月曜日, 9月 12, 2016

秋留台地 湧水散歩 そのⅢ:秋留台地の段丘崖・面より湧出する水を辿り、秋川・多摩川・平井川に囲まれた台地をぐるりと廻る


秋留台地の湧水散歩も、秋川筋、多摩川筋と辿り、先回の散歩でやっと平井川筋へと辿りついた。あきる野市が作成した『報告書』にある湧水リストで残すは4箇所。平井川筋と秋留台地の段丘面から少し離れるが、草花丘陵の湧水点となっている。
ルートを思うに、五日市線・東秋留駅から平井川筋を遡り、最後の目標を草花丘陵の崖線が多摩川に落ちる折立(おったて)坂の湧水とし、湧出点を確認した後、多摩川を跨ぐ羽村大橋を渡り青梅線・羽村駅に向かうことにする。

本日のルート;五日市線・東秋留駅>五日市街道>松海道の一本榎>平沢八幡>平澤617番地湧水>高瀬橋>平高橋>平井川右岸を進む>平沢滝の下湧水>南小宮橋>草花公園湧水>羽村大橋西詰>折立坂湧水>羽村大橋を渡る>玉川上水>牛坂通り>旧鎌倉街道>青梅線・羽村駅


五日市線・東秋留駅
あきる野市の報告書より
最初の目的地、あきる野市の『報告書』にある「平沢617番地」湧水の最寄駅である五日市線・東秋留駅で下車。「東」と対になる「西秋留駅」は秋川市成立時に「秋川駅」となり、その後あきる野市となった後も「秋川駅」として続く。東秋留駅は大正14年(1925)の五日市鉄道(拝島・武蔵五日市間)開業時の駅名のまま今に続く。

五日市鉄道
五日市鉄道は、明治22年(889年)甲武鉄道が立川駅-八王子駅間で開業、明治27年(1894)に青梅鉄道が開業した時勢、五日市の実業家が中心となり構想され、大正10年(1921)に認可される。
ルートは青梅鉄道拝島駅を起点に、五日市、そして増戸村坂下から分岐して大久野村地内勝峰石灰山に至るもの。勝峰山までの路線を申請しているということは、当初より石灰の運搬をその事業主体にしていたと推察される。
大正10年(1921)に認可は受けたものの、事業予算が当初の目論見と大きく違い、事業は難航。大正12年(1923)に工事が開始されるも、同年に起きた関東大震災の影響もあり、地元事業家だけでは事業存続が不可能となる。
そこに登場するのが財閥系の浅野セメント。川崎工場のセメント原料は青梅鉄道沿線の石灰を使っていたが、採掘権を買収した青梅線沿いの雷電山や日向和田も思ったほどの埋蔵量がなく、埋蔵量の豊富な五日市の勝峰山に目をつける。 大正11年(1922)には既に五日市鉄道の大株主となっていた浅野セメントであるが、石灰採掘権の権利を持つまでは資金不足の五日市鉄道を援助することなく、地元実業家より勝峰山の石灰採掘権を入手するに及び全面的に五日市鉄道の経営に乗り出し、大正14年(1925)5月にに拝島・武蔵五日市、同年9月に武蔵五日市駅 - 武蔵岩井駅間が開業した。
五日市鉄道最大の眼目である勝峰山の石灰採掘事業は、大正15年(1926)から開始され、昭和2年(1927)には浅野セメント川崎工場への輸送が開始される。そのルートは五日市鉄道→青梅鉄道→中央本線→山手線→東海道線と経由して浜川崎駅で専用線を使い工場へ運ばれていた。
立川から南に進む南武鉄道の大株主でもある浅野セメントは、この輸送ルートをショートカットすべく、拝島と立川の南武鉄道を繋ぐルートの延長を計画。昭和4年(1929)に工事に着手し、昭和5年(1930)には、拝島駅-立川駅間、青梅電気鉄道の路線と多摩川の間に路線を開き、南武鉄道と結んだ。
当初貨物主体で始まった五日市鉄道も、次第に旅客輸送も増えてはきたが、日華事変の勃発にともない、五日市鉄道は南武鉄道と合併、さらには戦時体制の強化のため南武鉄道は青梅電気鉄道共々国有化され、昭和19年(1944)には国有鉄道五日市線となる。
その際、青梅電気鉄道の立川・拝島区間は軍事施設を結ぶため複線化が続行されるも、五日市鉄道の立川・拝島区間は「不要」として休止されることになった。

