予定では当日水ヶ峠から泉ヶ峠まで進む予定であったのだが、突然の豪雨のため中止。そのため、二日目の本日は、当初描いた泉ヶ峠から出発の予定が狂い、水ヶ峠から泉ヶ峠までの往復8キロ弱の歩きが加わることになった。
更に間が悪いことに、道間違いの歩きが加わる。石上峠から里に下る道の木標を見誤り、尾根道を先に進んでしまい、往復1時間、おおよそ4キロ弱が余分に加わり、結局合計で24キロ近く歩くことに。
水ヶ峠から泉ヶ峠間のピストンは、まだ元気であり、どうということはなかったのだが、泉ヶ峠から耳取峠・石上峠・新田集落へは下り一辺倒。行きはよいよい帰りはこわい、ではないけれど、新田集落から石上峠、耳取峠を泉ヶ峠へと戻る、上り一辺倒のピストン復路6キロは結構厳しいものになった。
6キロで比高差300mを上るわけだから、普通であれば、緩やかな上り程度ではあるが、酷暑の中を既に18キロ歩いた身体には結構きつく、数回に渡って歩いた坂本龍馬脱藩の道の中で、最も苦しい一日となってしまった。
因みに、この間の坂本龍馬脱藩の道は、水ヶ峠から新田集落までは、おおよそ10キロ程度ではある。
本日のルート;
■PartⅠ(往路;脱藩の道);水ヶ峠から泉ヶ峠まで水ヶ峠から石崎峠の南を巻き、大森山の北を進み泉ヶ峠に
水ヶ峠;7時16分>土径に入る;7時21分>舗装道に出る;7時32分>土径に入る;7時47分>分岐(標識なし);8時10分>美しい景観:8時15分>泉ヶ峠;8時24分>県道310号切通し;8時31分
■PartⅠ(ピストン往復);泉ヶ峠から水ヶ峠のデポ地に戻り、車で再び泉ヶ峠まで
泉ヶ峠出発;8時32分>(歩き)>水ヶ峠のデポ地到着;9時57分
水ヶ峠出発;10時>(車)>泉ヶ峠到着;10時21分
■PartⅡ(往路;脱藩の道);泉ヶ峠から尾根道を進み、耳取峠をへて石上峠から新田集落に下る
泉ヶ峠出発;10時22分>耳取峠;10時38分>石上峠;11時2分>●道を間違い京ヶ森往復●>石上峠に戻り脱藩の道に復帰;11時52分>石上峠から土径を下る;11時58分>舗装道に出る;12時2分>新田(にいだ)集落・脱藩の道の土道確認;12時23分
■PartⅡ(ピストン復路);新田集落から石上峠、耳取峠をへて泉ヶ峠の車デポ地に戻る
新田集落を出発し、舗装道を上り石上峠に到着;12時52分>耳取峠;13時24分>泉ヶ峠到着;13時58分(標高650m)
■龍馬脱藩の道(水ヶ峠・泉ヶ峠・耳取峠・石上峠・新田集落)■
龍馬脱藩の道(水ヶ峠・泉ヶ峠・耳取峠・石上峠・新田集落) |
龍馬脱藩の道(水ヶ峠・泉ヶ峠・耳取峠・石上峠・新田集落)標高図 |
■PartⅠ(往路;脱藩の道);水ヶ峠から泉ヶ峠まで水ヶ峠から石崎峠の南を巻き、
大森山の北を進み泉ヶ峠に■
4キロ・1時間10分
水ヶ峠;7時16分(標高653m)
大洲の宿を出て国道197号、県道32号、228号と乗り換え、御禊川(みそぎ)に沿って進む。御禊川の谷地が切れる最奥部まで進み、大瀬南集落辺りで県道324号に乗り換え、細い山道を走り水ヶ峠に到着。
水ヶ峠では、少し日除集落側に寄った箇所に広いスペースがあり、車をデポする。
土径に入る;7時21分(標高649m)
身支度を終え、水ヶ峠から「泉ヶ峠 3.7キロ」「坂本龍馬脱藩の道」の木標に従い、舗装道を泉ヶ峠方面に向けて進む。数分歩くと「坂本龍馬脱藩の道」の木標があり、舗装道から土径に入る。
舗装道に出る;7時32分(標高660m)
緩やかな尾根道を歩く。左手下には分かれた舗装道が見える。のんびりと10分ほど歩くと土径は舗装道に出る。舗装道は一瞬、尾根道を進む。舗装されていなければ、痩せ尾根道といったものだろう。道はその先で大森山を巻いて進み、土径出口から15分ほど舗装道を歩くと、再び土径に入る。
