落の者がその冥福を祈り討死した場所に建立した石塚が昭和初期には十数基あったが現在残っているにはたったの三基である。いまも国木部落では毎年二回念仏行事でその霊を供養している。
また、その時越えた小屋・国木境の峠に榎峠と名付けたのは軍団であると伝えられている。なお、軍団の規律はいたって、きびしく地元民に対しての略奪・暴行等は全然なかったとのことである 河辺村坂本龍馬脱藩の道保存会」との解説があった。
チェックするも笠形城は検索にヒットしなかった。本筋から離れるため深追いせず。

笄岩;11時16分(標高622m)
城の森(山の神城)から先の尾根筋を下る道も、等高線の間隔が比較的広くそれほど厳しくない。その尾根筋を5分ほど下ると大岩があり「笄岩」の案内。「?(こうがい)岩 嘉永二年(一八四九年)四月、大洲十一代藩主、加藤泰幹、小田筋迎郷の際、同月三日神納天神社に宿陣、翌四日小屋村視察に向はれる途次ここに駕籠を止め休息された。その時同行の姫君がこの岩に上ってあそばれているうち、岩の裂目に?(こうがい。昔、髪をかきあげるための理髪具で、のち髪飾としても使われた。)を落とされ、どうしても取ることが出来なかったのでそのままにして行かれた。
それからこの岩を地元ではこうがいいわと呼ぶようになったとのことである。 河辺村坂本龍馬脱藩の道保存会」
小田筋
岩の裂け目に笄を落とすと、なるほど取り上げるのは難儀かと思う。それはいい、として、小田筋迎郷の際と有るが、小田筋は大洲藩が分けた行政区域とのこと。その地域は小田川の流域が自然と思うし、農民一揆の時小田筋からの本隊は村前(むささき;小田川筋)、北表(小田川筋の南。御禊川筋)、五十崎と進んだと、あるので(「えひめいkの記憶」)、小田筋って小田川流域の村とは思うのだが、それにしては、結構遠すぎる。それでもこの辺りも小田筋の行政区域だったのだろうか。
門外漢でよくわからないが、今と違って谷奥部から尾根を越え、峠越えが往来の主流であった「昔」の視点から考えると、峠(笹峠)を隔てた隣村とも言える、かも。

お堂;11時21分(標高593m)
笄岩から5分ほど下ると四方吹き抜けのお堂がある。一個所だけ吹き抜けの上部の棚に石仏が祀られる。茶堂なのだろうか?地図にはお寺さまのマークがあるので、お堂なのかもしれない。







林道に出る;11時23分(標高)
お堂から少し下ると舗装された林道に出る。地図を見ると榎ヶ峠下で出合った舗装された林道がここに繋がっているように見える。右手に河辺の谷筋が開けてくる。





林道から土径に;11時26分(標高)
林道を少し進むと、「坂本龍馬脱藩の道」の木標があり、右に土径を下る。途中も脱藩の道の木標に従い左に折れると、先ほど離れた林道に出る。周りには民家が建つ。国木の集落だろう。
ここでちょっと注意が必要。左方向に「龍馬炭窯」といった案内があるが、龍馬脱藩の道は右に向かう。私はこの案内に惑わされ、左に林道を進み、先ほど林道から土径に下りた場所へと一周してしまった。 同じ土径を下るとき、道脇に「蕎麦は実に昔龍馬の踏みし径 佳曜子」と刻まれた石碑があった。佳曜子は不詳。
国木
国木の由来ってなんだろう?チェックすると、この地の国木の由来は不明だが、新井白石の『東雅』に「クヌギとは猶 国木(くにぎ)というが如し」といった記事があった。椚(くぬぎ)の木が多かったのだろうか。単なる妄想。根拠なし。

夜明けの碑;11時45分(標高534m)
等高線に沿って進む林道を少し下ると大きな石碑がある。「夜明けの碑 村上恒夫」と刻まれる。村上恒夫さんは、龍馬脱藩の道を歩くきっかけとなった『坂本龍馬脱藩の道を探る』の著者。長年の研究成果を我々が享受させてもらっている。
今回の散歩に先立って、詳しい地図はないとはいいながら、ポイントとなる地名を同書よりピックアップし、GPSツールにマークして散歩を始めた。感謝。 その石碑の横に、これも石に刻まれた解説。「近代日本の夜明けに高遠な志をいだいて奔走しながら凶刃に倒れた坂本龍馬が土佐藩を脱藩した折に通った道が古文書「関雄之助口供之事」によれば「小屋村ヨリ榎ヶ峠ー横通りー封事ヶ峠ー三杯谷ー日除ー水ヶ峠ヲ経テ泉ヶ峠二至ル龍馬俊平ト共二泊レリ」とここ河辺村に約十五キロメートルあるこの道を私たちは文化的遺産として大切に保存することを誓い幕末風雲の中をおびただしい夢を残して懸命に駆け抜けた男坂本龍馬の偉業をしのびここに記念碑を建立する 平成元年十一月十五日 河辺村長」とあった。

茶堂;11時52分(標高524m)
「夜明の碑」のすぐ先に「坂本龍馬脱藩の道 河辺保存会」の木標があり、道は林道を離れ左へと土径を下る。木標に従い道を進むと茅葺の茶堂が見える。三方吹き抜け、奥に石仏が祀られる。
谷筋を見下ろす場所にあり、眺めもいい。少し休憩。「龍馬さまも 草鞋を脱ぎし御堂かな 佳曜子」と刻まれた句碑もあった。

河辺川;12時3分(標高418m)
茶堂で少し休憩し、周りの開けた山肌を進み、20mほど標高を下げると沢筋に出る。杉林の沢筋を進むと河辺川に合流。河辺川に沿って少し進むと社が見えてきた。天神社である。