五日市街道
増渕和夫さんの論文より
五日市線・東秋留駅で下車し、道なりに北に向かうとほどなく都道7号・五日市街道にあたる。現在五日市街道と呼ばれるその道筋は、近世以前にはその表示がなく、「伊奈みち」とある。伊奈は秋川筋、武蔵五日市の手前,現在のあきるの市にあり、古くより石工の里として知られる。その近くで採れる良質の砂岩を求め信州伊那谷高遠付近の石切(石工)が平安末期頃より住み着き、石臼、井戸桁、墓石、石仏をつくった、とのことである。
「伊奈みち」が何時の頃から呼ばれはじめたのか、詳しくは知らない。が、その名がメジャーになったきっかけは、徳川家康の江戸開幕ではあろう。城の普請、城下町の建設に伊奈の石工も動員され、江戸と伊奈の往来が頻繁となり、その道筋がいつしか「伊奈みち」と呼ばれるようになった。
「伊奈みち」が江戸と深いかかわりがあるのと同じく、「伊奈みち」が「五日市道」と現在の五日市街道に繋がる名となったのは、これも江戸の町と関連がある。
江戸の城下町普請も一段落し、百万都市ともなった江戸の町が必要とするのは、城下町をつくる「石」から、そこに住む人々の生活の基礎となる燃料に取って替わる。国木田独歩の『武蔵野』に描かれる美しい雑木林も、江戸のエネルギー源・燃料供給のため、一面の草原であった江戸近郊に木が植えられ人工的に造られたものである。利根川の船運を利用し関東平野の薪が江戸に送られた。そして、この秋川谷からは木炭が江戸に送られることになる。
その秋川谷の木炭集積所は、元々は伊奈であったが、檜原や養沢谷からの立地上の利点から、五日市村が次第に力を延ばし、かつての「伊奈みち」を使い、江戸に木炭を運ぶようになった。そしてその往来の名称も「伊奈」から「五日市道」と変わったようである。

松海道の一本榎
道なりに目的地である「平沢617番地」湧水の目安となる平沢八幡へと歩いていると、道脇に大きな榎が立つ。「松海道」の一本榎と称される。あきる野市の保存樹木に指定されるこの巨木は、古墳の上の立つ、と言う。
古墳は、東と西は舗装道路で削られ、北は畑で削られ、コンクリートで囲まれた姿で残る。
松海道
「段丘図」には、松海道の辺りが窪地と表示される。この窪地は既述の如く、横吹面・野辺面形成期(1万年から1万2千年前)に平井川系の水流が秋留原面にオーバーフローした氾濫流路跡とされ(角田、増淵)る。氾濫流の本流は東本宿から蛙沢に向かって南東の窪地であり、この北東に残る窪地は古秋秋川筋と記されていた。
鎌倉街道
地質についての門外漢であり、上記記述の深堀はできないが、この松海道の一本榎の道筋は、かつての鎌倉街道と言う。もとより、鎌倉街道は新たに開削された道というわけでもなく、既存の道筋を鎌倉へと繋げていった道の「総称」であり、幹線のほかその幹線をつなぐ支線が数多くある。この「鎌倉街道」もそのひとつ。
鎌倉街道の三大幹線である、「上ッ道」「中ツ道」「下ツ道」、それと秩父道とも称される「山ツ道」。四回に分けて歩いた「山ツ道」は五日市線・増戸駅を南北に貫く。
で、この一本榎を通る「鎌倉道」は、羽村の川崎から羽村大橋下流付近にあった「川崎の渡し」で多摩川を渡り、草花の折立(折立八雲神社)から草花丘陵の裾野(慈勝寺)を多摩川に沿って進み、現在の平高橋あたりで平井川を渡り、この平沢の一本榎に出る。その先は、二宮、野辺を経て、雨間の西光寺脇を通り、雨間の渡しで秋川を渡り高月から日野、八王子方面へと向かったようである。
ついでのことながら、秋留台地を通る鎌倉街道の道筋はもうひとつ、青梅から草花丘陵を越えて進む道もあったようである。道筋は青梅から草花丘陵の満地峠を越え菅生に下り、平井川を越えて瀬戸岡から雨間に下り、西光寺脇で上記ルートと合わさり、南に下ったとのことである。