土径に入る;7時47分(標高697m)
土径に入った脱藩の道は尾根道を進むことになる。おおよそ等高線に沿って緩やかに下る舗装道は尾根道から離れてゆく。大森山に近づくと(8時3分;標高715m)少し傾斜があるが、それほど険しいといった道ではない。
大森山を過ぎると「坂本龍馬脱藩の道」の木標に従い、道は南に向きを変え、少し下る。
分岐(標識なし);8時10分(標高682m)
前面が開けた雑草の中を進むとT字路にあたる。T字路には標識がない。右手には道の左右に農家の作業場が見える。民家に入るわけにはいかないと、左に折れるが、地図を確認すると実線ルートが泉ヶ峠から離れてゆく。
民家の中を通るのか?などと心配しながら作業場に近づくと、ご夫妻がトマトの選別をなさっていた。この道は脱藩の道ですか?と尋ねると、オンコースと。道は作業場の間を抜けて進んでいた。奥さんからトマトを頂いた。感謝。
美しい景観:8時15分(おn標高682m)
作業場から少し進むと、進行方向左手にキビシ川の谷筋の集落、その向こうに雲を抱いた山々が見える。昨日の雨上がりのためか、谷間に湧く雲と集落、そして山々。なかなか、いい。
泉ヶ峠;8時24分(標高648m)
作業場から15分ほど歩くと、突然平坦地に出る。覚に「泉ヶ峠ニ至ル 龍馬俊平ト供ニ泊マレリ」とある、龍馬が梼原を出てはじめて泊まった泉ヶ峠である。 平坦地には龍馬のポスターを貼った建物があり、山小屋か茶店と思い近づくが、現在は休業中とあった。
小屋の廻りには石碑、祠、建物の礎石らしき石組み、往昔の泉ヶ峠の賑わいを示す旅館、餅屋、鍛冶屋、馬つなぎ場、馬の鉄入れ作業場、相撲場などを描いた木の案内板などがある。
『坂本龍馬脱藩の道を探る』には、泉ヶ峠は道路が整備される以前、山越えが往来の基本であった時代、「河辺・肱川と五十崎を結ぶ往来の中心地としてにぎやかであり」「新谷の琴平祭や五十崎の牛市などの紋日には数百人の往来があったそうである。平日でも材木、三ツ椏(私注;みつまた;和紙の原料)、蚕のまゆなどを運ぶ牛馬が四十頭あまり、魚・肉・酒などの日用品を売る商人など、四、五十人の往来があり」と記されていた。
見落としたが、同書には、祠の近くに井戸跡があった、とある。泉ヶ峠の名前の由来ともなっていたが、現在の県道310号の前身となる道を開くに際し、峠の尾根の切り通し工事に伴い水路が絶たれた、とのことである。
県道310号切通し手前に木標;8時31分(標高650m)
泉ヶ峠を離れ、舗装道に下りる。舗装道理脇には「坂本龍馬脱藩の道」の案内があった。
「泉ヶ峠 文久2年(1862年)春、土佐の郷士坂本龍馬は、風雲急を告げる時局を洞察し、自らの使命を自覚するや、決然として土佐を脱藩した。 3月24日、同志沢村惣之丞と高知を発った龍馬は、25日梼原の那須俊平、信吾 父子の家に泊まり、翌26日(新暦では4月24日)大野ヶ原は韮ヶ峠の国境を越えた。その夜ここ泉ヶ峠に着き、沢村惣之丞、そして道案内の那須俊平とともに一夜の宿をとった。
かつてこの峠には、旅館などがあり、土佐街道の交通の要所としてにぎわっていた。脱藩後の最初の夜、龍馬はこの峠でどんな夢を見たであろう。
平成19年3月 河辺坂本龍馬脱藩の道保存会 河辺観光推進協議会 内子町教育委員会」。
◆脱藩の道・取り付き口確認
舗装道に下り、泉ヶ峠から先の脱藩の道の取り付き口を探す。と、県道の尾根切通し手前に「坂本龍馬脱藩の道」の木標がある。木標の先は土径となり、尾根に向かっている。ここが取り付き口であろうと、確認を終え、水ヶ峠へと戻る
■PartⅠ(ピストン往復);泉ヶ峠から水ヶ峠のデポ地に戻り、車で再び泉ヶ峠まで■