御幸橋;12時6分(標高409m)
安永2年(1773年)創建とされる天神社にお参りし河辺川を渡る。そこには屋根付きの橋が架かっており、「愛媛県指定有形民族文化財 本橋は、明治19年(1886)天神社の参道を横切って流れる河辺川に架けられた屋根付き橋である。県内における屋根付き橋のほとんどは、肱川水系の山間部に集中しているため、この地方の地域的特徴が覗える。
その中でも本橋は、氏子総代石浦庄吉によって架けられたと伝えられるもので、現存する屋根付き橋の中で最も古い橋である。
規模は桁行8.3m、梁間3.4間で、屋根は切妻造りの杉皮葺となっており、桁に杉材、柱・欄干・踏板にケヤキ材が使用され、釘はひとつも使用されていない。 また、聖域的な神社と世俗的な場所を結ぶ本橋は、擬宝珠を取り付けた欄干に「御幸乃橋」と銘が刻まれていることから、地元の人々の信仰心を表す民族的にも貴重な橋である 指定日 昭和45年3月27日 愛媛県教育委員会」とあった。
河辺地区には8つの屋根付き橋があると言う。この橋は明治19年の洪水で天神社に架かる橋が流された折に架けられたようである。で、そもそも何故に屋根を付ける? Wikipediaには、「橋の構造材の劣化速度を遅くする目的で覆いをかけたものや雨風を防ぐため、景観のためなどさまざまな理由から橋が覆いで囲まれている橋。世界的に広く存在し、あるいは「幌付き橋」、「廊下橋」、「鞘橋」、「有蓋橋」ともいう」とあった。

横通・封事ヶ峠への分岐点;12時16分(標高392m)
天神社のある天神の集落から神納の集落を河辺川に沿って進む。郵便局があったので、バスの便はないものかと尋ねるが、定期バスはないとのこと。次回はこの谷筋から進むため、バスの便があればここまでバスで来て、一気に峠・尾根を越え大洲の平地に、との思惑は潰えた。予想どおりではあったが、次回もピストンに決定。
郵便局から少し下ると谷筋から右手に折れ、山に向かう舗装道路がある。「坂本龍馬脱藩の道」の木標もあり、封事ヶ峠への分岐点を確認。ここから車デポ地に戻ることにする。
神納
神納の由来は何だろう?天神集落に天神さまがあるわけで、社に何かを寄進した故だろうか?只、千葉に同じく神納という地名があり、社に寄進との説ともに、焼畑の地を「かの」「かんの」といい,神納,狩野,鹿野,賀野,簡野,神野と書くこともあり,これに由来するとの説もあるようだ。どちらにしても、この地の神納の由来は不明。
そういえば、舟戸川筋、榎ヶ峠に上る手前の集落は「色納」とあった。「いろの」と読むのだろうが、由来は?チェックしても何もヒットしない。「いろ」には「血のつながり」といった意味があるとの記事があったが、これと関連づけるのは穿ち過ぎ、かと。ともあれ、由来不明である。



Part Ⅲ(ピストン復路);河辺川の谷筋から舟戸川谷筋の車デポ地に戻る

河辺川の谷筋から山越えの林道を上り、
舟戸川谷筋の車デポ地に戻る
7.5km: おおよそ2時間

デポ地への林道分岐;12時30分(標高396m)
下りてきた龍馬脱藩の道を戻るか、地図にある、封ヶ峠への分岐点のすぐ傍から山越えの林道を戻るか少し悩む。次回のスタートはこの谷筋ではあるが、車は河辺川沿いの道を上って来ればいいわけで、舟戸川から山越えの必要はない。 林道の上り口まで距離があれば、迷うことなく脱藩の道を逆に戻るのだが、林道入り口は目の前に見えている。
結局、林道を戻ることにした。因は、脱藩の道の木標は土佐から伊予(東から西)に向かって進むのを前提に建てられており、逆に進むのはGPSのトラックログをチェックしながら進まなければならない。蜂やマムシに注意しながら山道を戻るより、少々距離は長くはなりそうだが、後は自宅に戻るだけ。のんびりとデポ地に戻るのがいいか、と思った次第。
河辺川の右岸から左岸に渡った傍にある林道に入る。舗装されており、等高線を緩やかに上るので、それほどきびしくもない。


舗装が切れる;13時42分(標高719m)
等高線と極力「喧嘩」することなく、道は左右にスイングしながら進むことになる。だらだらと1時間強道を進むと尾根筋に。ここで大洲市河辺町から西予市野村町に移る。行政区域が変わり舗装が切れる。




脱藩の道分岐に戻る;14時8分(標高654m)
尾根筋から緩やかな道を下る。時に右手が開け四国山地の眺めも楽しめる。とはいいながら、既に6キロほど林道とはいいながら山越えの道を歩いている。少々疲れてきた。20分ほど歩くと、往路で林道と坂本龍馬脱藩の道に分かれた地点に到着。
道はここまで舗装されている。わかっておればこの地まで車を上げることができたわけで、後の祭りとは言いながら、少々辛い。




デポ地に戻る;14時39分(標高460m)
脱藩の道分岐から「どみち」の言葉を教えてもらった榎の集落を抜け、おおよそ2キロの道を下る。デポ地に車を見たときは、誠に嬉しかった。結構疲れた。

自宅へ
自宅へとナビを入れると、内子の松山道経由となる。土佐から伊予にそれなりに進んだということか。車のデポ地より県道36号を舟戸川に沿ってくだり、国道197号を大洲・内子方面に向かい、松山道・五十崎インターに入り一路実家へと。

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