平沢八幡
一本榎から北に進むと平沢八幡がある。鎌倉街道沿いにあるこの社は旧平沢村の鎮守。大梅院(現在は無い。跡地は平沢会館;平沢八幡の南)持ちから先日訪れた広済寺持ちとなったが、明治の神仏分離で寺から離れた。 戦国の頃、滝山城主となった北条氏照は城の戌亥の方角に二宮神社・小宮神社と共篤く敬ったとのことである。




平澤617番地湧水
平澤八幡の辺りから坂が意識できるようになる。湧水に関する情報は『報告書;あきる野市』にある「平沢617 秋留原面下・傾斜地」だけが頼りである。とりあえず坂を下ると、平井川手前にある比高差数メートルと言った崖地が川筋に沿って続く。崖手前には民家があるが、その裏手、崖下に水路があり、その水路を辿ると崖上の民家の池に続いていた。
民家敷地内に見える池はポンプアップしているように思える。「段丘図」と照合すると、この崖面は小川面と屋代面を画する崖のようにも思える。『報告書』にある「秋留原面下 傾斜地」ということは、小川面にあるのだろうから、この池のことなのだろうか。
他に何か痕跡は無いものかと彷徨うと、池のある民家の道路を挟んだ西側に小さな祠が立ち、下に水路が見え、その先に小さいながら湧水池といった雰囲気の水場があった。また、池のある民家の少し南、平澤八幡の真東の辺りに、湧水湿地といった趣の空き地もあった。が、結局、どれが平澤617番地湧水か確認はできなかった。

平高橋に
次の目的地、「平沢滝の下湧水」に向かう。「平沢滝の下」で検索しても、何もヒットしない。『報告書』にマークされる箇所を見るに、平澤八幡の西、平井川が南に突き出た氾濫原突端を迂回する辺りにあるようだ。
平澤八幡から成り行きで西に向かい、建設中の高瀬橋の南詰に出る。成り行きで進み、平井川に下りれる箇所を探すのだが、結構な崖で下りる道がない。更に西の新開橋まで進んで折り返すか、平澤八幡を下った先に架かる平高橋まで戻るか、ちょっと考え、結局平高橋まで戻りながら、川筋への下り口を探すことにした。下り道がなくても、地図には平高橋南詰から平井川に沿って道が記載されており、なければ平高橋から折り返せがいいか、といった心持である。 戻りの道で、川筋に下る道はないものかと、結構注意しながら歩いたのだ、平高橋まで、川筋に下りる道はなかった。

これは、メモの段階でわかったことではあるのだが、「平沢滝の下」湧水辺りは「オオタカ」の棲息地保護など、環境保護運動が進められているようであり、結構大規模な「高瀬橋」の建設も、環境保護との兼ね合わが検討されているような記事もあった。そんなところは手つかずのままがいいのだろうし、崖上から平井川筋への道が造られていないのは、そういった因に拠るのだろうと妄想する。