泉ヶ峠から水ヶ峠のピストンは、何も考えず舗装道を戻ることにした。これが結構大変。標高を650mから550mまで下げ、それから標高700mまで上げるわけで、こんなことなら脱藩の道を戻ればよかった、などと思うも後の祭り。累計比高差150mほどを上り下りすることとなった。
泉ヶ峠出発;8時32分
泉ヶ峠を8時32分に出て、県道310号を南に下り、北に突き出た尾根筋を廻り込んだ後は、等高線にそって北に向かって半円を描く道筋を進み、三久保集落の上で県道から分かれ、大森山の南を進み尾根筋に近づき、道なりに進み水ヶ峠に戻る。
水ヶ峠のデポ地到着;9時57分
水ヶ峠のデポ地到着は9時57分になっていた。舗装道歩きピストンは5キロ・1時間半であった。
◆水ヶ峠から泉ヶ峠に(車);10時出発・10時21分到着
そこから往路、というか、泉峠への引き返し。10時に水ヶ峠を出発し、歩きピストンで確認した同じ舗装道を走り、県道310号を経て泉ヶ峠に10時21分に到着。5キロを21分で移動した。
■PartⅡ(往路;脱藩の道);泉ヶ峠から尾根道を進み、
耳取峠をへて石上峠から新田集落に下る■
10キロ・2時間
泉ヶ峠出発;10時22分(標高650m)
県道310号・峠の切通し手前に立つ「坂本龍馬脱藩の道」の木標から急な土径を尾根に上る。679mピークは南を巻くも、基本尾根を進む。等高線の間隔も広く、緩やかな下りであり、ピッチが上がる。
耳取峠;10時38分(標高608m)
泉ヶ峠から15分ほど歩き、標高を40mほど下げると左手が開け、前方に平坦地が見える。「坂本龍馬脱藩の道 耳取峠」の木標が立つ。平坦地の端にコンクリートの休憩所らしきものがあり、奥に石仏が祀られる。昔の茶堂を模したものかもしれない。
耳取峠は、風が強く耳が取れてしまいそう、とか、この地に侵攻した土佐の長曽我部の軍勢が敵の耳を切り取り塚に祀ったとか、諸説あるようだ。
石上峠;11時2分(標高503m)
耳取峠の先も、基本尾根道であるが、ピーク部分は北や南を巻きながら進む。610mピークを巻いた先で左手が開け折り重なる山並みが目に入る。その先で分岐(10時52分:標高565m)となるが、「坂本龍馬脱藩の道」の木標があり、左手を進む。
道は林道の趣が強く、脱藩の道?と心配になるが、その先にも「坂本龍馬脱藩の道」がありオンコースであることを確認し、先に進むと石上峠に到着する。耳取峠から20分で標高を100mほど下げたことになる。
峠は四差路となっており、北の御禊川の谷筋から上ってくる道は舗装されている。峠には木材が積まれ、トラック積み込みのためなのかフォークリフトも置いてあった。往昔、肱川筋は、日本三大木材山地であったと言う。現在でも林業が盛んなのだろうか。
広い林道、積み上げられた木材、そしてフォークリフトと、今ひとつ、峠の風情に欠るが、峠の四差路を越えた道の左手にささやかな祠に石仏が祀られる。藩政時代の茶堂跡のようである。
◆木標見間違い
祠の道の反対側に「坂本龍馬脱藩の道 石上峠」とある。方向は道を直進とある(とその時は思っていた)。林業用に整備された広い林道を尾根道に沿って先に進む。後からわかったことではあるが、直進は間違い道であった。WEBでチェックすると、ここで道を間違う方がいたが、オンコースは木標から林道を斜めに土径を下ることになる。
●道を間違う
オンコースの土径がわかったのは、後のこと。その時は林道を進み、大迫山を巻き(11時17分;標高530m)、京の森まで進んだ(11時31分;標高521m)。と、道は行き止まりとなる。地形図を見ると、そこから先は尾根筋を下ることになる。
事前にチェックした龍馬脱藩の道の経由集落である、白岩、福岡、下宿間は京の森から真北にある。どこかに脱藩の道の木標がないか、道はないかと探すが、それらしきアプローチは見つからない。仕方なく、歩いた道すがら、木標がないかと探しながら道を歩くと石上峠に戻ってしまった。