平井川右岸を進む
平高橋の南詰から平井川筋に入り西に向かう。いつだったか平井川筋を歩いたことがある。その時のメモを再掲:平井川は日の出山山頂(標高902.3m)直下の不動入りを源流部とし、いくつもの沢からの支流を集めて南東に流下。日の出町落合で葉山草花丘陵の裾に出た後、支流を合わせながら草花丘陵南岸裾に沿って東流し多摩川に合流する。
いつだったか、御岳山から日の出山を経てつるつる温泉へと歩いたことがある。急坂を下りて里に出たところにあったのが、今になって思えば平井川の上流部であった。ぶらぶらと平井川の上流部を五日市に向かって歩いた道筋に肝要の里があった。「かんよう」の里、って面妖(めんよう)な、と思いチェック。「かんにゅう」と読むようだ。御岳権現の入り口があったので「神入」からきた、とか、四方を山で囲まれたところに「貫入」した集落であるという地形から、とかあれこれ(『奥多摩風土記;大館勇吉(有峰書店新社)』)。
将門伝説の残る勝峯山のあたりに岩井という地名もあった。将門の政庁があった茨城の岩井と同じ。故に将門伝説に少々の信憑性が、とはいうものの読みは「がんせい」、とか。有難さも中位、か。

平沢滝の下湧水
平高橋辺りでは開けていた平井川右岸も、高瀬橋に近づくにつれて崖が迫ってくる。また、高瀬橋の下辺りからは崖側道脇に自然の水路が現れ、水路先と崖地の間も湿地となってくる。高瀬橋の下を潜った先に「秋留台地」の地下水の案内。
「秋留台地には二宮神社や八雲神社の池を始めとし、至るところに湧水があり、それを元に古くから水田や集落が発達してきました。ここは国分寺や日野、東村山などと並ぶ、地下水の宝庫なのです。でも、台地なのになぜこんなに地下水が豊かなのか不思議です。この謎を解く鍵がこの崖にあります。
この崖の地層は湧水のあるところを境に、上のゴロゴロした礫の層と、下の硬い礫交じりの粘土層に分かれます。上の礫層は2万年ほど前の氷河時代に堆積したもので、よく水を通します。しかし下の粘土層は100万年ほど前に浅い海に堆積したもので、がっちりと固まっているために、水は通しません。
秋留台地の中央部を占める一番高い段丘面は、礫層が8mほどもあるために、もっぱら畑に使われてきました。しかし、二宮神社の池があるところのように、一段下がった段丘面では、礫層が薄いために地下1mほどのところに、もう地下水が現れます。これが豊かな水の原因になっているのです。
この崖ではかつて地層をよく見ることができました。しかし崖が防災工事によって固められることになったため。私たちは東京都と話し合って、地層の一部が観察できるよう、保存してもらうことにしました。それがこの案内板の横にある地層です。湧水を見て秋留台地の歴史に思いをはせてください。 東京学芸大学教授 小泉武栄」の解説と共に、秋留台地の段丘・段丘崖、地層、湧水などがイラストで説明されていた。

「平沢滝の下」とは言うものの、滝があるわけでもなく、地名が「滝の下」といったエビデンスも見つからず、この地が「平沢滝の下」湧水なのかどうかわからないが、ともあれ、『報告書』にあった地図の位置の辺りではあるし、「秋留原面下 崖地、(水量)大」にも齟齬がないので、ここを「平沢滝の下」の湧水と思い込む。

南小宮橋
次の目的地は、原小宮地区にある草花公園の湧水。平井川の右岸を進み、新開橋、北から平井川に注ぐ氷沢川を見遣り南小宮橋に。橋の手前に石段があり、そこを上って公園に入るのかと思ったのだが、行き止まり。元に戻り橋下を潜るとそのまま草花公園に入って行けた。