石上峠に戻り脱藩の道に復帰;11時52分(標高503m)
石上峠に戻り、さてどうしたものかと「坂本龍馬脱藩の道 石上峠」の木標を見ると、木標から斜めに草に蔽われた土径がある。木標の示す方向は林道を斜めに下りる、この土径であった。それにしても、少しわかりにくい。
石上峠から土径を下る;11時58分
木標から斜めに、草に蔽われた土径に入る。ほどなく草はなくなり、中央の窪んだ滑りやすい下りとなる。足元に気を付け道を下ると、舗装道が見えた。石上峠の木標からほんの数分の土径であった。
舗装道に出る;12時2分(標高466m)
舗装された道を木標を下ってゆく。特に木標は見つからず、結局舗装された道を20分ほど歩くと前方が開け、新田の集落に出る。
●龍馬脱藩の道見逃し
舗装道に出ると直ぐ、「坂本龍馬脱藩の道」の木標があり、舗装道から直ぐ土径に入っていた。往路、舗装道に下りた時は全く気付かず、復路で木標に気が付いた。疲れて、見れども見えず、であったのだろうか。
なお、後日わかったことではあるが、この木標から続く土径は、下に記す新田集落の木標の箇所に続いていた。
新田(にいだ)集落・脱藩の道の土道確認;12時23分(標高355m)
舗装道が山から新田の集落に入る箇所に、「坂本龍馬脱藩の道 新田」の木標がある。方向は今下ってきた舗装道を示している。そんな馬鹿な?と、木標から右斜めに草に蔽われた道筋がある。これが新田集落から先に続く土径であろう。
これで、山越えから里への「坂本龍馬脱藩の道」は繋がった、とその時は心で万歳三唱した。実際は上で先回、今回のメモで記したように、5か所ほど土径へのアプローチを見逃しており、繋がってなどいないのだが、その時は知る由もなし。
また、里に繋がった、とは思ったのだが、衛星写真でチェックすると新田集落は未だ山間部の集落である。少々気落ちするも、残りは、日を改めて歩いて見ようと、泉ヶ峠の車デポ地に戻ることにする。
■PartⅡ(ピストン復路);新田集落から石上峠、
耳取峠をへて泉ヶ峠の車デポ地に戻る■
6キロ・1時間半強
新田集落を出発し、舗装道を上り石上峠に到着(12時52分;標高503m)
途中土径から舗装道路に出た対面に、往路で見逃した「坂本龍馬脱藩の道」の木標をみつけたのも、この石上峠への戻りの途中である。結構気落ちした。
耳取峠;13時24分(標高608m)
石上峠から耳取峠まで、比高差100mの上りは誠に厳しい。3本用意したペットボトルの水の残量を気にしながら、40分ほどかけて耳取峠に到着(13時24分;標高608m)。
石仏が祀られる、茶堂を模したコンクリートの四阿に、身も世も無く倒れ込む。散歩で休憩することは、ほとんどなく、倒れ込むといったことははじめてのこと。10分ほど大の字になって休みをとる。
泉ヶ峠到着;13時58分(標高650m)
大休止の後、へとへとの体で比高差50mを上り、泉ヶ峠に到着(13時58分:標高650m)。新田集落から6キロを1時間半で戻ってきた。ふらふらとはいいながら、結構なスピードで戻ったようだ。
泉ヶ峠の車デポ地に向かい、県道310号を下り、実家に戻る。坂本龍馬脱藩の道も、舟で長浜に向かったという肱川の支流小田川の亀の甲集落までを残すのみ。当初脱藩の道を計画した時は、山越えし里に出れば終わりとしよう、と思っており、新田とか白岩の集落まで繋げは十分かと思っていだのだが、衛星写真でチェックすると、小田川筋の亀の甲あたりまで山地が続いている。これはもう、小田川に当たるまで進むべし、と心に決める。
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