草花公園湧水
公園についたものの、手掛かりは?地図を見ると、池があり、そこに水路が続いているので、とりあえずそこからはじめて見る。
池に沿って歩き、池に繋がる水路に。結構な水量である。緩やかに蛇行する水路を進むと、公園内の舗装道路に水路は遮られるが、水路は道路下に続いているようで、コンクリート造り水路壁下部から水が流れ出している。 道路の反対側に向かうと、石造りの水路が顔を出し、公園周辺道路で水路は終わる。水路終端部の石の間から水が流れ出している。ここが草花公園湧水ではあろう。
水路終点の南、公園周辺道路を隔てた先に崖地が見える。草花公園湧水とその崖面とをつなぐ水路などないものかと崖地手前を彷徨うが、それらしき痕跡は見つけられなかった。
草花
既述「郷土あれこれ」に拠ると、「草は草花が咲く地>開墾地。草が生えそして枯れ。それを肥料として土地を肥やしは耕作地としていく。花は鼻>出っ張り=突端部。草花は「開墾地の端」との意味という。地名はすべからず「音」を基本とすべし。文字に惑わされるべからず。


羽村大橋西詰
これで『報告書』に記載された秋留台地の湧水調査地点は一応終了。後は同『報告書』にあった草花丘陵の折立坂の湧水を残すのみ。草花公園を離れ都道165号を東に向かい、氷沢橋交差点で都道250号に乗り換え、軽い峠越え。



道を少し上ると、道脇に案内。「智進小学校跡地と橋場遺跡」とある。簡単にまとめると、「氷沢川を見下すこの地に、現在の多西小学校の前身である智進小学校が明治30年(1897)に建てられた。また、この近辺からは都道の新設や大型店舗の建設に伴う発掘調査により、縄文時代や古墳時代、奈良・平安時代の竪穴式住居跡などが多数発見されており、土地の小字をとって橋場遺跡と呼ばれる」、とあった。
峠にあった大澄山登山口の標識を見遣り、多摩川を見下しながら江里坂を下り、羽村大橋西詰めに。羽村大橋西詰めに薬師堂が立つ。

折立坂湧水
羽村大橋西詰に着いたのはいいのだが、どこが折立坂が見当がつかない。上で都道250号を羽村大橋西詰に下る坂を江里坂とメモしたが、それは後日わかったこと。既述『報告書』に記された箇所を参考に、都道250号と多摩川の間を走る都道29号を画する江里坂下の崖線下を探したりもしたが、湧水らしき箇所は見当たらない。とすれば、湧水箇所は都道29号と多摩川の氾濫原を画する崖線下ではないかと、都道29号から河川敷に下ることにした。
都道を少し南に下ると崖線を斜めに氾濫原に下りていく坂道がある。メモの段階でこの坂が折立坂であるのがわかったのだが、当日は知らず坂を下りる。氾濫原に下りる、とは言うものの、坂と氾濫原の間には縦長に家が立ち並ぶ。崖線に注意しながら坂を下るも、それといった湧出点は見当たらなかった。

坂を下り切り、崖線に沿って羽村大橋西詰めへと向かう。民家も切れた氾濫原の畑地を崖線に沿って進むと、足元がぬかるんできた。水の溜まった自然の水路も崖線の藪下に続く。湧出点は藪の先にあり、そこまで踏み込む気にもならず、これが折立坂の湧水の一部と自分に思い聞かせ、羽村大橋の下辺りから崖上に上る道を見つけ、羽村大橋西詰に戻る。
折立坂
「折立」は「降・落」+「断」>崖が連なるの意味。で、この折立坂は、既に一本榎でメモした通り、鎌倉道の道筋。羽村の川崎から羽村大橋下流付近にあった「川崎の渡し」で多摩川を渡り、この草花の折立(折立八雲神社)から草花丘陵の裾野(慈勝寺)を多摩川に沿って進み、現在の平高橋あたりで平井川を渡り、この平沢の一本榎に出たようである。今は道路が整備されているが、かつては折立の崖地を難儀しながら進んだのであろうか。



羽村大橋を渡る
これで『報告書』にあった秋留台地の調査箇所として記載された湧水はすべて廻り終えた。最寄の駅である青梅線・羽村駅へと羽村大橋を渡る。橋の少し上流には玉川上水の羽村取水堰がある。




玉川上水
橋を渡り都道29号・羽村大橋東詰交差点手前で玉川上水を渡る。相当昔の話になるが、玉川上水を羽村取水堰から四谷大木戸まで7回に分けて歩いたことが懐かしい(玉川上水散歩Ⅰ玉川上水散歩Ⅱ玉川上水散歩Ⅲ玉川上水散歩Ⅳ玉川上水散歩Ⅴ玉川上水散歩Ⅵ玉川上水散歩Ⅶ)





牛坂通り
羽村大橋東詰交差点で都道29号・奥多摩街道を越え、成り行きで青梅線・羽村駅に向かう途中、都道29号バイパス・新奥多摩街道手前の道脇に「牛坂通り」の案内があり、「五ノ神の都史跡「まいまいず井戸」が、江戸時代中期に改修された時、多摩川の石などを運んだ牛車が、この道を通ったといわれています」とあった。牛坂は、都道29号バイパス・新奥多摩街道を越えた先にある。
五ノ神社・まいまいずの井戸
五ノ神社は創建、推古九年、と言うから西暦601年という古き社。羽村駅東口傍にある。『新編武蔵風土記稿』によると、熊野社と呼ばれていた、とか。この辺りの集落内に「熊野社」「第六天社」「神明社」「稲荷社」「子ノ神社」の神社が祀られており、ためにこの辺りの地名を五ノ神と呼ぶ。地域の鎮守さま、ということで五ノ神社、となったのであろう、か。熊野五社権現を祀っていたのが社名の由来、との説もある。
いつだったか、玉川上水散歩の折、「まいまいずの井戸」を訪れたことがある。「まいまいずの井戸」は神社境内にある。すり鉢状の窪地となっており、螺旋状に通路が下る。すり鉢の底に井戸らしきものが見える。すり鉢の直径は16m、深さ4mもある、とか。何故に、井戸を掘るのに、これほどまでの大規模な造作が、とチェックする。井戸が掘られたのは鎌倉の頃。その頃は、井戸掘りの技術も発達しておらず、富士の火山灰からなるローム層、その下に砂礫層といった脆い地層からなる武蔵野台地では、筒状に井戸を掘り下げることが危険であったので、このような工法になった、とか。狭山にある「堀兼の井」を訪ねたことがある。歌枕にも登場する堀兼の「まいまいずの井」よりも、こちらのほうが、しっかり昔の形を残しているようだ。

旧鎌倉街道
牛坂通りを進み、都道29号バイパス・新奥多摩街道に出る。左に折れて、羽村駅からの道への都道29号バイパス・新奥多摩街道交差点に。玉川上水散歩の折り、交差点の多摩川サイドに「鎌倉街道」の案内があったのを思い出し、ちょっと立ち寄り。
「旧鎌倉街道」とあり、「この道は、八百年の昔を語る古道で旧鎌倉街道のひとつと言われています。現座地から北方へ約3キロ、青梅市新町の六道の辻から羽村駅の西を通り、羽村東小学校の校庭を斜めに横切って、遠江坂を下り、多摩川を越え、あきる野市折立をへて滝山方面に向かっています。入間市金子付近では竹付街道ともいわれ、玉川上水羽村堰へ蛇籠用の竹材を運搬した道であることを物語っています(後略)」とあった。
この鎌倉街道のいくつかのポイントを実際に辿った後で説明文を読むと、周辺の風景も浮かび上がり、結構リアリティを感じる。

青梅線・羽村駅
これで3回に渡った秋留台地の湧水散歩もお終い。藍染川と八雲神社からの細川、そして舞知川の繋がりなど、少しはっきりしないところもあるので、そのうちに訪ねてみようと思いながら、一路家路へと。

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